一週間の恋人



 ああ、これは死んだな、と男――リヴァイは思った。今度ばかりはどう考えても助からないだろうと。強運だとか不死身だとか実は人間じゃないのかもしれないとか今までに色々と言われてきたリヴァイだったが、いくらなんでもこれは無理だろうと。
 日曜日の本日、買い物に行こうと自家用車を運転していたら、わき見運転したトラックが対向車線を越えてこちらに突っ込んできたのだ。リヴァイは咄嗟にハンドルを切って避けたが、その先には車道に飛び出してきた子供の姿があった。横断歩道ではない道路に飛び出してくるなんて、親はどうしたと突っ込んでいる暇はなく、慌ててハンドルを更に切ったら目の前にはガードレールと電柱が迫っていた。かけた急ブレーキは間に合わないだろうし、どう考えても死亡コースだ。

(殺しても死にそうにない強運の持ち主だと言われていたんだがな)

 そう言われるのには理由がある。リヴァイは昔から事故や危険な目に遭いそうになっても総て回避出来ていたからだ。例えば、乗る予定だった飛行機をキャンセルしたら、その後、その便が事故を起こしていたり、死亡していてもおかしくない事故に巻き込まれても無傷だったり、掠り傷程度で済んだりしていた。そんなことを繰り返しているうちにリヴァイ不死身説が周囲には広がっていき、仲間内では何か憑いてるんじゃないかとか冗談交じりに言われていて、リヴァイは人徳だとさらりと答えていたが、内心では自分でも驚いていた。

(両親はお守りのおかげだと言っていたな)

 リヴァイにはいつも肌身離さず身に付けているお守りがあった。小さな水晶のような結晶体で、何と、リヴァイは生まれたときにそれを握っていたという。親からこれはきっと自分を守ってくれるものに違いないから常に身に付けているように言われていたが、リヴァイはそんな胡散臭い話が本当の訳がないと思っていた。最初は無理やり持たされる形だったそれも次第に慣れて気にならなくなったけれど。
 お守りの効果が本当だったのか判らないが、どうやらこれで終わりらしい。リヴァイは来るべき衝撃を覚悟したが――。

「………?」

 いつまで経っても衝撃が訪れない。訝しむリヴァイはいつの間にか自分が何もない真っ白な空間に立っていることに気付いた。先程まで確かに車の運転席にいてぶつかる寸前だったはずなのだが。自分は事故の衝撃で意識不明に陥り、夢でも見ているのだろうか。それにしては感覚ははっきりしすぎているし、夢とは思えない現実感がある。

「……これが臨死体験というやつか?」
「ちょっと違います」

 思わず呟いた言葉にそう返されて、リヴァイは声のした方に視線を走らせた。
 すると、そこには見たことのない少年が立っていた。

(誰だ、こいつは)

 真っ黒な髪に大きな金色の瞳、おそらくはまだ十五、六歳くらいであろう少年はリヴァイに向かって握った右手を胸に当てる奇妙な動作をした。何かの礼のようにも見えるが、それが何を意味するのか判らない。ジャケットにブーツ、何の用途か飾りなのか判らないベルトという少年の格好もまた奇妙だった。少なくともこの年頃の少年が普段着るようなものではない。軍服か何かの団体の制服というのが妥当だろうか。
 少年に見覚えは全くない、と言い切れるが、瞬く大きな金色の瞳に何か懐かしさを感じた。意志の強さを感じさせる真っ直ぐな瞳がリヴァイを見つめている。

「……臨死体験でなければ俺は死んだのか?」
「いいえ、まだ死んでませんよ。イヤ、このままだと死にますけど。本当ならあのまま電柱に突っ込んで車は大破、へ…リヴァイさんは車体と一緒につぶされて即死です」
「……さらっととんでもないこと言うな、お前は」

 だが、あの状況から言って自分が助からないはずだったのは確かだ。自分もこの少年が言う未来を瞬間に描いていたのだから。

「生きたいですか? リヴァイさん」
「当然だ。死にたい訳がないだろう。俺には自殺願望はない」
「なら、助けてあげます」

 あっさりと言う少年に男は目を瞠った。

「出来るのか?」
「勿論です。今までもそうしてきましたから。――ただ、条件があります」
「条件?」
「一週間の間にオレを見つけてください。オレはきっとあなたの傍にいるはずだから」

 一週間の間に少年を見つけ出すこと、それがリヴァイが助かる条件らしい。これまた奇妙な条件にリヴァイは内心で首を傾げた。この少年が何者なのかリヴァイには判らないが、リヴァイを助けて自分を見つけ出させることにメリットがあるとは思えない。

(囚われの身で助けて欲しい……ってことではないな)

 死ぬはずのリヴァイを助ける力があるというのだから、どこかに囚われていても自分で脱出するくらい出来るだろう。

「ああ、もう時間がありません。では、これで」
「オイ、待て――」

 まだまだ訊きたいことはたくさんある。ここで消えてもらっては困るとリヴァイは制止の声をかけたが、言い切る前に辺りは白く染まった――。


 ふっと、リヴァイが我に返ると、先程の不思議な空間は跡形もなく、自分の身体は自家用車の運転席にあった。

(……夢だったのか……?)

 それにしてはいやに現実感がありすぎたし、詳細まではっきりと覚えている。白昼夢を見ていたとは到底思えなかった。

(イヤ、今はあれが現実にあったのかはおいておいて……事故はどうなったんだ?)

 見ると、自家用車はガードレールギリギリのところで停止していた。降りて車体を確認してみるが、傷もついていないようだ。
 だが、突っ込んできた相手の方は無事ではなかったらしく、歩道に乗り上げてしまい街路樹にぶつけたらしい。降りてきて呆然と自分の車を見上げていたから運転手本人は無事のようだが、修理にはかなりの費用がかかりそうな壊れ具合だ。まあ、向こうが悪いので同情する気にはなれないが。
 リヴァイが避けた子供は驚いて大泣きしていたが、怪我はないようだった。誰かが通報したのかサイレンの音が近付いてくる。無事だったのを喜ぶべきか、事故に巻き込まれたことを嘆くべきか。取りあえず、負傷者が誰もいないのは何よりだが、今日の予定は全部つぶれるだろうなと思い、リヴァイは溜息を吐くしかなかった。




(見つけてください…って言われてもな)

 あれから警察の事情聴取を受け、念のために病院で検査を受けるようにと勧められた。全くの無傷なので問題ないと思ったが、周りから何かあってはいけないからと説得され、渋々リヴァイは検査を受けた。事故に関しては全面的に向こうが悪いというのが認められたし、相手も保険に加入しているようだから問題はないだろう。折角の休日がつぶれたうえに面倒な手続きをしなければならなかったが。
 そして、リヴァイが気になっているのは夢とも現実ともつかないような空間で出逢った少年のことだった。彼はいったい何者だったのだろう。名前も年齢もどこに住んでいるのかも知らない少年をどうやって探し出せというのだろうか。しかも、期間はたった一週間だ。――いや、もう本日は火曜日だから猶予はもう一週間を切っている。
 しかも、平日は自分には仕事がある。どうやったって人を探す時間があるわけもない。
 無視してしまえばいい話だが、それも気になって出来ないのだ。どうするべきか、とリヴァイが取引先から会社へと戻る道すがら考え足を進めていたとき――。

「………!?」

 丁度リヴァイの反対側から歩いてきた少年を見て、リヴァイは固まった。漆黒の髪、大きな金色の瞳、おそらくは高校生くらいだと推察される少年――それを裏付けるように少年は制服姿だ。
 少年がすれ違っていく瞬間、リヴァイはその腕を掴んでいた。少年は驚いたように大きな金色の瞳を見開いて男を振り返った。

「エレン!」
「あ、はい。……えーと、どなたですか?」

 困惑した表情を浮かべる少年をしげしげと眺めてみる。確かにあの少年だ、と思う。だが、戸惑ったようにこちらを見つめる少年の瞳には見知らぬ人間への警戒が浮かんでいる。どう見てもこれは初対面の人間に対する態度だ。

「お前、エレンというのか?」
「は? そう言ったのはあんただろ? オレのこと知ってんじゃねぇのか?」

 リヴァイの言葉に明らかに相手は警戒を強めた。確かに名前を呼んでおいて、それを確かめてくるなんて不審としかいえない。リヴァイの方も何故少年の名前が口から出てきてしまったのか判らないのだ。だが、この少年の名はエレンなのだという確信がある。

(こいつの名前はエレン・イェーガー。そうだったはずだ)

 真っ直ぐで負けず嫌いで直情径行、誰にも屈しない頑強な精神の持ち主。かと思えば、素直で一度懐くと子犬みたいに無邪気な顔を見せてくる。――と、そう考えて、リヴァイはそう思った自分に戸惑った。自分はこの少年を知らないはずなのに、どうしてそんなことを思うのだろう。

「オレ、あんたのこと知らねぇし、人違いじゃ――」
「取りあえず、ここで立ち話もなんだから、どこか入るぞ」
「は?」

 初めて会ったといえる少年の性格のことを何故知っているのか判らない。が、この少年はあの少年に間違いないとリヴァイは思う。ならば逃がせるはずがない。
 リヴァイは戸惑う少年を引きずって、近くの飲食店へと足を向けたのだった。



「――と、そういうわけだ」

 落ち着いた雰囲気のカフェの席でリヴァイがこれまでのことを一通り説明すると、向かいに座っている少年は胡乱な眼差しを男に向けた。

「……それ、信じろって言うんですか?」

 名刺を渡し、免許証も提示してきちんと身分を証明してみせたからか、少年の言葉は丁寧なものに戻っていたが、二人の間に広がる空気はぎこちない。確かに自分の話を総て信じろと言われても頷けるものではないし、そう簡単に警戒が解けるはずもないだろう。

「まあ、普通は信じないだろうな。何なら俺の不死身伝説を知る人間を連れてきてもいいが」
「いえ、そこまでしなくていいです。問題はあなたが強運体質だということではなくて、あなたが会った人はオレじゃないってことです。どう思い返してみても初対面ですし」
「本当に覚えがないのか?」

 リヴァイの言葉に少年は戸惑ったように眼を泳がせた。

「――初めて会った気がしない、というのは確かです。でも、その事故のときに会ったのはオレじゃないですよ。オレにそんな超能力みたいなものはありませんし」

 確かに少年はごく普通の高校生に見える。リヴァイを助けたようなそんな力など持ってはいないだろう――いや、普通の人間なら誰だってそんな力など持ってはいまい。

(だが、無関係だとは思えない)

 リヴァイはやはりこの少年が彼なのだと思う。根拠も何もないが、自分が探していたのはこの少年なのだと、そういう想いが強くあふれてくるのだ。自分を見つけてくれ、と言ったあの少年。

(……会ってからどうなるかは聞いてなかったな)

 訊きたいことを訊く前に少年は消えてしまったから、問い詰めることが出来なかった。少年を見つけ出したら何とかなるかと思っていたので、この事態は想定していなかった。これから先どうすればいいと言うのだろう。少年の言っていた期間は一週間――それが終わった後に何かあるのだろうか。
 リヴァイはどうするべきか考えて、やがて結論を出した。

「よし、取りあえず、期間が終わるまでは俺と付き合ってもらおう」
「は?」
「お前が無関係だとは思えない。何があるか判らないし、終わるまではお前には傍にいてもらう」
「いやいやいや、何言ってるんですか」
「安心しろ。学校を休めとは言わない。その後、俺と過ごしてもらうだけだ。俺も仕事を早く切り上げるように調整する」
「何勝手に話を進めてるんですか! もしかして、リヴァイさんってそっちの人? オレ、悪いけど援交は無理――」

 少年が言い切る前にリヴァイの拳が落とされたのは言うまでもない。




「――思っていたよりもいいとこに住んでるんですね」
「一応、高給取りなんでな」
「さり気なく自慢ですか? 爆発してください」
「ここで爆発したらお前も巻き込まれると思うが?」
「じゃあ、オレが帰ったら一人でお願いします」
「却下だ」

 結局、少年とリヴァイは一週間の期限が終わるまで付き合う――勿論、恋人同士としての意味ではない――ことになった。胡散臭い話だと自分でも承知しているし、強引に進めてはみたが、少年が承諾する可能性は低いと思っていたので意外にあっさりと頷かれてリヴァイは拍子抜けした。お人好しなのか好奇心が強いのか、目つきの悪さから怖がられるリヴァイに対しても最初は警戒していたが、少年はそのうち打ち解けて怖がる様子は見せなかった。
 本日も少年の方からリヴァイの自宅に行きたいと言われ、こうして連れてきたわけだが、興味深そうに辺りを見回している。

「すごく綺麗にしてるんですね。やっぱり潔癖症だからですか?」
「俺は潔癖症じゃなくて、綺麗好きなだけだ。……と、お前にそんな話したか?」

 問われて、少年はきょとんとした顔になった。

「あれ? 聞いてたような聞いてないような……何か、当然そうだって思ってたんですけど」

 相手に対する奇妙な思い込み――こんなことは何度かあった。その思い込みががっちりと符合することもあれば、現実との齟齬が生じている場合もある。例えば、少年の家族についてだ。リヴァイは何故だか、少年の両親はもういないと思っていたが、二人とも健在らしく、縁起の悪いことを言わないでくださいよ、と窘められてしまった。そういう少年もリヴァイに身内はいないと思っていたようなので、お互い様だが。
 少年の両親は医師と看護師として病院に勤務しているとのことで、職業柄毎日忙しくてすれ違うことが多いらしい。それでも、言葉の端々から少年の家の家族仲の良さは伝わってくるし、両親も少年を信頼しているからこそ彼を自由にさせているのだろう。門限の厳しい家だったらこうしてリヴァイに付き合うことなど出来なかったのだから、その点では都合が良かったと言える。少年は特に寂しいと思ったことはないと笑っていて、その様子にリヴァイはひどく安堵したのを覚えている。

「まあ、取りあえず、判らないことはおいておいて、アルバムを見せてもらえませんか?」
「アルバム? あることはあるが…見ても面白くねぇぞ?」
「イヤ、人のアルバムに面白さは求めてませんし、確認したいだけですから」

 何でアルバムが見たいのか判らなかったが、リヴァイは少年の求め通りにアルバムを出してきて手渡した。一緒に飲み物を出してソファーに座ると、エレンが小さく笑った。

「何だ?」
「イヤ、リヴァイさんって独特の持ち方しますよね」

 そう言われてエレンが自分のカップの持ち方を見ていたらしいことに気付く。カップの上方を持つリヴァイ独特の持ち方はもう癖になっているので直しようがない。本人にその気もないというのもあるが。大抵はリヴァイのこの持ち方を見ると、驚いたり呆れたりするものだが、そういえばこの少年は初めて会ったときにこの持ち方を見たはずだが特に驚いたり嫌そうにしたりという反応はなかった。

「ああ、もう癖になってる。親は直させたかったらしいが」
「いいんじゃないですか、そのままで。……何でだろう。その持ち方見て何かホッとしました」
「ホッとした?」
「何でか判らないんですけど……リヴァイさんはどこまでいってもリヴァイさんなんだなーって。変、ですよね。数日前に会ったばかりなのに」

 エレンは戸惑ったような顔をした後、それを誤魔化すかのように受け取ったアルバムをパラパラとめくった。そうしてしばらく写真を眺めていたが、その手を止めて、リヴァイさん、全然笑ってないんですね、と呟いた。リヴァイのアルバムはめくってもめくっても不愛想な顔のリヴァイの写真しかない。いや、むしろ写真から睨まれているような気分になる。記念撮影や証明写真などは真面目な顔で撮るだろうが、何故プライベートな写真に笑顔で写っているものがないのだろうか。

「笑うどころか、ガン飛ばしてるように見えるんですけど……」
「おかしくもないのに笑えないだろう」
「じゃあ、いっそのこと変顔とかすれば面白いのに」
「お前、さっき、人のアルバムには面白さは求めないって言ってなかったか?」
「イヤ、だってある意味これ心霊写真より怖いですよ」
「誰が怨霊だ、おい」

 こめかみを引き攣らせるリヴァイに、エレンはアルバムを閉じて、うーん、やっぱり見覚えはないですね、と息を吐いた。

「初めて会った気がしなかったから、ひょっとして以前にどこかで会っていて忘れてるんじゃないかと思ったんですけど」

 どうやら、リヴァイの家に来たがったのはアルバムを見てそれを確認したかったかららしい。だが、やはり、過去に接点はないという結果に終わったようだ。

「まあ、まずそれはないな。お前は生まれも育ちもここが地元だろう? 俺がこっちに来たのは就職が決まってからだからな。お前の両親の実家の線もないようだし、可能性があるとしたら旅行先くらいだが、それも薄いだろうな」

 偶然旅先で出会って仲良くなって再会する――という話がないわけではないだろうが、自分達には旅先で知り合って仲良くなったという事実はない。すれ違っただけというなら有り得るかもしれないが、そんな人間のことをいちいち覚えてはいないだろう。

「……って、ことはやっぱり昔に会っていた線はないってことですよね」
「だろうな」

 リヴァイの相槌を受け、エレンはむうと眉間に皺を寄せた。

「やっぱり、そのオレもどきを捕まえて話を聞くのが一番だと思いますけど……リヴァイさんが車でまた突っ込むとか、どこかから飛び降りでもしたら現れるんじゃないんですか?」
「……お前、俺に死ねって言ってるのか?」

 低い声で言うリヴァイにエレンは冗談ですよ、と首を振って見せた。

「……まあ、一週間以内に見つけられなくても問題はないと思いますよ? リヴァイさんに危害を加えるとは思えないですから」
「どうしてそう思う?」

 リヴァイの言葉にエレンはうーん、と唸って、オレならそうするから、と答えた。

「わざわざ助けた人間を危険な目に遭わせるとは思えないし。それに見つけてくださいって言っただけで、見つけなかったら死ぬとか不幸になるとか言ったわけじゃないんでしょう?」
「確かにそれは言っていなかったな」
「なら、大丈夫ですよ」
「…………」

 確かにこの少年の言う通りなのだろうとリヴァイも思う。この少年は確かにあの少年なのだという奇妙な確信があるが、例え、別人だとしても自分に危害が加えられることはない気がする。何も起こらないのなら、エレンだって暇ではないのだろうし、このままつき合わさせるよりも解放してやるのが彼のためだろう。だが。

(……そうだな。見つけてくれって言われたからではない、俺が見つけたかったんだ)

 せめて、約束の一週間が終わるまではこの少年を手放したくない。
 黙り込んだリヴァイにエレンは笑って見せた。

「いいですよ、期限が終わるまでは付き合います。途中で降りたら気になって仕方なくなりますし。それに、リヴァイさんと過ごすの結構楽しいですから」

 本心からの言葉のようで、リヴァイもそれは俺もだ、と胸中で呟いた。一回りも年の離れた少年と接することなんてなかったリヴァイだが、少年といるのは思いの外心地好かった。

「そうか、なら良かった。……そうだな、付き合ってくれるご褒美に週末はお前の行きたい場所に連れて行ってやる。どこがいい?」

 リヴァイの申し出にエレンは瞳を瞬かせて、それから迷うことなく言葉を口にした。

「海。海が見たいです」
「海? 構わないが――もうシーズンじゃないぞ?」

 夏休みも終わり、朝は冷え込むようになったこの季節、海はもう泳げる水温ではないだろうし、海の家も当然閉まっているだろう。南の方――例えば海外なら泳げるところもあるだろうが、そこまで行く時間はない。

「あ、そうか、もう季節外れですよね。――でも、やっぱり海がいいです」

 どうしてそう思うのか判らないんですけど、とエレンは自分でも戸惑ったように続けた。

「リヴァイさんと一緒に海が見たいんです。見なければいけないような気がします」
「――判った。海を見に行こう」

 海に何があるのか判らないが、リヴァイは少年の望みを叶えてやることにし、週末は海へと出かけることが決定したのだった。




 誰かが笑っていた。大きな金色の瞳を輝かせて、自分へと笑顔を向けていた。

 ――いつか、壁の外へ出ることが出来たら、オレは世界を旅して回りたいんです。塩水で出来てるっていう海や、炎の水、氷の大地、砂の雪原……全部をこの眼で確かめてみたい。
 ――塩水か。塩商人が大喜びしそうだな。
 ――あ、それ、オレも言いました。

 そう言って屈託なく笑う。自分の夢を語る彼はとても楽しそうで、活き活きとしていて、そんな顔を見るのは自分も楽しかった。

 ――そうだな、全部終わったら、一緒に見に行くか。世界を見て回るのも悪くない。

 そう返した自分に少年は大きな瞳を更に大きく瞠らせて、それから嬉しそうに笑った。

 ――はい! 約束ですよ? 一緒に見に行きましょう!

 明日の生命の保証もされていない世界で交わした約束。きっと叶うことはないのだろう、とは判っていたけれど、それでも、そう伝えた言葉は紛れもない本心でそこに嘘はなかった。嬉しそうに笑ってくれた彼もそうであったのだろう。
 例え、それが叶わないとしても―――。


「…………」

 眼を開けたらそこには見慣れた天井があった。リヴァイは瞬きを何度か繰り返してから、緩慢な動作でベッドの上に身を起こした。ここは自宅マンションの寝室で、今は土曜日の朝だ、と自らの状況を確認する。

(夢を見ていたような……)

 うっすらとしか覚えていないが、誰かと海を見に行こうと約束していた。叶う可能性が低い未来だと判っていてもなお、叶えられたらいいと心から思っていた。――そうしたのはおそらく相手が大切だったからだ。胸に相手に対する甘い感情がまだ残っている。

(……エレンと海に行く約束をしたからか?)

 本日はエレンと海に行く約束をしている。折角だから、観光して一泊してから帰る予定だ――急な話だったから宿泊先を確保出来るか判らなかったが、観光シーズンとは少しずれたためか予約することが出来た。その話に触発されたのだろうか。今までに甘い関係――いわゆるお付き合いをした相手がいなかったわけではないが、一緒に海に行こうと約束した人物に心当たりはない。胸に残る甘い感情は恋人に向けるもののような気がするのだが。

(……取りあえず、支度をするか)

 余りのんびりしていては約束の時間に間に合わなくなってしまう。リヴァイは時間を厳守するタイプなので遅刻は厳禁だった。
 考えを振り払うように頭を振って、リヴァイは身支度を済ませるためにベッドから降りた。


 待ち合わせの場所に向かうと、エレンはもう来ていてリヴァイを待っていた。

「早いな」
「十分前行動は基本ですから。それより、良かったんですか、車で」

 車で行こうと話した時、エレンは運転が出来ないから――まだ免許の取得が出来る年齢ではないから当然なのだが――リヴァイが往復の運転をすることになるのを気にしていた。リヴァイとしては電車の方が面倒なので、行き帰りが自分の運転になっても構わない。

「電車より車の方が楽だ。それより、お前、親には何て言ってきたんだ?」

 正直に知り合って間もない男性と泊まりで出かけると話せば絶対に反対されるだろう。いくら両親がエレンの自主性を重んじて自由にさせているとしても、リヴァイの話は胡散臭いことこの上ない。それこそ援助交際なのかと疑われることだろう。

「あ、友達の家に泊まりに行くって言ってきました」
「……何だか、彼氏の家に泊まりに行く女子高生が使いそうないいわけだな」
「だって、本当のことは言えませんし。あ、そういう発想になるってことは、リヴァイさん、そういういいわけさせて女子高生を連れ込んでたり――」
「するわけないだろうが、クソガキ!」

 リヴァイの拳が落とされたのは言うまでもない。


 海が見たい、と言っていたのに、エレンは真っ直ぐに海には向かわなかった。訊ねれてみれば、海には帰る前に行きたいのだとリヴァイに話した。タイムリミットである明日――帰る前に海に行こうと。その提案に頷いたリヴァイにも何となく判っていた。海がこの奇妙な出来事の終わりの場所に違いないと。海に行けば総てが終わる――そんな気がしていた。
 エレンは何か吹っ切ったように楽しそうにはしゃいでいた。観光を楽しみ、地元名産の料理に舌鼓を打つ。リヴァイも同じように楽しんでいたが、不意にこれが終わったらこの少年とはもう終わりになってしまうんだろうか、と考えて胸が冷えたような気がした。最初からそういう約束であったはずなのに――このまま少年と別れたくないという気持ちが湧いてきてリヴァイは顔には出さずにひどく戸惑っていた。


 ホテルに入ったのは夜も遅い時間だったと思う。ツインの部屋になったのは料金のためではなくそこしか空きがないと言われたからだが、エレンは知り合って間もない人間が同室でも全く気にならないらしく、すぐに寝息を立てていた。ここまで無警戒だと心配になってくるが――それだけ信用されているのだと思えば何となくあたたかい気持ちになった。リヴァイも隣のベッドに横になり、明日の海に備えて早く就寝することにした。

 ――明け方。
 ふっと目が覚めたリヴァイは何気なく隣のベッドに視線を向けたが、そこに少年の姿はなかった。

(トイレにでもいったのか?)

 だが、室内にはそういった物音は響いてこないし、少年の気配はどこにも感じられなかった。

「エレン? トイレか?」

 気になって確かめてみるが、トイレにも浴室にも少年はいなかった。見ると、着ていた寝間着がきちんと畳まれてベッドの上に置いてあった。

(どこかに出かけたのか?)

 こんな早朝にどこに出かけたというのだろうか。何か予感めいたものを感じて、リヴァイは素早く着替え、少年の後を追った。


(――海だ。絶対にエレンは海にいる)

 奇妙な確信があった。エレンは海に向かったはずだと。交通機関はまだ動いてないかもしれないが、幸い、リヴァイ達が宿泊しているホテルから海は徒歩圏内にあった。海近くのホテルを探したのだから当然なのだが、ほどなくしてリヴァイも海へと辿り着いた。
 早朝の海に人影はなかった――たった一人を除いて。砂を踏みしめる音に気付いたのか、そのたった一人はリヴァイの方へと顔を向けた。

「エレン」

 丁度昇ってきた朝陽がキラキラと海を輝かせ、少年の顔も染めていく。少年は静かな顔でリヴァイを見つめ、うっすらと笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、見つけてくれて。何とか間に合いました」
「お前――」

 どうしたんだ、と声をかける前にそう言われてリヴァイは気付いた。目の前にいる少年は確かにエレンだ――だが、エレンではない。ここにいるのはエレンに相違ないが、おそらく今リヴァイに言葉をかけているのは「彼」だろう。あの、白い空間で自分を見つけてくれと言った不思議な少年――。
 穏やかな表情を浮かべ、再び海に視線を向けた少年は海、綺麗ですね、と呟いた。

「海をどうしても見たかったんです。一緒に見に行こうって約束したから――果たせなかった約束をどうしても最後に叶えておきたかった」
「それはどういう――」

 言いかけたリヴァイの胸元が急に熱くなった。こんなときに何だ、と舌打ちしながら胸元を探って、リヴァイは熱源の元を突き止めた。
 取り出したそれはリヴァイの掌の上で熱を放ちキラキラと輝いていた。――リヴァイが生まれたときから持っていたというあの小さな結晶体だ。

「もう、時間がないんです――兵長。それにこめた力がもうなくなってしまうから。もう守り続けることが出来ません」

 少年の言葉に合わせるように結晶体にひびが入っていく。亀裂はすぐに広がり、やがて結晶体は砕け、眩しい光を放ちながら辺りに飛び散った――。




 キラリ、キラキラ。そんな言葉が似合うように辺りは光っていた。飛び散った小さなかけらが粒子となって舞うのはあの何もない真っ白な空間。

「ここは――」
「兵長、もう時間です。お別れを言いに来ました」

 見ると、あの少年が静かに立っていた。先程海辺で見たエレンの格好とは違い、初めて会ったときと同じあの奇妙な格好をしている。あのときと同じように右手を胸に当てて何かの礼のような仕種をする少年をリヴァイは見つめた。

「――お前は何者なんだ」
「エレン・イェーガー……いえ、かつてエレン・イェーガーだったものの欠片。あなたが持っていた結晶体に遺された想いです」

 そう言って少年は周りの粒子に手を伸ばし、名残惜しむようにそれらが舞うのを見つめた。

「エレン・イェーガーは死の間際に自分の力を振り絞ってあなたにこれを遺した。あなたを守ってくれるように最後の力を注ぎ込んで結晶体を作った。――まさか、あなたが生まれ変わってもこれを持ってきてくれるとは思いませんでした。けど、もうこの結晶体の力は尽きます。だから、どうしても海に行きたかった。オレはエレン・イェーガーの想いそのものだから」
「エレンは……お前なのか?」
「同じであって同じではないものです。彼はエレン・イェーガーと同じ魂を持つものですが、同一人物ではない。本人でもあり別人でもあります」

 生まれ変わり――そう少年は言いたいのだろう。俄かには信じ難い話だが、この少年の存在そのものがすでに信じられないものなのだから、ここはその言葉を疑うべきではないだろう。この数日、ともに過ごしてきたエレンには前世の記憶などないようだったから、例え、同じ魂を持っているとはいえ確かに同一人物とは言えないのかもしれない。いや、例えあったとしても、今の人生を歩んできたエレンは以前とは同じとは言えないだろう。

「ありがとうございました。最後に一緒に海が見られて良かった」

 そう微笑む少年の身体もキラキラと輝きながら薄れていく。リヴァイは咄嗟に少年の手を掴んだが、少年が消えゆくのを止める術など持っていなかった。

「お前、これは――」
「オレは結晶体に遺された想いだから。本体が力を失くして砕け散ったら、一緒に消えるしかないんです。もう少し、一緒にいたかったけど――お別れです」

 キラリ、キラキラ。辺りは一層輝きを増し、それと比例して、少年はどんどん消えていく。しっかりと掴みたいのにリヴァイにはそれも出来ない。

「駄目だ……消えるな、エレン! 約束しただろうが!」

 ばちん、と何かがリヴァイの中で弾けた。

「塩水で出来ている海も、炎の水も、氷の大地も、砂の雪原も一緒に見に行くんだろうが! 勝手に逝くな!」

 リヴァイの言葉に少年は顔を歪め、泣き笑いの表情を作った。

「ずるいなあ、兵長。同じことを言うなんて反則ですよ?」

 キラリ、キラキラ。少年の眦から頬に流れた雫が粒子とともに光った。掬い取ろうとしてもそれはすぐに消えてしまう。

「大丈夫です、兵長。オレは彼の中にいるから。オレはどこまでもオレだから」

 キラリ、キラキラ。辺りは白く染まり、やがて何も見えなくなった――。




 ざくざくと足元で音が鳴る。そろそろここを離れなければ、いけない時間だというのに、どうしてもここから離れがたかった。ここ――人の気配のない海辺は、まるで世界に二人だけになった気分にさせるがそうではないことは充分に判っている。少し歩けば大きな道路に出るし、車もたくさん走っているだろう。すぐそこには現実の世界がある。

「エレン」

 リヴァイが傍らに立つ少年に呼びかけると、少年は男の方を向いた。大きな金色の瞳にリヴァイの姿が映っている。

「約束は今日までだが、これからも俺と――」
「リヴァイさん」

 言葉を遮るようにエレンは男の名を呼んだ。

「それは、兵長としての言葉ですか? それともリヴァイさんの言葉ですか?」

 そう言って、エレンは困ったように笑った。

「判らないでしょう? オレにも判らないんです。あなたに向けるこの感情が彼がもたらしたものなのか、それとも自分で想っているものなのか。リヴァイさんが言葉をかけたいのは彼ですか? それともオレですか?」

 あの、キラキラとした不思議な空間が消えた後、二人には前世の記憶が戻っていた。力を持っていたという結晶体が記憶を揺り起したのか、それとも出逢いともに過ごすことで蘇ったのか、何が原因なのかは定かではないが、二人がかつて恋人同士であったことはすでに判明している。命の保証もない世界で二人は出逢い、ともに戦い、そして愛し合った。――エレンが戦いでリヴァイよりも先に命を落とすまで。

「そうだな、俺にも判らない」

 この感情がどこから来るものなのか。リヴァイが兵士長と呼ばれていて、部下であるエレンをかつて愛していたのは事実だ。その影響がないのかと問われればないとは言い切れないだろう。だが。

「判らないが、俺はお前に傍にいて欲しいと思う」

 この少年を愛おしいと想うのはリヴァイの本心だ。エレンはエレンで、リヴァイはリヴァイだ。自分の感情はこの少年を欲している。

「なあ、エレン、俺と付き合え。期限は一週間でいい」

 リヴァイの言葉にエレンはきょとんとした顔をした。

「一週間ですか?」
「ああ、で、一週間後にまた俺と付き合うつもりがあるか訊く。いいと思えたらまた一週間付き合え」
「……更新制ですか。そんなの聞いたことありませんよ?」
「ああ、俺もないな」
「……一週間後には嫌だって言うかもしれませんよ?」
「安心しろ。言わせるつもりはない」

 断言する男に少年は眼を瞬かせた後、それから泣き笑いのような表情を見せた。

「……仕方ないから、付き合ってあげます」
「ああ」

 一週間、そしてまた一週間。それが続いていけばいい。ずっとずっと続いていけば、やがてそれは一生になる。
 一週間、恋をしよう。それを続けよう――大丈夫だ、生まれ変わっても手放さなかったくらいなのだから。
 名残惜しむように海を眺めながら、リヴァイは傍らの少年の手を握った。躊躇いがちに握り返されたそのぬくもりを決して手放さずにいようと決意しながら、ただ静かな海を二人で見つめ続けた。





 ああ、もう終わりだな、と少年は思った。この傷ではもう助からない。
 やれるだけはやった。悔いはない。勝利は目に見えている。後は仲間たちが必ず叶えてくれるだろう。

(約束……果たせなかったな)

 自分の一番大切な人と交わした約束。それを叶えられずに逝くことは苦しいけれど。
 あの人に何か遺せるものはないだろうか――そう考えた少年は命の火が消える前に力を振り絞るようにして小さな結晶体を作った。きっと、これはあの人の役に立ってくれる。

「エレン! 塩水で出来ている海も、炎の水も、氷の大地も、砂の雪原も一緒に見に行くんだろうが! 勝手に逝くな!」

 沈んでいく意識の底に、そんな声が届いた気がした。握ってくれた手に作り出した結晶体を差し出したつもりだったけれど、受け取ってくれただろうか。もう感覚がなくてはっきりと判らない。
 髪を撫ぜられて頬に触れられた気がした――自分に触れるあの人の手はいつだって優しくて心地好かったけれど、もう感じることが出来ない。

(大丈夫……オレはオレだから)

 きっといつか生まれ変わってでも絶対にあの人の傍に行くから。きっと自分は何度だってあの人に恋をする。
 何度でも、何度でも、あの人に恋をしよう――。





《完》





2014.10.24up




 思いついたから書いてみよう作品。きっと、この後二人は正式に付き合うことになるのだと思います。転生ものを書いててよく思うのは、生まれ変わった後、容姿も性格もそっくり同じって不自然じゃないのかなーということです。記憶が残っていれば性格は同じは有り得ると思うのですが、容姿は……。でも、容姿変えたら別人になりますし(汗)。その辺はスルーでお願いします。



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