加藤昇の 大豆の話


T−3 大豆という名前、soybeanという名前

 大豆は大きい豆と書く一方で、あずきは小さい豆と書くが、この書き方はどこからきたのだろうか?その確かな理由はまだ見つかっていません。しかし大豆が古代社会でどのように育てられていたか、現在わかっている知見からひとつの仮説を立ててみました。

 大豆が日本で食べられるようになったと思われるのは、先に述べたように縄文時代中期からであったと考えられています。そして縄文時代に我が国で栽培されていたマメは大豆と小豆だけだったとされています。栽培されていたかどうかの判別にはいくつかの方法があります。遺跡からの出土品から判断する時にはマメの大きさが大きくなっているかどうかが目安になっています。そして遺跡から出土している大豆はその祖先種であるツルマメから始まっていますが、縄文前期(約6千年前)から徐々に大型化していき縄文晩期には現在の大豆とほぼ同じ大きさにまで変化してきているのです(小畑弘己)。これらのことから、この縄文時代中期に我が国で栽培されていたマメはダイズとアズキだけだったとされています。アズキも縄文中期になると先祖種であるツルアズキから大きくなっており、縄文晩期に現在の大きさになって変化は止まっています。平安時代になると、わが国で食べられていた豆類はダイズ、アズキの他にリョクトウ、ササゲ、エンドウなどが我が国にもたらされて広がっています。では、「大豆」という書き方はいつから始まったのでしょうか、このことについては確かなことはわかっていません。我が国の記録の中に大豆の記述が最初に登場するのは大宝律令(701年)です。ここには大豆を原料とする「醤」の記録があり、このことから飛鳥時代の古くから大豆は民衆にとって主要な穀物であったことがうかがわれます。さらに古事記(712)になると「豆」がオオゲツヒメのお尻から生えてきたとなっていますが、ここに登場する豆は大豆を意味していると考えられます。この「豆」の字は古代中国で食べ物を供える高坏の形から由来しているとされています。では、我が国で「大豆」とはいつから書かれていたか、それは定かではありません。縄文時代から栽培されて身近に感じていたダイズとアズキのうちの大きいマメを「大豆」と書き、それよりも小さいマメを「小豆」と書いた可能性もありますが、ダイズはその原種となったツルマメから縄文時代の長期間にわたって栽培しているうちに形を変えて現在のような大きさに変わっていったことも「大豆」の標記に影響を与えていると考えられます。その後、いろいろな豆が我が国に持ち込まれますが、この大小二つのマメが最も親しまれた身近なマメであったことでしょう。現在私たちの身の回りには大豆よりも大きな豆はいくつも見られます。例えばソラマメや甘納豆に使われるべにばないんげん、和菓子に使われるいんげん豆、その他大福豆、金時豆など大豆よりも大きなマネはいくつも知られています。でもダイズだけが今も「大きな豆」と表現されています。

  一方のアズキは赤いマメとして中国から朝鮮半島にかけて、古くから縁起のいいマメとしてハレの食べ物として重宝されていたことが知られています。そして、ダイズとアズキは古代の人たちの食材として他のマメ類にもましてより身近な存在だったのです。平安時代にはアズキよりも小さい豆としてリョクトウやササゲなどがありながらアズキだけを小さな豆としてダイズの大きな豆と対比させたのは、やはり古代の人たちにとってアズキがそれだけ日常生活になじみの深い豆となっていたからではないだろうか。しかし、これらは想像の範囲から出ることができずに、正確なことは今もって謎のままです。

 一方英語のsoybeanがどうしてつけられたかについてはある程度資料が揃っています。そもそも英語圏にはダイズは生育しておらず、彼らにとっては18世紀になって持ち込まれた外来作物なのです。そのためダイズを指す単語も当然存在していませんでした。では現在使われている英語のsoybeanはいつ、どのようにして生まれてきたのだろうか。

 過去の記録を辿ってみると大豆そのものが最初に英語圏に紹介されたのはアメリカよりもむしろヨーロッパのほうでした。1670年代に東インド諸島からイギリス、オランダへの輸入品の中に大豆の記載が残されています。このときの大豆の名称はどうであったのか、確認出来ませんが、恐らくこれが英語圏に大豆が出現した最初であったであろうと思われます。はじめてヨーロッパに日本の大豆が文書で紹介したのは、1691年から92年にかけて日本に滞在していたドイツの植物学者ケンペル(Engelbelt Kaempfer)でした。彼は長崎出島の医師として滞在しており、その間江戸にも出府しています。彼は日本の植物について、帰国後『廻国奇観』として出版し紹介していますが、その中で大豆及び大豆のいろいろな加工品についても詳細に記載しているといわれています。

 この時代ケンペルと同じように日本の植物をヨーロッパに紹介している人物としてスウェーデンの植物学者ツェンベリーやシーボルトが挙げられます。オックスフォード辞典によると、1699年に出版された本には醤油のことを"Soy"と紹介されていますが、それ以降は醤油を"soy"との表現が続いています。アメリカ大陸に最初に大豆を持ち込んだ英国人サムエル・ボーエン(Samuel Bowen)が新大陸アメリカで製造した醤油を1767年に英国政府に特許を申請した文章の中で"soy from plants"と記述しています。彼は中国に4年間滞在していたことがあり、そのことから考えると中国語からの言葉の響きでsoyが生まれたことも考えられるが、前述のごとく当時は既に日本の醤油が英国に紹介されていた可能性が高く、soyは醤油という日本語の響きから採られた可能性が高い。

 では醤油はいつごろ出来た調味料か。醤油の歴史を辿ってみると、鎌倉時代に醤油の元になったと考えられる調味料「溜」(たまり)が現れています。信州の禅僧、覚信が宋に渡って修行し、1254年帰朝して「径山寺(金山寺)みそ」の製法を持ち帰り伝えたとされています。その製法を紀州・湯浅の村人に教えているうちに、桶の底に分離した液(上澄みとの説もあり)が溜まり、それで食べ物を煮るとおいしい、ということを発見したといわれています。つまり、醤油は日本で生まれた調味料なのです。そして寛文年間(1661-73)からオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されており、前出のツェンベリーは「日本の醤油は大変良質で、多量の醤油樽がバタビア、インド及びヨーロッパに運ばれている」と書いています。当時のオランダでは日本から輸入した醤油はソースの味付けに珍重され、赤道を越える輸送中の変性を防ぐため火入れした醤油を陶器の瓶に詰めて運んでいます。

 "Soybean"が最初に文献に表われるのは1795年であり、その後1802年にも「The soybean are cultivated in Japan」と明記されています。しかし、それから後しばらの間はsoyという表現が定着していたとは言えない。因みに1769年にアメリカで出版された本には大豆と思われるものに"Chinese vetches"との呼び方を当てはめている。また、1851年、日本人漂流民を太平洋上で救助したアメリカの帆船オークランド号は日本人を乗せたままサンフランシスコに入港しているが、港で検疫をした医師は日本人から所持品のいくつかをプレゼントされています。その中に大豆が含まれており、そのときの記録には"Japan pea"とされています。この大豆はその後、当時の農業委員会に相当するCommissioner of Patentsに渡たされ、いくつかの農事試験場で栽培試験が行われています。1853年にその栽培報告が出されていますが、その中では大豆のことを"Japan Pea"、"Japanese Fodder"、"Japan Bean"などとして記載されています。さらに、1854年にペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、やはりCommissioner of Patentsに提出されており、これには"Soja bean"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます。1882年にsoybeanの言葉が出て以来、soybeanの言葉は文献に続いており、soybeanの呼び方が定着したことが想像されます。

 一説には、慶応3年(1867年)、パリで開かれた万国博覧会に薩摩藩士大久保利通が醤油を出品し、大豆を紹介したことが発祥とされている。大久保利通の言葉は、当然のことながら薩摩弁であり、当時の薩摩弁では「醤油」のことを発音すると「ソイ」と聞こえたというのです。しかし、1795年、1802年に"soybean"の記録があったことを考えるとsoybeanという言葉の発祥はもう少しさかのぼると考えられます。

 いずれにしても、英語のsoybeanは日本語の醤油がそのルーツであることは間違いありません。そしてその後英語のsoybeanからドイツ語、フランス語など世界の大豆の名称へと展開して行っていることを考えると感慨深いものがあります。


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