加藤昇の(新)大豆の話
65. トリプシンインヒビターについて
大豆の業界に入った技術者が最初にぶつかる耳慣れない言葉がこのトリプシンインヒビターというものです。名前が示しているように消化酵素トリプシンを不活性化させる物質(ある種のタンパク質)なのです。トリプシンインヒビターには、その化学構造から6グループに分類されますが、研究が最も進んでいるのはクニッツ型とされているものです。トリプシンは膵臓から分泌されているタンパク質分解酵素であり、この大切な酵素を不活性化させてしまうので、多くの哺乳類がこのトリプシンインヒビターを含んだ生大豆を食べてしまうと下痢など消化不良を起こしてしまうのです。 その消化不良を起こす機序として考えられているのは、トリプシンインヒビターを動物が食べるとそれがトリプシンに結合することにより、その酵素活性を失わせてしまうというものです。
その結果、不足するトリプシンを補おうとしてトリプシンを作る膵臓が過剰に働くと考えられています。そのことによって生の大豆を食べていると膵臓が肥大することが動物実験などで認められています。私たちが大豆を食べるときには、煮たり、焙煎するなど加熱調理して、この阻害蛋白質を熱変性させて壊してから食べているのです。しかし、火を使わない動物たちにとっては生の大豆を食べることができないのです。ここに高たんぱく・高脂肪の栄養豊富な大豆が今に生き残っている秘密の一つがあるのではないかといわれています。
大豆製品での残存量
ところが、比較的弱い加熱で処理しているのが豆腐や豆乳の製造工程です。これらの中には少量のトリプシンインヒビターが活性のまま残っているのです。各種大豆製品のトリプシンインヒビターの活性残存率は木綿豆腐で2.5%、寄せ豆腐で3.4%、絹ごし豆腐で4.3%、充填豆腐で7.9%、豆乳13.0%、納豆0.7%、醤油0.8%、味噌0.3%などです(脚注)。この程度であれば下痢を起こさないことは、日常の食生活から考えて納得されることでしょう。こうして私たちは毎日少しずつトリプシンインヒビターを体に取り込んでいるのです。ところが最近になって、今まで目のカタキにしていた大豆のトリプシンインヒビターが優れた働きをしてくれていることがわかってきました。 その一つが糖尿病の予防と治療です。
(J.Nutr.Sci.Vitaminol.,43,575-580,1997)
トリプシンインヒビターの健康効果
厚生労働省が発表した2002年糖尿病実態調査によると、糖尿病患者と予備軍を合わせると1620万人となり、じつに成人の6人に1人が高血糖の状態にあるという計算になります。そして、5人に1人は遺伝的にU型糖尿病の因子を持っているといわれています。U型の糖尿病は中年以降に発症しやすく、生活習慣、特に食生活との関かわりが深いといわれています。私たちが糖質を取りすぎると、消費されなかったブドウ糖が血液中に残ってしまい、そのことにより血糖値が上昇し、その消化のために膵臓がインスリンの分泌を活発にします。しかし、ブドウ糖の量が多すぎると多量のインスリンが必要になり、膵臓に過度の負担がかかります。そして、次第にインスリンがうまく分泌されなくなり、血糖値はさらに上昇して、糖尿病へと導かれていくのです。
糖尿病の本当の怖さは、合併症にあります。厚生労働省の調査では、糖尿病性網膜症によって失明する人は、年間3000人にも及ぶと言われています。糖尿病は、このようにインスリンを分泌する細胞が減少したり働きが弱くなったりして、余分な血糖が処分できず、そのまま血糖値が上がった状態になることです。糖尿病を防ぐためにインスリンを分泌しているのは、トリプシンの分泌と同じ膵臓であることから、トリプシンインヒビターによって膵臓の分泌部が肥大するとインスリンの分泌を増加させ、糖尿病の治療や予防に役立つというのです。
さらに、大豆に含まれるトリプシンインヒビターが膵臓の働きを活性化することによって、膵臓ガンの予防も期待できるといわれています。膵液は膵管という細い管を通り、十二指腸に流れていきます。その膵管を構成する細胞がガン化したものが膵管ガンで、膵臓ガンの約9割を占めています。通常、この膵管ガンを膵臓ガンと呼んでいるのです。膵臓ガンは、はっきりとした原因がわかっておらず、初期症状もほとんど認識できません。膵臓は体の深部に位置し、ほかの臓器に囲まれているため、発見するのも非常に困難です。そのうえ進行が早く、早期に癌の転移が起こりやすいと考えられています。このようなことから、膵臓ガンは消化器系のガンの中で最も厄介なガンとされているのです。ところが大豆のトリプシンインヒビターには、膵臓の働きを高める作用があり、すい臓がんの予防に役立つとの期待が高まっています。
トリプシンインヒビターのもう一つの可能性としてインフルエンザへの感染の予防効果である。インフルエンザウイルスが感染性を獲得するためには,ウイルス膜タンパ
ク質のヘマグルチニン(HA)が,気道に局在する宿主側 のトリプシン型プロテアーゼによって限定分解を受けて2 つのサブユニットに成熟する必要があるのです。つまりインフルエンザウイルスが体内の細胞に感染するには人の持つたんぱく質分解酵素トリプシンの働きが必要なのです(徳島大学医学部分子酵素学研究センター・木戸博)。
大豆に含まれるトリプシンインヒビターが糖尿病や膵臓がん、さらにはインフルエンザや新型コロナウイルスへの感染予防として機能してくれると言っても生大豆を食べるわけにはいきません。多量のトリプシンインヒビターの摂取は消化不良により下痢を起こしてしまいます。そのまえに、大豆に含まれているリポキシゲナーゼによる不快味で、生大豆を食べることが出来ないでしょう。
ところがこのトリプシンインヒビターを含まない大豆も見つけられているのです。アメリカ農務省に保存されている大豆で、第2次世界大戦後に韓国から収集した大豆の中に含まれていたことが見つけられています。それらは韓国では「金豆」、「白太」と呼ばれていた品種です。でもこれらの大豆がトリプシンインヒビターを含んでいないからと言って、それだけでこの大豆を生のままで食べられるということにはいかなかったようです。大豆の中にはこのほかにもリポキシゲナーゼという、生で食べると嫌な味がする物質も含まれているのです。しかしこのような大豆が見つけられていることは将来に向かって色々な可能性を含んでいると言えます。
幸いにして日本人は豆腐や豆乳を日常生活で食べる習慣があります。そしてこのことによって毎日少しずつトリプシンインヒビターを無意識のうちに体に入れながら、糖尿病や膵臓がんやウイルスの感染予防にいくらかの貢献をし続けていたのです。今までは大豆に含まれるトリプシンインヒビターに厄介者としてのイメージを持っていましたが、こうしてこの酵素の働きが見えてくると、この舌を噛みそうな名前の酵素にも親近感を覚えるようになってきました。
今度豆腐が目の前に出てきたときには、豆腐に向かって感謝の気持ちがこみ上げてくることでしょう。
掲載日 2022.5