加藤昇の(新)大豆の話

19. わが国での豆腐料理の広がり

すでに述べてきたように奈良時代の大宝律令に大豆発酵食品の「醤」「鼓」の文字が残っており、この頃にはすでに大豆の発酵食品が利用されていたことが想像できます。そして大豆の発酵食品が登場していたことは、その原材料となる煮豆はそれよりも前から食べられていたと想像されます。さらに中国から伝わってきた麹菌を使った納豆が寺院の間で作られるようになり「寺納豆」として大きく発展していった歴史がありますが、ここにはまだ豆腐の姿はありません。豆腐についての最初の記述は寿永2年(1183)の「奈良春日若宮神宮中臣裕裏日記」に書かれている「唐符」とされていますが、この時代は源平の戦いで一の谷の合戦が繰り広げられていた頃になります。豆腐の製造も初めは寺院における僧侶等の間で作られていましたが、豆腐の料理レパートリーが増えるにしたがって豆腐を使った精進料理の普及とともに貴族社会や武家社会へと広がっていき、室町時代(13931572年)にるとようやく全国に浸透していったようです。

 豆腐がいまでも精進料理の中心的食材であることは、日本に最初に豆腐を伝えたのが僧侶であったことを考えれば、当然のことと納得ができます。寺院の中では肉料理が食べられず、体に必要なタンパク質はもっぱら大豆料理からという環境に閉じ込められていると、どうしても肉料理、魚料理に対する郷愁が沸き起こってくるものです。そうした閉鎖的な環境に置かれた中で生まれてくるのが豆腐を利用した「肉もどき料理」、「魚もどき料理」でした。例えば現在も目にすることがある、豆腐を使った「ウナギのかば焼きもどき料理」や「しじみもどき料理」などに腕を振るう遊び料理が生まれてきます。そして今に残っているもどき料理の一種が、カモ肉料理に似せた「がんもどき」でしょう。こうして寺院の中で豆腐料理が発達をし、鎌倉時代末期ごろにはそれが民衆へと伝わり、室町時代には日本各地へ広がった様子がうかがえます。

 

江戸時代の豆腐料理

 江戸時代の初期にはすでに広く豆腐が食べられていと思われます。そして質素倹約をモットーにしていた初代将軍徳川家康も豆腐を食べていたことでしょう。二代目将軍徳川秀忠に仕えた渡邉幸庵の対話本の中に「三浦壱岐守明政殿、料理数寄にて豆腐を参拾六色に料理してこれを歌仙豆腐とつけられたり」と言っていることからも想像されます。
 徳川将軍の食膳は、すべて大奥の御膳所において、御膳奉行指揮のもとに材料を吟味し、同じ食事を10通り調理してそれらを数人が毒見をし、安全が確認されてからその1品の料理を温めて将軍の居間(小座敷)に運ぶという手間がとられていました。その献立は、御膳所で決められる定まった献立の他に将軍の好みを聞いて決める部分もありますが、多くの将軍は幼少の頃から世情に通じていなかったので好みのものも少なく、そのためにその生活は形式主義にしばられて極めて不自然、不自由であったようです。例えば毎朝の献立には必ず魚のキスが加わりますが、これはその字が鱚、つまり喜ばしい魚と書かれているという縁起によるものでした。さらに三代目家光からは初代将軍家康の食習慣の影響が強く残っていたと考えられます。三代将軍家光は幼少の頃は病弱で周囲から期待されていませんでしたが、祖父の家康が竹千代を強く推したので、将軍の道を歩むことが出来たのです。それだけに家康に対する思いは強く、死後の家康を神として崇めると共に家康の行動を強く踏襲していくことになります。家光は父秀忠が築いた日光東照宮を取り壊し、自らが家康を祀る東照宮を造りなおしているほどです。こうして家光以降歴代の将軍の食膳に上っていた豆腐料理は、家康も食べていた献立が引き継がれ、朝食には「さわさわ豆腐の淡汁」や「煎豆腐のお壹」が、昼食には「疑似豆腐」などが出されていたようです(千代田城大奥)。地方の諸大名も徳川家にならい、初期には簡素を旨とした食事でしたが、後期になると次第に形式を重んじながらも奢侈になっていきます。
 しかし家光の時代の後半になると豆腐に大きな動きが現れます。寛永19年(1642)に起った凶作・大飢饉以来農民の食生活は厳しく制限されるようになります。前年から全国的に広がった飢饉が大規模化したことに対して幕府は本格的な対応を始めます。餓死者が巷にあふれ、着るものにも事欠いて、むしろなどをまとった飢えた人々が路傍に累々と横たわる飢饉の現状を把握した幕府は仮屋での粥などの施しを命じています。また農村が荒廃して人口の1/4が餓死した村もあった中、幕府は諸大名、旗本にも国元、知行地への帰国を許し、入念な農民対策を命じています。そして慶安2年(1649)に出された「慶安御触書」には豆腐はぜいたく品として、農民に製造することを厳しく禁じています。それは生産量が安定しない稲作を奨励する為の施策によるものと考えられます。 しかしその家光の朝食には、相変わらず豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていたことが、残された資料からも見られます。しかしこれらは相次ぐ飢饉によって引き起こされたものであり、豆腐だけでなくうどん、そば切、そうめん、饅頭などの製造も禁じていていた一方、酒の醸造・販売・飲用も強く規制されていた時代でした。

 

禅寺を中心にして、再び全国に豆腐料理が広がったのは、豆腐が料理の多彩なバリエーションを可能にしたからでしょう。江戸庶民が豆腐を食べられるようになるのは江戸時代中頃からでした。それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたのが実情のようです。江戸において豆腐料理屋は評判となり、江戸で初めて絹ごし豆腐を売った東京・上野の「笹の雪」は今も営業を続けている豆腐料理の老舗店です。当時、豆腐は木綿豆腐が一般的であり、絹ごし豆腐は高級品とされていたようです。江戸の庶民に人気があったのは田楽であり、豆腐を串に刺して焼き、赤みそを付けて食べる料理として広まりました。そして豆腐の人気はさらに高まり、いろいろな豆腐料理の登場となり百花繚乱のごとく、多彩な豆腐料理が登場することになります。そのきっかけを作ったのは豆腐の料理本である「豆腐百珍」が世に出されてからでした。それによって庶民は豆腐料理に強い関心を持つようになります。それは現代よりも、豆腐料理に関しては、盛んだったと言っても過言ではないでしょう。

 

近世になっての豆腐

近代になって豆腐の製造作業の機械化は更に進み、大豆から効率よく豆腐が大量生産できるようになって、より安価で提供されるようになっていきました。豆腐が全国津々浦々にまで広がるにしたがって、それぞれの地方独特の豆腐が登場するようになってきます。街中で人気となる柔らかいタイプの豆腐は昭和時代中ごろまでは個人経営の豆腐屋で毎日作られ、動かすことで形が崩れることの無いよう、売る間際まで店頭の水槽の中に沈められているものでした。「流し豆腐」と呼ばれる極軟豆腐は箸でつまむことができず、スプーンで食べなければならないほど柔らかな豆腐でした。逆に山間部に行くと山道をリヤカーで豆腐を売り歩くために、ゴトゴト揺れる山道でも豆腐の形が崩れないように固い豆腐が作られていました。さらに山間部の豆腐屋で買った豆腐を家まで持って帰られるように、豆腐を縄で縛ってぶら下げて帰れるほどの硬さがあったと言われているほどです。

広く庶民の食べ物となっていった豆腐は、経験さえ積めば誰にでも容易に製造でき、仕事を始めるときの初期投資も大掛かりなものです。そのために大正時代から昭和初期にかけては、仕事を求める多くの人たちによって豆腐の製造が始められ、どの町にも一軒ずつ豆腐屋が出来、朝早くから豆腐を作っている光景が見られました。都会では豆腐屋が町内を廻って引き売りをしていましたが、農村では、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理が出されるのが一般的でした。

 

               掲載日 2023.11

 

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