ニライカナイ


 ひらり、ひらりと眼の前で舞う鮮やかな紅色を男は眺め、はあ、と深い溜息を吐いた。

「何、溜息吐いてんだよ、ハンネスさん。ここはよく似合うね、とか凄く綺麗だよって褒めるところだろ? この服、キモノっていうんだが、物凄く高いらしいぜ。特別に衣装として貸し出してもらったんだから、もっと喜んでくれよ」

 東洋と呼ばれる国の伝統衣装らしいが、紅色の地に黒い蝶と金色の華をあしらったそれは確かに美しい。柄に合わせてひらひらと舞う蝶のような動きをしながらそれを披露してくれた相手も衣装負けしないくらいには整った顔をしている。それは男にも判っているのだが――。

「その服、女物だろう?」
「ああ。男物のキモノもあるらしいけど、実物は見たことねぇな」
「何で男が女物の服を着てるのを褒めなきゃいけねぇんだ、白雪」

 ハンネスが気が知れないというように頭を押さえると、白雪と呼ばれた少年は笑った。

「そんなの、ここが娼館だからに決まってるだろ」

 まあ、どうせすぐ脱がすんだから意味ねぇんだけどな、とあっけらかんと言う少年にハンネスは再び溜息を吐いた。


 声を大にして言いたいが、ハンネスは同性愛者でもなければ、少年を性の対象として見る趣味がある訳でもない。今までそういった行為をした相手は全員女性であったし、女性と結婚もしていた。
 そんなハンネスが娼館――しかも、娼妓は全員少年である――に通っている理由は数箇月前に遡る。
 いや、正確に言えば一年半前に妻を事故で亡くしたところから始まるのかもしれない。
 ハンネスと妻の仲は自他ともに認める程睦まじく、二人の間に子はなかったが、このまま二人でゆっくりと老後を迎えるのもいいと思っていた。夫婦で住むには十分な広さの家も購入したし、稼ぎも悪くなかったハンネスはこの幸せを失くすことになるとは思ってもいなかった。
 ――事故は本当に突然で、最愛の妻を亡くした男は嘆き悲しんだ。二人の想い出が詰まった家にいるのは耐えられず、家も売り払った。目に見えて酒量は増加し、仕事に支障はなかったものの、友人、知人達は男をひどく心配し、中には再婚を勧めてくるものもいたが、そんな気にはなれなかった。
 ようやく気持ちが落ち着いたのは妻の死から一年後で、そのハンネスに転勤の打診があったのだ。いっそのこと環境をがらりと変えた方がハンネスのためにいいかもしれない――そう思った上司の計らいで、男もそれに乗ってみることにした。家は売り払ったが、住み替えた場所は元の家とそんなに離れていた訳ではないので、見慣れた風景はどうしても妻と一緒に行ったときのことを思い出させた。全く関係のない土地に行っても思い出す可能性はあるし、かえってもういないのだと実感するかもしれなかったが、誰もハンネスと妻を知らない環境なら余計な気を使われなくていいかもしれないと考えたからだ。
 そうして赴いた新しい職場は気のいい人間ばかりで、ハンネスの歓迎会も開いてくれた。歓迎会の席で呑みながらこの先もやっていけそうだな、とハンネスは安堵した。その後、程々に呑んでいい気分で帰ろうとしていた男を同僚が二次会に誘った。断る理由はなかったので案内されるままについていった場所がいわゆる花街――そういう店の並んだ一角だったのである。
 ハンネスの妻はもう亡くなっているし、そういう店を利用するのが悪いとは思っていない。男が複数集まればそういう話題になるのも判る。ひょっとすると気を利かせてくれたのかもしれないし、彼らに他意はないだろう。だが、その気は全くなかったし、最初から行く場所が判っていれば断っていた。しかし、ここまで来て帰るというのも場を白けさせるだろう。後を引かない上手い断り文句をハンネスが思案していたときだった。
 高い女の悲鳴が聞こえたのだ。見ると、おそらくは娼館で働いているらしい艶やかな衣装に身を包んだ女性の髪を、男が乱暴に掴んでいた。
 男女の間にどんなやり取りがあったのかは判らないが、暴力をふるうのはまずいだろう。ハンネスは咄嗟に割って入って男の腕を離させた。

「オイ、あんた、何があったか知らねぇが、ひとまず落ち着けや」
「何だ、お前? 俺はこのあばずれが生意気なこと言うから思い知らせてやっただけだ。男と寝るしか能のねぇ、商売女のくせに!」
「あたしはあんたはお断りだって言っただけよ! 店の子に乱暴して出入り禁止になったくせに、店の外なら大丈夫とでも思ったの!」

 どうやら男の方に非があるようだった。吐く息が酒臭くて酒乱の気でもあるのかとハンネスは思った。
 さて、どうするか――騒ぎは起こしたくはなかったが、この場を放っておく訳にもいくまい。ハンネスが離れたら髪を掴むだけではなく、確実に殴る蹴るなどの暴行を加えそうだ。

「そこのおっさん、避けろ」

 突如かけられた声に、ハンネスはそちらを見やり、男を掴んでいた手を放した。
 途端、すぐ近くで、どかっという派手な音が響いた。

「姉さん、怪我ねぇか?」
「白雪!」

 現れたのは整った顔をした少年だった。年の頃は十五、六といったところか、黒髪に大きな金色の瞳でどこか人を惹きつける空気を纏っている。ハンネスに声をかけ、綺麗な飛び蹴りを男に食らわせたその少年はそのまま男を踏みつけ、的確に押さえて動きを封じていた。

「姉さんとこの用心棒何やってるんだ? こいつ、前にやらかしたやつだろう?」
「休憩がてら抜けてきたとこ捕まったから、あいつは悪くないよ。店に入れないから外ではってたんだろうし」
「まあ、もううちの店もこいつマークしたから安心していいぜ。店主が怒ってる」
「ああ、あんたんとこに睨まれたら終わりだよね。あたしらはこれで安心だけど」

 そんな会話が繰り広げられている間にどこからともなく現れた男達が、少年が踏みつけていた男を引き摺って消えていった。
 女性の方ももう休憩は終わりだからとその場から離れていく。

「ああ、おっさん、姉さんを助けてくれてありがとうな」

 店は違うけど、世話になった人だから、と白雪と呼ばれた少年は笑う。

「これやるよ。それ見せたら特別に割引してやる。まあ、うちの店はわりと高級だし、そういう趣味じゃねぇかもだけど」

 差し出されたものを反射的に受け取ってしまったハンネスに、少年は笑い、じゃあな、と手を振って去っていった。
 差し出されたもの――名刺には店の名前と少年の名前があった。あの女性が呼んでいた、おそらくは源氏名であろう。

「………ここ、娼館か? え? 男娼専門? あいつ、男娼? え? え?」

 顔立ちは整っていたが――まるっきりそんな雰囲気は感じられなかった。確かに日に焼けていない白い肌は肉体労働に従事しているもののそれではなかったが、あのくらいの年齢ならまだ親の庇護下にあるだろうし、そういった店で働いていると誰が思うだろうか。

(まあ、確かにここはそういうところだし、ここにいるのはそういう店で働くものか客かって話だが)

 そのまま忘れてしまうことも出来たが、どうにも少年が気になったハンネスは数日後に店を訪れ、彼と再会したのだった。


「しかし、ハンネスさんは変わってるよな。高い金払ってるのに、オレ抱かねぇし」
「生憎、男は趣味じゃねぇんでな」
「一度試してみればいいのに。案外いけるかもしれねぇだろ?」
「試してみる気はねぇし、試すとしてもお前は嫌だ」
「オレに失礼だろ、それ」

 そう言って笑う少年だが、はじめのうちはえらく怒られた。これは商売で仕事であるのだから、金を払うのなら対価を受け取れ、と。何もしないのならそれは施しと一緒で娼館で働くものを侮辱した行為だと。
 それに対してハンネスはお前の時間を買った、と言い切った。会話だって客を楽しませることは出来るし、少年のいる娼館は言う通りに高級の部類には入るところだった。高級娼館というなら、閨房術以外でも楽しませてみろ、というハンネスの見え透いた挑発に少年は乗った。
 以来、こうして性的なことは何もせずにただ会話をしたり、仮眠をとるだけに立ち寄ったり、少年の披露してくれる特技を見たりしている――この娼館の男娼は歌や楽器、カード占いや手品など何かしら退屈を紛らわせるような特技を身に付けているのだという。
 客との会話についていけるようにある程度の教養もなければならない。客が喜ぶような仕種、言葉選び、服装――それらを把握し、判断し、客の好み合わせて変えるのが売れ続ける秘訣なのだという。
 感心するハンネスに少年は苦く笑った。

 ――まあ、ここが高いのは男娼専門でその年齢が若いってところにある。意外に需要があるのに供給は女程多くねぇ。うちの店主は使い潰すのをよしとしていねぇし、潰されても困るから客は選ぶ。値段は篩いにかける一つの手段だ。まあ、金持ちでもえげつねぇ趣味の奴はいるけどな。

 この店で働くものは恵まれていると少年は言う。店によっては娼妓の扱いの悪いところや、売り上げも公平に渡されないところもあるのだと。この店に拾われて良かったという少年の言葉に嘘はないのだろう。――それがハンネスには切なく響いた。

(……同情って言われたらそうなのかもしれねぇがな)

 少年の事情をハンネスは知らない。何故、この店で働いているのかも、どのような経緯があったのかも。
 ただ、亡くなった妻との間に子供がいたら――少年くらいの年頃の子供がいてもおかしくないのだと思ったら、放っておけなくなったのだ。
 少年と同じくらいの年頃の少年がそれこそ何人もこの店で働いているのを知っている。この少年の境遇を知らないが、もっと酷い境遇の少年もいるだろう。これがただの自己満足にすぎないのは判っている。
 それでも、ほんの少しでも助けになればいいと思うことは傲慢だろうか。

「んじゃ、俺は帰るからな。この後のお前の時間は俺が買い占めたから寝とけ」
「眠るんならそこで寝れば?」

 少年が寝台を指し示したが、男は首を横に振った。

「自分の家の方がよく眠れるしな。まあ、折角だから休んどけ」
「……そっか。ありがとうな」

 帰る男を見送った後、少年は部屋に戻り、ぽすん、と寝台の上に横になった。

(……あ、着替えてねぇや。高い衣装が皺になったら怒られるか)

 だが、動くのが億劫だった。この衣装は締め付けがきついので脱ぎたくもあったが、脱ぐために動くのも怠く感じられた。

(……ハンネスさんには助けられてる。感謝しなきゃな)

 おそらくは同情混じりなのかもしれないが、助けられていることは確かだ。一日に何人もの客を取るのは身体に負担がかかる。ハンネスが客として長時間少年の時間を買ってくれている間は休むことが出来る。誰とも寝ていない今日は休養日だ。
 少年は別に同性愛者ではないし、男と寝たいと思ったことはない。仕事だからしているだけで性交が好きな訳でもない。ただ、他に出来る仕事がなかったからしているだけのことだ。

(……休んだら稼がなきゃ。もっとたくさん金が要る)

 少年は瞼を閉じた。耳に蘇ってくる優しい声。
 ――エレン。

(……母さん)

 それはもう母しか呼ぶことのない少年の本名だ。


 白雪――エレンはごく普通の少年であった。優秀な医師であった父と気さくで優しい母の間に生まれ、ごく普通の――いや、それよりは少し裕福な暮らしをしていた。
 その生活が壊れたのは父親が車の事故に巻き込まれて死亡したからだ。ちょうどその頃、父は自分の診療所を持ちたいと物件を見つけ、医療器具を揃えたところだった。つまりは開業のために借金をしていた。それは父が生きていれば無理なく返せるものであったが――死亡してしまえばそれも叶わない。折角の診療所は手放す他なかった。
 父の遺してくれた財産を整理し、借金を返済した母とエレンは新しい地へと引っ越した。蓄えは僅かになってしまったが、母は勤め先を見つけて働き出したし、親子二人で慎ましく暮らしていく分には問題はなかった。そう、母親が病に倒れなければ。
 母親のかかった病はまだ治療法の確立していない難病だった。薬でその進行を遅らせる以外に道はなく、更にその薬はとても高価だった。あっという間に金はなくなり、母を助けるためにエレンは働き口を探した。だが、当時やっと十歳になったばかりのエレンに働き口はなかった。例え、見つかったとしても普通の仕事では母親の入院費と薬代は到底賄えない。だから、エレンは身を売ることにした。
 知識として男女の営みは何となくあったが、具体的に知っている訳ではないし、同性同士では更に未知数だ。だが、子供は高く売れると聞いたことがあった。
 ここでその辺の道端で客を引かなくて正解だっと思う。悪い大人に捕まれば貪り尽くされて捨てられたであろうし、常識のある大人に見つかれば警察などに保護されてしまっただろう。
 そもそも知識がない自分がいきなりやるのは無理がある。専門の人間に教えを乞う方が早いし、上前は撥ねられるかもしれないが、その手の店に雇ってもらった方が自分で客を探すよりも効率はいいだろう。そうして、雇ってくれと直談判しに行ったのが今の店だったのだ。
 エレンは知らなかったが、この店の店主はこの界隈では有名な人物で、複数の店舗を経営し、政財界にも顔が利くような実力者だった。五十年以上もこの道で食べているのだからその腕前を疑う余地はない。当時のエレンにとってはただの婆さんでしかなかったが。
 店で働かせてくれという少年をばっさりと「一昨日来やがれ」で切った老婦人に、エレンは食い下がった。

 ――働かせてくれ。どんな仕事でもする。
 ――ここがどんな場所か判って言ってるのかい? ぼうや。
 ――知ってる。だから、働かせてくれ。
 ――ここは高級な部類に入る。客に対する礼儀も知らないぼうやじゃ務まらないねぇ。
 ――なら、全部覚える。

 あくまでも退かないエレンに店主はやれやれと肩を竦めた。なら、やってみるといい、けれど、下働きからだ、と告げた老婦人にエレンは頷いた。彼女がどうしてエレンを雇ってくれたのかは判らない。そちらに関しては何の知識も持たない少年など追い返すか、もっと下の店――子供を使い捨てにするような場所に押し込むことも出来たはずだ。
 後に彼女に訊ねたら、あんたのギラギラした眼を見たら引き取るしかないだろう、というエレンには不可解な回答が返ってきた。
 彼女はその後、エレンを二年かけて教育した。店の掃除や洗濯などの雑用から、客への対応、上手い立ち回り方、教養、護身術、性知識などこの世界で生きていく上で必要なことは総て叩き込まれた。その間、客を取ることはなかったが、給金は支払われた。そのおかげでエレンは母とともに生きていくことが出来たのだ。
 教育を終了した少年は店で客をとるようになり、今ではこの店の中でも売れっ子となった。そうして数年が経ち、エレンはじきに十六の誕生日を迎える。

(まだまだ、足りねぇ。稼げるうちに稼がなくちゃ)

 そんなことを考えながら、エレンはすうっと眠ってしまった。



「あ、良かった、見つけた、白雪」
「暁」

 店に入ったエレンが声をかけられて振り返ると、そこにはこの店で働く同僚がいた。綺麗な金髪と妖艶さを感じる魅力的な薔薇のような紅い唇の持ち主だ。
 暁というのは当然源氏名だ。店にいる娼妓は全員店主が名前を付け、その多くは昔話の姫君からとったものだという。お姫様の名前をつけたら王子様が迎えに来てくれるかもしれないだろう?というのが店主の言だが、どこまで本気なのかは判らない。

「あのね、うちの店じゃないけど、客に刺された子が出たの」
「客に刺された?」

 同僚が聞いた話では客というか、『元』客とのことだ。彼は美しい娼妓に逆上せ上がり入れ込んで、入れ込み過ぎて付きまとうようになり、店から出入り禁止とされ要注意人物として警戒されていたらしい。勿論、その事情から娼妓に警護はつけていたが、相手は子供を雇って近付かせ、一瞬そちらに注意が向かった隙に刃物を持って飛び込んできたのだ。

「計画的か」
「うん、相手はすぐに取り押さえられて、刺されたっていってもちょっと掠った程度みたい。本人は痕が残らないかすごく気にしてるみたいだけど、多分残らないし、残ったとしてもよく見なきゃ判らないくらいだろうって」
「後遺症もないんだろ? なら、それで良かったと思うしかねぇな」
「でも、傷痕を気にするのは判るよ。そういうの嫌うお客さんだっているしね。逆に好きな人もいるだろうけど、そんなマニアックな人は少ないだろうし、変な店に行くことになったら怖いもの」
「まぁな」

 この店にはそうそう変なものは来ないが、特殊な性嗜好を持つものの話はよく聞く。複数人で一人を相手にしたいとか――これは却下される案件だ――逆に一人で複数を可愛がりたいとか、自分は指一本触れずに娼妓たちが戯れる様を見て自慰する人間とか、ひたすら娼妓が一人で達するのを見ていたいものとか、拘束したりされないとダメとか、自分が責められないと興奮しないとか、よくもまあ変な趣味の奴がいるものだと思う。
 後は普通に行為はしても相手が若い少年じゃなきゃダメとか、傷だらけの身体に興奮するとか、眼帯や包帯を巻いて欲しいとか、男に女装させないと嫌だとか挙げていったらきりがない。

「あれか? 言われたことをそのまま真に受けたって感じなのか?」
「うーん、思い込みの激しい人だったみたい。自分の都合の良いように受け取るっていうか……彼女は自分と一緒になりたがってる、引き裂かれるくらいなら一緒に死のう、ってなったんだって」
「店でのやり取りなんて夢の中の出来事と同じなのにな」

 だが、実際に君と一緒になりたいんだと男性客に愛を囁かれて貢ぐものや、こんなに素敵だと思ったのはあなただけよ、と微笑まれて入れ込む客はいる。総てが嘘ではないが、所詮それはひとときの夢の中での出来事だ。夢は覚めるもので覚めれば現実が待っている。

「白雪、他人事みたいに言ってるけど、気をつけてよ。あなたにもいたでしょ?」
「オレ?」
「そう、出入り禁止になった客いたでしょ?」
「ああ、そういやいたな」

 客には性癖ではなく言動が迷惑なものもいる。口汚く相手を蔑み罵るものや、ひたすらにこんな仕事をして恥ずかしくないのかと説教をし続けるものなど。相手を貶めることで自分が優位になりたいものはままいる。この店ではそういったものはまず通さないし、他の店でも余りに行き過ぎたものは出入り禁止にされる。そういった言動を嫌う客もまた多いからだ。
 エレンのところに通っていた客は罵るのではなく「可哀相な男娼に救いの手を差し伸べる自分が好き」なタイプだった。毎度毎度悲劇のヒロイン扱いされるのは正直鬱陶しかったが、金払いは良かったので、エレンは適当にあしらっていた。客の扱い方は心得ていたし問題はなかった――その男がエレンをもらい受けたいと言い出すまでは。
 エレンはその男に対して好意をかけらも持ち合わせてはいなかった。ただ客として接していただけだったし、自分を身請けするとなるなら莫大な金が必要で、その客にそこまでの財力はあるようには見えなかった。
 莫大な金――というのは店に支払う金だけのことではない。店主はエレンにかけた教育料や店に出なかった間の給料などは求めてくるだろうが、法外な金を吹っかけるようなあくどい商売をやっている訳ではなく、従業員は大切にしている。だが、エレンには病床の母親がいる。エレンを引き取るとなればこれからの母親の治療費を払える相手でなければ無理だ。
 更にこういったタイプの男はエレンを助けたという事実に酔ったらそれで満足してしまい、その後のことなど考えないだろう。
 とにかくお断り物件だったのには間違いない。エレンの事情を知る店主は丁重にお断りをしたのだが、これに男は逆上した――どうやらプライドが傷付けられたらしい。わざわざ助けてあげようという自分の善意を踏みにじった、同情を買うように振舞って金を巻き上げた性悪だとエレンを罵り、店に嫌がらせをしてきたのだ。
 ブチ切れた店主がそれなりの対応したのでもう大丈夫と笑っていたが、あの男がどうなったのか興味もなかったエレンは詳しくは訊かなかった。

「まあ、大丈夫じゃねぇか。店主に睨まれたらもうこの界隈には来られねぇだろうし」
「それはそうだけど、人生何があるのか判らないでしょ? その人じゃなくたって他に厄介な客と関わることもあるし、客だけじゃない面倒もあるし」
「まあ、内輪での揉め事もあるしなぁ」
「そう、客の取り合いとか、務めてる子同士が仲悪いとかでギスギスしてる店もあるし。用心棒とできちゃって逃げたとかもあるしね」

 うちは店主がしっかりしてるから大丈夫だけど、気を付けるにこしたことはないと続ける同僚に判ったと告げて、エレンは与えられた部屋へと向かった。


 その日のエレンの客は初めての相手だった――更に本日はその客の相手だけでいいという。何でも一日エレンを買いきったそうで、不可解な話に少年は首を傾げた。勿論、ハンネスのように気に入った娼妓を一日買うという客はいる。だが、それは馴染みの娼妓だからであって、一度も寝たことのない相手にすることではないだろう。
 客の身元がしっかりしていることは確かだ。店主があやしいものを入れる真似はしない。

(常連のじいさんの紹介だからって言ってたっけ)

 数箇月に一度、この店を買いきる客がいる。店を貸しきって乱交するという訳ではなく、普通に盛大な宴を催す不思議な客だ。娼妓を着飾らせ、豪勢な立食形式の料理を振舞い、芸を披露させる。特に誰かの固定客という訳ではないし、彼と寝たという娼妓は存在しない。派手な宴会を催しながらいつの間にか彼自身はその場から消えている――そういった客だ。
 エレンの推測だが、彼は娼妓を抱くためにここに来ているのではない。多分、それを隠れ蓑にして何かしているのだと思う。例えば、ここの一室で密談をするとか、何かの取引をするとか、はたまた誰かの眼をここに引き付けておいて、密かにどこかへと移動して何かの商談をするとか。
 こういった店はそういう使われ方もする。それを口に出して指摘するものはいない――勿論、エレンもその推測を誰かに話したことはない。好奇心は猫をも殺すというけれど、してはならない詮索というものは存在するのだ。ここは夢の世界だ。夢での出来事は現実に持ち帰ってはいけない。
 扉が叩かれ、エレンは件の客が到着したことを知る。そこで少年は瞬時に『白雪』としての仮面を被る。

「ようこそ、夢の館へ。ご指名いただきました、白雪と申します。ひとときの夢をごゆるりとお楽しみくださいませ」

 素のエレンを知っているものならば吃驚する程の艶然とした美しい笑みを浮かべ、少年は悟られないように相手を観察した。
 案内されて来たのはきっちりとしたスーツに身を包んだ、長身の男。後ろで髪を束ねたあご髭の中々の色男で、女性にもてそうな印象だ。わざわざ娼館に足を運ばなくても寄ってくる相手はいそうに見えるが、後腐れのないものを探してここを選んだのかもしれない。

(……動きに隙がない。軍人上がりか護衛って感じだけど)

 まあ、一番の問題は男の好みだ。清純そうに恥じらうのが好きなものもいれば、小悪魔的におねだりするのが好きなものもいる。妖艶に笑う女王様が好きで奉仕したいとか、逆に従順に自分に奉仕するのが好きな男もいる。
 娼妓の写真は見ているはずだし、体つきなどの情報も得ているはずだから外見上は自分は相手の好みに合致しているはずだ。

(多分、上客なんだろうなぁ。オレ、この店じゃ売れてる部類だし、一日買いきりにするくらいだから)

 ならば、満足して帰ってもらわないと困る――いや、どの客にも満足して帰ってもらうというのが商売の前提だろうが。
 悟られないように考えを巡らせるエレンに男はこの場では決して言ってはならない言葉を口にした。

「はじめまして。エレン・イェーガー様ですね?」

 その言葉に瞬時にエレンの顔から表情が抜け落ちる。それから、口元だけで笑んでみせた。

「……ここは夢を見る場にございます。私達はひとときの夢を見せるための華でありますが、その華がどのようにして咲いたのか決して詮索してはならないという決まりが存在致します。これは手前どもだけではなく、この街に出入りするもの総てに共通する掟です。あなた様がいかようにしてそれを知り得たのか私は存じ上げませんが、それを口にした時点であなた様は夢を見る資格をなくしました。――どうぞ、お引き取りを。お代はいただきません。もうお目にかかることはありませんが、どうかご健勝で」

 夢での出来事は現実には持ち帰らない。そして、夢に現実を持ち込まない。娼妓は客の出自を詮索しないし、客もまた娼妓の身の上を詮索してはならない。夢物語として自分のことを語るのは自由だが、娼妓の本名や経歴を調べてそれを本人に告げるなど論外だ。花街には複雑な事情を抱えたものや、人には知られたくない過去を持つものが多く棲んでいる。それらの過去を興味本位で暴いてはいけない。暴露したものは出入りを禁止される――それがここの暗黙の掟だ。
 例え、それがどんなに上客であっても、自分がちっぽけな男娼であってもだ。

「失礼いたしました」

 そう言って男は深く頭を下げた。

「本人確認のつもりで他意はありませんでした。私はエルド・ジンと申しまして、主人の使いとしてここに参りました。私の主人――リヴァイ・アッカーマンがあなたを屋敷に迎え入れたいと望まれました。本日はその交渉の役目を務めさていただいております」

 寝耳に水な話にエレンは思わずぽかんとした顔をしてしまった。リヴァイ・アッカーマンなる人物をエレンは知らなかった。おそらくは一度も会ったことのない人物だ。偽名で来ている客、ということもないだろう。それならばその事情をここで話しているはずだ。

「……そのお方にお目にかかった記憶がありません」
「主人はこちらには訪れたことは一度もありませんので、そうかもしれませんね」
「では、何故? どなたかと勘違いなさっておいででは?」
「私には判りかねます。ですが、主人があなたを迎え入れたいと希望されているのは確かです。店主にはすでに話を通してあります」

 それではこれは本当に正式な話だ。一度も寝たことのない男娼を身請けしたいなどという不可解な申し出は本当のことなのだ。店主がこの男を通したのだから、そのアッカーマンという名の男の身元は保証されているのだろう。

「店主にはあなた次第だと。――無粋な話ではありますが、あなたへの支払いは今までの五倍、衣食住はこちらが総て保証いたします。それとは別にあなたの大事な方に関わる総ての費用もこちらがもちます」
「――――」
「返事は一週間後に。その間のあなたの時間も買わせて頂きましたので、ご自由にお過ごしください。――良い返事をお待ちしています」

 そう言い残して男は帰っていった。



 列車に揺られてエレンが降り立ったのは懐かしい場所だった。

「……久し振りだな」

 小さく呟いて足を進める。ここはエレンが幼少期を過ごした――父親が亡くなるまで住んでいた土地だ。

(親父が死んだのがオレが七歳になったくらいだから……九年振りくらいか)

 数年なら大きな区画整理でもなければ見違える程変わっているということはないかもしれないが、それでも店の入れ替わりがあったり建物が増えたりしているかもしれない。当時のエレンはまだ幼かったので今昔の知り合いがすれ違ったとしても、相手は自分だとは気付かないだろう――いや、むしろ気付いて欲しくなかった。
 エレンはその足で真っ直ぐにある場所を目指して進んだ。昔暮らしていた家があった場所や、家族で行ったレストランや店などに立ち寄る気はなかった。エレンが向かった先は――この街にある大きな自然公園だ。

(ここは変わってねぇな)

 人々の憩いの場となっているこの公園を潰したら大勢の住民から猛抗議を食らいそうだから、そうそう変わってないだろうとは思っていたが、変わらないこの場所を見ると変わってしまった自分を痛感する。
 エレンは公園の一角のベンチに腰かけ、提げていた鞄から小さな箱を取り出した。天鵞絨のそれを開けると、中には銀色に光る指輪が納まっている。その表面を指でなぞりながら、エレンは王子、と微かな声で懐かしいその名を呼んだ。
 ――エレンが小さな『王子』と逢ったのは六歳の頃の話だ。
 まだ父が存命であった時分、エレンはこの公園によく遊びに来ていた。元々、外で駆け回るのは好きであったし、この公園は広くて遊ぶ子供も多かった。
 エレンがその人物に気付いたのは偶然といっていい。たまたま視線に気付いて顔を向けたらその人物がそこにいたのだ。
 木陰に設置されているベンチに腰かけ、こちらを観察していたらしい相手はエレンよりも少し上――おそらくは十歳くらいの少年だった。綺麗な金色の髪はきっちりと分けられ整えられており、緑がかった青い瞳を隠すように細いフレームの眼鏡をかけていた。シンプルな半袖のシャツに七分丈のパンツという格好だったが、思い返してみるとかなり上等な部類の衣服だったと思う。見たことのない顔だな、と思い、興味を持ったエレンは少年に近付いた。

「お兄ちゃん、何してんの?」
「…………」
「遊ばねぇの?」
「…………」
「一緒に遊ぶ?」
「…………」

 エレンが声をかけても相手は無言だった。こちらを見ていたからてっきり一緒に遊びたいのかと思ったのだが、違ったのだろうかと首を傾げていると、少年は無言のまま座っていたベンチから立ち上がった。
 そのまますたすたと速歩で公園外へと向かっていったので、エレンは慌てて後を追った。

「あ、待っ――」

 エレンが言いきる前にずしゃーっという擬音が似合うような音が響いた。音に気付いた少年が振り返ると、地面に突っ伏している子供がいた。

「……転んだようだな。大丈夫かい?」
「だいじょうぶ。こでくだいいだくねぇし」
「………痛いときは我慢しなくてもいいと思う」

 少年はふう、と溜息を吐くと伏していた子供を抱き起して服についた土を払った。足についていた土も落とし、子供の膝に血が滲んでいるのを見て眉を寄せた。

「少し擦りむいている。洗った方がいい」

 少年は公園に設置されている水道まで行ってエレンの傷口を洗ってくれた。傷は大したことはなかったが、少年の手つきは丁寧だった。

「ありがとう。お兄ちゃん、名前は? オレはエレン」
「…………」
「名前は?」
「…………」
「なーまーえー」
「……私の名は教えられない」
「どうして?」
「どうしてもだ」

 その後、エレンが何度訊ねても少年が自分の名前を教えてくれることはなかったのだが――呼び名がないと不便だと思った子供は『王子』と呼ぶと宣言した。

「王子?」
「本で見たのとそっくりだから! 王子!」

 子供向けの、勇気ある王子が悪者を倒して美しい姫様を救うという判り易い勧善懲悪の本をエレンは前日に読んでいた。姫君はどうでも良かったが、悪者をやっつけるというのが格好良かったので王子のことは気に入っていた。その本の挿絵で王子は金髪碧眼で描かれており、同じような色合いの少年をそう呼ぶことに決めたのだ。実際のところは少年とは余り似ていなかったのだが、エレンの中では同じ色合いイコールそっくりという単純な方程式が成立していた。

「それで、何して遊ぶ?」
「……一緒に遊ぶのは決定しているんだね」

 溜息を吐いた少年――王子だったが、それから毎日のようにエレンと遊んでくれた。公園に行けば王子が出迎えてくれて、一緒に疲れるまで遊んで家に帰る。普通なら平日の昼間に子供が遊んでいたら声をかけられるだろうが、季節は夏だった。おそらくは夏期休暇をエレンの住んでいた街で過ごしていたのだと思う。王子自身も家の都合で夏の間はこの街で過ごすことになった、というような話をしていた。
 王子は自分の家や家族のことついては殆ど語らなかった。エレンには理解出来ない小難しい本をよく読んでいて、読んでいて楽しいのかと訊ねたら勉強は義務なのだと返された。おそらくは王子はいいところの家の子息だったのだと思う。何か複雑な事情があったのかもしれないが、子供にはそんな事情など判らなかったので、つまんねぇなら一緒に遊ぼうとただ袖を引いた。
 王子は眩しそうに眼を細めて君は自由だね、と笑った。エレンにはその言葉の意味がよく判らなくて、更に王子は自由じゃないのかと訊ねたら今は、という回答がきた。自由になるための準備期間中と言われ、なら手伝うと申し出たら頭を撫ぜられた。
 ――王子は不思議な雰囲気の少年だった。上品な所作を身に付けていて、やわらかな物腰から家柄の良さを感じさせるのに、時折どこか野生の獣じみた荒々しさを感じた。どうしてエレンの相手をしてくれたのかはよく判らなかったが、一緒に遊ぶのは楽しかった。
 よく晴れたある日の昼下がり、エレンは公園で顔を合わせてすぐに少年の手を引いた。戸惑った様子の相手を気にせずに行こう、と子供は歩き出す。

「王子、この先見に行こう! 今が見ごろだから!」
「何を見に行くんだい?」
「いいから!」

 子供が少年の手を引いて訪れた先は一面の黄色。風が吹くと一斉にその黄色がそよぐ。
 美しく咲き誇る花を前にどうだ、という顔で子供は笑った。

「向日葵か」
「そう。母さんがここ教えてくれたんだ。綺麗だろ」

 公園の一角にある向日葵畑は夏の名物で、母親を含めた多くの人間に楽しまれている。エレンには花を眺めて美しいといって楽しむ感性は余りなかったのだが、この風景は素直に見事だと思った。そして、王子にこれを見せたいと思ったのだ。地元では有名だからもう少年が知っている可能性もあったが、二人で見られたならもっと美しく感じるだろうと。

「こういうのニライカナイって言うんだって」
「ニライカナイ?」
「何か、どっかの国の地方の言葉だって。すごく綺麗な夢みたいな場所のこと」
「……理想郷みたいな意味合いか」

 そう、それ、とエレンは頷いたが、意味はよく判っていなかった。幼い子供によくある新しく知った言葉を使いたがるというそれで、たまたま知った単語を使ってみせただけにすぎない。

「この花はエレンに似ているな」
「オレ?」
「瞳の色が似ている。……綺麗だ」

 エレンはその言葉にむうと眉を寄せた。褒められているのは判るが、男に対して綺麗というのは褒められているようには感じない。

「きっと君ならニライカナイに行けるのだろう」
「王子は?」

 まるで自分は行けないと思っている口振りだったので思わず訊ねると、少年は首を横に振った。

「私は行けないな。この足が歩む先は地獄への道だ」

 地獄というものが本当に存在するのか判らないが、悪い人間が墜ちる先だとは知っていた。そんなところに少年が行くというのは納得が出来なかったので、エレンはその言葉を否定した。

「王子だって行ける」

 その言葉に少年はただ笑うだけだったので、エレンはなおも言い張った。

「絶対に行ける! じゃあ、オレが引っ張っていく!」

 その言葉に虚を衝かれたような顔をした少年の手を子供はぎゅうと握った。

「こうやって引っ張っていく。どこにいても、絶対に一緒に行く」
「……地獄でも?」
「地獄でも!」
「……一緒に地獄に墜ちるかもしれない」
「おちねぇ! 王子がオレなら行けるって言った!」

 そう言って任せろ、と胸を張る子供に少年はくつくつと笑った。

「ああ、ダメだな。地獄だと判っているのに、連れて行きたくなる」
「だから、行くって!」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。だが、それを望んでくれるのなら――」

 必ず連れて行く、と呟いて抱き締めてくる少年を子供は不思議そうに眺めた。


 数日後、公園を訪れたエレンに少年は真剣な面持ちで話があると告げた。いつものおしゃべりとは違う深刻な雰囲気を感じ取って頷くと、彼は子供の手を引いて先日訪れた向日葵畑へと向かった。

「エレン、私は家に帰ることになった。もうここには来られない」
「――――っ」

 突然の別れの宣告にエレンが固まっていると、少年はその場に跪き、子供の左手を取った。
 そのままポケットから取り出したものをエレンの薬指に通す――銀色に光るそれはエレンの指には合わない大きさの指輪だった。

「俺と結婚してくれ」

 そう告げる少年にふざけた色は一切ない。その様子にエレンは混乱した。突然の別れの宣告も受け入れられていないのに――少年がいつかこの地を去るだろうとは思ってはいたが――突然のプロポーズである。婚姻というものは男女で結ぶものではなかったのだろうか。自分の両親もそうであるし、近所に住んでいる夫婦も皆そうだった。それに――。

「何か、王子、いつもとちょっと違う?」

 いや、違うというよりも彼の中に感じていた荒々しい面の方が強く出ている感じなのだが。

「プロポーズくらい、自分の言葉で言わなきゃ意味がねぇ。……こういう感じは嫌か?」

 ほんの少し弱気が覗く言葉にエレンは首を横に振った。

「王子は王子だから、変わらねぇよ?」

 そうか、と頷く少年が安堵したように見えたので、エレンもほっとした。彼の沈んだ顔は見たくない。
 王子はいいところの家の子なんだろう、というのはエレンも感じ取っていたので人前では行儀よくするように言われているのかもしれないな、とかそんな風に思った。飾らないということは身内扱いということで――まあ、親しき中にも礼儀ありというが――むしろ嬉しかった。

「でも、王子、男同士は結婚出来ねぇだろ?」
「出来るところもある。まあ、滅多にないのは事実だが、俺のところでは認められている」
「そうなのか? なら、いいぜ。王子と結婚する!」

 あっさりと首肯した子供に少年は微妙な顔をした。

「プロポーズした側が言うのもなんだが、あっさり決めすぎだろう」
「何で? オレ、王子大好きだし、結婚ってずっと一緒にいるってことだろ? なら、オレ、王子がいい!」

 エレンの身近で結婚している人物といえば真っ先に両親が思い浮かぶ。というか、両親以外の夫婦をエレンはよく知らない。近所に住んでいる仲の良い夫婦は知ってはいるが、挨拶をする程度で深くは知らないし、当然結婚生活というのも両親基準になる。エレンの両親の夫婦仲はとても良かったし、何より好きな人と一緒にいられるのならすごく幸せだと思った。
 はあ、と少年は溜息を吐いて、まあ、承諾してくれたのだしいいか、と頷いた。

「では、これは誓いだ」

 そう告げて、少年は子供の両頬を包んで合わせるだけの優しい口付けをした。
 当時六歳のエレンには性知識はまるでなかったが、キスは好きな人同士がするもの、という認識くらいはあった。やたらにするものではないこと――それを素直にエレンは受け入れた。嫌悪感は全くなかったし、本当に少年が自分のことを好きな証だと感じられて嬉しいと思った。

「今はまだ連れて行けない。それだけの力がない。必ず迎えに来るから待っていてくれ」
「いつ来るんだ?」
「判らない。だが、一年後また逢いに来る。この向日葵畑を一緒にまた見よう」

 頷いたエレンに、少年はもう一度優しいキスをした。


 けれど、エレンは一年後に向日葵畑には行かなかった。夏が来る前に父親が亡くなったからだ。葬儀やら財産整理やらで大変な母親を放って遊び回る真似は出来なかったし、その後、この地から離れてしまったエレンにここを訪れる余裕はなかった。

(多分、初恋だったんだろうな)

 恋、と呼べるかどうかも判らない淡い想いだったが、確かに『王子』はエレンの特別だった。
 指輪を再び指でなぞる。指にははめられない。サイズが合うかどうかという問題ではなく、もうその資格が自分にはないと思うからだ。
 王子が好きだったあの子供はもうどこにもいない。同じくまだ子供だった彼がどこまで本気で言っていたのかは判らないけれど、子供なりに真剣な気持ちでこれを渡してくれたのだと思う。今では若気の至りと思っているのかもしれないが。
 箱は指輪を納めるために後に購入したのだが、渡された指輪は白金に金剛石をあしらった高価だと思われるもので、子供が持っているような品ではなかった。彼がどのようにしてこの指輪を入手したのかは謎だ。彼が勝手に家から持ち出したとか、盗品だとか、そういう疑いはかけらも抱いてないが、無理して購入させたのなら申し訳なく思う。渡された当時は指輪の価値など判らなかったからただ綺麗なものだという認識しかなかった。金に困っていた時に売ればそこそこの金になったかもしれないが、どうしてもエレンはこれを手放せなかった。
 この指輪にはとても大事なもの――キラキラと輝く幼い頃の想いが詰まっている。今の自分が歩く道を決めたことに後悔はないし、何度繰り返しても同じ選択をしただろう。後悔はないが――辛いことや苦しいことがなかった訳ではない。そんなときにこの指輪を取り出しては眺めると荒れた心が凪いだ。
 けれど、もう、終わりにしなければ。

 ――アッカーマン一家は裏の社会では知らないものはないくらい有名なところだよ。

 店主はそうエレンに教えてくれた。広大な土地を所有し、数々の企業や店舗を運営し、裏社会に君臨している一族の一つ。リヴァイ・アッカーマンはそこの家長の血を引く二十歳過ぎの青年で、まだまだ若造と呼ばれる年齢にも拘らずすでに組織の一部を任されている実力者らしい。

 ――あんたにした約束は守るだろう。財力は申し分ないし、自分の情人に不自由をさせれば笑われることになるからね。ただ、この話を受ければあんたはもう表の世界には戻れない。

 花街には薄暗い事情を持つものも棲んでいるが、あそこはいわば境界だ。困難は持ち受けているだろうが、本人が死ぬ気になって努力すれば表の世界に戻ることがまだ出来る。だが、裏社会を仕切る組織の一つに身を寄せてしまえばそこから抜け出せなくなる。

 ――この辺をシマにしているのはアッカーマン家じゃない。だから、まずここを仕切ってる一家に話を通したのさ。断ったところでうちに何かある訳じゃない。友好関係を築いているとはいえ、他所のシマで騒ぎを起こせば抗争になりかねないからね。それも男娼に袖にされたからなんて理由じゃ恥ずかしくて外も出歩けないねぇ。

 だから、好きにするといいと店主は笑った。その言葉の通り、エレンが嫌だといえば店主はこの話を断るだろう。店主がそれでどうこうなるような人ではないとエレンも知っている。店主の築き上げてきた人脈や地位はその程度では揺るがない。本当にエレンの意志次第なのだ。

(……金がいる)

 母親のカルラの病気の進行は薬で抑えてはいるのだが、それでも少しずつ悪化している。本当はもっと最新の治療を受けられる設備の整った大きな病院に移したい。今の病院が悪い訳ではないし、医師も手をつくしてはくれているが、もっと良い環境で最善の治療を受けさせてあげたい。
 だが、それには金が必要で、金を稼ぐのにも限界がある――そして、エレンには期限があった。
 エレンは今は売れっ子であるが、後三年も経てば売れなくなる。今の店は年若い少年を売りにしているからだ。
 人は年を取ればその容貌は衰えていくものだ。勿論、年を重ねたからこその美しさはある。十代の若々しさよりも、円熟した色香を放つものを好むものもいるし、その年代にならなければ出ない魅力というものは存在する。
 しかし、店の特性がそうである以上、訪れるものが求めているのは年若い少年だ。成人したらエレンを指名するものはいなくなるだろう。
 勿論、成人した男性が好みだというものもいるし、そういった店も存在する。エレンが今の店で売れなくなれば店主が新しい店を紹介してくれる可能性は高い。ただ、今ほどは稼げなくなっていくだろう。そして、一定の年齢を超えれば客がつかなくなる。
 この仕事は四十、五十になっても続けられるようなものではない――まあ、そういったものを好むものもいるかもしれないが、そう数は多くないだろう。
 だから、手は早く打っておかねばならない。稼げるだけ稼いでおかなければならない。この仕事しか知らない自分がこの仕事で稼げなくなったときのことを想定して動かなければならない。

(……不特定多数の相手から一人に変わるだけだ。何を悩む?)

 余程の酷い趣味がなければ一人を相手する方が複数相手より身体は楽だろう。二十歳すぎならまだ性欲は強いかもしれないが、毎晩相手するということもないはずだ。あの使いの男の話が本当であるならば一年で五年の稼ぎが入る。ただ口約束の可能性もあるので、書面に起こすとか店主に立ち会ってもらうとかしてもらった方がいいかもしれない。すぐに飽きられて捨てられたら路頭に迷うし、より酷い条件の店に転売されては堪らない。

(金が、いるんだ)

 母親のカルラはエレンが何をして稼いでいるのか本当のことは知らない。薬の値段も本当のことは隠している。今のエレンは昼間は働いて夜間学校に通っていると伝えてある。店主に頼み込んでどうにか誤魔化してきた事情だが、その辺のこともまた上手く誤魔化さなければならない。

(親戚が今頃になって現れた……は不自然か)

 母親のカルラの両親はエレンが生まれる以前――父と結婚する前に亡くなっていた。父方の親族は母親との結婚に反対で、それを押し切った父に怒り縁を切られているため、エレンは一度も会ったことがない。父の葬儀にも彼らは来なかった。頼れる大人のいない子供の無力さをエレンは思い知っている。
 きっと店主はその辺も上手く都合をつけてくれる相手だと見込んでこの話を持ってきてくれたのだろう。
 条件はいい。おそらくこの先もこれ程の好条件の相手はいないだろう。今後のことを考えれば受けるのが一番だ。
 この仕事で稼ぐのだと決めたときから、もう元の自分には戻れないと覚悟した。なのに、即答出来なかった。

(判ってる……ただのオレのちっぽけな自尊心だ)

 客に身体を売っても心までは売らない、なんてことを言うつもりはない。好きでもない男相手に足を開いた時点で自尊心などというのは笑わせる話だ。
 ただ、それでもこれは仕事で商売だった。客に奉仕はするが、それは対価だ。同じ身体を売るのでも根本的に違う。
 この話を受けるというのは、飼い犬になるということだ。主人に飼われて機嫌を取り、愛想を振りまいて餌をねだるだけの存在になり果てるということだ。
 そこに愛情があればまた違ったのだろう。客に気に入られ、娼妓もまたその客を慕って、邸宅に迎え入れられたものはいる。
 だが、エレンが向かうのは会ったことすらない相手だ。相手が何故エレンを選んだのかは知らないが、そこに愛情なんてある訳がない。だが、それでも――。

「…………」

 エレンは箱を閉じて祈りを捧げるように額にそれを押し当てた。
 全部置いて行こう。自分の想いも何もかもここに封印しよう。エレンはもういない。男の元に向かうのは『白雪』だ。
 エレンは箱を額から離しそっと鞄の中にしまった。
 ふと、店主が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
 ――いつか、王子様が迎えに――。

「……王子は迎えになんか来ねぇよ」

 王子が迎えに来たがっていた『エレン』はもういない。それに自分は王子を待つお姫様ではない。
 エレンは総てを断ち切るように公園を後にした。



 店のものに別れの挨拶を済ませると、エレンは十歳の頃から世話になってきた仕事場から外に出た。
 結局、エレンはこの話を受けることにした。母親を助けるためには何よりも金が要る――それを優先させたからだ。
 好待遇であったが、エレンは三つ程条件をつけさせてもらった。一つはもう相手側から約束されていたから二つ程追加した形なのだが、向こうはそれを呑んだ。
 相手からの条件はこれから向かう屋敷の敷地内から無断で出ないこと、自分の判断のみで行動しないこと、客からもらったものは一切持ち込まないことなどだった。本当は身一つで来いと言われたがエレンは当然抗議した。相手に見合ったもので着飾れというならするし、客からもらったものが気に入らないのなら処分するが、エレンにだって捨てられないものはある。例えば父の形見の腕時計とか、家族で撮った写真とか、両親からもらった誕生祝とか。向こうからしてみれば安物で価値がない品ばかりかもしれないが、エレンにとってはどれもかけがえのないものばかりだ。何一つ持っていけないのでは困ると訴えたら、そういった私物の持ち込みは許可された。ただ、着ていく服や靴や鞄は全部向こうが新調して寄越したものだ。衣類や日常品などは全部用意するから持ち込まなくていい――むしろ、持ってくるなと言われている。
 向こうに着いたらまた細かく指示があるのだろうが、特に反抗するつもりはない。どうせ金持ちの気まぐれで買われた身だ。
 店主には向こうが約束を守らずに無体を強いられたら戻ってこいと言われている。よっぽどの理不尽を言い渡されない限り従うつもりだが――というか、裏社会の組織から個人の都合で逃げられるとは思えないが、飽きて放り出された際に仕事のあてがあるのはいいことだろう。
 店から出ると、丁度迎えの車が到着したようで近くに停まった。詳しくはないが、ピカピカに磨き上げられた車体の高級車だった。
 これで街中を走ったら凄く目立ちそうで内心は嫌だったが、違う車にしてくれなんて言える立場ではない。
 見た顔が車から降りてきた。エレンの交渉役に選ばれたあのあご髭の男で、この車で間違いないとエレンも近付こうとしたとき――。

「白雪!」

 大声で源氏名を呼ばれ、エレンが振り返るとそこには銃を構えた薄汚れた男がいた。

「全部、お前のせいで――お前が幸せになるなんて許さない!」

 血走った眼の男が誰なのか思い浮かばなかった。恨みを買った心当たりは――あるといえばあった。娼妓を乱暴に扱っている客に蹴りを入れたりとか、たまたま客の取り合いで喧嘩になっている娼妓を見かけて仲裁したら、それを見ていた客に気に入られて逆恨みされたとか、身請けを断ったら逆上して嫌がらせをしてきた客が出入り禁止になったりとか。

(ああ、あのときの客か)

 客の顔を覚えることに自信はあったのだが、余りにも風貌が変わりすぎていて判らなかった。店主が対応したと言っていた出入り禁止客はエレンを殺害しようと目論むくらいに逆恨みしていたらしい。そもそもエレンはこれで幸せになれるなんて思ってもいないのだが。同僚が言っていた通りに人生何があるのか判らない。
 そんな風に考えを巡らせたのは一瞬の出来事。銃声が辺りに響き渡った――。

「人のものに手出しするな」

 背後でそんな声が聞こえた。聞くものを無条件で従わせるような、そんな王者を思わせる声だった。

「リヴァイ様、俺が処理しましたよ。わざわざあなたが出なくても」
「俺が撃った方が早い」

 地に倒れ伏しているのは狙われた少年ではなく、客の方だった。彼が撃つよりも早く背後から誰かが彼を撃ったのだ。
 急所は外れているらしく――あるいはわざと外したのか――呻いている彼をどこからか現れた男達が取り押さえ引き摺っていく。

「エルド、後の処理はお前に任せる。店の前を汚したことをあの女傑に文句を言われるかもな」
「そう言われても、あちらの不手際でもありますからねぇ。俺もあのご婦人との交渉はもう勘弁してもらいたいんですが」
「お前、女好きだろうが。落とせ」
「無理です。あの人はピクシス氏と渡り合える女性なんですよ。俺の守備範囲外です」

 まあ、仕事ですから交渉はしますよ、とあご髭の男は何やら動いて指示を出していく。
 エレンが事態が飲み込めずただ成り行きを眺めていると、不意に背後から抱き締められた。

「――ようやっと、捕まえた」

 硝煙の臭いがした。体格は小柄だが、抱き締める腕の力は強く、布越しに伝わってくる肉体は固い。おそらくは引き締まった筋肉の塊のような体躯の持ち主だ。先程の会話と臭いからしてこの男性があの客を撃ったのに間違いはないだろう。
 ひとしきり少年を抱き締めた後、相手はエレンの身体を反転させて自身と向かい合わせた。
 目に飛び込んできたのは灰青の瞳。まるで射抜かれるんじゃないかと思う程の強い眼だ――目つきの悪さもあるのかもしれないが、睨まれでもしたらまず身動きが出来なくなるだろう。漆黒の髪に整った顔立ちをしているが、雰囲気がもろにそちら側の人間なので街中で遭遇したら避けたい人物だ。だが、同時に覇気というか人の上に立つものの空気を纏っているので心酔するものも多いだろう。あのあご髭の男もその一人だと思われる。
 身を包む上品なスーツはおそらく身体に合わせて生地から仕立てたものだ。エレン自身は着飾ることに興味はないが、こういった服を着ている客は多く見てきた。勿論、いわゆる吊るしと呼ばれるスーツでも良いものは良いし、オーダーよりも高いものも普通にある。しかし、男の着ているものはオーダーメイドの中でも一級品のように思われた。スーツだけではなく靴や小物に至るまで男に合わせた一級品だろう。しかも、男の魅力を引き立てるように洗練されたものを選んでいる。

(こいつがオレを買ったリヴァイ・アッカーマン?)

 年齢も二十歳過ぎくらいに見えるし、本人で間違いないだろう。しかし、やはり、客として相手をした記憶はなかったし、何故この男がこの話を持ち掛けてきたのかが判らない。エレンはこの話を承諾したが、結局はその理由は不明のままだったのだ。
 エレンの困惑など知らぬように男ははめていた手袋を外した。口で引っ張って放り投げる仕種が妙に様になっていた。
 そのまま、手を伸ばしてエレンの髪、瞼、鼻、頬、唇へと指を這わせる。総ての部位を確認するかのように指を滑らせ、その間一切エレンから視線を外さなかった。猛獣を前にした人間はこんな気分になるのだろうか――エレンは身動き一つ出来なかった。
 何かの確認を終えたのか、それとも単に飽きたのか、男は手を放した。ほっとしたのも束の間、ぐいっとエレンは引き寄せられた。
 男の顔が至近距離にあって、エレンはまた身動きが出来なくなった。

「お前は俺のものだ」

 エレンを買った男は満足気に眼を細め、そう囁いた。



2019.9.5up



 裏社会の御曹司リヴァイ×男娼エレンですが、実は別ジャンルやってるときに考えていた話です。さわりだけ書いたんですが、ジャンル移動しちゃったのでそのままに。でも、設定を若干変更すればリヴァエレでもいけそうな気がしたのでリサイクルしてみました。世界観はちょっとレトロっぽい雰囲気がありますが、現代と余り変わらないどこか架空の国というパラレル設定です。娼館も独自のふわっと設定ですので、その辺はスルーしてくださいませ。
 元ネタでは同い年の設定なんですが、少年リヴァイが書きにくいとか諸々の事情で今の年齢差になりました。次回は性描写が入る予定です。




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