加藤昇の(新)大豆の話

5. 大豆が我が国に登場してきた足どり

大豆の先祖はツルマメ

 大豆の祖先はツルマメという雑草であったとされており、今もこのツルマメは日本の各地の野原で見かけることが出来ます。では、このツルマメからいつどこで大豆に変わったのか?このことについては長い間研究者の疑問が解けず、いくつかの説が飛び交っていて混沌としていたこともありました。丁度猿から人間にいつ変化したのかを見極めるために変化途上の化石を探しているのと同じように、研究者たちはツルマメと大豆との中間体とされる栽培種を探していたのです。遺跡からの出土した種子が栽培種かどうかを判断するのは種子の大きさの変化が目安とされています。この中間体が最初に見つかったのは中国東北部、かつての満州地方でした。その当時は世界の大豆の主産地が満州地方であったことと、中国の古い文献の中に、東北部に住んでいた朝鮮の古代民族である貊族(こまぞく)が栽培していた大豆を、紀元前7世紀の初めころ、斉の国の桓公が今の満州南部と見られる地方を制圧して、ここから大豆を持ち帰り、戎菽(チュウシュク)と名づけたとの記録があることから満州発生説が有力になったのですが、その後、中国の研究者たちが中国全土に亘って調査・収集を行った結果、満州以外からも広く発見されており、野生大豆の栽培化は中国の特定の地域で行われたのではなく、複数の地域で並行的に発生したものと考えられるようになります。


5千年前に日本でもツルマメから大豆へ変身

 大豆はツルマメという野生のマメ科植物から進化したもので、今もこのツルマメを日本の各地の野原で見かけることが出来ます。筑波にある国の研究機関である「農林ジーンバンク」には、日本各地で採取された「ツルマメ」の種子が約100点保存されています。このツルマメは、さやの中に小粒のマメが数粒並んでいるつる性の植物であり、大豆はこのツルマメが縄文人の手によって種を蒔き続けられているうちに、徐々にその粒形を大きくしていき現在見るような大豆へと品種改良されていったものとされています。

 

ツルマメ(牧野日本植物図鑑)

日本ではいつごろから大豆が食べられていたのか、これは多くの人たちの関心を集めている話題です。中国では、古代の「神農本草経」や「史記」などに大豆についての記載があることから紀元前5000年、あるいはそれ以前には既に大豆が栽培されていたのではないかといわれています。日本の周辺の国での大豆栽培の起源にくらべてわが国の大豆起源の情報は比較的新しいものしか見つかっておらず、さらなる発掘情報が待たれていたものでした。

 

 これまでの、わが国の大豆出土品で最も古いものとされていたのは、山口県宮原遺跡から出土したもので、弥生時代前期のものでした。それは、昭和47年7月に新幹線工事中に発見されたもので、この遺跡から4粒の大豆が発見されています。この宮原遺跡以外でも、いくつかの大豆の出土品が見つかりましたが、弥生時代を遡るものはありませんでした。

 我が国の記録の中に大豆が最初に登場するのは大宝律令(701年)からです。ここには大豆を原料とする「醤」「豉」「未醤」などの発酵食品と思われる記録があり、飛鳥時代の古くから大豆は民衆にとって主要な穀物であったことがうかがわれます。しかしそれを越える大豆の記載はありません。古事記(712)では大豆がオオゲツヒメのお尻から生えてきた、と書かれています。民俗学者たちはこの表現に注目しており、同じ農耕文化をもつ東南アジアの国々の間でも「死体化生型神話」として同じような神話が伝えられており、大豆のルーツを考える上で興味ある記述と考えています。つまり大豆は、大豆にまつわる神話と共に東南アジアからもたらされたものではないか、との見方も出来るのです。

 一方、考古学的研究から我が国の大豆の歴史は縄文時代後期からと考えられていました。それは、古墳から最も古い豆類の出土例として縄文前期の福井県三方町の鳥浜遺跡からのリョクトウが最初とされていました。1962年から25年間かけて発掘されたこの遺跡からは25万点に上る大量の遺物が発掘され、漆塗り盆、石斧柄、縄、しゃもじ等々豊かな縄文人の生活を髣髴とさせるものであり、対馬暖流に乗ってフィリピン東海岸沖に源を発して中国華南と結びつく文化の香りがするものでした。九州では縄文後期後半以降にアズキまたはリョクトウと考えられる出土資料がありました。


5,000年前の大豆が見つかる

 ところが2007年になって相次いで大豆の出土品が見つかったのです。そのひとつは熊本大学のグループが見つけたもので、従来の定説よりもさらに千年古い縄文時代後期とされるもので、今から3,600年前のものと推定されました。彼らは土器の表面や内部に残された植物の種子の跡を型にとって顕微鏡で観察するという「レプリカ法」を用いて調べていました。この方法で長崎県大野原(おおのばる)遺跡、熊本県三万田(みまんだ)遺跡から出土した縄文時代後期から晩期にかけた土器4点から大豆の痕跡を発見したのです。さらに、その痕跡から、それらの大豆は栽培種であったことが明らかにされています。ところが、その直後に山梨県北杜市にある酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した縄文時代中期の井戸尻式土器から大豆の圧痕が見つかったと発表されました。これは山梨県立博物館の研究グループなどによって確認されたもので、熊本大学が発表したものよりさらに1,500年ほど前にさかのぼる、約5,000年前の大豆とされています。このグループもやはり「レプリカ法」で出土した土器などを観察したもので、大豆特有の「へそ」によって確認された、と言われています。また、同時に稲作が行われていた痕跡も見られており、稲作と大豆栽培が並行して広がっていったことも確認されています。
 また朝鮮半島における大豆の栽培は炭素年代測定結果から約5千年前の櫛文土器時代中期から始まったことが坪居洞遺跡からわかってきています(李Q娥)。このことから大豆は中国、朝鮮半島、日本でほぼ同時期に栽培が始まり祖先種であるツルマメから大豆へと形を変えて育っていったことがわかってきました。

 つまり我が国の大豆は5千年前の縄文時代中期に縄文人たちによってツルマメから大豆へと品種改良したのであることがわかったのです。


大豆は米と一緒に広がったか

 これらのことから、我が国では縄文時代中期(今から約5,000年前)には、日本の中部地方か西関東あたりで大豆の栽培が始められ、その後西日本へ拡散していった可能性が高まってきました。5,000年前に縄文人たちの栽培によってツルマメから大豆に変わっていったということは、縄文人たちはそれよりもはるか前からツルマメを栽培しており、鳥浜遺跡の縄文時代前期(約7,000年前)のリョクトウにもつながっており、当時はすでに主要な食料とされていたことが考えられます。これらの姿は従来の縄文人たちの狩猟生活のイメージとは違った社会性をうかがわせるものであり大変興味深いこととしてとらえられています。

 さらに大豆の登場がコメの伝播と時期を同じとしているとしたら、それはコメに欠落しているアミノ酸のリジンを大豆が補完することが近年の研究で分かっており、この二つの食材を組み合わせることにより栄養のバランスを整えることが出来ることになり興味ある現象です。こうして米と大豆が組み合わせられたことにより古代人たちにとって体に良い食べ物となり、そのことが日本人の食事がその後この二つの食材を中心として続けられてきた理由だったのではないでしょうか。勿論、当時の人たちは栄養的バランスについては知ることは出来ませんが、毎日の生活の中でこの組み合わせの食べ方が最も体に元気が湧いてくるという実感があったのではないでしょうか。こうして大豆栽培は稲作の普及と共に全国に広がっていったと想像されます。

 もちろん我が国の大豆は国内でツルマメから発展したものだけではなく、中国長江流域から伝えられたものや東南アジアから伝播したものも織り交ぜながら広がっていき、稲作の導入に伴って東日本へと広がっていった姿が想像されます。こうして大豆栽培は稲作の普及と共に全国に広がっていったと考えられます。

掲載日 2019.7

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