盟約



 ずんずんと憤りに身を任せたまま、エレンは滞在していたホテルを後にした。追いかけてくるな、と言っておいたからきっと男は後を追ってこないだろう。この辺りの治安は良いと聞いているし、エレンは何度か生まれ変わったおかげもあり、いくつかの言語を日常会話に支障がないくらいには操れるため、一人で出歩いていても問題はないはずだ――それに、その気になれば男は自分を容易く探し出せる。そんなことは判っていて、それでも出てきてしまったのは男とあのままずっと顔を合わせるのが癪だったからだ。
 苛立ちを隠せぬまま、だが、僅かに残った冷静さが人通りのある場所を選び、ふと見つけた設置されたベンチにエレンは腰を下ろした。無言のまま溜息を吐いて、視線を落とすと、視界に左手の薬指が入った。刻まれた男の名はまだ視認出来る――それがことの発端でもあり、エレンはまた深く息を吐いた。


 男の手によって一族に引き入れられ、吸血鬼となったエレンではあるが、名の刻印が身体に溶け込んで視認出来なくなるまでは完全体ではないのだそうだ。吸血鬼と人間というものはそもそも根本からして違うのだから、それを急激に変えては身体がもたない。なので、吸血鬼には徐々に変化していくというのだ。
 そして、その変化にかかる日数は人によって異なるという。一族にした吸血鬼の力やそのものの資質――色々な要因で変化するので、リヴァイにもエレンの変化の終了がいつになるかは判らないらしい。何しろ、吸血鬼自体の数が少ないし、一族は正体がばれぬように各地を転々としているから、吸血鬼同士が会うことが滅多にない。更に二次吸血鬼は真正よりも数が少ないから、リヴァイも会ったことが殆どないという。
 一族で情報の共有はしているが、二次吸血鬼の変化の詳細は個人で違うとしか言えない。二次吸血鬼に会って詳しい経緯を訊くのが一番だろうが、その居所は判らない。そのうえ、個人差があるのならそのものの経験が当てはまるとは限らないという、どうにもならない状態だった。
 エレンは別にそれを気にしてはいなかった。男と共に生きるための覚悟はついていたし、どんな状態になろうが我慢出来る、と。
 しかし、拍子抜けする程、エレンの身体に変化はなかった。普通に生活して、食事して、寝て起きる――今までと何も変わらないので、本当にこの身体が変化しているのか不思議に思う程だった。勿論、薬指に刻まれた男の名を疑うことはなかったが。
 ――が、唐突にそれは訪れた。不意に眩暈を感じたエレンがソファーに横になったとき、リヴァイが身体の状態を確認して燃料切れだと告げたのだ。

「燃料切れ?」
「ああ、まだごく軽いものだがな。エレン、俺達は食事をしなければ活動出来ない」
「メシなら食ってるぞ」
「そうじゃない、俺達の食事は人の生命エネルギーだ。人のエネルギーを喰らわなければ、やがては動けなくなるぞ」

 その言葉に吸血鬼となった自分は今までとは違って、人の生命エネルギーを『喰らって』生きていかなければならないのだ、ということを再認識した。そのことを忘れていた訳ではないが、余りにも人であった頃と生活が変わらないので、こんなに急にその場面が訪れるとは思わなかった。

「人から生命力をもらうのってどうやるんだ? あんたは上手く調整出来てるみたいだけど」

 リヴァイは思わず見事と称賛してしまう程の腕前で人の生命エネルギーを喰らう。いや、『喰らう』より『盗む』といった方が相応しいかもしれない。

「基本的には対象者に触れて自分へと移動させる。心臓に近い方が抜きやすいが、慣れれば指先で身体の一部を掠めるだけで抜けるようになる。力の強いものなら直接触れなくても、自分の気を広げて接触したものから吸い取ったりも出来る。やり方は吸血鬼それぞれだが、性行為をしているときに相手を喰うのが一番力になるという話だ」

 そう説明してから、男は取りあえず、俺で練習してみるか、とエレンに提案した。

「え? 吸血鬼同士でエネルギーって吸えんの?」
「一応はな。誰もやろうとしねぇが」

 何故だと少年が問えば、男は凄まじく不味いらしい、と答えた。本来、吸血鬼の『食事』は余り味を感じないらしい。それなのに、味覚があるのは人に紛れるための能力なのだろうと解釈されている。『食事』は味より質なのだそうだ――生命力にあふれた人間はたまにいてそれは『極上』と呼ばれている。ちなみに人間だった頃のエレンは『極上』だったらしい。
 そんな吸血鬼の食事は何故か同族を『喰った』ときのみ味覚が激しく不味いと反応するのだ。

「俺は同族を喰ったことはねぇが、とにかく不味すぎて二度と喰おうとは思わないらしい。おそらくは同族同士の共食いを避けるためにそうなっているんじゃないかと言われている」
「え? じゃあ、今からそのクソ不味い食事をしなきゃいけねぇのか?」
「イヤ、一族に引き入れた吸血鬼とその相手との受け渡しなら問題ないらしい。やったことはねぇから伝聞だが――とにかく一度やってみろ」

 確かに試してみなければ判らないし、エレンもいきなり人から生命エネルギーを奪うのは怖い。力の制御も何もやったことがないのだから、加減が判らずに吸い取りすぎて殺してしまう可能性もある。
 エレンはリヴァイに促されるまま、リヴァイの心臓辺りに手を置いた。

「どうだ? エネルギーが流れているのが判るか?」

 言われてみるとそんな気がしなくもない。頷いたエレンにリヴァイは念じてみろ、と告げた。

「自分の身体に引き込むようにイメージしろ。流れを感じて引っ張れ」

 その通りにエレンはやってみようとしたのだが――何も起こらなかった。

「…………」
「…………」
「……取りあえず、もう一回やってみろ」
「……判った」

 だが――何度やってもエレンは『喰う』ことが出来なかったのだ。


「まあ、出来ないものは仕方がねぇ。訓練して出来るようにするしかない」

 その通りなので、頷くしかエレンには出来ない。食事が上手く出来なければ吸血鬼として生きられないのだから。

「当面は俺がお前に『食事』を提供する」
「え? でも、今は眩暈も治まってるし、出来るようになるまでは大丈夫なんじゃ……」
「今は治まっているが、そのうちに倒れるぞ。急に倒れて通報でもされたら面倒なことになる」

 リヴァイの言うことはもっともなのでこれまた頷くしかない。しばらくはリヴァイから生命エネルギーを受け取り、練習して人に害のない量を覚え、複数の人間から少しずつ摂取する術を身に付けなければ。
 そんなことを考えていたエレンはリヴァイがエレンの手を取って移動し、何故かベッドの上に押し倒されるまでなすがままになっていた。ぐるりと回った視界に疑問符がようやっと飛ぶ。

「えーと、何してんだ?」
「お前に『食事』をさせると言っただろう」
「それは聞いたから判ってる。何でベッドでこの体勢なんだよ」
「そんなの、やるからに決まっているだろう?」

 ソファーか、風呂の方が良かったか?と男に問われ、エレンはぽかんとしてしまった。

「しょ、食事するって言わなかったか?」
「ああ、言った。生命エネルギーを吸い取るには性行為はなくてもいいが――与えるなら、相手に体液を注ぎ込む、つまり、やらなきゃいけねぇんだよ」

 ちょっと待て、聞いてねぇよそんなの、とは言わせてもらえず、エレンはあっという間に衣服を剥がされ、男に組み敷かれたのだった。


「ん……っ、も、もういいから……っ」

 自分の下半身からぐちゅぐちゅといういやらしい水音が聞こえる。これは食事だ――食事のはずなのに、身体中を舐め回され、赤く尖るまで胸の突起を吸われて指先でこね回された。今はその指先はエレンの体内に何本も侵入して、バラバラに動かされている。男の赤い舌がエレン自身をつつーっとなぞる。舌先から流れ落ちる唾液の刺激だけで射精してしまいそうだ。――もう、舌で、指で愛撫されて、エレンの腹の上は自らの出したもので汚れていたけれど。

「凄いな、潤滑液を使ってないのに、もうこんなにぐちゃぐちゃだ。指にもこんなに食いついてきて……そんなに欲しいのか?」

 エレンの身体をこんな風に変えたのはこの男だ。何度も貫かれて、体液を注ぎ込まれて、ただの排泄器官でしかなかったそこは、今はまるで男を呑み込むための性器のようになってしまった。後ろを犯される快感を覚え込まされ、後ろだけで達することが出来るようになった身体は、男にそこをいじられると欲しいと言わんばかりに勝手に中が蠢く。もっといじって、気持ちの良い場所を擦って、熱い男の肉棒で奥を突いて欲しいという欲望に取りつかれそうになる。

「も、いいから、早く入れろよ……っ」

 快感に喘ぎながら、エレンが涙目で睨むと、男は笑った。

「――では、ご期待に応えて」

 エレンの片足を持ち、高く抱えながら、男は自身を勢いよくエレンの中に打ち込んだ。途端、エレンは身体をのけ反らせ、腹の上にまたびゅくびゅくと白い液を零した。

「入れただけでイッたのか? 可愛いな、エレン。だが、まだこれからだぞ?」

 リヴァイを受け入れたそこは入れられたのが嬉しいとばかりに吸い付いてくる。ただ入れているだけでも気持ちがいいが、だが、それだけではイケるはずもない。押し込まれた男の肉棒が引き抜かれてはまた押し込まれる。腰を小刻みに揺らし、緩急をつけて固くて熱いものが出入りしていく。エレンの体内にある震えがくるほど気持ちのいい場所を容赦なく突いてくるのも男は忘れない。同時にいったばかりの自身も擦られて強すぎる刺激にエレンは悲鳴を上げた。

「あ、やだっ、触るな……っ、まだ……っ」

 射精したばかりの身体はびくびくと痙攣していて、男の動きについていけない。なのに、新しい快感を与えられて、それを拾おうと後ろは男を締め付け搾り取るように蠢き、萎える暇も与えられないくらいに前をいじられる。間断なく与えられる気持ちよさに焼き切れそうな頭をエレンはいやいやするように振った――その仕種が稚い子供のように愛らしくて男を煽ることも知らずに。

「ほら、エレン、出すぞ」

 パンパンと腰を打ち付けていた男の自身が膨張してエレンの中に熱いものが叩きつけられる。それと同時に何かがエレンの中に流れ込んでくるのを感じた。これが男の言っていた生命エネルギーだと理解するより早くエレンは叫んでいた。

「やぁあああああああああああ――っ!」

 それは、今までのとは比にならないくらいの快楽だった。まるで、身体中の細胞一つ一つまで男に犯されているような――性感帯を剥きだしにされてそれを総て嬲られたような感覚。脳神経が全部焼き切れてしまったように何も思考が出来ない。ただただ痺れるような快楽だけが身体を支配している。
 ひっ、ひっ、とエレンは喉をひくつかせ、うつろな瞳から意識せずに涙を零した。びくびくと痙攣する身体を投げ出すその様子を見て、男は可愛いな、と呟く。

「凄いな、エレン。カライキだけではなく、潮吹きまで覚えたのか。そんなに気持ちが良かったか」

 そう言って、男はエレンの腹に飛び散った液体を指で広げるようにして身体を愛撫する。快感にまだ支配された身体がそれに反応して、エレンが逃げを打つが、男はそれを許さず、涙と涎でぐちゃぐちゃになった顔を掴んで貪るような口付けを与えた。
 歯列をなぞり、口蓋を舐め、舌を絡め取られて深く合わせられる。とりわけ口付けに弱い少年はすぐさま快感に絡めとられて抵抗が出来なくなる。気持ちいいというだけの思考に支配されそうになったとき、エレンの耳にそれは届いた。

「まだ、いっぱいにはなってないな。もう一回入れるぞ」

 その言葉に僅かに戻った思考が身体を動かそうとする。あれは嫌だ。あれはおかしくなる。あんな総てを塗り替えられてしまうような、焼き尽くされるような強い快楽は知らない。普通に身体を繋げるなら構わない――だが、あれは、あんなのをされたらどうにかなってしまう。
 動かない身体を何とか動かして、逃げようとするエレンを男は後ろから押さえつけた。

「嫌だ……っ! リヴァイ、あれはやだ……っ」
「あれは『食事』だ、エレン。しなければ困るのはお前だ」

 そう告げて、男はエレンのうなじを舐め上げ、かぷり、と甘噛みした。まるで、獰猛な雄が交尾の際に相手を押さえつけるように、けれどどこまでも優しく愛撫するように。

「やだ……あれ、おかしくなる……やだ……ぁ!」

 まるで、子供みたいに泣きじゃくるエレンの耳を舐め上げて、男は優しく、それでもきっぱりと告げた。

「大丈夫、ただ気持ちが良くなるだけだ。――さあ、『食事』だ、エレン」

 ――そうして、男は再びエレンを貫いた。


 まるで、蓑虫のようだな、と男は思った。あれから『食事』を与え、意識を飛ばしたエレンを綺麗に洗ってやり服も着替えさせた――までは良かったのだが、少年は意識を取り戻すと、ベッドから掛け布団を引き剥がし、それにくるまってソファーの上でまるまっている。ベッドではなくソファーなのは、先程のことを思い出すからだろうとリヴァイは推察した。

「どうしてそんなに恥ずかしいんだ? 気持ち良かったのは事実だろう」

 吸血鬼というのは性行為に対する羞恥心というものは薄い――というより、ほぼないと言っていいと思われる。性技に長けていて、相手を虜にしてしまう程の能力を持っているし、要求は躊躇わずに口にする。相性の合う合わないはあるだろうが、行為自体を楽しむことが出来る種族だ。
 リヴァイは元々、その方面に対しての興味は薄かった。どんなものなのか体験してみようと身体を繋げたことはあったが、夢中にはなれなかった。だが、エレンと出逢ってからは別だ。エレンとの行為はぞくぞくする程の快楽をリヴァイにもたらしたし、エレン以外と寝る気はないし、自分以外がエレンを抱くのは許さない。
 気持ちが入った性行為はこんなにも快楽をもたらすものだとリヴァイはもう知っている。それを隠す気はないし、エレンがどうしてこんなににも恥じ入るのかリヴァイには理解出来ない。抱く側と抱かれる側の違いがあるとしても――吸血鬼は快楽を表すことに躊躇いがないからだ。

「あんなによがって、潮まで吹いて、最後はおねだりして、俺の上に乗って自分で腰振って――」

 そこまで言いかけたところで、リヴァイの顔面にクッションが投げつけられた。

「あんたはどうしてそうデリカシーがないんだ! もうちょっと、考えて言えよ! バカ!」

 真っ赤な顔でエレンはソファーから立ち上がると、財布と上着を引っ掴んでドアまで向かった。

「エレン、どこに行くんだ」
「一人になりたいんだよ! 絶対に追っかけてくんなよ!」

 そう叫ぶように言い捨てて、エレンはホテルを後にした。


(判っちゃいるんだよ! 悪気が全然ないってことは!)

 おそらくは吸血鬼というものは性に奔放な一族というか、快楽を得るのに羞恥心を感じない一族なのだろう。例え、リヴァイとエレンの立場が逆だったとしても――そんな想像がエレンには出来ないが――男は羞恥など感じないに違いない。
 それに、今回のことは『食事』の出来ないエレンが発端だ。喰えなければいずれは倒れるのだから、リヴァイに補給してもらうことは決定している。

(……ってことは、あれをまたやるってことだよな)

 ううーっとエレンはベンチの上で唸った。別にエレンもリヴァイと身体を繋げるのが嫌だという訳ではない――ただ、気持ちよすぎるから困るのだ。頭が真っ白になる程の快楽は羞恥と戸惑いをエレンにもたらした。

(普通にするならまだしも――あんなに頭がぶっ飛びそうなやつは困る)

 そんなことを考えていたとき――不意にエレンは気付いた。自分の近くに『何か』がいる。

(何だ、これ……この感じ、初めて感じる。この気配は『同族』か?)

 エレンはリヴァイ以外の吸血鬼に会ったことがない。そもそも吸血鬼の数が少ない上に長く同じ場所に留まっていないのが原因だが、リヴァイの方もエレンを同族に会わせようとは考えていなかったように見えた。それはまだエレンが『人間』だったからだろうと思う。リヴァイによって一族に引き入れられた今なら、他の一族と対面しても問題ないかもしれない――だが、こんなところで出逢うとは思ってもみなかった。

(というか、これは本当に同族なのか? 人とは違う気配なのは間違いねぇと思うんだけど……)

 向こうがこちらに気付いているのかどうかも判らない。そもそも接触していいものなのか――リヴァイからは聞いていない。だが、湧き上がる好奇心を抑えきれず、エレンはその気配の元へ向かうことにした。



 辿り着いたのは人気のない路地裏だった。おそらく、この辺りは治安が良くない区域だろう。今までいた自分の国とは違って海外では銃器の入手が容易い――ので、こういった界隈に足を踏み入れるのは良くないと頭では判っていた。今の自分なら銃で撃たれても死なないだろう。だが、そうなれば騒ぎになるだろうし、何よりそれを知った男がどんな報復措置を取るのか想像するのが怖い。なるべく怪我はしないように心がけよう、とエレンは気配がする方へと近付いた。

「二重取引って、欲をかきすぎだと思うわ」

 凛とした声が辺りに響いた。見ると、一人の女性を囲むように数人の男が立っている。
 女性は二十代前半くらいだろうか、小柄で綺麗な金色の髪を束ね、ふわりとしたワンピースに身を包んだ可愛らしい女性だった。気配の元を辿ると、彼女から強く感じる。ということは彼女が同族なのだろうか。

「あんた、あちこちを転々としてるんだろう? それは依頼者から逃げるためじゃねぇのか? 知られたら困るだろう?」
「別に困らないわ。依頼してきたのが誰かは私には判ってる。居場所がばれても問題ないの。依頼はどうせ住んでる場所とどんな生活をしているか調査してくれ、だったんでしょ?」

 女性の言葉に相手は困惑しているようだ。この会話だけでは全容は判らないが、誰かが彼女の身辺調査を依頼して、受けたのはこの男達――で、逆に依頼者に内容を話さない代わりに女性に金品か何かを要求、女性がそれを撥ね付けた、という流れだろうか。

「全く、自分で探せるくせに人に依頼して――挙句、こんな三流じゃ目も当てられないわよ」

 はあ、と溜息を吐いた女性の発言にカッとした男の一人が殴りかかろうとしたとき、咄嗟にエレンは飛び出して蹴りを入れていた。

「え?」

 ぽかん、とした声がエレンの口から洩れた。いや、その声を上げたかったのは相手の方だろう、とエレンは思う。だが、思わずエレンは声を出さずにはいられなかったのだ。何故なら、蹴った相手は予想以上に派手に吹っ飛んでいったのだから。

(イヤ、オレ、そんなに強く……蹴ったけど! 蹴ったけど、あんなにポーンって飛ぶはずは……そもそもそんなに人間簡単に吹っ飛ばないし! オレ、そんな力な……)

 ない、と思いかけてエレンは思い当たった。自分はもう人間ではないのだ。まだ完全体ではないとはいえ、吸血鬼の一族の仲間入りを果たしたのだから、今のような力を出せても不思議ではない。

(え? じゃあ、これからオレって食事だけではなく、他の力の制御の練習もしないといけないってことなのか? でも、今まで何か壊したことなかったし……攻撃しようと思うと予想外の力が出るとかそんな感じなのか?)

 エレンが盛大に混乱していると、男の一人がその隙をついて攻撃しようとしてきた――が、その前に女性が早く動いた。男達の間をするりと駆け抜けたようにしか見えなかったが、何かがなされたのは判った。時間としては瞬きするくらいしかかからなかっただろう――気が付けば、男達は全員地に伏していた。生きているのは感じられたが、全員意識はないようだった。

「この区域は治安が余り良くないの。早く移動しましょう」

 そう言って、女性は呆気に取られているエレンの手を引いた。

「え? ええ? えーと、これ、どういった状況なんだ?」
「詳しいことはここから離れたら説明するわ。私も初めて会ったから色々あなたに訊きたいの」

 そう言って彼女はエレンの薬指に視線を走らせた。

「私の名前はヒストリア。あなたと同じ二次吸血鬼よ」



 ヒストリアと名乗った女性に連れてこられたのは彼女が住んでいるアパートだった。エレンは大丈夫ですか、と二重の意味で訊ねた。一つは見知らぬ男性である自分を家に入れていいのか、ということと、もう一つはあの男達は彼女の居場所を知っているようだったのにここに戻って来ていいのか、という意味で。彼女はエレンに敬語は要らないわ、と言ってから笑った。

「多分、今の時点なら私の方があなたより強い。それと、彼らは三日は目覚めないし、一週間は動けないと思う。だから、それまでにここを出れば問題ないわ。いつもなら知られても問題ないんだけど、今回は依頼した興信所が三流だったみたいね。興信所に浮気の証拠を掴む依頼や婚前の相手の身辺調査なんかを頼むと、依頼者に報告する前に対象者に接触して口止め料をを交渉してくるところがあるのよ。彼等はどうも逆恨みしそうなタイプに見えたから面倒になる前に出るわ」

 そう言って、彼女はエレンに紅茶を入れたカップを差し出した。それを受け取りながら、エレンはどうにもよく事情が判らないな、と思う。

「調査を依頼したのが誰か判ってるって言ってたけど、誰なんだ? 追われてるのか?」
「追われてる訳じゃない。――調査を依頼したのはユミル。自分で探せるくせに人に調査させて場所だけ把握してそれでおしまいにしてる。彼女の考えが私には判らない。追う気はないけど、様子は把握していたいってどういう心理なのかしらね」
「ユミルって?」
「私を一族にした吸血鬼よ」

 彼女の答えにエレンはぽかんとしてしまう。益々話が判らない。一族に引き入れたというのならそれは互いに相当の想いがあったはずだ。なのに、どうして一緒に行動していないのだろうか。自分を一族にした男は自分と出逢う前は一人で行動していたようだから、一人で生きる吸血鬼も別に珍しくないのかもしれない。だが、男は自分を一族にしてから――いや、契約を交わしたあのときからずっと傍にいる。生まれ変わるまでの間のタイムラグはあるが、男は必ず見つけ出して迎えに来た。吸血鬼と二次吸血鬼とは共にいるものではないのだろうか。
 疑問が顔に出ていたのか、彼女は色々あるのよ、と苦笑いを浮かべた。

「それより、エレンはどうしてここに? まだ完全体じゃない吸血鬼を一人にするとは思えない」

 そう言って、彼女はエレンの左手の薬指を示した。

「凄いね、その刻印。見ただけでエレンを一族にしたのが凄く強い吸血鬼だって判るよ。でも、それ、隠した方がいいと思う。手袋か幅の広い指輪を使えば隠せると思うから。見える人間はごく稀にしかいないけど、見つかったら危ないよ」
「危ないって……襲われるってことか?」

 ヒストリアは頷いてみせた。

「見える人間は何らかの組織に所属していることが多いと思う。色々なタイプの組織があるから全部が危険じゃないけど、見つからないならそれにこしたことはないと思う」

 エレンは左手の薬指を眺めた――男の名前が刻まれたそれ。

「……隠したく、ないな」

 男が自分を愛した証、自分が男を愛した証。やがて見えなくなってしまうのならそれまでは見ていたいという気持ちが強い。
 それを聞いてヒストリアは目を丸くした後、そう、と笑った。

「まあ、気付く人はごく稀だと思うし、あなたの相手が隠させてないなら守る自信があるんだと思う。見えなくなるまでの間だけだしね。エレンは一族になってどれくらい?」
「えーと、まだ三ヶ月は経ってないかな?」

 生まれた国に男が迎えに来て一族になり、それから後片付けや何やらを大急ぎで一ヶ月で済ませ、海外に旅立った。それから、リヴァイの希望で大学を見に行ったりして、ホテルを転々と移動している。気に入った場所が見つかったら長期滞在も考えているがまだ何も決まっていない現状だ。どうやら財力とコネは腐る程あるらしいので、生活の心配は要らないと言われている。
 それを聞いてヒストリアは驚いた顔をした。

「三ヶ月なの?」
「そうだけど……何かまずいのか?」

 その言葉に彼女はそうじゃないけど、なら、しばらく時間がかかるかもしれない、と少年に伝えた。

「私は吸血鬼になって三年以上経つんだけど、刻印は半年で見えなくなったの。三ヶ月でその濃さだと、完全体になるのはもしかして一年以上はかかるかもしれない。吸血鬼化には個人差があって、一ヶ月でなった人もいれば二年くらいかかった人もいるみたい。数が少ないから統計は取れないけど、半年が大体の目安みたいよ。多分、エレンの相手は相当強いからその影響でゆっくりと変化していってるんだと思う。急激な変化は負担がかかるから」

 その言葉を聞いてエレンの顔色が悪くなる。ということは、力の制御には時間がかかるかもしれない。となればつまり、リヴァイからの補給期間も長くなる訳で。

「……ヒストリアは、自分で『食事』出来るようになるまでどれくらいかかった?」
「私? 一ヶ月くらいだと思う。初回は取りすぎちゃったけど、二回目からは上手くいったよ?」
「…………」

 彼女の言葉にエレンは頭を抱えた。余りにも差がありすぎて参考にならない。二次吸血鬼には個人差があると聞いたが、おそらくは力の制御やその能力にも個人差があるのだろう。

「そもそも、『食事』は頻繁に必要じゃないから、ゆっくりでいいと思うよ」

 彼女が言うには要するに『食事』というのはバッテリーに充電するようなものだという。人の身体から電気を抜いてバッテリーに充電する。吸血鬼の体内のバッテリーは劣化しない優れもので、生活していくと少しずつ減っていくが、毎日充電しなくても急に減るということはない。大きな力を使えば消費は激しくなるが、力の強いものは燃費もいいのですぐどうにかなることはないらしい。

「ものすごーく充電がもつ携帯電話っていうと判りやすいかな? 一週間以上全く充電しなくても平気、通話とかで使用すればその分は減る、充電が足りなくなって電源が落ちても充電すればまた復活する、みたいな。エレンの今の状態は多分満タンだから、かなりの間はもつと思うけど」
「……でも、それまでに覚えねぇとまたあれされるんだよな……」
「? あれって?」
「…………」

 真っ赤になってエレンが俯いたので、ヒストリアもエレンの言うあれが何を示すのか判ったらしい。

「えーと、あの、エレンの言うあれがそういう行為なら、必ずしもしなくても大丈夫だよ?」
「え?」
「確かに一番効率がいいの。吸血鬼の体液と一緒に注ぎ込むのが一番吸収率がいいし、一般的。でも、嫌なら唾液とか涙とかでも代用できるし、吸収率が悪くて殆どやらないけど、吸い取るのと同じ方法でも多少は相手に移せるよ」
「…………」

 だって、考えてみてよ、とヒストリアは続けた。

「吸血鬼は確かに不死身だけど、無力化することは出来るの。生命エネルギーが切れると活動を止めて仮死状態に陥るから。どうにかして吸血鬼を拘束してエネルギー切れを待てば仮死状態になる……まあ、まず拘束するのが人間には無理なんだけどね。後、仮死状態にはもう一つあって、こっちは仮死と言うよりも休眠っていうのが相応しいかな。意識的に消費を抑えて眠る状態で、寝る前に満タンにしておけば数十年寝て起きてもすぐに活動出来る。でも、エネルギーが切れてる場合はそれを与えないと動けない。発見して近付いたのが人間なら枯らすまで吸い取られて終わり、吸血鬼なら仲間を助けようとする――でも、その場でいきなりそんなこと出来ないでしょ? だから、効率悪くても吸い取るのと同じようにして移す訳」

 まあ、同じ吸血鬼同士のエネルギー移行は物凄く不味い味がするみたいだから、不味さで跳び起きさせるのも手かもしれないね、とヒストリアは続けた。

「………つまり、あれだ、別にそういうのしなくても『食事』は出来るんだな?」
「うん、まぁ。でも、効率は悪いよ?」
「でも、出来るんだな?」
「出来るか出来ないかで言ったら出来るよ」
「…………」

 このこみ上げる憤りをどうしたらいいのだろう。確かに『食事』が出来ない自分に責任があるのだし、男は一番効率的で確実な方法を取っただけだろう。相手はしなくてもいい補給をしてくれる側で、自分は与えられる側だ。だが。

(オレ、嫌だって言ったよな。あんだけ、嫌だって言ったよな?)

 他に方法があるなら――例え効率が悪いとはいえ――そちらにしてくれても良かったのではないだろうか。
 エレンはううーっと唸り声を上げ、テーブルの上に突っ伏した。ヒストリアはその様子に驚いたのか、瞳を瞬かせた。

「よし、決めた!」
「何を?」

 ガバッと身体を起こしたエレンにヒストリアが怪訝そうに訊ねると、少年はしばらく帰らない、と告げた。

「何か、今、色々ぐちゃぐちゃしてるから頭冷やす。その間に力の制御の練習する」
「そう、なら、私も付き合うよ」

 あっさりと言うヒストリアに今度はエレンが驚いた顔をした。

「折角、初めて会えた二次吸血鬼だし、もっと話を聞きたいの。それに私もここを出なきゃいけないし、エレンに手伝ってもらえれば助かる。その代わり、エレンのことも助ける」
「助け合いってことか? でも、何を……」
「まずはエレンの方だけど、エレン、気配を消すとか、目くらましかけるとか出来ないでしょ? 一人で考えたくてもすぐに見つかると思うよ」
「…………」
「まあ、一族にした吸血鬼相手なら本気になれば居場所はすぐに知られると思うけど、二、三日なら私の力でも誤魔化せると思う。一応、心配しないように伝言だけはしておいてね。エレンの相手は凄く強いみたいだから、私は瞬殺レベルだよ――まあ、死なないけど、一応痛覚はあるから痛いのは御免だし。後はエレンの力の制御の練習相手になってあげられるよ」
「…………」
「私の方は興信所に調べられてるのは判ってたから、ここから出る準備はしてたんだ。どうもいつもと違うみたいだったから――エレンの情報は入っていないはずだから、この街から出るときに一緒にいてくれれば判りにくくなると思うし、知り合いに会ったときに恋人が出来てそっちの家に住むことになったって言う理由が使えるし」

 エレンが年上なら二人で住むって出来たけど、どう見ても年下だから向こうの家族に気に入られてそっちに住む方が自然かな、とヒストリアは首を傾げた。

「……何か、オレだけ凄い得してるみたいだけど、いいのか?」
「あ、裏があるって思ってる?」

 エレンはそれに首を横に振った。

「それはないと思う。あんたは言ってないことはあるけど、嘘は言ってない感じがする」

 大きな金色の瞳で見つめられ、ヒストリアはああ、と頷いた。

「エレンの眼……ひょっとすると浄眼?」
「何だ? それ?」
「まやかしとか、嘘を見破る眼のこと。眼の力は他にも相手を魅了したり、遠くのものを見たりとか色々あるけど、エレンの眼は多分そういう力が多少あると思う。鍛えればもっと使えるようになるかも……」

 そう言えば、初めて男と逢ったときに眼の力で洞窟を見つけられたって言われたな、とエレンは思い出した。

「でも、多分、その力は凄く弱ぇと思うけど」
「うーん、私もはっきりとは言えないから。ただ、可能性は何でも知っておくのは大事だと思う」

 その言葉にエレンは頷いて、そう言えばまだ返事をしていないことに気付いた。

「取りあえず、あんたの話には乗るよ。オレもあんたに訊きたいことたくさんあるし」

 ――こうして、エレンはしばらくヒストリアと行動を共にすることになった。



「そう、力の流れを感じて、探ってみて? 判る?」
「――ああ、流れてんのは判る」

 ソファーの上に並んで座りながら、エレンはヒストリアの左手に自分の左手を重ねてエネルギーの流れを探ってみる。男には心臓の付近がいいと言われていたが、さすがに女性の胸を触ることは出来ず、左手にすることにした。男は心臓付近から始めて徐々に離れた場所にする気だったのだろうと思われるので、ここから始めるのは難易度が少し上がっているのかもしれない。
 だが、何回か繰り返すことで、生命エネルギーの流れは何となくから確実に判るようになってきた。

「そこから自分に引き寄せるイメージをしてみて。自分の中にあるエネルギーへ吸収するって描くの」

 ヒストリアに言われた通りにやってみようとするが――エレンには出来なかった。何度試みても同じで、エネルギーを引き出すことが出来ない。クソ不味いと言われた吸血鬼同士の食事が嫌だ、という訳ではなく、本気で引き出せないのだ。
 溜息を吐いて手を放したエレンに、ヒストリアは何かを考える素振りをした。

「ねぇ、エレン、あなたは吸血鬼の『食事』についてどう思ってる?」
「どうって……食事は食事としか。食事しなければ生きられないんだからするしかねぇだろ」
「じゃあ、人間の食事は? 人が豚や牛や鳥を食用として屠殺することをどう思う?」
「それは仕方ねぇとしか。嫌なら菜食主義者になれってことだろ」
「じゃあ、人のことを家畜だと思える?」

 思いも寄らないことを言われて、エレンは固まった。それが人と吸血鬼の違いだと思う、とヒストリアは続けた。

「家畜って言うのは言い過ぎかもしれないけど――真正の吸血鬼は人間と自分達は違う生き物だって最初から認識してる。引き入れた相手は特別だけど、人間は吸血鬼とは別の生き物。だから、躊躇いなく『喰える』の。だけど、二次吸血鬼は人間として産まれて吸血鬼に変化したから、人としての意識が残ってる。エレン、あなたはまだ自分が吸血鬼だっていう意識が薄いんだと思う。吸血鬼だって共食いは避けるんだから、人が人を喰えないのは当たり前だよ。人を食料だと思えとは言わないけど――その辺は割り切っていかないと『食事』は出来ない。最終的に飢餓状態に陥ったら正気を失くして人間を誰彼構わずに襲うかもしれない。それは嫌でしょ?」
「…………」

 そう言われても、エレンは困ってしまう。吸血鬼としての自覚が薄いというのは当たっていると思うが――自分は男と共に生きていく覚悟は出来ている。それでも『食事』が出来ないというのなら、それは無意識にやってしまっていることだ。無意識にやってしまっていることを変えるのは難しいだろう。

「……あんたはどうやって割り切ったんだ」
「私? 私は多分最初からだと思う」
「最初からって……あんたは二次吸血鬼なんだよな」

 ヒストリアは頷いて、少し外の空気を吸おうか、と外に出ることを促した。話したいことがあるのだと。
 ヒストリアの真意は掴めなかったが、エレンは頷いて二人で家の外に出ることにした。


 ヒストリアが連れてきたのは街が見下ろせる高台だった。丁度夕刻で、街が綺麗に茜色に染まって見える。下を見下ろせる広場のようなその場所には転落防止のためか煉瓦造りの塀が設置されており、ヒストリアはそれに凭れるようにして眼下を眺めていた。エレンも彼女にならって美しい街並みを眺める。

「綺麗でしょ、ここ。この街で一番のお気に入りの場所」

 しばしの間、街並みを眺めていたヒストリアがそう口を開いた。ここでなら素直に何でも話せる気がする、と。

「あのね、エレン、私がエレンを引き留めたのは、本当は私と立場が同じ二次吸血鬼に私の話を聞いて欲しかったからなの。でも、同じ吸血鬼でもエレンと私は立場が違い過ぎて意味がないかもって悩んでた」
「……話してすっきりするって言うならいくらでも聞くけど」

 ありがとう、とヒストリアは笑って私は廃棄物だったの、と何てことのないように言った。

「廃棄物?」
「そう。私は捨て子だったから」
「捨て子だからって廃棄物じゃねぇだろ」
「廃棄物だよ。だって、私はゴミ捨て場に捨てられてたんだから。ゴミ収集の人が気付かなかったら、そのまま回収されて廃棄物と一緒に処理されてたよ。私はゴミとして捨てられたの」

 捨てるなら捨てるで養護施設の前とかにしてくれれば良かったのに、ゴミ捨て場はないよね、とヒストリアは淡々と言った。

「それから施設に入れられて育ったの。自分で言うのもなんだけど、いい子だったと思う。いい子にしていたら里親が見つかって可愛がってもらえるって聞いたから。養女にしてもらえれば家族だって出来るかもしれない。そう期待してた。――けどね、私が引き取られた里親はお金が目当てだったの。里親には国が給付金を出してくれて、それ目当てで子供を数人引き取って育ててる……というより、放置してる酷い環境だった。育児放棄って訴えられるレベルだったよ。だから、そこを逃げ出してまた施設に入ったの。大人なんかもう信じるもんかって思ってたから、それからは里親や養子の話なんか全部蹴ったよ。一人で生きてやるって思ってたから」

 ヒストリアの境遇は自分の一番最初の人生によく似ていた――が、その気持ちは判る、とは言えないし、彼女もそういう言葉は望んでいないだろう。それに、孤児院にすら入れなかったエレンだが、男に拾ってもらって死ぬまでに過ごした人生は幸せだった。今生では親戚に命を狙われたりしたが、それまでは両親と仲良く暮らしていたし、幸せだったと思う。
 エレンの意見を聞きたい訳ではない――ただ、本当に彼女は自分の話を聞いてくれるものが欲しかっただけなのだろう。自分が吸血鬼になった経緯を、同じ吸血鬼に。
 幸にして頭の良かった彼女は努力して大学に入学し、アルバイトをしながら通っていたという。そして、そのアルバイト先で彼女を一族にした吸血鬼と出逢い、すぐに気の合った二人はルームシェアをして共同生活を始めた。何しろ、孤児の彼女にはお金がなかったからルームシェアの申し出が有り難かったのだと。

「ユミルと一緒にいるのは楽しかったよ。でも、私は彼女が吸血鬼だって知らなかった。それを知ったのは私が大学の卒業間際、就職先も決まっていて、やっと新しい人生が始められる、廃棄物の私だってちゃんと生きていけるんだって思った頃だった。――全部、幻に終わったけど」

 そう言ってからヒストリアは余命宣告を受けたことがある?とエレンに訊ねてきた。

「余命宣告って……」
「私はあるよ。体調が悪いなって思って、病院に念のために行ったら悪性の腫瘍がいっぱい出来ていて、もう手遅れだって言われた。長くて三ヶ月だって。手の施しようがないって。頭が真っ白になったよ。私、死ぬんだって。もうじき死ぬんだって。――怖くて気が狂いそうになったよ」
「――――」
「私はひとりだったから、ひとりで生きてきたから、相談出来る人がいなかった。捨て子だから親もいないし、友達だって心から信用してなかった。上辺だけを取り繕った優等生で――だから、話せるのはユミルだけだった。ユミルに言ったの。私、死にたくない、死ぬのは怖い、助けてって。勿論、ユミルが助けてくれるなんて思ってなかった。誰かに吐き出したかったの。でも、ユミルは助けてやるって言った」

 その方法が、吸血鬼の一族になるということだった。

「吸血鬼なんて話を信じた訳じゃなかった。私は何かに縋りたかっただけなの。死ぬのが怖かった、だから、ユミルの言う通りにした。――そうして、私は二次吸血鬼になった」

 そうして、吸血鬼になったことで病魔は取り除かれ、ヒストリアは死を免れる代わりに人からは化け物と呼ばれる存在になった。今までの境遇のせいか、死の宣告を受け吸血鬼になったという自覚が早かったせいか、人からエネルギーを奪うことには最初から抵抗はなかった。

「死にたくなかったの。いつ死ぬんだろう、このまま寝たら朝には目覚められないかもしれない。どこかに出かけてもそこで倒れてそのまま死ぬのかもしれない――そう考えて過ごすのって本当に怖いんだよ。ユミルには感謝してる。死にたくないって言う私を助けてくれて、その恐怖から解放してくれた。――でも、判らないの」
「……判らないって何が?」
「私は死にたくなかったから吸血鬼になった。ユミルが好きで共に生きたいから吸血鬼になった訳じゃない。ユミルだって私が好きで一緒にいたいから私を吸血鬼にした訳じゃない。死にたくないって泣く私を見捨てられなかったから吸血鬼にしてくれただけ。――それなのに、一緒にいる意味はあるの?」

 ヒストリアは俯き、エレンが羨ましいよ、と小さく呟いた。

「想って想われて吸血鬼になった――私達とは違う」
「それは違うと思うぜ」

 エレンの言葉に彼女は顔を上げた。

「だって、一緒に暮らしてたんだろ? よっぽど気が合わなきゃ何年も一緒に住めないと思うし、余命宣告受けた時もそのユミルにだけは泣きつけたんだろ? 本音吐けたのはそいつだけだったんだろ? それはあんたにとってそいつは『特別』だったってことだと思う。その、それに吸血鬼になるための儀式は、好きな相手じゃないと出来ないと思う」

 女性同士の場合の儀式がどうなのかエレンには判らないが、多分、男同士の手順と余り変わらないと思われる。なら、相手をそういう意味で好きか、そうでなくても余程大事な相手でなければ出来ないだろう。

「でも、ユミルは私が離れたいって言ったときも頷いただけだった。追いかけてもこなかった。その気になれば私を探せるくせにいつも人を使って調べさせるだけ……っ!」
「――それは怖いからじゃねぇのか?」
「……怖い?」
「あんたと直接会って、また拒絶されるのが怖かったから、会いにこられないんじゃねぇかとオレは思う」

 エレンの言葉にヒストリアは戸惑った顔をした。

「ユミルはいつだって自信たっぷりな感じで、怖がることなんて……」
「あるよ。誰にだって怖いもんの一つくらい。オレだって怖かった」

 ひとりになるのが怖かった。ふたりでいることの心地好さを知ってしまったから、またひとりに戻ることがとても怖かった。ひとりは寂しい。ひとりは哀しい。ひとりは怖い。ひとりは嫌だ。

 そうして、ああ、と思う。きっと男だって怖かったのだと。自分に一族になれ、と言ったとき、それを自分が断ったとき、彼はどんな想いだったのだろう。
 ぎゅうっと胸が締め付けられた気がして、エレンは胸を手で押さえた。その左手の薬指には男からの刻印がある。

「なぁ、ヒストリア、ひとりは寂しいよな。あんたなら判るだろ?」
「……そうね、ひとりは寂しいわ」
「ひとりは哀しい」
「うん」
「ひとりは怖い」
「うん」
「……ひとりになるのはもう嫌だ。あいつも、きっとあんたの吸血鬼もそう思ってるとオレは思う」
「…………」

 そう言って、息を吐いてからエレンは帰るよ、と呟くようにヒストリアに告げた。

「オレの居場所はあいつの隣だし……文句は直接相手に言わなきゃいけねぇし、ちゃんと言葉にしなきゃ伝わらねぇことはいっぱいあるだろうから。オレはさ、絶対に離れねぇってもう覚悟を決めたんだ。あんた達もちゃんと向き合う覚悟が必要だと思う。今度はあんたから会いに行って、自分の気持ちをいっぱい話せばいい」
「泣きついて助けてもらったくせに、勝手に逃げてきて――それでも話してくれると思う?」
「思う。でなきゃ、身辺調査なんかしないと思うし、あんたが心配なんだろ。心配で何かあったら助けたいからそんな依頼したんだ」
「……怒られるかしら?」
「仕方ねぇだろ。家族なんだから」

 家族という言葉にヒストリアは眼を見開いて、それから泣き笑いの表情を作った。

「そうだね、私達は家族だ」

 伴侶、パートナー、連れ合い、相棒――言葉は何でもいい。これから先ずっと共にあろうと思える大切な存在。
 頷いて、ひとまずはヒストリアの家に戻ろうとしたとき、バラバラとこちらに向かってくる足音が聞こえた。

「いたぞ! こいつらだ」

 殺気だった視線を向けてくる男達は全員で七人――いや、離れたところから視線を感じるので、それも含めると九人だろう。全員、手に物騒なものを構えている。

「三日は意識不明、一週間は動けないんじゃなかったのか?」
「その通りよ。あのときの男達はこの中にいないもの。……三流だと思ってたのに、ここまで人員が集められるとは思わなかったわ」
「別口の可能性は?」
「それも否定出来ない。私達の正体に気付いたものが捕らえようか殺そうとしている可能性もある」

 あのとき、ヒストリアが力を使って昏倒させたものが意識が戻ってことのあらましを話したのか、もしくはそのときのことを見ていたものが別にいたのか、はたまた、他にヒストリアを観察していたものがその正体に気付いたのか。ここに来て間もない自分から割れた線は低いように思えるが、行動を共にしている男から自分に辿り着いた線は否定出来ない。あれだけ長く生きている男を知るものがこの地にいないとは断定出来ないからだ。
 どれが正解にしろ、問題は目の前の男達が殺す気満々でこちらに銃を構えていることだ。
 辺りに人気はない。おそらくは離れた場所にいるのは見張りだろう。

「――エレンは逃げて」
「何言って……っ」
「あなたはまだ力の制御が出来ていない。銃弾を避けたり弾いたり出来る? 撃たれてもすぐに再生出来る? ――人を殺されるのを黙って見ていることが出来る?」

 最後の言葉にエレンはヒストリアを見た。

「この人数が相手だと、全員殺さずに昏倒させていたら、その間に撃たれる可能性が高い。私は死にかけから吸血鬼になったせいか、再生能力が弱いの。撃たれたら即回復はしない。その隙に捕まる可能性が高いわ。なら、最初から全員殺す気でいって、その中の死体を楯にして撃たれないようにして防ぐ。あなたを庇う余裕がない」

 小声で話す二人に、男達は最後の話し合いは終わったか、と声をかけてきた。

「あの、何で私達を? お金が欲しいなら出しますから、撃たないでください」

 震えながらそう言うヒストリアは女優賞を取れるだろう演技だ――おそらくは男達の隙を作ろうとしているのだろう。ふるふると震える彼女の姿はその容姿の可憐さもあって同情を誘う。

「オイ、本当にこいつか?」
「何言ってるんだ、化け物だって、見た奴がはっきり言ったんだから確かだ」
「まあ、撃ってみればいい。当たっても死ななかったら本当。死んだら間違いだったってことだ」

 間違いだったら金目の物全部剥いでいけばいい、とこともなげに男は言う。心底から腐った連中であるのは確かなようだ。おそらくは本当に自分達が化け物だと思っているのはほぼいないに違いない。だとしたら、上手くやれば隙を作って二人で逃げられるかも――。
 そんな考えをエレンが巡らせていたときだった。目の前の男の一人が吹っ飛んだのは。

「――何をしている」

 それはとても静かで、なのに底知れない怒りを感じさせる声だった。上質そうな衣服に身を包んだその声の主は屈強そうには見えない。だが、そのまき散らかされる尋常ではない殺気がその場にいた全員の足止めをしていた。気配も何も感じさせずに突如現れたその登場の仕方の異常さにも言及できない。

「俺のものに何をしている、と訊いている」

 再び問いながら、その男――リヴァイはすっと手を伸ばした。近くにいた男の喉元を掴み、嗤う。

「機能しない声帯なら要らないな?」

 声帯どころか、首ごと引き千切りそうな気配を纏った男に、エレンは咄嗟に駆け出していた。

「ダメだ! リヴァイ!」

 どうしてそんな行動が取れたのかエレンは後になっても判らなかったが、おそらくは本能がそうしろと囁いたのだと思う。ただ、男の行動を止めなければ――男を冷静に戻すためにはこの男達を戦闘不能にしなければならない。そんな短絡的な思考だったのだと思う。
 常人とは思えない速さで男達の中心に飛び込み、その場にかがんで両手を地面につく。放射状に敷き詰められた石畳はこんな場合でなければ美しいと感じるのだろうが、今はそれを観賞している暇はない。
 ――生命エネルギーを吸い取るやり方は吸血鬼それぞれ。一度もそれをしたことのないエレンがやるのは無謀だと思えたが、躊躇わずにエレンは一気に力を流した。普通の人間の眼に見えないのが惜しいほどそれは美しく流れて広がっていく。

「……チッ! このバカエレン!」

 そう言って掴んでいた男を放り投げるリヴァイと、バタバタと倒れていく男達が視界に入り、ああ、良かった――と思った瞬間、エレンの意識は途切れた。

「使い方も覚えてねぇくせに無茶なやり方しやがって……っ!」

 リヴァイがエレンを抱え上げその様子を確かめていると、ヒストリアが内心の恐怖を押し隠しながら駆け寄ってきた。ヒストリアはユミル以外の真正の吸血鬼には過去一人しか会っていないので、もっと強いものがいるかもしれないが、知るうちの中ではおそらくこの男が一番強い。思っていた以上にエレンの相手は強い吸血鬼のようだ。先程の殺気にはヒストリアも動けなかった。

「エレンは何をしたの? どうなってるの?」
「自分の気を地面に流して、触れた対象物を選んで生命エネルギーを吸い取った。全員、死なねぇように無意識に加減したんだろうが……『喰った』ことのない奴がいきなりそんな力の使い方したらオーバーヒート状態になるのは当たり前だろうが」

 答えてはもらえないかもと思っていたヒストリアは男があっさりと答えたことに驚く。意識のないエレンは浅く呼吸をしていて苦しそうに見えた。男は優しい手つきで汗で張り付いたエレンの前髪に触れた。
 戸惑ったようなヒストリアに、リヴァイはふうと溜息を吐いた。

「……別にお前をどうこうする気はねぇ。ただ、この後始末はつけろ。見張りの男共を始末したあいつと一緒にな」
「え?」
「お前の相手がそこに来ている」
「――――っ!?」

 驚きで眼を見開くヒストリアにリヴァイは不機嫌そうに告げた。

「お前のところにエレンがいるのはすぐに判った。連れ戻すのは簡単だったが、こいつの好きにさせた。――だが、妙な事態になってやがったんで、お前の相手を呼んだ」

 どうして、と唇が動いたのを見てリヴァイは不機嫌そうに眉を寄せた。

「単純に痴話喧嘩なら自分達で始末をつけろ、というだけの話だ。いつまでも不幸な自分に浸ってる暇があるなら、はっきりさせればいい」

 そう言い捨てて、男は少年を抱えて、その場から去った―――。



 柔らかい何かが口の中を優しく撫でていった。何かが吹き込まれて、何かが抜けていくような不思議な感覚。ただ、それはふわふわとしていてとても心地好かった。甘くて優しくて気持ちがいい。これは何だろう――とぼんやりと考えながら瞳を開けたエレンは至近距離にある男の顔をまだ夢見心地で眺めた。

「起きたか」

 優しく頭を撫ぜられる――その心地好さにまた瞼が落ちそうになるが、意識を失くす前に起きたことが脳裏をよぎって思わず身体を起こそうとした。途端、男に押し戻される。

「バカか。まだ寝てろ。一応、お前の中の気の流れを調整して戻したがまだ完全じゃない」

 どうやら、自分はベッドに寝かせられていて、男は自分に添い寝をしている状態らしい。

「どうして、あんな無茶な真似をした。全く力を使ったことがない奴がいきなり使えば倒れるのは当たり前だ」
「だって、そうしないと、リヴァイはあいつらを殺しただろ」

 あのときの男の殺気は尋常ではなかった。エレンが動かなければ全員殺していたに違いない。

「あんな奴らでもお前は庇うのか」
「そうじゃねぇよ」

 エレンは首を横に振った。

「オレは人を殺したことがねぇし、これからも出来るなら誰も殺したくはないとは思っている。でも、例えば何十人も殺した凶悪犯が目の前に現れて自分を殺そうとしてきたのに黙って殺されてやる程お人好しじゃない。抵抗するし、殺すことだってあるかもしれない」

 まあ、今は吸血鬼だから殺されることはねぇけど、とエレンは続けてリヴァイを真っ直ぐに見た。

「でも、それはオレがやらなきゃいけねぇことだ」

 リヴァイの方がエレンよりも強い。それは圧倒的な差で、エレンが戦うよりもリヴァイが戦った方が早いのは判っている。現に人間だった頃はリヴァイに助けられてきた。吸血鬼に変化した今でも助けられてばかりだけれど。

「リヴァイがオレを守るために誰かを殺したなら、それはオレが殺したのと同じことだ。リヴァイの手を使ってオレが殺したのと同義だ。だったら、自分でやる。自分の手だけ汚さずにいるのは嫌だ」

 エレンはふう、と溜息を吐いた。

「ヒストリアが指摘したことは正しい。オレは人を殺すことにも喰うことにも躊躇いが残ってたんだろう。腹は括ったけど、オレは人として生きてきた期間の方が長ぇから、完全には割り切れないと思う。――それでも、オレは一緒に生きていきたいから」

 取りあえずは『食事』の方は一回やって感覚を覚えたから、もう大丈夫だとエレンが言うと、男は不機嫌そうに眉を寄せた。

「……俺はお前が一生喰えないままでも良かった」
「は?」
「そうすれば、お前は俺から離れられない。生きるためには俺の傍にいるしかない。それに、お前の中に他人のものが入るのは癪だ」
「……バカだなぁ、リヴァイ」

 そんなこと考える必要はないのに。あのとき、契約したときから――いや、出逢ったときからもう自分はこの男のものだった。
 エレンはひとりが怖かった。でも、男だってきっと怖かったのだ。怖いもの同士が遠回りしてやっと共にいる道へ進んだのだから、言いたいことは言い合わなければならない。

「オレはリヴァイのものだよ」
「当然だ」

 エレンがそっと差し出した左手の薬指にリヴァイは口付けて、指先に舌を這わせた。一本、一本、丁寧に舐め上げて、官能を呼び覚ます。

「……んっ、オレのこと、愛してる?」
「愛している」
「……オレも、愛してる」

 人でなくなってもいい程に、永遠の孤独も二人で歩むなら構わないと想えるくらいに。
 男の唇が指先から唇へ降りてきて、口内へ侵入する。相変わらず男の口付けは気持ちよくて、それだけで少年は頭が痺れるような快楽を感じる。無意識に腰を相手に押し付けてしまい、男の口が笑むのが判った。

「相変わらず、これに弱いな、お前」
「んっ、リヴァイ……」
「判っている、エネルギーは流さない。だが、ちゃんと気持ちよくしてやる」

 再び口付けが落とされ、男の手が少年の下半身に伸びる。そのまま布越しに擦られてエレンは鼻にかかった甘い声を上げた。口付けで官能を呼び起こされたそこはもう十分に熱くなっており、指で刺激されて先走った液体が零れて下着が濡れていくのが判る。

「……ん、やだ……脱ぎた……」

 どうやら運ばれた後、パジャマに着替えさせられているようだが、この感触はシルクだ。着たまま出したら悲惨な状況になるのは判っている。そんな高級なものをダメにするのは――いや、高級じゃなくても着たままするのは遠慮したい。
 だが、男はあっさりとダメだと言い放ち、あいている方の手で布越しに少年の胸の突起を摘まんだ。直に触られるのとはまた違った刺激に甘い声が漏れる。

「下着がぐしょ濡れになるまで出させて、パジャマもダメにして、お漏らししたみたいだって言って、恥ずかしがって泣くお前の姿が見たいから脱がさない」
「………っ! へん、たい……っ」

 罵倒の言葉は再び塞がれた男の口内へと呑み込まれる。酸欠になるくらい貪られ、快感に何も考えられなくなる頃にリヴァイは唇を離した。絡み合っていた舌と舌につつーっと唾液の橋が出来る。

「俺から離れて勝手に危険な目に遭った挙句、ぶっ倒れて、心配をかけさせた――なら、お仕置きは必要だろう?」

 大丈夫、約束通りにエネルギーは流さねぇからと笑って男は自分が言ったことを実行すべく再び動き出した。



 ――後日、空港に二人の姿があった。ここからヒストリアとその相手が旅立つと聞いて見送りに来たのだ。

「わざわざありがとう。えーと、エレン、何かあったの?」

 ちらりと男と少年を交互に見ながらヒストリアが訊ねた。

「イヤ、人間の尊厳とか男の矜恃とか自尊心とかそういうのについて話し合っただけ。もうオレ、人間じゃねぇけど、譲れないものってあるよな」
「? うん?」

 よく判らないが、ヒストリアは頷いておいた。ヒストリアたちと別れた後、彼らの間でも何か一悶着あったのだろう。

「――一緒にいることにしたんだな」
「うん、そういうことになった。私達はエレン達みたいな関係じゃないけど、大切なのは同じだから。伴侶というよりは相棒――盟友って感じなのかな? 上手く説明出来ないけど、そういう関係の吸血鬼がいてもいいんじゃないかって思ったの」

 頷くエレンにあのひとにも礼を言っておいて、とヒストリアは微笑んだ。

「私は確かに不幸に浸ってた。可哀相な自分に酔ってたんだと思う。可哀相ねって同情されたくないくせに、そんなの大したことがないって言われたらそれはそれで嫌なのよ。不幸の基準なんてひとそれぞれなのにね。不幸を嘆くくらいなら幸せになる努力をすればいいって気付いた。だって、もうひとりじゃないんだから」

 本当にありがとう、ともう一度礼を言ってゲートの向こうに消えていく彼女達にエレンは手を振った。


「まだむくれてるのか?」
「……もう、絶対にしないって言ったからそれはいい」

 いいと思ってるとはとても見えない少年に男は笑う。

「そうだな、二度と出来ないなら記念に画像を撮っておけば良かったな」
「―――っ、あんたのその変態性についてはとことん話し合わなきゃダメだと思う!」

 真っ赤な顔で睨んでくる少年の手を取って、男はその薬指に口付けた。

「あんた、それ好きだな――って、もしかして」

 何かに気付いたように少年は自分の左手の薬指と男を交互に見た。

「これ、隠さずにいさせるのって、周りへの牽制なのか?」
「俺のものを俺のものだと主張することの何が悪い」

 あっさりと認めた男に少年はぽかんと口を開けた。

「俺のものに手を出すことは俺に喧嘩を売るということだ。俺を知る相手ならまずお前に手は出さない」

 これでも俺はかなり強い方だからな、と男は笑う。

「だって、これ、消えるんだろう?」
「見えなくはなるが、消えはしない。力を注げはうっすらとではあるが、また浮かび上がる。時間に制限はあるがな。ああ、今はまだ力は注いではいないぞ」

 度々落とされる口付け――それは愛情表現で、自分のものになったという喜びを表すもの。だが、それだけではなかったのだと、エレンは気付いた。

「あんた、実は消す気ねぇんだろ」
「そうだな」
「……独占欲の強さがドン引きレベルだぞ」
「皆、こんなものだろう」
「イヤ、それ絶対に違うと思う」

 ふう、と溜息を吐いて、エレンは男の左手を取った。そこには自分と違って何もないが、エレンはその薬指に口付けた。

「お返し」

 にっと笑って言うと、男が珍しく驚いた表情を隠さずにさらし、それから眼を細めて唇の端を上げた。
 その顔がとても幸せそうに見えたので、少年はならいいか、と同じように笑った。




《完》
2016.10.12up



 何故かまた思いついてしまった吸血鬼設定の二人のその後です。海外なので敬語って表現どうかと思ったのですが、その辺はスルーで。ちなみにエレンは五ヶ国語くらいは普通に話せます。リヴァイはいわずもがな。ユミルとヒストリアは恋愛というより親愛や友愛です。ユミルが一言もしゃべってないことに気付いた人はそこもスルーでお願いします。普段、エロを書かないので表現に悩みました…(汗)。



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