加藤昇の(新)大豆の話

67. 大豆産業の歩んだ歴史

大豆の歴史は我が国においては縄文時代中期から始まっていることが分かっています。また、中国においても我が国とほぼ同じころ、今から5千年前に大豆の先祖種であるツルマメから大豆に代わって栽培が始められたようです。その後、中国ではいろいろな大豆加工食品が発明され、それらが我が国に伝えられることにより大豆の加工食品が大きく広がっていくことになります。飛鳥時代になると「醤」や「豉」といった発酵によると思われる大豆の加工技術が始まっていることはすでに書いた通りであり、大豆の食材としては驚くべき進化と言えます。

平安時代になると遣唐使が、鎌倉時代になると五山の僧侶や渡来人たちが中国から新しい大豆の文化を我が国に持ち込み、寺院を中心に大豆を使った料理が発展し、精進料理、普茶料理、懐石料理などに姿を整えて大豆文化に花を咲かせることになります。そしてその後も大豆は重要な我が国の食品素材として多くの調理に利用され発展していきました。そしてその成果ともいえるものが現在の和食であり、世界の文化遺産として「和食文化」を形作ってきたのでした。

 

しかしこの辺のことについてはここでは具体的な展開を書くことが出来ませんが、もう少し時代が下って大豆が大きな産業として発展の足掛かりをつかんでいった経緯について紹介したいと思います。

ここで紹介するのは旧満州地方で始まった大豆産業の黎明期の姿ですが、もちろん我が国でもこれら満州での動きとは別に独自の歴史が進んでいたことは確かです。しかしその辺のことについてはこの中で連動させながら進めていきたいと思っています。

 

 日本の大豆産業は満洲から始まる

大豆は中国や日本など東アジアにその起源をもっています。中国には紀元前10世紀の周の時代から文字が生まれており、大豆についてのいくつかの記録が残されています。それらによれば、紀元前7世紀の初めころ、斉の国の桓公が満州南部と見られる地方を制圧して、ここに住んでいた朝鮮の古代民族である貊族(こまぞく)が栽培していた大豆を持ち帰り、戎菽(チュウシュク)と名づけたとの記録が残されていたことはすでに述べた通りです。宋朝では、大豆は油を搾る原料として、また醸造原料として使われていましたし、清朝になると、大豆栽培が満洲をはじめ、中国全土に広く普及していったとされています。特に1775(乾隆 40)年頃から満洲大豆は、満洲各地で食用油生産の原料として、あるいは豆腐などの食料供給原料として普及していく一方、搾油の残り粕である「豆粕」 が上海周辺の農家で金肥として用いられるようになり、豆粕は商品として中国国内で流通するようになっていきます。 

このように満州では18世紀半ばにはすでに大豆産業が立ち上がっていた状況が見えてきます。しかし日本がその影響を受けるようになるのはもう少し時代が過ぎてからになります。ところで満洲ってどこのことでしょう?と首をかしげる人がいるかも知れないので、まず満洲について簡単に触れておきたいと思います。

 

 満洲について

現在は満州という地名は存在していませんが、日本が第二次世界大戦で負けるまでの歴史の一コマとして、世界に大豆を大きく羽ばたかした満洲が存在していたのです。かつて満洲と呼ばれていた地域は現在の中国東北部と呼ばれているところにあたり、北は黒龍江をはさんでロシアと接し、東は鴨緑江を境にして北朝鮮と接し、西はモンゴル人民共和国と接するとする地域一帯を指していました。この地がなぜ満州と呼ばれるようになったのか、それはかつてここに満洲族と呼ばれる民族が住んでいた土地だったからです。満州族はのちに漢民族の明を攻めて清朝(1662-1912)を打ち立てた民族でもあります。だから清朝にとってはこの満州の地は自分たちの故郷であり、一種の聖地として崇めていたところでもありました。そのために彼らは直接にその名を呼ぶことを避けていましたが、この地を訪れた外国人たちは漠然と満洲族の出身地のあたりを指して「マンチュリア」とか「満洲」と呼んでいたのです。

この地方は歴史的には女真族(後に満州族と改称)の住む地域でした。彼らは長い歴史の中で漢民族と攻防を繰り返しており、中国の北宋時代には漢王朝を追い出して中国の北半分に「金国」を建国(1126年)して、南に逃げた南宋と中国の国土を二分していたこともありました。そして日本の江戸時代になると明王朝を滅ぼして自分たち満州族が支配する「清王朝」を打ち建てたのです。19世紀末から20世紀初めになると、この満州の地には中国人、満州人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人、日本人などが入り組んで大豆産業に大きな花を咲かせたのです。

 

19世紀末になると清国は朝鮮半島を巡って日本と争った日清戦争(1894-95)が起こります。この戦争は日本の勝利で終結し講和(下関条約)が結ばれることになります。この中で中国は日本に対して賠償金のほかに遼東半島、台湾、澎湖列島の領土割譲を約束しました。しかし植民地拡大を狙っていたロシア、ドイツ、フランスはこれに横やりを入れてきました(三国干渉)。まだ明治新政府になったばかりの日本にとってこれら列強国の要求を跳ね返す力もなく、結果的に遼東半島を清に返還するとともに賠償金も大きく譲ることになりました。

1896年にロシアは清国に対して日本に譲歩させた見返りとして満洲での権益を密約させます。これによってロシアはシベリア鉄道を、満州を通してウラジオストックまで延ばすとともに、さらに旅順、大連までも延長して不凍港の旅順港を手に入れることになるのです。これに日本は大いに反発し朝鮮半島をはさんでロシアと激しく対立し、ついに日露戦争に突入します。

 

ロシアの南下政策に危機感を持った日本が朝鮮半島を舞台に日露戦争に踏み切ったのが19042月でした。極東の小国日本が大国ロシアを相手に繰り広げた旅順総攻撃、203高地の攻防、バルチック艦隊との日本海海戦などは司馬遼太郎の「坂の上の雲」などに詳しく書かれています。ロシアの降伏で戦いの幕を下ろし、講和条約に調印したのが翌19059月でした。この講和条約によって日本は長春から旅順口までの鉄道や支線全ての権利を手に入れ、翌1906年(明治39年)、日本はここに「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立することになります。そして、この満鉄の線路を守るために現地に関東総督府がおかれますが、これがのちの「関東軍」となって大きな力を発揮するようになるのです。1912年に清朝が滅ぼされて中華民国が建設されたときには、この地域もいったんは中華民国に組み入れられますが、関東軍の満州国建国によって清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅が満州国の皇帝に就任することになります。これは日本政府の方針を無視した関東軍が1931年に満州事変を起こして満州国を建国し日本の支配下に組み込んだものです。このことは世界各国から強い非難を受け、わが国は国際連盟を脱退するという窮地に立たされ、さらにはそれが太平洋戦争へとつながっていく悲劇の先駆けともなっていくのです。このあたりの状況は菊池寛の「満鉄外史」に生々しく描かれています。そして、わが国が第2次世界大戦に敗れたことによって満州国も消滅し、いまでは満州という呼称は消えてしまいました。

 

 掲載日 2019.7

 

 

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