健やかなるときも、病めるときも



 イェーガーくん、と声をかけられてエレンが振り返ると、そこには見覚えのある顔の女子が立っていた。特に会話らしい会話をした記憶はなかったが、おそらくはいくつかエレンと講義がかぶっているのだろう。どちらかというと大人しそうな部類に入る彼女がわざわざ自分に声をかけてきた理由を考えながら――まあ、何か用事があるからだろうが――口を開こうとして、エレンはこちらを眺めている複数人の存在に気付いた。おずおずといった様子でこちらを窺う彼女を遠巻きにして見物しながら、ひそひそと会話している。
 どうせろくなことは言っていないだろう、ああ、彼女は貧乏くじを引かされたのだな、とこの状況を分析しながら、エレンは内心で溜息を吐いた。
 状況が判った今、出来ることは迅速に彼女を解放してやることだ。

「――何?」
「えっと、あの、教授から伝言があって――」

 用件を聞いた後ありがとう、と短く礼を言ってエレンは踵を返した。背後で感じ悪ーいという声がしていたが、エレンはそれを無視して足を進めた。中にひとつ、気遣わしげな視線が向けられていたのを感じたが、それも無視した。

(今日は午後も講義あるからどこでメシ食うかな)

 学食や学校近くの飲食店で食べるといった選択肢はエレンにはない。自意識過剰と言われるかもしれないが、視線を終始感じながらする食事は落ち着かないからだ。

(まあ、人の噂も七十五日っていうし、同じ講義受けてる奴でもなければもう気にする奴なんていねぇだろうが)

 それでも、エレンがひとりでいるのを見て声をかけてくるものが出るかもしれない。それが厚意からくるものか面白半分な悪意なのかは別として。

(あーまた、外のベンチにするかな。人来ねぇだろうし)

 考えながら校舎の外に足を向けたエレンの服の裾をぐいっと引っ張るものがあった。

「はいはい、アウトな」
「あー……セーフになりませんか? 教授」

 その意見は却下されて、エレンは教員室に連行された。


 この季節に長時間外にいて風邪でもひいたらどうすんだ、との説教を受けながらエレンは持参したサンドイッチを口に運んだ。本日は夜半から雪がちらつく可能性があるとの天気予報通りに、最低気温はこの冬一番になりそうだった。この寒空の中、外で飲食を好んでするものはまずいないだろう。外に出なくても校舎内には飲食をする場所や談話スペースがたくさんあるのだから。

「あー心配しなくてもこれ食ったら図書室に行きます。外には出ませんって」
「よし、図書室まで一緒に行こう」
「本当に行きますって。レポートまだなのがあるんです。講義終わったらまた行きますし」

 それは嘘偽りのない事実だった。大学の図書室は参考資料や文献が多くあり、学生が気軽に利用出来る便利なものなのでそれなりに人は多い。だが、学食やカフェなどとは違って噂話をするような場所ではないので、エレンをあからさまに気にするものはいない。飲食をする場所ではないので昼食は摂れないが、エレンも人目を気にする必要が余りないので変わらず利用している。
 だが、相手は見送ることを曲げない様子でエレンは苦笑した。――いい人であるのだとは思う。寒空の下、一人で外で食事していたエレンを見つけて教員室へ連行し、健康管理について叱られたのがこうして話すようになったきっかけだ。その後、エレンが屋外で食事をしようとする度に見つかっては教員室に連行されている。

(あんとき食ってたのが栄養補助食品だったのもまずかったなぁ)

 そのとき指摘された通りにろくな食事をしていなかったのは確かなので、そこは反省した。エレンは決して料理が出来ない訳ではなく、むしろ上手だったし、作るのも好きであった。だが、このところ作る気にはなれなかったので、簡易なものですませていた。自家製の糠床だけはきちんと手入れしていたが。
 ――しなくなったのは単純にエレンがひとりになったからだ。

 エレンと血の繋がった両親が亡くなったのは彼がまだ小学生の頃だった。
 父親は腕が良いと評判の医師で、夫婦仲は子供の眼から見ても良かったと思う。
 ただ、父は医師という職業柄多忙で、家を空けていることの方が多かった。息子の授業参観にも来られなかったし、学校行事やイベントごとは母親だけで行うことが多かった。父親の職業は素晴らしいものであったし、多忙ゆえ仕方のないことだと理解していたが、明るくてしっかり者の母親が父親に「今年も結婚記念日を一緒に祝えそうにない」と告げられ、ふと寂しそうな表情を浮かべたのをエレンは見逃さなかった。
 だから、エレンは何が何でも来年の結婚記念日は祝ってもらおうと、それからコツコツとお小遣いを貯蓄した。
 そうして、母親が好きそうなレストランを調べ、そこで食事をするように二人に貯めていたお金を差し出したのだ。本当なら予約もエレンがしたかったが、小学生にレストランの予約は無理だったので仕方がない。
 二人きりで食事をという提案に、二人は三人で一緒の食事をと変更を申し出たが、エレンは首を縦には振らなかった。結婚記念日には夫婦二人きりの食事を楽しんで欲しいと思っていたからだ。
 まだ小学生の子供を家に一人で置いておけないと夫婦は難色を示したが、近隣の付き合いのある家でその日エレンを預かってもらうということで折り合いがついた。預かるといっても数時間のことであったし、お土産を買って帰るからねと笑う二人をエレンは見送った。
 ――事故の知らせがエレンの元に届いたのは、二人を送り出してから数時間後のこと。ブレーキとアクセルを踏み間違えた乗用車が歩道に突っ込み、両親を跳ね飛ばしたのだ。エレンは急いで両親が運ばれた病院に向かったが、すでに二人とも死亡していた。
 受け取った両親の荷物は袋いっぱいにつめられた息子への贈り物。エレンの欲しがっていたゲームソフトや玩具、好きなお菓子、似合いそうな衣類が子供への感謝のメッセージカードとともに届けられた。
 ――いつも寂しい想いをさせてすまない。
 ――最高のプレゼントをありがとう。
 ――今度は三人で一緒に行こう。
  エレンはカードを握り締めて泣いた。その言葉は直接両親の口から聞きたかった。プレゼントも何も要らない。両親が生きて傍にいてくれること以上に欲しいものなど存在しないのに。
 それからエレンは呆然として数日を過ごした。幼い子供の代わりに葬儀等は大人たちが取り仕切ってくれた。
 周りは両親を突然亡くした子供に優しくはあったが、同時に不用意な発言をするものもいた。
 ――本当に可哀相ね。イェーガーさん楽しみにされてたのに。
 ――エレン君からのプレゼントだって言ってね。
 ――え? じゃあ、あの子が間接的な原因になったってこと?
 ――よしなさいよ、あの子のせいじゃないでしょう?
 エレンが結婚記念日にレストランでの食事をプレゼントしたことを周囲の人間は両親から聞いていたし、事故当日エレンが近隣の家にいたことからも知られ、その結末までもが広く知れ渡っていた。事故がなければおそらくは微笑ましい話として終わるはずだったものを、人々は善意から始まった悲劇として口の端に上らせた。
 勿論、面と向かってエレンがそれを言われたことはなかったが、人々の噂話はどこで耳に入るかは判らないものだ。それによって子供がひどく傷つくということをもっと考慮していたら、そんな話など出来ないはずだったが、人とは噂話が好きな生き物なのだ。それが自分とは無関係なものであったら尚更だろう。
 自分がしたことで両親を死なせることになった――それはエレンの心に深い影を落とした。自分が食事に行くことを勧めなければ、あのとき三人で行っていたら、別の日にしていたら、車が歩道に突っ込んできさえしなければ――たらればは言ってもきりがないが、まるでいつまで経っても癒えない傷のようにじくじくと痛んでエレンを苛んだ。
 どちらかというと腕白で、家で大人しくしているより外で駆け回る方を選ぶ――そんなエレンが誰とも口を利かず、部屋に一人でいるようになり、今までとはまるで変わってしまった子供を周りは持て余した。誰もが可哀相にと同情はする。だが、引き取りたいとは申し出ない。『難しい子』と判断したエレンを受け入れるのは遠慮したいというのは明らかだった。
 エレンもそれは承知していた。両親が遺してくれた財産はいくらかあったが、例え養育費が入ったとしても子供が成人するまでの後見人はおいそれと引き受けられるものではない。何の覚悟もなく引き受け、持て余して途中で放り出すくらいなら、最初から引き受けない方がお互いのためだろう。
 引き取り手が見つからず、ぼんやりと施設に行くのだろうと思っていたエレンの前に、遠い親戚だという老夫婦は現れた。今は引退したが、父と同じ医師だったという夫はその職業もあって両親とは交流があったらしい。
 うちへおいで、とエレンの手を引いた夫婦は焦らずにエレンの心が落ち着くのを見守ってくれた。エレンが本来の自分を取り戻すのには時間はかかったが、そう出来たのは引き取ってくれた義父母のおかげだ。
 義母は明るく料理上手でエレンに「出来て悪いことなんて一つもないから」と、料理の仕方を丁寧に教えてくれた。和食好きな彼女のぬか漬けは中でも自慢の品で、糠床の手入れは日々かかさなかった。梅酒、梅干し、ジャム、と義母の手作りの品は近所でもちょっとした評判で、作り方を教えることも多く、おおらかで気さくな彼女は人付き合いも上手だった。
 義父は穏やかな気性の人で、口数は少ないがその分しっかりと言葉を届ける人だった。元医者という職業のせいか、落ち着いた口調が耳に心地よかった。盤上遊戯が好きで、囲碁、将棋、チェスなどを嗜み、特に将棋はどんなに対戦してもエレンは勝てた例がなかった。
 義母が得意の料理を作る音、義父が打つ将棋の駒の音、ころころと笑い合う声、あたたかい音の空間はエレンを癒した。
 エレンが二人の養子に正式になったのは中学に上がる頃だったが、その際に義父母は自分達の過去の話をしてくれた。
 ――私達は一度、親であることをやめてしまったの。
 義父母には二人の子供がいて、二人とも同じように愛し、慈しみ、育てた――つもりだった。
 ――でも、きっとあの子には違っていた。
 優秀な医師の姉と素行不良の弟。常に周囲から比較されて傷付いて壊れて離れてしまった心を義父母は取り戻せなかった。どうにか修復しようとしていたが、姉夫婦が事故で亡くなったときの弟の発言でそれはもう叶わぬと判ってしまった。むしろ、このまま傍にいてはもっと事態を悪化させてしまうだろう。だからこそ、ここで切り離すべきだと考えた。
 ――遅くに出来た子で、あの子を甘やかしていたの。可愛くて可愛くてね……。
 愛情で駄目にしてしまった愚かな親だが、それでも子になってくれるかという二人の手をエレンは取った。
 親を亡くした子供と子供を失くした親――代償行為だと言われるかもしれないが、エレンは自分を引き取り、癒し、慈しんでくれた義父母を愛した。
 本来の活発さを取り戻したエレンは中学校入学と同時に知り合った親友――アルミンとともに義父母に怒られたりもしたが、幸せな数年を過ごした。同級生と喧嘩したり、親友と遊び語り合いながら、高校へと進学し、将来は医師になることを目指した。
 このまま幸せに過ごしていけるのだと――そんな風に思っていた。
 けれど、運命はエレンに冷たかった。
 まず、最初に倒れたのは義母だった。体調が優れないという彼女に早めに病院に行くように忠告し、そのまま登校したエレンは下校前に彼女が倒れたことを知らされた。病院に直行したが間に合わなかった。
 義父はこの日朝から出かけており、家には義母だけがいた。心臓発作を起こして倒れた彼女に気付くものはなく、たまたま訪れた近所の家のものが異変を感じ発見するまで数時間放置された。救命措置は行われたが結局は助からなかった。
 エレンはただただ後悔した。何故、強引にでも病院に連れて行かなかったのだろう。何故、もっと前に異変に気付くことが出来なかったのだろう。何故、何故、何故――。
 エレンですらこうだったのだから、元医師である義父の後悔は計り知れないだろう。義母を亡くした義父は一回り老け込んだように見え、医師だったときの癖が抜けずに嗜む程度だった酒の量が増えた。
 ――じいちゃん、将棋やろう。
 萎れた花のように力を失くした義父を元気づけるため、エレンは彼が好きな盤上遊戯に誘った。
 ――エレン、ごめんな。
 ぱちん、と駒の音が響く中、ぽつりと義父が零した。
 ――じいちゃん、弱くてごめんなぁ……。
 遠くを見るような視線の先には――実際には義父の座っていた場所からは見えないのだが――義母が作った家庭菜園がある。義母が丹精込めて育て上げた野菜達は姿を変えていつも食卓を賑わせていた。彼女が逝ってしまってから手入れされることのなくなったそこは今は荒れてしまっているけれど。
 ――じいちゃんは強いよ。オレ、今も勝てねぇし。
 震えそうになる声を抑えて将棋の話にすり替えると、義父はそうか、と小さく笑った。
 その後まもなく義父の身体から悪性の腫瘍が見つかり、数箇月の闘病の末彼は義母のところへと旅立った――。


「ねえ、そこのあなた、もう終了時間なんですけど」

 声をかけられてエレンは顔を上げ、周りに誰もいないことに気付いた。

「ああ、すみません。今片付けます」
「ゆっくりで構いませんよ。たまに夢中になって時間に気付かない人いますから」

 だから慣れてます、と笑う彼女はこの図書室の司書だ。大学の図書室の終了時間は十八時で、講義後もう一度ここを訪れたエレンは集中するあまり閉室の時間になったのに気付かなかったようだ。幸いほぼレポートはまとまっているのでこれを綺麗に清書して提出すれば問題ないだろう。手書き指定のレポートは綺麗に読みやすく書く――見栄えも大事だ。
 片付けを終え、すみませんと再び頭を下げるエレンに彼女は笑った。

「そんなに気にしないで大丈夫。でも、余り集中しすぎるのも良くないわよ。あなたのお友達も心配していたから」
「――友達?」
「頼まれたの。集中しすぎると周りが見えなくなることあるから声かけてあげてくださいって」

 いいお友達ね、と笑う彼女にエレンは曖昧に笑って返した。そんな風に気にかけてくれるものの心当たりは一人しかない。

(もう、オレのことなんか構わなくていいのに……アルミン)

 義父の葬儀の後、エレンは自分の義理の甥だという青年に会った。自分より年上の甥というのは凄く変な感じがしたが、彼が持参した書類からそれが事実なのは確かだった。義父母と血の繋がった孫――彼の父親はすでに他界しており、他に兄弟もいないというから近親者はおそらく彼のみだろう。
 縁を切ったと言っていた息子の子がどうやってここを知ったのか判らないが、孫に手を合わせてもらえたら義父母は喜ぶかもしれない。そう思ったエレンだったが、青年の口から出てきたのは遺産は全部自分のものだ、養子の分際で遺産を横取りしようなんて図々しい、だった。
 養子になったのもどうせ遺産目当てだったのだろう、高齢者に取り入って早死にさせようとしたんだろう、と聞くに堪えない暴言を吐かれ、この家は売り渡すと宣言され、エレンは彼には遺産を渡せないと思った。エレンは遺産が欲しかった訳ではない。義父母は確かに裕福であったが、エレンが彼らの養子になったのは裕福な家庭だったからではないのだ。義父母の血縁者が名乗りを上げ相続の権利を主張してきたとしても、彼らの死を悼んでさえくれたのなら、エレンは遺産を渡すことに躊躇はなかった。だが、彼は駄目だ。
 正式に弁護士を立てて話し合いを行ったが、会う度に吐かれる根も葉もない暴言のいくつかはエレンの心の傷を抉った。
 ――金目当てじゃないって? 医学部の金全部出させたんだろ? ジジイのコツコツ貯めた金使ったんだろ? 実の子でもないくせに。
 ――ババアが死んだのだってあやしいだろ? 最後に会話したのこいつだっていうじゃねぇか。
 ――医学部なのにジジイの病気にも気付かなかったなんてなぁ。
 ――こいつの本当の親の事故の原因、こいつだって聞いたぜ?
 ――疫病神って本当怖いなぁ。ああ、死神の間違いか。
 青年の放った言葉は知らぬ間に近所に広まっていて、エレンは遠巻きにされるようになった。義父母は近所付き合いが良かったが、エレンはさほど付き合いがあった訳ではない。成人後もここに住み、家庭を持つ身になればもっと親しいものも出来たのかもしれないが。近隣にエレンと同年代の子供は少なく、エレンも特に親しくしていた訳ではなかったから孤立した形になった。
 勿論、近隣のものが青年の言うことを丸ごと信じた訳ではないだろう。むしろ、あの甥を胡散臭く思っている方が多いに違いない。彼らがエレンを遠巻きにしたのは虚言を信じたからではなく、どうにも裏側の住人と関わり合いがありそうなものと遺産相続で揉めているからだ。下手に首を突っ込んで自分も巻き添えを食らって嫌がらせや脅しを受けたら堪らない――そう考えたなら近寄らないようにするのも当然だ。
 義父母のどちらかが生きていれば力になってくれたかもしれないが、身内ではなく他人のエレンにそこまでしてくれるものはいなかった。いや、いたのかもしれないが、エレンは助けを求めなかった。ずきずきと刺さった棘がそれをさせなかった。
 義父母の家を売り払いたかった青年は、エレンを孤立させ家に居辛くなるように仕向けたのだろう。周りからの視線に負けて出ていくことを期待したのかもしれないが、それに失敗した。――そして、噂は大学にまで及んだ。
 噂がどれだけ無責任なものかはエレンは身をもって知っている。本人の知らぬところで勝手に広がっていくのだ。ネットで拡散されなかっただけマシといえよう。

 ――なぁ、イェーガーの噂知ってるか?
 通りがかりに耳に入った言葉に、またか、とエレンは溜息を吐いた。声の主はエレンが近くにいることに気付かずに噂話を続けている。
 本当に殺したのか、殺したのならどうやったのか、本当ならばれないはずがないだろう、実はもう警察が動いているんじゃないのか等々、他人事だからこそ楽しそうに話せるのだろう。
 実際にエレンは自分でもあやしいとは思う。両親は事故死、養子に入った先は裕福でその後義父母は相次いで病死、どちらとも息子であるエレンがその遺産を手にした――世界の衝撃の事件簿とかそういった感じのタイトルがついた番組でやりそうな内容だ。
 彼らの話を否定しに入る気はなかった。どうせエレンが否定してもしなくても好き勝手に話すということは判っていたから。
 そのまま通り過ぎようとしたエレンの足を止めたのは、彼らの話に割って入ったものの声。
 ――エレンがそんなことする訳がない。
 抑えているがどうにも怒りが滲む声で噂話に興じる彼らにそう告げたのは親友――アルミンだった。
 アルミンは義父母が亡くなった後も変わらずエレンの傍にいてくれた。根も葉もない噂が広がっても離れず、心無い言葉を投げかける人達からエレンを守ろうとしてくれた。アルミンだけではない、他にも噂を信じないものはいた。エレンを信じてくれる優しい人達に縋れば、楽になれるのかもしれなかった。だが――。
 ――何だよ、冗談だろ。ムキになんなよ。
 ――っていうか、こいつあいつと友達なんだろ? 実はグルなんじゃねぇ?
 ――保険金分けるから手伝ってくれとか? いくらもらった?
 どうやら彼らは目の前にいる親友にターゲットを変える気らしかった。反応する相手がいた方が面白いと思ったのかもしれない――エレンの目の前で話されたとしても本人は無反応であったが。
 アルミンがそれに返す前に、エレンは彼らの前に姿を現した。
 ――人の話は本人が聞いてないとこでやれよ。
 驚く彼らの前で顔を作る。感情が表れないように。
 大丈夫、やれる。自分はひとりでも大丈夫。
(だから、もういいんだ、アルミン――)
 ――それと、そいつは関係ない。便利だから一緒にいただけで別に友達じゃねぇし。
 そのまま踵を返す。エレン、待ってという声が聞こえたが無視した。
 このまま離れたらアルミンは気にするかもしれない。親友はきっとずっとエレンのことを心配するだろう。でも、これ以上一緒にはいられなかった。
 親友に迷惑をかけたくないとか、巻き込みたくないとか、そんな綺麗な理由だけではない。
 ――金が欲しくて病気なのを知らない振りしたんだって。
 ――元々、遺産目当てだったんだろう?
 ――あいつの両親、あいつが原因で事故ったんだってよ。
 ――無理矢理遺言状書かせたらしい。
 ――あいつに関わるやつ皆死ぬって本当?
 それは全くのでたらめであったが、言われ続けていくうちに本当のことのような気がした。自分が原因で人が死んでいっているような気がした。
 ――あの子のせいじゃないでしょう?
 あのとき、誰もエレンのせいだとは言わなかった。言わなかったけれど。
 癒えるのを待っていた傷の瘡蓋を無理矢理に剥がされたみたいに、じくじくと痛んだ。


 綺麗に書き上げたレポートを前に、エレンは深く息を吐いた。

(そろそろ帰らないとな)

 図書室から出たエレンはお気に入りの喫茶店に足を運んだ。大学からも家からも微妙な距離があるここにはエレンを知るものはまず訪れない。訪れたとしても入口から死角になっている席にいるエレンには気づきにくいだろう。居心地が良く、長居をしていても嫌な顔をされないので、ここに仕事を持ち込んで作業する常連も多い。エレンもその常連組に入るのかもしれない――学生の身なので毎日通うという訳にもいかなかったが、レポートや試験前の勉強などはここですることが多かった。図書室は便利だが十八時以降は利用できないので、終了後や休日などはここを訪れていた。
 試験勉強など家でやればいいと言われそうだが――エレンはひとりで家にいるのが好きではなかった。
 あの家は静かすぎるのだ――いや、静かになってしまったというべきか。
 義父母が存命の頃に当たり前のようにあった生活音が一切しない空間にいると、否が応でもひとりになったことを痛感する。煩わしくない程度の音がするここがエレンには心地好かった。

(寒……)

 喫茶店を出ると外気が肌を刺した。少々遅い時間だが、どうせ家に帰っても風呂に入って寝るだけだ。面倒なら朝にシャワーを浴びればいい。
 天気予報は当たったようで、ちらちらと白い結晶が降り出してきた。家路を急ぐのが当然だが、エレンはそうしなかった。何故、と問われても何となくとしか返せないが――視界の隅に何かが過ぎったというか、奇妙な違和感を感じて暗がりに足を進めたのだ。
 薄暗い路地裏の奥に『それ』はいた。
 ここで正気ならそれには関わらずに逃げたであろうし、常識が働いたなら通報したであろう。深い深い闇の中に溶け込むように、それは呼吸すら悟られないように静かにそこにいた。エレンが気付いたのは本当にたまたまだとしか言いようがない。それくらいにそれは気配を感じさせなかった。背を壁に預け、俯いて座っているので顔は確認出来ないが、成人男性だろうと推定した。
 人通りのない路地裏で身を潜めるようにして座る成人男性――体調が悪いのか、怪我でもしているのか。この時代に携帯電話を持っていないとは考えられないし、持っていないとしても近くに二十四時間営業の店や民家は存在する。具合が悪ければ助けを求めたり身内と連絡を取ってもらうなりすることは出来るだろう。それをしないということは出来ない事情があるのだろうか。
 酔っぱらって意識を失ったようには見えなかった。近くに寄ってみて確認しないと断定は出来ないが、ただの酔漢ではないだろう。一歩、一歩、彼に近付いていく。進めた足が深い闇に呑み込まれていくような奇妙な感覚だった。

「あ、まだ生きてる?」

 余りにも動かないから死体だと勘違いするものもいそうだ。近付いてみても、やはり酒精の臭いはしない――代わりに漂うのは血の臭いだ。暗がりなので判りにくいが血液が衣服に付着しているようにも見える。自分が近付いてきたのにも声をかけてきたのにも気付いているはずなのに、何の反応もないのは放っておけという意思の表れなのかもしれない。
 関わり合いにならないのが身のためだと誰もが考えるだろう。人道的に考えるなら救急車を呼べばいい。だが、エレンはそれをしなかった。

「なぁ、まだ生きてる? 返事しねぇなら警察呼ぶけど」

 警察という言葉に反応したのか、男が顔を上げた――瞬間、一対の灰青がこちらを射抜いた。
 深淵の底から覗かれたような――闇の生き物に喉笛を押さえられた、そんな感覚。死を前にした野生動物より獰猛で、氷よりも冷ややかなその視線。
 彼はエレンが予想していた通りに――いや、それ以上に昏い場所に棲んでいるものだ。こびりついているのは血の臭いではなく、死の臭いだ。死を相手に齎し、自分もまたいつ死が訪れるか判らない、そういった世界の住人。
 勿論、この推察はエレンの勝手な印象であって実際は違う可能性もある。ただ、エレンはそういう人が良かった。

「……うるせぇ、放っておけ」

 低い恫喝はエレンを追い払うためのものであろう。自分よりも一回りくらい年上に見える、小柄ではあるが、鍛えられた体躯をしている男性。美醜にはこだわりがないエレンだが、男の顔立ちは整っていると思う。
 エレンが見たままの状況を話し、更に自分が想像した男の身の上を話すと、だからどうしたという顔をされた。そう思ったのなら何故関わろうとすると指摘され、エレンもその通りだな、と内心で頷く。

「イヤ、だから、いいかなーと思って。すぐ死にそうならオレが拾っても構わないじゃん」
「はぁ?」
「だから、オレが拾って帰ろうと思って。オレの家近くだから、手当も出来るし、渡りに船だと思わねぇ?」

 ひょっとして自分は良くても自分の家族に通報される懸念があるのだろうか。それならば心配はない。
 エレンはひとりだ。これからもひとりだ。ひとりでなければきっと、彼を拾おうとはしなかった。

「あ、オレ、一人で暮らしてるから、家族とかに通報される心配ねぇよ? 更に、オレ、身寄りもないし、いなくなっても心配する奴いねぇからあんたには好都合だと思うけど」
「……凄い胡散臭い話だな。頭がいかれているとしか思えねぇ」
「胡散臭いのはお互い様だろ。どっちにしろ、あんた、このままだとやべぇし、死ぬ気がないならオレの家に来た方がいいと思うけど」
「…………」

 この提案のメリットとデメリット、天秤にかけておそらくはメリットの方に傾いたのだろう。ほんの少しの間の後、彼は諦めと呆れが混じった息を吐いて、お前の家はどこだと訊ねてきた。

「すぐ近くだから、ついて来ればいい。あ、オレはエレン・イェーガー、大学二年生でまだ十九歳のぴちぴち。おっさんは?」
「おっさんじゃねぇぞ、ガキ。……名前は教えてやらん」
「ケチくさいな。じゃあ、何て呼べばいい?」
「何とでも」

 いくつかのやり取りの後、男は兵長と呼べと言ってきたのでエレンは頷いた。きっと本名は教えてもらえない。それでいい。
 彼ならきっと言われない。彼が死ぬならそれは彼の事情で、自分は関係ない。自分のせいではない。自分と関わったからではない。自分が原因じゃない。――そういう人が良かった。
 お前のせいで死んだのだと、そう言われない人間なら誰でも良かったのだ。
 ――こうして兵長とエレンの同居生活は始まった。


 ピピピッというアラーム音にエレンが瞼を押し上げると、至近距離に男の顔があった。ぼんやりとああ、兵長の顔だな、と思っているとアラームの催促にあって止めようと手を伸ばす。が、がっちりと抱き締められていて中々抜け出せない。
 起こさないように気を使いながらエレンはどうにかして拘束から抜け出し、アラームを止めて息を吐く。毎度一緒に、それも抱き締め合って眠っている、などとは人には言えないな、と思う。今のエレンにはそれを話す人もいないけれど。
 拾ったのはエレンだし、犬だと言い出したのもエレンだが、本当は犬ではない成人男性と抱き締め合って眠るのも、毎日キスをするのも――何なら舌を絡めた深い口付けも交わしている――常識的には考えられないだろう。エレンもこれが普通ではないと承知している。
 ただ、キスされるのも抱き締められるのも嫌ではなかった。キスに驚きはしたが、抱き締められるのは心地好い。おそらく、自分は人のぬくもりに飢えていたのだろうと思う。男は拾ってみたらあたたかくて優しくて居心地がよかった。傍にいて欲しくて、離れたくなくてずるずると引き留めて現在に至る。
 そっと胸に顔を押し当ててすりすりと頬擦りをする。あたたかい体温と心音が眠りを誘ってくるが堪える。
 手を伸ばして男の腹を摩ってみる。感触は固い、の一言だ。服の下には引き締まった体躯があって、その見事な腹筋にエレンは惚れ惚れする。何事も身体が資本であるし、エレンも一応軽く鍛えているつもりではあるが、男のような見事な腹筋ではない。人前で見せるために作られた筋肉ではなく――それはそれで立派だと思うが――実際に使うために鍛えられた肉体だ。性的な意味ではなく、エレンは男の身体が好きだった。

(だって、割れた腹筋はいつでも男の憧れだし)

 エレンの腹筋だって一応割れてはいるが、自分の腹を摩っても楽しくはないし、男程凄くもない。エレンがその腹を触り続けていると、オイ、エレン、とすぐ傍から声がした。起こしてしまったか、とエレンは慌ててすみません、と謝罪した。

「触られたから起きたんじゃねぇからそこは気にしなくていい。ただ、そんな風に触られると困る」
「あ、すみません、ベタベタ触って。兵長の腹筋凄くてつい……」

 触りたくなるんです、と素直に告げると男は眉を寄せた。その様子にやっぱり勝手に触っちゃダメだよな、とエレンがしゅんとしていると、男はそうじゃねぇと宥めるように頭を撫ぜた。

「そんなに触られると勃つ」

 言葉の意味が一瞬判らなかったエレンは止まり、意味を理解してまた固まる。

「えーと、朝だからですか?」
「そうじゃねぇ。お前にそんな風に触られたら勃つ。朝じゃなくてもだ。したくなるからやめろ」

 したくなるのが何なのか言われずとも判った。文脈から推察できるし、以前にはっきりとしたいと言われている。
 ここでセックスしたいんですかとは訊かない方がいいだろう。
 したいかしたくないのか、と問われたらしたいとは思わないと答えるだろう。
 ただ、してもいいかと問われたら頷くだろうとも思う。
 初めてしたいと言われたとき、それで男が傍にいてくれるのならエレンはしてもいいと思った。この身体に欲情するというのが理解出来なかったが、それでこのぬくもりを失わずにすむのならと。
 思えば、それは男にとても失礼なことだ。自分の身体で男を買うということなのだから。

(兵長は何でここにいてくれるんだろう)

 引き留めたのは自分だが、怪我も癒えた現在では男がここにいる理由はない。むしろ、厄介ごとに巻き込んでしまった。
 ――エレンの義理の甥であるあの青年はあれから姿を見せなくなった。アルミンも大学に通っているし、遠くから様子を見た限りでは元気だったのでそこは安心した。どのようにして問題を解決してくれたのかはエレンは知らないし、男は教える気はないのだろうと思う。
 多分、もうメリットと呼べるものは殆どない。エレンは断ったのだが、きちんと生活費も入れてくれている。
 飼い犬になってくれると言った。最後まで一緒にいてくれると言った。死ぬときはひとりにしないと言った。エレンンが理由で死なないと言った。
 エレンにとって最大の誘惑をした男の真意は判らない。

「――気にするんなら、お返ししてやる」
「え? うひゃあ」

 黙ってしまったエレンを何と思ったのか、男はかぷりと首筋に噛み付いた。
 勿論、噛み付くといっても甘噛みだ。じゃれつくようにかぷかぷと歯で遊んで感触を楽しむように口を動かしていく。

「へいちょ、くすぐったい、です。……んぁっ!」

 ぬめった感触にエレンは思わず高い声を上げた。柔らかく湿ったそれは――男の舌だ。首筋を這うその感触に、エレンは震えながら再び声が出そうになるのを耐えた。噛み付いて舐め上げて確認する赤ん坊のような行為だが、男は当然乳幼児ではない。吸血鬼でもなければ猟犬でもないはずだ――犬とは言っているが。これはいつまで続くんだろう、お返しと言うからには自分が男の腹筋を触っていた時間くらいだろうか。
 エレンがそんなことを考えていると唐突に男の口が離れた。そのままぽすん、と男の頭がエレンの胸にうずまる。

「兵長?」

 そのまま動かなくなった男の頭に手を伸ばしてエレンはその髪を撫ぜた。よしよしと子供をあやすようにその手が何度も往復する。

「……何してる?」
「えーと、甘えたいのかと思いまして。犬はじゃれつくときに甘噛みしたり、舐めたりしますから」
「甘やかしてくれるのなら全力で乗るが、今のは――少しまずかった。お前が嫌がらないから調子に乗った」
「嫌じゃなかったですよ? くすぐったくはありましたけど」
「――そういうとこだぞ、お前」

 胸の上で息を吐かれ、エレンはそれがまたくすぐったくて少し笑ってしまった。男は犬ではなく獰猛な獣で、その気になればエレンの喉笛を簡単に噛みちぎることが出来るのだろうが、怖いとは思わなかった。きっとこの猛獣はエレンを傷付けない。例え、噛み殺されるときが来たとしても、痛みも感じさせずに優しく殺めてくれると思うから。

「……具体的にどうやって甘やかしてくれるんだ?」
「そうですねぇ。朝食のリクエストを受けるとか?」
「お前の作るものは旨いから何でもいいぞ?」
「それが一番困るって言いませんでしたっけ?」
「何を作るつもりだったんだ? 今から変更も面倒だろうから、今日はそれでいい」
「卵焼きは作るつもりでしたけど……甘いのとしょっぱいのどっちがいいですか?」
「だし巻きがいい」
「了解です。味噌汁の具は豆腐です」
「ネギも入れろ」
「はい。だし巻きには大根おろしつけて……あ、夕飯はぶり大根でいいですか?」
「……エレン」
「はい」
「腹が減った」

 では、朝ご飯作りますね、とエレンはくすくすと笑った。


 ふんわりと焼き上がっただし巻き卵を巻きすにのせて形を整える。だし巻き卵は普通の卵焼きと比べると難しく感じるかもしれないが、コツさえ掴めば綺麗に作れるようになると思う。今は電子レンジで簡単に作れるレシピもあるが、エレンは義母に教わったやり方を貫いている。本日はシンプルなものにしたが、明太子やしらす、ネギや大葉、紅しょうがなどを入れても美味しい。

「見てて面白いですか?」

 だし巻き卵を切りながらずっとこちらを見ていた男にそう訊ねると、首を縦に振られた。厨房が見える飲食店に行くとつい眺めてしまうからそんな感じなのかもしれない。

「はい。一つだけですよ?」

 一切れ箸で摘まんで男の口元にまで運ぶと、男はぱくりと口を開けて受け取った。

「旨い」
「良かった。今日のぬか漬けは胡瓜とかぶです」

 ぬか漬けは以前と変わらずに自家製だ。義母の糠床は半分以上駄目になってしまったが、使える分を掬って糠を足し、また漬けられるようにしたのだ。
 あの日、家が荒らされたとき、ひとりだったらきっとエレンは駄目になっていた。男が泣いていいといってくれて、抱き締めてくれたから今現在のエレンがある。

(ぽかぽかする)

 男から差し出された優しさはいつだってエレンの心をあたたかくする。
 思いのまま、ふふふと笑うと、男に引っ張られて掠めるように口付けされた。

「あの、今のするタイミングでした?」
「したい気分だった」
「まあ、もう慣れましたけど……」

 不意打ちのキスにはもう慣れてしまったが、相変わらず男のしたいタイミングが判らない。
 出来た朝食を食卓まで運び、食事を開始したところでああ、と男がエレンに告げた。

「今日は一緒に大学に行く」
「は?」

 大学とは――自分が通っている大学のことだろうか。自分が大学生であることは最初の自己紹介で話したし、通っている大学名も教えてある。自分で言うのもなんだが、在学している大学はわりと有名だと思うので、その所在地も簡単に調べることは出来るはずだ。だが、男は大学関係者ではないはずだし、いったい何の用があるのだろう。

「えーと、うちの大学の付近に用があるとかですか?」
「まあ、そんなものだ」
「あの、なら、別々に行った方が……」
「校門までは行かないから大丈夫だ」
「あの、でも……」
「一緒に行く」
「…………」
「一緒に行く」

 不安そうな顔で躊躇うエレンの頬を男はするりと撫ぜた。

「大丈夫だ。飼い犬と散歩はするものだろう?」
「……犬の散歩は首輪とリード付きですよ」
「そういうプレイがお好みか? なら、やってもいいが?」
「そういう趣味はありませんので謹んでご辞退申し上げます」
「なら、問題ないだろう」
「――――」
「エレン」

 大丈夫だと、再び頬を撫ぜられ、エレンはこくんと頷いた。


 隣を歩く男を見ていると、何だ?と問いかけられた。

「あ、えーと、目立たないんだなぁって」
「俺は有名人でもなければ、派手でもねぇからな」
「それはそうなんですけど……」

 男と初めて言葉を交わしたとき、男からは底知れぬ闇の気配がした。こびりつくような死の臭いがして、男はそれを隠そうとはしていなかった。あれはエレンを追い払うためにわざとやったのだろうと推察しているが、その後、一緒に出掛けた男は何というか普通だった。いや、普通であることはおかしくはないし、普通のどこが悪いと言われたら困ってしまうのだが。
 エレンは男は存在感のある人だと思っている。姿を見せるだけでその場の空気が変わるというか、何もしていないのに目立つ人間――オーラ、とでもいうのか、それを纏う人間はいる。それで得をすることもあれば損をすることもあるのだろうけれど、人目を引いてしまうのは自分ではどうしようも出来ないはずだ。……はずなのだが、男は外出時にはどこか存在感がなくなる。オーラというものは自由に消すことが出来るのかと思うくらいに。

「そもそも、人はそんなに周りを気にしねぇ。有名人じゃねぇならよっぽどの美形とか人目を引く格好でもしなきゃ気に留めねぇ」
「兵長は格好いいですよ?」
「…………」
「兵長?」
「だから、そういうとこだぞ、お前」

 本日二度目の指摘を受け、そういうとことはどういうとこだろう、と考えるも判らない。

「――ここで別れるぞ。エレン、今日は午後は講義がない日だったな?」

 大学の近くで男が足を止めてそう訊ねてきたのでエレンは頷いた。

「帰りも一緒に帰るから、迎えに行く。目立たない場所で待ち合わせするぞ」
「え? 用事は?」
「それまでには終わる」
「あの、でも……」
「一緒に帰りたい」
「…………」
「一緒に帰りたい」
「……はい」

 朝と同じに強引に押し切られ、エレンは頷いた。


 帰り支度を終えたエレンは真っ直ぐに校門へと向かった。

(兵長、本当に待ってるのかな?)

 勿論、男が嘘を吐くなどとは思っていないが。何故こんなことを言い出したのかがよく判らない。小学生までなら送り迎えするのも判るのだが、エレンはそんな年ではないし、通学路に犯罪が起こりそうなところは含まれていない。そもそもこの国自体が治安が良いと評価されている。まあ、人生は何が起こるか判らないので自分には無関係だと思っていたらいつの間にか犯罪に巻き込まれていたなんてことも有り得るのだが。

(兵長が今までいたところは犯罪率が高かったのかもしれねぇな)

 男から海外の国のあちこちに行ったことがあるとは聞いていた。こちらに落ち着くらしいのだが、仕事の内容をエレンは知らない。エレンが大学に行っている間に何をやっているのか男は話さないし、数日家を空けることもある。数え切れない程殺してきたとの言葉通りなら、真っ暗な闇の事業者だろう。――それでもいいと、エレンは思っている。
 あの闇の生き物とは最後まで一緒にいると決めたのだから。
 学校を出る人の中に紛れるが、エレンを気にするものはいない。学年が違うものなら接点は早々ないし、同じ学年でも同じ講義を受けていなければ交流はまずない。ずば抜けて容姿がいいとか、派手なサークル活動をしているとか、自ら交流範囲を広げているとかそういうこともない。エレンが目立ったのはあの噂が流れたからに他ならない。

(……あの噂を気にしてる人間はもう殆どいない)

 噂をばら撒いていた人間がいなくなったせいもあるだろうが、単純に飽きたのだと思う。人の噂は鮮度が命だ。新たな燃料が投下でもされない限り、人は新しいものに飛びつく。今更エレンの噂話をしても食いつかないだろう。
 反面、いつまでもしつこく覚えているものでもあるけれど。

(……違うな)

 本当に気にしているのはエレンの方だ。男と一緒に登校したくなかったのも、彼に知られるのが怖かったからだ。
 男はおそらく気にしないだろう。噂を気にするくらいなら、あの甥が現れた時点でエレンから離れている。大まかなことは伝えてあるし、何か伝え聞いたところで男の態度はきっと変わらない。
 それでも、男に知られるのが怖かった。


「エレン」

 待ち合わせの場所に向かうと先に来ていた男の姿が見えたので、エレンは駆け寄った。

「用事は済んだんですか?」
「ああ」
「どこか寄りたいところはありますか?」
「そうだな――お前が普段寄るところに行きたい」
「え? オレ、あんまり寄り道しないというか……大学の近くの店には入らないので」
「お前がよく行く店ならどこでもいい」
「うーん、買い物して帰るか、喫茶店に行くくらいですよ? あ、ついでに買い出しして帰ります?」
「荷物持ちくらいはしてやる」
「お願いします。ふふふ……何だかお買い物デートみたいですね」
「デートだろう」

 さらりと言われてエレンは固まった。

「俺とデートは嫌か?」
「いえ、そういうことではなくて、ですね。デートの意味、判ってますよね? ひょっとして違うんですか?」
「恋人同士とか気になるもの同士が一緒にでかけるあれだな」
「合ってますし! えーと、買い物には一緒にもう行ってますよね? あれと変わらないですよ」
「そうだな、思えばあれもデートだったな」
「……あの、え、と……」
「デートと言われるのは嫌か?」
「嫌、ではないです。あの、でも、本当に買い物に行くだけですし……」
「ああ、それっぽいことした方がいいのか」
「それっぽいこと……?」
「キスとか」

 そう言って男が顔を近付けてきたのでエレンは反射的に眼を瞑った。閉じてから何で瞑ったんだろう、キスを待ってるみたいじゃねぇか、と自分で自分にツッコミを入れた。嫌ならそう言えばいいし、逃げることだって出来る――本当に逃げ延びられるかどうかは別として。そのどちらもしなかったのは、心から嫌がっていないからだ。

(兵長に触られるのは嫌じゃない)

 嫌じゃないから逃げない――というのは少し違う気がする。触りたがるから触らせている、というのも何か違う。親しい間柄だから、気を許しているからする、という訳でもない。例えばこれが亡くなった両親や義父母、友人――アルミンだったとしてもエレンはしない。するのは兵長だからだ。それが意味するもの。
 エレンがぐるぐると考えていると、男は寄せてきた顔をずらして耳元に口を寄せた。

「キスしてるときのお前の顔他の奴に見せたくねぇから、するのは家に帰った後でな」

 瞼を開けるとからかうような男の顔があって、エレンはむうと唇を尖らせた。

「兵長、からか――」
「あ、見ぃつけたぁ――!」

 エレンの声にかぶせるように声がかけられ、言葉を途切れさせたエレンはそちらに視線を向けた。
 そこにいたのは髪をアップでひとまとめにした、眼鏡をかけた女性。年齢は男と同年代くらいに見えるが、エレンは全く面識がなかった。自分に声がかけられたかと思ったが、他の人だったのだろうか。あるいは単純に相手が人違いしているのか。
 だが、女性は真っ直ぐにこちらに向かってやって来る。エレンが戸惑っていると、隣で舌打ちが聞こえ、次の瞬間女性が地面に沈んでいた。

「では、行くか。エレン」
「え? えええっ、兵長、大丈夫なんですか、その人」
「安心しろ、通りすがりの他人だ」
「イヤ、通りすがりの人に蹴り入れちゃ駄目でしょう! 蹴り入れましたよね? 早すぎて判りにくかったですけど、蹴り入れましたよね?」
「気のせいだ」
「イヤ、気のせいじゃなくて入れましたよね? 絶対入れましたよね!」
「安心しろ、こいつは通りすがりの悪党だから問題ない」
「……酷いなぁ、悪党度からいったらあなたも相当だと思うけど」

 そうぼやきながら立ち上がった女性は、服についた汚れを払うと二人に向き直った。

「こんにちは、はじめまして! 私はハンジ・ゾエっていうんだよ。よろしく!」
「え? えーと、お知り合いですか……?」

 エレンが男と女性を交互に見ながらそう言うと、男は嫌そうに眉間の皺を深くした。

「知り合いなんて呼べるものじゃねぇから、別によろしくしなくていい」
「うん、知り合いも知り合い。リ……」

 瞬間、凄い勢いで女性は男に口を塞がれていた。塞いでいる手の下にはいつの間にか取り出したのかハンカチが挟まれていたが、そのせいで女性を拉致しようとしている誘拐犯に見える。

「え? あの、大丈夫なんですか?」
「……チッ。このタイミングで言うつもりはなかったんだが、仕方ねぇ。エレンよ」
「はい」
「俺の名前はリヴァイだ。リヴァイ・アッカーマンという」

 突然の名乗りにぽかんとしたエレンに男が判ったかと念を押すと、エレンは首肯した。それを見て男は手を放し、女性――ハンジはぷはぁと大きく息をした。

「はぁ、死ぬかと思った」
「お前が余計なこと言いそうになったからだ」
「イヤ、だって名乗ってないとか思わないからね? 偽名使ってることもないだろうと思ったしさ」
「……ひとのことに首突っ込むな。お前こそ本名を名乗ったな?」
「その方がいいかと思って。後、別に邪魔する気はないよ」

 小声で会話をした後、男はまた舌打ちした。往来で争う気もないし、ハンジの方もそうだろう。既に沈めておいて何を言うのかと言われそうではあるが、男は次に会った際には絶対に蹴りを入れると決めていた。きちんと周りに人がいないのは確かめたし、視線も感じなかったし、見られてはいないだろう。さすがに人に注目されていたらやめていた――見られないように上手くやることも可能だが。

「エレン、こいつはただの奇行種だから気にしなくていい」

 男がそう声をかけるとエレンはぼんやりとしていた視線を男に向けた。

「エレン?」
「あ、すみませんその……嬉しかったので」
「嬉しい?」
「名前、教えてもらえるとは思ってなかったので」

 本名はきっと教えてもらえないだろうし、それでいいと思っていた。だが、教えてもらえた。成り行きだったのかもしれないけれど、それでも心がぽかぽかして嬉しいという感情が押し寄せる。

(リヴァイ、リヴァイ・アッカーマン、リヴァイさん……)

 口の中で何度もその名を繰り返し、それが唇の動きとなってあらわれる。その様子を目の当たりにしたハンジが意外そうに呟く。

「え? 何これ? めっちゃ脈あり? 両想いなの? 私、てっきりこうもっと無理矢理というか、強引にものにしたというか、調教したとかそういうのだと思ってた」
「また沈めるぞ」
「まさかの純愛系……」
「そうか、殺されたいのか」
「本気に聞こえるからやめて」

 こわーいと棒読みで言うハンジにデコピンを食らわせて、男はエレンに行くぞ、と声をかけた。

「え? いいんですか?」
「構うな」
「あ、いいよいいよ。私、まだやることがあるし。こっちに用があって見かけたから声かけただけだから」

 額を摩りながらハンジはにこやかに言い、用事の途中なら引き留めるのもかえって迷惑だろうとエレンは引き下がった。
 またね、と手を振るハンジに会釈して男と一緒に歩き出す。

「あの、良かったんですか? 用があったとかじゃなくて?」
「構わない」

 エレンがそれでも気にしている素振りを見せたので、男は宥めるようにその頬を撫ぜた。

「デートするんだろう?」
「……はいっ! リ、リヴァイさん」
「何か、新鮮だな、それ」

 するりと手を放してから、ああと男は付け足した。

「人前で俺を呼ぶときにはシーナと呼べ」
「シーナさん?」
「俺がいくつか持っている名の一つだが、ここに来て使ったのがそれだった。変えても構わねぇが、問題が一つある」
「問題?」
「お前の知り合いにそう名乗った。……設定も一度詰めておこう」

 その言葉にエレンの足が止まる。知り合いとは――誰なのか。あの甥ならそう言うであろうから彼ではない。近所のものか、あるいは大学関係者か。エレンと男が一緒に住んでいることをエレンは誰にも話していないが、家を出入りするところを見られていたなら何か言われた可能性がある。彼は誰に何を聞いたのか。
 一緒に暮らす以上はいつか男のことを詮索するものが現れてもおかしくはないだろうとは思っていた。だが、想定してはいてもいざその事態に直面すると動揺を隠しきれない。
 心臓がばくばくといい出して思わず胸を押さえたエレンの手を、男は取った。

「大丈夫だ、エレン」

 取った手に唇を落として、男は大丈夫だ、と再び繰り返した。

「話したのはお前の友人だ。アルミン・アルレルトだったか」
「アルミン……」
「お前のことをとても心配していた」
「…………」
「お前は愛されているな」

 エレンの胸がぎゅうっと引き絞られる。その言葉はかつて親友――アルミンからも言われたものだ。
 アルミンとエレンが初めて出逢ったのは中学校の入学式だった。同じクラスで、出席番号が前後だったため、体育館に並べられた椅子に隣同士で着席していた。
 ――ねぇ、君の父兄ってあの人達だよね?
 話かけてきたのはアルミンの方で、視線で義父母を示されたのでエレンは頷いた。
 ――良かった、おじいちゃんが来たのって僕だけじゃなかったんだ。一人だけだとちょっと恥ずかしかったんだ。
 後に詳しく聞いたのだが、アルミンの両親は仕事が忙しいらしく、行事などは祖父が代わりにくることが多かったそうだ。かといって家族仲が悪いという訳でもなく、アルミンは両親を尊敬しているようだった。
 ――じいちゃんじゃねぇよ。じいちゃんとは呼んでるけど、両親だ。
 エレンが素っ気なく返すとアルミンはきょとんとしたので、エレンは内心で溜息を吐いた。こういった勘違いや質問は今までに度々されてきたことだ。学校行事の折、やって来た義父母を見て、あの人、イェーガー君のおじいちゃんなの?と悪気なく訊ねられ、いつも回答に困った。義父母はどう見ても親という年ではなく、祖父母――いや、むしろその上の曾祖父母という世代だったから疑問に思うのは理解出来る。ここで話に合わせて祖父母だと言ってしまえば楽だったのかもしれないが、エレンは義父母に関して偽りを述べたくなかった。それに祖父母だと言ってその場を流したとしても、なら両親は来られなかったのか、となるだろう。嘘を重ねるつもりはなかったので正直に両親だと言えば、逆に嘘吐かないでと非難されるし、親代わりだと言えば事情を詮索される。そうして、自分で訊いてきたくせにエレンの家庭事情を知ると気まずそうに話題を変えるのだ。あからさまに可哀相とひそひそと話すものもいたし、正直うんざりしていた。隠すつもりは毛頭ないが、余計なことは言わない、もう勝手に想像してろ、というのがエレンのスタンスだ。
 ――そうか。じゃあ、君はすごく愛されてるんだね。
 ――は?
 そんな風に返されたのは初めてで、エレンは怪訝な顔でアルミンを眺めた。
 ――年を取ると子育てって大変らしいよ。体力いるしね。
 自分の孫でも毎日面倒を見るのは勘弁して欲しいという人もいる。アルミンはそんな話を聞いて、一時祖父の世話になるのを遠慮していたのだが、祖父に笑い飛ばされてしまった。可愛い孫の面倒を見ることが嫌なはずがないと。体力が落ちているのは事実だが、それを苦には思わないと。
 ――だからね、それはすごく愛されてるってことだと僕は思う。
 じいちゃん子同士仲良くしてくれると嬉しいな、とそう続けてアルミンは握手しようと手を差し出した。
 その後、仲良くなったアルミンが家に遊びに来た際にエレンは詳しい事情を話した。親が小学校の頃に事故で亡くなり、遠縁の義父母に引き取られたこと、近所の者は皆知っているということ。親子にはまず見られないから隠すなんて無理だし、隠そうとは思っていないということ。全部を聞いた後で再びアルミンはエレンはすごく愛されてるね、と笑った。
 エレンの境遇に変に同情せず、エレン自身を見つめて、時にはエレンを窘め、一緒に騒ぎを起こして叱られ、笑って傍にいてくれた。友達は他にも出来たけれど、親友と呼べるのはアルミンだった。

「アルミンは……もう、関係ないんです」
「そうか」
「オレの心配とか……しなくていいんです」
「そうか」
「オレといるとろくなことがない。だけど、アルミンはいいやつだから」
「…………」
「いいやつ、なんです」
「エレン」

 するりと男の手がまた伸びてきてエレンの頬を撫ぜる。

「お前はちゃんと愛されてる。忘れるな」

 男がそう繰り返して、エレンはただ自分に伸ばされた男の手を握った。


 それから男は度々エレンの登校についてきた。帰りも迎えに来て食事をしたり、買い物をしたり、エレンのお気に入りの喫茶店で紅茶を飲んだりしていた。喫茶店の紅茶を男は「及第点」と言っていたから口に合ったのだと思う。喫茶店やカフェはどうしても珈琲に力を入れているから、満足いく紅茶を飲むなら専門店に行かなければならない。なくはないが、こだわりの珈琲を出す店より少ないのは事実だった。結論としてはエレンが家で淹れてくれればいい、となったのだが。おかげで家には茶葉が増えた。
 本日も帰りに落ち合う予定だが、大学ではなく直接、喫茶店で合流するという話になっている。
 一連の男の行動は謎で、訊ねては見たのだが、仕事の一環だと詳細を話すのを断られてしまった。自分と登下校を共にするのが男の仕事とどう関係するのか判らないが、一緒に出掛けるのは正直楽しかった。
 辿り着いた喫茶店の扉を潜る。男からは先に入っているからと言われていたので、店員に待ち合わせしていると告げ、足を進めた。席はエレンがよく座るところだと思うが、誰かが先に座っている可能性もある。店内を見回して定位置に視線を向けたエレンはそこで固まった。

「ひ、久し振り、エレン」

 ぎこちなく笑いながら手を振ったのは男ではなく親友――アルミンだった。
 思わず立ち止まってしまったエレンだったが、店員からお水はあちらでいいですか?と声をかけられ、慌てて頷いた。このまま突っ立っていたらただの不審者であるし、逃げ出すのもいただけない。ここはエレンの貴重な息抜きの場所であるし、変な揉め事を起こして来づらくなりたくない。それに、ここで逃げ出したとしても問題を先送りにするだけだ。アルミンがエレンと対峙すると決めたのなら何度でもやるだろう――親友にはそういう決めたら断固として曲げないところがある。
 エレンは着席すると、店員にすぐに注文をした。余計な詮索はされないだろうが、気にされるのは落ち着かない。

「…………」
「…………」

 お互いに無言が続く中、注文していた紅茶が届き、エレンはそれを口に運んだ。

「……紅茶」
「……うん?」
「あ、イヤ、珍しいなぁって思って。エレンは紅茶そんなに飲まないだろう?」
「……ああ、そうだな。そうだった」

 紅茶をよく飲むようになったのは男が好きだからだ。義母は緑茶が好きだったので、家には緑茶と食後にたまに飲む珈琲は常備されていたが、紅茶は来客用に買っておいて期限ギリギリに消費するものだった。子供の時分はエレン用にジュース類を買ってくれたし、成長してからは義父母と同じものを飲んでいた。
 こんなところにも男の影響を受けているんだな、と手元の紅茶を眺めながらエレンは思う。

「あの……今日はシーナさんにここを教えてもらってきたんだ。エレンがくるからって……その」

 ここにアルミンがいたときから予想はしていたが、親友をここに呼んだのはやはり男だった。男から言われていなければシーナというのが男の名前だとは判らなかっただろう。もしかして、男はアルミンと会ったという話をした時からこの席を設けるつもりだったのかもしれない。

「ごめん、エレン」

 唐突な謝罪にエレンは驚いてアルミンを見つめた。彼が謝罪する事由など何一つない。むしろ、謝るべきはエレンの方だろう。

「僕がもっとしっかりしていればよかった。もっと上手く立ち回れていれば――ああ、いい訳だね、これ。あのね、エレン、僕はやり直しに来たんだ」

 そう言ってアルミンは手を差し出した。

「僕はアルミン・アルレルト。――仲良くしてくれると嬉しいな」

 それは、一番最初に逢ったときに言われた言葉だ。同じように手を差し出して、同じように彼は笑う。

「……青春かよ」
「青春だよ。エレンはまだ未成年だし」
「誕生日、数箇月しか違わねぇだろ」
「数箇月でも僕が年上なのは変わらないよ。それより、出した僕の手がそろそろ可哀相だとは思わない?」

 軽く言っているようで、アルミンが緊張しているのが伝わってくる。
 あのとき、拒絶したのはエレンだ。彼に非は少しもなかったのに、エレンは振り払った。一度拒否された手を伸ばすのは勇気がいっただろう――それでも、親友はまた差し出してくれた。
 そっとエレンが差し出された手を取ると、アルミンはほっとしたように息を吐いた。

「……嘘だから」
「え?」
「……友達じゃねぇって、嘘だから」
「うん、気付いてた。エレンは嘘吐くと耳が赤くなるから」

 でも、ちょっと不安だったから合ってて安心したよ、と笑う親友に、エレンは小さくごめん、と謝罪した。


「ただいま帰りました」

 そう言いつつ自宅内に足を踏み入れたが、返事はない。人の気配はなかったし――男は全く気配を感じさせずに動けるので当てにならなかったりするのだが――、灯りもついていなかったからまだ帰っていないとは推察出来たが。
 親友との件について早く礼を言いたかったのだが、戻っていないのなら仕方がない。
 シーナさんにエレンをよろしく頼むって言われたよ、僕の台詞とられたなぁとアルミンに聞かされ、エレンはくすぐったい気分になった。

(今日は兵長………リヴァイさんの食べたいもの作ろうっと)

 男の嫌がる献立など作ったことはないが――そもそも彼には苦手なものはなかった。
 リヴァイと呼ぶのは何だか気恥ずかしい。出逢ってからずっと兵長と呼んできたのと、人前で本名を呼んでうっかり聞かれたら困る可能性があるので外では呼ばないようにしているため、慣れないせいでもある。まあ、身分証明を提示することはそうないだろうし、兵長は兵長で聞かれたら何故そう呼んでいるか疑問を持たれるかもしれないが。

(早く帰ってこねぇかな)

 ――だが、この日、男は帰ってこなかった。

 男が家を空けることは今までにもあった。しかし、その都度、きちんと連絡があった。男が戻ってこなくなってからすでに五日。エレンは不安で仕方無かった。折角以前と同じように行動するようになった――多少ぎくしゃくはしたが――アルミンにもまた心配をかけていると思う。
 基本的に連絡事項は口頭でしている。男の連絡先は知ってはいるが、携帯端末にその番号は登録されていない。登録せずに覚えること、かけたら一度だけ鳴らして切ること――その後、男からかかってくる仕組みだ――、履歴は必ず消すこと、それが男との約束だ。今までかけたことがなかった番号にかけてみたが、繋がらなかった。
 男は出逢ったときに負傷していた。どこかで怪我をして回復を待っているのかもしれない。仕事が忙しくて連絡してこれないのかもしれない。だが、もしかして――。

(……もう、戻ってこない?)

 親友は男にエレンをよろしく頼むと言われたと言っていた。それは自分の分もよろしく、と言ってるようにも受け取れる。
 いや、男は最後まで傍にいてくれると約束してくれた。そんなはずはない。男とはまだそれ程長い付き合いではないし、彼の総てを知っている訳ではないが、出来ない約束をするような人ではない。誤魔化さずに言えないことは言えない、出来ないことは出来ないとはっきりと告げる人だ。
 いてもたってもいられなくなったエレンは男を探しに出かけることにした。当然ながら当てはなかったが、音のしなくなったこの家でじっと待っているのはもう限界だった。
 玄関に向かって足を進め、ノブに手をかけると、力をかけていないのにも拘らずドアが開いた。

「ああ、エレン、今帰っ――」

 家の外から戻ってきた男がドアを開けたのだと理解するより早く、エレンは男に飛びついていた。

「エレン、どうした?」
「――――」
「連絡出来なくてすまなかった。急な仕事が入ってな。これでも早く終わらせたんだが」
「――――」

 何を言ってもしがみ付いてくるだけのエレンに、男は仕方ないなといったようにその頭を一撫でしてから、ひょいっと抱え上げた。思わずうえっという声がエレンの口から出た。

「玄関じゃ冷える。部屋で話そう」

 エレンは男より身長は高いし、どちらかといえば細身かもしれないがそれなりに重いと思う。というか、もうすぐ成人を迎える男子を軽々と抱えるなんて並みの筋力ではない。さすがに惚れ惚れする腹筋の持ち主だ――などとどうでもいいことに思考が彷徨う。
 それでも離れないエレンの背中を撫ぜながら、出かける際に切ったばかりの暖房を再び入れて、男はエレンをソファーに下した。ずっとしがみ付かれているためにエレンがどんな表情をしているのか男には窺い知れない。だが、離すものかとばかりに伸ばされる腕から伝わってくるものがある。

「エレン?」
「……心配しました」
「そうか、悪かった」
「……もう、戻ってこないのかと、思いました」
「それはねぇ」

 間髪入れずにそう断言され、エレンは男の顔を見た。男はやっとちゃんと顔が見れた、と笑って唇を合わせた。何度かついばんで、ちゅっと音を立てて合わせた唇が離れていく。

「今のはするタイミングだっただろう?」
「…………」
「飼い犬は飼い主のところに戻って来るものだ。拾ったものの面倒はみると言ったのはお前だろう。俺を飼い続けろ、俺がお前を連れて死ぬまで」

 何度も何度も優しく男はエレンの顔に口付けを落とす。何かの儀式のようだとエレンは思った。
 死神だと言われたことのあるエレンだが、本当の死神はこんな風に優しく口付けて死へ誘うのだろう。

「安心しろ、エレン。俺は必ずお前のところに戻る。お前の喉笛を噛み切って共に逝くために必ずだ」

 前にも同じ言葉を男から聞かされたが、言葉は物騒であるのに、それは愛の囁きに聞こえる。エレンが特別な存在であるかのように、その死まで独占したいといっているかのよう。

「……オレは誰でも良かったんだ。いつ死んでもおかしくない人なら。オレのせいで死んだって言われなければ誰でも良かった。たまたま兵長だっただけで、あそこで見つけたのが他の誰かでも、同じような境遇ならオレはきっと拾った」
「なら、あれは運命の出逢いだな」

 男の言葉にエレンは固まった。それが出てくるとは思ってもみなかった。

「何だ。お前が言った台詞だろう?」
「……忘れてくれたんじゃないんですか?」
「思い出さねぇとは言ってねぇ」

 何ですか、それ、と呟いてエレンは男に口付けた。唐突なエレンからの口付けに男がほんの少しであるが、その顔に驚きを滲ませたので、エレンは悪戯が成功した子供のように笑った。

「オレ、あなたが好きです……多分」
「多分てのは何だ、オイ」
「多分は多分です。……誰でも良かったんです。でも、今は拾ったのが兵長で良かった。イヤ、兵長じゃなきゃ嫌なんです。一緒にメシ食うのも、寝るのも、おはようとお休みを言うのも、オレは兵長がいい」

 だから、これはきっと好きなんだと思う、とエレンは続けた。男が不在だった数日エレンは不安だった。もう逢えないだろうかと考えるだけで胸がぎゅうっと締め付けられた。じっと待っていることが出来なくて探しに行くつもりだった。
 勿論、男があちら側の住人だということが不安に拍車をかけたのは事実だが、それがなくても逢いたいと想うこの気持ちは他とは違うと感じたのだ。
 好きだ、と言葉にするとそれはとてもすっきりして、ぽかぽかと胸があたたかくなる。男を想う気持ちはあたたかくて優しくて、胸のあたりがぎゅうっとなって、ふわふわとしてエレンの語彙力では伝えきれない。だから、好きです、と繰り返した。

「……それはセックスがしたい好きか?」
「……デリカシーという言葉の意味を知っていますか?」
「大事なことだろう。したいか?」
「出来るか出来ないかなら出来ると思います」
「そうじゃねぇ。したいかしたくないかだ」
「…………」
「言い方を変える。俺に触りたいか?」
「腹筋は毎日でも触りたいです」
「そこじゃねぇよ」

 エレンは考えてみたが――多分、自分は性欲が薄い。そして、元々恋愛方面における興味も薄い。家庭環境が複雑だった影響もあるし、医学部を目指してからは勉強が優先だったのもある。医師になりたいという気持ちは少しぐらついているけれど。
 自分と関われば患者もきっとろくなことにならないだろうという不安があるし、そもそも自分が医師を目指したのは父と義父が医師だったからだ。医師になりたいというより、父や義父のような人間になりたかったのだ。

(……よそ事考えるな。触りたいか、どうか)

 そっと手を伸ばして男の腹を触ってみる。服の上からでも固いのが確認できる。胸にも手を伸ばして押してみるが、びくともしない。小柄なので見間違えられるが、男の身体はちゃんと厚みがある。胸筋も背筋も鍛えられているのを知っている。腕もしっかりしている。そういえば同級生が筋肉が多いと市販の服が合わなくて大変なんだと言っていたのを思い出す。伸縮素材はいいとして、スーツとかはオーダーなのかなと余計なことに考えがいってしまい、また思考を元に戻す。
 手を握る。しっかりとした男の手だ。エレンはこの手がとても好きだ。指で手の筋をなぞり、男がしてくれるようにその手を自分の頬に当てて頬擦りをしてみる。

(あ、何か違う)

 むうと眉を寄せて、男に訴えるように視線を向けると、諦めたような溜息を吐いて彼はエレンの頬を撫ぜた。慣れた感触に自然にエレンの顔が綻んだ。

「あ、やっぱり兵長に触ってもらう方が気持ちいいです」
「――そういうとこだぞ、お前」

 やっぱりそういうとこがどういうとこなのかは判らなかったが、ここは訊いてはいけない気がしたのでエレンは黙っていた。

「――触ってどうだった?」
「腹筋以外も触りたいです」

 男の求めている答えとは少し違うかもしれないが、触ってみたいのは確かだ。さらさらしている髪も鍛えられたその身体も、エレンは男に触れるのが好きなんだと今更ながらに思った。
 期待した眼で見られて、男が悟った顔で両手を広げたのでエレンは胸に飛び込んで腕を回した。がっちりした身体の感触を味わい、すんすんと匂いを嗅ぐ。何やら変態のようだな、と思うがエレンは男の匂いも好きだった。いや、男が好きだからその香りも好ましく思うのだろう。思わずいい匂い、好き、と呟いていたのだが、無意識だったので自分がそんなことを言ったのにはエレンは気付いていなかった。
 ああ、やっぱり背中もすごいなぁ、と感触を味わいながら、エレンはふと思いついたことを試してみた。
 男の首元をずらしてそこにかぷり、と噛みつく。以前男にされた動きを真似しながら唇で食んでいく。やっぱり吸血鬼みたいだな、と思いながら甘噛みしていると男がびくりと動いた気がした。もしかして痛かったのかと思い、エレンは丁寧にそこに舌を這わせた。血は出ていなかったし、傷口を舐めるのは雑菌が入る危険性もあるのだが、痛くないようにと何度も舌で往復する。すると、もぞもぞと背後で動く気配を感じた。

「あ、あの、へいちょ、何して……っ」
「お前が散々触ったんだから俺も触るまでだ」
「オレは、服の中に、手は突っ込んでません!」
「お前も俺に触ってもいいぞ。勃つと思うが」

 服の裾から入り込んできた手が背筋を這いまわる。片手で背筋をなぞり、片手で臀部を揉みしだかれ――こちらはさすがに服の上からだった――エレンは男にきつくしがみ付いた。

「――気色悪いか?」
「……ちが……っ、きもちいいから、困る……」

 そう言いながらエレンはぐりぐりと頭を男に押し付けた。どうやら顔を見せたくないらしい。

「エレン、顔見せろ」
「……っ、ダメ、です。恥ずかしい、から……」

 何で、今までと違う、ダメ、と繰り返すエレンの身体を男は好きなようにいじくりまわす。手を前に回し胸の突起を指でこねると固く尖っていくのが判る。いじる度にびくりと跳ねる身体が愛しかった。触るだけでこうなのだから、舐め回して吸い上げたらきっともっと乱れるのだろう。

「エレン、いつまでも顔見せねぇと、下脱がして本格的にいじるぞ」

 指、中に突っ込まれたくねぇだろ、と続けられ、エレンはおずおずと顔を上げ、男を見た。
 ――途端、男の口角が上がる。

「――やっとか。お前のそういう顔が見たかった」

 可愛いな、と呟いて眼の端に浮かんだ涙を男は吸い取った。そのまま唇を合わせて舌を侵入させ、口内を存分に嬲る。男はエレンと毎日キスをしているが、特段キスが好きな訳ではなかった。口内には性感帯があり、それを刺激すれば気持ちいいと感じる――そのための行為で、愛情表現とは知ってはいてもしようとは思っていなかった。最低と言われるかもしれないが、関係を結んだ相手にキスをねだられるのも鬱陶しいと感じるタイプだった。だが、エレンとは毎日だってしたい。それが行為に結び付くものではなくてもだ。
 長く容赦ない口付けに苦しいと服を引っ張られて訴えられたが、それを無視して男は自分が満足いくまで堪能した。
 ようやく解放されて、エレンは息を荒くしながら男にもたれかかる。ぐったりとしているのをいいことに男はエレンの下衣のファスナーを下して下着の中に手を突っ込んだ。
 急所を握られてうひゃあという叫び声がエレンの口から上がる。

「へ、へい、どこ、さわ、さわ……」
「ああ、お前のペ――」
「言わなくていいです!」

 涙目だったエレンはもはや半泣きで、真っ赤な顔でオレはそんなとこ触ってないです、とずれた発言をした。

「じゃあ、お前も俺のを触れ」
「そういう問題じゃないです!」
「じゃあ、どうする? 勃ってるだろう、お前の」
「――――っ」

 羞恥にか顔を歪めたエレンの眼尻から涙が零れたので、男はその涙をまた唇で吸い取った。エレンはキスに動じなかったし、押し倒されても平然としていたから勘違いしていた。この年代の男なら性欲に振り回されていてもおかしくないのだが、おそらくエレンはそういったことに興味がほぼなかったのだろう。知識だけはあるが、現実味が薄い――セックスが出来るというのもおそらくしたことがないからだ。
 この反応は高校生――いや、せいぜい中学生くらいだろう。エレンくらいの年の男性なら半数はセックスの経験があるはずだが、それ以前の反応に戸惑う。が、止めてやる気はないのも確かで。

「安心しろ、俺のも勃ってる」

 エレンの手を導いて触れさせると、エレンは自分の手――というか、男のものだが――と男の顔を交互に見た。

「え……と、オレでこうなるんですか?」
「前からそう言ってる」
「…………」

 エレンは俯いてしまったが、羞恥で真っ赤になっているのは隠しきれない。自覚するとこうも違うのか、と男は思う。
 男は下着の中からエレンのものを取り出すと、ゆるく扱いた。んっ、と甘い声がエレンの口から零れる。

「ほら、俺のも出してくれ」

 促されて、まごつきながらもエレンは男の下衣に手をかけ、中から男のものを取り出した。思わず洩れたでけぇという言葉には触れずにおいた。しかし、取り出したもののどうしていいか判らないようで、どうしたらいいですか?と言わんばかりの顔で見つめてくる。このままどうするか見てみたい気持ちもあったが、男の忍耐にも限界があるので先を進めた。初めての自慰を教えているような妙な背徳感があるが、無視する。
 二つのものを一緒にしてエレンに握らせる。その上から男も手を添えた。

「俺も手伝うから手を動かせ」

 おそるおそる手を動かしたエレンに指示を出す。擦れ合うのが気持ちいいのか鼻にかかった甘い声が洩れる。潤滑剤があればもっと良かったのだが、こういう事態になることを想定していなかったので仕方がない。どのみち固く閉ざされた後孔に挿入はまだ無理なので、それは先にとっておくことにしよう。潤滑剤があれば指を入れるくらいはしたが。

「あっ、熱い……っ、へい、ちょうの、あつ」
「お前のもだろう」

 指摘するが、その声も届いていないようで与えられる快楽に夢中になっている。自分の拙い手の動きだけではいけないのか、もどかし気に腰が揺れる。決定打に欠ける動きに男もいつまでも焦らされたくはないので、吐き出すために自分の手を動かした。

「あ、んっ、きもち……いい、リヴァイさ…いぃ、リヴァイさ…の、きもちぃ」
「――――っ」

 お前、それは反則だろう、と男は胸の中で呟き、エレンの唇を奪った。くぐもった声がお互いの口の中に消え、手の中に白濁液が迸った――。


 吐き出した後の倦怠感に包まれながら、エレンはソファーに凭れていた。エレンは自慰を余りしない。ためておくのは良くないので定期的に吐き出すが、先程のあれはそういうものではなかった。あんな風に触られたことはないし、触ったこともない。とにかく凄かった、としか言い様がない。
 あれはセックスなのだろうか、と思う。自慰の延長と言えばそうだろうし、人と性器を触れあわせたのだからセックスと言ってもいい気がする。挿入がないからセックスじゃないというのも違うだろうと思う。では疑似セックスか、などと考え、先程から人前では口にしない単語が頭の中を過ぎってる状況はどうかと自問する。
 ぼんやりと視線を漂わせると、男が後始末をしていた。今更だが、ああいうことはソファーでするべきではなかった。あれはどういうことになるのかと、エレンは男に訊ねてみようとぽつりと口に出した。

「あの、オレ、兵長のセフレになったんですか?」
「あぁ?」

 オクターブは低い声が男の口から出て、エレンはその不穏さに冷や汗が出そうだった。

(え? これ? あれ? 一度寝たからって彼女面すんなよってやつ? あ、彼氏面か? そういうの?)

 それとも、あの程度はセックスじゃないとかそういうことなんだろうか。別に大した意味がなかったというなら――それは凄く哀しい。
 エレンの顔を見て男ははぁっと深い息を吐いた。

「お前前々から思っていたが、天然は時と場所を選べ」
「天然? オレ、天然ですか?」
「誰が男をセフレにするか。そもそも男とは寝たくねぇ。お前とセックスしたいのは惚れたからだ」
「…………」

 意味が理解出来ず――いや、言葉自体は勿論判ったが、どうにも呑み込めず、エレンは何度もそれを反芻した。

(惚れたって……あれ? 好きってこと? 人柄に惚れるとか……イヤ、人柄に惚れてもセックスはしねぇよな。あれ?)

 男はエレンにセックスしたい好きか、と訊いた。ひょっとすると身体の関係ではなく、恋人関係になる気があるとかそういう問いだったのだろうか。
 エレンは男が何故ここにいてくれるのだろうかと疑問に思っていた。その答えが好きだから、だとしたら。エレンに優しいのも触れてくるのもキスするのも一緒に寝るのも好きだから、だとしたら説明はつく気がした。
 おそらく、最初は都合が良かったからエレンの誘いに乗ったのだろう。それがどのように好意に、恋愛感情に変化していったのかはエレンには判らないが。

「え? あの、ひょっとしてオレと住んでるのって、同居じゃなくて同棲なんですか?」
「俺はそのつもりだが」
「え? うふぇ? えええええええ」

 どうしたらいいのか判らず、エレンは咄嗟に近くにあったクッションで頭を隠してソファーに突っ伏した。

「俺に惚れられたら迷惑か?」
「………っ、それはないです。あの、その……」

 もぞもぞとエレンはソファーの上で動き、体勢を変えると、クッションで顔の下を隠して眼だけを覗かせた。その眼がリヴァイを捉えてふにゃりと笑む。

「オレ、リヴァイさんが、好きです。すごく、嬉しいです」
「……だから、そういうとこだぞ、お前」

 男がクッションを奪い取ってエレンに口付けするのはそれから数秒後――。



 若者が知らない裏側の話――。
 リヴァイが腕を一閃させると対峙していた相手は物言わぬ躯となった。何をされたのか認識出来ずに旅立ったのは幸か不幸か。今は足元で転がっているこの男でターゲットは最後だったが、次々と仲間が倒れてゆくのを目の当たりにした彼が一番恐怖を味わったのは確かだった。この男を最後にしたのは特に理由はない。全員屠るのが決まっていたから、やりやすいように倒していっただけだ。
 始末する際に人数は確認していたが、男は転がっている躯をもう一度数え直す。この人数でリヴァイを屠ろうと本気で考えていたのなら、その頭には脳ではなく花が咲いていたのかもしれない。人数に間違いはないこと、ターゲットに抜けがないこと――代わりに他の人間が来ていた場合、来なかった相手も処分しなければならない――を確認してリヴァイは入口に声をかけた。

「突っ立ってないで入ってこい」
「イヤ、確認作業邪魔されるの嫌かと思って、終わるの待ってた」
「時間の無駄だろうが」

 姿を現した同僚――ハンジは、改めて殺戮現場を眺めて、うわぁ、と声を上げた。

「さすがだね、リヴァイ。仕事が確実で早い。……それにしても、あーすごいことになったね」
「ナイフを使ったからな。銃を使いたかったんだが」
「ここで銃を使用するのがちょっとまずかったからね。それに、リヴァイ、ナイフの方が得意でしょ」
「返り血を避けきれねぇから後始末が面倒なんだよ」

 リヴァイは憮然とした顔で答えた。リヴァイは武器と名の付きものなら何でも扱える。現場のものを得物に変えて戦うことも出来るし、得物がなくても体術だけで普通に強い。一番扱いが上手いのはナイフではあるが、素早く離れたとしても多少の返り血は覚悟しなければならないので、それが面倒だった。
 取りあえず、この後の現場の処理をする部署にはねぎらいの言葉をかけたい。以前、この場にいる同僚に「そんなに綺麗好きなら清掃班に入れば?」と冗談交じりに言われたときに軽く沈めたことがあった。清掃班が何を清掃するのかを知っていての発言だったのだから、あれは自分は悪くなかったと男は思う。

「お前の方はどうなんだ?」
「それを私に訊く? ちゃんと処置したよ。優秀な部下揃ってるしね」
「お前の部署の人員が有能なのは認める。お前が上司なのが不思議だ」

 酷いなぁ、と肩を竦めるハンジにそれと、と男は付け足した。

「今度急な仕事を入れたら削ぐ」
「怖いな! 今回は急じゃなかったでしょ! 前回は私のせいじゃないし!」

 前回男に急な仕事の要請をしたのは確かだが、それはハンジのせいなどではなく、暗殺部門の予定していた人員が食中毒になったからだ――しかも感染症で、周りにも被害が出た。こんなときに集団食中毒かと殴ってやりたかったが、殴って治るものではないし、体調不良の人間を無理矢理連れていってミスでもされたら目も当てられない。そこでリヴァイに白羽の矢が立ったのだ。彼ならば急な現場にも対応できるし、他のメンバーからの信頼も厚い。どんな状況でもリヴァイがいれば何とかなると周りに思わせることが出来る貴重な人材だ――そして、現実に毎度何とかなっている。リヴァイは面倒になりそうな仕事は野生の勘とでも呼ぶしかない察知の良さで回避しているが、それでも頼られるのは彼なら何とか出来るという実績があるからだ。
 だが、任務に現れた男は物凄く不機嫌だった。不機嫌そうな顔がデフォルトではあるのだが、纏う空気というか、全体的に受ける雰囲気が不機嫌だったのだ。男は一度引き受けた仕事はきちんとこなすし、任務には全く支障はなく、むしろ順調に進んで予定より早く切り上げたくらいなので、他のメンバーには普段と全く変わらないように見えただろう。兵長は今回凄く調子が良かったですね、と言われてハンジは乾いた笑いで返すしかなかった。不機嫌の理由を強いて推察してみるなら――現場では携帯端末が使用できず、情報漏えいを防ぐため現地以外とは連絡が取れなかったのが気に食わないようだった、だが。まあ、何となくそんな気がしたと言うだけで確証はない。何故なら今まで一度もそんなことを男は気にしたことがなかったからだ。

(不機嫌そうなのはいつもだけど、リヴァイは隠すの上手いんだけどなぁ。まあ、あの子のとこに行って人間味が出たというかそんな感じはあるけど)

 ハンジが心配したのはあの若者と関わることでリヴァイが組織を抜けたり、敵対することだった。仕事の量をコントロールし、あの国に定着する気でいるようだが、組織との対立は考えていないようなのでそこは安心した。

「首を突っ込む気も邪魔する気もないけど、あの子をどうする気なの?」
「別にどうもしない。アレの好きなようにさせる」
「よく言うね。自らあの子の周りチェックしてるくせに」

 リヴァイはあの若者の行動範囲を全部把握している。よく行く店、通る道、登下校の時間、どこにどんな店、死角があるのかどうか総てだ。監視カメラの位置まで全部頭の中にある。数日行動を共にしていたのは自らの目でチェックをしたかったからだろう。実際にあの若者が行動しているところに居合わせ、チェック漏れがないか確認したに違いない。時間帯、曜日によっても人の流れは変わるし、どんなタイミングであの若者が動くのか一緒に行動しないと掴みにくい。もう一つはアルミンと連絡を取って不自然なくエレンと対面させるためでもあったのだが、その事実はハンジは知らなかった。

「俺のことを嗅ぎまわろうとする馬鹿もいるしな」
「あー、私にも湧いたっけ。性質の悪いのはつぶすけど、きりがないからね」

 エルヴィンを蹴落とそうと目論む連中が現れたり、個人的な恨みを買って狙われたりとかそういった話は絶えない。それでも、リヴァイはそういう話が少ない方だろう。エルヴィンは敵対者に容赦がないが、リヴァイは確実に息の根を止めるタイプだ。まず間違いなく首が飛ぶ――物理的に。ちなみに情報部門のハンジは物理ではなく社会的に抹殺するのでそちらの方がえぐいのではないかと囁かれている。

「何なら、卒業後、こっちの関連会社に入れたら? 病院だって手配できるでしょ」
「――ハンジ」

 男はただ名を呼んだだけ――それだけであったが、その声で、気温が数度下がったような気がした。

「余計な詮索はするなと言ったはずだ」

 隠そうとはしない殺気にハンジは降参とばかりに両手を上げた。

「邪魔をする気はないっていうのは本当に本当だよ。ただ、把握はしておきたい。利用する気はないし、何かしたらあなたは敵に回るだろうからね。――正直に言うよ。組織は別にあの子がどうなろうが興味はないんだ。敵対者に捕まって玩具にされて惨殺されたとしても何とも思わない。ただ、それであなたが使い物にならなくなったら困るのさ」

 男は暗殺部門一の能力を持っている。いや、戦闘にかけてなら組織一だろう。頭も悪くないし、怪我などで一線を退いても他に役職は用意できる。また、暗殺部門には男に助けられたり男を尊敬しているというものも少なくないから、リヴァイが離脱したら部門一つが総崩れする可能性がある。組織としてはそちらの方が重要なので、下手に手出しして刺激したくないというのが本音だ。ハンジが報告しているのでエルヴィンも事情は把握しているし、組織があの若者に危害を加えることはまずない。そもそも組織の者が情人を持つのはよくあることだし、家庭持ちだっている。下っ端なら報告だけ受けてああ、そうかで終わる話である。優秀で尊敬されてたりしたのがまずかったよね、とは絶対に男には言えないが。
 ハンジの言葉に男は舌打ちして殺気を散らした。

「お前が動けば余計に勘付かれるだろう」
「私がそんなヘマをするとでも?」
「……まあ、そのときは削ぐし、他の奴は消せばいいか」
「イヤ、だから怖いからね!」

 まあ、使えるものがいた方がいいか、と男は思い直す。エレンとあの親友の仲を取り持ったのも、大学で何かあった時知らせるものが欲しかったからだ。まあ、一番はエレンがあの若者を大切に思っていたからだが。勿論、男はエレンの交流関係も総て把握している。
 ハンジと別れ、リヴァイは血の臭いを洗い流して若者の元へと向かう。
 あの後、男はエレンと一つの約束をした。
 最初は軽い冗談のつもりだったのだ。エレンの義父が好きだったという盤上遊戯をして、勝った方が一つ言うことを聞く、という子供の遊びのような賭けだ。あっさり負けたエレンはかなり落ち込んでいた様子だったが。
 本当に冗談でリヴァイはセックスがしたい、と言った。最後までしたい、抱きたい、と。
 まさか頷かれるとは思わなかった。ただひとつだけ条件があったが。
 ――最後までするのは、誕生日に。
 何でも心の準備期間が必要なのだという。あれから触ると妙に意識されてしまうからもっと慣れさせなくてはならない。思春期か、と突っ込みたくなるが、慣れようと思っているのかエレンからの接触も増えたので結果的には良かったといえる。
 リヴァイはエレンをこちら側の世界に引き込もうとは思わない。エレンがそれを望むのなら考えはするが。
 こういう言い方はなんだが、エレンは最初に自分で言ったっ通りにこちら側の人間が関わるのに都合のいい人間だった。まず、身寄りが一人もいない。実の両親も義父母も他界しているし、親戚付き合いもない。近所のものとも疎遠で、親しいと呼べるのは仲直りした親友と、幾人か付き合いの復活した友人達だけ。今から名乗ってくることもないだろう――実の両親が他界した際に誰もエレンを引き取ろうとしなかったのだから。エレンの耳に入らなかったようだが、実は押し付け合いをしていたのをリヴァイは調べていくうちに知った。エレンを引き取った義父母にはリヴァイは深く感謝している。ハンジあたりに知られたら頭おかしくなったの、と気味悪がられそうだが。
 今のエレンを形作ったのは他界した義父母だろう。両親が種を蒔き、芽を出したが枯れそうになったそれを、手厚く世話をし、成長させ、蕾をつけるまでに育て上げた。これからどう咲くかはエレン次第だ。
 望むのはただ一つ。健やかなるときも、病めるときも、死の瞬間まで共にあること。それだけだ。




《完》
2020.5.14



 続きを思いついたので書いてみました、暗殺者リヴァイ×大学生エレンのエレン視点と後日談です。場面転換が唐突なのでちょっと読みづらいかもしれません、すみません。書いていたら何だかエレンがどんどん不憫になりました。いや、最初からこの設定だったんですけども。エロは入れない予定だったのに天然エレンが色々したので何故か入ることになりました。ぬるめですが18禁に。
 続きは書く予定なかったので、設定ミスがあるかもです(汗)。一応、出逢いが11月はじめでラストが1〜2月くらいを想定してます。最初からあったのに活かされなかったのは以下の設定。
・エレンの両親の死の経緯→エレンのトラウマ1。エレンが噂に対してああいう反応なのは「両親の死の責任は自分にもある」と思ってるからです。
・エレンの義父母の死の経緯→エレンのトラウマ2。
・アルミンが前作で「エレンは判らないけど、僕は友達〜」と発言したのは、エレンに友達じゃないと言われたから。嘘だと思っていてもそれで近付けなくなりました。
・エロ突入は誕生日→今回最後までしてないのでセーフ。
 後は糠床の行方とかアルミンとの仲直りとかハンジさんへの蹴りとか入れられたので良かったです。少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。



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