芝生

望郷・あぜ道日記


暮らしと水汲み

四方を山に囲まれ、その真ん中を蛇行し流れる川が在る。
周辺は田んぼの緑の一色に埋め尽くされ、遠く線上に村の道路がかすかに見える。
私の育った被災住宅は、川の流れに沿って走る道路沿いに建っている。
6畳と4畳半の和室に玄関続きの釜戸のある土間、一間の押し入れと半間の押し入れ
そして、汲み取り式の便所、此処に両親と兄弟姉妹7人が身体を寄せ合うようにして
暮らした年月が有りました。

私が生まれたのは1954年、3月。
この地方は、前年に大規模な水害があったのですが、その頃私の家族が住んでいた家も
水害によって流され、住むところを無くした両親は、懇意にしていた農家の納屋を借り、
仮住まいにしたそこで、私は、生まれたと両親に聞かされています。
幼い私に父が、「あんたは馬小屋で生まれたから、バテレンさんの神様と同じやで!」
そんな事を言ったことが在りましたが、私の記憶の中には納屋での記憶はありません。
どのくらい其の納屋に住んでいたのかは聞きませんでしたが、私が物心ついた時には
一棟二軒の平屋建ての被災住宅に住んでいました。

水道、ガスの公共設備なし、電気は風の無い穏やかな天気の日は使えましたが、渇水したり
荒れた天候の時は殆ど使えなかったので、蝋燭かランプが日常の灯かりになっていたのですが
それも、資源節約ということで日がとっぷり暮れると布団に入る。朝は、日の出と共に起こされて
(というより、自分で起きていましたが)最初にすることは、水汲み..。家から20メートルほど
離れた山裾に湧き水の出るところがあったのですが、小さな杓で一杯一杯掬いあげます。
砂が入らないようにゆっくりと杓を水に沈めるのですが、気の長い作業だったので砂利道に
座り込み居眠りしてしまうものですから、気が付いたらバケツの底に砂が入っていました。
半分くらいも水を汲み終える頃になって、母が見に来てくれるのですが砂の入ったバケツを
見ても叱られることはなかったように思います。「御苦労さんやな!」って、髪を撫でられたのを
覚えています。冬の寒い日の水汲みも在りましたが、薄氷の張った表面を手で叩いて割ったのが
何回かあったかも知れません。次の記憶には、私の住む被災住宅にも井戸が出来ました。
つるべで汲み上げる井戸でした。私の家は、井戸から一番遠くて最初の頃は両手でバケツを
ぶら下げて水を家の土間まで運んでいましたが、担い棒の使い方を教えてもらってからは
それを使いました。均整を取りながら歩くのも結構慣れがいります。
揺らし過ぎると、せっかく汲んだ水がこぼれて半分くらいに減ってしまい、其の分余計に
汲みに行く回数が増えましたから、五右衛門風呂いっぱいに水を張るのは大変な重労働に
なります。この頃の私はまだ6、7歳でしたから、井戸までの距離50メートルもあったかな?
二十数回も往復しなければならなかったわけです。
水汲みが当たり前の手伝いと思ってはいましたが、子供には辛いお手伝いだったかもしれません。


そして、今度は其の風呂を沸かすのですが、家にあった五右衛門風呂は父が作ったもので
石を重ねてその上に釜を置いた簡単なものだったんですが、炊き口が深い穴に掘って在りまして
枯れた木や草を組み重ねて火を付けるのです。晴れた日の枯れ木は難なく燃えてくれますが
前日が雨だったりすると煙ばっかりでなかなか燃えてくれません。枯れ木といっても、薪になっているのは
家の側の河原から拾ってきたり、雑木林に入っては落ちた枯れ木を集めて来たものですから
その日その日一日分の量しかなく、前もって乾燥させたものを備蓄して置いてなかった
ように思います。煙たくて鼻水と涙でグシュグシュになりながら沸かします。
その上私は、年齢より身体が小さいほうで、煙たい苦しさよりも足が滑って少しずつ炊き口へ
落ちていく方が怖くて、腹ばいになっていました。ですから、旨く火が付いて燃え上がった時は
今度は、顔面が熱くて慌てて其処から離れるのです。
後は、長めの木切れで火の調整をしながら、時にはサツマイモを焼いたり、川蟹を捕まえられた
時は、それを焼き、秋には栗を焼いたりして結構楽しくやっていました。
唯一のおやつにもなっていました。
さて、この五右衛門風呂なんですが、洗い場廻りはベニヤ板とトタン屋根で出来ていました。
小さな私でも洗い場に立つと首が目隠しのベニヤ板から出てしまいます。
家の前の通路も道路も川の流れも其の向こうの緑色の、季節によっては黄金色の稲穂が
風に揺られ、たくさんの赤とんぼの群れを見ながら湯に入る事も在りました。
湯気と燻る煙の白いカーテンが風の流れにのって動きます。
いい気分でとっぷりと浸かったとたん、お尻の熱さに慌ててジタバタするのも日常の一コマ。
そして、夕暮れになって母が入る時は、蝋燭がともります。
ゆらゆらと陰が揺れて、ちょっと離れた家の中から其の様子を見ていた私は、怖くて仕方なかった
のですが、それは、濡れ髪を肩に垂らした母の姿がベニヤ板の上に見え隠れすると、蝋燭の
灯かりに浮き上がる顔が幽霊のように見えたからなのです。
たまに、風呂に入りながら、母が湯を追い炊きして欲しいと私を呼ぶ事がありました。
其の時間帯は、父は晩酌をしていましたし、兄たちはそれぞれに割り与えられた手伝いを
していましたから、母が私を呼ぶのは仕方の無いことなのですが、私は、胸がはじけるほどに
怖くて、恐る恐る風呂の炊き口に向いました。
玄関から風呂場まで約10メートルは離れていまして電気のついてない庭先は真っ暗なのです。
おまけに家の裏山が竹やぶで,背高い竹の葉先がザワザワ大きく揺れて、月明かりを遮って
大きな陰が動くのです。風呂場を囲んでる薮の中からは、牛蛙の不気味な声がし、何やら
動物の目が光って見えます。蛍だったかも知れないけれど、怖がりの私には恐怖だったのです。
私は、わざと大きな声で母に話し掛けました。すると、母は言うのです。
「大きな声を出したらあかん!」
人が通りかかるような場所では無かったのですが、(うちより先には、何キロも家が無かったから)
それでも、はしたないからと叱られるのです。
消えかけた火種を起こして薪を足し、母がもう良いと言うまで炊き口の炎を見ていました。
横を見るのも、後ろを振り返る事もしませんでした。
ひたすら母が風呂から出てくるのを待ちました。一瞬、目の前も見えないくらい真っ暗になります。
母が、風呂場の蝋燭を消したからです。私は、慌てて炊き口の火種に灰をかぶせ、母を
おいます。後ろの暗がりから何かが引っ張るような恐怖を感じて夢中で母の横に並びます。
湯上がりの母の頬は上気していて、一まとめに結い上げた髪のすそが真っ白で、さっき見た
怖い母の顔はもう、在りませんでした。この頃は香りの良いセッケンなんか家にはなかったのですが、
ほのかに甘い香りが母から匂ったのを今も覚えています。
この露天風呂の様な作りの風呂場は、その後、父が作り替えまして,一応窓付きの壁と
トタン屋根に覆われた風呂場に様変わりしました。電気がないので相変わらず蝋燭の灯かりで
入っていた事は変わりませんでしたが、今度は、トカゲやらムカデ、クモ、挙げ句の果ては
ヘビまで入り込んで私の怖がりと風呂嫌いに拍車がかかることに成ったわけです。
女は、男より先に風呂に入るべからず..なんて家の決まりが在りましたから、冬は、嫌でした。
もっとも、冬はヘビやトカゲなどの爬虫類は姿を見せなかったのですが。

葛橋(かずらばし=吊橋)と洗濯

私が3歳くらいの頃だったでしょうか。
ある夏の日の午前、まだ、家の前の川で洗濯をしていた頃なのですが、私は母に連れられ河原に
行きます。先に大きな木のたらいと洗濯板を河原へ持って降り、家族分のたくさんの洗濯物を
母と二人で持っていきます。私は小さかったですから手伝いになっていたかどうか、でも、私は
一人前にやっているつもりで居ましたから、母の隣りで石で塞き止めた水の流れですすぎを手伝いました。
この頃の川は、水が冷たく清んでいて水をかぶった石に緑色の苔がついていました。
其の苔を食べに小さな魚が居て、又其の小さな魚を食べる少し大きな魚が一寸先の岩陰に
見えかくれしていました。水面にはあめんぼうがスイスイと移動し、水際の石をひっくり返すと
大小の川蟹がごそごそと這い出してきました。
洗濯物をいれる籠は、大き目の蟹を入れる魚篭の変わりにもなりました。
何枚かの洗濯物を洗いおわると母が蟹を家のバケツに移し替えに行きます。
その間私は、洗濯物が水の流れに取られないように番をしていました。
その日も私は、流れにさらして在る洗濯物を足で悪戯しながら番をしていました。
見上げると直ぐ其処に石の橋がかかっています。

この橋は水害の後に造られた橋なのですが其の前は、少し上流側に葛で造った吊り橋がかかっていたそうです。
父が手仕事をしながら話してくれたのですが、私が生まれるずーっとまえは葛橋が川を隔てた
村の行き来に使われていて、父や母も其処を渡って行き来したといいます。
左右のロープ以外は、真ん中に細長い板を何枚も継ぎ足しただけの吊り橋で一足ごとに
左右に揺れ、母は何度も座込んで動けなくなり其の母を背中に張り付かさせて
やっとの思いで渡りきったそうです。吊り橋の高さが7メートル以上はあったらしいですから
渡りきるまでの50メートルは恐怖だったと思います。
さて、この吊り橋は、村の交通手段だけではなく双方の村の若者たちの祭りにも使われていて
若い男女の出会いの場所にもなっていたのです。度胸だめし..っていうのでしょうか。
夜間、吊り橋の両側をたいまつで照らし、真っ暗な橋の真ん中をロープに捕まらないで
それぞれに思考を凝らした格好で一気に渡りきるのです。両端でわざと揺らします。
足を踏み外したり、ロープを握ったりしたら失格。若者たちの勇気をみる若い女性が双方の
橋の両側で息を凝らして成り行きを見ています。無事渡りきった男性は意中の女性に
その日一晩、村祭りで一緒に過ごしてくれるように申し込みます。
ここで意気投合した若いカップルが毎年何組か結婚式を挙げたと言うことです。
或年の祭りの夜も、いつもの年と同じように橋わたりが始まっていました。
いつもと少し違うのは、川の水量が前日の雨のためかなりの量に膨れ上がっていたこと。
そして、葛橋も水を含み足元の板も滑りやすかったこと。
御酒も入り、十分に興奮した若者たちが一度に何人も橋を渡り始めたのです。勢いを付けて。
其の中には、数人の女性も混じっていたといいます。
橋の中ほどで交差しようとして橋が大きく揺れたその時、葛が切れたのです。
たくさんの若者たちが流れに落ちていきました。濁流に近い流れは若者たちを水面に
飲み込みました。双方の村始まっての惨事に成ったそうです。
この年を境に祭りは行われなくなったそうです。そして、少し下流に位置する所に石の橋が
架けられました。吊り橋の痕跡は私が20歳を迎える頃まで残っていました。
この話を聞いてからは、吊橋あとの石柱が墓標のように思えて側へ行かなくなりました。

私は、石の橋の向こうにたくさんの鳥がいるのを見ていました。
水面から飛び立つように飛んでは又水面に消えます。お日様の光が水に反射して
キラキラときれいに光っています。足元の洗濯物を見ました。
浴衣の模様が波に揺られて面白く動いています。濃くなったり薄くなったり、風船のように
浴衣のたもとが膨らんでは、流れに押されてぺしゃんこになります。
私は、膨らむ浴衣のたもとが面白くて広げようとして塞き止めた流れの外に出てしまいました。
すると、急に浴衣全体が水面に浮きあがり外の早い流れに出てしまったのです。
私は、やっとの思いで浴衣のすそを手で押さえました。でも、浴衣は急に重たくなって私を
引っ張るのです。すそを持ったまま私は、浴衣の流れる方に引っ張られていきました。
石に張り付いた苔が足を滑らせました。前向きに水面に倒れましたが起き上がるまもなく
浴衣ごと浅い速い流れに身体は滑るように流されていきます。
水が顔にかぶって息が出来ません。むき出しになった足を大小の石が擦り痛くてなりません。
そのうち石が身体を擦らなくなってきました。ふわっと浮いたようになったと思ったら
身体が全部水の中に沈みます。そして又、顔が出ます。何回か水を飲んだでしょうか
急に水の外に身体ごと出ました。私は、知らないおじさんの両手で抱えられていました。
おじさんの心配そうな顔が目の前に在ります。
「....?」私は、泣くことを忘れていました。おじさんが大きな声で何か言ったのをきっかけに
やっと自分がどうしていたのかが分かって泣き出していました。
さっき見た石の橋が反対側の遠くに見えます。その向こうの方から母が何度も水際で転びながら
走ってくるのが見えました。私は、おじさんの手から母の手に抱かれ、母が痛いくらいにぎゅーっと
抱きしめながら顔や頭を撫でてくれます。おじさんが言いました。
「よっぽど大事な浴衣だったいね。助けた時から握り締めとって離さんとたい!」
私にとっては母の言いつけは絶対だったのですが、何故流れる浴衣を離さなかったのかは
解りません。ただ、もう、それからは川の流れが怖くて、石のぬめりを足の裏に感じるだけで
ひどい恐怖感を覚えるようになったのです。
それでも子供というのは遊びの中に入ってしまうと一時、そんな恐怖を忘れてしまうものなのでしょうか。
私は、その後も川で戯れ、其処に生きてる様々な生き物を遊びの相手として過ごしたのですから。
その後、母は私を洗濯の為に川へ連れていくことは在りませんでした。
そして、家から少し離れたところに数所帯共同の井戸が掘られ、つるべで水汲みをすることになるのです。

両親

私の両親は、京都で生まれ育ちました。
戦前は大きな地主の長男でぼんぼんで我が侭いっぱいに育った父。
そして、やはり裕福な両親の元、長女で何不自由なく育った母。
父の家にはたくさんの使用人と田畑を貸している小作人を抱えていたと聞いています。
そして母の家には、同じようにたくさんの使用人がいて手配師をしていた職業柄、多くの
人が出入りしていたそうです。母は、男衆に顔を合すのが嫌で自室に篭っている時が
多かったと言っていました。そんな母でも12、3歳の頃は行儀見習いということで奉公に
行かされ、奉公先は下流界の母屋の手伝いだったと聞いています。
奉公の合間に茶,華道を始め芸事を習い勤めていたそうです。
奉公に出て3年ほど経った或日、使いに出されて帰宅途中、母は、店のほうに行きました。
主から、決して店の方から出入りしてはいけないと言われていたらしいのですが、遠回りの
母屋の勝手口まで歩くのが面倒になったらしいのです。
たまたま、店先にはお客も居ないようだったので急いで入ろうとしたのだそうです。
そして母は、店先の木の端でじっと二階の客間の窓をを見ている一人の女の人を見つけました。
其の女の人は、髪は降り乱れ、青白い顔で般若の面の様な形相をしているように見えたそうです。
母は、怖くなって結局母屋に廻りました。
そして、何日か過ぎて使いに出た日がありました。母は又、店の方から入ろうと向いました。
すると以前見た女の人が、同じ木の端で前よりももっと険しい形相で立っていたそうです。
ふらふらと幽霊のように木の廻りをうろつき、ぶつぶつと何かを言っているのが聞こえました。
母は、足を止めて女の人の言葉を聞くとはなしに耳に留めました。
「淫売女...殺してやる..呪い殺してやる..」女の人は繰り返し呪文のように言っているのです。
そして、不意に母に向って金きりの様なこえで叫んだのです。
「お前も売女か!人の亭主を咥え込む汚い売女か!」母は仰天しました。
いわれの無い侮蔑の言葉に泣きながら母屋に逃げ込んで自室に篭ってしまいました。
母屋のおかみさんが、母に言ったそうです。
「ここは、旦那さんがおなごと遊ぶためにきはる場所や!。ここのおなごは、みんなお金のために
居てはる..。そこいらの奥さんとは違ういうこと、解りますやろ..そやさかい
中には、本気でおなごを好いてしまいはる旦那はんも居はる..。奥さんも子供も忘れてしまいはる
あんさんが見はった外の御人は、そういう旦那はんの奥さんかもしれへんなあ..。
因果な商売なんやと割り切れるもんやないけど、..あんさんには見せとうなかったんえ..。」
母は、それから数日後には暇を貰って帰ったそうです。
母は、幼いながらも思ったのだそうです。
どんなことがあっても夫となる人に尽くし、自分は般若にだけはなるまいと考えたそうです。

父はどうしようもない悪ガキ大将だったと聞いています。
何をしても叱られず、学業もいい加減であっても父親の権力で進級させてもらったと言います。
学校の行き帰りも送り迎えつきで、自由奔放にしていたようです。
兄弟は、全て女ばかりでたった一人の男子でしたから、それは大切にされたようです。
青年になってからは、粋な格好で京都市内に遊びに出るようになりました。
当時軍事国家だったにも関わらず、好景気で街は華やいでいたといいます。
御茶屋遊び、賭け事、良く遊んだそうです。そんな中、父は、母のお父さんに出会いました。
母のお父さんも粋な遊び人だったのです。互いに愛称で呼び合う友達になりました。
そして、母に出会ったのです。父はひとめで好きになったと言っていました。
其の頃母には、心に決めた人が居ました。軍人さんでした。
さっそうとして凛々しく男前だったと言っていました。父は、母を強引に誘いました。
芝居小屋、映画、高級な料理屋、いろんな所へ連れまわったそうです。
軍服が目立った時勢に着流し羽織に山高帽子のいでたちは目立ったようでした。
そして、母の想いとは別に話は進み、許婚になっていきました。
戦争が激しくなり、母の意中の人は出征していきました。そして、父にも召集令状が来たのです。
父は、実家に母を連れていき妻として自分を待つように言いました。
同じように実家の家族にも妻として、母の身を託したそうです。

生活

私には、物を修理する特技があります。
単純に折れた傘、自転車のパンクと調整、簡単な玩具の故障、一般的な物なら襖の張り替え、
障子の張り替え、網戸の張り替え、小さい規模のタイルの補修、壁の補修、そして一般の
人ができる程度の大工仕事..修理に必要な道具と材料が揃っていれば直してしまいます。
もちろん素人ですから、職人さんの様な技能はありません。でも、家庭内の身の回り品は
鍋の取っ手の補修から包丁の柄の挿げ替えなど廃品に出してしまう物まで修理、補修します。
決して触らないのは、電気製品などです。資格も無いですし、危険なことは解っていますから。
でも、二層式の洗濯機などの電気部分以外の修理や補修はしてきました。
おかげで家庭で使っている生活道具は年期の入ったものばかり..。だから新品の物を買うと
洗濯機(全自動)ですら使い方が解らなかったという苦い経験も在ります。
私が何でも修理、補修して使おうとするのは、ケチってとか始末したいからではなく、子供の
時から、そうゆう環境にいたからなのです。先に書きましたとおり、田舎で育ちましたから
生活の全てが自給自足のようなものでしたので、全ての生活道具が貴重だったと言えます。

私の育った家庭はとても貧乏でした。
子供5人と両親の7人家族が、一日に食べる米が買えなかった程でした。
住んでいた所は農村でしたが,うちは猫の額ほどの自給分の畑があっただけで農業を
していたわけでなく、主に母の衣類の行商が生活の糧になっていました。
リヤカーに大きな風呂敷き包みや箱を、荷台からはみ出すほどに乗せて村々を歩いて廻るのです。
何キロも離れた阿蘇の麓の村まで行く事もあったようでした。
現代のように道路が舗装されている時代ではありませんでした。車を殆ど見ない田舎です。
農道は馬車の車輪跡がつき、真ん中の部分が盛り上がって草が生い茂っていました。
少しましな道路でも砂利道でやはり真ん中が盛り上がっていて、リヤカーを押して歩くには
大変な苦労があったと思います。行った先々の大きな農家の庭先が店開きする場所でした。
大抵どこの農家でも御隠居さんが留守番をしていまして、母が行くと近所の隠居仲間を
呼び集めてくれるのです。母の持っていった品々を手にとっては何と交換してくれるのかを
商談します。当時、村の隠居さんは現金を持っていませんでしたから、物物交換するのが
当たり前だったのです。といっても、品薄になった品物を仕入れするには現金が要る訳ですから
何件かに一件は村の雑貨屋とか精米所、農協などで店開きしてまわりました。
唯一そこでは、現金で品物を買ってくれるのです。でも、毎日現金収入があるわけではなく
大抵は、野菜とか豆が現金の代わりになっていました。たまに、農家の主婦が半天の打ち直しや
着物の仕立を頼むことも在りましたが、そういう物を預かってきた日の母は、一晩中寝ないで
縫い物をしていました。蝋燭の灯かりを頼りに黙々と縫い続けていた後ろ姿を何度も見た記憶が
残っています。出来上がった品物を届けに行くと一升程の米をくれます。
それに、大豆とか小豆などを余分にくれる人もいましたから、そういう日は、麦7升に米3升の
白いご飯が食べられました。幼かった私でも1升の米の価値を子供心に認識していたのです。
家の畑には、里芋や大根、にんじん、グリンピース、ほうれん草、ねぎ、そして、大豆が植えて
在りました。この大豆や大根は納豆やたくあん漬けになって、保存食品になるのです。
納豆は、冬に造ります。豆を蒸して乾燥した稲藁に包み、畑に掘った穴の筵床に埋め一定期間
寝かすのです。大抵は霜でカチカチに凍った冬に造っていたように思います。早朝、その納豆を
掘り出しに行くのは私とすぐ上の兄でした。被せてある土をどけ、掛けて在る大きな筵をはがすと
暖かい湯気が立ち上がり、納豆の匂いが立ち込めました。藁の包みを一つだけ取り出すとそれは
ふんわり暖かいのです。藁を少し分けると納豆の糸が引き、プンと匂いが鼻に付きました。
たった一つの藁の包みが、家族7人の朝食を贅沢にしてくれます。醤油は貴重品でしたから
塩で味を付けるのですが、どんな物より美味しかったと思います。殆どが麦のごはんでも
お代わりするくらいに美味しかったのです。パラパラと箸から逃げる麦ご飯に納豆をまぶすと
食べやすくなったことも、より美味しいと感じたのかも知れないですが。
お米の無い時の食事は、粟雑炊や芋雑炊、野菜の煮付けなどが多かったように思います。
スイトンは贅沢な方だったんです。中に入れる団子のもとが買えませんでしたから。
たくあんの甘みは子供にとってはおやつに匹敵しました。漬け上がったたくあんの尻尾を
貰ってたべるのが楽しみだったくらいです。兄3人と順番を決めて交代で食べました。
最近の市販のたくあんの尻尾を食べても美味しいと感じないのは私だけ?なんて思ったりします。

母は、古いセーターを解いて子供たちのセーターに編み直していました。
大人ものの古いセーターを農家から貰ってきては、せっせと編み棒を動かせていました。
これもやはり夜なべでした。冬の寒い夜は、たった一個しかない火鉢で手を温めながら
編んでいました。冬の母の手は、ガサガサで傷だらけでささくれだっていました。
しもやけで指の節々が変色していました。その手は、地味な色合いの毛糸を可愛いデザインの
子供用セーターに変身させ、私や妹の毛糸のパンツも作り上げました。
厚手の生地の古いカーテンは、私のスカートに化けさせました。生まれつき額の広い私のために
ぼんぼりの付いた可愛い毛糸の帽子も造りました。上の兄弟が男だった為、かれらのお下がりは
私に廻ってきます。だからというわけでも無いのですが、私は6歳まで遊び友達に(男の子ばかり)
ずーっと男だと思われていました。私が女の子だと知れたのは、みんなと一緒に立ちションが
出来なくて座ってしたからでした。でも、帽子の下にはちっちゃな可愛いお下げ髪が覗いて
いたんですけどね。その後母に我が侭を言って困らせました。女の子の服を欲しがったんです。
新しいものを買う余裕のなかった母は、今で言うリサイクルの先端を行っていたかもなんて
思います。後に私が母親になった時、母から受けた教訓が当時の生活を支えた結果に
成ったことを書き加えておきます。

さて、父はと言いますと、良くお酒を飲んでいました。熱を出して寝ていることが時々ありました。
マラリア...熱帯の蚊が媒介する熱病にかかっていました。戦争中にかかって直らないまま
戦争から帰ってきたんだと言っていました。高い薬は買えないけれど、酒が薬になるからと言って
唸りながらお酒を飲んでいました。身体はガタガタ震えているのにたくさんの汗をかいていました。
そして、風呂場に這っていっては、身体に水を掛けていました。
何日かそんな日が続いて、いつにまにか庭先で何か仕事をしていました。
私は、母が行商に出た後は、いつも父の側にいました。父のしていることを見ているのが
好きでした。たくさんのボロボロになった傘を修理していました。器用に道具を使い、壊れた傘から
修理する方にいる部品を切り取って直していきます。傘生地に薄く溶かしたロウを刷毛で丁寧に
塗り、陰干しで乾かすと新品の傘に生まれ変わっていきます。色々な色や大きさの傘が
次々と出来上がっていきます。夕方になると庭先いっぱいに色とりどりの傘の花が咲いていました。
又、別の日に自転車が何台も持ってきて在りました。父は自転車を天地さかさまにすると
タイヤをマイナスのドライバー一本で外します。中から黒いペッタンコになったチューブが出てくると
父は、それを手で一周させて傷を探します。見分けがつかないと空気入れでチューブに空気を
入れます。そして、膨らんだチューブを前もって水を入れておいたタライにつけはじめます。
プクプクと小さな泡が出て傷が見つかりました。丁寧にチューブ全体を水につけおわると乾いた
ボロで拭き取り、傷の部分に印をつけます。空気を抜いてぺちゃんこになったチューブの傷の
所を棒やすりと紙やすりで擦り、傷に合わせて切ったチューブの切れ端も同じようにします。
そして、缶に入ったゴムボンドを両方に丁寧に塗り付けます。少し置いて、半渇きになったところで
張り合わせるのです。合わせた部分に隙間ができないようにしています。
全て元の形に戻して、錆びたフレームやチェーンの汚れも落とし、部分部分の調整を済ますと
きれいに磨きます。小さくても私にもそれは手伝えました。一生懸命磨いた自転車は、新品みたいに
光っていました。私は父の手が生み出す傘や自転車がものすごくかっこいい物に成った気がして
見ていました。一日中庭先に座込んで油だらけになっても少しも気になりませんでした。
冬の寒い時でも、手がかじかむほど冷たくてほっぺが真っ赤になっても嫌になりませんでした。
父の側にいて、父のしていることを見ているのが大好きな女の子になっていたんです。

父は、私を度々街へ連れていってくれました。
自転車の前のフレームに補助椅子を付けると、すっぽり抱かれるような格好になります。
街まですごーく遠かったのを覚えています。山道みたいな上りや下りがあって「えい!えい!」
と声を出して自転車をこいでいました。街へつくと父は直ぐに新聞みたいな紙を貰っていました。
それを見ながら耳に挟んでいた赤い鉛筆で印みたいなのをつけます。
そして、人がいっぱいいる広い公園みたいな所へ行くのです。
其処には、いろんな色の帽子をかぶった自転車にのった人がグルグルと同じ所を廻っている
所でした。廻りにたくさんの人がそれを見て大きな声を出していました。
父も時々大きな声を出していました。グルグル廻っている自転車を見ていると大きな鐘の
音がしました。すると、見ていた人は、さっきよりもっと大きな声を出し始めるのです。
怒鳴って怒っている人もいました。みんな赤い顔をして怖い顔に成っていくみたいでした。
私は、人を見ているのが怖くなって父の足にしがみついていました。
父が時々ぐりぐりと頭を撫でてくれましたが、帽子が脱げるので嫌だったのを覚えています。
ここからの帰り道、毎回、父はお酒を飲みにお店に入りました。
私は、自転車に乗せられたまま店の入り口に置かれます。
どのくらいの時間だったかは解りませんが、待ってる間にいつも眠くなっていました。
時々知らない人が私に話し掛けてきました。お菓子とか飴をくれる人もいました。
お酒を飲んだ父は、自転車に乗るとフラフラしていました。まっすぐ走らなかったのです。
何度か転んだこともあって、おお泣きさせられたことも在りました。ただいつも、服をいっぱい
着せられていたので、擦りむいたのはおでこでしたが、前の傷が治り掛けると又次の傷が
できるようなことが何回もあったように記憶しています。
家が近くなると、いつも父は言いました。
今日、どんなとこに行ったかおかあちゃんにいうたらあかんで!って。
母は、私に聞いた事なんて一度もなかったんですけどね。

学校

小学校に入学した日、校門を入ると最上級生が、胸に赤いリボンを付けてくれました。
そして、少し行ったところに机に座った大人の女の人がいて、そこで名前を聞かれました。
私の名字は、その土地では珍しい方だったのと、上の兄たちが結構優等生だったらしく
名前を聞いたとたん、兄たちの名前をだして、「妹さんたいね!」って言われました。
「あーたん兄さんたちゃ、ほんなこつようできっとばい.そん妹なら楽しみったい!」
私に付き添っていた母は、嬉しそうにニコニコしていました。でも、私は何だか嫌な気分に
なっていました。朝、家を出る時は父が私用に作り直してくれた新しいランドセルを背負って
とても嬉しかったのに、その女の人に言われた言葉が入学式の式の間も、クラス別に
教室に入ってからも頭の中から離れませんでした。教室で新しい教科書が配られました。
でも、私には配られません。私には兄たちのお下がりがあったからです。
廻りの殆どの子達が新しい教科書を開いて見ていました。私以外にも、何人かは同じように
兄弟のお下がりを持ってきていた子がいました。担任の先生が、お下がりを持つ子の側に来て
持ってきた教科書の点検をしました。一番最後に私のを見に来ました。
私の教科書は、3歳年上の兄のお下がりだったのですが、表紙は変わらないのですが
内容が違うところが何個所か見つかりました。先生は、少し困った顔をして、教室の後ろに
立っていた母に後で職員室に来てくださいといい、私の持っていた教科書全部を先生の
大きな机に持っていきました。一番端っこに居た男の子が隣りの席の男の子に
「古かけん、つかわれんとたい!」大きな声で話し掛けていました。
私は、とっても恥ずかしい気持ちになっていました。他にもお下がりの教科書の子が居たのに
他の子のは、新しい教科書と同じなのです。私のだけが違っていたのです。

私は、前日の昼からその日持っていく教科書を眺めては喜んでいたのでした。
私の身体には大きすぎたランドセルを、父が作り直してくれて、ちょうど良い大きさになって
エンジ色の蓋の角の可愛い花の柄が嬉しくて、それに教科書を入れては、背負って
部屋の中を歩いて喜んでいました。教科書に書かれた挿し絵やひらかなの文字が珍しくて
読めないのに読めるような気になっていました。学校に行ったら本に書いてある字が
読めるようになると、胸をわくわくさせながら何度も何度もランドセルから出しては見、また
入れて、背負うのです。嬉しくて嬉しくて仕方ないのでした。
古い時代の私の両親は、私にカタカナを教えていましたから、教科書の中に書いてある
ひらかながとても新鮮な魅力だったのです。生まれてはじめて私の本に成ったのが
兄のお下がりの教科書だったものですから、宝物を手にしたくらいに思えたのでした。

私が、初めて本というものに興味を持ったのは、風呂の焚き付けに置いてある
古本の中にあった、「小公女」という童話でした。
分厚い表紙がボロボロに破けてはいましたが、茶色に変色した最初のページから在りました。
ペン書きのような細い線で差し絵が書いてありました。馬車に乗った可愛い女の子の絵でした。
細かい字で漢字とカタカナの文章でした。
この時私は、6歳に成ったばかりでまったく字が読めませんでした。
私は、3月生まれなので7歳で小学校に入学するのですが、両親は、字は学校に行く一寸前に
なったら名前だけ教えようと思っていたらしくて、その頃は、まるで文字を知らなかったのです。
その本を見つけてからは、夢中になっていきました。なんて書いてあるのだろうと欲が出て
読みたくて、教えてくれる人は居ないかと身の回りの人の中に探しました。
兄たちに聞きました。面倒くさがって教えてくれません。母に聞きました。でも、母は漢字が
読めなかったのです。やはり、忙しいからと教えてはくれませんでした。
父は、その頃は、良く出かけていてあまり家に居ませんでした。
たまに居る時は、お酒を飲んでいて時々大きな声を出したりしたので、怖くて聞けませんでした。
そんなある日、私は、風呂を焚きながら座込んで、パラパラとページをめくって挿絵を
見ていました。挿絵を見ながらその場面はどんな風の話になっているのかと想像しては
楽しんでいました。そこへ外出先から父が帰宅してきました。
私は、見つかったら叱られるものと思い込んでいて、慌てて焚き付けの束の下に
隠しました。父は、私の仕草を見逃しませんでした。
カッと目を見開いて、怖い顔をして私に近づいて来ると「何を隠したか?」大きなこえで
言いました。私は、怖くて何も言えないでいました。足で隠した本が見えないように
焚き付けの束の前に突っ立ったままでいました。
父にはそれも直ぐにばれました。父は、私を乱暴にどかせると、本をひっぱり出して
仕舞いました。私は、本は風呂の炊き口にほうり込まれ燃やされてしまうと思いました。
涙がポロポロ出て、とうとう泣き出してしまっていました。
父は、本をパラパラとめくると私に向って「こんな難しい本、読まれへんやろ!」
そう言うと、本の埃を手で落としはじめたのです。
私は、その本がどうなるのかとビクビクしながら、父の動作を見ていました。
父は、家の中に持って入り暫く出てきませんでした。
父は、私を呼びました。父の手には、ボロボロになっていた表紙を奇麗に直された本が
在りました。私に手渡しながら、明日から教えてやるから家の用事を早く済ませるようにと
言ったのです。ほんの表紙は、父の大切にしていた和紙を使って補修して在りました。
和紙の表紙には最初のページの挿絵と同じ絵が墨で書いてありました。
もう、天にも昇る程の喜びを私は感じました。照れくさくて、ありがとう!も言えませんでしたが
側に寄るのも怖いと思っていた父の険しい顔が、見たことも無いくらい優しい顔になっていたのを
泣きじゃっくりしながらみたのです。
翌日から、少しづつ読みを習いはじめたのです。
漢字はとても難しくて、父が読みかなを付けてくれました。最初はイロハニホヘト...と
基準の読みを教えてもらい、全部覚えてから本の内容に移りました。
私の想像の世界は、読めるように成った事で何倍にも膨れはじめました。
物語の主人公の少女に成ったつもりにもなれました。
本を読みたいから、家事を一生懸命こなすようにも成ったのです。
なにしろ、電気が当てに出来ない所ですから、日が暮れるまでが本を読める時間なのです。
手抜きをしたりすると、その日は本を読ませて貰えなかったのですから。

此れがきっかけで私は、カタカナを読めるようになっていきました。
そして、入学の年、父の手から今度はひらかなの書いてある小学校の教科書を手渡されたのです。
丸みのある奇麗な文字に直ぐに興味が湧きました。奇麗な色の付いた挿絵がとても気に入りました
教科書を手にした時、父に読みを聞きました。でも、今度は教えてはくれなかったのです。
学校は教えてもらう為に行くんだから...と。楽しみはそれまでとっときなさい..みたいな事を
言われたのです。だから、私は、入学をじだんだを踏む程待ち望んだのです。
兄のお下がりの本がぴかぴかに光ってるように思えたのです。

入学の翌日、私のお下がりの教科書は、先生の訂正の朱色の文字で埋められた状態で
私のもとに返ってきました。読めるのを楽しみにしていた挿絵の部分のひらかなは
ぜんぜんちがう形のひらかなに書き換えられていました。
朱色の字の書いてあるページを習う時の国語の時間は嫌いでした。
みんなと同じ挿絵と文章のページを習う時は、暗記するほど予習をしました。
みんなと一緒に読み上げるのが大好きでした。
教科書の内容の不一致は、殆ど全部の教科にありました。
あ..そうそう..算数は同じだったように思います。でも、私は、計算が大の苦手だったんです。
いい年に成った今も変わりませんが..。

校舎は、高台の木造の平屋建てでした。
一クラス48名が学年ごとに二クラスづつの小さな村の小学校です。
校庭がとても広くって、校庭を仕切る土手の向こうには、ブドウ畑が広がっていました。
校庭にある遊具はブランコ、シーソー、のぼり棒、運テイ、鉄棒..広々とした校庭に
ポツンと見えるほどでした。校舎は一棟、真ん中が職員室でその隣りが校長室、それらの
両端に一年生〜三年生、四年生〜六年生というふうに教室がつづいていました。
当時は、まだ、完全給食ではなくて、脱脂粉乳のミルクだけの給食が週3日、コッペパンが
出る給食が残りの3日。だから、弁当を持っての通学でした。
でも、3、4年生頃には、ほぼ完全給食になっていきました。ミルクに縁のなかった生活環境
でしたから脱脂粉乳でも、私は、とっても美味しく思いました。好きでしたね。
級友が嫌がって飲まないのを貰って飲んだくらいですから。
給食は、私にとっては、贅沢なご馳走ばかりでした。家では食べた事のないメニューが
毎日食べられるのですから。だから、給食の無い土曜日は嫌いでした。

学校に通うのが大変でした。
遠いのです。夏は暑く、冬は凍結した馬車道や砂利道を霜柱を踏みながら延々と
歩いて行きます。車の少なかった時代ですから(村だけかもしれないけど)バスなんか
半日に一往復あったかな?夏の暑い土曜日の午後、家に帰り着く頃は頭がもうろうと
していました。身体の小さかった低学年の頃には、途中で体力が尽きてふらふらに
なっていました。身体が慣れるまでは、家に帰った後の家事の手伝いが出来ないほど
くたびれきって、夕食の途中で眠り込むのが日常だったくらいです。
冬の朝は、日の出と共に家を出なければ8時の朝礼の時間までに、学校に着けないのです。
手も足もかじかんで感覚がなくなるのです。寒くて、縮かんで歩いて、感覚に無い足が
道路の突起に躓いて転んだりしましたが、かじかんでいる手のひらを地面に打ち付けた時の
痛さといったら、声も出ないほどです。鼻が垂れてるのも感覚がなくて,鼻の下が真っ赤に
なってしもやけ状態でした。そして、しもやけで膨らんだ足に靴を履いて長い距離を歩かなくては
ならなかった時の足の痛さ...でも、暖まってくると痒くて、授業中あちこちで足をもぞもぞさせて
落ち着けなかった級友たちの多かった事。私もその一人だったんですよね。
教室には、石炭ストーブが置いてありました。寒くて冷たくて悴んだ身体が暖まった時
クラスの大半が、船こぎ状態に陥ります。私なんか、船こぎの常習犯でしたから、朝一番の
授業なんか殆ど記憶に留まってないですね。先生に良く頭をこずかれました。
それでも、眠ってしまった事もあったんですよ。
だから、当然のように期末に貰う通信簿の評価は..良いわけない。
先生からの通信欄には、毎回、「身体を丈夫にして頑張りましょう!寝た分だけ授業に遅れが
出ています。」なんて書かれていました。
本当に、遅れたままで中学生になってしまったのですから、後々苦労しました。


いじめっ子

私は、小さい頃から髪を三つ編みにしていました。
たった一枚の古い写真は、4.5歳くらいかな?..兄のお古を来ていた頃ですから、
格好は男の子だったんですが、はにかんで写っている私の左右の肩先に小さな三つ編みの
先っぽが見えました。
額が広すぎる私を心配した父が、母に私の髪を切り揃える事を禁じたと命じたとか。
ふわふわの髪をまっすぐにするために編んだのか、とにかく、初めて切ったのは15歳。
それまで一度も切らずに伸ばし続けていました。その三つ編みが、いじめっ子の目にとまったのです。
当時は子供を含め、大人にも虱が流行っていましたから、髪の長い子供は少なかったのです。
男の子は丸刈り、女の子は刈り上げカット&おかっぱ..というのがほとんどで、私のように
髪を編んだ子はいなかったものですから、目立ったのでしょう。

私の席は最前列で教壇の先生の机の直ぐ前でした。
(教壇というのは床面より階段一段分ほど高くなった場所で、その上に先生の机が在りました。)
先生が教壇の机で授業を始めると、私には先生の顔も見えず、声も上の方から聞こえるって
感じになります。当然、先生からも私は見えなかったと思いますが、そのことに気がついて
位置をずらせてくれたのは、入学後何日も経ってからなのです。
私の隣りの席の男の子は入学の時から目立っていました。
自分の廻りの子に、やたらとちょっかい出して、式の最中に泣かされた子がいたので覚えていました。
そして、その子のお父さんらしい大人が、その子を拳骨で叩いて叱ったのを見てしまいました。
その子は、とても大きい声で泣いていました。私は、偶然その場所に居合わせただけなのですが、
その子は私を見つけると泣くのを止め、小走りに近寄ってきて、いきなり蹴って来たのです。
その時、私に付き添っていた母は側に居なくて、母の手製のスカートが泥だらけになるまで
何度も蹴られました。私は、他人から暴力を受けるのは初めてでした。
驚きと、初めて着たスカートを汚されて泣き出しました。痛くて泣いたのではなかったのです。
泣き出した私を見て、その子は駆けていってしまいました。
でも、すれ違いざま三つ編みを思いっきり引っ張って「はいどーはいどー!」って言ったのです。
その言動が馬車を引く時に、馬にかける掛け声と手綱の振りである事を知っていました。
とても、恥ずかしいって思ったのです。泣いている私に母は何があったのか聞きました。
私は、どういう訳か理由が言えませんでした。
母が毎朝櫛を通し、丁寧に編んでくれる髪を悪戯に触られた事が許せなかったのか
初めて着た女の子の、自分だけの服を泥で汚された悔しさでいっぱいだった筈なのに
それを言葉にして母に伝える事が出来なかったのです。

入学当時の担任の先生は、女の先生でした。
私の髪を見て、みんなの前で可愛いと言ってくれた事が在りました。
ふっくら笑顔の、お母さん先生でした。みんな直ぐに好きになりました。
先生は、どの子にも同じように声をかけていました。一人一人に何かしら特徴を見つけて
いう先生でした。いじめっ子のその子も声をかけられていました。
殆どの男の子が丸刈りだったのに、その子は前髪が少し長い坊ちゃん刈りでした。
先生は、とても似合っていてかわいい髪型だと言ったのです。
そして、その後で私の三つ編みをかわいいと言ったのでした。

いじめっ子のちょっかいは、最初の授業の時から始まりました。
先生が黒板に近づくと、先生からは私とその子が見えなくなります。
鉛筆でノートに落書きをされたり、筆箱を床に落とされたり、時には、座ってる椅子を足で
蹴ったりします。座ってる椅子が少し高くて、足先が一寸しか床についていなかった私は
ガタガタと音を発てながら何度も座り直さなければならなかったりしました。
先生が、その音に気がついて「誰ですか?落ち着きが無いのは..。」と振り返ります。
でも、先生からは私は見えないのです。シーンと教室は静まり、みんなの顔は黒板の方に
向けられ、誰も何も言いません。いじめっ子の意地悪をみんな知っていましたから、告げ口が
出来なかったのかも知れません。
国語の時間でした。
ひとりひとり読む事になりました。私の番になりました。席を立って準備しかかりました。
すると先生は、私の隣りの女の子の方に向って、私の名前を呼んだのです。
いじめっ子はクスクス笑っていました。呼ばれた女の子はキョトンとしています。
私は、返事をして立ちました。先生は、この時やっと私の名前と顔を一致させたのです。
その日の放課後、席が並び替えられ、ほんの少しいじめっ子から離れられるようになって
この日を境に、私に間違えられた女の子は、ずーっと一緒に居てくれる仲の良い友達に成ったのです。
でも、いじめっ子の意地悪は止みませんでした。
小学校6年間同じクラスで、どういう訳か席が近かったのですからたまりません。
でも、学年が上がる度に意地悪の対象が私だけでなく、私と一緒に居る友達にも向けられるようになっていたのです。

6年生の夏休み、私は友達と村のでんぷん工場に向っていました。
途中にいじめっ子の家がありました。私の家より大きな木の門があり、その奥には
大きな茅葺屋根の母屋と白い塗り壁の蔵があり、広い庭の端っこに馬屋が見えました。
庭の真ん中に木の棒が立ててあり それには馬が一頭繋いでありました。
棒の先っぽが廻るようになっているのか、馬が棒を軸にして歩いていました。
野良仕事に出ていない馬を運動させるためのものだと友達に教わり通り過ぎかけました。
突然門の中から大きな声が聞こえました。呼び名に覚えが在ります。
いじめっ子が呼ばれているのです。私たちは、少し後戻りをして中の様子を覗きました。
以前見たことのあるおじさんが、怒鳴っていました。
いじめっ子が顔を見せると、おじさんは縄の束で叩き始めたのです。
いじめっ子は、黙って叩かれていました。私たちは、何か悪い事をしているみたいな気になって
急いで、そこから離れようとしました。
「なんか用事たいね!」後ろから声をかけられ、びっくりして振り返りました。
そこには、背負い籠をおぶったおばあさんが立っていました。
「***の友達ったい、中にはいらんとね。あーりゃあーまーた、とうちゃんに怒られとると.。」
おばあさんは、中のいじめっ子に声をかけてしまいました。
おじさんは、縄の束をいじめっ子に持たせて母屋に入っていき、いじめっ子は、とても驚いた
表情をしてこちらを見ていました。私たちは、困ってしまいましたが引っ込みがつかなくて
だまっていました。おばあさんは、いいました。
「あんこ(あの子)は可哀相たい..かあちゃんのおらんけん、したん子たちん(弟、妹のこと)
面倒ばみらなんいかんけん、ちっとん遊ばれんたい!」
私たちは、直ぐにいじめっ子の家を後にしました。
そして、何年も後になってその時におばあさんが言った事の意味が解るのです。

いじめっ子..彼には、成人してから、偶然逢った事が在ります。
彼は、田舎の旅館の板前になっていました。それも、意外でした。
彼は、農家を継ぐと思っていたからです。彼は、言っていました。
「あんたが羨ましかった..。あんたを泣かす事が学校に行く理由だった。」..と。
理由は聞かなかったけれど、その時に逢った「いじめっ子」は、普通の優しい父親になっていました


紙芝居

娯楽施設にも玩具にも縁のなかった子供時代ですが、退屈を感じた事はなかったですね。
何からも、遊びの道具を見つけました。
たとえば、家の廻りは自然ばかりですから木の葉、枝、草花、石、泥、砂利、そして、虫の色々。
雨の日はすりガラスに指で落書きすれば、指の跡が透けて外の景色が一寸違った風に見えます。
ガラスに目を近づけて見ているとだんだんと曇っていって、又見えなくなるのです。
そんな他愛の無い事が遊びになっていたのです。
木の葉を組み合わせて箱や船を作り、アルマイトの洗面器に水をはって浮かべます。
太陽があたると洗面器に反射して浮かべた木の葉の船がキラキラと光ってみえます。
水を揺らしてみたりして、船の動きに合わせて変化する光を楽しみました。
小枝は、泥人形の骨組みになり、Y字に形ある物なら布と自転車の古いチューブをつかって
ゴム弓(パチンコ)になります。木にぶら下がった柿の実や赤い烏瓜を的にしました。玉は、小石。
季節毎に咲く花や黄緑色の葉っぱは、石ですり潰し水に溶いて古い布を浸すと色々に染まるのが
楽しみでした。古い布切れの模様の色が変わって違うものになるのを楽しみました。
ただ、難点はありました。自分の手指も布の色になってしまうのです。
此れは、後で母にこっぴどく叱られました。数日は落ちませんでしたから..。

自然というのは、家の中に居ても虫(昆虫)が捕まえられるということなんですが、
例外なく我が家も昼夜問わず飛び込んで来ていました。
私は怖がりで虫は大の苦手でしたが、この虫のお陰で楽しい思いをした事が在ります。

年に何回か自転車に乗った紙芝居のおじさんが村に来る事がありました。
殆どが夏休みと冬休みの頃でしたが、村の集会所(村長さんのお家)に来るのです。
でも私の家は、その家からずいぶんと離れた所に在りましたから、逢うことも観る事も滅多に
ありませんでした。そのうえ紙芝居はお金を出さないと見られないと聞いていたものですから
自分たちには縁のないものだと思っていたのです。
そんなある日、村の友達の家に遊びに出ていた私の兄が、割り箸に絡み付けた水飴を
もって帰ってきました。箸先を互い違いに合わせてグルグルと混ぜまわすと、透明の水飴が
白くなっていくのです。砂糖さえ滅多に口に出来ない環境でしたから、水飴の甘さは、
例えようも無い美味しさだったのです。兄は、片方の割り箸に付いた水飴を私にくれながら、
虫と交換で飴やお菓子をもらった事、紙芝居を見た事などを話してくれました。
虫とは、かぶと虫やくわがた虫、玉虫等の昆虫の事なのですが、オスの虫だと小さいものでも
お菓子と交換してくれ、オスとメスの両方だとお金で買ってくれるのだと言っていました。
そして、おじさんが演じてくれる紙芝居の面白かった事を話してくれたのです。
私は、観たいと思いました。虫を捕まえれば観られると思いました。
何度かチャンスは在りました。
家に飛び込んで来ましたし、裏山に入れば結構見つけられるからですが、先にも書いたとおり、私は虫が苦手なのです。
折角捕まえても手で触れないのです。手に持った時動く感触が、気持ち悪くて我慢出来ないのです。
そのうえ、飛びはじめた時の羽音が怖くて駄目でした。
結局、一匹も獲れないままに月日が経ち、紙芝居のおじさんも来なくなりました。

翌年の夏の暑い日、私は熱を出して寝ていました。何日も続いた熱ですっかり弱っていました。
水を少し飲むくらいで何も食べていませんでした。
縁側の木の網戸ごしに 外の太陽の日差しを見るくらいで眠ってばかりいました。
目を閉じていると外の音が聞こえて来ます。風が木々を揺らす音、川の水の流れる音、
蝉の鳴く声に混じって鳥の声も聞こえます。私の看病をしていた父は水を汲みにでも行ったのか
家の中には私以外誰もいません。ウトウトと眠りかけていました。
ギーッツというような金属音がしたあと、縁側の網戸を開ける音がしました。
次に枕元で何か紙の擦れるような音がしました。
そして、額に手の平の感触を感じ私は、目を開けました。知らないおじさんが、顔を覗き込んでいました。
キョトンとしていると、「じょうちゃん!甘かもんもってきたけんな..元気にならんとね。」
そう言うと、枕元に置いていた紙のふくろから幾つかのお菓子を取り出して、
私の手に持たせてくれました。そのおじさんは、ぺたんこの帽子(たぶんハンティング帽)をかぶって
首に白い手ぬぐいを掛けて、白い襟の開襟シャツを着ていました。
帽子からはみ出している耳元に白い髪が見えていました。
おじさんは、父と同じように私の頭をクリクリと撫でると、網戸を閉めて行ってしまいました。
遠くに父の話す声が聞こえましたが、手に持ったお菓子の甘い匂いが心地よくて、
いつのまにか眠ってしまっていました。
後日、やっと元気になった私は、父にあの時のおじさんは紙芝居のおじさんだった事を聞きました。
紙芝居を見に行ってる子供の一人が、病気で死にそうになっている子がいると
話したらしく、それがきっかけで、子供好きなおじさんは私を見舞ってくれたという話でした。
私が、紙芝居を見られたのは、その年の冬の事です。
いつもは、村の方に行ってるおじさんでしたが、その時は家に近い神社の境内に来ていました。
冬日の暖かい晴天でした。
紙芝居の太鼓の音が風に乗って聞こえたのです。
音のする方へ行ってみました。家の側の橋を渡った所にある神社から聞こえます。
村の子供たちが、てんてんと集まってきていました。
数人の子供がおじさんの廻りに集まって、硬貨を手にお菓子の交換を待っています。
私は、子供たちの後ろの方でその様子を見ていました。お金を持っていないので
見せてもらえないと思っていましたから、何時おじさんに叱られるかと不安に思って立っていました。
子供たちの他にも小さい子供を背負ったおばあさんやおじいさんも来ていました。
太鼓を叩くのを止めてお菓子の交換が始まり、紙芝居の台が組み立てられると、一際
大きい声で「大変お待たせいたしました!正義の使者、黄金バット前編のはじまり〜!」
その声で子供たちの輪が大きくなり、私は自然に最後尾に追いやられる格好になってしまいます。
その位置からだと、大きい子供たちの背中に隠されて紙芝居の枠さえ見えないのです。
おじさんの声だけが聞こえるその場所で、少しでも見えないかと伸びをしていました。
するとおじさんが言ったのです。
「大きか子は後ろに立って、小さか子ば前にこさしてやらんね!こんままじゃ見えん子がおったいね!」
その言葉に子供たちの輪が崩れて、私を含めた小さい子が前にいくことが出来たのです。
おじさんは、私を見て、又、あの日のように頭をクリクリと撫で、一番見やすい所に
立たせてくれました。紙芝居は休憩のおしゃべりの時間を含めて、三本演じられたのです。
「黄金バット」「鞍馬天狗」「のらくろ」 おじさんの演技は時間を忘れさせてくれるほど
楽しいものでした。四角い絵の中の主人公が本当に話をしているように思えたのです。
おじさんは、それからも時々この神社の境内で紙芝居を演じてくれたのですが、いつも、
私は、前の位置で見る事が出来たのです。そして、紙芝居を終えて帰る時には、幾つかの
お菓子もくれたのです。あの甘い割り箸の水飴もその中に含まれていました。
そうこうしているうちに怖がりの私にでも、手に持たないで虫を捕まえる方法がわかり、
虫を交換にする事も出来るようになりました。

おじさんが紙芝居に来なくなったのは、私が9歳くらいの頃です。
夏休みのある日、壊れてギシギシ音を立てる自転車を引いて、父に修理を頼みに来たのです。
紙芝居の箱は乗せてありませんでした。転んだときに壊れたのだと言っていました。
おじさんも怪我をしていました。肩と腕の骨が折れたのだと言っていました。
白いギプスが重そうで、とても痛そうに見えました

おじさんの紙芝居の自転車は、片方のペダルが白い木で出来ていました。
おじさんが演じおわって帰る時、私は、いつも見送っていました。後ろ姿に片方のペダルの
白い色が目立って、遠くになってもクルクルまわるペダルの動きが見えました。
その白いペダルが壊れていました。半分に割れて残りの半分がぶら下がっていました。
箱の乗っていない自転車の荷台は頼りなげで、私の知っている自転車ではないように見えました。
何日か経って修理の出来た自転車を、知らないお兄さんが取りにきました。
おじさんの息子だと言っていました。おじさんは、怪我のために来れないのでした。
そして、父と話しているのを聞きました。
もう、紙芝居は出来なくなったから、荷台を変えて欲しいと言っていました。
おじさんは、とても重い怪我のために自転車に乗れなくなったのです。
おじさんの自転車は、荷台の小さい自転車に変わって返されていきました。
おじさんとも、紙芝居とも、白いペダルの自転車とも、あの甘い水飴とも逢う事がなくなりました。
私の虫嫌いは、今も治っていません。今は触る事も苦手になりました。

運動会


10月になると、忙しい農村にも少しばかりそわそわした雰囲気が目立ちはじめます。
運動会当日は、殆どの家が留守になってしまうほど毎年大盛況になるのは、村の小学校、中学校の運動会の出し物には、
赤ちゃんもご隠居さんも出る事になるからです。
普段、車の姿も見ないのどかな村でもこの日だけは、オート三輪の姿を見る事が出来た。
「ミゼット」そんな名前の三輪自動車だったと記憶しています。

早朝6時、周辺の山々にドーンドドーンとこだまして聞こえる爆竹の音。
この頃は、まだ、電話は普及してなかったですから、運動会開催の合図に、小学校或いは
中学校の校庭で爆竹が上げられる事になっていました。
数キロ周辺に散らばってる在学生宅に連絡し、村の全ての住民に運動会の開催を知らせるのには
いつも、爆竹が使われていました。
山の重なりに何段にもこだまし、村の端っこに位置する私の家にも その音ははっきりと聞き取れます。

母が前日から重箱に弁当を詰めていました。水筒にお茶が入り、みかんなどのおやつも
風呂敷き包みの中に包み込まれています。
正月以外で白いご飯のおにぎりを食べられる唯一の機会だったから、それだけでも嬉しくて仕方がなかったのです。
父が大きな荷台の運搬車(自転車)を庭先で手入れしていました。
母の作った重箱の弁当や敷物をその荷台に乗せて、村の入り口まで運んでいくことになっています。
大人二人、子供五人分の手弁当は手でぶら下げては歩けないくらいの大きな荷物になりましたし
朝7時頃には、兄たちはすでに学校に登校していましたから。
私も身支度を済ませ、いつもより早くに登校しました。初めての運動会です。
村の集会所周辺には、たくさんの人が大きな弁当の包みを持って集まっていました。
日常家に篭っている、おじいちゃんおばあちゃんがとても嬉しそうにしています。
「ふんこちゃん!ああたんとこん、とおちゃんな、どぎゃんしていくていうとんなはったね!」
(ふみこちゃん、あなたのところのお父さんはどうやって行くと言ってましたか?)
知ってるおばあちゃんが私に声をかけます。
「かあちゃんと自転車で荷物を持ってくるって言うとったよ!」
学校まで離れている村の人を、車の運転を出きる人が自動車を借りてきて、学校まで送ってくれる事になっていました。
私も、前の年までは両親と荷台に乗って行っていたのです。
車は、何処かの工事現場で使っているトラックだったり、幌付きのオート三輪だったりしましたが、
荷台に何人も乗り合わせました。デコボコの村道を走ると頭のてっぺんに響くほど揺れましたし、
おしゃべりしていると舌を噛んでしまいます。小さい子供は、無邪気に揺れを喜んでいましたが
弁当をしっかり抱えていないと転がってしまいますから、巧く乗っているのも結構しんどかったのですが
やはり私も楽しくて喜んでいました。

校門周辺の道路には、数珠つなぎに自動車が止めてあり、合間に馬車も留めていました。
車のガソリンの匂いと馬の匂い(馬糞)が入り交じっています。
止めた車の殆どが店開きの準備をしていました。
露天が出されるのです。広い運動場の外回りにもたくさんの露天が入っていました。
運動会は、学校も含め村の年一回だけの一大イベントみたいなものでしたから、たくさんの
露天が立ち並びました。それも村の人々には楽しみになっていたのです。
そして、運動会の会場である校庭も万国旗で賑やかに飾られ、縄の張って或る父兄席、来賓席は
隙間の無いほどになります。
父兄が揃い、在校生が行進の音楽に合わせて校庭の中心に整列しました。
校舎に添えつけたスピーカーの音が、近辺の山に木霊して聞こえます。
整列した列の後方で爆竹が上げられ、さあ、競技の始まりです。

低学年の徒競走、遊戯、マスゲーム、から始まり、借り物競争で借り物になったおじいちゃん
おばあちゃんが小さな手に引かれて走り、ゴール近くになると観客席から飛び出してきた人に
(殆どが走っている子供の親です。)背負われて走るひとまで出てきて競技審判の先生が
後ろから追いかけて..なんてひとこまに笑いがおきたりしました。赤ちゃんを車の付いた籠にいれて
走る競技では泣いて籠から出てしまう子の機嫌を取りながらの姿に笑いの渦が広がります。
私は、大きな長靴を履いて走る競技に出ましたが、選んだ長靴が大きすぎて走っては転びを
繰り返し、4着でゴールしました。
三着まで入ると鉛筆やノートが商品に出るのです。
並んで商品をもらっている級友たちを羨ましく思って見た思いが在ります。
そして、お昼近くになると観客も生徒も最高に盛り上がるリレー競技が始まりました。
私の兄たちは、この競技の常連です。村の卒業生OBも足自慢の父兄も先生も年齢に関係なく
男女に別れて走ります。午前中は予選です。
一番上の兄は短距離が得意でしたし、真ん中の兄は中距離、そして三番目の兄は長距離の選手
でしたから、父兄席の両親は廻りの人に羨ましがられたそうです。
当然応援にも熱が入ります。クラス別、地区別のリレーが終ると兄たちの出番です。
先に年齢別で長距離のスタートです。歓声が上がり父兄席の両親も立ち上がっていました。
生徒席のあちこちから選手を応援する声が上がります。
詰め襟の制服に高下駄を履き、長い襷を掛け、背の高さもある長いハチマキ姿の応援団が、
太鼓の音に合わせて手拍子と大きな声を張り上げています。
白、赤、青、黄色に別れた応援団の揺れるハチマキが奇麗でした。
「パーン!」発車音と共にいっせいに入場門から選手が飛び出していきます。
最後尾の選手が見えなくなったら、今度は、トラックを走る短距離のスタートが切られました。
黄色い歓声が応援席のあちこちから上がります。
歓声の後押しをするようなスピーカーの甲高い声が、山に跳ねかえって聞こえます。
土のトラックに足を滑らせて転ぶ選手、その選手に行く手を遮られてつんのめり転ぶ選手、
抜きつ抜かれつの接戦にテンションは上り詰めます。
アンカーを走る兄は、先を行く選手を捕らえ抜き、先頭でゴールを切りました。
父兄席の両親は興奮しきった満足げな顔をしています。
そして、今度はその興奮覚めないまま、中距離の組みが走り出しました。
中距離は、トラックを周回します。長身の兄は長い足を存分に使い走りぬきます。
苦しそうに表情を歪めながら走る姿に、普段大きい声を出さない母が大声で声援を送っていました。
父は、トラックの中にまで入り込んでの声援です。場内整理の生徒に制止されて張って或る縄の
内側に戻りますが、兄が近づいてくると又トラックの中に入っていってしまいます。
兄は二番手にバトンを渡しました。
最後の選手がテープを切る頃になると、スピーカの声が響き渡りました。
「長距離選手が見えてきました!拍手でお迎え下さい!」
学校の外に出ていた長距離の選手が入場門に入ってきました。
兄の姿は、なかなか見えません。先頭の二人が入って少し間があき、やっと兄の姿が見えましたが
真っ青な顔色でとても苦しそうにして走っていました。
観客がざわめき、ゴールまで役員が伴走しはじめました。
結局三位で入りましたが、その日は体調が悪かったのかゴールを切って、そのまま救護室に
運ばれていきました。その後兄は元気を取り戻しましたが、結局午後からの決勝には出られなくなりました。
兄の走った長距離は「駅伝マラソン」みたいなもので5000メートルづつを何人かで
リレーしながら(年齢で距離が違うみたいですが)村を一周して学校まで帰ってくる競技です。
この兄は、後に県の大会に(駅伝マラソン)出場するようになりました。

昼食は親子揃って食べますが、食べに来た兄たちはそれぞれに賞品を持っていました。
そんな兄たちを迎える両親の嬉しそうで誇らしげな姿を、賞品に縁の無かった私は、複雑な心境でみていました。
私は、白いおにぎりご飯の昼食に満足すると友達と露天を見てまわります。
ただ見てまわるだけでも結構楽しめたのです。
ビードロガラス細工で出来た可愛い小鳥。風船を膨らませ空気を抜くと音のでる笛。
竹とんぼの実演、細長い風船で作ったウサギや人形。
ゼンマイで動くミニチュアの玩具、蝋で作った動物。弓矢で当たり的の景品を落とすゲーム。
わたあめ、ポンポン菓子、麦せんべい、等など...。

運動会で競技する楽しさも多少はあったものの、賞品の取れない私には学年が上がるごとに
それは苦痛になっていきました。両親や知り合いの人々が兄たちの活躍を誉めたたえれば
たたえるほど自分の不甲斐なさを知る気がして、後に私は、競技とは関係ない係りをする事に
なりました。放送室の中で部員数人と運動会の進行に合わせて効果音やプログラム案内の
作業をしている方が数倍も楽しめたものですから。
でも、年々賑やかになっていく運動会を取り巻く環境は、東京オリンピックの開催された年の後
記録会...なんて名前に変って面白くないつまらないものになっていったのです。
私のように運動を苦手とする子供たちやOB、父兄にとっては、何の魅力も無い競技会(運動会)に
変っていってしまいました。
のどかな農村にも高度成長期という時代の流れが入ってきはじめた頃の話です。

煙草葉

たばこの葉っぱって見たこと在りますか?
私の居た村では、稲作の他に煙草の葉を栽培していました。
記憶があいまいなので、何月頃が収穫期だったかは書けませんが、たばこ苗の植え替えが
冬の寒い時期だった事は覚えています。

農家の庭の一角にビニールハウスのようなものが造られていて、10センチ四方の薄い木の箱に
一苗づつ均等に植えられて育てられます。葉っぱが二枚〜三枚出てきたら畑に植え替えるのです。
木の箱と同じ素材の薄い板を底板にして、10箱づつハウスから運び出します。
馬車の荷車に崩れないように木箱を重ねて乗せます。
植え替えの畑まで運ぶのですが其の作業は、農家の子供が手伝います。
私は、遊びの延長で友達の家で手伝うのが好きでした。
ハウスの中の苗床は暖かく、柔らかい土の香りがしました。
底の平たい箆型スコップで苗床を崩さないように荷台に移します。
私は、荷車に乗っていて友達と二人で木箱を重ねる仕事をします。
息を合わせてやらないと、木箱に歪みができ、苗の根がむき出しになってしまい、冷たい空気に
触れる事で、其の苗は成長が遅くなったり、腐ってしまったりするのです。
それでも時には、うっかり手を滑らす事もあったりして、友達のお父さんに注意を受けながら、
慎重に運び重ねます。
箱の高さが1メートルほどになると荷台の四方を畳大程の板で固定し縄で結わえます。
さあ、畑へ出発です。私と友達は、荷台の縁と車軸棒に足をかけて立ち、苗床の箱が
崩れないように見張ります。今の道路みたいに舗装された道路ではありませんでしたから
ガタゴトと荷台は揺れるのです。荷台が道路のへこみや傾きに合わせて傾く度に荷台を
固定した板を押さえました。小学生の私たちには、むちゃくちゃ重いのです。
歯を食いしばって、顔を真っ赤にしながら必死に押さえました。
友達のお父さんが、揺れの大きくなる度に「どうー!」と声を出します。
馬の手綱を引っ張り歩きを緩くさせるためです。
其の声を合図に私と友達は傾く方向に体重を移動させるのです。
ゆっくりゆっくり馬を歩かせるのも大変な作業なんだと、おじさんは笑っていいます。
でも、馬もおじさんの息遣いを感知してるのかと思えるほど素直に従っているのです。
長い時間をかけて、やっと畑に着くと私と友達は一寸の間休憩です。
へとへとに疲れました。

畑には、友達のお母さんやおばあさん、おじいさんが先に来ていて、荷車から苗をおろす作業をしはじめました。
暫くは友達と其の様子を見ていますが、おじいさん、おばあさんが疲れをみせてくると代わりました。
友達のお母さんが荷車から降ろした苗を友達と二人で畑に居るおじさんの所まで運びます。
おじさんは、苗を細長い箱型に掘った穴に丁寧に置き、底板を取りはずしていくと四方に土を盛り被せます。
薄い木の箱の枠をつけたままですから、私と友達とで其の箱の枠を外していきます。
折り箱みたいな作りの箱枠は、柔らかく盛られた土に埋もれていても抵抗も無く外れるのです。
広い畑に黄緑色の小さな葉っぱの頭が並び終えるのに、日暮れ近くまでかかりました。
全てを植え替えるのに3日ほどです。たばこの成長はものすごく早いのです。
学校の行き帰りに毎日畑を見ていましたが、それでも大きくなっているのが目にみえて
解るくらいでした。太い幹に大きな葉っぱが茂り始め、私の身長をゆうに越していました。
下葉や下草の手入れの手伝いをしながら、友達とたばこ畑で鬼ごっこをした記憶が在ります。
そのたびにおじさんに叱られましたが、ジャングルのように茂った大きな葉っぱを潜り抜けながら
走り廻るのは時間を忘れるほど楽しかったのです。

収穫の時も手伝わせてもらいました。
友達の家の人が、葉を大きさ別に落としていきます。
その葉を重ねて、茎の部分を20枚づつ藁で括ります。10束くらいになったら馬車に運びます。
家に持ち帰った葉っぱは、麻紐に均等の距離をおいて結び付け、納屋の天井近くに
下げて余分な水分を蒸発させます。数日の後、今度は、乾燥室に移し、カリカリになるまで
乾燥し続けるのです。葉っぱの乾燥の度合いが進につれ、たばこ独特の香りが乾燥室に篭りはじめます。
私と友達は其の中に入って遊ぶのが好きでしたが、身体にたばこの葉の匂いが染み付いて
お互いの両親に叱られてばかりいました。
ニコチンの害があったなんて知らなかった頃です。

小学校高学年の頃だったか、此れも記憶があいまいなのですが、たばこの葉の収穫時期に
イナゴが大発生した事が在りまして、友達の家のたばこも全滅しました。
学校からの帰宅途中、村の消防団の半鐘が鳴り響いたのです。
火事だとその時は思いました。暫く歩いていると農家の人があわただしくしているのに出くわしました。
煙も何もみえないのにどうしたのかと友達と話していると、友達の親戚の人に逢ったのです。
親戚の人は、友達に急いで家に帰るように言っていました。
「おどんが畑んが、いなごに食われとっとたい!」友達はそういって、畑に向いました。
私も、友達を追い畑にいったのですが、近くまで行くとわーん!というような羽音がするのです。
砂利を踏んでるような音もしていました。そして、火の付いた藁玉を何人もの大人の人が
振り回し始めると、ざーっと大きな音がし、一瞬空に雲がかかったように暗くなりました。
其の雲は、勢いよく自在に動きます。ぜんまいの解けるような音がします。
ぼんやりしていると、顔や頭に止まったりぶつかったりするものがいます。
髪の毛に絡まったイナゴが歯を立て始め、私は悲鳴を上げながら振り払いました。
ものすごい恐怖でした。虫の大嫌いな私の身体のあちこちにイナゴが止まっているのですから。
側に居た人が私に、野良着を頭から被せてくれ、暫くして、もう一度大きな羽音をたてて
雲の固まりになったイナゴは別の畑に移動していったのです。
友達の家の畑は、茎がボロボロになってしまうほどになっていました。
葉っぱは一枚も残っていませんでした。
呆然としたおじさんやおばさんが畑に座込んでいました。
おばあさんは腰が立たなくなっていたと友達に聞きました。全滅した畑は村中に広がっていきました。
空中散布で薬を撒いたりしたけど、間に合わなかったのです。
大きな網にかかったイナゴの集団をイナゴに食い尽くされた畑で焼いていたのを見ましたが
燻されたような匂いが風に乗り、村外れの私の家まで届いたのでした。
もともと貧しい農村でしたから、たばこ葉の全滅は何処の農家にも負担がかかり、それっきり
栽培されなくなってしまったのです。
私の記憶の中に大きな葉っぱの生い茂った畑の景観だけが残りました。

転校


13歳の2学期です。
深夜に両親の話す声で目が覚めました。
何かとても深刻そうな雰囲気が母の語尾の荒さで解りました。
翌朝、両親は何もいいませんでしたが、普段口やかましい母でしたから、
かえって何かあった事を思わせましたし、父も、険しい表情をしていました。
私は、いつもと同じように学校へ行きましたが、一日中そのことが気になっていました。

そして、夏休みまであと数日という土曜日、学年委員会で帰りの遅くなった私は、
暗くなったあぜ道を自転車で急ぎ、家近くの橋を渡り始めると、ぼんやりと向こう側に動く人影を
みつけましたが、それが母である事は直ぐに分かりました。
母は、私を待っていたようでした。
川下の変電所の灯かりは母の顔を照らし、表情がはっきりと解るほどになっています。
泣いていたのか、少し腫れぼったい目を細め、でも、笑顔でした。
「遅かったなあ..おかえり!!」母に促され自転車をその場に止めると、母は話始めました。
「おかあちゃんと3人、尼崎に行く事になったんや..。」
母は、父や兄たちと離れ、母と妹と私の3人だけでこの田舎を離れて暮らすことに成った
いきさつを淡々と話しはじめました。
「それで、何時引っ越すとね?」私の問いに返ってきた返事は、明日直ぐにでもというくらいに
急いだものだったのですが、とりあえず、2学期を終えたらという事になりました。
母と話している間は、妙に落ち着いていられたのですが、その夜布団に入ってから急に
何か凄い事に成ったんだという気がしてきて、色々な事が頭の中で空回りしはじめました。
学校の事、友達の事、そして何よりも尼崎に行ってからの生活の事、私は、この土地から出たことがないのですから。
でも、不安というより、未知の生活への期待の方が大きかったのでした。

翌々日の月曜日、登校した私は担任の先生に転校する事を伝えました。
急な事なので、びっくりしていました。話している私も気持ちに上ずった興奮が在って
しどろもどろになってしまいましたが、数日の間に両親のどちらかが学校を訪問する故を話したのです。
友達には、前日の日曜日に話してありましたから、私がクラスの教室に入った時には皆が知っていました。
普段仲良くない級友までが近寄ってきて、どうして転校するのかと聞いてきましたが、詳しい事は話しませんでした。
(此処の文章にも書きませんが、夫婦仲が壊れてないのに家族が別れて暮らさなければ
ならない理由というものを、他人に誤解なく伝えるのは難しいものだと思いますので。)
私には、いつも一緒に居た二人の友達が居ました。
夏休みに入ったら直ぐに転居し転校する事を伝えると、二人の友達は、直ぐには信じませんでした。
私の知らない両親の都合と、そうしなければならないいきさつを話し終えた時には、二人は泣いていました。
友達の泣く姿にその頃になって、やっと、寂しさが心を占めるように成ったのです。
でも、私は、父や兄達と此処の田舎に残る勇気は持てませんでした。
心の角に、町中の便利な生活を望む気持ちも在りましたし、新天地への憧れが強かったのかも知れません。
私は、育ったこの土地が好きでしたし、この地以外を知りませんでしたが
まだ、この年齢の頃は、本当の良さを知るに至ってなかったのだと思います。
夏休みに入ってからは、一日が早回しの時計のような勢いで過ぎていきました。
最初の登校日がクラスの皆と別れの日でした。
ひとりひとり、仲の良かった級友もそうでなかった級友もサイン帳にページいっぱいに
送る言葉を書いていてくれました。小さなプレゼントを手渡してくれた級友もいました。
口の悪い男子の級友が、普通に「元気で..おいがこつ、わするるな」何て言った言葉を
聞いた時は、知らなかった面を見たようで胸がキュンとなった場面も在りました。
そして、皆と別れた後、鞄の中にあった一枚の封筒に気がつきました。
それは、席が近くだった男の子からでしたが、とても物静かな雰囲気を持った子で
誰にも親切に接していましたが、とても成績の良い子で、何となく近寄り難い雰囲気も
兼ね添えていたのです。封筒を開けると押し花にしたしおりと二枚の便箋が在りました。
「君が好きでした。言葉がかけられなくて残念です。僕の事を心の角に残しておいてくれたら嬉しいです。
もしよかったら手紙下さい。***雄一郎」
この手紙を読み終えた時、涙がポロポロ出て止まらなくなりました。
近づけなかったけど、ちょっぴり憧れた男の子だったんです。

たくさんの想い出を置いて、引っ越す日がきました。
大きな荷物をぶら下げ、駅のホームに立ちました。
多くの人が同じように荷物を持ちホームのあちこちにいます。
時折、別のホームに入ってきた汽車の汽笛音が構内に響き渡り、真っ黒な煙と白い蒸気がホーム伝いに流れてきます。
私は、母から離れた場所から人の動きを眺めていました。
真っ白いシャツに帽子をかぶった駅員さんや、郵便袋を乗せた大きな台車を押している人、
身体の前後に荷物をぶら下げ、両手にも荷物を持った背中の曲がったお年寄り..。
大きな鞄を持ち、何人もの人に囲まれて握手をしている笑顔の学生さん。
一際目立つおしゃれな格好の団体さんは、新婚さんを取り囲んで、万歳を言っている。
うつむいて恥ずかしそうにしている若い二人が幸せそうです。
そばでは、ハンカチで涙を拭いているおばさんに、同じように涙を拭きながら言葉をかけている人が居ます。
他にも幅の広い肩掛けを首にかけ、弁当を売っているおじさんがホームのあちこちにいました。

そうこうしているうちに構内アナウンスで大阪行きの夜行列車の到着を告げる放送が流れはじめました。
ホームのあちこちで人々が落着きなくざわつきはじめました。
私は母のそばに行き、自分の持ってきた荷物を両手に持つと汽車の入ってくる方を見ていました。
遠くに汽笛が鳴り、煙が見え始め、汽車がホームに入ってきました。
止まった汽車に母は先に乗り込み、窓を押し上げます。
開いた窓から、荷物を入れるためでした。
最後の荷物を窓に押し込んだ時、何処からか私の名前を呼ぶ声が聞こえてきました。
声のするほうを見ると、汗を拭きふき、真っ赤な顔をした男の人が、セーラー服を来た生徒を数人連れて
走って来るのが見えました。その生徒の口から何度も私の名前が呼ばれていました。
担任の先生でした。そして、私の仲の良かった友達も一緒でした。
「まにあった!!お前、汽車の時間ばいうとかんけん、あせったばい!!」
先生は、私のそばに来ると息をきらしながら言いました。友達も口々に同じ事を言います。
発車前の呼び子が吹かれ、出発の構内放送が流れ始めました。
私は、乗降口に乗り込みました。先生と友達が近づいて包みを渡してくれました。
「皆の心が詰まってるから、くじけそうになったら開けて見るんだぞ!!」
その言葉を消してしまうように発車ベルのかん高い音が鳴り響き、蒸気を吹き出す音とともに
ゆっくりと汽車は動きはじめました。発車間際、しっかりと握手をしてくれました。
席に座って窓を開け、流れる外の景色を眺めながら、さっき渡された包みを開けました。
茶封筒に「君の好きな***より」とかかれ、中にはクラス皆が書いた私への作文が入っていました。
私は、母や妹に涙を見られるのが嫌で、包みを自分の荷物の中に仕舞い込みました。
1967年、私の想い出のあぜ道日記は、此処で終わりました。


マウンテン

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