父の回想より
防空壕の住人

子供の時育った家の近くに、戦争中に使っていた軍の防空壕がありました。
私は、昭和29年(1954)生れですが、私の記憶している限りでは
昭和32年頃だろうと思います、まだ、ゲートル姿の人がいました。
大陸(中国本土)、朝鮮半島から帰還した人が多かったようです。
殆どの人が終戦後も帰る場所の無いまま、数年も放浪してきたのだと聞きました。
私の父は、ボルネオ島、朝鮮半島、中国、ビルマ(現、ミヤンマー)に
初めての出兵から約13年余り派兵されていたらしのですが、帰還後も大変な苦労をしたそうです。

放浪してきた人達は、川に面した、その大きな防空壕にいつの頃からか住み着くようになりました。
私の記憶の最初の頃には既に存在していたのですから、たぶん、終戦直後からだったのでしょう。
父は、殆ど浮浪者同様に日々を暮らすその人達の世話をしていました。

現在のテレビドラマや映画の場面で見る、復員兵・・というのでしょうか、
ああいう服装の人達が家を訪ねて来ていました。
玄関前で、直立不動で敬礼をして、「○○曹長殿のお宅でありますか!!」
というように、大きな声で呼びかけられます。
其の声がすると、母は、何をしていてもすぐに対応しに、玄関に出向いていました。

私は、嫌いでした。
とても臭かったんです。汚くて、今思い出してもかゆくなるのですが
上着の襟の周辺やそこかしこに、しらみがいっぱい付いていて(見た事がありますか?)
其の人達が入った後のお風呂の湯に、垢や、しらみの死骸がいっぱい浮いていて
それを掃除するのが私の仕事でしたから、本当に嫌でした。

父は、彼らに酒を飲ませ、なけ無しのご飯を食べさせ、母親が手縫いした糊の効いた浴衣を着せ、
お客用のふかふかのお布団で寝かせていました。
彼らが寝てしまった後、彼らが身に付けていた服は、息を止めたくなるような匂いがし、
生地の色も分からない程汚れのこびりついた服や下着の洗濯をするんです。
当時、私の家には水道はありませんでしたから、家の前に流れる川に洗いにいきます。
手元の灯りは提灯です。

夏なら虫が寄ってくるし、藪蚊に刺され、冬なら水面が凍るほどの寒さの中
がたがた震えながら洗濯ものを足で踏み洗いしました。
石鹸の泡が出なくて何度も何度も洗います。
洗いおわったら、家の前庭で焚き火をおこし、服を乾かします。
朝、彼らが起きるまでに、すっかり奇麗にした服を枕許に置いておかないと
父親の叱咤を受けましたから、もう、必死でしたが、彼らは、大変歓びました。

彼らが出ていく時、父は、おにぎりと下着、シャツなどの替えをもたせました。
それらは全て、母の着物が化けた品々でした。
それに、家にあるだけのお金..。
私や母の仕事は、それからが大変だったのです。

客が帰った後の掃除はへきへきするものでした。
お風呂に入った後とはいえ、家中に蚤やしらみが飛散していまして、
それを駆除する事から始めなければなりませんでした。
先ずは寝かせた布団を川に架かった橋の欄干に干しにいきます。
50~60mの距離をリヤカーに乗せて布団を運びます。
舗装された道路ではなく、砂利道の轍のある道でした。
それも登り坂です。私の力などではビクとも動きません。殆ど母一人で押し上げていました。

昔の真綿布団は、重たかったんですね。高級な真綿ならもう少し軽かったのかもしれませんが・・。
当然、この布団も母親の手作りでした。お陰で、私も布団の簡単な打ち直し位は覚えられました。
欄干にかけた布団が落ちないように、たすきをかけて結びます。
そうしておいて、一旦帰宅して掃除です。

彼らの座った座布団を縁側に出し、彼らの使った浴衣を洗いますが
水を吸った布の重さは、私の力では引き上げられないほど重いものでした。
体力のありったけ、力のありったけを出して洗いました。

ある時、川の流れが早く浴衣にかかる力が強くて流された事がありました。
私も一緒にです。随分流されて猟師に助けられた時も
私は、浴衣をしっかり握っていたそうです。
其の浴衣がどんなに大切なものかを幼いさいながらも知っていたからでしょうね。
洗いおわった頃に母が来てくれ、二人で搾ります。
私は、持ってるだけなのですが、固く絞れてくると、私の手は空まわりします。
一生懸命力を込めて握っていましたから、いつも洗濯が終わった後は、手の平が真っ赤になっていました。
それが済むと、私は決まってお使いに出されました。

行き先は防空壕です。
そこには、たくさんの人が住んでいました。
其の当時は、なんでそんな所に住んでいるのかなんて、考えてみたことも無かったですが
終戦後せっかく帰還しても、家族が全員空襲で亡くなっていたり、行方知れずになってしまったりで
帰る家を無くしてしまった人達が、最終的に辿り着いたのがその防空壕だったようです。
身体の何処が無くなっていたり、目の殆ど見えない人、両足が無くて車のついた板に乗っている人
小さな子供を連れた家族らしい一家が筵で仕切られた部屋に居るらしく
中から赤ちゃんの泣き声が聞こえていました。
他にも暗い奥まったところに、筵で仕切られた部屋がくっつくようにして幾つか並んでいます。
炊事をする石でつくったカマドもあり、雨水の溜まったドラム缶もありました。
私は、中をのぞき込むようにして、朝まで居た人を捜し、父から預かってきた品物を手渡すのです。

私の父親は、そこに住んでいる人を世話していました。
父は、防空壕の中に風呂場を作り、床板を敷きました。
そして、古い布団や衣類、食器などを街の露天商や道端に破棄されてた不要品の中から
使えそうなものを拾ってきては、自分で綺麗に修理し、洗って清潔にしたものを
其の人達に与えていました。
其の人達の中には、戦傷者も何人かいたようでしたが、働けない人が殆どだったみたいです。
病気で寝ている人が常にいました。戦地でかかった病気だと聞かされていましたが、
私の父も、同じような症状の病気でよく寝込んでいましたからよく知っていました。
私のお使いというのは、其の病人さんに、お粥を持って行き食べさせてくる事だったのです。

私は、そこへ行くのは余り好きではありませんでした。
薄暗いし、いつもなにかしら生臭い匂いがして、蚤やしらみが、うようよしていました。
寝ている人の来ている服の襟の裏には、びっしりとしらみがはびこっていました。
着替えを持たされていましたので、それを渡し其の人の脱いだ服を、もって帰り、
また、川で洗わなくてはなりませんでした。

一人の傷痍軍人さんがいました。
其の人は、両足がありませんでした。
いつも、布でぐるぐる巻きにした足の無い下半身を車のついた板に乗せ、
木の棒を器用に操って動きまわっていました。
幾つくらいだったか、聞いていませんが、若い人だったように記憶しています。
その人は、笹船を良く作ってくれました。笹笛を吹くのが上手でした。
木又のパチンコを作ってくれて、鳥撃ちを教えてくれました。

私は、この人がいる時だけは、防空壕へいくのを嫌がりませんでした。
滅多に食べられない甘いコンペイ糖を貰った事もありました。
生まれて始めてバナナというものを食べさせてくれたのもこの人でした。
どうしてなのか解りませんが、この人以外はみんな嫌いでした。
もしかすると、程度は違ってもそれぞれが、病気や怪我を背負っていて
どの人の目つきもギラギラしていて恐かったのだと思います。
或いは、いつも、父の持って行く食べ物をあてにし、持っていかなければ
家にまで取りにくるのを、嫌がったのかも知れません。

うちは、半端な貧乏ではなかったのです。
なのに、父は、家族の食べるお米の半分を其の人達に与えていました。
母が一生懸命作った野菜や豆を与えていました。
お米を買うお金がなくなれば、母の着物が一枚ずつ
それに変わって行くのを知っていました。
母が夜なべをして、洗濯や縫い物をしていたのも知っていました。
だからかも知れませんね、小さい私の目には食べ物を貰いにくる人達を
卑しむ気持ちで見ていたのかも知れません。

草笛を吹いてくれる人は、街に出て物乞いをしていました。
この事を知ったのは、学校に行くようになってからでした。
先生が、其の防空壕に住んでいる人達は"乞食”をしていると
言ったのを、ひどく衝撃として受け止めたのを覚えています。

ある日の事、某保健所?(白衣を着た人)が防空壕にいた人達を、
幌の着いたトラックに乗せて何処かへ連れていってしまいました。
草笛の人もいっしょでした。
私は、先生の”乞食”と言う言葉を聞いて以来、防空壕へは行っていませんでした。
トラックを見送った時、ポロポロ泣いていたと母に聞きましたが、私自身では覚えていません。
だれ一人いなくなった後の防空壕は、長い間放置されていましたが
何時の頃からか、二組の子持ちの家族が住み着きました。
でも、今度は父は、何故かこの人達を嫌っていて、ちかづかないように厳しく言うのです。
後にこの家族が、私の家に忍び込んで来た時、父の言った意味が解ったような気がしました。

私が小学校5年生の時、一人の男の人が父を訪ねて来ていました。
当時、父は筑豊に出稼ぎに行っていて留守をしていたのですが
奇麗な身なりをした其の人が、泣きながら何度も母にお辞儀をしていたのを覚えています。
其の人が誰だったのかは、聞きませんでしたが、
あのときの防空壕の中にいた人だったのかな..と思ったりします。

私が知らないだけだったのかも知れませんが、トラックで連れて
行かれた人達は、全員、療養所に収容されたんだそうです。
でも、その後、退院した人で父に会いにきた人は、誰もいませんでした。
其の後、父からも母からも、其の人達の話題が出る事はありませんでした。

終戦後、日本は経済成長を遂げて豊かになりました。
でも、あの防空壕に住まなければならなかった人々は、
人間らしく生きる事も見失ったまま、戦後の10数年を生きていました。
防空壕の住人は、生き長らえる事そのものが、戦いだったろうと思います。

戦後70年を過ぎ、日本は繁栄の中に時代を積み重ねてきました。
そして、人々の心から繁栄した故に無くなったものも多くあるように感じます。
私は戦後生まれの世代です。
でも、繁華な町に縁のなかった地域で目にし、感じた子供の頃の風景は
決して忘れる事は無いでしょう。


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