切望



 その日、エレンがその個展に足を運んだのはエレンの希望ではなかった。若手の画家の中でも一番の人気と才能を持つと評されている人物の作品にさして興味はなかったし、わざわざ休日に美術鑑賞に足を運ぶ趣味もない。そもそも、芸術文化というものがエレンにはピンとこなかった。美しいものを見たときには綺麗だな、と思うくらいの感性は持ち合わせていたが、芸術性の高い作品や絵画の技術レベルの判断などどうやって見分けるのか見当もつかない。まあ、それはごく普通の高校生である少年なら当然のことかもしれないが。
 なので、エレンがその日、その個展会場へ訪れたのはただ単に母親に頼まれたからにすぎなかった。何でも新進気鋭のその画家の画集の発売に合わせて開かれた個展で、そこで画集を買うと画家本人がサインをしてくれるらしい。余りマスコミの前には姿を現さない画家の姿を目にすることが出来るかもしれない滅多にない機会だからと、どうやらその画家のファンだったらしい母親は楽しみにしていたのだが、親戚に急な不幸があり、そちらへ出かけなければならなくなったのだ。――そのため、エレンにお鉢が回ってきたのだ。
 正直に言えば面倒なだけであったが、母親の気落ちした姿を見て、代わりに行くことをエレンは決めたのだった。
 人気ある画家だというのは本当だったらしく、サインをしてもらうのには並んで整理券をもらわねばならなかった。エレンは順番の時間までの暇つぶし――というと、聞こえが悪いけれど――に、折角来たのだから、と展示されている絵画を見て回ることにした。
 作品は風景画が多いようだった。エレンには綺麗な絵だな、くらいの感想しか抱けないが一通り見て回り、最後の展示品らしい大きな絵の前まで足を進めたとき、そこで息を呑んだ。
 ――そこに展示されてあったのは一面の青。淡い色から深い色までいろんな青を混ぜた美しい一枚の海の絵で、作品の題名には『切望』と記されていた。

(何だ……これ……)

 それを見たとき、エレンは胸がぎゅうっと締め付けられたような気がした。胸の奥に何か熱い塊が生まれてそれがこみ上げてくる。
 理由など判らない。ただ、これはきっと自分が探していたものだと思った。きっとこれを見るために自分は産まれてきたのだとそんな風に思えた。熱く強い衝動に堪え切れず、エレンは金色のその眼から大粒の涙を零した。決壊した堰が水の流れを押しとどめられないように、その涙を止める術を彼は持たなかった。
 ――が、個展の会場で作品の前で号泣する男子高校生の姿が目立たない訳がなく、会場にいた人間から話が伝わったのか警備のものがエレンの前に現れ、彼に事情を尋ねてきた。けれど、泣いているエレンには答える余裕がない。困り果てた警備員が取りあえず、エレンをそこから連れ出そうとしたとき――。

「ちょっと、どうしたの? その子、具合でも悪いの?」
「いえ、それが、何も話してくれないので――」

 髪を無造作にアップにした、パンツスーツに身を包んだ女性が駆け寄ってきた。怪訝そうな表情で眼鏡を押し上げている彼女がどうやらこの個展の責任者らしい。

「取りあえず、控室で話を聞こうか。ここじゃ他の人の迷惑になるし、君もその方が――」

 そうエレンに声をかけてきたその女性は、エレンの顔を見て言葉を途切れさせ、大きく両の眼を見開いた。何か奇妙なものでも見たような、信じられないことに出くわしたかのような驚きの表情を浮かべている。

「え? 君、何で……本当に?」
「オイ、クソメガネ、どうした? 新手の営業妨害か?」
「あ、リヴァイ、違うよ。この子が――」

 またその場に別の声がかけられ、自然にエレンがそちらに顔を向けると新たに現れた男性――どうやら名はリヴァイというらしい――が息を呑むのが判った。他の二人を押し退けるようにして、エレンの前に進み出てその両肩を掴む。

「お前、お前――本当に……」

 声を詰まらせる男性をエレンはぼんやりとただ眺めていた。

(この人……知ってる気がする。……誰だっけ?)

 いや、初めて会う人間のはずだ、と理性は告げるが、心のどこかがこの人を知っている、逢えて嬉しいと訴えかけてきてエレンは混乱した。頬へと移動した男の手が優しく流れる涙を拭っていく――そこで、ようやく、エレンは我に返った。

「あ、えーと、すみません! 何かこの絵見てたら急に涙が出て来ちゃって! お騒がせしました!」

 エレンは慌てて男から飛び退いて離れ、深々と頭を下げた。

(うわぁ、恥ずかしい! 何やってんだ、オレ!)

 芸術作品を見て感動して泣く、というのは確かにあるかもしれないが、自分はそういう性格ではないし、絵画を見てこんなに号泣する人間なんてそうはいないだろう。映画ならまだ共感を得られるかもしれないが、絵画を見てその会場で号泣したという話はエレンは聞いたことがない。会場側の人間まで出てくる事態になるなんて、とエレンは羞恥に身を縮ませた。引っ込んだ涙が別の意味で流れてきそうだ。

「……そうか、お前は覚えてねぇんだな」
「え?」

 男が何か小さく呟いたような気がしたが、エレンには聞き取れなかった。顔を上げて男を見ると、苦笑いを浮かべるその瞳にどこか寂しげな色が揺らめいているような気がした。

「とにかく、控室に行こう! ね、君、お茶でも飲めば落ち着くからさ!」
「え? でも、あの……」
「いいからいいから! とにかく、一緒においでよ!」

 いや、いいですから、もう平気ですというエレンの言葉に全く耳を貸さず、責任者の女性は少年を強引に引っ張って関係者の控室へと連れて行ったのだった。



 責任者の女性はハンジ・ゾエと名乗った。彼女は画商であり、この個展も彼女が一切を取り仕切っているらしい。そして、男の方はといえば―――。

「まさか、リヴァイの作品を見て泣いちゃう子がいるとはねー。画家冥利に尽きるよね、リヴァイ」
「…………」
「あの、その話はもうやめてください……」

 何と、先程の男はこの個展に展示された作品を描いた人物――人気、実力ともに若手では一番だと言われている画家本人だったのだ。ハンジに紹介されて、そういえば書いてあった名前が同じだったとようやく気付いたあたり鈍かったと思うエレンだが、まさか本人が現れるとは思ってもみなかったのだ。

(……何か、すげぇ見られてる気がするんだけど! 視線が突き刺さってる気がするのは気のせいか?)

 先程から男にずっと見られている気がするのは気のせいだろうか。自分の作品の前で号泣した珍しい人間とでも思われているのだろうか――それは事実なので文句も言えないが、先程の醜態は忘れて欲しいとエレンは心底願った。

「あのね、エレン・イェーガー君だっけ? 君、高校生だよね?」
「あ、はい、今一年生です」
「じゃあ、まだ受験とかは考えなくていいよね。部活とかやってる?」
「いえ、やってませんけど……」
「なら、時間あるよね。君、うちでバイトしない?」
「は?」

 突然のハンジの申し出にエレンは戸惑った。確かに時間があることはあるが、いきなり何でそういう展開になるのだろうか。モデルやタレントのスカウトならまだ判るが、初対面でうちで働いてみないかという話になるなんて、何か裏があるのではないかと普通なら疑うだろう。

「別にあやしい話じゃないよ? 今、丁度人を探していてね、うちの画廊の雑用を手伝って欲しいんだ。後はリヴァイの様子を見に行ってもらえれば。リヴァイは掃除以外は家事能力ないし、面倒見てもらえると助かる」
「面倒って……オレ、モデルとか出来ませんし、画廊の手伝いって言われても……」
「モデルをして欲しい訳じゃないよ。あくまでも雑用ね。それに、リヴァイは人物画を描かないので有名だから。作品集にも人物画は一枚もないでしょ?」

 そう言われても、今回初めて男の絵を見たエレンにはそれが本当なのかは判らない。だが、ここで自分は絵画には興味がなかったので今までに男の作品を見たことはありません、と言える程空気が読めないわけではなく、はあ、と気の抜けた相槌を返すしかない。

「リヴァイ、君のこと気に入ったみたいだからさ、引き受けてくれないかな?」
(………気に入った?)

 先程から視線が突き刺さりそうな程見られているというか、むしろ、ガン飛ばされているというか、怨念をこめられてそうな気がするんですけど、とは言えず、エレンは恐る恐る男の方へと顔を向けた。――途端、目と目が合う。

「……嫌なのか?」

 お前、断ったらどうなるか判ってるんだろうな?という幻聴が聞こえた気がした。確実に人を殺していそうな顔で見つめられてエレンは首を咄嗟に振っていた。

「じゃあ、やるな?」
「はい! やります!」

 ――こうして、エレンのアルバイトが決まったのだった。



「リヴァイさん、リヴァイさーん、生きてますか?」

 渡されていた合鍵を使って家の中に入ったエレンは家主の姿を探した。返事がないところをみると、またアトリエにこもっているに違いない。勝手知ったる家の中、エレンが男のアトリエにしている室内に入り込むと、部屋の隅に置かれたソファーの上で毛布にくるまり仮眠をとっているらしい男を発見した。

「またこんなところで寝て……リヴァイさん、起きてください。どうせご飯ろくに食べてないんでしょう」

 エレンが男の肩を揺さぶると、男は不機嫌そうに眉を寄せた後、眼を開けて少年の姿を認め僅かに表情を綻ばせた。

「……エレンか」
「はい、エレンです」

 男から伸ばされた手が確かめるように頬を滑り、耳朶へと這わされていく。くすぐったさに身を竦めるが、これはもう毎回のことなのでエレンはもう諦めている。男の手つきが性的なものを感じさせないというのもあるが、不思議と男に触られるのが嫌ではなかったからだ。男の手がひどく優しいからかもしれない――まるで、恋人に触れるかのように。

「起きてもお前がいる……嬉しいもんだな」
「…………」

 それは自分のことを夢に見ていたということだろうか。どういう反応を返したらいいのか判らず、エレンは誤魔化すようにそれより食事です、と男を促した。

「そういや、食ってなかったな」
「食事は日に三度食べるものですよ。作り置きしてったのに食べてないんですか?」
「お前が出してくれないからな」
「あっためるだけですよ。誰がやっても同じでしょう」
「お前のが旨い」
「…………」

 エレンは男の言葉に溜息を吐いた。どうしてこの男はまるで口説き文句のような台詞を自分にかけてくるのだろうか。毎度のことなのでこれにももう慣れてしまったけれど。

「じゃあ、用意しますから少し待っていてください」
「食事の前に掃除だ。もう三日もしてねぇ。重大な最優先事項だ」
「イヤ、それより食事が先ですから! 空腹で倒れますからね!」

 エレンは何とか男を食卓に着かせ、手早く食事の支度をし始めた。

(何でこうなったかな……)

 ハンジの言った通りにアルバイトは怪しいものではなく、画廊の方の仕事は簡単な雑用だった。個展の開催のお知らせを顧客に送ったり、店内外を清掃したり、簡単なPC入力や応対など、エレンでも出来ることだった。母親は元から絵画が好きであったので両親に反対されることもなく、順調に続いている。――問題があったのは男の様子見の方で。
 リヴァイは一端作品制作に集中すると、食事も睡眠もろくにとらなくなる。特に食事は顕著で下手すると倒れかねないため、今まではハンジが時々様子を見に行っていたのだそうだ。男は自分のテリトリーに人を入れたがらないそうで、男の自宅兼アトリエに入れるものは一握りなのだという。合鍵を渡されるなんてよっぽど君は気に入られたんだよね、とはハンジの言だが気に入られた当人としてはどこにそんなに気に入られる要素があったのか判らない。
 エレンが初めてこの家に足を踏み入れたとき、男の余りの状況に有無を言わさずに食事をとらせ、男が気にしていた清掃と洗濯をしてしまったのがまずかったのだろうか。それ以来、定期的に男の元を訪れ、食事を作り、気分転換したいという男に付き合って出かけたり、一緒に掃除をしたりしている。エレンの両親は共働きであったため、自然にエレンも家事を手伝うようになっていたから、家事をするのは特に苦ではなかった。

(何か、オレ……通い妻っぽくないか?)

 自分の発想にエレンは慌てて首を振ってそれを否定した。

(違う違う! そう、これは家政夫だ! お手伝いさん! 妻とかじゃ決してねぇ!)

 勝手に赤くなっていく頬を軽く叩き、エレンは料理を仕上げた。出来上がった料理をテーブルに並べると、リヴァイはエレンにも食べるように促した。これも恒例となっているので特に異議はない。最初に作ったときに一人で食べるのは味気ないからと言われ、一緒に食事することが決められたのだ。

「味付けどうですか? 濃かったり薄かったりしたら言ってください」
「イヤ、丁度いい。お前の作るもんは何でも旨い」
「…………」

 だから、どうしてそう恥ずかしい台詞が出てくるのだろうか。美味しいと言われるのは確かに嬉しいが、空気が甘いというか恋人でもいないのにこの雰囲気はおかしくはないだろうか。

(イヤ、別に嫌じゃねぇんだけど)

 それが一番の問題なのかもしれないと思いつつ、エレンは料理を口に運んだ。


「あ、そうだ。今日はクソメガネが来るからな」
「ハンジさんが?」

 食後のお茶を淹れていた手を止めてエレンが聞き返すと男が頷いた。どうやら出来上がった絵を引き取りに来るらしい。

「絵の売買は全部あいつに任せてあるからな」

 男とハンジは同い年で、高校で同じクラスになったことから付き合いが始まり、もはや腐れ縁なんだと男は言う。恋人なんですか、と何気なく訊ねたところ、男に気持ち悪いこと言うんじゃねぇ、と本気で嫌がられてしまった。ハンジの方もそれを聞いて大爆笑した後、揃って世界に二人きりになっても有り得ないと言い切られてしまったから、本当にそういう関係ではないらしい。
 それを聞いて何故だかホッとした自分にエレンは戸惑った。男くらいの年齢なら――まして、有名な画家なら付き合っている女性がいてもおかしくはないだろう。実際には毎度エレンが世話を焼いている訳で、面倒を看てくれるような相手はいなかった訳だが、それにホッとするなんて――突き詰めて考えると何か怖い感情にぶち当たりそうで、エレンはそれ以上考えるのを放棄した。


「やっほー、リヴァイ! 絵を取りに来たよ!」
「絵ならいつものとこにあるからさっさと持って出て行け」
「ハンジさん、お疲れ様です。今、お茶淹れますから」

 小一時間ほど経ってハンジが姿を現し、邪魔そうに追い払うような仕種をするリヴァイに彼女は膨れた。

「相変わらず、リヴァイは冷たいなー。エレン君みたいに労わろうって気は起きないわけ?」
「お前はそれが仕事だろう。大体、用があるのは俺の絵だけだろうが」
「まあ、それはそうなんだけどさー」

 文句を言いつつ、ハンジは絵の確認をしに向かい、完成された作品を見て満足げな声を上げた。

「うん、さすがリヴァイ。リヴァイの作品見てると、作品と人間性って関係ないのかなって思うよ」
「オイ、それどういう意味だ、クソメガネ……」
「あはははっ、冗談だってば。ねえ、リヴァイ、もう『壁シリーズ』は描かないの?」
「ああ。あれはもう必要なくなったからな」

 きっぱりと言い切った男に、ハンジはあれ人気なんだけどな、残念、と本当に残念そうに息を吐いた。

「まあ、芸術家は自分の描きたいものを描けなきゃダメになるからね。リヴァイを芸術家っていうのは何か抵抗あるけどさ」
「……お前、喧嘩売ってるんだな、そうかそうか」

 蹴りの体勢に入る男にハンジはだから冗談だってば、と肩を竦めてみせた。

「それじゃあ、リヴァイ、制作頑張ってねー。エレン君もまたね!」

 ひらひらと手を振って帰っていくハンジを少年は男とともに見送った。

(壁シリーズか……)

 エレンは知らなかったが、それは男の作品では有名なものらしい。中世の街並みを思わせる美しい風景のどこかに、不自然にはならないように大きな壁の一部が描きこまれているのだ。よく、漫画家が自分の作品に特定のキャラをこっそりと描きこむという話を聞くが、それに近いかもしれない。それとは別にその壁を大きく描いた作品もあってそれも合わせて壁が描きこまれているものを男の作品のファンは『壁シリーズ』と呼んでいるのだ。
 そして、ハンジが言っていた通りに男が人物をメインにして描いた作品は一つもない。風景の一部として人物が描かれていることはあるが、それはあくまでも一部に過ぎないのだ。
 アルバイトをするに当たって母親が持っていた作品集も見たし、ハンジの画廊で現物も見せてもらったが、あの海の絵を見たときのような衝撃はなかった。男の作品を見ているときに当の本人から何か感じないか、と訊ねられたがエレンは首を横に振った。どこかで見たことがあるような既視感を覚えないでもなかったが、日常そんなことはあることなので、特に言うことでもない気がした。
 男はエレンの返答を聞いて、どこか寂しげな――初めて会ったときのように瞳を揺らした気がしたが、それは一瞬のことだったので、気のせいかもしれない。

(人気あるのにもう描かないのか……)

 プロの作家や画家は自分のやりたいものだけを制作していては食べてはいけないというが、ハンジの方針はやりたくないものを描かせ続けていけば芸術家の才能が死んでしまうから、やりたくないものは描かせたくはない、なので、売れるからといって無理に描かせることはしないだろう。というか、男は自分の描きたくないものは絶対に描かない気がする。ただ―――。

(必要がなくなったってどういう意味だろ?)

 描きたくなくなったでも、もう描けないでもなく、必要がないから描かないとは妙な言葉だ。それだと必要があればまだ描いていたという風にもとれる。

(まあ、芸術家は変わった人が多いっていうし、というか、リヴァイさんは変わってる人だし)

 どこか引っかかるものを感じたものの、エレンの疑問はそこで終わった―――。




「リヴァイさん、リヴァイさーん、生きてますか?」

 いつものように渡された合鍵を使って男の自宅に入ったエレンは、男がいるであろうアトリエに向かった。

「リヴァイさん?」

 男はやはり、ソファーで仮眠をとっていたようだ。ちゃんとした寝室があるというのに、制作期間中はそこへ行く時間が惜しいからとこうしてここで寝ている。身体を壊すからちゃんとベッドで寝てくださいと口を酸っぱくして言っているのだが男は改めようとはしていない。
 やれやれと、エレンはいつものように男を揺さぶって起こそうとした。――したのだが。

「…………っ!」

 不意に腕を引かれ、男の腕の中に抱き込まれる。わたわたと慌てて離れようとしたエレンだが、男は離してくれない。

「リヴァイさん?」

 男に声をかけるが、返事はない。どうやらまだ夢の中にいるようだ。

(……もしかして、寝惚けてる? 無意識?)

 どうしようか、とエレンが考えていたとき、男の手が伸びてエレンの頬に触れた。

「エレン……」

 引き寄せられて、男の唇が自分のそれに近づいてくる。エレンはごく自然に目を閉じて――唇同士が重なる寸前にはっとして顔を背けた。熱い感触が唇ではなく頬を掠めていく。

(ちょっと待て! ちょっと待て! ちょっと待て!)

 何故、今自分は目を閉じたのか。男に引き寄せられるまま逃げなかったのは何故なのか。あのまま顔を背けなかったら今頃は自分は男と――キスをしていた。そして、それがおそらく、自分は嫌ではなかった――。
 自分の中で出た結論に動揺し、エレンは転がり回りたいのを堪え、何とか男の腕の中から抜け出した。男の腕の力は強く抜け出すのは容易ではなかったが、男が寝ていたことが幸いだった。

(どうするどうするどうする? とにかく落ち着いて考えろ、オレ!)

 とにかくこの場から逃げ出さなくては。一人で落ち着いて考えたい。そう思ったエレンはアトリエから出ようとしたが、動揺していたためか、その場で転び、棚に派手にぶつかった。衝撃で棚に積んであったらしいものがバサバサと落ちてくる。

「いててて……って、やばい」

 エレンはリヴァイの家の清掃や洗濯などの家事をしているが、基本、アトリエ内にあるものには手を触れないようにしている。制作途中の作品に触れられるのを男が嫌うからだ。ハンジも作品に関しては基本的に完成したものしか触らせてもらえないらしい。前もって作品の構想やスケッチ程度のものを見せてもらうことはあるそうだが、それも男自らが見せるときに限られている。
 不可抗力ではあるが男は不快に思うかもしれない。後で謝るとして、取りあえずは片付けようと落ちたものを拾い上げたエレンはその場で固まった。

(何だ……これ……)

 目に飛び込んできたのは一枚のスケッチ画だった。見覚えのある顔をした少年がそこには描かれている。エレンは吸い寄せられるように手を伸ばしてその少年が描かれたスケッチブックをめくっていった。――そして、何枚もページをめくってもめくっても現れるのはその少年で、スケッチブックまるまる一冊に全部同じ少年が描かれていた。
 人物を描かないというリヴァイが何故、この少年だけを描いているのか――その疑問はどうでもいい。最大の疑問はその少年が自分とそっくり同じ顔をしていることだ。おそらく誰もが自分とこの少年を見比べたら同一人物だと断定するだろう。あるいは一卵性の双子の兄弟なのかと問いかけてくるかもしれない。それ程にその少年はエレンに生き写しだった。

(でも、違う。こいつはオレじゃない)

 自分が男に見せたことのない表情を浮かべているスケッチ画が、この少年が自分ではないと示していた。スケッチブックの中でその少年は怒り、泣き、笑い、楽しそうな顔を見せ、生き生きと描かれている。服装の細部まで描かれているものもあり、それもエレンが着たことのない衣服だ。軍服のようにも見えるそれをエレンが着るはずもない。
 胸が苦しくなる。泣きわめきたい衝動を何とか堪え、エレンが身を震わせていると、エレン?と怪訝そうな声が背後からかけられた。この場には自分と男しかいない――声をかけるものが男以外にいるはずもなく、おそらくエレンが出した物音で目が覚めたのだろう。

「どうした? 何か――」

 エレンは男の言葉を聞かず、走り出すとそのままアトリエから飛び出した。男の驚いたような呼びかけが耳に届いたが、エレンは振り返らなかった。……振り返ることが出来なかった。




 ――ハンジの元に体調が悪いのでアルバイトを休ませて欲しいと連絡してから一週間。さすがにこのままではまずいだろう、とエレンはハンジの画廊に足を向けた。急に一週間も休むなんてクビにされても文句は言えないし、罵倒されるのも覚悟の上だ。自分の無責任は自分が一番よく判っている。一度受けた仕事を途中で放棄するなんて人としてどうかと思う。
 だが、エレンはもうどんな顔をして男に向き合えばいいのか判らなかったのだ。

「やあ、エレン。よく来てくれたね」
「ハンジさん、一週間も勝手に休んで申し訳ありませんでした」

 エレンを出迎えてくれたハンジは深々と頭を下げる少年を怒りはせず、まあ、詳しい話はお茶でも飲みながらしようか、と初めて会ったときのようにエレンを促した。

「もう来てくれないかと思ってたからさ。来てくれて良かったよ」
「……すみません」

 ソファーに腰かけ、渡されたカップを眺めながら、エレンは俯きがちに謝罪した。ハンジは気にすることはないとそんなエレンに笑いかけた。

「いいんだよ。――エレンはあれを見たんだろう? リヴァイのスケッチブック」
「――――っ」

 言い当てられて息を呑むエレンに、ハンジはやっぱりそうだったか、と大きく息を吐いた。

「リヴァイがあんなに動揺してるの初めてでさ、ちゃんと聞き出せなかったんだけど……やっぱりそういうことか」
「あの、ハンジさんはあれが何なのか知ってるんですか?」

 エレンの言葉にハンジはうーん、と頭を掻いた。

「知ってるっていうか……私とリヴァイが知り合ったきっかけがあれだったんだよね」

 男とハンジは高校時代からの付き合いではあるが、当初、特に話すような間柄ではなかった。きっかけはたまたまリヴァイが教室に忘れていったスケッチブックをハンジが見てしまったことに発している。

「あれだけじゃなくて、壁シリーズと呼ばれているものの原型というかそのスケッチもあってさ、興味を持ったわけ」

 ハンジの家は画廊を営んでいた。そのため幼い頃から絵画や芸術文化に慣れ親しんできたハンジの審美眼は画商である親も認めるところだった。ハンジはリヴァイの持つ天性の画才に気付き、是非画家の道に進むように勧めたのだ。

「まあ、あっさり断られたんだけどね」
「断ったんですか?」
「うん。リヴァイは記憶を確認するためっていうか……探すために描いてるんだって言ったんだ」

 ハンジの言葉が呑み込めず、怪訝そうな顔をするエレンに、彼女は君が見たあの子だよ、と告げた。

「リヴァイは詳しい話はしなかったんだけど、あの子とは今は夢の中でしか逢えない。でも、いつか絶対に逢えるときがくるから、忘れないように描いてるんだって言ってたな」
「夢の中で? 実在しない人なんですか?」
「どうなんだろうね。リヴァイは夢の中ではその子とは逢っていて、あの壁の世界はその夢の世界なんだって。リヴァイは自分がこの世界に産まれてきたんだから、その子も絶対にこちらに産まれてくるはずだって言ってたよ」
「それって……」

 ひょっとして前世とかそういったことだろうか。そう訊ねるとハンジはさあね、と首を振った。

「だから、言ったんだ。じゃあ、尚更絵を描けってね。有名になってその絵を見たらその子が訪ねてくるかもしれないよってね――リヴァイが絵を本格的にやり出したのはそれからだよ。あっという間に有名になって驚いたけどね」

 そして、お前が勧めたんだから、責任もってお前が売れ、とリヴァイはハンジに総ての雑務を押し付けてきた。元から家業を継ぐ気であったから問題はなかったのだが、それからの腐れ縁なのだとハンジは笑った。

「何か、その夢には私と似た人も登場していたらしいよ。お前は変人だから仕方ないみたいに言われたけど、失礼だよね。まあ、半分も信じてなかったんだけど――君が目の前に現れたときは正直自分の目を疑ったよ」

 初対面のとき、ハンジがあんなに驚いた顔をしたのが何故なのか、エレンは納得がいった。号泣する男子に驚いていたにしては反応が激しいとは思っていたけれど、ハンジはあの自分にそっくりなスケッチを見ていたからこそ驚いたのだろう。ハンジ達が高校生のときだというなら、その頃自分はまだ保育園に行くか行かないかくらいの年齢だったはずだ。自分がモデルではないのは確かだし、それなのに同一人物だとしか思えない人間が現れたなら吃驚するだろう。

「それで、やっとリヴァイの話は本当だったんだなって思って――君を逃がすまいと思ってバイトの話を持ち掛けたんだ。急な話で驚かせちゃったけど」

 リヴァイがあんなにも切望していたものを掴むチャンスを逃したくなかったのだと、ハンジは続けた。

「でも、オレは――あいつじゃありません」

 リヴァイがずっと追い求めていた少年。誰の絵も描かないリヴァイが忘れないように、胸に刻み込むように描き続けた少年。

「リヴァイさんのこと、夢に見たこともねぇし、壁の世界のことも覚えてねぇし、あんな顔を見せたこともねぇし、オレとは全然違う……っ! オレはリヴァイさんが好きだった奴じゃない……!」
「エレン……」

 ハンジは立ち上がってエレンの隣に腰を下ろし、その頭を撫ぜた。

「……そうか、君はリヴァイが好きなんだね」

 エレンは唇を噛んだ。そうだ――自分はいつの間にかあの男のことが好きになっていたのだ。真剣に制作に打ち込む姿も、判りづらいが人を気遣う優しさも、そっと触れてくる手も、全部好きになっていた。キスされそうになって嫌ではなかったのも好きになっていたからだ。あのときはただ狼狽えるばかりだった感情をこの一週間でようやっと認めることが出来た。けれど。

「……でも、リヴァイさんが好きなのはオレじゃない」

 夢の中の住人だという幻のような少年。現実にいないのなら勝負にすらなり得ない。

「大丈夫だよ、エレン。リヴァイにだって判ってるから」

 ぽふん、と少年の頭の上に手を乗せてその髪を撫ぜながらハンジは微笑んだ。

「リヴァイもダメだね。こんなにいい子を泣かせるなんて」
「……泣いてないです」
「うん、そうだね、泣いてない」

 ポタポタと流れ落ちる雫を見なかったことにして、ハンジはもう一度頑張ってごらんよ、と軽く少年の肩を叩いた。

「夢の中の人は現実では抱き締められないし、抱き締め返してもくれないんだからさ。君の方がずっと有利なの。――夢を忘れるくらい好きになってもらえばいいよ」

 だって、君は生きてここにいるんだから、と笑うハンジにエレンは微かに頷いた。




 ハンジに勇気をもらったエレンは恐る恐る男の家を訪ねてみることにした。自分の想いが実るにしろ実らないにしろ、自分の仕事にはリヴァイの世話も含まれていたのだから、何も話さずに逃げるのは無責任だと思ったのだ。

「失礼します……」
「来るのが遅い! 俺がどれだけ待ってたと思うんだ」

 いつもとは違って怖々とエレンが男の家に足を踏み入れると、男はすでに中で待ち構えていた。
 無表情でエレンを見る男からは何を考えているのか推し量ることは出来ない。怒っているのだろうか、とエレンが一歩を踏み出せないでいると、焦れたのか、男がエレンの腕を引いた。

「あの、リヴァイさん……」
「お前に見せたいもんがある。――来い」

 有無を言わさずエレンを引っ張り込んだ先は、あの気まずく別れた男のアトリエだった。その中央にイーゼルがあり、布がかけられたキャンバスが設置されていた。

「……お前に一番に見てもらおうと思っていたもんだ」

 そう言ってリヴァイが布を取り去った後に現れたのは一枚の人物画。柔らかい色合いで描かれたそれは絵の中の人物への愛情があふれているような気がした。一筆一筆、愛情をこめて作者が制作した――そんな作品。
 そして、その絵の中の人物は自分と同じ顔をしていた。

「お前を描いた。俺の気持ちを全部こめたつもりだ」

 彼ではなく自分だという証拠に、絵の中の少年は初めて会ったときと同じ服装をしている。特にモデルになった覚えもないのによく描けたものだと思う。

「エレン、ハンジに聞いたそうだな。俺がずっと探していたこと」

 何を探していたのかは男は口にしなかったが、それが何を示すのかエレンには判っていた。

「ずっと見つからなかった。最後の想いをこめてあの海の絵を描いた。――あの絵はあいつへの想いの総てだ。お前があれを見て泣いたとき、俺は嬉しかった。やっと見つけたんだと思った。だがな、エレン」

 そう言ってリヴァイはエレンに手を伸ばし、その頬に触れた。先程から零れている雫を拭ってやるために。

「そういったもん関係なく、俺は今のお前が愛しいと思う。気の強いところも、意外に世話焼きでお人好しなところも、無邪気に笑う顔も全部、な。だから、この絵を描こうと思った」
「……リヴァイさん、オレには夢の記憶とかないんです」
「ああ、判っている」
「オレはあいつじゃない。あいつだったとしても覚えてない。もしかしたら、あいつにそっくりなだけの別人かもしれないんですよ?」
「だとしても構わねぇ」
「――――」

 そう言って男は少年をそっと抱き締めた。

「今、俺がお前を愛しいと想うそれが総てだ」
「――――」
「正直に言って俺があいつを忘れることはねぇと思う。あいつへの想いは俺の一部で、それがなかったら今の俺はない。けど、お前を愛しいと想うのは俺の本当の気持ちだ。お前はそれじゃダメなのか?」

 今のリヴァイは今までの想いがあったからこそ出来上がったものだ。それを受け入れないというのは今のリヴァイを否定するということだ。

「リヴァイさんは、オレのこと好きですか?」
「ああ」
「――オレもリヴァイさんが好きです」
「なら、両想いだな。それ以外に何がいるんだ?」
「――何も。他には何も要らないです」

 きっと、これから先一緒に過ごしていくうえで『彼』の存在に自分は悩むかもしれない。疑うかもしれない。
 だが――それでもともに在りたいという気持ちは本物だから。
 決して離さないようにと強く願いながら少年は男を抱き締め返した。



 その後、男が初めて発表した人物画のモデルが誰なのか世間を騒がすことになるのだが、それはまた別の話――。






《完》



2014.12.23up



 思いついたから書いておこう作品。実は「一週間の恋人」を書いているときに、前世の記憶を思い出さなかった場合どうなるのかなーと思ったのがこの話が出来たきっかけだったりします。絵画に関する知識はないので何かおかしいと思ってもその辺はスルーで(汗)。拍手文にする予定でしたが、考えているうちに長くなったので小説にてUPしました。



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