加藤昇の   大豆の話

 

大豆の歴史 その15、ブラジルの大豆生産に果たした日本の貢献 

サッカーのワールドカップがブラジルで開催されていた時にはブラジルの街角からさかんにテレビ中継されていました。そこに映し出された大勢の日系2世、3世のブラジル人の多さに驚かれた方も多かったのではないでしょうか。今から約110年前の20世紀初めには日本からブラジルへ、新天地を求めて大勢の農民が移住していきました。彼らはブラジルの大地を開墾し、苦しい作業をしながら農業で生活の道を切り拓いていったのでした。現在ブラジルに住む日系2世、3世は150万人以上と言われており、世界最大の日系社会がここに作られています。それまで栽培されていなかった大豆を持ち込んでブラジルで栽培を始めたのもこれら日本からの移民たちでした。しかし、なによりもブラジル大豆に大きな影響力を与えたのは日本の技術と資金をつぎ込んで始められたセラード開発でしょう。

1973年にアメリカは不作を理由に大豆の輸出規制を行いました。この影響で日本ではアメリカからの輸入大豆が底をついてしまい、豆腐などの価格が高騰して、社会全体が騒然となりました。当時の田中角栄首相は、国内の大豆価格の安定を図るためにも、アメリカ以外の大豆供給国を育成すべきだとしてブラジルを目指したのでした。田中首相を乗せたヘリコプターが荒れ果てたセラードと呼ばれるブラジルの荒地の上を飛んだのが農地開発のスタートとなったのです。セラードはブラジル全土の24%を占める広大な面積であり、ポルトガル語で作物が育たない不毛の地を意味する「閉ざされた」という言葉で呼ばれているところです。ここでの開発作業は、強い酸性である土壌に石灰を投入して中和することから始められました。この事業は2001年までの21年間に亘って、345千ヘクタールを造成し、灌漑を整備し、入植農家に対する技術、金融両面から支援をしていったのでした。このセラードでの大豆栽培については日本の国際協力事業団(JICA)を核に、大量の資金と長期にわたる技術供与を行いながら不毛のセラードを大豆畑に変えていったのでした。ブラジルにおけるセラード開発に日本の果たした功績は非常に大きいものです。今ではかつてセラードだった土地からの大豆生産量がブラジル大豆全体の6割を占めるに至っていると言われています。

しかし近年ではADMやカーギルなど欧米の穀物メジャーによって、南米大豆の取り扱いはすっかり彼らに寡占化されてしまい、日本の消費者への還元はあまり多くはありません。その理由の一つに、ブラジル大豆の品質面での問題もありました。ブラジルでは収穫した農地から海外へ積み出す港までの距離も長く、国内での穀物輸送のインフラもまだ十分でなく収穫大豆の品質保持に問題を残しています。また、農家に対する資金援助の面でも穀物メジャーに対抗することが出来ず、開発者としてのメリットを充分に得られていないという状態が続いています。こうして日本が行ったセラード開発は、その後の環境の変化もあり、国際協力の難しさを味わっているところです。こうして日本が海外から輸入している大豆は大体アメリカから7割、ブラジルから2割という状態が続いていますが、世界の大豆生産に貢献した功績は非常に大きかったと思われます。

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