夜に咲く花




 ゆらゆらと水の中を揺蕩いながら、少年は水面に浮かぶ画像をただ眺めていた。不思議なことに水は冷たさを感じさせず、母親の胎内で羊水に包まれていた頃はこんな感じだったのではないか、と少年は思った。眼を見開いてみても、そこに映るのは歪んだ像だけ。揺らめく水を通してのそれは正確な形を作ってはくれない。判っているのはそれが人だということ。そして、その人を自分がとても大事に思っていたということ。

 ――お前は何を望む?

 頭の中にそんな声が響いた。自分の口がそれに対するように動いたが、何と答えたのか不思議なことにまるで聞こえなかった――。




「エレン、眠そうだね」

 待ち合わせの場所にエレンが辿り着くと、幼馴染みがそう笑って出迎えてくれた。ほら、寝癖ついてる、と跳ねた髪を突いてきたので、少年は仕方ねぇだろ、寝過ごしちまって直してる時間なかったんだから、と頬を膨らませた。
 エレンは自宅付近にある学校に通っている高校生だ。幼馴染みの少年――アルミンとは腐れ縁とでも言うべきか、小・中・高と学校が一緒で家も近所のため、どちらからともなく一緒に通学し始め、それが高校生となった今現在でも続いている。少年は穏やかでいて、芯のしっかりしたこの幼馴染みが好きであったし、一緒にいて心地好かったが、時折急にすごく年上になったように自分を子供扱いしてからかうことがあったので、そこに関してだけは頂けなかった。

「何か夢見が悪かったいうか、変な夢見て目が覚めて、それから寝られなかったんだよな。で、朝方うとうとしてたらうっかり寝過してさ、母さんに怒られた」
「どんな夢だったの?」
「それがよく覚えてねぇんだよな。何か言ってたけど――あ、そうだ。訊かれたんだ。何を望むかって」

 エレンがそう言った途端、ぴたり、と幼馴染みの動きが止まった。

「アルミン?」
「そっか……じゃあ、近いうちに出会うか……」

 何やら幼馴染みは呟いたのだが、エレンには聞こえず、何だ?と彼に訊き返した。

「いや、エレンは何て答えたのかなーって思って」
「それが覚えてないんだよな。何て言ったのか」
「エレンなら次のテストで良い点取れますように、が良かったんじゃないの?」

 アルミンがくすくすと笑いながらそう言うと、少年はむうと唇を尖らせた。

「言うなよ、この間の点数悪くて母さんに怒られたんだから」
「エレンは理数は得意なのにね。文系は全くダメだろ」
「だって、そのとき主人公がどう思ってたのかなんて、本人にしか判らないだろ。作者が何を伝えたかったのかだって、それ作者に訊いたのかよ、って感じだし」
「いやいや、それ言っちゃったら、おしまいだから。それに、エレンはもうちょっと――特に女の子の気持ちは考えた方がいいよ。この前もクラスの女子に怒られてただろ? イェーガーはデリカシーがないって」

 痛いところを突かれてエレンはううっと詰まった。つい、思ったことをぽろっと言ってしまう癖が少年にはあって、それで喧嘩になったり怒られたりしているので、自分でも気をつけようと思ってはいるのだが、中々上手くいかなかった。

「あー、そういや、望みで思い出した。昔、お前が言ってただろ、三人の願いの話」

 話題を変えたくて言った少年は、そういや、気になってたんだよなーと続けた。何のお伽話だったのかは知らないが、昔少年に幼馴染みがこんな話知ってる?と訊ねてきたことがあった。聞いたことがあるような、ないような――昔話などは似た系統のものも多いので、記憶がごっちゃになりがちなのだ――そんな話だったのだが。
 昔々、巨大な化け物と人々は戦っていた。その化け物は人を襲っては食い殺していたので、人々はその化け物に恐怖し、必死に退治しようとしていたのだ。色々な道具を作り、人を集めて数で対抗していた。そんなとき、若者が三人、その化け物との戦いで瀕死になる程の怪我を負った。そして、生死を彷徨う彼らの前に何と神が現れ、願いを一つだけ叶えてやろう、その代わりに一つ大事なものをもらう、と告げたのだ。
 彼らはその神との取引を受け入れ、世界に平和をもたらした。自分の大事なものと引き換えに――。

「……って、感じだったのに、肝心な願いと失ったもの、お前覚えていないんだもんな。というか、神だっていうなら、お前が化け物どうにかしろって感じだけど」

 まあ、昔話には突っ込みたくなるもの多いし、元は残酷なの多いっていうけど、と少年は続けたが、幼馴染みは複雑そうな笑みをただ浮かべるだけだった。

「……あれが神だったかなんて判らないんだけどね。むしろ、結果を考えたら悪魔だったんじゃないかな……」

「アルミン?」

 何かを考えこんでいるようなアルミンにエレンが不思議そうな顔をして足を止めていると、そこを通りがかった少年に声をかけられた。

「エレン、何やってんだ? 遅刻するぞ」

 声をかけてきたのは同じ高校の同級生で、エレンは慌てて隣にいたアルミンに急ぐぞと告げた。

「あれ? アルミンもいたのか。気付かなかったな」
「隣にいたぞ? 何言ってんだよ」
「ほら、とにかく、急ぐよ。今からでも急げば間に合うから」

 不思議そうな顔をする同級生と自分を急かす幼馴染みに、腑に落ちないながらもエレンは学校への道を急いだのだった。





 ――放課後、図書館に寄りたいから、と言ってアルミンはエレンと別れた。静かな館内に普通に入っていったのにも拘らず、誰もアルミンに注意を払わなかった。本を読むのに集中しているから周りの気配に気付かない、というわけではなく――誰もアルミンを気に留めないのだ。無断で大量の本を抱えてここを出たとしても受付はあっさりとスルーするだろう。今朝の同級生のときと同じように、そこにいるのにその存在を認識されないのはいつものことだったので、もうアルミンは諦めている。

(エレンがいればマシなんだけどな)

 だが、この場に彼がいては困るし、別に本を借りるためにここに来たわけではないから問題はない。
 窓際の一角に座って、しばらく待っていると、目的の人物が現れた。

「お久し振りですね、リヴァイ兵長」
「久し振りだな、アルミン・アルレルト」

 全くの無表情で話す男に、立ち話もなんですから座ってくださいとアルミンは席を勧めた。
 整ってはいるが目つきの悪さで損をしている顔と、不遜に感じられる態度は、昔に出会った彼を思い浮かべて比較してみても、現在の彼と変わってはいないように見えた。だが、その表情は一番最初に出会ったとき――彼がリヴァイ兵士長と呼ばれていた頃よりも乏しく、血の通った人間とは思えない、精密に作られたアンドロイドのような印象を与えていた。
 ああ、やっぱり彼も抜け出せなかったんだな、と少年は思った。それを知ってはいたが、目の前に突き付けられると溜息を吐きたい気分になる。

「俺のことがどうして判った――とは言わない。『総てを見通す眼』はまだ有効か」
「ええ。その代わりによく忘れ去られますけど。さすがに家族は僕のことを忘れないのでまだ助かってますが、周りからは影が薄すぎる人認定されてますよ。あなたは?」
「変わらない。母親が育児ノイローゼになる前に装う癖は作ったが、お前相手では要らねぇだろ」
「……あの日から、変わらないんですね。僕もあなたも」

 ――あの日、何が起こったのか、本当のところはアルミンには判らない。今では巨人と戦っていたことの方が夢に思えるぐらいなのだが――巨人の襲撃を受け、瀕死の重傷となった自分にどこからか声が聞こえてきたのだ。実際にはそれは音ではなく、直接頭に響いてくるような不思議な声であった。
 ――お前は何を望む。お前の大事なものと引き換えに一つだけ叶えてやろう。
 その声が何だったのか、どういう存在だったのかは今でも判らない。神か悪魔か――だが、瀕死の重傷だったアルミンはその声に応じた。まだやり残したことがあったから、このまま死ぬのは嫌だったのだ。そのときに彼が咄嗟に願ったのは『この先に起こる出来事の総てを見通せる眼が欲しい』だった。
 自分は腕力も体力も人並みしかないけれど、幸いにして作戦を立てる頭があった。これから先、敵の動きや、襲撃のタイミング、それらが判っていればもっと上手くやれるはずだと思った。大事な人達を――大切な幼馴染みを助けられるはずだと。
 その後、眼を覚ましたアルミンの怪我は夢だったかのように消え失せていて、頭でも打って変な幻覚でも見ていたのかと思ったくらいだったが、確かに自分には『総てを見通す眼』が与えられていた。アルミンは念じればこれから起こりうる総ての出来事を知ることが出来た。勿論、これから先に起こることが判っていても、起こした行動によってその先は変わり、予想外のことやずれはあったが、この能力は大いに役に立った。情報を得ていれば、効果的な作戦を立案するのは容易く、アルミンはこの能力のおかげで巨人を殲滅するための作戦参謀として調査兵団で大活躍した。
 だが、代わりに失ったものが一つ――それは、周りの総ての人からの自分に関する記憶が消されてしまっていたことだ。幸いにして書類や記録は残っていたから、身元を怪しまれることはなかったが、幼馴染みの少女も、同期の仲間も、信頼していた上官も自分のことを欠片も覚えていなかったのだ。共有していた記憶は総てが書きかえられてアルミンという個人の想い出はどこにも残っていなかった。

「エレンは?」
「変わりません。昔のことは覚えてないし、能力もありません」

 更に衝撃だったのは、あの戦場で願いを叶えたのは自分だけではなかったことだ。後二人、瀕死の状態に陥り、呼びかけに応え願ったものがいた。彼らだけはアルミンのことを忘れていなかったので、そのことはすぐに知れた。
 その一人である、エレンの願いは力だった。巨人を駆逐する力。もっと強大で巨人を一匹残らずこの世界から駆逐出来る力――そして、それの代償に彼はある人物に関する記憶だけを綺麗さっぱり失っていた。――そう。
 彼の恋人であった――リヴァイの存在だけを。
 その後、巨人は駆逐され、世界は平和を取り戻したが、そのときにエレンは力尽きたかのように命を落とした。話はそこで終わり、のように見えたのだが。

(まさか、転生するなんて思わなかったな)

 今現在暮らしているこの世界があの世界の時間軸の先にあるものなのか、それとも平行世界――世界軸そのものが違うのかアルミンには判らない。歴史書を読んでも巨人の記録は残されていないし、壁があったとも記されていない。だからといって、過去にあの戦いがなかったという証明にはならないので判断は難しい。
 判っているのはこれが四度目の転生で、記憶と能力をアルミンは受け継いでいるということだけだ。そして、その代償というように周りからその存在を認識されないことが多い。完全な消去ではなく、話しかければ「ああ、いたっけ」と返ってくる非常に存在感のない人物認定だからまだマシだが。
 アルミンは生まれ変わる度に昔の知り合いを探したが、探し出すことは出来なかった。転生していないのか、タイミングが合っていないだけなのかそれも判らなかったけれど、毎回、転生の度にエレンだけは見つけ出せた。彼は前世の記憶も全く持ち合わせておらず、けれど、アルミンのことを忘れない貴重な存在であった。そして、後、もう一人だけ。

「お前が、俺を呼び出すとは思わなかったな」
「ええ、前回散々邪魔しましたからね。――あなたとエレンが出会うのを」

 一度目の転生のときは邪魔しなかった。彼らが前世と同じように惹かれあうなら仕方ないと思っていたからだ。思った通りにエレンに記憶がないのにも拘らず、二人は出会い恋に落ち、その後、エレンはまだ成人前に非業の死を遂げた。二回目の転生のときも全く同じだった。
 二人が出会えばきっとまたエレンは不幸な死を遂げる――そう感じたアルミンは三度目は徹底的に二人が出会うのを邪魔した。原因は判らないが、エレンが男と出会うときの予兆として、彼は願い事の記憶を夢に見るので、それが目安となった。アルミンは自分の総てを見通す眼の能力を用いて、二人の出会いの可能性を悉く潰していった。だが、その能力を以ってしても止めることは出来ず、結局はまた同じように二人は出会ってしまい、エレンは若くして死ぬ――それの繰り返しになっただけだった。

「考えてみたんです。何で、僕達は記憶を持ち、能力も持っているのに、エレンにはそれがないのか。それは、一番最初のスタート地点である、あの壁のある世界で彼が満足して亡くなったからではないか、と」

 エレンの目的は総ての巨人を駆逐すること――そして、彼の大事な人達を守ること。彼は戦いの果てに亡くなったが、彼の愛する人達は概ね生き残った。だから、悔いなく逝くことが出来たのではないかと推察出来る。

「でも、僕達はそれに納得がいかなかった。だって、僕らは彼に幸せになって欲しかったから。例え、力を手に入れてもエレンが死んでしまったのでは意味がない」

 だから、転生した。彼に幸せになってもらうために。だが、いつも彼は若くして死んでしまい、それに納得のいかない自分達はまた新たな転生を繰り返す。

「この繰り返しを止めるのは、エレンが幸せになって長生きして寿命を全うするのを見届けるしかないんじゃないかと。あなたとエレンが会うのは止められないから、これからは出来るだけ彼に起こる災厄を取り除くのに協力してもらいます」
「俺は構わないが――お前はいいのか?」
「ええ――少し疲れたんです。この繰り返しを終わりにしたい」
「俺は別にいいが」
「――――」
「何度繰り返そうとも見つけるし、あいつは俺を選ぶ」
「……ええ、判っていますよ」

 笑う男に、アルミンは溜息を吐いて連絡先や今後のことを話し合った。

「…………」

 去っていく男を見送って、アルミンは溜息を吐いた。きっと、この後男と少年は出会って恋に落ちるのだろう。それを止められないのは判っていた。
 何故なら、男が大切なものと引き換えに願ったのは。
 ――どんな場所、どんな状況にあっても、必ずエレンを見つけ出して共に在ること。
 その代償として彼は一切の感情を失った。誰が死んでも、何を失くしても彼が涙することはないし、どんなに素晴らしいものを手に入れたとしても喜ぶことはない。
 彼の感情が動くのはエレンに関することだけだ。たった一人の少年にだけ彼の感情は向けられている。彼の前でなら自然に笑い、喜び、怒り、きっと涙するのだろう。
 何と言う執着だろう、とアルミンは思う。世界よりも何よりも自分よりも彼はエレンを選んだ。彼と共に在ることだけを願った男は何があっても少年を見つけ出す。

(僕とは違う)

 自分の想いは例えるなら夜に咲く花のように静かに咲かせたものだ。誰に愛でられるわけでもなく、ただひっそりと花開いたそれと同じ。
 アルミンは溜息を吐いて、自分も帰宅するために歩き出した。




「ア、アルミン、聞いて欲しいことがあるんだけど――」

 頬を真っ赤に染めて少年が話し出したので、ああ、出会ったのだな、とアルミンは思った。彼の瞳は完全に恋をするものの瞳だ――決して自分には向けられないそれを何度も見てきたので、彼らが恋人同士になるのは近いだろう。
 男との出会いをはにかみながら話す少年にアルミンは相槌を打ちながら、ひっそりと咲いた想いなら人知れず枯らせてしまえばいい、と心の中で呟いた。
 けれど、確かにひっそりと咲いた花はあったのだ。
 ――それが咲くことが二度とないとしても。





≪完≫



2013.11.14up




 ワールズエンドの転生バージョンのような話です。またしてもアルミンが不幸に……。薄暗い話ですが、思いついたので書きたくなったのです。



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