加藤昇の(新)大豆の話

18. 豆腐の歴史、中国で生まれ日本で愛されて

豆腐の誕生

豆腐は中国で生まれたもののようですが、いつ頃から食べられていたかについては確かな記録がない。豆腐業界では二千年前、漢の末裔、准南王劉安(B.C.179-122)が発明したとして、毎年915日に准南市で日中両国の豆腐業者が集まって豆腐祭りを行っているらしいが、中国の専門家達は劉安説を認めていないようです。諸説入り混じって、結局のところ起源がよく分からない、というところらしい。また、わが国へ豆腐が伝えられた時代についても定説がないようです。

中國で最初に「豆腐」という文字が登場したのは965年に書かれた「清異録」だということが、江戸時代に発行された「豆腐百珍」の巻末に書かれています。文字が発達し、多くの記録が残されている中国でも豆腐の生い立ちについてははっきりしていないようです。

 

豆腐の名前の由来

豆腐は中国から伝えられてきたものです。その中国では、豆腐はさらに北方の遊牧民から持ち込まれた食品であったのです。南北朝から唐代にかけて、北方遊牧民族が中国へ侵入したとき、乳加工品、ことにその保存食品である乳腐が中原人の間に持ち込まれたのでした。乳利用の遅れていた中国では乳の代用品として大豆を原料とした豆腐が工夫されたといわれています。つまり豆腐の原型は乳製品の一種である乳腐だったのです。豆腐乳腐の腐という字は腐敗などとは全く関係がない。牛乳から脂肪分の分離が不完全な乳汁は主に蛋白質から成るが、放置すると乳酸醗酵を起こす。この沈殿物が乳腐(カード)で、乾燥したものが乾酪(チーズ)である。豆汁にニガリを入れて沈殿凝固させた豆腐は、その状態や製造の過程がこの乳製品に似ており豆腐の呼び方が定着していったようです。

 乳腐はチーズか、バター分の分離不充分なヨーグルト状と考えればよいでしょう。では、この乳腐の「腐」の字にはどんな意味があるのだろうか。明らかに伝統的な解釈の「くさる」ではない。さりとて、乳製品で「腐」に転訓しそうな品物は、現代蒙古語には見あたらない、と梅棹教授は言っている。いずれにせよ、この「腐」字は乳製品の胡語に対する宛字であり、胡語なればこそシナ人がこのように不快・不潔な字をあてたのだろうと教授は考えている。時代は南北朝、五胡十六の国々が江北を席捲していった頃の話である。かくして、乳腐と同様にやや軟かく、いささかブルンブルンとした感触の食物を腐とよぶことが一般に行われることになり、豆乳から作られた乳腐の代用品なる豆腐となったのです。

 

豆腐の日本への登場

五世紀から六世紀の中国に生まれた豆腐が、いつ頃我が国に伝えられたのかについては定かではありません。一説によると奈良時代(710784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶によって伝えられたとされていますが、これも明確な記録はありません。しかし、もしこの頃に豆腐が日本に伝来してきたことを想定すると、その役割を担ったのは僧侶以外には考えられないでしょう。最後の遣唐使が中国に行ったのが838年の平安時代末期であり、この頃中国への渡航が認められていたのは僧侶(留学僧侶)だけだったからです。 日本から留学した僧侶が何らかの形で豆腐の製法を学び、その技術を日本に持ち帰り、自分の寺院で豆腐を利用し始めたのであろうと考えられます。そして室町時代に入って急速に普及していったのです。

よく、奈良時代(708-794)に遣唐使によって伝えられた、とされていますが、唐の制度を真似たはずの奈良朝から平安朝にかけての文献には、豆腐についての記述が出てこないのです。豆腐が我が国の記録として最初に登場したのは、寿永2(1183)、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の豆腐の記録とされています。さらに50余年おくれて、日蓮上人の手紙(1239年)がある。この手紙の中に「すりだうふ」の名があがっているのです。この「すりだうふ」とは何物であるかは定かでないが、この頃から我が国で豆腐が利用され始めていたようです。篠田統がまとめた「日本の食文化」によると、わが国で豆腐准南王説が広がっていったのは、徳川幕府の採用した朱子学によるところが大きいとされています。幕府は儒学の基本として朱子学を採用しましたが、その朱子に「世に伝う、豆腐はすなわち准南王の術」というくだりがあるのです。朱子大全は江戸時代道学者の必読の書だったために、この辺から豆腐准南王説が普及したのではないかと推測されているのです。

 

それにしても、最初に豆腐を作った人たちはどんな気持ちで豆腐を作ったのでしょうか。私も数年間研究室で豆腐を作っていたことがあります。豆腐を作るためには前日から準備をしておかなければならず、直前になって急に予定を変更することもできません。だから少量の豆腐を作ることはとても効率の悪い作業になります。また、豆腐は長期の保存がききません。だから豆腐を作るときには食べる人数、調理の内容もある程度計画を立てておかないと無駄になってしまうことがあります。さらに、後始末の作業もしっかりとやっておかなければ腐敗などを起こして後日の作業が続けられません。

現代のように豆腐を作る機材がそろっていれば無理なく出来ることでしょうが、それほどの道具もない時代には大変な手間のかかる食品だったろうと想像します。

 

私は四国の片田舎の農家に生まれました。昔は近所で祝い事などがあると隣近所の人たちが集まって料理を作っていました。その時には豆腐も作りますが、有り合わせの台所道具で工夫しながら豆腐を作っているのを、私は子供の頃に眺めていたことがあります。奈良時代に豆腐を作った時の光景も似たものだったのかも知れません。前日から水で膨潤しておいた大豆を石臼ですりつぶして呉汁を作り、釜に入れて煮たものを濾し布で漉して豆乳にし、大きな桶の中ですまし粉によって固めて、さらに型箱に入れて水を抜いてやっと豆腐が出来上がるのです。豆腐料理はここから始まるので時間と労力のかかる料理と言えるでしょう。こんな料理はとても毎日作ることなんか出来ません。おそらく室町時代も一般庶民は祝い事などの行事があるときにしか豆腐は作らなかったのではないでしょうか。

 

とうふよう(唐芙蓉)

 「豆腐よう」という名前を聞いたことがあるでしょうか。とうふようとは沖縄に伝わる豆腐の一種で、島豆腐を米麹、紅麹、泡盛で4-5ヶ月ほど発酵・熟成させたものです。かつて交易によって栄えていた琉球国に18世紀ころ中国・明から伝えられた「腐乳」が元になったものだとされています。琉球王朝の時代から宮廷の上流貴族の間で珍重賞味されていたものであり、一般庶民にとっては見たことも聞いたこともないものでした。琉球時代には豆腐自体もぜいたく品であり、さらに泡盛も紅麹も庶民の手の届かない貴重品だったのです。このことからもいかにこの「豆腐よう」が高級品であったかが想像できるでしょう。中国の腐乳は雑菌の繁殖を抑えるために製造中に塩漬けにしたのに対して、琉球の「とうふよう」は泡盛漬けにしているのが特徴です。豆腐ようは紅麹を使っているために出来た製品は赤い色をしており昔からハレの祝いの席に出されていた高級食材の一つです。その味は練りウニに例えられることがよくあり、いわゆる豆腐の味とは違ったものになっているのです。その製造法は門外不出の秘伝として細々と継承されてきたため、最近まで広く知られることもなく、まさに王侯貴族だけの幻の食べ物だったのです。ここで使われている紅麹菌にも、コレステロール抑制作用、血圧上昇抑制作用、抗酸化作用などの薬理効果が指摘されており、今では静かなブームを呼んでいるようです。

 

 

                  掲載日 2019.7

 

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