加藤昇の(新)大豆の話
68. 満州における大豆栽培
1870 年ころの満州の様子、日本では江戸時代の終わりにあたる頃の満洲の様子については、朱美栄や石田武彦の論文などを引用しながら紹介したいと思います。
のちに満州と呼ばれる地方では早くから、大豆は油を絞る原料として利用されており、その搾り粕は肥料や飼料などに使われていました。日本の平安・鎌倉時代にあたる宋の時代にはすでにこの地で大豆油の生産が行われていたとの記録もあります。さらに日本の江戸時代にあたる清朝の時代になると、大豆栽培が満洲をはじめとして、中国全土に広く普及しており、大豆油が食用油として使われ、その搾り粕は肥料として使われていたことが文献に残されています。中国南部の地域で木綿の栽培が始まるようになるとその肥料として大豆の絞り粕が重宝されるようになり、さらに華南地方や台湾でサトウキビの栽培が盛んになると大豆粕の肥料としての価値はさらに大きくなっていきました。
その頃の満州における大豆搾油は、石臼で大豆を粉砕して人力で油を搾る方法や木で豆を潰す搾油法などについては、明の思宗崇禎年間(1628-1644)に宋応星による『天工開物』に書かれています。すでに述べたように、1775年(乾隆 40年、日本でいえば江戸時代中期)から、搾油した残渣の「豆粕」 が上海周辺の農家で金肥として用いられるようになり、金肥として中国国内で取引されるようになっています。1869 年(明治2年)清朝政府が大豆の外国輸出を解禁してからは、満洲大豆は香港、東南アジア、そして日本に輸出されるようになります。
さらに1870 年に清国政府が満州での大豆生産を盛んにすることを目的に「東北移民禁止令」を解除したことによって、山東省、天津など農作物の不作だった地域から大量の移民が満洲に流入してきたため、満州地域の大豆生産が一変しました。そして満洲の人口は急増し、大豆の生産量、消費量ともに急速に増大していきました。そのために満州の農民たちは、今まで自給自足の生活の一環として作られていた大豆、コーリャン、粟などのうち、自分たちはコーリャンや粟などを食べながら大豆を換金作物として栽培するようになっていきます。そしてそれまでは個々の農家が大豆を生産し、買い手を探すという初歩段階の流通の姿でしたが、やがて農産物を売買する仲介業である「糧桟」が各地に出現して産業としての姿が見えてきます。
満洲で専業の糧桟(穀物問屋)が出現したのは1820 年代からでした。そして大豆の生産量が増えるにしたがって糧桟による取扱量も増加していきました。それまでの糧桟は別の商売をしながらの兼業仕事として行われていたのですが、取扱量の増加とともに専業化した糧桟が出現するようになります。さらに専業の糧桟は保管倉庫も大型化していくことになり大豆農家を支える力となり、大豆産業は大きく膨らんでいきました。
このように、満州では大豆の利用が早くから始められており、特に搾油することにより得られる油と大豆粕はそれぞれに重要な産業資源として育っていきました。満州大豆が海外輸出を許可されるまでは、満洲で生産された大豆は、その地域の農家で使われる、いわゆる自家用の食用油原料が主な用途でした。そして1895 年の日清戦争終了後、日本への大豆粕の輸出量が増大していくようになり、日本とのつながりがここから始まります。 こうして満州地方で大豆のビジネス化がまさに始まろうとしていた1906年に日本は日露戦争の戦果としてロシアから鉄道権益を手に入れ、満州に進出することになるのです。そして満州において大豆栽培が本格化し、糧桟の店舗数が増加していったのは日本が満鉄を設立し活動を始めた1910 年代以降のことでした。
満州での大豆栽培風景
ここからは満州における大豆栽培の様子を満鉄の古い記録から見てみることにします。満州は日本に比べて北に位置しているために、わが国に比べると気温も涼しく雨量も少ない気候でした。冬の訪れも早いので秋の収穫時期も日本よりも早いとされています。当然栽培している大豆の種類もわが国と違っていましたが、その多くは満鉄の「農事試験場」で品種改良されたものでした。満鉄が大豆の品種改良をする前に栽培されていた大豆品種についてはよくわかっていませんが、満鉄の記録に残されている満州の代表的な品種として奉天白眉(奉天周辺)、黒穀黄豆子(遼陽以南)、四粒黄(南満州北部)、小黒臍(満州北部)などがあります。満州の土壌はわが国のように腐葉土が多く窒素分が豊かな土壌ではないが、カリなどのミネラルを含んでおり、大豆栽培には適していたと考えられます。大陸気候のため春先には強風が吹き荒れることが多く、またこの時期は雨量も少ないために大豆種子の発芽には悪影響を及ぼすことが時々起こっていたようです。
大豆の種子が発芽するとまもなく除草作業が始まることはわが国でも同じですが、わが国のように手で除草することはなく、この辺りが大陸的大平原での栽培と丁寧な我が国の国内での農作業の違いとも言えるでしょう。収穫作業は大きな差異がないにしても、大豆の莢から脱粒するために庭先でロバに石製ローラー(シートウコンツ)を引かせる光景などはいささか珍しさを感じる光景でしょう。その後は木製ショベル(ムーヤンチェン)で空中に放り上げて大豆から夾雑物を風選する姿などは我が国でもこの時代には同じことが行われていたことです。
掲載日 2019.7