夏の終わり



 夏本番、という季節に入ろうかという七月のよく晴れた日の昼下がり、エレンは家の前の地面で落書きをして暇をつぶしていた。その辺から拾ってきた木の枝と地面、材料費はただである。適当に何かを描いては消していると、エレンの前に影が出来た。その形から誰かが近付いてきたのだな、と思う。顔を上げると、そこには帽子とサングラスとマスクという、いかにも怪しさ満点の扮装をした人物が立っていた。

「…………」

 その格好もうちょっと何とかした方が良かったのでは?とエレンが思っていると、その相手はエレンを抱え上げ、猛烈な勢いでその場から走り出した。
 辺りに人影は見当たらないが、昼間から思い切ったことをするな、とエレンは自分を抱えている人物を見上げた。まあ、この人なら何をやっても驚かないな、とか、初めて至近距離でこの人を見たときも見上げる形だったな、とかそんな考えが頭を巡る。

「あの、おろしてください」

 エレンが声をかけるが相手は無言のままだ。自分を抱えて走っているのだから、話す余裕がないのかもしれないが。

「いくらオレが幼児でも重いと思いますよ。今の兵長では」

 今、中学生くらいですか?と訊ねたら相手の動きがピタリと止まった。

「……お前、覚えているのか?」
「はい。だいたいのところは思い出してると思います。そういう兵長もですか?」
「ああ、覚えている。あの壁の世界のこと、そこでどう生きたのかも、お前とのことも」
「それで、何でこんなことになってるんです。兵長、今、中学生――ああ、そういう時期ですか」
「お前と違って俺にはそういう時期はなかったぞ。……お前は今は園児くらいか。俺は今中二だ」
「ああ、やはり中二ですか。オレは今五歳なのでそういう時期じゃないです」
「お前、実は根に持っていたのか? エレン、お前は俺が今から誘拐する」

 堂々と宣言され、ああ、だからこの格好なのか、というか変装的にはベタだよな、とどこか他人事のようにエレンは思った。

 ――まず、エレンが連れてこられたのはリヴァイの自宅だった。
 ベタな変装を解いた男――いや、男と言い表すよりまだ少年と呼ぶべき年齢のリヴァイは、確かに前世で出逢った上官が若返ったらこんな風であろうと思わせる容姿をしていた。このまま何事もなく成長すれば前世の男ときっと瓜二つになるだろう。今生では親が前世と同じであるとは限らないから――エレンの両親は前世とは全く関係のない人物であった――変わらぬ姿で生まれてくるのが不思議である。まあ、同じ両親だったとしても、その両親の姿が前世と変わらなかったらそこでまた同じ疑問が生じるので、ここは転生の神秘だと無理矢理に納得するしかない。
 前世では彼は頼れる上官であり、いわゆる恋人同士と呼べる関係であり、身体を繋げた仲でもあったのだが、今生では先程の対面まで全く接触をしていなかった。
 別にそれは不思議なことではない。前世で近くにいたものが同じように近くに生まれるとは限らないし、仮に近くで生まれていたとしても行動範囲や生活時間が違えば遭遇することはないだろう。まだ自分は幼児であるし、その行動範囲は狭い。リヴァイも中学生なら地元から離れて遠くまで出かけることはそれ程ないだろう。リヴァイの自宅はエレンと同じ市内だったが、同じ市の別の町だとかえって行くことがない気がする。市の中心街ならまた違うだろうが。

「取りあえず、水分を摂れ。夏場の水分補給は怠ると体調に即影響するし危険だ」

 空調の効いた室内で麦茶を差し出され、エレンは受け取った。プラスチック製の蓋とストローがきちんとついたコップは明らかに幼児向けのもので、エレンが来ることを想定して――というか、本人の言葉通りに誘拐するつもりで用意していたのだろう。計画性を感じるが、いったい彼はいつからこんな計画を立てていたのだろうか。もう一度思い返してもみたが、彼との接触はやはりなかったと言い切れる。

「兵長、誘拐って言ってましたけど、同じ市内なら簡単に見つかりませんか?」
「安心しろ、ここからは移動する。少し離れた県だが、別荘地に家があるからそこに向かう」
「は? 兵長の家って富裕層なんですか?」

 別荘を所持しているイコール金持ちとは単純な図式だが、自宅以外に所有物件があってそれを維持しているとなると、ある程度の所得がある家庭ということになる。前世では幼少期を地下街で過ごし、かなり貧しい暮らしをしていたと聞いていたから、今生では裕福な家庭に生まれたというのならそれは喜ばしいことだ。
 だが、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「貧しくはねぇが、富裕層とまではいかないぞ。……今から行く場所は親族が持ってる物件なんだ。鍵は借りてあるし、承諾も得ている」
「へぇ、お金持ちなんですね、兵長の親戚。社長とかですか?」
「社長かどうかは知らねぇ。というか、知りたくもねぇ。何で、今生もあいつが身内なんだ。しかも、今回は俺が生まれた頃から知ってやがるし……」

 ケニーのクソ野郎、とぼそりと呟いていたのでその親戚の名前かもしれないが、何か地雷を踏み抜きそうであったのでエレンはその親戚についての詳細は訊かないことにした。

「えーと、その親戚の家に行くとして大丈夫なんですか?」
「もう夏休みに入ったし、親戚の家を借りるのに問題はない。お前は俺の弟ということにしておく」
「オレと兵長って似てないと思いますけど」
「似てねぇ兄弟なんてよくいるだろうが」
「まあ、それはそうですけど。実際にオレも――」

 言いかけてエレンは言葉を呑んだ。前世では異母兄とはまるで似ていないと言われたが、彼との関係を考えれば話題にしない方が無難だろう。それに、今生では全く関係のない他人であるし、彼がこの世界に存在しているのかも不明だ。

(というか、今生で逢ったの兵長が初めてだしな)

 幼児である自分と接点のある人間は限られているので、この先成長して行動範囲が広がれば逢うこともあるかもしれないが。

「オレは前世の関係者に全く逢ったことなくて、兵長が初めてなんですけど、兵長は誰かと逢いました?」
「……何人かとは逢ったな」
「へぇ、すごいですね! 誰と逢ったんですか?」
「……クソメガネは同級生でエルヴィンは俺の担任だ。ミケとナナバは近所のカフェのオーナーをしている」
「ええええっ! そうか、そのまんまの訳ないですよね。オレと兵長も前世よりかは年近いですし。それだと、オレの同期が年上だったり、これから生まれてくる可能性もあるのか……」

 自分より年上の幼馴染みや、年下の同期を想像出来ないが、向こうだって生まれていたらきっと想像出来ないだろう。

「でも、そうか……皆、幸せに暮らしてるんですね、良かった」
「…………」

 そう呟いたエレンの頭にふわりとした感触が訪れ、壊れものでも扱うように優しく撫ぜて離れていく。その行動に視線を向けると複雑そうなリヴァイの顔があった。

「そろそろ時間だな。荷物は前もって送ってあるし、後は行くだけだ」
「え? あの、オレは何の荷物もないんですが」
「お前の荷物も用意してある。服のサイズが少々違うかもしれんがそこは我慢しろ。まあ、兄弟のおさがりとか成長を考えて大きな服を買ったとかいくらでも説明のしようはあるし、余りにぶかぶかでなきゃ不審に思うやつはそういねぇだろ」

 じゃあ、行くぞと、リヴァイは送った荷物とは別にまとめていた手荷物を取り出し、ほらとエレンに帽子をかぶせた。

「日射しはもうきついから帽子はちゃんとかぶっておけ。大きさは……問題ないようだな」

 言いながら、帽子の位置を直してくるリヴァイに、エレンはぎゅっと唇を噛んだ。
 前世でも今生でもこの人は優しい。前世ではその不器用な優しさに気付かない人も多くいたけれど、判る人には判っていた。だから、今生では――本当は関わってはいけないのだと思う。

「……兵長は帽子かぶらないんですか?」
「かぶるぞ。お前とお揃いだ」
「イヤ、兵長それ恥ずかしくありませんか?」
「全く思わん。お前が帽子似合いすぎて可愛いとしか思わねぇな」
「……それはそれで恥ずかしいですよ」

 関わってはいけないと思いつつも、しっかりと握られた手をエレンは振りほどけなかった。


 到着した先の別荘はペンションという言葉を思い起こさせるような洒落た外観の家だった。

「綺麗なとこですね。人に貸したら流行りそうです」
「静かだし、近くにはキャンプ場があるし、ちょっと足を伸ばせは海があるからロケーションとしては十分だが、管理が面倒らしい。家の維持は管理人に全部投げているし、何故手放さねぇのか判らん」

 リヴァイの親戚の男曰く、思いついた時にふらっと行ける場所があるのはいい、らしい。貸し出せば客がつきそうな物件だが、実際には年に一度くらいしか使用されていないようなので確かに勿体なくはある。

「まあ、まずやることは――」
「掃除ですね」
「それはそうだが、お前にやれとは言わんぞ?」

 え?と声を上げるエレンにリヴァイは苦笑した。

「さすがに幼児に掃除をしろとは言わねぇ」
「でも、ここ年一回くらいしか使ってないんですよね? 掃除しないなんて兵長が耐えられる訳ないですよね? 兵長が一人で全部掃除するんですか? え? 掃除出来ないから躾コースですか?」
「お前は俺を何だと思っているんだ……」

 前世での徹底した掃除っぷりとその指導を受けた身としては掃除を手伝わないという選択は考えられなかったが、リヴァイは本当にエレンに手伝いをさせなかった。事前に連絡を入れて清掃をしてもらっていたらしいので――それがリヴァイが納得のいくレベルであったのかは謎だが――一人でも十分にやれるという。
 確かに家の中の空気は入れ換えてあったし、特に埃っぽいということもなかった。幼児が出来る掃除なんてたかがしれているし黙って見ているのが得策である。前世で嫌という程清掃の知識は身に付けていたが、それが今現在実行出来るかは別なのだ。

「終わったら晩飯だな。材料は一通り揃っているはずだ」
「兵長が作るんですか? 兵長、今の冷凍食品は美味しいですし、レトルトもありますよ!」
「だから、お前は俺を何だと思っているんだ。小学生でもカレーくらいは作れるだろうが」

 どうやら本気らしい。料理を作る上官の図というのは想像し難いし、したこともまたない。全く出来ないという訳ではないのだろうが、前世では彼の手料理を味わうということはなかった。上官は彼にしか出来ない仕事で忙しく、雑用は新兵の仕事であったし、料理当番が上層部の人間に回ることはなかった。例えばであるが、エルヴィン団長に調理をさせている暇があるなら他の仕事をしてもらう――そういう話だ。彼等が新兵の頃なら料理することもあったのかもしれないが。

「え? エプロンまで……本気ですか、兵長!」
「本気も何も、調理するときはつけるだろう。お前の分もあるぞ」
「しかもまたお揃い!」
「可愛いと思ったからお揃いにした。調理しなくてもつけろ。ここは譲れねぇ」
「さらっと強制ですか!」

 そうしてお揃いのエプロンで作ったカレーは――エレンは調理には携わらなかったが――普通に美味しかった。まあ、カレーはパッケージにある調理方法通りに作ればまず失敗することのないものであるが。初心者には分量、時間を間違えないことと、勝手なアレンジを加えないことが大切である。

「明日はどうするか……どこかに出かけるか。海は少し遠いが行けなくはないか」
「え? オレ、外に出ていいんですか?」
「何故だ? お前を家に閉じ込めておく気はねぇぞ」
「だって、誘拐だって言いましたよね? 普通は外に出さないでおくものじゃないんですか。怪しまれないためにも」
「夏場だし、帽子かぶっておけばいいだろう。ここは別荘地だし夏休みの期間に知らない子供がいても不審には思われない。お前のことは報道されてねぇし、安心しろ」
「…………」

 エレンは俯いた。実を言えば、報道の方は心配していなかった。おそらく、自分の行方不明が報道されることはきっとないだろうと。それよりも――。

(兵長は何でオレをここまで連れてきたんだろう)

 彼曰く『誘拐』というこの行動はどういう意図があってのものなのだろうか。計画性を感じるし、本当に前もって色々準備してから始めたことだと判る。彼はいつから自分を知っていたのか。どうしてこんなことを始めたのか。

「……出かけるっていってもどうやって行くんですか? 別荘地って車ないと不便そうですけど、バスですか?」

 だが、やはり、エレンの口から零れたのはそんな言葉だった。

「バスは本数が少ねぇし、自転車だな」
「まさかの交通手段!」
「お前、ツッコミ多くないか?」
「イヤ、だって兵長が色々と突っ込みたくなること言うので。自転車ってロードバイクとかですか?」
「それだとお前が乗れないだろう。普通の自転車だが、ちゃんと自転車用のチャイルドシートも用意した」
「まさかのママチャリ! イヤ、待ってくださいよ。何か色々とお金かけすぎてないですか?」
「金の心配はしなくても大丈夫だ。別にやましいことはしてねぇぞ? あいつは道楽にかける金はたくさんあるらしいから、ちょっと巻き上げ……イヤ、出世払いで貸してもらっただけだ」
「今、不穏な言葉が出てきた気がしましたが気のせいですか?」
「気にするな。俺も奴の収入源が何なのか気にしていねぇ」
「イヤ、そこは気にするところだと思います」

 とりあえず自転車の件はおいておくことにして、明日は家の近くの散策をすることに決まった。



「次は風呂だな。沸かしてあるから一緒に入るぞ」

 リヴァイの言葉にエレンは固まった。そして、その次にいやいやと首を横に振る。

「まさか、お前、風呂に入らないつもりなのか? 不衛生だろう。夏場には日に数回入る奴もいる」
「風呂に入る入らないじゃなくて、一緒がダメなんです!」
「お前くらいの年齢の子供を一人で入浴させる訳にはいかないだろう」
「一人で入れますから! 兵長、まさか、そういう趣味になったんですか?」
「いくら何でも今のお前を性的な目で見ている訳ねぇだろうが。後、十年待て」
「いやいやいや、遠慮させてください」
「しなくていい。入浴中の事故は多い。人は水位が五センチあれば溺死することもあるんだぞ」

 気をつけてはいても今のエレンは幼児だ。泥酔した人が水たまりに顔をつけて亡くなった事例もあるし、小さな子供がいる家では風呂の水は必ず抜くようにしなければいけない。リヴァイの発言はエレンの身を案じてのものだと判る。だが――。

「ほんとうに、ひとりで、入れます、から……」

 消え入るような声で告げるエレンに、リヴァイは仕方ないな、とでもいうように微かに笑った。

「バスタオルと着替えは用意しておくから、気をつけて入れ。身体はちゃんと洗うようにな」

 後、びしょ濡れで歩くなよ、きちんと拭けと諸注意を述べるリヴァイに頷いて、エレンは浴室へ向かった。

(変に思われたかな)

 だが、一緒に入る訳にはいかないのだ。見られてしまえば、この夏休みはきっと終わる。
 終わるべきなのに終わらせたくないと思っている自分にエレンは目をつぶって服を脱いだ。


「兵長、上がりました」
「よし、ほら、頭を乾かしてやる」

 手招きするリヴァイにエレンは自分で出来ると言ったのだが、やはり譲ってはくれなかった。ドライヤーの風をエレンに当てて手早く乾かしていく。

「フルーツ牛乳もあるが、飲むか?」
「そこはコーヒー牛乳なんじゃないですか?」
「寝る前にカフェインを摂るのは良くねぇだろう」
「イヤ、兵長が好きな紅茶もカフェイン入ってますよね?」
「甘ぇ。今はノンカフェインは常識だ」
「じゃあ、コーヒー牛乳もカフェインレスがあるんじゃないですか?」
「コーヒーにそこまでしてやる義理はねぇ」
「イヤ、普通にそこまでコーヒー好きじゃないから、でいいですよ」
「で、飲むか?」
「飲みます」

 エレンの頭を乾かし終えると、リヴァイはまたしても幼児向けのコップにフルーツ牛乳を注いで手渡してきた。見ると、自分にも同じフルーツ牛乳を用意している。先程食べた夕食も味付けは幼児向きのものであったし、リヴァイには甘くないだろうか。前世では食糧事情が悪かったので食事の味は二の次であったが、亡くなった母親が料理上手であったから味覚は普通に育ったと思う。今生で前世での嗜好が反映されているかというと、よく判らない。何せまだ幼児だ。現在は味覚が発達中であり、成人男性が好むものは食べられなかったりするのでこの先変わっていくのかもしれない。
 前世での上官は特に甘味好きという訳ではなかったと記憶している。何分あの食糧事情のため甘味自体が手に入らないという現実があったが、今生ではどうなのだろう。中学生なら甘いものもよく食べるのかもしれないが、無理に自分に合わせていないだろうか。

「えーと、その、兵長、食事とか明日からは自分が食べたいものを食べてくださいね。別に、オレ、レトルトとかカップラーメンとかそういうので構いませんし」
「俺はお前と一緒のものを食べたいから食べている」

 エレンの言葉にリヴァイはきっぱりとそう言った。

「同じものを一緒に食べて、一緒に飲んで、一緒に過ごす。全部俺がしたくてしていることだ」
「…………」
「それに、明日のメニューは決まっている。今日の残りのカレーだ」
「…………」
「安心しろ。カレーは一晩寝かせた方が旨い。後、三回はカレーが食える」
「……単に作りすぎただけでは?」
「そこは突っ込まない優しさを持て」
「兵長のカレー、おいしかったので、毎日でも大丈夫です……」
「毎日は俺が嫌だ」
「優しさには優しさで返してください」

 何だかくだらない会話をしているな、とエレンは笑う。前世で世間話をしなかった訳ではないが、こんな風に過ごせるのはここが平和な世界だからだろう。最後にこの国で戦争が起こったのは随分と昔で、貧富の差は確かにあるが、前世での比ではない。過ごしやすい平和な世界――なのに、息苦しいのはおそらくは自分のせいだ。
 会話から思考を飛ばしてしまい、俯いたエレンの頭をそっとリヴァイが撫ぜた。

「眠いのか? そろそろ子供は寝る時間だしな」
「……兵長だってまだ子供でしょう」
「園児と中学生を一緒にするな。就寝前の歯磨きは忘れずにするぞ。仕上げ磨きは俺がする」

 そう言ってエレン用の歯ブラシセットと仕上げ磨き用の歯ブラシをリヴァイは取り出した。

「兵長、準備万端すぎます……」

 何だか奇行種とか変人とか呼ばれていた人の副官のような台詞だと思いつつ、エレンはそれを受け取った。

「安心しろ。育児書もちゃんと読んでおいた」
「そこ安心するところですか?」

 そうして二人は歯磨きを終え――くまなくリヴァイがエレンの口の中をチェックしたのは言うまでもない――一緒に就寝したのだった。



 ああ、また夢を見ている、とエレンは思った。

(夢の中でこれは夢だって思うのって……確か明晰夢だってアルミンが言ってたっけ)

 破壊された街。喰われていく人々。戦いの果てに殺されていく仲間達。たくさんの死。死。死。
 その屍の上に自分は立っている。
 ――化け物だ、あいつは。
 ――巨人になれるなんて人間じゃない。
 ――気味が悪い。早く殺してしまえ。

(これは夢、だ――)

 場面が変わる。先程とは全く異なるものだが、やはりここも知っている風景だ。
 たくさんの人。高い建物や自動車。前世とは比べ物にならないような文明社会。
 ――気持ち悪い。
 ――あの子、変なことばっかり言うの。
 ――絶対頭おかしいって。

(これは夢――)

 ――どうして、あなたは普通じゃないの?
 ――変なこと言って困らせないで。
 ――あの子はおかしいの。普通の子じゃない。
 ――触らないで!

(夢じゃな――)

『エレン』

 その『声』は夢の中であってもはっきりとエレンに届いた。

『大丈夫。俺がいる。ここにいる』

 その声にかき消されるようにして、今まで見てきた風景は失せ、世界が変わる。綺麗に整えられた部屋にあたたかい食事。優しく伸ばされる手。ふわり、と包み込まれるような感触があった。

(へい、ちょう……)

 その後は夢も見ず深くエレンは眠った。



「で、どうする? 虫取りでもするか?」
「虫取りしたいんですか? 兵長」
「イヤ、虫には触りたいとも思わねぇな。カブトムシもGのつく虫と大差ないじゃねぇか」
「オレも虫取りには興味ないです。そういや、同期がカブトムシの幼虫はまずいので食べない方がいいって言ってました」
「……まさか、食ったのか?」
「本当に食べたのかは知らないです。後、猫はおいしくないけど、犬はおいしいらしいとか……」
「全部食えるかどうかの話じゃねぇか」

 翌朝、エレンはリヴァイの腕の中で目が覚めた。どうしてこうなったのかは判らないが、夢のことを考えるとうなされていたエレンを抱き締めて落ち着かせてくれたのだろう。夏場に子供体温の自分を抱き締めて眠るのは暑苦しかったに違いないのに、しっかりと掴んだ腕は離れそうになかった。
 その後、起床した二人は朝食を摂り――朝からカレーは重たそうだということで、目玉焼きにウインナーにトーストという、典型的な朝食となった――身支度を整え、散歩に行こうという流れに進み、先程の会話となったのだ。

「そもそも虫取りの道具なんてあるんですか?」
「虫取り網も虫かごも虫除けスプレーもあるぞ」
「何でそんなに準備万端なんですか。虫取りはいいですよ。取ったら世話しないといけませんし、兵長もオレも興味ないんですし」
「なら、何をする?」
「夏だし、暑いですし、もう家の中にいればいいんじゃないですか?」
「子供の発言らしくねぇな」
「イヤ、今の子供って外で遊び回らない子も多いじゃないですか」
「その発言も子供らしくねぇな」

 そう言われて、エレンは目を伏せた。

「そう、ですね。子供らしくないですね。すみません、兵長相手だとどうしてもそうなるんで」
「…………」

 リヴァイはぐしゃり、とエレンの頭を掻き回した。

「別にそれが嫌だなんて言ってねぇ。お前はお前らしくあればそれでいい」
「――――」

 一頻り撫で回すと、リヴァイはエレンの手を引いて家の外へと出た。

「虫取りしねぇんじゃ買い物にでも行くか」
「買い出しですか? 食料はまだあるって言ってませんでしたっけ?」
「折角だから花火でもやるかと思ってな。夏の定番だろう」
「わざわざ買いに行かなくても通販出来るんじゃないですか?」
「俺は実物を見て決める派だ」

 それに、ここでこうしていてもつまらないだろう、と自転車を取り出してこられたらもう頷くしかない。結局、保留にしておいた自転車に乗ることは確定してしまった。
 自転車にはしっかりとチャイルドシートがついており、子供用ヘルメットまで手渡された。

「二人乗り出来るのは今だけだな。子供は法律で六歳まで、それ以降の二人乗りは禁止だ」
「それ以降ならひとりで自転車乗れるんじゃないですか?」
「思春期的にはそれ以降の方が乗りたくなるんじゃねぇか?」
「兵長はしたいんですか?」
「別にしたいと思ったことはなかったが――お前と乗るのは悪くない」

 ひょいと、自分を抱え上げてシートに乗せたリヴァイの顔がとても優しかったから、エレンは泣きたいような気持ちになった。

「オレ、幼児ですよ?」
「そうだな」
「相手、間違ってませんか?」
「間違ってねぇな。お前がいい」
「――――」

 エレンの安全を確認して、リヴァイは自分も自転車に乗ってペダルを踏んだ。
 夏の日射しの中、吹き抜ける風が心地好かった。

「何か、やりたい花火はあるか?」
「そうですね……」

 安全運転のためかちゃんと前を向いて声をかけてくる。その言葉にエレンは花火を頭に思い描こうとしたが――。
 しかし、具体的には何も思い浮かばなかった。

「すみません、やったことないんで、選べないです」
「――そうか」
「あ、でも、判るのはロケット花火とか――ああ、あれは危ないから禁止とかありましたっけ?」
「イヤ、買う」
「え?」
「何がいいのか判らないなら全部買おう。やってみて好きなのがあったらまた買えばいい」

 そんなことを言うリヴァイに、エレンの胸は引き絞られ、小さく無駄遣いですよ、と返すしか出来なかった。

「無駄なんかじゃねぇ。想い出は金で買えねぇっていうだろうが」

 自転車のペダルを踏む音と、吹き抜けて頬を撫ぜる風の感触。
 この総ては金銭でやり取りは出来ないもの。
 夏の日射しが眩しくて、エレンはただ顔を伏せた。



 それから、リヴァイはたくさんの花火を買ってエレンと二人で花火大会をした。二人で花火大会もないと思うが、それは気分の問題らしい。
 かき氷機でかき氷も作った。昔は頭がきーんとしたが、今はそうならないものを作ることが出来るらしい。ふわふわのかき氷を作れるそれをまさか買ったのかと思ったが、元々、ここにあったものだという。例の親戚の男がふわふわのかき氷が流行り出した時に興味本位で買って一度だけ作ったが、そのまま放置になったそうだ。買ってはみたものの、そもそもかき氷が好きだという訳ではないので一度で満足したらしい。なら、最初からレンタルにするとか使わないなら中古で売るとかいう発想にならないのが不思議だ。兵長は真似はしないでくださいと言ったら、絶対にそれはねぇと思い切り嫌そうな顔をされたので、やはりこの話題は避けようと思ったエレンだった。
 虫取りはしなかったが、結局は近くの散策はした。森林浴ってよく判らないです、俺もだ、という会話が繰り広げられただけだったが。
 子供らしくゲームもやってみたが、対戦モードではエレンは一度もリヴァイに勝てなかった。こんなところも最強というのはずるいです、と唇を尖らせると、リヴァイはその唇をつまんで笑った。手を抜いたらそれはそれで嫌だろう、と指摘されればその通りなのでますます唇を尖らせるしかない。今のお前はお子様モードだな、という声に安心が滲んでいるような気がしたが、エレンは何も言わなかった。
 ホラー映画をレンタルして夜中に鑑賞会をしたが、巨人の方がよっぽど怖いですよね、そうだな、でこれまた終わり、二人とも全く恐怖を感じなかった。伊達に前世で壮絶な経験はしていないのだ。幽霊に追いかけられるよりも巨人に追われることの方が、廃墟に出るなら怨霊より巨人の方が怖いだろう。未知の生物に対する恐れは共通しているのかもしれないが。怨霊系のホラーは元は人間なので結局は人間が怖いって話ですかね、それをいうなら巨人も元は人間だろう、と妙に納得して頷き合った。
 西瓜割りもするかと訊かれたが、エレンは断った。二人でやっても寂しいというか、あれは海で大勢で楽しむものである。二人でぽつんとやっていたら周りから生温かい眼で見られそうだ。西瓜をまるごと一個、二人では食べ切れないという問題もある。幼児しか相手に出来ない可哀相な中学生と思われたくなかったらやめてください、むしろこっちが居た堪れなくなりますと訴えてやめてもらった。

 これらの行動が総てエレンのためなのは明らかだった。ごく普通の子供が経験するような夏休みの出来事――それを彼は自分に与えようとしている。
 だから、もういいのだ、とエレンは思った。

「兵長、もう終わりにしましょう」
「何をだ?」
「この夏休みを。こんなのはずっと続かない。夏休みは楽しいものだけど、終わりがくるものでしょう?」
「ダメだ」
「兵長だって帰らなきゃいけない。オレも帰らなきゃいけないんです」
「ダメだ。絶対に帰さねぇ」
「――兵長は気付いているんですね。だから、オレを誘拐なんて言って連れ出した」
「エレン」
「オレはあなたの手だから取った。それは確かだけど、きっと現実から逃げたかった」
「ダメだ、エレン」
「オレは世界は残酷だって知っています。だから、帰らなきゃ」
「ダメだ!」

 そう強く言って、リヴァイはエレンを抱き締めた。

「何で、あんなところに帰せる! お前を殴って罵って、炎天下に帽子もかぶらせずに放り出すような親のところに!」


 リヴァイがエレンを見つけたのは本当に偶然だった。自分と同じように生まれ変わっているのか定かではなかったし、ましてや同じ市内に住んでいるなんて思ってもいなかった。リヴァイはそのときエレンに声をかけなかった。前世の記憶が自分にはあったが、覚えていないものもいる。エレンに記憶があるかは判らなかったし、もし、なかったとしたら自分が声をかけることで思い出すきっかけになってしまうかもしれない。前世の悲惨な記憶などない方が幸せになれるのではないかと思わずにはいられなかった。
 それに、初めて見かけた時は母親らしい女性といたので、声をかけたら不審者扱いされるだけなのは明らかだった。ただ、見かけた場所が気になった。エレンが出てきたのが病院だったからだ。どこか悪いところでもあるのか――それが気がかりでリヴァイはエレンの後をつけ自宅を突き止めた。
 単に定期健診かもしれないし、具合が悪かったのは母親かもしれないし、どこか悪くても軽いものかもしれない。しかし、どうにも嫌な予感がしてリヴァイはエレンの様子を探るため突き止めた家へ足を向けた。そこでエレンの姿を見てリヴァイはおかしいことに気付いた。エレンの歩き方が怪我をしているもののそれだったからだ。
 勿論、リヴァイは医者ではないし、専門的な知識はない。だが、前世で多くの負傷兵を見てきたのだ。それに身体の構造やどこに衝撃を加えればどんなダメージを与えられるのか、どんな状態になるのかリヴァイは経験から知っていた。そして、よろけたエレンが地面に手をついた際に見えたのだ――めくれた服から覗くたくさんの痣が。
 真っ先に浮かんだのは幼児虐待という言葉だった。だが、ここでエレンに声をかけたところでどうにもならないとリヴァイは判っていた。自分はただの中学生で、エレンとは血縁でもなければ近所付き合いすらない、全くの接点のない他人だ。通報するという手もあるが、果たしてきちんと動いてくれるか信用が出来なかった。それに虐待の疑いがある、という通報ならすでにされている気もしていた。
 なので、リヴァイは不本意ではあったが親族の力を借りることにした。どういう稼ぎがあるのかは知らないが使える金とコネはあるようなので、母の兄――伯父に頼んだ。リヴァイの母親は前世と同じ人物であったが、彼女には記憶が全くなかった。なので、リヴァイは彼女には前世のことを話さなかったのだが、伯父はリヴァイが記憶持ちだと目敏く気付いた。どうやら男も記憶持ちだったらしく、前世で妹を救えなかったことを悔やんでおり、今生ではめいいっぱい幸せにしようと思っていたらしい。
 リヴァイの頼みをきいてくれたのもその一環なのだろう。可愛い甥っ子の頼みだからなどと言われたので咄嗟に足を出してしまったが。
 それから、前世の記憶がある知り合いにも協力をしてもらった。エレンのことは皆知っていたし、今現在幼児である彼の境遇を心配してくれた。
 そして、結果は――彼が親から虐待を受けているという事実だった。


「――あの人達だけが悪いという訳じゃないんですよ」
「お前に非がある訳がねぇだろうが!」
「そうですね、非というよりは組み合わせが悪かったんだと思います。兵長、オレの今生の両親は普通の人だったんです」

 彼らはごく普通のどこにでもいるような夫婦だったのだ。子供が生まれたことに喜び、その成長を楽しみにして、優しく見守り育てるような――そんな人達だったのだ、エレンが生まれた当初は。
 だが、エレンには生まれた時から前世の記憶があった。しかも前世と現世との区別がつかず、ごちゃまぜになっている状態だった。エレンという人格がそのまま乳児の中に入った状態ならまだマシだったかもしれない――それはそれで当人は大変だったかもしれないが、それなら装うことが出来るからだ。
 それがエレンには出来なかった。初めのうちは良かったのだ。エレンがまだ話すことの出来ないうちは両親はいたって自分達の子供を可愛がってくれた。それが変わり始めたのはエレンが成長して言葉を覚えて会話が成り立つようになった頃からだ。
 初めにおかしいと言い出したのは母親だった。エレンと接する時間が一番多い人物が真っ先に違和を感じるのは当然だろう。子供が自分達の知らない、不思議なことを口にすると。
 それはそうなるだろう。自分の子供が全く知らない人物――アルミンはどこにいるとか、兵長に逢いたい、とか、調査兵団に入るとか巨人はどうなったとか言い出せば。当時の自分は思い出した時にその言葉を何も考えずに口にしていた。エレンの記憶は時系列に沿って綺麗に思い出された訳ではないし、現実ではなく過去に起きた出来事という理解もなかった。
 稀に前世での自分を語り出し、その姓名や育った環境まで周囲に説明する幼児がいるという。エレンの話もそういったものだと思われていたが、母親は納得をしなかった。きっとどこかおかしいのだと病院を回り、医者に幼児にはあることですから見守ってあげてくださいと言われる度に病院を変えた。
 兵長やアルミンやミカサなどという人物は存在しないし、ここは壁に囲まれた世界ではないし、巨人なんて生物はどこにもいない。そう言われてもエレンは納得出来なかった。だって、ちゃんとした記憶があるのだ。自分は戦ってきて、それをなかったことにされるのなら、戦いで命を落とした人達はどうなるのだ。
 思えばエレンもまた混乱していたのだ。現実と前世の違いに戸惑い、あれはあったことなのだと自らに確認するように壁の世界の話をした。だが、詳細に前世を語る自分の子供を母親は受け入れられなかった。子供の空想だから、と笑っていられる親なら違ったかもしれない――いや、それでもあの壮絶な世界のことを幼児の空想だと流すのは難しかったかもしれないが。
 母親にとって、エレンはもはや息子ではなく、息子の形をした何かだった。元々、育児はストレスがかかるものだし、エレンの前世は関係なく疲れもあったのだと思う。それに、エレンの言動が拍車をかけ彼女の心は次第に病んでいき、いつの間にか化け物が息子の身体を乗っ取ったのだと思うようになった。
 初めは育児放棄だったと思う――いわゆるネグレクトと呼ばれる状態だ。だが、エレンはただの幼児ではなかった。良くも悪くも前世での知識があり、現代の文明を知り、それを使うことが出来てしまった。幼児の身体では不便であったが、電子レンジと電気ケトルの使い方を覚えれば一人でも食事は出来たし、洗濯や入浴も何とかなった。家に冷凍食品やレトルト食品の類がなければきっとつんでいたが。
 しかし、その幼児らしくない行動がますます彼女の恐怖心を煽った。やはり、この子は異常なのだと、ものを投げつけられたり、触ろうものなら突き飛ばされた。彼女の視界に入ると、寄るなと蹴られたこともあった。
 子供を怒鳴る声は近所に伝わり、通報されたが、彼女は虐待を認めなかった。だって、化け物は子供の方で自分は愛する息子を奪われた母親なのだ。
 そうして、うるさくなった周囲から逃げるため、一家はリヴァイの住む市に引っ越してきたのだ。

「引っ越したときに病院につれていかれたんです。怪我を見てもらうんじゃなくて、オレがおかしいからって」
「何故、訴えなかった。その機会はあっただろう」
「あの人を狂わせたのはオレだと思ったから、ですかね?」

 そう言ってエレンは苦く笑った。

「おかしいのはオレの方なんですよ。それは間違っていない」
「お前は悪くない」
「あの人の心を病ませた――結局、オレは『母親』を殺すんです。昔から何にも変わってない。何にも出来ないのは変わらない」
「お前のせいじゃねぇ!」

 その𠮟りつけるような声にびくっと肩を震わせたエレンに、リヴァイはすまないと呟いてぎゅっと小さな身体を抱き締めた。

「……何でだ。お前は幸せになっていいはずだ。ずっと大変な目に遭って、辛い選択ばかり強いられて、ずっと戦い続けて――折角平和な世界に生まれたのに何故だ。お前は幸せになっていいんだ」
「へい、ちょう……」
「俺はお前が幸せだったらそれで良かったんだ。逢えなくても俺のことを覚えてなくてもいいと思っていた。なのに、何でだ、ちくしょう……っ!」

 この小さな身体が痣だらけなのをリヴァイは知っている。一緒に風呂に入らなかった理由も、炎天下の中、帽子も与えてもらえなかったのも、知っている。冷凍食品やインスタント食品の味が何故判るのか、小さな子供なら一度は親がさせそうな花火をしたことがないのは何故か、その理由だって察しがつく。皆が幸せに暮らしていて良かったと笑う小さな子供が、何故幸せに暮らしていない。

「いつだってお前は肝心なことを言わねぇ。何だってひとりでやろうとする。――いいか、エレン、言え」
「へいちょう?」
「助けてって、言え」
「――――」
「お前がそういう性分じゃねぇのは知ってる。ひとりで勝手にやるバカだって知っている。だが、言え」
「……強制ですか?」
「強制じゃねぇ、お願いしている」
「……それ、絶対、お願いって態度じゃないですよ……」
「エレン」
「……たす、けて……へいちょう……」

 掠れた小さな声に、リヴァイは判った、と返してエレンの背中をあやすように撫ぜた。

「よく頑張った。もう大丈夫だ。きっと俺がお前より早く生まれたのはこのためだ。お前を見つけるために生まれた。それだけで意味がある」

 その言葉に堪えていたものが決壊したのだろう。涙を零しながらしがみついてくる子供を、リヴァイはずっとあやし続けた。



「リヴァイさん、こっち終わりました」

 指示通りに清掃を終えたエレンが男のところへ顔を出すと、リヴァイはかけていたマスクを外してそうか、と返した。どうやらそちらも清掃を終えたらしい。二人でくまなく綺麗にした家――リヴァイの親戚の所有する別荘地の物件は未だに手放されることはなく、昨年リフォームまでされたらしい。手放さない理由は今は甥が気に入っているからになったようだが――むしろ、自分が買い取るから男は手放せと言っているのだが、その気はないらしい。

「では、ちゃんと出来ているか確認する」
「出来てますよ。いったいどれだけ鍛えられたと思ってるんですか」
「イヤ、まだお前には伸びしろがある」
「それ、絶対に褒めてないですよね……」

 ――あれから十年が経過した。夏の誘拐劇はあの後終了したが、それからが色々と大変だった。児童相談所とか親権とかその他もろもろの手続き含めて。幼児虐待をしていた両親はいざことが起こるとエレンを手放したがらなかった。世間体を考えたのかもしれないし、中身は化け物でも身体は自分達の子供だと思っていたのかもしれない。
 だが、はっきりとエレンは自分が虐待を受けていたこと、親の元にはいたくないと証言した。医師の診断書でエレンが虐待を受けていたことは証明されたし――その辺のことはリヴァイの親戚や前世での知り合いが手配してくれた――色々あってエレンは遠縁の家に厄介なることになった。
 リヴァイはエレンを引き取りたいようだったが、血縁関係でもなく更に中学生だった彼にそんなことが出来るはずもなかった。
 遠縁の家でエレンが上手くやっていけるか周囲は心配していたが、それは杞憂に終わった。遠縁に引き合わされた際にエレンは思わず駆け寄ったのだから。――遠縁はハンネスだった。記憶はないようだが、彼が生きているだけでエレンは嬉しかった。

「学校は上手くいっているのか?」
「やってますよ。報告した通りです」

 掃除は合格点をもらえ、一息入れるためにエレンはピカピカのキッチンでアイスティーを作った。男の好みの味はもう把握している。
 リフォームはされたが、キッチンを含め内装は変わったようには見えない。勿論、新築のように綺麗にはなっているのだが。家は年数が経てば補強や修繕が必要になるが、男は思い出深いこの家を昔のまま残しておきたいらしく、リフォームに口出しをしたらしい。びた一文も出してないのに、口出しはするのかと突っ込みたかったが、ここが変わってしまったらエレンも寂しく思うのは間違いないので出来なかった。

「そういえば、この前同期を見かけました。違う学校の制服着てたし、声かけませんでしたけど」
「そうか。お前がそう判断したなら、いい」
「はい。アルミンは我慢出来なかったんですけどね」

 遠縁に引き取られた先で一番嬉しかったことはかつての親友と廻りあえたことだ。再び出逢えるなんて思っていなかったから、初対面で抱き付くという常識外れなことをやってしまった。アルミンは出逢った当初は前世を思い出していなかったが、徐々に記憶が蘇ったらしく、今現在はだいたいのことは把握している。――まあ、そのおかげでリヴァイと夏休みにこの家で数日過ごすと言ったら何とも言えない顔をされてしまったのだが。

(アルミンは知ってたからなぁ)

 自分と上官がどういう関係だったのか。現在はまったくかけらもそういうことをしていないのだが。

「リヴァイさん、十年経ちました」

 意を決したようにエレンがそう言うと、男はあっさりと首肯した。

「そうだな。あれから十年経ったな」
「だから、十年経ったんです」
「ああ、判っている」
「十年経ったんですってば!」
「だから、判っている」

 判っているのかいないのか、涼しい顔でアイスティーを口に運ぶ男にエレンはううーっと唸った。

「十年待てって言ったじゃないですか……」
「そうだな」

 どうやら判っている方だったらしい。ううーっとエレンは再び唸り、テーブルの上に顔をうずめた。恥ずかしくて顔を上げられない。

「――俺が十年待てと言ったのは」

 頭の上から声が降ってくる。

「肉体的な面もあるが、前世に引きずられていないか、俺に応えようとかそんな風に思っていないのか、ちゃんと自分の感情なのか考えて欲しかったからだ」

 その言葉に顔を上げると、男と眼が合った。真っ直ぐに見つめられて気恥ずかしくなりエレンは眼を伏せた。

「そういう、リヴァイさんはどうなんですか?」

 エレンの問いに、男は何を今更、というように笑った。

「前世も現世も来世も惚れているに決まっている」

 さらりと強烈なことを言われてエレンはまたテーブルに沈んだ。

「恥ずかしいです、そういう時期より絶対恥ずかしいです」
「……お前、絶対にそれ根に持っているだろう」

 顔を上げられずにいると、優しく指が髪を梳いていく。いつも優しく撫ぜてくる指が大好きで――だが、今回はそれだけではなく耳元をくすぐるように動く。ぞわりとしたものが走って恥ずかしさと混乱でエレンは耳元まで真っ赤になる。
 だって、これは同じだ――前世で二人だけの時間を過ごした時、戯れるように触れた男の指先の動きと。

(何だこれ何だこれ何だこれ)
「エレン、顔を上げろ」
「――――」
「顔を上げないとキスするぞ」

 その言葉にがばっと顔を上げた少年のすぐ傍には男の顔があった。いつの間にこんなに至近距離に来たのか、と驚いて口を開こうとした瞬間、その口を唇で塞がれた。

「――――っ!?」

 やがて、たっぷりと堪能した男の唇が離れていき、それを呆然と少年は見つめた。

「――十年待ったのは俺の方だ、エレン」

 やはり、幸せを祈るよりはこの手で幸せにするよう努力する方が俺には合っていると笑うリヴァイに、今以上に幸せになれるんですか?と思わず呟いたら本当に嬉しそうに男が眼を細めたから。
 もうそれだけでいいと思えて抱き締めてくる男をエレンも抱き締め返した。




《完》
2019.7.2up


 思い付いたので書いてみたら想定していたよりも長くなった話。結局、ハッピーエンドにしてしまいましたが、別パターンオチを同時に思いついてしまい、どちらにしようか悩んでました。別パターンはどうにもならない現実から逃げるように二人で海を見に行って、リヴァイがエレンを絞殺後、その亡骸を抱いて海に入るという心中エンドでした(このオチだったら題名は『海に沈む』でした)。
 以前に書いた転生ものとかぶるところがあるのは、書いてるときに「前世の記憶を周囲が受け入れられなかったパターン」を思いついたからです。いや、似たような話ばかり書いてますけれども(汗)。それでこの話になった訳ですが、受け入れられなかったパターンなら心中エンドの方がそれらしかった気がします。
 後、エレンが流暢にしゃべってるのは、幼児らしい台詞全部平仮名にすると読みにくい&話の雰囲気に合わないためです。前世の記憶があるのでその辺は突っ込まないで頂けると有り難いです。家庭の事情もリヴァイ達が力技で何とかしたということで、はい。



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