ビターショコラ



 エレンがアルバイト勤務しているカフェ・グリーンリーフは口コミにて隠れた名店として噂されている人気店だ。ケーキ販売がメインなので、イートインスペースにはそれ程多くの客は入れないが、テイクアウトの出来ないミルフィーユ食べたさに通う客も多い。人気のある定番商品は勿論のこと、季節ごとの限定商品や、新しいケーキ開発にも力を注いでいる。
 新商品として出されたメニューが人気があれば定番商品として置かれることもあるし、その季節にしか出さない限定商品には毎年必ず買うという固定客もいる。常に品質の向上と維持を心掛ける店主のハンネスは新作にも意欲的だ。ハンネスは従業員からも積極的に意見を聞くし、若手のパティシエの考案した新作を出すこともある。
 店に出す新作は必ず新作発表会と銘打って披露し、エレン達従業員に試食させてくれる。閉店後のことで、時間の都合がつくもののみの参加だが、エレンは特別な用事でもない限り必ずそれに参加していた。カフェ・グリーンリーフの新作をいち早く食べられるうえに、ハンネスや他のパティシエの話もじっくりと聞けるこの会を毎回エレンは楽しみにしていた。
 その新作発表会が行われると聞いて、エレンは勤務が終わった後も店に残ることにした。
 閉店後、並べられた新作ケーキを前にエレンはキラキラと顔を輝かせた。

「うわぁ、おいしそう。それに凄く綺麗ね。これ、紫陽花がモチーフかしら」

 クリスタが示した先には紫陽花の花を模した美しい色合いのケーキがあった。

「パッと見和菓子みたいだけど、中身も和風なのか?」
「それは食べてみたら――エレン? どうかした?」

 ユミルと会話をしていたクリスタが、そのケーキをただ見つめているエレンに気付き、そう声をかけた。

「イヤ――もうそんな季節なのかって思っただけだ」
「ああ、紫陽花か。今の季節だしな。見た目に華やかな方が売れるんじゃねぇか? 梅雨時はどうしても客足が遠のくし」
「そうね、雨の日はお客さん減るわよね」
「五月は子供の日や母の日があるからいいが、六月以降はこれといったイベントもないしな。秋までどう売り上げを維持するのかが問題だな」
「……梅雨時に一番気にしなきゃいけねぇのは売上じゃなくて、衛生管理だろ」

 ユミルの言葉にエレンが呆れたように息を吐くと、ユミルはお前、真面目だな、と言葉を返した。この季節、衛生管理を舐めると痛い目を――と、飲食業に関しては熱くなるエレンにクリスタは慌ててその場を執り成すように二人に声をかけた。

「今回はアニの考案した新作も採用されたのよ。どれかは聞いてないけど――そうよね?」

 クリスタがアニにそう訊ねると、彼女は頷いてみせた。

「アニのが? ああ、これだろ」

 並べられたケーキの中からエレンが迷いなく一つのケーキを指し示すと、アニは彼女にしては珍しく驚いたような表情を浮かべた。

「……何で、判った訳?」

 その質問はエレンの指摘が正しいことを示していて、横にいたクリスタ達も不思議そうにしている。

「イヤ、だって、アニのケーキって細部まで丁寧っていうか、繊細な飾りつけするだろ。味だけじゃなく、眼でも楽しめるようにこだわって作ってるのがよく判るっていうか」
「オイ、エレン、それは俺の方が大雑把だって言いてぇのか?」
「え? イヤ、そういう訳じゃねぇけど、飾り細工ならアニの方が綺麗――」
「言ってるじゃねぇか!」

 生意気な、とハンネスにこづかれてエレンは大人げないと唇を尖らせる。店の常連であったエレンを小さい頃から知っているハンネスが彼を可愛がっていることは知られているので、周りは微笑ましそうにその様子を眺めていた。

「……気に入ったんなら、今度、教えてもいいけど」

 ハンネスから解放されたエレンにアニがぼそっとした声で告げると、エレンは顔を輝かせた。

「頼む! ハンネスさんに今度厨房の隅でいいから貸してもらえるか訊いとくから!」

 嬉しそうに礼を言うエレンにアニはぶっきらぼうに別に練習になるからついでだし、と答え、それを聞いていたユミルとクリスタは顔を見合わせた。

「……ねぇ、あれ、エレン気付いてないんだよね?」
「気付いてないんだろ。まぁ、アニの方も自覚なさそうだけどな」
「前から思ってたけど、エレンって結構鈍いっていうか、天然なとこあるよね」
「ああいうの、天然人誑しっていうんだぜ。私はクリスタが誑されなければそれでいいけどな」

 ひそひそと小声で話し合う声は本人達には届いていない。エレンには全くその気がなさそうなのでまず進展はなさそうだと二人は思う。

「折角だから飲み物用意するよ。リクエストはあるかな?」

 そこへかけられた声にスタッフの何人かがそれぞれ飲みたいものを言う。頼まれた本人が頷いて準備しにいったので、エレンは声をかけた。

「ナナバさん、オレも手伝います」
「じゃあ、手伝ってもらおうかな。アイスカフェオレ頼める?」
「はい」

 エレンにそう言うと、相手は鮮やかな手つきで飲み物の準備を始める。エレンは真似できないな、と相手――ナナバを眺めた。
 ナナバはこの店のスタッフの中でも古株でカフェの飲料は総て担当している。勿論、他のものが淹れる場合もあるが、ナナバのものには敵わないとスタッフ全員が思っていることだ。

「うん、エレン、上手になったね。綺麗にグラデーションになってる」

 エレンはケーキ販売の方を担当しているのでカフェの方に回ることは殆どないが、カフェ担当がどうしても入れずに困っていたときに、ヘルプとして入ったことがある。そのときや、こうした新作発表会の際にナナバに淹れ方を伝授してもらった。
 濃い茶色から白へと綺麗なグラデーションを見せるアイスカフェオレは、飲む際には掻き混ぜられてしまうので無意味かもしれないが、眼を愉しませることも大事だと思うのでそういった手間をかけることにしている。

「コツ掴んだので、上手くいくようになりました。ナナバさんのようにラテアートとかは無理ですけど」

 カップの上で綺麗な絵を描くラテアートはナナバにしか出来ない。なので、店のメニューにはないが、たまにこういった場でナナバが披露してくれる。

「あれは女子受けするからね、練習してみたんだけど。私は基本紅茶党だから、自分用には淹れないよ」
「あ、教えてもらった紅茶の淹れ方好評でした。美味しいって」

 自分の淹れた紅茶を誉めてくれた恋人の顔を思い出して、エレンは表情を綻ばせた。恋人はコーヒーではなく紅茶の方を好むので、ナナバから教えてもらったことには感謝している。まあ、基本、恋人は自分の作ったものは何でも美味しいと言うのだが、紅茶の淹れ方に関しては自画自賛かもしれないが、教えてもらって上達したという自覚がある。

「役に立ったなら嬉しいけどね。誉めても何も出ないよ?」
「イヤ、本当に――」
「エレン、ナナバさん、運ぶの手伝いますね」

 そこに丁度飲み物を運びに別スタッフが現れたので、二人の会話はそこで中断され、新作ケーキの試食会に戻ることとなった。




「エレン、今帰り? 送っていこうか?」

 新作発表会も終わり、帰宅するために店の外へと歩み出たエレンはそう声をかけられ、相手の方へと顔を向けた。

「あの、それってオレの台詞だと思うんですけど、ナナバさん」

 エレンがそう返すと、声をかけてきた相手――ナナバはくすくすと笑った。

「私は大丈夫だよ。何たって、エレンに男だって思われてたくらいだからね」
「それは――その、すみませんでした」

 エレンはハンネスの店にアルバイトに入る前からスタッフとして働いているナナバを見て知っていたが、ずっと男性だと思っていたのだ。働くことになって紹介されたときも男性だと思っていたから、女性だと知ったときには思わず驚きの声を上げてしまった。

「ああ、気にしてないから謝らなくていいよ。私より、エレンの方が危ないって言いたかっただけだから。ストーカー男がまた現れないとは限らないしね」

 ナナバの言葉にエレンは固まった。以前、エレンは店にやって来た男にストーキングされたことがあったのだが、そのことは一切店の者には話していない。なのに、どうしてそれを知っているのだろうか。

「あの、ナナバさん、それは――」
「ああ、ごめん。ちょっと小耳に挟んだくらいで詳しいことは聞いてないし、エレンが話さないなら私も他に話すことはしないよ。ハンネスさんあたりが聞いたら激怒しそうだしねぇ。後、アニとか」

 エレン、愛されているからね、と言うナナバにエレンは乾いた笑みを浮かべた。確かにハンネスにバレたら何で黙っていたのかと物凄く怒られそうだとは思う。言わなかったのは怒られたくなかったからではなく、心配をかけたくなかったからだが。それと――。

「あの、出来ればハンネスさん含め、店のスタッフには言わないで頂けると……」
「うん、言わないけど――」

 ナナバは言いいかけて、ああ、そうか、と呟いた。

「エレンが気にしてるのはそっちか。知られたくないのはハンネスさんじゃなくて、クリスタなんだね」
「…………」

 エレンは困ったような顔をした。エレンをつけ回していたのは元々はクリスタのストーカーだったのだ。クリスタ目当てに通っていたのを話を聞いたエレンが応対して、そこから標的にされてしまったのである。その顛末を聞いたら彼女は自分のせいだと気にするかもしれない。

「でも、変態馬鹿男がどうなったのかちゃんと聞いた方が安心するかもしれないよ?」
「……それは、あるかもしれないですけど、本人ももう気にしてないみたいだし、蒸し返すのも……」
「何があってもユミルが何とかしそうだけどね。話す気がないなら言わないから安心していいよ。でも、次に何かあったときはちゃんと言うんだよ?」

 エレンに何かあったら血を見そうだからね、とナナバは冗談めかして笑った。

「イヤ、オレ、男ですし、そんなことはないと思います」
「……うん、無自覚って怖いね」

 そう言いながらふとあるものに気付いたナナバは、ぽんっとエレンの肩を叩いた。

「どうやらお迎えが来てるみたいだから、私はここで。またね、エレン」

 ひらひらと手を振って帰っていくナナバを見送りながら、何なんだろうと首を傾げたエレンは、視界に入ったもの――人影に気付いて慌ててそちらに駆け寄った。

「リヴァイさん!? どうしたんですか?」

 そこにはいるはずのない恋人の姿があった。リヴァイには今日はアルバイトが入っていて、帰りが遅くなるから会えないと予め連絡しておいたし、男も判ったと言っていたのに、何故、ここにいるのだろう。仕事の都合で立ち寄ったという感じではないし、明らかにエレンを待っていたように見える。

「帰りが遅くなると言っていたから、家まで送ろうと思って待っていた」
「イヤ、オレ、平気ですって言いましたよね?」
「言われたが、来ないとは言っていない」

 堂々と言い切られ、エレンは頭を押さえたくなった。どうも、この恋人は自分がストーカーに狙われてから過保護が加速している気がしている。以前から心配性で自分を甘やかす傾向にあったが、ここまでではなかったのだが。
 ともかく、ここまで迎えに来てくれた恋人と一緒に帰らない選択をする気はない。エレンがじゃあ、帰りましょうか、と促すと、男も頷いた。

「リヴァイさん、一つ確認しておきたいんですけど……」
「何だ?」
「オレの次のアルバイトの日にも迎えに来ようとか思ってませんよね?」
「…………」
「思ってませんよね?」
「…………」

 無言は肯定の意だと受け取ったエレンは深い息を吐いた。エレンとて恋人と一緒にいられる時間は多い方がいいし、次の勤務の日の帰り時間は今日のように遅くはならないから、その後一緒に過ごすことに問題はない。だが。

「オレが次に店に行く日、リヴァイさん、出張入ってますよね?」

 疑問形で話してはいるが、実は断定だ。エレンの言葉にリヴァイが一瞬、顔色を変えたのがその証拠でもある。

「イヤ、その日は――」
「ハンジさんから『リヴァイが出張行かないってごねて困ってるから、悪いけど説得して』って連絡がきましたけど?」

 エレンの言葉にリヴァイはあのクソメガネが、と小さく舌打ちした。一緒に旅行してから話が合うことが判明した二人――主にスイーツの話で盛り上がっているらしい――が連絡し合う仲になったのはリヴァイにとっては誤算だった。

「まさか、オレを迎えに行きたいから出張を取りやめにするなんて言いませんよね?」
「……俺じゃなくても別のものに行かせればいいだけの話だ」
「そういうわけにもいかないでしょう?」

 恋人の仕事内容をエレンは詳しくは知らないが、副社長という立場上、どうしても出席しなければいけない会議や面談などがあるはずだ。取引先との打ち合わせなどは担当がいると思うが、リヴァイがいなければ駄目な場合もあるに違いない。

「どうしても行かないって言うなら、オレがいいって言うまで触るのをき――」
「行く!」

 エレンが言い終わる前にリヴァイは即答した。どうやら以前に出したお触り禁止令はリヴァイには余程堪えていたらしい。苦渋の決断、といった顔をしている男にエレンは小さく笑って男の手を取った。

「……かわりに、今日は泊まっていきます。今日、父さん、夜勤だって言ってましたし」
「……お前、あのクソガキから変な影響受けてないか?」

 恋人が自宅に泊まっていくのは嬉しいが、上手く丸め込まれたというか――少年の幼馴染みから悪影響を受けていないか心配になったリヴァイの胸中は複雑である。

「あの、クソガキ……やはり、一度しめるか…」
「イヤ、物騒なこと言わないでください。あ、行かない方がいいですか?」
「それはダメだ!」

 きっぱりと言い切ったリヴァイは気が変わらぬうちに、とエレンを引っ張って自宅へと急いだのだった。




 その日、アルバイトの入っていなかったエレンは学校帰りに買い物をするために街中を歩いていた。

「あれ? エレン? 学校帰り?」

 不意に呼び止められて振り返ったエレンは見知った顔を見つけてそちらへと小走りに向かった。

「ナナバさん。買い物ですか?」
「ちょっと紅茶を見にね。エレン、時間ある? 良かったら買い物に付き合ってくれないかな?」

 特に急ぎの買い物ではなかったので、相手――ナナバのお願いに頷いたエレンは彼女に連れられて紅茶専門店を見て回ることになった。


「今日はいい勉強になりました」

 少し休憩していこうか、と勧められてエレンはナナバと一緒に落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。
 どうやら紅茶専門店らしく、店内は女性が好みそうなインテリアで飾られていた。

「紅茶って奥深いですよね。オレは不勉強だから有名なのしか知りませんけど」
「エレンは結構知ってる方だと思うよ? 専門店でも出さない限り、必要とされない知識だからね。グリーンリーフは飲み物にはそんなに力入れてないけど、教えられるうちは色々と教えておこうかなと思ってさ」

 ナナバの言葉に引っかかりを覚えたエレンは思わずまじまじと彼女を見つめてしまった。

「あの、ナナバさん、ひょっとしてグリーンリーフ辞めるんですか?」
「そうだね、今すぐじゃないけど、ゆくゆくは。元々、自分の店出したくてあそこに入ったからね、私は」

 ナナバは元々紅茶好きでカフェ巡りをするのが趣味だった。勿論、それは趣味で本職にする気はなく、専門学校ではなく普通の大学に進学したのだが、先輩にそんなに好きならどうしてその道のプロを目指さないのか――と言われ、悩んだ後に自分の店を持ちたいと思うようになったのだという。

「まあ、大変だったよ。それから専門学校に入り直して色々勉強してね。将来の自分の店の参考にと思って店巡りをしてるときにグリーンリーフに出逢って……あのときは腹立ったよ」
「え? 腹が立ったんですか?」
「そう、もう激怒クラス。だって、スイーツが本当に美味しいのに、紅茶が本当に酷かったんだよ! コーヒーも業務コーヒー丸出しだし、ドリンク全滅だったから、思わず直談判して雇ってもらうことにしたんだよ」
「…………」
「まあ、スイーツの技盗みたいとか、店出したらケーキ入れてもらえないかな、とか下心があったのは確かだけど、ケーキも店の雰囲気もいいのに飲み物が残念過ぎて我慢出来なかったんだよね」

 言われてみると、確かにナナバが入ってからは飲み物の質が良くなったような気がする。基本、グリーンリーフはケーキ販売店で、カフェは後付けだからそこまで力を入れていなかったのだろう。今はスイーツの他に軽食もメニューにあるし、カフェとして利用する客も増えている。

「私がいるうちにエレンがグリーンリーフに入ってくれればいいけど……どっちにしろ、エレンはパティシエ希望だからホールはやらないよね。高校卒業したらグリーンリーフに入るのかい?」
「それも考えたんですけど……ハンネスさんから許可が出ないんです。一つの店にこだわると技術が固定されるって言われてます。なので、卒業後は進学する予定です。どの専門学校にするかは悩んでるんですけど。製菓衛生師資格はまずは取らなきゃいけないですし」

 高校卒業後、就職して働きながら資格取得を目指すのも一つの手だが、エレンとしてはどうしてもグリーンリーフで働きたい気持ちが強い。カフェ・グリーンリーフの経営は安定して好調で新たにパティシエを雇う余裕はあるらしいが、ハンネスからは他の世界も見てこいと言われているので、高校卒業後にグリーンリーフで働くのはまず無理だろう。

「まあ、将来自分の店出すんなら食品衛生責任者資格はないとダメだから、それは取っとくのが一番だね。それからはどうするの?」
「……ハンネスさんにもう一回頼んでみます。やっぱり、グリーンリーフで働きたいし。今のオレは戦力にならないだろうし、もうちょっと実力つけてから頼み込んでみようかと」

 今のエレンなら戦力外だから雇えない、と言われれば引き下がるしかない。専門学校で学んだとしても実力不足かもしれないが、資格を取得すればある程度の知識と技能があると示せる。人を雇うということはそれだけ人件費がかかるということで、それに見合った実力がなければ雇ってくれなどとは言えない。そこでまた別の店を勧められる可能性もあるが。

(まあ、専門学校に進んだら進んだでまた問題があるんだが)

 まずは学費――父親のグリシャからは学費の方はそのために貯金してきたから問題ないと言われているが、余り高いところに行くのは避けたい。更に選んだ専門学校の所在地によっては自宅から通うのが困難な場合もある。
 通うために一人暮らしになったら、そこでまた問題が出る――きっと恋人は黙ってはいないだろう。エレンと一緒に住みたいと言い出しそうだが、それが出来ないことも判っている。エレンの父は二人が恋人同士であるとは知らないし、同居したいなどと言ったら不審に思われるだろう。二人の仲を知られるのはリスクが高いとリヴァイもエレンも考えている。黙っているのは心苦しいが、反対されれば未成年であるエレンは親の監督下にいなければならない。二人の仲を話すのはエレンが成人を迎えてから――そう決めている。

「ハンネスさんはエレンに甘いから、いざとなったら泣き落としをお勧めするよ。バイトの方はやめないんだろ?」
「やめる気はないんですけど――物理的に不可能になる可能性もあるので、何とも言えないです」
「ああ、そうか。学校が遠いと通えない可能性があるよね」

 今は学校帰りに通える距離ではあるが、余り時間がかかるようならアルバイトは無理だろう。更に交通費の問題もある。正社員ならともかく、アルバイトに交通費を全額支給する雇用主はまずいないだろう。ハンネスが出してくれると言ったとしても、エレンはそれは避けたい。ただでさえ本当は雇わない高校生を雇用してくれたのだ。この先もそんなに甘えることは出来ない。

「まあ、エレンはまだ二年生なんだし、もう少し考えてみたら? 私としてはいてくれた方が嬉しいけど」
「はい。焦らず考えてみます。あの、それとナナバさん……」

 エレンの呼びかけに何?と首を傾げてみせるナナバにエレンは気になっていたことを質問した。

「この前の帰りに話したことなんですが、どうして知ってたんですか?」

 例のストーカー事件の話は本当に僅かな人間しか知らないはずだ。結局、エレンはあの男がどうなったのか教えてもらっていないのだが、恋人と幼馴染みという最恐……ではなく最強タッグの仕事に抜かりはないだろう。話が広がらないようにするとも言っていたから、彼女がどうして知っていたのか不思議だったのだ。

「ああ、それはね――」

 ナナバはにっこりと笑った。

「まだ秘密にしとくよ」
「…………」
「あ、別に人に話すとか、悪用するとかはないから安心してね」
「それは心配してませんけど。ナナバさんだし」

 あっさりと断言したエレンにナナバは目を瞬かせて、それから今度はくすくすと笑った。

「ああ、本当にエレンって人誑しだよね」
「は?」
「おまけに無自覚だし。だから、あの人も心配するんだね、納得」
「ナナバさん?」
「うん、そのうちに情報提供者に会せるから。会いたがってるんだ。楽しみにしてて」
「はあ……」

 結局は事情は判らなかったが、そのうちに話すからというナナバの言葉に頷いて、エレンは少し冷めてしまった紅茶を口に運んだ。



 お疲れ様でした、と挨拶をしてから店の外に出たエレンはふと違和感を感じた。
 何かがいつもと違うような――それはすぐに知れた。

「……あの、全然隠れてないですよ、ハンジさん」

 違和感の元――電柱の陰に身を隠していた彼女にそう声をかけると、バレるの早っ!見ない振りしようよ、と言われてしまった。

「あんまりバレバレなんで突っ込まずにはいられなかったんです……」
「え、だって、尾行っていったら電柱の陰に隠れるのがお約束でしょ?」
「イヤ、今どきそんなことしないと思いますけど……」

 明らかに怪しいです、見つけてくださいと言わんばかりの行動だとエレンは思う。本人にはその自覚がなかったようだが。

「どうしてここに? 買い物とかじゃないですよね」

 グリーンリーフはもう閉店しているし、買い物に出かけるにしては遅い時間だ。仕事が早く終わったなら少し遠くに足を延ばすこともあるだろうが、仕事の帰りがこの時間帯になるなら、会社か自宅近くで済ませるのが無難だと思う。ハンジの自宅にはお邪魔したことはないが、この付近ではないと聞いている。なら、どうして――。

「ハンジさん、ひょっとして――」

 エレンが思いついた考えを口にしようとすると、ハンジはぶんぶんと首を横に振ってみせた。

「ち、違うよ、エレン! 私は別にお取り寄せスイーツとか、デザート食べ放題とか、季節限定スイーツとかにつられたわけじゃないから! 純粋にエレンが気になって見に来ただけだから! 誰かに頼まれた訳じゃないから!」
「……ハンジさん、それ、全部白状してるのと同じです」
「…………」

 しまったという顔で固まるハンジにエレンは深い溜息を吐いた。恋人が最近、特に過保護になっているのは判っていたが、彼女を寄越すとは思わなかった。単純に彼女が釣られやすいせいなのかもしれないが。

「……いくら心配でも、尾行なんて頼むことじゃないですよね。しかも、女性に帰りが遅くなるの判っていて頼むとか」
「イヤ、だって、リヴァイは私のこと女だって思ってないからね。それに出張に行ってもらった手前、断るのも何かさ……」
「……ハンジさん、白状しすぎです」

 再びしまった、という顔をするハンジにエレンもまた溜息を吐く。

「ハンジさん、リヴァイさんに伝言を頼みます。次の休みは一緒に過ごせないので、そのつもりで、と」

 そう言ってすたすたと歩き出したエレンに、そんなこと言ったら私の身が危ないんだけど、という焦ったハンジの声がかけられたが、エレンは伝言お願いしますね、と返してそのまま自宅へと足を進めたのだった―――。




「で、別れることにしたの?」
「そんな訳ねぇだろ」

 エレン手製のエッグタルトを口に運びながらそう問う幼馴染みに、エレンはきっぱりと否定する。エレンの回答に幼馴染みはそう言うだろうと思った、と笑った。判り切った質問を投げかけてくる幼馴染みだが、エレンが本当に別れると言えば――勿論、その可能性はないが――もう一度よく考えて答えを出しなよ、と促してくるだろう。結局のところ、幼馴染みの気持ちを大事に思っている彼は二人の別れを本気で望んでいる訳ではないのだ。エレンとしては心の平穏のためにも彼らには仲良くしてもらいたいというのが本音だが、協力することはあっても親密には絶対になりたくない、というのが彼ら共通の主張だった。

「まあ、あの人が残念なのは判り切ったことだけど、今回は同情の余地があるよ?」

 黙っていたことに関しては僕も怒ってるんだからね、とにっこりと笑う少年の眼は笑っていない。あのストーカー事件のときに散々説教されて反省したエレンに幼馴染みは怒りを静めたが、こうして釘をしっかりと刺すことは忘れない。

「まあ、今は過剰反応してるだけだと思うから、落ち着けばそんなに束縛しなくなると思うよ。束縛して嫌われるのはあの人も本意じゃないだろうから。結局あの変態のせいで五月の連休も出かけなかったんだろ? 今までのこと考えたらうざいって怒ってもいいとは思うけど」
「……別にリヴァイさんに怒ってるとか、そういうんじゃねぇんだけど。ハンジさんに頼んだのはどうかと思ってるけど、心配かけたのはオレも反省してるし。問題は最近過保護すぎるってことなんだよ」
「うん。で、いつ別れるの?」
「だから、別れねぇって! ……ただ、次の休日に一人で出かけたいところがあって。でも、出かけるって言ったら絶対に一緒に来るって言いそうだったから」

 元々からこの次の休みの日は出かける場所があるので一緒にはいられないと伝えるつもりだったのだが、ストーカー騒ぎやリヴァイの出張などが重なって言い出しにくい状況になってしまった。なので、今回の伝言は便乗したにすぎない。
 エレンの言葉にアルミンは何かに気付いたように眼を瞬かせてから、ふう、と息を吐いてみせた。

「確かに休みの度に傍にいられたら鬱陶しいよね、うん。あの人はそれ以前の問題だけど」
「イヤ、別に鬱陶しくねぇし! むしろ、一緒にいられたら嬉しいし……」

 そう言って頬を染める少年に、アルミンはうん、惚気はいいからね、と苦笑して、次のエッグタルトに手を伸ばしたのだった。



 ――その後の休日、エレンは花束を抱えてとある場所へと向かった。腕の中で揺れる紫色を眺めながら黙々と足を進める。水を汲んで、そこに辿り着くと、いるはずのない人影を認めてエレンは眼を瞠った。

「リヴァイさん、どうしてここへ……?」

 いるはずのない人物――自分の恋人の姿に驚きと戸惑いを隠せないエレンに男はお前の幼馴染みから連絡があった、と告げた。

 ――この時期、エレンは少しナーバスになるんです。よく注意してみないと判らないでしょうけど。

 さすがに長年家族ぐるみの付き合いをしている幼馴染みの少年は僅かな変化にも敏感だった。

 ――一人で行きたがってるのは判ってますけど、あなたがいた方が多分、エレンにはいいでしょうから。

 そう告げる少年には複雑な色が滲んでいたが、教えてもらった事実に関しては男は素直に礼を言った――まあ、癪ではあったが。

「お前が一人で来たいと思って、俺と過ごさないと言ったのは判ってはいたが――それでも、俺もここに来たかったんだ。……すまない」
「どうして――」
「ここにはお前の大切な人が眠っているからだ」

 二人が現在いる場所は墓地だった。目の前の墓石の下にはエレンの大切な家族――母親が眠っている。エレンが小学生の頃のちょうどこの時期に彼の母親は他界していた。母親が亡くなった後、毎年父とこの時期に一緒に墓に訪れていたが、今年は父の休みが合わなかったこともあり、お盆には一緒に墓参りすることにして、今回は別々に行くことに決めていた。
 そのことは誰にも話していないが、聡い幼馴染みは一人で行きたいところがあるという言葉で事情を察したのだろう。

「エレン、これを」

 そう言って恋人が差し出したのは綺麗にアレンジメントされた花――紫陽花のプリザーブドフラワーだった。色は違うが、エレンが抱えている紫の花と同じもの。
 紫陽花は亡くなった母親が最も好んだ花だった。おそらくはそのことも幼馴染みから聞き及んでいたのだろう。
 エレンは抱えていた花束を置いて、男から紫陽花のプリザーブドフラワーを受け取った。

「――報告が遅くなりましたが、息子さんとお付き合いをさせて頂いています」

 リヴァイは墓石に深々と礼をして手を合わせてから、宣誓するようにそう述べた。

「この先もずっと一緒にいたいと思っています。息子さんが望んでくれるなら今はこの国では無理かもしれませんが、将来は結婚したいです。必ず幸せにします」

 きっぱりとした恋人の言葉にエレンはぽかんとして、それから泣きそうに顔を歪めた。

「……リヴァイさん、それ息子さんをくださいっていう挨拶みたいですよ」
「無論、そのつもりで言った。お前にはもう指輪も渡したし、後は外堀を埋めようと思ってる」
「逃がさない気ですか?」
「逃げるつもりなのか?」

 リヴァイの問いかけにエレンはその言い方はずるいです、と言葉を続けた。

「逃げる気ならとっくに逃げてます。……言ったでしょう? オレはあなたが思っているよりずっとあなたが好きなんだって。ただ、ここでこんな言葉を言ってもらえるとは思ってなかったから」
「お義母さんに話すのは当然だろう。お義父さんにはお前が成人したらきちんと話すつもりだ。許して頂けるかは判らないが、ご理解頂けるように努力する。――いざとなったら攫うつもりだが」

 エレンは攫われるのは困ります、と苦笑した後、腕の中の紫陽花を眺めてぽつりと呟いた。

「紫陽花は亡くなった母が一番好きな花だったんです」

 この季節に鮮やかに色を変える花。綺麗な紫の彩り。

「オレはこの花が好きで嫌いなんです。――母が死んだ日も葬式の日もこの花はすごく綺麗に咲いていて、この季節にこの花を見ると思い出すんです。それと、同時にこの花が綺麗だって言う母の笑顔も思い出して――だから、好きなのに嫌いだった」

 けれど、とエレンは腕の中の花をそっと抱き締める。

「この花、ちゃんと好きになれそうです。ありがとうございます、リヴァイさん。この花も、ここに来てくれたことも、言ってくれた言葉も、全部全部ありがとう――」

 花を抱き締めながらぽたり、と透明な雫を零す恋人を、男は抱き締めたのだった。




 ――余談。

「エレン、わざわざ来てもらって悪いね。ほら、こっちにいるのが前に言っていた会わせたい人だよ」

 待ち合わせのカフェで待っていたのはナナバと見知らぬ男――そして、何故か自分の恋人だった。

「え? ええ? ナナバさんってリヴァイさんの知り合いなんですか?」
「気にするのそっちなんだ? まあ、恋人のことならそうなるか。私じゃなくて、こっちと知り合いなんだけどね」

 そう言って彼女が指し示した男はミケ・ザカリアスと名乗った。背の高い髭を蓄えた男で、どうやらこちらがリヴァイの知り合いらしい。

「あ、はじめまして、エレン・イェーガーです――」

 そう自己紹介をしかけたエレンに男は身を乗り出すようにして鼻を近づけてきたので、ぎょっとした少年が身を引くより早く、横から伸びた手が少年を抱きかかえていた。

「てめぇ! エレンにそれ以上近付くな!」
「ああ、予想していた通りの反応ですね、リヴァイ先輩。――ごめんね、エレン、ミケに悪気はないから許してやって」

 リヴァイはだから、こいつにも会わせたくなかったんだ、ついてきて正解だったと苦々しげに言い、事情が判らずに恋人の腕の中で固まっているエレンに、ナナバは彼が初対面の人間の匂いを嗅いで確認する癖があるのだと告げた。

「あの、それ、どういう意味があるんですか?」
「イヤ、特にないと思うよ? 単なる癖というか……わりと何でも嗅ぐから。紅茶や珈琲の香りもすぐに気付くからミケに出すときは気が抜けないんだよね」

 どうやら、かなり変わった人物のようだ――それを口にするほど非常識ではないが、表情に出てしまっていたのか、ナナバは大丈夫、リヴァイ先輩やハンジ先輩程じゃないから、と笑った。

「え? ハンジさんとも知り合いなんですか? どういう関係で?」
「ミケとハンジは俺と大学の同期で、会社も同じだ」

 エレンの言葉に答えたのはリヴァイで、ナナバはその言葉に頷く。

「で、私は大学の後輩で、ミケのパートナーだよ。私がカフェの道へ進む切っ掛けを作ったのもミケ」

 どうやら、ナナバにどうしてプロの道を目指さないのか、と言ったのは彼らしい。だから、責任とってもらうことにしたんだ、とナナバは笑う。ナナバの言うパートナーとは仕事の共同経営者とかスポーツのペアとかそういうものではなく、生涯の相手――夫婦の意味合いのように感じられた。ナナバはまだ独身だと聞いていたから、結婚することを前提に付き合っている恋人ということなのだろう。

「ミケ経由でエレンの話を聞いた訳。で、リヴァイ先輩がどうにもあれなんで、店で何かあったら教えて欲しいって言われたんだよ。――そういう訳で、私が店にいる間は何かあれば対処しますので、ご安心ください、リヴァイ先輩」

 まあ、エレンには他にも保護者がいっぱいいますから、あんまり過剰にならない方がいいですよ、と言うナナバにリヴァイは不機嫌そうに判っていると呟いたのだった。




「リヴァイさん、紅茶淹れましたのでどうぞ」

 エレンから紅茶を受け取った男はどことなく不機嫌そうである。それが恋人に対してではなく、一緒に出されたビターショコラ――ナナバとミケに手土産として渡されたのだ――が気に入らないのだとエレンには判っていた。

「これ、有名なショコラ専門店のものですよ。折角頂いたんですから一緒にどうぞ」
「……お前の作ったものの方が旨い」

 雑誌にも載るような有名店のショコラよりも自分の作るものの方がいいと言われてエレンは苦笑する。自分の作ったものを誉めてもらえるのは嬉しいが、エレンはショコラを専門に作っている訳ではないし、その評価は恋人の欲目というか身贔屓がすぎると思う。まあ、味覚は個人の好みがあるから、ここのショコラを好まない人もいるだろうが。実際にチョコレートが好きという人でもカカオ成分が多いダークチョコレートは好まないという人もいるし、子供向けの甘いものから大人向けの洋酒をきかせたもの、工程や材料によって風味は大きく変化するし、ショコラは極めようと思えば奥が深い道だと思う。

「では、次は何か作りますね」

 頷くリヴァイに、エレンはこれを贈ってくれた二人を思い出す。パートナーだと言った二人。

「ねぇ、リヴァイさん、オレはまだ高校生で、保護者が必要な年齢で、理想のパティシエの腕には遠くて、今は全然ダメですけど――」

 そう言って、エレンはリヴァイを見つめた。

「いつか、胸を張ってリヴァイさんのパートナーですって、言えるようになりたいです。リヴァイさんとずっと一緒にいたいから」

 エレンの言葉にリヴァイは目を瞠って、それからぎゅっと恋人を抱き締めた。

「言質とったからな。逃がさねぇぞ」
「逃げませんってば。ただ、一つだけお願いがあります」

 こつん、と額と額をくっつけるようにして、エレンはリヴァイに告げた。

「あんまり、オレを過保護にするのはやめてください。オレはまだ全然子供ですけど、パートナーなら支えられるだけじゃなくて支えるようになりたいから」

 リヴァイの愛情は一般的には重いと呼ばれるものであると思う。エレンはそれが嫌ではないが、甘やかされすぎるのは本意ではない。リヴァイなら例えば自分が将来店を出したいと言ったときに、その資金を全部自分が持つとか言い出しそうだ。
 ストーカー騒ぎのときには確かに心配をかけたし、自分の行動を反省もしてはいるけれど、自衛すら必要ないとばかりに守られるのはエレンは望まない。

「……判った。今回のはちょっと行き過ぎてたと反省している」
「ちょっとだけですか? 反省したの?」
「――かなり、たくさん、反省した」

 だから今はいっぱい触らせろ、と頬に瞼に唇を降らせる男にエレンはくすぐったそうに笑って恋人を抱き締め返したのだった。





《完》


2016.9.6up



 ストーカー事件の補完のつもりで書いた作品。あの騒ぎの後、絶対にリヴァイは過保護が加速して色々ありそうだなーと思ったので。ちなみに先に誕生日話を書いてますが、ストーカー事件はその後です。ナナバさんの言葉使いが掴めなくて困りましたが、微妙に違っていてもその辺はスルーで。ハンジさんと話させたら多分区別つかない……(汗)。前に話書いてから時間経ちすぎててどっかに矛盾がありましたらご容赦を〜。




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