成約



「なぁ、これで綴りあってるか?」

 少年――エレンはペンを動かしていた手を止めて、長椅子でくつろいでいた男にそう声をかけた。優雅に紅茶を飲んでいた男――リヴァイは長椅子から立ち上がると少年がいる机にまで向かい、ひょいっと少年がペンを走らせていた用紙を摘み上げた。そのままさっと用紙に目を通してここの文字が間違っていると指摘し、少年が持っていたペンで該当箇所の上にさらさらと綺麗な字で正しい文章を書き込んでいく。添削された文章を眺め、少年は深い溜息を吐いた。

「読むのは大体出来るようになったんだけど、書くのは難しいな」
「お前の呑み込みは悪くはないと思うぞ。この国の識字率はそれ程悪くはないのに、お前は全く読めなかったからな」
「……教えてくれる奴も、教えてもらう時間もなかったんだよ」

 むうと、膨れる少年の頬を男はつついた。

「別に貶した訳じゃねぇ。計算は早く覚えたな。金銭のやり取りはもう問題ないだろう」
「まあ、数の数え方自体は必要だったから知ってたし。十進法だっけ? 金の数え方は単純だし、身に付けないと困るからな。……というか、あんたの金銭感覚の方にはまだ慣れねぇんだけど」

 少年がそう言うと、男は別に普通だろう、と首を傾げた。全然、全く、普通じゃねぇよ、と少年は呆れたようにまた息を吐いた。
 自分を奴隷のようにこき使う親戚のところから飛び出し、山を越える途中で悪天候のため避難した洞窟でうっかりと出逢い、成り行きで一緒に行動することになった吸血鬼――それが目の前の男である。人から生命力を奪うことで『食事』とする彼は人間と同じ食事をする必要はないのに美食家であるし、綺麗好きらしくいつも清潔で豪華な宿に泊まることを好んだ。まあ、結構な財産を持っているようなので、安宿に泊まらないのは防犯上の問題を考慮したというのもあるかもしれないが。

(でも、吸血鬼だし、強盗犯なんか簡単にやっつけられそうだし、そもそも、こいつなら泥棒避けの術とかかけられそうだしな)

 長期滞在をするなら、家を借りて住んだ方が宿に泊まるよりも安上がりなのでは?と提案してみたが、それは男に却下された。

「俺は一ヶ所にずっと定住する訳じゃない。家を借りたり買ったりは処分に困る。それに、家事を誰かに頼むのも面倒だ」
「家事ならオレがやるけど。あ、でも、料理は作れねぇや……」

 掃除や洗濯、農作業や家畜の世話など子供のエレンに重労働を課してきた親戚だったが、調理だけはさせなかった。負担を減らすためとか、火の始末を子供にさせるのが不安だなどとかいう理由ではなく、単純に盗み食いをさせないためである。少年には食料を触らせもしなかった。

「それはやらなくていい。まずは読み書きを完璧にしろ。次はこの国以外の言語も覚えてもらうからな」

 いずれはこの国から離れ、別の国へ行くことを男は考えている。国によって言語は異なるから、まずはそれを覚えてもらわなければならない。他にも使われている通貨や習慣なども違うが、それらは別に後でもいい。会話が出来ればこちらの要望を伝えることも出来るが、言葉が通じなければ意思の疎通は難しいからだ。身振り手振りで意思をある程度伝えることは出来るだろうが、自分と共に行動するなら言語の習得は必須である。

「また文字覚えなきゃいけねぇのか……どうせなら全部共通にすればいいのに」
「言語、通貨、宗教、法律と国によって随分違うからな。同じ国内でも地方ごとに使われている言葉は違ったりもするし、確かに統一した方が効率的ではあるんだが――違いがある方が面白いぞ?」

 文化が全く同じなら旅をしていても詰まらない。言葉や風習、その国の歴史などを調べるのは男にとっていい退屈しのぎになる。――まあ、人の歴史はどこへ行っても欲望に満ちた似たようなものが多いが。

「それより、それが終わったら出かけるぞ。お前の服が出来上がったと連絡があったからな」
「また作ったのかよ? もう要らねぇって言ったのに」
「服は何着あってもいいだろう?」
「イヤ、ものには限度があるんだよ。いったい何着作る気なんだ、あんた……」

 少年が着ていた衣服はボロボロであったため、早々に処分されてしまった。元々、替えの服は一着で、ボロボロになるまで着古していた少年にはそれが当たり前で、解放された今でも着飾りたいという欲求はない。衣服よりもまず食料――飢えをしのぐことの方が大事であったし、身なりを気にしていられるような生活ではなかった。まあ、自分が貧しいものの中でも底辺の生活をしてきた自覚はあるし、男と共に行動することになった現在、彼に合わせて見苦しくないように身なりを整えなければならないというのは判っている。
 だが、男の常識というか生活は一般とはかけ離れている――一般家庭というもので育ってこなかった少年だが、一般の常識くらいは知識として持っているつもりだ。まず最初に与えられた衣服も上質のものであったし、取りあえず揃うと、男は少年を仕立て屋に連れて行き、採寸して一から衣服を作らせたのだ。勿論、男の見立てた男好みの衣服になるが、ぴったりと少年の身体に合った衣服は着心地がとても良かった。……確かにいいのだが。

「何か、もう一月はオレ、毎日違う服を着られる気がするんだけど」
「何を言っている。季節が変われば衣替えするのは当たり前だろう。それに、今後違う国に行けば当然気候が違うのだから、着ている服もまた変わってくる」
「……ってことはまだまだ作る気満々かよ。移動すんなら荷物になるだろ。そんなに要らねぇよ」
「なら、処分すればいいだろう?」
「だったら、特注するなよ。売れねぇだろ!」

 そもそも、少年は成長期だ。今までは食糧事情が悪かったので発達していなかったが、それが改善された今、ガリガリだった身体には程よく肉がついてきているし、この先背も伸びていくだろう。子供の成長は早いのだ。今現在、着ている衣服も早いうちに着られなくなる可能性が高い。
 兄弟が多い家ならば下の子供におさがりとして着させることも出来るが、エレンにはそれは出来ない。ならば古着として売るということになるが――ぴったりと合うように作られた個人のための衣服というのは、他のものがそのまま着るのは難しい。裾が足りないとか袖が長いとか、身体に合わないことは既成品でもあることだが、それがもっと顕著になる。他の人に合わせるとなると直さなければならないから、かえって手間になる。おそらくは布地としての価格しかつけられないだろう。
 ならば、多少身体に合わなくても誰でも合うような既成品の方がいいと思うのだ。古着として売りやすくなる。上流階級の人間は皆贔屓の仕立て屋がいて、衣服は採寸させて身体にぴったりと合う服をあつらえて着ているというが、自分にそこまでする必要はないと思う。

「前も食事のときに似たようなことを言ったと思うが、お前だけ安物の衣服を着させていたら、俺が虐待しているように見えるだろう。それに、格好によっては俺の望む宿での宿泊を断られる可能性がある。お前だけ別の宿に泊まったら一緒にいる意味がないだろう」
「…………」

 そう言われてしまえば返す言葉はない。使用人ということにして――元々、少年は男の雑用をする気でいたからその扱いで構わないのだ――もっと安価な衣服にすればいいと思うのだが、主人と使用人では普通は一緒の席で食事はしないし、同じ部屋で休んだりしないので駄目だと男は言う。

(そもそも、どんな関係って訊かれたら説明出来ないしなぁ)

 勿論、建前上の関係設定は作ってある。人に訊かれたときには『男の亡くなった姉の息子』――つまりは叔父と甥の関係であると説明することになっている。使用人とするには少年の待遇はいいので、親族にするのが妥当となったらしい。だが、親子には見えないし、兄弟とするには見た目の年齢が離れすぎている。従兄弟にも無理があるし、二人の現在の距離感としても亡くなった姉の子供という関係が最適に思われた。この先、エレンが年を重ねればまた違った肩書になるのだろうけれど。

(まあ、オレが慣れるしかないんだろうけど)

 男が妥協しないというのだから、エレンが折れるしかないだろう。元々、男の気まぐれで始まり、それに付き合うと乗ったのは自分なのだから。
 少年は幸せが逃げると判っていても溜息を吐いてペンを置くと、男と共に仕立て屋に向かった。


「とてもよくお似合いですよ」

 店主に褒められて、少年は曖昧な笑みを浮かべた。高級な衣服の良さはよく判らないが、男の趣味が上品でかつ着ているものの魅力を引き立てるものであるのは疎いエレンにも判る。

「お前も大分毛艶が良くなったから着せ甲斐があるな」
「毛艶ってなんだよ。動物じゃねぇんだぞ」
「動物で充分だ。知ってるか? 男が服を贈るのはその手で脱がせるためなんだぞ? 自分の前で脱いだ姿を見たいって言う意味だ」
「オレの服脱がせたいのか? 別にいいけど」

 風呂入る前とかなら、とあっさりと少年が言ったので、男は彼にしては珍しくぽかんとした顔をしてからくつくつと笑った。

「ああ、そうだ、お前はまだ子供だったな。そういう方面の教育にはまだ早いか……」
「イヤ、意味判らねぇんだが」
「そのうちにな。俺は店主と話をしてくるから、お前は品物でも見ていろ」

 男がそう言って店主と奥で話し出したので、少年は店内を見て回ることにした。

(でも、見るっていっても服に合わせた小物とか衣服の見本とか布とかだし、特に見るようなものも……)

 自らを飾り立てることに興味のない少年の気を引くものはここにはない。どうせ見るなら市場や露店の方がエレンには楽しい。手にするなら服に合わせる装飾品よりも屋台で売っている焼き菓子の方が嬉しい。そういえば、お菓子などというものは男と出逢ってから初めて食べたものだ。両親が亡くなる前にはおやつとして与えられていたかもしれないが、エレンの記憶には残っていない。

(ちょっとだけ外に出てきてもいいかな? 周りにどんな店があるか確認して、帰りに寄ってみたいって言えばいいし)

 男と店主との会話は長引きそうだし、少しだけ見てすぐ戻ればいいだろう、と少年は店の扉を静かに開けて外に出てみた。この近所には何の店があるんだろう、ときょろきょろと辺りを見回した時、背後から不意に声をかけられた。

「エレン? お前、エレンじゃないか?」

 名前を呼ばれてそちらに顔を向けた少年は相手を確認して顔を歪めた。

「……どなたですか? 人違いだと思いますけど」
「今、エレンって言ったら振り向いたじゃねぇか。親戚なのに冷たいな」
「…………」

 エレンは内心で舌打ちした。名を呼ばれて反射的にそちらを見てしまったが、無視するべきだった。
 目の前に立つにやにやとした笑みを浮かべている二十代半ばの男は正しくは親戚の親戚――もっといえばただの他人である。エレンの両親が亡くなった後、エレンを引き取って育てるという名目を掲げて奴隷のように扱った親戚と少年は血のつながりがない。確か父親の兄弟の配偶者の従兄弟とかいうそれはもう他人だろう、と言える希薄すぎる関係だった。
 何故、そんな親戚とも呼べぬような人間が少年を引き取ることになったかといえば、他に名乗り出てくる身内がいなかったからである。どうやら少年の両親の結婚は周囲に反対されていたらしく、親族とは絶縁状態だったらしい。祖父母はすでに亡くなっており、両親が心労をかけたから早くに死んだんだと親の兄弟は口々に言い、エレンを引き取らなかった。残ったのが遺産目当ての自称親戚だった訳だ。まだ三つかそこいらの幼児が一人で生きていける訳もなく、仕方なく引き取られたのだが、そのときに孤児院に入っていた方がまだマシだったと今なら判る。
 目の前の男は確か、親戚の兄弟の子――甥だとか言っていたような気がする。たまに家に来ては儲け話があるんだと持ちかけていたようだが、まともな仕事をしているようには見えなかった。
 エレンのことも働かせるより店に売ればいいんじゃないかとか言っているのを聞いた気がする――どのような店かは知らないが、あの親戚の身内が紹介するところなどろくなものではなかっただろう。親戚はただで働かせられる子供を端金で手放すのは勿体ないとか、遺産の管理の名目が子供の面倒をみることだから外聞が悪いとかそんなふうに話していたと思う。

「お前がいなくなって、山越えは子供の足にはきついし、どっかで野垂れ死んだんだろうって聞いたんだが――見違えたな。薄汚ぇガキだったのに、どこぞのご子息に見える」
「人違いです」

 エレンは何が何でも白を切ることにした。洞窟で出逢った男と共に山を越え、辿り着いた街からもかなり離れたところまでやって来たというのに、自分を知っているものに遭遇するとは思わなかった。これがただの村人だったなら特に問題はなかった。だが、あの親戚の身内だ――自分の居場所が知られたらろくなことにならないのは決まっている。

「なぁ、どうやってそんな上等の服を着られる身分になったんだ? やっぱりどこぞの変態にでも身体を売――」
「俺の甥に何の用だ?」

 男がエレンに近付こうとした時、すっと目の前に誰かの背中が現れた。まるで気配をさせず、突如湧いたように出現した相手――訊ねなくともそれが何者なのかエレンには判っている。リヴァイ、と小さく口の中で呟くと、現れた男は庇うようにエレンの姿を自分の身体で隠した。

「甥? そんな訳は――そいつは誰も引き取らなかったって」
「聞こえなかったか? 俺の甥に何の用だと訊いている」

 ぶわりと空気が変わったような気がした。男――リヴァイは何もしていない。声を荒らげた訳でも、相手に武器を突き付けた訳でもない。
 だが、この圧倒的な威圧感は何なのだろう。背後に庇われているエレンにさえそれが判るのだから、対峙している方はたまったものではないだろう。蛇に睨まれた蛙のように動きを止めて、ただ冷や汗を流している。
 何も言えず、口を開閉させるだけの男にリヴァイは凍り付くような視線を向けた。

「目障りだ。消えろ」

 その言葉に呪縛が解けたように我に返った男は、その場から走り去った。去り際にちらりとエレンを見て舌打ちするのを忘れなかったが。

「何だ、あいつは?」
「ただの他人だよ」

 はあ、と少年は深い溜息を吐いた。

「オレを引き取った親戚の親戚らしい。たまに村で姿を見かけたけど、オレは殆どしゃべったこともねぇし、何やってんのかも知らねぇ。まさか、こんなところで声かけられるなんて思ってもなかった」

 自分で言うのもなんだが、村にいた頃とは身なりが全然違うし、身体に肉もついた。自分を知るものとすれ違ってもまず同じ人物だとは気付かれないだろうと思っていた。相手も半信半疑だったのかもしれないが、よく判ったものだと思う。

「……前々から目を付けられていたってことだろう。磨けば光る原石を嗅ぎ分ける奴はいる」
「? どういう意味だ?」
「世の中には人には言えねぇ趣味を持つ奴が意外といるって話だ。上流階級とかいう奴の裏の趣味とかまあ、凄いぞ」
「イヤ、だから、意味判んねぇって」
「判らなくていい。……また接触してくることも考えられるから、一人で行動するなよ」
「ああ、いい格好してるからたかりに来るってことか。オレが金持ってる訳じゃねぇのに」

 服の裾を摘み上げてそういう少年に、それもあるが、お前自身を狙いに来るかもしれない、と男は忠告した。

「ああ、あれか。甥だって言ったから、あんたが保護者だと思われてるってことか。攫って身代金を要求してくるとか確かにやりそうだな」
「まあ、それもあり得るが、お前自身を商品にするということも考えられる」
「ああ、奴隷として売るってことか。あ、でも、この国って奴隷は一応禁止じゃなかったっけ?」
「建前としてはな。奴隷じゃありません、引き取って育てているだけです、とか、給料も支払わずに働かせて使用人ですとか嘯くのはよくある話だ。……まあ、お前の場合、労働じゃないが。イヤ、ある意味労働か」
「?」
「まあ、毛艶が良くなるのも問題って話だ」
「だから、オレは動物じゃねぇよ」

 少年の言葉に男はふう、と溜息を吐いて、とにかく俺から離れるなよ、と少年の手を引きながら宿へと帰った。



 ふう、と息を吐いて、今日はよく溜息を吐く日だな、と少年は思った。誰が言い出したのかは知らないが、今日だけでいくつ幸せを逃したのだろう。数えてみる気にはならないが、溜息を吐きたくなる状況なのだから仕方がない。

(今日って満月だっけ?)

 歩きながら上を見上げると、美しい月が輝いていた。

(こんな綺麗な月夜に会う奴が絶対関わりたくない奴って……何の冗談だ)

 宿に戻ったエレンは受付から伝言があると呼び止められたのだ。相手の名前を聞いてもピンとこなかったが、年恰好や様子などを詳しく聞いて、昼間遭遇した男だと思い当たった。伝言は簡素で指定された時刻に指定された場所に来い、というものだった。まだ子供のエレンをこんな時刻に呼び出しする時点でろくな話ではないと簡単に推測出来る。
 エレンが一人のときに呼び止められたので、リヴァイはこのことを知らない。相談するという考えが浮かびはしたが、これは自分の問題であって彼が関与することではないと結論した。伝言を無視することも考えたが、宿泊している場所を知られた以上――おそらくはあの後尾行されたのだろう――この先も付きまとわれる可能性が高い。もしも、自分を引き取った親戚にまで話がいけば更に面倒臭い事態になるだろう。
 ならば、話の内容が何にせよ、一度会っておくべきだろう。すんなりと進むとは思えなかったが、相手の思惑は知っておく方がいい。
 こんな夜遅くに宿を抜け出したことがばれたら男はきっと怒るだろうな、とそんなことを考えながらエレンは言われた場所に辿り着いた。

「よう、来たってことはお前はやっぱりエレンなんだな」

 その場所にはすでに男がいて、面白そうにエレンを眺めた。

「人違いだ。しつこく付きまとわれるのも迷惑だから、言いに来ただけだ」
「そう冷たいこと言うなよ。お前にちょっと頼みが――」
「断る」

 言葉尻に被せるようにして少年は言い切った。

「……まだ、何も言ってないぜ?」
「言われなくても想像はつく。金目の物を持って来いとか、金持ちを紹介しろとか、宿に押し入りたいから誘導しろとか、そういうのだろ。犯罪に手を貸す気も犯罪者になる気もオレにはない」
「別に犯罪を起こす気なんかない。余ってるところからちょっと分けてもらうだけだ」
「それが犯罪だっての。金欲しいなら自分で働けよ」
「よく言うぜ。お前だって、あの自称叔父に可愛がってもらって、金もらってんだろ?」

 エレンは眉を顰めた。可愛がってもらって金をもらうというのがよく判らないが、現在男に養ってもらっているのは確かに事実である。だが、男の言葉は何か嫌な感じがして気分を害せずにはいられなかった。

「とにかく、あんたとは関わる気はないから。じゃあな」

 予想はしていたが、話は平行線を辿った。この先いくら話したところで変わらないだろう。要求に応じたと見せかけて逃げるという手段も有効かもしれなかったが、それはどうしても嫌だった。
 その場から離れようと歩き出したエレンの目の前ににゅっと手が飛び出して来て、エレンは反射的に飛び退いてそれを避けた。
 見ると、暗がりから二人、三人と人相の悪い男達が現れた。

(……仲間か)

 おそらく、エレンが要求を呑まなかった場合、捕まえて金品の要求を男にする計画でも立てていたのだろう。元から仲間がいたのか、それとも、昼間遭遇した後に用意したのかは判らないが。

(取りあえず、逃げるしかないか)

 一応、目潰しになるものや、ナイフなど、護身用に使えそうなものは携帯してきた。勿論、大人相手に勝てるとは思っていないから、隙を衝いて逃げるためである。話が決裂するのは容易に想像が出来たから逃げる算段も考えていた。問題は今逃げられたとしても、その後どうするかだけれど。

「お前になくてもこっちにはあるんだよ。まあ、いい。あの自称叔父から金ふんだくって、変態爺にでも売り飛ばして――」
「何をしている」

 エレンの捨て台詞に嫌な笑みを浮かべて相手が言葉を返そうとした時、それを遮るように男の声が響いた。
 ゆらり、とほんの一瞬空気が揺れたような気がして、次には何もなかった空間に人影が現れていた。いったい、いつ、どんな方法で――瞬きをする間に姿を現した男に対して男達は驚愕し息を呑んだ。

「何をしているのか、と訊いている」

 ああ、昼間と同じだ、と少年は思った。だが、男の纏う空気はもっと凍えていて――怒りと凶暴さを孕んでいる。見るからに高級そうな衣服に身を包んだ男一人。護衛を引き連れている訳でもないし、大柄でもないし、武器を携えている訳でもない。普段ならば男達にとっては恰好の標的となっただろう。なのに、彼はただそこに存在するだけで押しつぶされそうな程の威圧感を発していた。

「何だ、こいつ――」

 男――リヴァイの登場は予期せぬもので、尚且つ異常でもあり、それを目の当たりにした男達の一人が狼狽した様子でそう呟き、それから少年に視線を走らせた。おそらくは人質にでもしようと思ったのだろう、少年へと手を伸ばした――が、それは叶わなかった。
 うぎゃああああああ、と絶叫が辺りに反響する。少年に伸ばされたその腕は有り得ない方向にねじれ曲がっていた。

「薄汚ぇ手でそいつに触るな」
「お前、今、何した――」

 仲間の惨状を目の当たりにして、また別の男が怒りをあらわにした。得体の知れぬものへの恐怖を振り払うように襲い掛かろうとしたが、それは果たせなかった。浴びせようとした怒声は途中から絶叫に変わり、先程の仲間と同じように――違うのはそれが両足ということだ――人体の構造上有り得ない方向に捻じ曲げられて、その場に崩れ落ちた。恐慌状態に陥ったのか、苦痛の声を上げながら逃げようとするが、ぐにゃりと曲がった両足では身体を支えられず地面をただ這いずるしかない。
 余りの異様な光景に残る男達は逃げようと走り出したが、何かにぶつかったように弾き飛ばされた。尻もちをつき、慌ててまた進もうとするが、その先へは進めない。何もないはずの空間、走り抜けられるはずの道、そこに目に見えない何かがあるのだと察するに充分な出来事だった。

「無駄だ、閉じたからな。声も周りには届かない。喚くのも泣くのもし放題だ。――汚ぇ声なんざ聞きたくもねぇが」

 それは全く温度のない、感情のこもっていない声だった。だからこそ、その言葉はより恐ろしさを男達に与えた。

「喰ってもまずそうだが……枯らす方が処分は楽か」

 淡々とした口調で呟いた男の口元が弧を描く。そして、ゆったりとした優雅な仕種で軽く手を振った――それだけなのに男達の口から絶叫が上がる。じわじわと最も苦しみと恐怖を感じる方法で死に至らしめる。男の頭にあったのはそれだけ。何故ならば、彼等は手を出してはならないものにその汚らわしい手を伸ばしてきたのだから。自分から奪おうとしたのだから。そう、少年は自分の――。

「リヴァイ、駄目だ」

 不意に背後から抱き付かれて、力の行使を止めるようにと告げられた。リヴァイは回された手に自分の手を重ね、苛立ったように眉を顰めた。

「何故、止める?」
「これは違う」
「何が違う? 自分に危害を加えようとした相手をそう簡単に許すのか、お前は?」
「そうじゃねぇよ。こいつらはあんたに何もしていない。何もされていないあんたがこいつらに報復するのは違う。やるならオレだろ」
「お前に対抗する力があるのか?」

 男の言葉が少々気に障ったのか、少年はぎゅうとしがみ付く力を強くした。

「それでも、だ! 確かにオレにはまだ子供だし、今だって逃げようと思ってたし、逃げるしか出来なかったと思う。けど、自分の尻拭いくらい、自分でさせろよ。……オレは助けてもらってばっかりであんたに何も返せてねぇ。そんなのは嫌だ」
「…………」

 男はふう、と息を吐いてかけていた力を解いた。



「――あいつらだが、命までは取らずにおいた。正体がばれると面倒だからその辺は適当に術をかけておいたが、後は役人に任せる。色々やってそうだし、牢獄行きは確実だろう。なくても俺が牢獄行きにしておく」

 尻拭いは自分でと言った少年だが、男に自分ももう関わってしまったのだから放置は出来ない、と言いきられ頷くしかなかった。男が吸血鬼だと周りに知られれば大騒ぎになる訳で、それは男の本意ではなく、自分だけの問題では確かになかった。――どうやったら牢獄行きに出来るのかは少年には判らないが、その辺は知らない方が良さそうなので訊かないでおく。

「……俺が怖いか? エレン」
「まあ、正直、ビビった」

 男が吸血鬼だと説明されていたし、不思議な力を目の当たりにしていたから人外だということには納得していたが、あんな風に力を使うのを見たのは初めてだった。男は確かに人を捕食し簡単にその命を奪える『吸血鬼』なのだと、自分は今ようやっと本当に実感したのかもしれない。
 質問の答えに無言になった男に、少年は手招きしてしゃがめと要求した。

「届かねぇんだよ、そのうち追い越すけどな」

 言われてかがんだ男に少年は手を伸ばすと、その首に抱き付くような格好で頬に口付けした。

「――――」

 珍しく固まった男に、少年は真っ赤になって、何だよ、何か言えよと喚いた。

「……何をどう言えと」
「親愛の情を示したんだよ! こうするって本に書いてあったし! 無反応だとオレがいたたまれねぇだろ!」

 そう叫ぶと、少年は怖くねぇよ、と呟いた。

「あんたが吸血鬼なのは最初から判ってついてきたんだし。前に言っただろ? 人間の方がよっぽど怖いって。けど、いきなりあんなの見せられたら普通にビビるだろ。びっくりしたけどあんたが怖い訳じゃねぇし、助けてもらった訳だし」

 言ってから、ああと気付いたように少年は笑った。

「まだ言ってなかった。助けてくれてありがとう、リヴァイ」
「――――」

 少年の言葉に男は何も言わず肩を震わせた。どうしたのだろう、と少年が思っていると男の喉からくつくつという音が漏れた。笑っているのだと気付き、人が真面目に言っているのに、と男に抗議しようと思ったとき、少年はぎゅうっと抱き締められた。

「リヴァイ?」
「――ほんの、気まぐれだった。いい退屈しのぎだと思った。俺は長く生きて、生き続けて、生きることに飽きて興味をなくして、退屈なんて考えなくてもいいように眠ることにした。目覚めて、久し振りにクソ面白いと思ったから、傍においてみようと考えた、それだけだったんだ。……なのに」

 そう言うと、男は抱き締めていた身体を離して、両手で少年の頬を包み込んだ。

「まさか、こんなガキにこんな感情を抱かせられるなんて思いも寄らなった。想定外もいいところだ。本当、お前はクソ面白ぇ」
「……何言ってんのか全然理解出来ねぇんだが、ひょっとして褒められてんのか? オレ」
「まだ判らなくていい。――が、ちょっとだけ味見させてもらう」

 そう言うなり、男は少年の唇に食らいついた。

「――――っ!?」

 ぬるりとした何かが口の中に入ってきて暴れ回る――少年がそれが男の舌だと理解するよりも早く、それは口蓋を舐め、粘膜を擦り、歯列をなぞっていった。奥へと逃れようとした少年の舌を絡め取り、擦り合わせ、くちゅくちゅという水音を辺りに響かせていく。
 男の突然の行動に半ば恐慌状態に陥った少年は暴れたが、男はその動きを封じ、柔らかな口内や唇の感触を存分に堪能する。宥めるように背中を撫ぜてやり、少年の力が抜けてきたのを見計らって、息継ぎをさせる。はくはくと酸素を求める様子が可愛らしくて、男は遊ぶようにその唇をついばんだ後、また深く唇を合わせた。
 くたり、と力が抜けたような少年の手を自分の身体に回させ、抱えるようにして片手でその身体を支えた男は深く口付けながら、空いている方の手を少年の胸に伸ばす。暴れていた少年だったが、今は口内に与えられる感覚に夢中になっているのか、抵抗する気配がない。存外、この少年は快楽に弱いタイプなのかもしれない、と思いつつ男は少年の上衣の裾から手を侵入させて、胸を撫で回した。びくり、と跳ねる身体を探るようになぞり少年が気持ちの良い場所を見つけ出す。滑らかな肌に指を這わせ、胸の突起に辿り着けば、んんっと鼻から抜けるような甘い声が少年から漏れた。指先でこりこりと擦り、摘み上げて両方の突起を可愛がってやれば、びくびくと身体を震わす。
 きっと赤く色付きぷっくりと立ち上がっているそれを舐めて吸い上げてやりたいが、まだ早いだろうことは判っているので、そこまではしない。触る度に顔を上気させ、涙を零しながらいやいやと首を振る様子が可愛らしいので、今はそれで充分だ。肉の付いていなかったうすっぺらい身体も徐々に少年らしい丸みを帯びてきて、男好みの程よい肉付きに近付いてきた。勿論、最後まで頂くのは当分先になると判っているが、少年が男の好みの容姿になるだろうことが予想出来て今から楽しみだった。

「……ん、んぅ……っ!」

 舌を吸い上げると、少年は背をしならせ、びくびくと痙攣した。ああ、イッたのか、と思い、ふと思い当たった男は器用に手を動かして、少年の下衣をゆるめて中に手を突っ込みどうなっているか確かめてみた。

「ああ、やっぱり。お前、まだ精通はしていなかったか。その感じだと自分で触ったこともないようだな」
「……ふぇ……?」

 とろんと溶けていた少年の瞳が男を映して――それからふっと元に戻った。
 そして、次の瞬間、少年から盛大な平手打ちが男に入ったのだった。



「エレン、俺が悪かった。機嫌を直せ」
「…………」

 長椅子の隅で毛布をかぶって丸くなっている少年に男がそう声をかけた。

「……あんた、悪いことしたって思ってねぇだろ」
「まあ、悪いことをしたとは思っていないな」

 その言葉に蓑虫状態だった少年が顔を出した。

「あんた、全然反省していねぇのかよ!」
「イヤ、お前にはまだ早かったと反省はしている。俺が悪いが、あれ自体は悪い行為ではない。というか、お前あれが何なのか判っているのか?」

 男の言葉に少年の眼が泳いだ。ああ、やはり、少年の性知識は未熟らしい。変に悟っているというか、大人びているのに、こういった方面の知識は年齢以下らしい。おそらく、初恋もまだとかいったレベルだと男は推測した。

「……よく、判んなかった、けど……何か、その……何ていうか……」

 少年は思い出したのか、顔を朱に染めてまた毛布の中にこもった。

「……判んねぇけど、恥ずかしかった、から……」

 くぐもった声が聞こえてきて、男は長椅子の端に腰かけ、毛布越しに少年を撫ぜた。

「嫌じゃなかったか?」
「……嫌とかは、なかった、と思う」
「なら、良かった。今はまだそれだけでいい」

 そう男は笑うと、ぽんぽん、と子供にするように――実際にまだ彼は子供だが――軽く叩いて、紅茶でも飲むか、と声をかけた。

「お前の好きな菓子――パンケーキもつけてやるが」
「……あんた、オレを食べ物で釣れると思うなよ」
「食わないのか?」
「……食うけど」

 ムッとした顔で毛布から顔を出した少年の頬を男は軽くつついた。

「……誤魔化された気が凄いするんだけど」

 でも、元はと言えばオレが軽率な行動とったからだし、誤魔化されてやる!と宣言した少年に男はまたくつくつと笑った。
 その眼差しにはっきりとした甘さが含まれていることに少年が気付くのはまだ先のこと―――。




《完》



2017.5.1up




 契約シリーズの一番最初の二人の話です。元々は拍手にUPしようと思って書いていたのですが、長くなりすぎたため断念しました。番外編的な話で時期的には倹約の回想の少し後くらいだと思います。一番最初の出逢いの設定って実はきっちり考えてなくて、数百年前のヨーロッパあたりのどこか、くらいのふわっと設定です。エレンは十歳くらいなので、リヴァイ、犯罪……げふげふ。一応、最後まで手を出すのは数年後なのでセーフにしてください、はい。



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