加藤昇の 大豆の話


U−27 トリプシンインヒビター

 大豆加工の業界に入った技術者が最初にぶつかる耳慣れない言葉がこのトリプシンインヒビターというものである。名前が示しているように消化酵素トリプシンを不活性化させる物質(ある種のタンパク質)である。トリプシンはご存知のように私たちの膵臓から分泌されているタンパク質分解酵素である。この大切な酵素を不活性化させてしまうので、多くの哺乳類がこのトリプシンインヒビターを食べてしまうと下痢などを起こしてしまうことになる。また、トリプシンインヒビターは膵臓を肥大させるという有害物質でもあるのです。大豆の中にこのトリプシンインヒビターが含まれています。だから私たちが大豆を食べるときには、煮たり、焙煎するなど加熱調理して、この阻害蛋白質を壊してから食べています。

 ところが、比較的弱い加熱で処理しているのが豆腐や豆乳です。これらの中には少しばかりトリプシンインヒビターが活性のまま残っています。各種大豆製品のトリプシンインヒビターの活性残存率は木綿豆腐で2.5%、寄せ豆腐で3.4%、絹ごし豆腐で4.3%、充填豆腐で7.9%、豆乳13.0%、納豆0.7%、醤油0.8%、味噌0.3%などである。この程度であれば下痢を起こさないことは、日常生活から考えて納得されるでしょう。私たちは毎日少しずつトリプシンインヒビターを体に取り込んでいるのです。ところが最近になって、今まで目のカタキにしていた大豆のトリプシンインヒビターが優れた働きをしてくれていることがわかってきました。

 その一つが糖尿病の予防と治療です。厚生労働省が発表した2002年糖尿病実態調査によると、糖尿病患者と予備軍を合わせると1620万人となり、じつに成人の6人に1人が高血糖の状態にあるという計算になります。そして、5人に1人は遺伝的にU型の糖尿病の因子を持っているといわれています。U型の糖尿病は中年以降に発症しやすく、生活習慣、特に食生活との関係が深いといわれています。私たちが糖質を取りすぎると、消費されなかったブドウ糖が血液中に残ってしまい、血糖値が上昇し、その消化のために膵臓がインスリンの分泌を開始します。しかし、ブドウ糖の量が多すぎると多量のインスリンが必要になり、膵臓に過度の負担がかかります。そして、次第にインスリンがうまく分泌されなくなり、血糖値はさらに上昇して、糖尿病へと導かれていきます。
糖尿病の本当の怖さは、合併症にあります。厚生労働省の調査では、糖尿病性網膜症によって失明する人は、年間3000人にも及ぶといいます。糖尿病は、このようにインスリンを分泌する細胞が減少したり働きが弱くなったりして、余分な血糖が処分できず、そのまま血糖値が上がった状態になることです。糖尿病を防ぐインスリンが分泌されるのはトリプシンと同じ膵臓であることから、トリプシンインヒビターによって膵臓の分泌部が肥大するとインスリンの分泌を増加させ、糖尿病の治療や予防に役立つのです。

 さらに、大豆に含まれるトリプシンインヒビターが膵臓の働きを活性化することによって、膵臓ガンの予防も期待できるといわれています。膵液は膵管という細い管を通り、十二指腸に流れていきます。その膵管を構成する細胞がガン化したものが膵管ガンで、膵臓ガンの約9割を占めます。通常、この膵管ガンを膵臓ガンと呼んでいます。膵臓ガンは、はっきりとした原因がわかっておらず、初期症状もほとんどありません。膵臓は体の深部に位置し、ほかの臓器に囲まれているため、発見するのも非常に困難です。そのうえ進行が早く、早期に癌の転移が起こりやすいと考えられています。このようなことから、膵臓ガンは消化器系のガンの中で最も厄介なガンとされているのです。大豆のトリプシンインヒビターは、膵臓の働きを高める作用があり、すい臓がんの予防に期待が高まっています。

 トリプシンインヒビターが糖尿病や膵臓がんの予防として機能してくれると言っても生大豆を食べるわけにはいきません。多量のトリプシンインヒビターは消化不良で下痢を起こします。そのまえに、大豆に含まれているリポキシゲナーゼによる不快味で、生大豆を食べることが出来ないでしょう。しかし、幸いにして日本人は豆腐や豆乳を日常生活で食べる習慣があります。そしてこのことによって毎日少しずつトリプシンインヒビターを無意識のうちに体に入れながら、糖尿病や膵臓がんの予防に対していくらかの貢献をし続けていたのです。

 きっとあなたはこのコラムを読んだことによって、今度豆腐が目の前に出てきたときには、豆腐に向かって、心の底から感謝の気持ちがこみ上げてくることでしょう。


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