死が二人を別つまで



 ああ、しくじったな、とリヴァイは思った。最初から嫌な予感がしていたのだ――この仕事をするようになってからより勘が鋭くなった男は、何かありそうだと思った仕事は上手にかわし他に回すように心がけていたのだが、今回はどうしてもというリヴァイ指名だったために断れなかったのだ。組織に所属している以上、上司からの命令は早々断れない。明確な理由があればいいのだろうが、何か落とし穴がありそうだとか、妙に嫌な感じがするからやりたくない、などという個人的な予感だけでは断りの事由にはならないだろう。仕方なくとはいえ、引き受けたからには完璧な仕事をと思ったのだが、最後の最後で負傷するというへまをやらかした。
 リヴァイの仕事は暗殺業である。所属している組織は暗殺だけではなく、武器の販売や情報の提供、要人の警護までと幅広く引き受けているが、どの道真っ黒い闇の事業者なのは間違いない。一応、表向きの仕事もしているが、それにはリヴァイは関わっておらず、ほぼ暗殺専門で動いていた。
 嫌な予感はしていたので、注意深く行動し、ターゲットは上手く殺れたのだが、その後、敵の急襲を受けた。余りにもタイミングが良すぎるため、おそらくはリヴァイの情報が向こう側に流れていたのだろうと推察した。無論、襲ってきた相手は全員屠ったが、負傷したため後始末が出来なかった。ことが露見すれば面倒なことになる。組織はこの国の権力者の何人かとは繋がりがあるだろうし、暗殺を依頼されるような連中はろくでもない人間ばかりだから、ことのあらましを捏造したり、事件そのものを揉み消すことも可能だとは思われる。だが、事件とならないように秘密裏に処理するまでが組織の仕事なのだ。今頃は異変に気付いた他のメンバーが動いているとは思うが、リヴァイらしからぬ失態だった。

(まあ、あいつならこの事態も予測していただろうが)

 自分の上司はこのことを想定して動いていたに違いない。こんなことなら何が何でも断っておくべきだったと思う――まあ、あの抜け目のない男がそれを許したとは思えないが。

(……寒いな。この国の冬は初めてだが、ここまで冷えるとは思わなかった)

 リヴァイがこの国を訪れたのは過去に数度ほどだ。ここは銃の規制が厳しく、夜遅くに出歩いてもまず襲われないという、リヴァイが活動している国では考えられない程平和な国だ。だが、それでも闇の部分は存在するし、リヴァイ達の組織はこちらに進出しようと試みている。
 こちらにも道を踏み外したものはいるようだが、リヴァイ達の組織に比べればまだ生ぬるいと思う。まあ、そんな国でこんな目に遭っている訳だが。
 ちらほら、と白い結晶が降り出してきて、リヴァイは内心で舌打ちした。雪というものは痕跡を消してくれる便利なものだが、このままでは体温が低下して動けなくなるかもしれない。

(かといって、今は下手に動けない)

 襲撃者は全員屠ったが、相手側にリヴァイを仕損じたことは伝わっているはずだ。おそらくは追手が差し向けられているだろう。リヴァイの組織のメンバーも捜索してくれているだろうが、先に相手に見つけられる可能性がある。
 そんなとき、こちらに近付いてくる足音が聞こえ、リヴァイは座り込んで背中を壁に預けた姿勢でどう出るか考え込んだ。足音の感じからいって訓練された者のそれではない。追手ではないのは明らかだ――そもそも、追手ならばこんなに堂々と気配を隠さずに近付いてくるはずがない。たまたま通りかかった一般人だろう。時刻的に勤め帰りにしては遅すぎるが、この国はワーカーホリックにかかっているものが多いというし、夜勤のものかもしれない。仕事帰りに呑んできた酔っ払いにしては足取りがしっかりしているようだし、たまたま見つけて好奇心で近寄ってきたというのが妥当だろうか。何にせよ、相手をするのは面倒だ。リヴァイは俯いて相手が通り過ぎるのを待った。酔漢だと思われて放っておかれるというのがリヴァイにとっては最善だったのだが、相手はこちらのそんな気も知らずすぐ目の前で立ち止まった。

「あ、まだ生きてる?」

 すっと相手がしゃがみ込む気配がした。声の感じからしてまだ若い男性のようだ。酒精の臭いはないし、口調もしっかりしている。ひょっとすると、急病人だと思って救急車でも呼ぶつもりなのかもしれない。

「なぁ、まだ生きてる? 返事しねぇなら警察呼ぶけど」

 警察――その言葉に男は眉を顰めた。後ろ暗い身の上でそんなものを呼ばれたら面倒なことになる。

「……うるせぇ、放っておけ」

 低く恫喝しながら顔を上げると、思っていたよりも近くに相手の顔があった。黒髪に金色の大きな瞳――顔立ちはそれなりに整っているといえた。年齢は見た目からいうとまだ二十歳前後、高校生ではなく大学生くらいといったところだろうか。

「顔色悪いし、唇も色がねぇ。それに何か血の臭いもしてるし……あんた、怪我してるだろう。この気温だし、このままここにいたら低体温症起こしてヤバいことになると思うけど」
「……だから、放っておけ」

 これがこの国のお節介と呼ばれる人種だろうか。これ以上騒がれても困るが、静かにさせる――一般人を始末するのは後々面倒なことになる可能性が高い。どうにかして追い払わないと、とリヴァイが考えを巡らせていると、相手はこのままだと死ぬんじゃねぇかと思ったからさ、と続けた。

「だから、放っておけと――」
「だから、いいかな、と思って」

 その言葉にいったい何がいいのかという疑問が湧くが、関わりたくなかった男はあえてそこは突っ込まなかった。

「怪我してんのにこんな薄暗い路地裏で身を隠してるようだから、きっと人に言えないことで怪我したんだろうし、誰かに追われてるかもしれない。警察とか病院とかに駆け込めないってことは後ろ暗いことがある。関わったらまずい職業とか犯罪に関わってるっぽい感じがすげぇする。このままここで放置したら死にそうだし、そうでなくても死んでもおかしくないような身の上なのかなーと、勝手に想像した」
「そうだとしても、お前に関係ねぇだろうが。関わらない方が身のためだと思うのが普通だろう。そう思わねぇのか?」
「イヤ、だから、いいかなーと思って。すぐ死にそうならオレが拾っても構わないじゃん」
「はぁ?」
「だから、オレが拾って帰ろうと思って。オレの家近くだから、手当も出来るし、渡りに船だと思わねぇ?」

 突っ込まないでいた疑問の回答を得たリヴァイは不審そうに目の前の若者を眺めた。とても正気とは思えない発言だが、酔っている訳ではないようだ。

「あ、オレ、一人で暮らしてるから、家族とかに通報される心配ねぇよ? 更に、オレ、身寄りもないし、いなくなっても心配する奴いねぇからあんたには好都合だと思うけど」
「……凄い胡散臭い話だな。頭がいかれているとしか思えねぇ」
「胡散臭いのはお互い様だろ。どっちにしろ、あんた、このままだとやべぇし、死ぬ気がないならオレの家に来た方がいいと思うけど」
「…………」

 明らかにどうかしていると思える提案だったか、ここでこうしていたらまずいことになるのは確かだ。どう見てもこの若者は表の世界の住人だろうし、ついていってみてまずいようなら逃げればいい。一般人を巻き込むのは余り気が進まないが、いざとなったら始末してしまえばいいだけの話だ。この若者に本当に身寄りがないのなら、増える死体は一つで済むし、それくらいなら組織の方に処理を投げても問題ないだろう。
 リヴァイは諦めと呆れが混じった息を吐いて、お前の家はどこだと相手に訊ねた。

「すぐ近くだから、ついて来ればいい。あ、オレはエレン・イェーガー、大学二年生でまだ十九歳のぴちぴち。おっさんは?」
「おっさんじゃねぇぞ、ガキ。……名前は教えてやらん」
「ケチくさいな。じゃあ、何て呼べばいい?」
「何とでも」

 どうせすぐに別れるのだ。呼び名などどうでもいいし、むしろ、必要のないものだ。

「んじゃ、おっさんって呼ぶぞ?」
「それはやめろ」
「じゃあ、おじさま?」
「……いかがわしい感じに聞こえるからやめろ」

 リヴァイは頭を抱えたくなった。大体、怪我人に疲れる会話をさせるのはおかしくないだろうか。

「それがダメならパパとか?」
「いくら何でも、お前くらいの子供がいる年じゃねぇぞ。……判った、なら、兵長と呼べ」
「兵長? 何、あだ名?」
「まあ、そんなものだ」

 リヴァイは仕事時には名前を名乗らない。相手方には組織名を告げれば済むし、余計な情報は与えない方が得策だ。必要があれば闇ルートで作られた身分証の姓名を名乗るが、いくつもあるそれは当然ながらリヴァイ名義ではない。仲間に連絡する際は声で判るし、予め合言葉などを決めておけばいい。もしくは暗号名を使う。リヴァイはその強さから『人類最強の暗殺者』と評されており、そこからとって『最強』と呼ばれたり、また暗殺者達をまとめて仕事をした経験から兵士を束ねる『兵士長』などが使われていた。兵長はその略だが、ただの個体識別のための記号などリヴァイにはどうでも良かったので、どんな呼び名でも気にしなかった。面倒だったのでもう番号でいいだろうと言ったら、囚人じゃないんですからとか、番号や記号は指示間違いや連絡ミスがありそう等と指摘され、却下となった。同僚と仕事をした際に相手がふざけて『潔癖症』と呼んだときは蹴りを食らわせてやったが。

「あ、オレはエレンでいいから。兵長」
「お前はクソガキで十分だ。年上にはもっと敬意を払え」

 それを聞いた若者はきょとんとしてから肩を竦めた。

「兵長は案外体育会系ですか? まあ、年上にタメ口もどうかと思うんで、以後、気を付けます」
「……口の利き方というより、全般的にクソ生意気だと言いたかったんだが、まあ、いい」

 不審者を拾って家に連れ帰ろうという酔狂な相手なのだから、どこかおかしくても仕方がないだろう。それに、利用するだけ利用して別れる相手にそこまで気を使ってもらおうとは本気で思っていない。

「あ、着きました。ここがオレの家です」

 彼が言っていたすぐ近くという言葉に嘘はなく、徒歩数分で辿り着いたそこはどこにでもある普通の住宅街の一軒家だった。リヴァイは彼が示した家を見つめて、オイ、と低い声を出した。

「ここが自宅か? 広すぎるだろう」
「え? そこまで広くはないと思いますけど。敷地面積百五十坪くらいって、確かに都心部だと広いけど、地方なら普通にありますし」
「そういう意味じゃねぇ。一人で住むにはここは広すぎると言っているんだ」

 この国は人口のわりに領土が狭いことは知られているし、家賃なども大都市では特に高い。この国の人間ではないリヴァイがいうのもなんだが、大学生の一人暮らしならワンルームのアパートとかに住むのが普通ではないだろうか。よっぽどの田舎ならあるかもしれないが、ここは交通の便もいいし、住みたい人間も多そうだからこんなに広い物件で一人暮らししているとは考えにくかった。

「そう言われましても……ここ、オレの家ですし。一人暮らししてるのも本当です」
「家賃がよっぽど安い曰く付きの物件なのか?」
「持ち家ですから、家賃はかからないです。まあ、税金はかかりますけど」

 じゃあ、入りますよ、と家の門扉を開ける若者に、どうやら曰く付きなのは物件ではなく持ち主らしい、と思いながらもリヴァイは後に続いた。


「……お前、手慣れてるな」

 通された家はやはり、一人で住むには広すぎるところだった。若者はどこからか応急処置の器具セットを取り出してきてリヴァイの処置を手伝った。こういった場合の処置は一人でも出来るように訓練しているが、有無を言わせず手伝ってきたので、リヴァイは好きにさせた。どうにかする気ならとっくにやっているだろうし、警戒する必要はないだろうと判断したからだ。この若者の手つきは慣れているもののそれで、リヴァイでも感心するくらいだった。

「まあ、これでも一応医学部なもので」
「なら、将来は医者か?」
「いえ、ならないと思います。――オレが担当になったらきっと患者が死ぬから」

 そう言うと、それに実はなりたいとは強く思ったことがないことに気が付きましてと、苦笑いを浮かべた。

「父さんとじいちゃんが医師だったので、オレも行こうかなと思っただけなので」
「代々医者という訳か」
「いえ、父さんとじいちゃんは親子じゃないから一代ですね。今のオレはじいちゃんの子なので、戸籍上でも血統上でもオレが医者になれば二代ということになりますが」
「…………」

 どうやら何やら複雑な人間関係があるらしい。やはり、関わるのではなかったか、とリヴァイが顔に出さずに考えていると、エレンはそんなに複雑な関係じゃないですよ、と淡々と続けた。

「両親が亡くなって遠縁のじいちゃん夫婦に引き取られて養子になった、というだけの話です。で、じいちゃんの職業もたまたま父と同じ医師だったということで。まあ、オレが養子に入った時はじいちゃんはもう現役引退してましたけど。そのじいちゃん達も亡くなりましたので、こうして一人暮らしをしているという訳です」

 言いながら器具を片づけたエレンは取りあえず、大丈夫そうなので寝ますか?とリヴァイに告げた。

「明日、行けるようならちゃんとした病院で診てもらった方がいいと思いますけど」
「イヤ、お前の処置は的確だったし、一晩寝りゃ回復する」
「……どんなゲーム設定ですか」
「一応、身体が資本なんでな。生ぬるい鍛え方はしていない」

 やれやれ、とエレンは肩を竦めるようにして、寝るなら客間がありますから案内します、と告げた。

「部屋は綺麗にしてますけど、泊まってく人がしばらくいなかったので、寝具は湿っぽいかもです」
「寝られれば構わない」

 リヴァイは潔癖だとよく言われるが汚い場所で寝られないという訳ではない。仕事柄、きちんとした場所で寝られないこともあったし、親の顔も知らない孤児だったリヴァイはそんなことに構っては生きていられない境遇で生きてきたからだ。

「……じゃあ、おやすみなさい、兵長。いい夢を」

 自分の寝室に向かうだろう若者にそんな言葉を投げかけられて、リヴァイは一瞬固まってしまったが、一言おやすみと返すと、満足したようにエレンは部屋を出ていった。

(……調子が狂うな)

 どうにも彼の思惑というか、考えが掴めない。性格は生意気というか、気の強さをにじませているが、立ち居振る舞いからはきちんと躾されたことが推し量れるし、一般的な常識は持っていると感じられた。なのに、どうして得体の知れない男など拾ったのだろう。自分でいうのもなんだが、かなり怪しく思えたはずだ。

(まあ、どうせ一晩の話だ。まずくなったら始末すればいい)

 そうして、リヴァイは瞼を閉じた。


 ふわり、と鼻腔を良い香りがくすぐってリヴァイは重い瞼を押し上げた。自分がどこにいるのか――それを一瞬で判断し、寝床から起き上がる。

(あの変な奴の家だったな)

 見ず知らずの男を連れ帰って泊まらせるという殺されても仕方ないような酔狂な真似をした若者。その行為に呆れたが、その若者の家でぐっすり眠れた自分にも驚いた。
 リヴァイは仕事柄熟睡をしない――特に任務中は数日徹夜なんてことはよくあるし、それでも倒れないだけの体力と精神力は持ち合わせている。その自分が眠れるとは驚きだった。
 取りあえず、顔でも洗おうとリヴァイは部屋を出た。この家に入った時に家の構造はざっとあたりをつけていたので、洗面所の位置は予想出来る。そちらに行こうとして、リヴァイは思い直し、物音と匂いのする方へと足を進めた。

「あ、起きたんですね。おはようございます、兵長」

 昨日出逢った若者がエプロンを身に付けて、キッチンから顔を出した。

「もうすぐ、朝食が出来ますから。あ、洗面所はあちらです」

 位置を説明されて頷くと、若者はおはようございます、ともう一度挨拶した。

「返事がないと寂しいものなんですよ。挨拶は基本です」
「……おはよう」
「はい、おはようございます。昨日はよく眠れました?」
「……ああ」

 不愛想な答えに笑顔で返されて男はどうにも調子が狂うと思いながら洗面所に向かった。


「では、どうぞ。普通の食事で大丈夫かなとは思ったんですけど、その様子だと平気そうですね」

 食卓に並べられたのは炊き立ての白米に味噌汁、焼き魚と卵焼き、煮物と漬物だった。
 おそらくは目の前の若者が作ったのだろうと思うが、予想外のメニューだった。

「箸使えないならフォーク持ってきますけど……あ、もしかして、和食ダメですか?」
「イヤ、どちらも大丈夫だ。ただ、お前くらいの年代で一人暮らしだと、もっと簡単というか、朝はトーストと牛乳とかそんな感じだと思っていたからな」

 そもそも料理が作れるとは思っていなかった、と正直にリヴァイが言うと、エレンはばあちゃんに習ったんです、と笑った。

「だから、洋食は余り作れません。でも、和食は得意ですよ。この漬物、ばあちゃんからの糠床なんで一番の自信作です。糠床は手入れが欠かせないですけど、ちゃんと続ければずっと美味しいものが出来るんです。……本当は漬ける野菜もばあちゃんが作ってたんですけど、今は畑の手入れが出来ないんで」

 この家の庭の一角には畑――つまりは家庭菜園があったのだが、今は手入れしていないので荒れてしまっているという。
 リヴァイは箸で少年お薦めの漬物を摘まんで口へと運んだ。パリッという音が口の中で響いた。

「確かに旨いな」

 お世辞ではなく、本当に美味しいと男は思った。彼の作る料理はどれも見た目の派手さはないが、この国の料理をそれ程食べたことのないリヴァイの味覚にもよく合った。その言葉にまた笑顔になる若者に何でこんなに和やかに食事をしているんだろう、と頭の片隅で思いつつも男は朝食を綺麗に平らげたのだった。

「あ、そろそろオレ、家を出ます。今日は一限から講義があるので」

 朝食の片付けを終えたエレンがそう言うと、じゃあこれ、とリヴァイに向かって何かを差し出してきた。

「……何だ、これは?」
「鍵です」
「イヤ、それは判っている。何でこんなものを渡すんだ?」
「だって、鍵がなきゃ、オレが出かけた後、出かけられないでしょう? ちゃんと傷を診てもらった方がいいし。でも、戸締りしないで出かけられるのはさすがに不用心なんで」
「そういう意味じゃない。そんな簡単に合鍵を渡す馬鹿がどこにいる」
「――だって、拾ったんで」
「は?」
「拾ったものは最後まで面倒みるのが筋でしょう。折角なので、みられてください。それに、利用出来るものは利用した方がいいでしょう?」

 そう笑って、若者は鍵を男に強引に渡して大学へと出かけていった。

「……あいつ、やっぱり頭がおかしいだろう」

 掌の上で鈍く光る鍵を眺めながら、男はそう呟いた。だが、若者が在学している大学はこの国ではレベルが高い有名大学である。本人が嘘を吐いているなら話は別だが、そんなことをする理由はないし、学生証などを見せてもらえばすぐに判明することだ。それとも、頭が良すぎてどこかおかしくなったのだろうか。博士などと呼ばれる人間は変人が多いと聞くし、とどうでもいいことを考えながらリヴァイも出かける準備を始めた。
 リヴァイの身元を知られている訳ではないし、本人が言う通りに利用出来るなら利用するだけだ。面倒になりそうなら始末すればそれで終わる。

(取りあえず、組織の方と連絡を取らねぇとな)

 どうして自分の情報が漏れたのか、何故、自分が狙われたのか――大方の見当はつけている。腹の真っ黒な上司はしっかりと把握しているだろうし、その辺の事情も聞き出さなければ。事後処理をどうしたのか、自分が今後どう動くのかも打ち合わせしておかなければならない。

(クソメガネに連絡するのが一番早いか)

 変人と名高い同僚の顔を思い浮かべてリヴァイは内心で溜息を吐いた。きっと同僚はこの事態を面白くおかしく思っているに違いない。
 戸締りをして家を出たリヴァイは視線を感じ、不自然には見えないように視線を走らせた。隠す気のない視線はプロのものではない――それを証拠にどう見ても近所の主婦といった感じの女性がちらちらとこちらを見ていた。

(まあ、見慣れないものが現れたら見るのは判るが――少し、質が違うような……)

 閉鎖されたコミュニティに新参者が現れたら詮索されるのはよくある話ではあるが、ここはそこまでの田舎ではないし、リヴァイは昼間、人目に付く場所で活動する際には一般人に紛れやすいいように擬装する。特に不審に思われるような行動は取っていないはずなのだが。

(まあ、通報されるようなことはないだろうし、気にするほどのことではないか)

 少し引っかかりを覚えながらも、リヴァイは組織と連絡を取るために足を速めた。



『あははは、やっぱり無事だったんだね、リヴァイ。賭けようか話したんだけど、皆、無事な方に賭けたんで賭けにならなかったんだよね』
「無事で悪かったな、クソメガネ。というか、名前で呼ぶな」
『一応、任務終わってるし、いいじゃないか。それに盗聴なんてヘマを私がされるとでも?』

 能天気な声にリヴァイは舌打ちした――確かにこの同僚がそんな不始末を仕出かすはずはない。組織の情報部門の実力者ナンバーワンと噂される彼女――ハンジ・ゾエはリヴァイがクソメガネと呼ぶ古い付き合いの同僚だ。盗聴、盗撮などの危険性はまずないと考えていい。万が一どこかにこちらの情報が流れたとしても、彼女なら上手く操作するだろう。リヴァイの方も用心して外部に漏れる可能性がない場所で連絡を取ろうと若者の家を出てきた訳だが。

「で、事後処理は終わったんだろう? というか、仕事相手の身辺調査はお前の部門の仕事だろうが」
『後始末ちゃんとしてあげたのに冷たいなぁ。まあ、今回の不手際は認めるけどね。身内が裏切るとは怖い世の中だよねー』

 ハンジの言葉に、リヴァイは眉間に皺を寄せた。予想はしていたが、当たってしまったようだ。

「……ナイルか?」
『イヤ、違うよ。エルヴィンと対立している筆頭は確かにナイルだけど、彼はこういった姑息な真似は嫌うからね。古くて頭の固い上の連中の一派が動いた結果だよ。よっぽどエルヴィンが煙たいんだろうね。今のうちに右腕を排除しておきたいくらいに』
「人を勝手に右腕にするな。あいつの右腕はミケだろうが。あんな腹黒の片腕になったつもりはねぇぞ」
『リヴァイの方が目立つからじゃない? 連中から見ればあなたも私もミケも全部エルヴィンの部下なんだから、皆、憎たらしいって訳。こっちの部門にも地味に嫌がらせがきてるから鬱陶しいんだよね。今度の件で一気に片付けるみたいよ』
「勝手に派閥争いに巻き込むな」
『それはエルヴィンに言ってよ。まあ、どうあがいてもエルヴィンが次期首領なのは覆せないって気付けばいいのにね』

 現在のリヴァイが属する組織のトップはザックレーという名の男である。その男の右腕と言われるのがピクシスという名の男で、エルヴィンはその部下になる。ザックレーは高齢ということもあり、世代交代が囁かれているのだが、次のトップとして一番に名前が挙がっているのがエルヴィン――リヴァイの上司なのだ。
 実際にピクシスがザックレーにエルヴィンを推しているというのは確かな話で、次期首領としてエルヴィン以上に実力や人望があるものはいない。今すぐに交代という話ではないが、これはほぼ決まった話なのだ。
 だが、古参の幹部の中には反ピクシス派が存在する。エルヴィンがトップになれば今の地位を追い落とされるかもしれない――そう考えて、今のうちに水面下で彼を蹴落とそうと画策しているらしい。

『リヴァイの任務を失敗させて処分した後、その責任をエルヴィンに押し付けて失脚させようと目論んだみたいよ。失脚まで持っていけなくても、右腕がいなくなれば痛手になるし、煙たがってた連中は溜飲が下がって万々歳って筋書きだったみたい』
「……安い脚本だな」
『本当、安すぎだよね。でも、折角だから利用しようってことになったから、リヴァイ、しばらくは潜っていて』
「は?」
『だから、今度の件で一気に片付けるって言ったでしょ? 任務には成功したけどリヴァイは行方不明ってことにして動くから。リヴァイが死んで、右腕に死なれたエルヴィンがそれを隠そうとしてるって情報流して、連中が動いたとこ叩くからリヴァイは潜伏しててね』

 能天気な声で言われて、リヴァイはこめかみを引き攣らせた。

「あの腹黒……こうなると判っていてわざと仕事押し付けたな」
『エルヴィンもそろそろ始末をつけたかったんじゃない? まあ、ちょっとした休暇だと思って楽しみなよ。死んだと思わせたいから動かずに――』

 同僚の言葉を最後まで聞かずにリヴァイは通話を切った。予想はしていたが、いいように利用されるのは面白くはない。

(いっそ組織抜けてやろうか)

 無論、そんな考えは本気ではないが。組織に属するということは面倒なこともあるが、それ以上の利点がある。報酬や仕事の大きさ、バックアップやコネクション――フィクションではフリーの殺し屋が暗躍する物語はあるが、個人でやれることには限界がある。どんなに凄腕の暗殺者でも統率された組織には敵わない。余程の戦力差がなければ無双など出来ない。武器を持たない一般人ならいくらでも倒せるだろうが、装備を万全に整えた経験豊富な機動隊に囲まれたら投降するしかないだろう。

(しかし、潜っているとなると、潜伏先が必要だが――)

 無論、リヴァイにもいくつか拠点になる場所はあるが、組織のものが絡んでいるとなると、組織の息がかかっているところは使えない。リヴァイ自体のコネクションを使ったものもあるが、どこがいいだろうか。

「…………」

 導き出した答えにまあ、利用しろといったのは向こうだしな、と胸中で呟いてリヴァイはそこを後にした。



 結局はしばらく合鍵を使用することになりそうだ、と思いながら足を進めていた男は視界に入ってきたものに足を止め、身を隠した。

(……何をやっているんだ?)

 男の視線の先にあるのは、リヴァイが本日出てきた若者の家の様子を窺うようにして立つ人影。おそらく家主と同年代くらいに見える男だった。
 小柄で体型的に性別は男性だと判るが、顔立ちは可愛らしいので、パッと見だと性別を間違えるものがいるかもしれない。しばらくの間逡巡していたようだが、結局はインターフォンを押すことなく、相手は立ち去った。
 これが異性なら気になる相手の家を訪ねてきたとかになるのかもしれないが、同性ではその可能性はゼロに等しい。若者の同級生か何かで遊びにきたというにしては様子がおかしかった。疑問には思うものの、相手から悪意は感じられなかったし、ここで自分の存在を知られるのも面倒なことになりそうだ。
 リヴァイは相手が完全に見えなくなってから、若者の家へと戻った。


 パタン、というドアの開閉音がして、男はそちらに目を向けた。

「良かった、まだいてくれた。ただいま帰りました、兵長」

 どこかで買い物でもしてきたのか、エコバックを提げた家主は嬉しそうに男を眺めた。
 そのままその場に立ったままの相手に、彼が何を待っているのか悟った男は口を開いた。

「おかえり、エレン」

 それを聞いた若者の眼が大きく開かれて、それから嬉しそうに細められる。

「名前、覚えてたんですね」
「当たり前だろう。そこまで物覚えは悪くない」
「今、初めて呼ばれましたから。……名前を呼ばれるのは久し振りです」

 その言葉にリヴァイは怪訝そうな顔をした。自分のような職業ならともかく、名前を呼ばれるのはごく普通の出来事ではないだろうか。

(一人暮らしで身寄りがないなら家族から呼ばれることはないにしても、友人知人からは呼ばれるだろうに)

 そう訝しんだ男は名前と言うのは、姓の方ではなく、名の方かと思い直した。この国ではごく親しい間柄以外は名字の方を呼ぶのが一般的だ。ということは、親しい間柄の人間がいないということなのだろうか。この若者は少々変わってはいるが、友人が一人もいないようには見えないのだが。

「お前、その年でいじめにでもあっているのか?」
「そんな訳ないでしょう。仮にいじめられたとしても反撃くらいは普通にしますよ?」
「なら、親しい友人がいないということか。イヤ、大学から知り合った友人なら名字で呼ぶのが普通か?」
「勝手にぼっち認定ですか? 半分は当たって、半分は外れかな」

 そう言うと、エレンはふっと寂し気な表情になった。

「親しい友人はいないんじゃなくて、要らないんです」

 エレンは呟くような声でそんな言葉を口にした後、男へと向き直った。

「晩御飯のリクエストはありますか? 食べたいものがあるなら作りますよ」
「……お前が何を作れるのか判らないのに、リクエストも何もないだろう」
「和食なら大抵のものは作れますよ? まあ、家にある材料によっては無理なのもありますけど」
「この国の料理は有名なのしか判らんから、任せる」

 了解です、と言いながら買ってきたものをしまったりときびきびと動く若者を男は眺めていた。

(親しいものは要らないか……)

 その言葉はリヴァイのような裏の世界の住人の言葉であるべきだろう。名前を呼ばれただけで嬉しそうな顔をして、寂しそうな表情を見せて、楽しそうに自分の世話をする人間には似合わない。

(……人恋しいから俺を拾ったのか?)

 だが、自分はどう見ても拾うには怪しい人間だったはずだ。それに、人恋しいなら人を拒絶する言葉を口にしたのは矛盾している。

(とにかく、変な奴、というのは確定だが)

 いずれ出ていくのだから深入りするべきではない、とリヴァイは結論付けた。そもそも表の世界の住人は関わってはいけない存在だ。珍しく自分が興味を抱いたことに驚いたが、それを封印することを男は決めたのだった。


「兵長って車の運転出来たんですね」

 助手席で感心したようにエレンが言うのに、男は運転なんか簡単だろう、と返した。

「お前、運転下手過ぎるだろう。隣で見ていられなかったぞ」
「オレは車を滅多に運転しないから仕方ないんです。それに、兵長が言う程下手じゃないですって。今時の若者は車持ってない奴が多いんですよ? 兵長が買い物行きたいって言うから車出したのに……」
「掃除用品は絶対に予備を切らさずに常備しておくものだ」

 変わった若者の家を潜伏先――居候することに決めて数日、家主の家事能力は有能でかつ効率的であったが、掃除はリヴァイが譲らなかった。任務中なら仕方ないが、普段自分が生活するスペースは清潔にしておきたい。若者の掃除能力が低いという訳ではなかったが、自分が納得する出来にしたかったのだ。
 そして、掃除をしようとしたときに使いたかった掃除用品が丁度切れていたのだ。訊ねたら買い置きがないと言われたため、買い出しに行く運びとなったのである。

「お前が遠出したがるから、余計に時間がかかった」
「……どうせなら、品揃えがいいところがいいと思ったんで」

 若者が買い出しに行こうと言い出したのは、およそ三駅分程離れた先にある大型のショッピングモールだった。確かに色々な店舗が入っていて、買い物するには便利ではあるが、リヴァイが欲しい商品は若者の家の近所にあるスーパーやドラッグストアでも手に入るものだ。本日は休日で大学に行く必要のないエレンが折角だから遠出を、と言うのは不自然ではない。だが――。

(……こいつ、普段も絶対近所で買い物しねぇんだよな)

 買い物は通販を利用するか、大学近くで全部済ませて買って帰ってくる。今日も買い出しに出かけたのはすぐに商品を使いたいリヴァイが時間のかかる通販を嫌がったからだ。エレンが近所を出歩いているのをリヴァイは見たことがなかった。これは推測だが、彼は近所のものと顔を合わせたくないのだろう。おそらく、リヴァイが近所の女性達に見られていたのもエレンの家から出てきたからではないだろうか。

(近隣の住人と何かトラブルを起こした……ような奴には見えねぇが)

 リヴァイのような男を拾うくらいだから変人なのは確かだが、近所に買い物にもいけないような問題を起こしているとは思えない。近所付き合いなど面倒だから、極力関わりたくないという人間はいるが、そもそも人付き合いが煩わしいような人間が人を拾ったりするだろうか。
 エレンは礼儀作法がしっかり身に付いているように見えるし、自炊もしている。リヴァイが家にいるときは昼食の支度までして出ていくこともある。一人分も二人分も変わらないというが、毎食作るのは面倒だろうと思う。人嫌いの人間の行動には思えない。
 彼が自分を拾った理由がリヴァイには判らなかった。

「…………?」

 そうこうするうちに家に辿り着いたリヴァイは、家の前を見て怪訝そうな顔をした。家の前に見知らぬ男が立っていたからだ。
 派手に染色された髪に、安っぽい装飾品、着崩した衣服――どう見ても、その辺のチンピラといった雰囲気の二十代くらいの青年だ。人を見た目で判断してはいけないとは言うが、第一印象で皆避けていく部類の人間だ。同じような格好の人間か、駄目な男好きの女性なら気が合うかもしれない。
 この前も男が様子を窺っていたが、全く別のタイプの人間だった。この若者にはひょっとしてストーカーが複数いるのかと突っ込みたくなる。まあ、盗聴や盗撮、尾行等をされていれば自分が気付かない訳がないから、その線はないと考えられるが。

「兵長、停めてください。話してきますので」
「知り合いか?」
「知り合いといえば知り合いですが……今後、関わらないという約束をした相手です」

 エレンは溜息を吐いて、助手席から降りて青年の方へと向かった。

「よう、おじさん」
「あなたとは今後一切関わらないと取り決めしたはずですが。どうしても用があるというのなら弁護士を通してください。そもそもオレに会いに来るのは違反ですけど?」
「ケチくさいこと言うなよ。老人騙して遺産手に入れたくせにケチだよな、お前」
「……警察を呼ばれたいのならそうしますけど。今から呼びましょうか?」

 エレンの言葉に青年が舌打ちしたとき、どうかしましたか?と後ろから声をかけるものがいた。

「イェーガーさんとあなたは会わないように念を押されているはずですが?」
「誰だ、お前」

 青年に問われ、声をかけた男――リヴァイはにっこりと微笑む。

「弁護士です」
「ああ? こいつの弁護士は違う奴――」
「同じ事務所で働いているものです。本日は担当弁護士からの依頼でイェーガーさんを家までお送りしたんです。色々ありましたので……これ以上騒ぐならやはり、警察を呼んでの話し合いになりますが、よろしいですか?」

 リヴァイがすらすらと述べると、青年は覚えておけよ、とのお決まりの台詞を吐いて立ち去った。

「……話を合わせてもらって助かりました。あいつ、本当にしつこいので」
「お前らの会話に合わせて適当に並べただけだ。……事情は聞いた方がいいか?」

 リヴァイの言葉にエレンは少し逡巡していたが、こくり、と頷いた。

「あいつがまた来ないとも限らねぇし、事情を説明しておきます」


 男の目の前に良い香りを漂わせる紅茶を置いて、少年はソファーに座った。
 それをリヴァイは口に運んだ――ふわりと良い香りが鼻に抜け、まろやかな味わいが舌の上に広がる。この若者は料理だけではなく、リヴァイ好みの紅茶を淹れるのも上手だった。

「――で?」
「あいつはじいちゃんの孫です。オレには義理の甥ってことになるんでしょうね。自分より年上の甥って変な感じですが。まあ、会ったのはじいちゃんが亡くなってからでしたけど」
「何か揉めているようだったが」
「世間にありがちな遺産相続問題です」

 エレンの言葉にリヴァイは首を傾げた。

「孫ならそもそも遺産相続権はないだろう。配偶者と子がすでに他界している場合や、遺言状があればまた違うが」
「正確には亡くなったあいつの父親の相続権を代襲相続人として請求してきて揉めた、という話なんですけど。養子には相続権はないとか、全部自分が相続すべきだとか言い出すし。養子縁組した子には実子と同じ相続権が与えられるし、そもそも、じいちゃんが公正証書で遺産は全部オレに譲るって遺言状を作成してたから、あいつが請求出来るの遺留分だけなんですけどね。……まあ、その遺留分も生前贈与とか色々でほぼなかったんですけど」

 エレンを引き取った遠縁の元医師には実子が二人いたという。姉と弟――先程家まで来た青年は弟の子らしい。姉の方は優秀で父と同じ医師になったが、よくある話で優秀な姉と周りから比較され続けたため、弟は素行不良少年へと育った。遊ぶために家から金を持ち出したり、公共の場で暴れて器物を損壊したり、友人の家を渡り歩いて戻らなかったりと典型的な放蕩息子だった。姉と弟は実に十歳離れていたし、遅くに出来た子供だったので甘やかしていたのかもしれない、とは後に親がこぼした言葉だ。そんな弟は医師になれる訳もなく、成人してもふらふらとして定職につかなかったらしい。義父夫婦達は息子を自立させようと手を尽くしたが、どれも無駄に終わった。本人にやる気がないのだから、そうなるのも無理からぬことと言えた。
 義父が院長をしていた病院は姉の方が婿を取り、継ぐことになっていた――だが、不幸は突然訪れた。
 姉夫婦が事故に巻き込まれ、二人とも帰らぬ人となったのだ。哀しみに暮れる親の元に寄り付いていなかった息子が現れ、こう言ったそうだ。姉への香典で儲かったんだから、それを小遣いとして全部寄越せ、と。ちょっと頭がいいのを鼻にかけて自分のことを見下してたから、天罰がくだったんだろう、いい気味だ、と。

「これにキレたじいちゃんが怒って、手切れ金だって財産贈与して勘当したそうです。病院も人手に渡して、不動産も整理して残りの人生は夫婦だけでやっていこうって。本当に縁を完全に切ったみたいで、結婚して子供が生まれたことも、亡くなったこともじいちゃん達は知らなかったみたいです。向こうも探そうとはしなかったみたいだし。オレはじいちゃん達が息子と縁を切った十数年後に引き取られて、中学校に入学するときに正式に養子になりました。それで、向こうはオレの存在を知らなかったんだと思います。ばあちゃんはオレが高校の時に突然、、じいちゃんはオレが大学に入ってから病気になってしばらく闘病した後、亡くなりました」

 そうして、残された養子のために彼は遺言状を残した。それには預金、不動産、総ての財産を彼に遺すと書かれており、生命保険の受取人も全部エレンになっていた。その後、エレンが周囲の手を借りて喪主となり葬式を済ませ、相続手続きを進めようとしたところに、孫と名乗る青年が現れたのだ。彼の主張は血のつながった孫の自分が全額相続するべきだ、であった。

「養子縁組していて、ちゃんとした遺言書があるなら相手が遺留分請求出来るのは遺産の四分の一か? 他に隠し子とかいるなら別だが。保険金は遺産に入らないから請求出来ねぇし、ほぼなかったということは、持ち戻し分が多かったのか?」
「はい、贈与契約書も残ってあったし、財産計上するとほぼ残ってなかったです」

 遺産相続絡みのごたごたは多い。エレンを例に挙げて考えると、義父の子は三人だが、エレン以外は亡くなっている。配偶者も他界しているので、遺言書がなくても法定相続人はエレンのみである。だが、亡くなった子に子供――つまりは孫がいた場合、親が相続するはずだった遺産を請求することが可能だ。義父の実子のうち、姉に子供はいなかったようだからこの場合弟の子のみだ。
 義父は色々な場合を想定して遺言書を残しておいたのだろう。遺言状がある以上、実子でも遺留分請求は財産の四分の一になる。更に生前贈与があった場合――例えば生前贈与が五百万、遺産が千五百万だったとする。遺産は元々二千万あったとされ、遺留分は五百万となる。そして、その額はすでにもらっているから一銭も受け取れないということになる訳だ。
 まあ、実際の計算や手続きはもっと面倒だし、色々と揉めることに違いはないだろうが。

「まあ、赤の他人に財産持っていかれるのが嫌っていう理屈は判らなくはないです。けど、じいちゃん達に散々迷惑かけて、財産だけ受け取って縁を切ってずっと連絡も取ってなかった息子の子供で、しかも、生前一回も会ってない相手なんて他人と変わらないと思います。それでも、じいちゃんの仏前に手を合わせるとか、その死を悼んでくれたのなら、遺産を譲ることも考えました。けど、あいつは――来るなり遺産は全部俺のもんだ、このじじいの家も売るからとっとと出ていけって言ったんです。だから、渡せないと思った。遺産が入らないと判ると、騙し取った金寄越せとか、相続放棄しろとか、脅迫めいた文句を言ってきたり、近所に根も葉もない噂流したりしてきて……じいちゃんが弁護士さんに色々頼んでくれてたので何とか終わったと思っていたんですけど」

 相手は結局は納得していなかった――というよりは、金に困っているのだろう。何とかしてむしり取りたい訳だ。

(ああ、それでか。こいつが近所を出歩かないのは)

 あの様子だとかなり酷いことを言い回っているに違いない。それが事実無根だとしても人は醜聞が好きなものだ。面白おかしく吹聴したとしてもおかしくはない。エレンがそういう人間じゃないと知っているものでも、声をかけづらくなるだろう。

「あの、オレ、ちょっと面倒臭いことになってますけど、その……」

 エレンは小さな声で出ていきますか、と訊ねてきた。そんな質問をしてくるくせに視線では行かないでくれと訴えてくる。
 リヴァイはふう、と息を吐いた。

「お前のメシは旨いが、掃除の腕はまだまだだ」
「…………」
「俺がちゃんと鍛えてやる。完璧になるんならいてやってもいい」
「………!? はいっ!」

 そう嬉しそうに笑う若者に、男は利用するだけ利用すはずだったのに、厄介なことになったな、と心中で呟いた。


「兵長、ご飯出来ましたよー」

 つやつやとした炊き立てご飯のを運びながらエレンが笑う。エレンの作るものはどんなものでも旨い、と男は思う。たまに和食以外も作るが、献立は和食中心だ。男に気を使ってか洋食を続けてくれたこともあったが、男は断った。毎日作るのは大変だし、作り慣れたものの方がいいと思ったからだ。
 外食は基本しないし、栄養バランスもきちんと考慮されたものが出てくる。男が褒めると、ばあちゃんのおかげです、と彼は亡き義母のことを嬉しそうに語った。

「はい、今日はキュウリと大根です」

 そして、こうして毎日ぬか漬けが出てくるのはお約束だった。

「……塩分の過剰摂取になりそうなんだが」
「今の漬物はそんなに塩分高くないですよ。ラーメン食べる方がよっぽど高塩分です。漬物は乳酸菌も摂取出来ますし」
「お前の漬物愛は判った。……別に嫌だとは言っていない」
「兵長、それ、ツンデレってやつですか?」
「ツンデレ? 聞いたことねぇ言葉だが」
「ああ、判らないならそのままでいいです」

 エレンとの生活はリヴァイにとって居心地が良かった。不思議な関係だとリヴァイ自身でさえ思う。掃除のやり方、料理の味付けの好み、コーヒーではなく紅茶党であること、心地好いと感じるシャワーの温度、煙草は吸わないこと――親しい仲でないと知らないようなことを知っているのに、彼はリヴァイの名も職業も年齢も自己紹介で一番最初に知るようなことを全く知らない。まあ、年齢に関しては孤児であるリヴァイも自分の正確な生年月日を知らないのだが。

「そういえば、兵長は酒呑まないですよね? 下戸ですか?」
「呑めるが好んでは呑まないな。下戸ではねぇぞ。呑んでも酔わないタイプだな」

 職業柄、不測の事態に備えて呑まないようにしている。リヴァイは体質的にアルコールには強いようなので呑んでいても機敏に動けるし頭も働くが、特に好んで呑むことはない。任務時に必要な場面があれば呑むが。

「父さんは酒は余り呑まなかったんですよね。職業柄というか、緊急の呼び出し時に酒呑んでると困るからって感じで。じいちゃんももう引退してたけど、癖が抜けないみたいで、本当に嗜む程度でした。オレはまだ未成年なんで酒は買えませんので、呑みたくなったら買いに行ってくださ――あ、梅酒ならありますけど」
「梅酒?」
「ばあちゃんの趣味で、毎年梅酒作ってたんです。昔、どんな味なのか知りたくて、アルミンとこっそり呑んで見つかって怒られました」
「アルミン?」

 聞いたことのない名が出てきて男がオウム返しすると、エレンははっとしたような顔をして俯いた。

「……昔、友達だった奴です。よく、家に遊びに来ていたんで。今はもう関係ないので気にしないでください」

 リヴァイはそれにそうか、と返し――他に返しようがなかった――エレンはその場を執り成すように梅酒を呑みますか、と訊ねてきた。

「イヤ、今はいい。……そうだな、お前が成人したら一緒に呑ませてもらう」

 その言葉に驚いたように、エレンは瞳を瞬かせた。

「あの、オレの誕生日、三月末なんです」
「そうか」
「今、冬ですよ。結構先になりますけど」
「そうだな」
「それでも、一緒に呑んでくれますか?」
「ああ」

 任務でこの国に来たリヴァイは今は潜伏命令が出ているのでここにいるが、数ヶ月後はどうなっているのか判らない。そもそも、暗殺業を生業としているリヴァイは数ヶ月後にはこの世にいない可能性もある。勿論、そう簡単に消されてやるような気はないが。
 それが判っていながら、そんな約束をしてしまったのが何故なのか、リヴァイにもよく判らなかった。
 ただ、リヴァイの答えを聞いて、エレンがそれは嬉しそうに――花がほころぶような、というのを体現したように微笑んだから。
 思わず、その頬に手を添えて唇を合わせていた。

「…………」
「…………」
「……何か、反応しろ、クソガキ」
「……えーと、どう反応すれば……」
「驚くとか恥ずかしがるとか理由を訊くとか色々あるだろ」
「イヤ、驚いてない訳じゃなくてですね、海外に住んでたらならそういう習慣があるのかなとか、犬は口舐めるしなとか、そんなことがぐるぐると頭の中で巡りまして……」
「…………」
「あ、えーと、何でしたんですか?」
「判らん」
「…………」

 答えがないのに、理由を訊くとかあるだろとか言ったんですか、とエレンが唇を尖らせたので、男はまたその唇をついばむように口付けた。

「理由は判らん。判らんが、お前見てたらしたくなった。だから、させろ」
「……オレの意思は無視ですか?」
「嫌ならしねぇ」

 男の言葉に、エレンはまあ、犬とはキスするものですからね、と笑って目を閉じたので、男は再び唇を合わせた。
 男と若者の不思議な関係に、よく判らないがキスはする、という項目が追加された―――。



「で、あいつはどういう奴なんだ? クソメガネ」
『潜伏しててって言ったよね? 私、言ったよね? 何で大人しくしてないのさ、リヴァイ』
「判ったのか? 判らなかったのか?」

 このところ滞在している家とは離れた場所、盗聴などの危険のない場所で連絡を取った同僚は呆れた声を上げていた。

『私にそれを訊く? 判らなかったとか有り得ないからね? というか、リヴァイでも簡単に調べられただろ?』
「お前が動くなと言ったんだろうが」
『まあ、動かないでくれたのは有り難いけど。ご指名の相手はまあ、一般人……とは言い切れないかな。グレーゾーンにいる感じ』
「ああ、半端な感じか。見た目で威圧したいが、本格的にそっちの道にはいってない部類か」

 リヴァイが頼んだのは、あのエレンの義理の甥にあたるとかいう青年についてだった。リヴァイが調べることも可能だったが、潜伏中の身の上としては動くのはまずいと判断し、同僚に彼の身辺調査を頼んだのだ。

『本人は職を転々としてるみたい。で、キャバクラとかいうの? そっちの店関係で客引きやってたときに、暴力団の組員と知り合ってちょっとした使い走りみたいなことをやってる』

 彼女が告げた組織名はリヴァイも知っていた。この国ではそこそこレベルのものだろうか。

「構成員か?」
『違う。構成員でも準構成員でもないよ。更に知り合った構成員も下部組織の更に下の二次組織の下っ端って感じだから。構成員が使い捨ての駒にちょっと素行の悪い素人を使うのはよくある話みたいだからね。更によくある話だけど彼はこの組織の金融会社に借金がある』
「闇金か?」
『組織の方は両方やってるけど、どうも彼は闇から借りてるっぽいね。今のとこ回収出来てるみたいだけど、そのうち困るんじゃないかな』

 成程、そういう訳か、とリヴァイは理解した。借金のあった男は祖父のことをどうやってか知り、その遺産を目当てにしていたが、あてが外れた。他に金策に走ったが、いい解決法が見つからず、どうにかエレンから祖父の遺産をむしり取ろうとしているらしい。

『そちらの国の組織は今はやりにくいみたいだねぇ。ま、それでも上手くやるのが腕ってやつなんだろうけど。実際に生き残ってる組織はあるし。何で彼のことを調べているのかは知らないけど、余り派手に動かな――』

 リヴァイはまたしても同僚の言葉を最後まで聞かずに通話を切った。


 リヴァイが同僚から情報を提供してもらった後、このところの潜伏先にしている家に戻ると、その家の前に一人の若者が立っていた。
 あの甥の関係者か――と見れば違う。どう見ても表社会の雰囲気を纏っている小柄な男――おそらくは大学生くらいだろうか。

(……こいつ、前に見た奴か?)

 以前にもエレンの家の様子を窺うように見ていた若者に違いないだろう。リヴァイは職業柄人の顔や特徴を覚えるのは得意だった――顔を覚えるのが苦手でターゲットを間違えましたなんてことになったら、シャレにならない。まあ、資料がある訳ではなし、あのときも長い間見ていた訳ではないから絶対にこの男だと断言するのは危険かもしれないが、家主と同年代で小柄でパッと見性別を間違えるような容貌した男が他にもいて、同じようにエレンの家の様子を窺いに来ていると考えるより、同一人物だと思う方が自然だろう。
 あのときは面倒なことになるのを避けるため、近付かなかったのだが――あの甥のことがある。彼は関係しているようには見えないが、何らかの情報を持っているかもしれない。あれからあの青年はエレンに接触してこないが、エレンやリヴァイがいない間にうろついている可能性はあるし、彼がそれを目撃していることも考えられる。

「この家に何か用か?」

 リヴァイが声をかけると、相手はビクッと肩を震わせた。

「あ、あの、すみません。別に怪しいものじゃなくて――」

 慌ててそう言う若者に、暗い影は感じられない。ごく普通の大学生といった感じだ。だが、今はごく普通の大学生でも知らずに犯罪の片棒を担いでいたりするものだ。この若者がそうではないとは言い切れない。

「この家の人と僕は同じ大学で、ちょっと様子を見に来たというか……」
「エレンはまだ帰って来てねぇぞ」

 リヴァイの言葉に相手は目を丸くした。

「エレンと知り合いなんですか?」

 相手の言葉にリヴァイは内心で訝しんだ。エレンは自分の名を呼ばれるのは久し振りだと言っていたし、もうそう呼ぶ相手はいないような口振りだった。だが、相手はすんなりと呼び慣れているかのようにその名を口にした。更にその声には親しみがこめられているように感じられた。

「俺はあいつの亡くなった義父の友人の息子だ。父は随分良くしてもらっていたようだから、様子を見るように頼まれているんだ」

 全くのでまかせをリヴァイは口にした。エレンと自分は友人というには年齢が離れているし、目の前の相手が同じ大学だというのだから、大学関係者は名乗れない。エレンはアルバイトをしていないのでバイト先の先輩という肩書きも使えない。甥に言ったように弁護士という手も考えたが、あのときは相手に後ろ暗いことがあったせいで引き下がってくれたが、弁護士資格の提示を求められたら面倒臭いことになる。この相手がエレンの担当の弁護士を知っているかは判らないが、危ない橋を渡るのはやめておいた方が無難だ。エレンが自分くらいの年代と接点を持っているとすると、元家庭教師や、塾や習い事の講師、学校の教諭、親戚などが挙げられるが、卒業した後の生徒の自宅を訪ねてくる教師などまずいないだろうし、エレンは親戚付き合いをしていない――というか、するような親戚はいないのだろう。更にこの若者がエレンの情報をどの程度知っているか判らないので、エレンと直接関連がある関係は名乗らない方がいいだろう。そう考えて出たのが義父の友人の息子という設定だ。エレンのことは知っていても義父の友人関係までは把握していないだろうし、父親という架空の人物を間に挟んだ関係ならぼろが出にくいと判断した。

「そうなんですか。エレンはいないようですし、僕は帰りま――」
「ちょっと時間をもらえないか? エレンのことで話がある」

 その場を去ろうとする若者をリヴァイは強引に引き留めた。

「エレンの義理の甥というのがあいつに付きまとってるようでな」
「………!? あいつ、まだエレンに付きまとっているんですか?」

 弾かれたように顔を上げた若者に、ここでは何だから、とリヴァイはその場から離れ話せる場所を探した。


「あの、僕はアルミン・アルレルトと申します。エレンとは中学からの付き合いになります」

 エレンが帰宅する前に話しておきたい、と思い、家から少し離れた落ち着いた雰囲気の喫茶店へとリヴァイは足を向けた。エレンの帰宅するルートから逸れた場所で、余り遠すぎない場所の方が見つかりにくい。エレンは自宅近所の店に足を向けないからだ。若者はリヴァイを若干警戒している様子を見せていたが、エレンの家の様子や合鍵、身分証――勿論、闇ルートで入手したものであり、リヴァイは複数所持している――を提示したりして、少なくともエレンの知り合いであると納得させた。エレンやエレンの家の情報が若者の持つものと合致したのだろう。

(アルミン・アルレルト――アルミン、か)

 エレンが一度だけ口にした名前だ。彼はもう友達ではないと言っていたが、このアルミンと名乗った若者にとっては違うようだった。

「エレンの友達か?」

 リヴァイの言葉にアルミンは寂しそうに目を伏せた。

「エレンは判らないけど、僕は友達だと思ってます。――エレンとは中学の入学式で出逢って、同じクラスだったことから親しくなりました。エレンの家にも昔はよく遊びに行ってました。お義父さんとお義母さんも凄くいい人で僕によくしてくれて――あの頃は本当に楽しかった」
「……年寄り臭い言い方だな」

 リヴァイの言葉にアルミンはそうですね、と苦笑した。

「エレンの事情は初めて家に遊びに行ったときに教えてもらいました。隠してる訳じゃないし、近所の人も皆知ってるからって言ってました。まず親子には見られないから隠すなんて無理だし、隠そうと思わないって」
「まあ、そうだろうな」

 エレンの血の繋がらない甥――つまりは義父の孫はエレンより年上で、彼の父は遅くに出来た子供だと言っていた。周りからは祖父と孫、あるいは曾孫くらいに見られていたかもしれない。
 エレンは小学校の頃に本当の両親を事故で亡くし、義父母に引き取られ、中学校に進学するのに合わせて養子になったそうだ。エレンの進学先は大学付属の中高一貫校だったから、このアルミンともずっと同じ学校だったという。

「エレンが高校生のときにお義母さんが、大学に進学してからお義父さんが亡くなって――それから、あいつが現れたんです。ないことないこと言い触らして――エレンの友達は皆、あいつの話なんか聞かなかったけど、それでも噂にはなって、エレンは周りから離れていきました」
「エレンは噂に負けるような奴じゃないだろう」
「――そうですね、エレンは強いから。でも、あんな噂を流されて傷付かない訳がない」
「――どんな噂だ」

 若者は言うのをしばし躊躇っていたが――おそらく、内容が酷かったせいだろう――リヴァイにじっと見つめられてその口を開いた。

「エレンの両親の事故の原因はエレンだったとか、養子になったのも財産目当てだったとか、義父に無理矢理遺言書を書かせたとか――そもそも、医学部のエレンが義父の病気に気付かなかったのがおかしい、遺産欲しさに見殺しにしたんだ、とか、そういう噂です」
「それ、名誉棄損とかで訴えられねぇのか?」

 リヴァイの言葉にアルミンは首を振った。

「そもそも、名誉棄損は親告罪ですし、証拠も自分で集めないといけません。あいつは、ネットに書き込んだ訳でもないし、誹謗中傷の手紙をばらまいた訳でもない。エレンの周りの数人にこういう噂があるんだけど、聞いたことない?って訊ねて回った結果なので、立証が難しいんじゃないかと。あいつがはっきり言いましたって証言をしてくれる人を探さないといけない訳ですけど、事件に巻き込まれるのが嫌だったり、あいつから聞いて噂を流した人は自分も訴えられるんじゃないかと思うでしょうし……」
「まあ、名誉棄損じゃとれても数十万くらいだし、示談の方がいいかもしれないが」

 あの男の様子ではそれも無理だろう。むしろ、遺産を渡さなければ危害を加えるとか、言ってきそうだからそちらを押さえて脅迫罪にした方が早いかもしれない。

(まあ、相続でもめた時に弁護士が対処していると思うが。……というか、脅して遺産を譲るように仕向ける前に、命を狙われたりしないか?)

 エレンはまだ大学生だし配偶者も子供もいない。両親も他界している。おそらくは祖父母も亡くなっているのだろう。残る身内は血の繋がりはないが、あの甥だけだ。甥に相続権はないが、兄弟にはあるのでここでも代襲相続人になれる。

(兄弟には遺留分請求は出来ねぇから、エレンが遺言状を書いていれば遺産は渡らねぇ。……あいつならやってそうだが)

 帰ったら色々とあの若者には訊いてみよう。追い詰められると人間は何をしでかすか判らない。

「あの、シーナさん。エレンをよろしくお願いします」

 アルミンはぺこり、と頭を下げた。シーナというのはリヴァイの見せた身分証にあった名前だ。

「エレンは誰とも関わらなくなってしまった。僕達を巻き込みたくなかったのか――他に理由があるのか、それはエレンにしか判らないけど、エレンがあなたを近付けることを許したのなら、今、あなたが一番近い場所にいるんだと思います」

 もう自分は近付けなくなってしまったから、と寂しそうな顔でアルミンは再び頭を下げた。



(よろしくと言われたがな……)

 あの若者はリヴァイが今一番近い場所にいると言ったが、エレンが自分のことをどう思っているのかは判らない。

(あいつの俺の認識は拾った犬くらいだと思うんだが――)

 実際に彼は自分を拾ったと言っていたし、拾ったが懐かない動物に餌付けをしている感覚が近いのではないだろうか。

(キスも犬とはするとか言っていたしな)

 自分とのキスは犬とするのと同等なのだろうか――それは何だか非常に腹の立つ扱いだ。自分でも何故キスするのかよく判らないのだが、犬と一緒にされるのは御免だ。犬には絶対に出来ないような、腰が抜ける程熱烈なものを次はしてやろうか、と男が考えながら歩いていたとき――。

「あれ? 兵長?」

 声のした方に振り向くと、パタパタと足音を立てながらこちらに近付くエレンの姿があった。

「出かけてたんですか? 今、帰りですか?」
「…………」
「兵長?」

 様子のおかしい男にエレンが首を傾げた。

(まずいな……)

 今、エレンの接近に気付いていたが、気付かなかった。矛盾しているが、その通りの言葉だ。日頃、リヴァイは人の気配を素早く感知している。敏感に察知しなければ暗殺業など出来ないからだ。だが、察知した気配の総てに反応していたら都会の雑踏など歩けない。なので、リヴァイが反応するのは敵意、殺意、害意――こちらに危害を向けようとする気配で、後は意識の外に置く。その辺の石ころと変わらない扱いだ。
 だが、今、リヴァイはエレンの気配を認識しながら、意識しなかった。それは有象無象の人間に対するものではなく、無意識にエレンだと判断し、受け入れたのだ。エレンなら近寄られようと構わない――そう判断した。
 考えことをしていようが、リヴァイのセンサーは働きを怠らない。センサー異常ではなく、機能した結果かこれなのはまずい、と男は思った。

「……ああ、出かけていた帰りだ。お前も大学の帰りか」
「はい、そうです。偶然、出逢うなんて初めてですね」
「偶然っていうなら、一番最初がそうだろう」
「イヤ、違いますよ」

 そう言って、エレンは悪戯っぽく笑った。

「あれは運命の出逢いってやつです」
「――――」

 リヴァイは思わず固まり、おそらくは軽口を返されるだろうと思っていたのだろうエレンも動きを止めた。

「…………」
「…………」
「…………」
「……すみません、ボケたのにツッコミがないと恥ずかしいんですが」
「……突っ込めない程の恥ずかしい台詞を言ったのはお前だと思うが」
「すみません、忘れてください。若気の至りです」
「まあ、そういう時期だと思って忘れてやる」
「イヤ、そういう時期って何ですか? 違いますからね!」

 唇を尖らせて否定する若者を受け流しながら、リヴァイはこの先どうするか考えを巡らせた。
 最初の認識はただの変な奴、だった――それから、丁度良く利用出来そうだという計算が働いて、その後、居心地がいいことに気付いた。その先は――進んだらまずい感情にぶち当たるかもしれない。

「兵長?」

 何か様子がおかしいと感じたのか、エレンが不思議そうな顔をした。特に童顔という訳ではない彼だが、瞳が大きいせいかそういう顔をするとひどく幼く見える。不意に唇を寄せたくなって、リヴァイはその衝動を押し殺し、前を見つめた。

「兵長? もしかして、体調でも悪いんですか?」
「――誰か入ったな」

 いつの前にか帰り付いた家の前で男がそう呟き、エレンは驚いた顔をした。

「空き巣ってことですか? え? 何で判るんですか?」
「気配が違う。まあ、勘でしかねぇが入ってみれば判るだろう」

 人のいる気配は感じねぇから大丈夫だろう、とリヴァイは中へ進んだ。

「玄関の鍵は大丈夫ですね。なら、窓かな。一応鍵二つになってるし、飛散防止フィルムも貼ってあるんですけど」
「可能性が高いのは風呂場の窓だろうな。格子を外して開けて侵入する。風呂場の窓は鍵のかけ忘れが多いし、格子がある窓はそれで安心してフィルムを貼ってないことが多い。後はトイレの窓か。……というか、お前落ち着いてるな」
「盗まれるようなものを置いてませんから。……遺産のことで揉めた時に、盗みに入られかねないと思って家の権利書とか実印とか色々大事なものは全部他所に預けてあるんです。カードは持ち歩いてますけど、生体認証カードですし、通帳も分けてますし。あ、何もないと空き巣に嫌がらせされるって聞いたから現金は少し置いてあります」

 さすがに狙われるようなものを馬鹿正直に自宅に置いておくような真似はしていないらしい。ブランド品などには興味も持っていないし、高価な貴金属を所持している訳でもない。空き巣が欲しがるようなものがここにはないのだ、と言う。

「あ、侵入経路トイレの小窓みたいです。兵長の予想当たりましたね。ここは入るのは無理だと思ってたからフィルム貼ってなかったんですよね。あの大きさで入れたのか……」
「肩が入れば抜けられるぞ。小柄な人間なら慣れればこれくらい簡単だろう」
「え、それって、やっぱり実体験ですか?」
「……何が言いたい?」

 男から不穏な気配を察したのか、エレンは即座に何でもありませんと答えた。男はふうと溜息を吐いて、いいのか?とエレンに訊ねた。

「盗まれるようなものがないとしても空き巣に入られたんだ。まず、真っ先に警察に連絡するだろう。下手に触って犯人の痕跡がなくなっては困るしな」
「……警察呼んで大丈夫なんですか?」

 男の問いにエレンは困ったように笑った。

「……呼ぶのが普通だろう?」
「呼んだら――いえ、呼ぶ前に兵長いなくなったりしませんか?」
「………」
「兵長が出ていくのなら、呼びません。盗まれるものは置いてないですし、窓は修理すればいし」

 警察がここに来たら、事情聴取されるのは免れないだろう。リヴァイの持つ身分証明書はそう簡単に見破られるようなものではないが、全く関係のない自分がここに住んでいると判ればまず不審に思われる。先程のエレンの友人という若者にしたような説明は調べられればでたらめだとすぐ判明するし、怪しまれるのならば来る前に姿を消すのが得策だ。その後、巡回なども行われるかもしれないし、ここには近付けなくなるだろう。
 ――いや、もうこの時点で面倒なことになっているのだ。警察に届ける届けないに関係なくこの家から――エレンから離れた方がいい。手を引くのが賢明だし、今までのリヴァイなら躊躇わずにそうしていただろう。

「……拾ったものは最後まで面倒をみるのが筋なんじゃなかったのか?」

 だが、男の口から零れたのはそんな言葉だった。

「――みられてくれるんですか?」
「お前のメシは旨い。それに掃除のやり方も上手くなった。まあ、まだ改善点はあるが」
「――なら、いてください」

 結局、エレンは警察には連絡せず、何か被害はないか二人で確認することになった。


 それに先に気付いたのはリヴァイの方だった。鼻をつく異臭――といっても薬品やガス漏れ等の危険なものではない。生ごみの入ったバケツをひっくり返したような臭いだ。

「……やられたな」

 臭いの発生源であろう場所に足を踏み入れ、リヴァイは眉を顰めた。綺麗に掃除され、磨き上げられていたはずの場所――キッチンが悲惨なことになっていた。倒されたゴミ箱に床に叩きつけられた生卵。そこら中に散乱する冷蔵庫の中にしまわれていたもの。いくら冬場とはいえ冷蔵庫の中から放り出された肉や魚は傷んでいるかもしれない――床やシンクに投げられた時点で廃棄するのは確定だが。
 おそらく、何も見つけられなかった相手が腹いせにやっていったのだろうが、何とも幼稚な行動だ。余計な行動をすれば痕跡が残る可能性が高くなる。本当のプロなら侵入した事実すら悟らせないようにするものだ。
 手慣れた感じも見られるので、その手の常習犯の中に素人もいたのかもしれない。単なる空き巣ではなくおそらくはあの甥が絡んでいるのだろう――もしも、彼が同行していたのなら個人的な嫌がらせ目的で行ったのだろう。エレンが警察に通報したら自分が一番疑われる立場にあると考えもしなかったのだろうか。

「これは掃除が大変だな。……エレン?」

 先程から若者は一言も発していない。この惨状では言葉を失うのも判るが、リヴァイが呼びかけても反応せず呆然自失状態で明らかにおかしかった。

「エレン? どうした?」

 リヴァイが腕を掴んで揺さぶると、エレンはようやく我に返ったようでぎこちなく動き出した。

「あ…そう、ですね。片付け、ないと……」

 そうぼそりと言って足元が汚れるのにも構わずに彼が進んだ先にあるものを認めて、男はエレンがここまで動揺した理由を悟った。
 ひっくり返されたゴミ箱にぶちまかれた冷蔵庫の中身、やぶられた調味料の袋――余り大きな物音を立てるのはさすがに止められたのか食器などは無事だったが、無残な状態になったキッチンの片隅にあるものにエレンが手を伸ばす。その手が、震えていた。

「……殆どこぼれちゃったな。ばあちゃんがずっと大事にしてたのに……」

 きちんと手入れすればずっと美味しいものが作れるのだと、義母からの糠床なんで一番の自信作だと笑っていた彼が、そのなれの果てに掠れた声を上げる。彼が義母からもらいうけ大事に使っていた糠床の容器は外された蓋から半分以上の中身が床に零れていた。

「すみません、しばらくぬか漬けは作れません。あ、食べたいなら買ってきますけど」
「エレン」
「でも、塩分を控えるにはいい機会かもしれないですよね。やっぱり食べすぎもよくないですし――」
「エレン、いい」

 男はそう言って、エレンの頬に手を伸ばした。

「我慢しなくていい」

 頬を撫ぜる男の掌が濡れていく。――ああ、こんなふうに泣くのか、と男は思った。ただただ静かに涙を落とすだけのそれ。自分自身でも泣いていることに気付いていないだろう若者の涙を拭ってやりながら、男はその唇と自分のそれを合わせた。あやすように舌を絡ませながら、その身体を抱き寄せる。

「泣きたいなら泣け。拾った犬の前で遠慮するな」
「……兵長は犬じゃなくて肉食獣っぽいですよね」
「犬だといったのはどいつだ? まあ、犬だって肉食だろう」
「……普通は拾った側が面倒をみるんじゃないですか」
「拾った犬には癒されるもんだろう。いいから、泣いておけ。泣かねぇなら泣かす」
「……すげぇ理不尽」

 そう言ったエレンの顔が歪んだ。男が子供にするように背中をぽんぽんと叩いてやると、若者は両手を伸ばして縋りつくように抱き締め返してきた。
 ばあちゃん、ばあちゃん、と譫言のように繰り返しながら泣く若者の髪を撫ぜ、落ち着くまで抱き締めていた男はその日の夜もその身体を抱き締めて眠った。
 ――そうして、男と若者の関係によく判らないが夜は抱き締め合って一緒に眠るというという項目が追加された。



「で、手筈は整ったのか?」
『だから、それを私に訊く? こっちはもういつでもやれる準備は出来てるんだけどさ、本気なの? リヴァイ』

 同僚の困惑した声にリヴァイは不機嫌そうに眉を寄せた――相手には当然それは見えなかったのだが、見ていれば温度が数度低くなったように感じられただろう。

「俺が冗談を言ったとでも?」
『イヤ、思わないけどさ、リヴァイがあんなこと言い出すとは思わなかったからさ』

 この前の定期連絡時にちょっとした話――というか、勝手に利用された対価としての要求を一つしたのだが、どうにもそれが信じられなかったらしい。とはいえ、きちんと準備をしてくれたようであるが。

「エルヴィンの方のカタはついたんだろう? これぐらいの要求は通るはずだ。こっちはえらい目にあったんだからな」
『そっちの方はばっちり終わったよ。ボスの趣味用に利用したから無駄にならなかったし』
「あのジジイの趣味は理解出来ねぇ」
『私も理解出来ないし、理解したくもないよ』

 組織のトップであるザックレーにはえげつない趣味があり、組織に敵対した者や組織内の反乱分子などの一部をその趣味のために回している。特に地位が高くふんぞり返っていたものをお気に召しているのだが――今は彼の趣味の話はどうでもいい。

「協力しないのなら俺一人で勝手にやるが?」
『それはダメに決まっているだろう、リヴァイ。あなたが個人的に動いたと言っても周りはエルヴィンの指示だと思い込んで勝手に勘ぐってくるに違いないんだから。なら、我々が根回しや手筈を整えた方がいい』
「だから、断りを入れたんだろうが。俺一人でもやれる案件だったのに」
『判ってるよ。ただ、あなたがその国の組織を一つつぶすなんて言うと思ってなかったから。消すのはいいけど、もっともな理由付けとか色々いるんだよ。そっちに進出したら邪魔になりそうなところは潰していくけど、派手に動くのは時期を見ないと。目立つ動きは今はまずいからね』

 リヴァイが潰すと決めたのはあのエレンの義理の甥が関わっているという組織だ。甥一人始末すればいいという話ではもうない――あの空き巣の慣れた手口はあの男だけの犯行ではないはずだ。つまり、組織にエレンは認識されている可能性が高い。甥がいなくなったらエレンがどうにかしたに違いないと言いがかりをつけてくる――脅しをかけて遺産を手にしようとしてくるだろう。一度目を付けた金蔓を諦めることはそうそうないはずだ。
 なら、話は簡単だ。組織ごと消してしまえばいい。
 リヴァイ一人の力でも潰せないことはなかったが、独断で勝手に動いたら後々面倒なことになるのは判っていたので、自分の所属する組織に話を通したのだ。この国の裏社会をいずれは掌握する気でいるのなら、組織の一つに消えてもらうことに関してそう反対は出ないはずだ。リヴァイが告げた組織は余り好ましくない――将来的には潰す予定のところであったから思惑通りに要求は通った。
 ただ、派手にやらないことともっともらしい理由付けをでっち上げる時間が条件として出されたのだが。

「ああ、あの男は殺すなよ?」

 一瞬の間があって、ああ、とハンジが頷いた。リヴァイの言うあの男に考えを巡らせて先日調査を頼まれたものだと思い当たったのだろう。

『末端の末端は処理してたらきりがないから放置でいいと思うけど?』
「何を言っている。あいつの地獄行きは決まっているが、簡単に殺してもらっては困る」

 たっぷりと礼をしてからではないとな、と男は胸の中で呟いた。即処分にしないのは、エレンと色々と揉めているあの男の死体が今見つかったら彼に嫌疑がかかる可能性があるからでもある。勿論、組織は何の痕跡も残さずに消すだろうし、万が一死体が発見されたとしても、色々と揉め事を起こしたり恨みを買っているあの男の殺害容疑が真っ先にエレンにいくとは考えにくい。だが、死んだと知られれば根も葉もない噂が広がるかもしれない。
 ――あんな噂を流されて傷付かない訳がない。
 あの若者が言っていた通りだ。強いからといって傷付かない訳ではない。むしろ、彼にはどこかもろい部分が存在する。

『あのさ、リヴァイ、今回の件の理由って、今、あなたが――』
「――余計な詮索はするな、ハンジ」

 温度の全くない平坦な声で告げられ、ハンジは沈黙した。これがもっと不機嫌そうであったり、何らかの感情がこもった声だったなら良かったのだが――これは本気の警告だ。
 ふう、とハンジは溜息を吐いて、見えないと判っていて頭を掻き回した。

『判った。私は何も言わないし訊かないよ。ただ一つ――組織はあなたと敵対する気はないけど、手放す気もない。あなたの弱点になり得るものの存在を抱えきる自信はあるのか』
「何を言ってやがる」

 組織があの若者に何かをするというのなら――。

「そちらこそ喉笛を噛みちぎられる覚悟があるのか」
『――ないね。少なくとも私には』
「そうか。残念だ。奇行種の頭ならコレクションしたい奴がいるんじゃねぇか?」
『奇行種って誰のこと? ……エルヴィンは部下の弱みを握ってどうこうする人間じゃないから心配は要らないけど、我々には味方だけではなく敵も多くいるって話だ。用心しろ、リヴァイ』
「ひとまとめにされるのは迷惑なんだと言ってるんだがな。ヘマをやらかす程バカじゃねぇ」
『そうか。この前後始末を押し付けられたのは誰のヘマだっけ?』
「そんなに削がれてぇのか、クソメガネ」

 軽口を叩き空気が元に戻ったところでリヴァイは通話を切り、最近の潜伏場所へと戻った。



「兵長、何か食べたいものありますか? 何でもいいはなしで」
「ああ、そうだな――」

 ちゅっという音とともに唇を食まれて、エレンは固まった。

「あの、今のするタイミングでした?」
「したい気分だった」
「気分って……まあ、いいですけど」

 それで、リクエストはと何事もなかったように促す若者にリヴァイは眉を寄せた――今の発言が自分は気に入らなかったらしい。その理由を考えて、リヴァイはそのまま口にした。

「気分でキスさせるのなら――俺がセックスしたいと言えばさせるのか?」
「は?」

 エレンはその言葉にきょとんとした顔をして、徐々に頭がその意味を理解したのか眼を見開き男をまじまじと見た。

「え? は? え……えーと、したいんですか?」

 質問返しされて、リヴァイは再び眉間に皺を寄せながら投げかけられた問いの回答を導き出すことにした。
 キスは毎日している。したいと思ったときに唇を合わせて、何なら舌を絡ませた深い口付けも交わしている。
 夜は抱き締め合って一緒に眠っている。人と一緒に眠る習慣などない男だったが、この若者の体温は存外に心地好かった。ただ、本当に抱き締めるだけで触り合ったり身体を繋げるという行為は今までなかった。
 だが、したいかしたくないかで言うなら――。

「ああ、したいな」

 その身体の隅々まで触って、舐め回して、自分自身で貫いて、突いて揺さぶって味わい尽くしたい。自分を犬だというのなら獣のように交わればいい。

(何故、そうしなかったのか)

 それは――認めたくなかったからだ。一度認識してしまったらもう戻れなくなる。とっくの昔に引き戻せないところにまで進んでいたのに、それでも踏みとどまっていた。
 ――弱点になり得るものの存在を抱えきる自信はあるのか。
 ハンジの言ったように完全にそういう関係になればエレンはリヴァイの弱点となるだろう。ただの性欲を吐き出すための相手ならいくらでもいる。だが、それとは全く異なる存在。

(だが、それでも)

 欲しいと思ってしまったのだから。まずいと思いつつ無視し続けたもの――その先にある感情を認めてしまったのなら、もう腹を括るしかない。
 リヴァイは手を伸ばしてエレンをソファーの上に押し倒した。

「――で、させてくれるのか?」
「する気満々に見えますけど?」
「したいからな」
「……犬とはセックスしないものだと思います」
「そういう趣味のやつもいるだろう」
「そんな特殊なプレイはレンタルして観て下さい」
「飼い犬に噛まれたと思えよ」
「――飼い犬になってくれるんですか?」

 リヴァイの下で大きな金色の瞳が揺れていて、男ははぁ、と溜息を吐いてその身を起こした。

「そういうつもりならしねぇ」
「兵長――」

 エレンが呼びかけたとき、場違いな音が辺りに響いた。音の発生源を視線で辿ると、そこにはエレンの携帯電話があった。
 あのエレンの友人の若者が彼は周りと距離を取るようになったと言っていたが、その言葉通りに彼に連絡が入ることは今までなかった。勿論、彼が学校に行っている間のことは判らないし事務的な連絡は入るのかもしれないが、彼が携帯端末を手にするのは調べ物があるときやアラームを使用するときと決まっていた。
 無論、連絡を取るための道具としてそれが機能したのはおかしくはない。ないが――リヴァイの中のそちら側のセンサーが作動してエレンが電話を取る前に声をかけていた。

「エレン、通話はハンズフリーにして俺にも聞こえるようにしろ」
「え? は? あの……」
「いいから言われた通りにしろ」

 有無を言わせぬ口調の男にエレンは戸惑いながらも携帯電話を手に取った。通知画面の名を見たのかアルミン、と唇が動く。リヴァイは自分の勘が的中したのが判って舌打ちしたくなったが、堪えた。もう少し早くに始末しておくべだったな、と心の中で呟く。

「アルミン?」
『よう、久し振りだな』

 その声はあのエレンの義理の甥のものだった。ターゲットとなるものの声をリヴァイが間違えるはずもない。エレンもすぐに判ったのか、顔色を変えた。

「何で、お前がアルミンの携帯を持ってる?」
『判り切ったことを訊くなよ。なぁ、オトモダチは大事か?』
「――――」
『まあ、ジジイ騙して遺産奪い取るような奴はトモダチなんてどうでもいいか』
「アルミンをどうした?」
『どうしよっかなぁ? こいつ結構可愛いツラしてるから売れるかもな』
「てめぇ……っ!」
『どうしたらいいかは判ってるはずだぜ? なあ、今から言う場所に一人で来い。言う通りにしなかったらどうなるかは……判るよなぁ?』

 一方的に告げられた要求にエレンが答える前に通話は切れ、エレンはまるでその相手がそこにいるかのように携帯電話を睨み付けていた。
 すっと伸びてきた手が携帯電話を取って通話を切り、エレンは反射的に視線を動かした。

「兵長……」
「エレン、行かなくていい。この件は俺が片付ける」
「何言って――」
「エレン、お前は俺があちら側の人間だと判っていただろう? 判っていて拾った。これは俺の領分だ」
「これはオレの問題で兵長には――」
「拾ったのはお前だ、エレン」

 リヴァイは携帯電話を置くと、エレンの両頬に手を伸ばして挟み込みその顔を覗きこんだ。深淵を孕んだような二つの灰青に、魅入られたように動けなくなる。そう、エレンは男がそちら側の人間――裏側のおそらくは深い闇の領分に棲むものと最初から察していた。だからこそ、拾ったのだ。

「拾ったものの面倒はみると自分で言ったんだろうが。飼い犬は主人を守るものだ」
「オレは――」
「お前は自分から俺に関わって、手放す機会――逃げる道はあったのに自分で塞いだ。何故、俺を拾った?」
「……あんたが、死にそうだと思ったから」

 エレンが口にしたのは初めて逢ったときと同じ言葉だった。リヴァイには理解出来なかった、それ。

「死の臭いがこびりついていて、薄暗い事情がありそうで、きっといつ死んでもおかしくない身の上なんだろうって思った。そういう世界に棲んでいる人間なんだろうなって。だから、拾った」

 そのだからがリヴァイには理解出来ないのだが、エレンは更に言葉を続けた。

「あんたが死ぬのはあんたの事情で、オレは関係ない。オレのせいじゃない。オレと関わったからじゃない。オレが原因じゃない。――そういう人が良かった。オレのせいで死んだって言われない人なら誰でも良かったんだ」

 ――金が欲しくて病気なのを知らない振りしたんだって。
 ――元々、遺産目当てだったんだろう?
 ――あいつの両親、あいつが原因で事故ったんだってよ。
 ――無理矢理遺言状書かせたらしい。
 ――あいつに関わるやつ皆死ぬって本当?
 それは全くのでたらめであったが、降り積もる言葉の数々は少しずつ、だが確実にエレンの心を削った。

「大事な人をなくして、オレのせいだって言われて、それは本当のことじゃないのにずっと言われ続けていたら本当のことのような気がした。だから、関わるのをやめたのに――誰にも関わらないで生きていくって決めたのに、あんたを見たら声をかけてた」

 彼ならいい訳が出来る。自分と関わって何かあっても自分のせいじゃないと言える。いつどこで彼が死んでも自分に責任はない。だから、彼が良かった。それなのに。

「兵長は優しかったから。あったかくて、居心地よくて――離れていって欲しくなくて、ずるずると引き留めた。拾ったのも引き留めたのも全部勝手なオレのエゴだ」

 はらはらと大きな金色から雫がこぼれた。それを綺麗だと男は思う。だが、欲しいのはこれではない。
 男は頬に伝うそれを舌で舐め取った。

「エレン、拾ったものは最後まできちんと面倒をみろ。確かに俺はいつ死ぬか判らない――数え切れない程殺してきたから、最後は誰かに殺されて終わる、そんな身の上だ。だが、約束してやる」

 その言葉に金色が動く。真っ直ぐに向けられたそれに男は笑った。

「俺が死ぬときはお前も連れて行く。何があろうが、お前の喉笛も噛み切ってやる。一人で置いていくことはしない。お前の死の理由は俺だ。お前が俺の死の理由になることは永遠にねぇ。――俺を飼い続けろよ、エレン」

 死ぬ瞬間まで一人にはしない。自分のために死なない。それはエレンにとって最大の誘惑だった。
 微かに頷いた若者を見て、男は満足そうに笑い、その喉笛に軽く噛み付いた。



『そっちに残るんだって?』
「ああ、どうしても俺じゃないとダメな仕事はするが、こっちを基点にして動く」
『エルヴィンがよく承知したね』
「命は惜しいんだろう」
『いくらあなたでもエルヴィンを狙うのは難しいと思うけど?』
「そっちじゃねぇ。有能は部下は惜しいだろう?」
『……ああ、そういうことか』

 ハンジは通話機の向こうで溜息を吐いた。まあ、要するにそういう脅しを入れたということだ。勿論、本気で言った訳ではないだろうし、上司もそう理解しているだろうが、そこまではなくてもリヴァイは必要だと思ったらやる男だ。
 まあ、リヴァイは手放すには惜し過ぎる男であるし、多少の融通で動いてくれるのならそちらの方が益だと判断したのだろう。

「そっちの片付けは終わったのか?」
『うん、綺麗さっぱり片付いたよ』

 あの義理の甥がエレンを悩ますことはもう永遠にない。詳細はエレンに伝えていないし、この先も言うことはないであろうが。あのエレンの友人も無事に保護し、保護した経緯もそれらしく上手く捏造して納得させることが出来たようなので同僚に一応の感謝の意を示しておいた。そういった後処理が抜群に上手い同僚に滅茶苦茶気味悪がられたので、次に会った時は蹴りを食らわせてやると決めている。
 その相手――現在通話中のハンジは男がそんなことを考えてるとは気付いていないようだが。

『まぁ、しばらくは落ち着くと思うよ。声だけはでかい連中は殆ど片付けたし、エルヴィンに対抗出来る勢力はもう組織内にはないしね』
「組織内のごたごた中に外部から仕掛けられなくて何よりだ」
『その辺上手くやるのが私の役目だからね。そもそもエルヴィンに対抗しようなんて考える方が愚かなんだけどさ』
「それが判る奴なら処分されてないだろう。まぁ、まだ地味な嫌がらせはあるだろうな」
『それなんだよねー私もそっちに逃げたいなぁ』
「来たら蹴り潰すぞ」

 通話を切った男はその場から離れ、雑踏に紛れた。歩き進んでいると歓声が聞こえた。視線をそちらに送ると祝福されている若い二人が嬉しそうに笑っていた――どうやら結婚式があったらしい。
 その場を通りすぎたリヴァイの脳裏にふと結婚式にお馴染みのフレーズが浮かんだ。
 ――死が二人を別つまで。
 いいや、とリヴァイは思う。死は二人を別たない。だって、自分は彼を連れて行く。
 誰にも認識されないくらいの微かな笑みを浮かべて、リヴァイは若者の元へと足を進めた。





《完》



2019.6.6up


 書き上げるのに二年以上もかかった作品。書いてるうちに何か前にも似たような話書いてるよなぁとか、いつもパターン一緒だよなとか、そもそもこの話は面白いのだろうかとか色々考えてしまい、スランプになり文が全く書けなくなりました……。しかし、勿体ない根性が染みついていまして、書き始めたものをボツにするの勿体なくなり、何とか書き上げることが出来ました、はい。
 作品のタイトルですが、今は「別つ」よりも「分かつ」の方が主流かもしれません。が、結城が読んだことのある作品は皆「別つ」だったため、こちらを採用しました。単純にサイトのレイアウト的にタイトルの文字数減らしたかったというのもありますが(笑)。
 作品に出てくる法律関係はネットでざっくりと調べたんですが、専門外なので上手く説明出来てない感が……(汗)。話のメインではないので、細かいところはスルーして頂けると有り難いです。
 話のコンセプトというか、書きたかったのは常に瞳孔開いてそうな暗殺者兵長だったのですが、何か違った方向へいったような気がしてなりません……。まあ、思ってたのと違う方へ行くのはよくあることなんですが(爆)。



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