どうしてこういう事態になったのだろう、とエレンは必死に考えた。だが、何を考えたところでこうなるに至った理由など判らないし、考えるだけ無駄な気がしてきた。ただ判っているのは、膝にかかる重みと、自分の膝に頭を預けて瞳を閉じる男の存在だけだった。





子守歌





 切っ掛けというか、ことの始まりはハンジの言葉からだった。

「ねえ、エレン、退屈じゃない?」
「は? 退屈ですか?」

 怪訝そうな声を上げるエレンにハンジはそうそうと頷きながらエレンに再度退屈じゃない?と問いかけてきた。
 エレンは言葉に窮した。ここで、うっかり退屈です、なんて答えたら最後、じゃあ、私が最高に滾る巨人の実験の詳細を聞かせてあげるよ、などと言い出しかねない。ここ、旧調査兵団本部の古城に来た早々に現れたハンジに巨人の生態についての講釈を延々と語られたことはまだ記憶に新しい。確かに詳しく聞かせてくれと言ったのは自分ではあったが、気がつけば夜が明けていたあの日のことはトラウマとしてエレンの心に残っている。
 ここは、退屈ではありません、と答えなければ――だが、エレンの回答を聞く前にハンジは更に言葉を続けた。

「だって、君、ここに来てからまともに外に出たことないでしょう。いっつも仏頂面の男につけ回されてるし。息抜きに外に出てみたくない?」
「え……?」

 ハンジの言葉にエレンは大きな金色の瞳を見開いた。確かにここに来てからは自分は監視対象とされ、一人で行動するという自由は許されていない。大抵はリヴァイの監視の下――彼が会議などで傍にいない場合は主にリヴァイ班の誰かとともに行動していた。

「あの…自分の権限は自分にはないので、勝手に外に出たりするのは……」

 確かに魅力的な話ではあるが、気晴らしに外に出かけて帰ってきた後のことがエレンには怖い。躾、と称されて痛めつけられたことがまざまざと脳裏に甦ってくる。あれは必要な演出だったと理解してはいるが、頭では理解出来ていても身体の方は簡単に納得してはくれず、ここに来た当初はリヴァイに近寄られる度にビクビクしていたものだ。――今では事情が少し違うのだけれど。

「ああ、ごめんごめん。説明が足りなかったね。勝手な外出じゃなくて、仕事なんだよ。必要な物資を街まで買いに行って欲しいんだ。ちょっと、今、人手が割けなくて――エレンなら気晴らしになってちょうどいいんじゃないかと思ってさ」
「オイ、勝手な話をしてんじゃねぇぞ、クソメガネ」

 いつの間にやって来たのか、現れた人類最強にエレンは飛び上がらんばかりに驚き、対するハンジはにこにこといつもと変わらない笑みを浮かべていた。ちょうど良かったよ、などとこめかみに青筋を立てているリヴァイの様子を気にせずに声をかける空気の読めなさは健在だ。

「だから、リヴァイも一緒に行けばいいよ。結構荷があるし、後、二、三人くらい連れてってね」

 これで私も安心して実験に励めるよ、とすっきりした笑顔をハンジは見せた。
 勝手に話を進めるハンジにリヴァイの強烈な蹴りが炸裂するのは数秒後―――。





 が、結局エレン達は街に買い出しに行くこととなった。実は今回の荷は早急に入手したいものらしく、手の空いている班の人手が欲しかったのだそうだ。そんなものは補給班の仕事だろう、と切り捨てるリヴァイに、ハンジはどうやら、補給班は補給班でトラブルがあったらしく、今人手が割けない状態にあるのだ、と告げた。
 今回の遠征計画は急な変更が多いからね、と呟くハンジにリヴァイは舌打ちしながらも了承の意を伝えたのだった。

「俺は認めんぞ、お前ごとき新兵が兵長と二人きりで行動するなど…」
「オルオ、馬上でぺらぺらしゃべるとまた舌噛むよ。……いっそ噛み切ればいいのに」
「戦友に対する冗談にしては笑えないな…ペトラ」

 リヴァイがエレンの他に連れていくことにしたのはペトラとオルオだった。元々注文してあった荷の確認や買い出しの量が思っていたよりも多かったこともあり、二手に分かれて効率よく回ろうという話になったのだが、当然のように組み分けられたリヴァイとエレン、ペトラとオルオの編成に例によってオルオの文句が飛び出したのである。ペトラの冷たい一瞥により黙らざるをえなくなったオルオを引き摺るようにして、ペトラはにっこりと笑うと、ではまた後でと荷を受け取りに歩き出した。……引き摺られているオルオのことは見なかったことにしようとエレンは決めた。

「ほら、ぼさっとしてんじゃねぇ。馬を繋いだら俺達も行くぞ」
「あ、はい、失礼しました!」

 慌ててリヴァイの後を追うエレンに何かに気付いたのか、リヴァイの手がすうっと伸びた。

「…………!?」
「フードをもっと深く被れ、お前の顔を知っている奴がいるかもしれないからな。面倒を起こされては困る」

 そう言ってフードを深く被り直させる男の手つきはひどく優しい。エレンは先程から物凄い勢いで早鐘を打ち出す心臓を何とか宥めることに精いっぱいで、男の手が離れる際にふわりと頬を撫でていったことに気付かなかった。

「行くぞ、早くしろ」
「はい、兵長」

 エレンは平常心平常心、と自分に言い聞かせながらリヴァイの後に続く。

(潔癖な人だって聞いてたのに)

 いや、実際にリヴァイは綺麗好きだし、完璧な清掃を周りに求める。遠征中は仕方ないにしても普段身につけている衣類も清潔にしていると思う。なのに―――。

(近いっていうか、人に触るのが平気っていうか…)

 普通潔癖症の人は人に触るのも触られるのも嫌なのではないだろうか。なのに、リヴァイはあっさりとエレンのパーソナルスペース内に入ってくるし、何気に触れ合うことも多い。更に困ったことにそうされても別にエレンは嫌ではないのだ。
 自分のリヴァイに対する気持ちが何なのかエレンにはよく判らない。最初はただただ憧れていたんだと思う――調査兵団の人類最強の兵長に。それから助けられ、審議所で暴行を受け、意外な一面を知り、様々な面を見せられることとなった。
 こんなに近くに行かなければ圧倒的な強さも、粗暴な一面も、潔癖なところも、判りにくいだけで本当は部下思いなことも、意外に面倒見がいいことも知らなかっただろう。

(リヴァイ兵長はいったい何を考えているんだろう)

 少しでも知りたいと思うそれを何と呼ぶのかエレンは知らない。
 こっそりと出したくなった溜息を飲み下してエレンは足を速めた。



「ああ? 荷がまだ届いてねぇだと?」

 言葉の総てに濁点がついていそうなドスの利いた声でリヴァイが訊ねると、相手は震えあがり情けない声で事情を説明した。

「すみません、こちらに運ぶ際に馬車の車輪が外れる事故がありまして、車輪の交換に思いの外手間取ったらしく、到着するのにあと、一、二時間はかかるという話で……」

 リヴァイは盛大に舌打ちしたが、ここで騒いだところで荷が現れるはずもない。癪だが到着を待つしかないだろう。

「兵長、どうしますか?」
「どうもこうも待つしかねぇだろ。一日かかるっていうなら出直すが、一、二時間なら本部に戻る方が手間だ」

 そう言った後、リヴァイは少し思案した表情を浮かべるとペトラとオルオの二人に先に帰るように指示を出した。


「あの…良かったんですか?」
「ただ、何もせずに待ってるなんざ時間の無駄だろうが。あいつらには他の荷を持ち帰らせて、早く別の仕事をさせた方が効率がいい」

 遠慮がちに訊ねてきたエレンにリヴァイが二人を帰らせた理由を説明する。その答えにエレンは首を横に振った。

「あの、そのことではなくて――オレも一緒に帰った方が良かったのでは、と思いまして」

 この荷の確認作業はリヴァイがしなくてはならない――ハンジがリヴァイを巻き込んだのも、この荷の受け取りには班長以上の兵士の確認が必要だったかららしい。なので、リヴァイが残るのは必然としてもエレンまで残る意味はないと思うのだ。他の荷の受け取りは全部済んでいるし、エレンに監視が必要だといっても、リヴァイがいないときは他の班員がその代理となっていたし、特にそれが問題視されたこともない。自分一人では大した役には立たないかもしれないが、ここに残ってもやることがない以上、リヴァイの言う通りに効率が悪いだろう。

「……息抜きがしたかったんだろ」
「は?」

 思わず間の抜けた声を上げるエレンにリヴァイは眉を寄せた。

「ストレス溜めこんで巨人化されても困るからな。――ほら、街を見て回りたかったんだろ、行くぞ」

 時間つぶしに見て回るぞ、と歩き出したリヴァイに慌ててエレンも歩き出す。

「…………」

 じわじわと嬉しさが胸に広がっていく。こんな風に思いがけない優しさに触れる度にエレンは何か叫び出したくなるような、心許ない何とも言えない気持ちを味わう。ふわふわとした落ち着かない気持ちとぽかぽかと温かくなるようなそんな気持ち。
 何だか大事にされているようで――いやいや、思いあがってはいけないと自分を諌める。
 思っていた以上に活気のある街を歩き、ふと、エレンは足を止めた。

「兵長、あの建物はなんですか?」

 エレンが示した建物に一瞬間をおいて、リヴァイは孤児院だ、と簡潔に答えた。

「孤児院…ですか?」
「そうだ、見たことないのか?」

 エレンは頷いてから、リヴァイが疑問に思っていることに気付き、苦笑を浮かべて更に続けた。

「シガンシナには孤児院はなかったんです。壁が壊されてからオレがいたのは孤児院ではなく、収容施設みたいなとこで、大人も子供もいましたから……純粋な孤児院は初めて見ます」

 そうか、と頷く男に余計な気を使わせてしまったか、と困ったように眉尻を下げるエレンの耳に大きな声が響いた。

「あー、兵士さんだー!」
「あー本当だ!」

 気付けば、わらわらと数人の子供がエレン達の方を目指し、孤児院から駆け寄ってくる。
 エレンは戸惑った。エレンは駐屯兵団でも憲兵団でもなく、調査兵団の一員だ。勿論、調査兵団に憧れる子供も中にはいるだろうが、こんな風に親しみを持って駆け寄ってこられるような存在ではない。調査兵団と聞けば嫌がる大人だっているだろうし、子供がその影響を受けている場合も多い。五年前のウォール・マリア陥落からはまた事情が変わっているだろうが、この状況はいったい何なのだろう。

「ほら、困っているでしょう、皆、駄目よ」

 子供達に囲まれて困っているエレンを見かねたのか、孤児院の職員であろうか中年代くらいの女性が窘めるように子供達に声をかけた。

「すみません、この子達は知り合いの兵士さんにとてもよくしていて頂いていて…それでつい兵士さんを見ると声をかけてしまって……」

 中には気の荒い人や任務中の急いでいる人もいるだろうに、と、女性は溜息を吐いた。
 どうやら、この子供達には兵士の格好をした人イコール自分達に構ってくれる人という刷り込みがあるらしい。

「知り合いの兵士さんって…調査兵団の人なんですか?」
「いえ、駐屯兵団の方なんですが、とてもよくしてくださって……」

 女性が説明する間にも子供のはしゃいだ声は止まらない。

「ハンネスさんはお友達なんだよー」
「この前も遊んでくれたのー」
「非番なんだって言ってたー」
「ハンネスさん!? ハンネスさんって、駐屯部隊長のあのハンネスさん!?」

 驚いて思わず叫んでしまったエレンはハッとするが、もう遅い。

「お兄ちゃん、ハンネスさん知ってるの!」
「本当!? お兄ちゃんもお友達?」

 更に騒ぎ纏わりつく子供達にどうすることも出来ずに途方に暮れるエレンに、冷たい人類最強の男の視線が突き刺さった。





「あの…すみません、兵長」
「…………」
「えーと、ですね、そんなつもりではなくてですね」
「…………」
「本当にすみません」
「……もう、いい。謝るな。俺も許可したことだ」

 あれから、子供達に囲まれて放してもらえず、孤児院の職員からも遠慮がちではあるが、お時間があるなら相手をしてもらえないかと懇願され――更にハンネスが懇意にしていると聞けば無下に断るのも憚られ、固まるエレンにリヴァイは溜息を吐きながらどうせ時間つぶしの途中だったんだから、少しくらいなら構わん、と許可をくれたのだ。
 ――子供の圧倒的なパワーなど、そのときは考えていなかった。


「嵐、でしたよね……本当に」
「…………」
「すみません」

 実際に遊びたい盛りの子供のパワーを舐めていたとエレンは思う。集団の子供を相手にするというのはあんなにも疲れるということだったのか。リヴァイは大人気なく俺に近寄るなオーラ全開で対応したため子供は怖がって近寄らず、その分エレンが全員の相手をすることとなったのだ。
 エレンが若いからか、年が近いからか遠慮がない子供に力尽き果てたエレンは孤児院の傍の大木に寄りかかるように座り込んでいた。そもそも、幼少時に友達がアルミンくらいしかいなかったエレンは大勢で遊ぶことを知らない。それで余計に疲れてしまった。
 先程、子供達は食事の時間だと呼ばれてあっさりと離れていった。本当に現金なものである。

「オイ、エレン」

 リヴァイに声をかけられ、エレンはハッとなった。こうしている場合ではないのだ。予定以上にここで時間を食ってしまった、もう荷はとっくに届いていることだろう。慌てて立ち上がろうとするエレンを片手で制して、リヴァイはごろんとそこに横になった。

「…………!?」

 ここ地面の上ですよ、兵長汚れますよ、大丈夫なんですか、とか訊きたいことはあるのだが、その前に。

「…兵長、何してるんですか?」
「見て判らんのか、グズ」
「いや、それは判ります、判ってますけど……」

 座り込んだエレンの膝の上にあるのは人類最強の男の頭――これはもしかして、いやしなくても膝枕というものではないだろうか。そういえば、同期の男達は膝枕して欲しい同期女性ナンバーワンはクリスタだって言ってたっけ、などとどうでもいいことに思考が逃避する。巨人を駆逐することだけを考えて訓練に励んでいたエレンには膝枕に対する憧れなどはないのだけれど、それは普通女性にしてもらうものではないのだろうか。

「あの、兵長、ひょっとして、今とんでもなく、眠いんですか?」
「……お前、さっき、子供に膝枕してやっただろう」

 見当はずれな言葉を述べるエレンにリヴァイは眉を顰め、エレンはわけが判らずに首を傾げる。
 確かに膝枕のようなことはした。疲れて休憩、と言って座り込んだエレンの膝に子供がふざけて飛び乗ったのだが、それが今の状況とどう関係があるというのだろう。

「チッ、ガキに先を越されるとは思ってもみなかった」
「兵長?」

 舌打ちしたリヴァイはエレンの呼び掛けには答えず、そのまま、瞳を閉じた。これは本気で寝る気なのだろうか、荷は受け取りに行かなくてもいいのだろうか。先程から色々な疑問が頭の中を飛び交っているがどれもエレンの口からは出てはくれなかった。

(膝枕って堅そうだし、枕に適しているとは思えないけど。あ、でも、訓練後はどんな枕でも寝られたし関係ないのか?)

 自分の場合はどうだったろうか、などと考えて、膝枕などしてもらったのは記憶にあるかないかくらいのごく幼い頃の母親だけだと結論付ける。
 子供の頃は寝つきが余りよくなくて、母親はよく子守歌を歌ってくれたものだ。
 そんなことが脳裏を過ったせいか、つい口から懐かしい旋律が零れ落ちた。



 おやすみなさい 可愛い子
 月があなたを照らすように
 星があなたを導くように
 優しい夜が訪れるように
 この歌を歌いましょう
 だからおやすみ 可愛い子
 あなたにたくさんの幸せが降りますように



 意外にちゃんと覚えているもんなんだな、と妙に感慨深く思っていると、ぱっちりと瞳を開けたリヴァイと眼が合った。

「―――――――!?」

 人間、本当に吃驚すると意外に声が出ないものなんだとエレンは思い知った。

「今のは子守歌か?」

 訊ねられてもただ首をがくがくと縦に振ることしか出来ない。エレンは頭を抱えたくなった。まさか聴かれるなんて思ってもみなかったのだ。穴があったら入りたいとは今の心境だ。何か言わなくては――心の中でダラダラと冷や汗を流すエレンが口にした言葉は。

「すみません、人前で歌ったの初めてなんで、聞き苦しいものを聞かせてしまいました!」
「初めて…なのか?」

 子供の頃にひょっとすると母親と歌っていたかもしれないが、人に聴かせるという意味で歌ったのは今が初めてだ。そもそも、子守歌など自分に子供がいなければ歌うものではないだろう。
 頷くエレンにリヴァイはふっと口許に笑みを浮かべた。

「そうか、悪くない」

 言うなり、リヴァイはエレンの首を引き寄せて顔を近づけた。
 ちゅっと軽い音が唇からした。

「……………」

 総てが停止したエレンにご褒美だ、躾には飴と鞭だからな、というリヴァイの声は素通りした。
 今のは何なんだ今のは何なんだ、という声がただ頭の中でぐるぐるしている。

「お前は本当に鈍いな、自分の気持ちにも、俺の気持ちにも」

 あれだけ、構ってやったのに、それを全く嫌がらなかったくせに、まだ判ってねぇのか、という言葉もただ素通りする。

(ああ、でも嫌じゃなかった。全然嫌じゃなかった)

 どうしようどうしようと、それだけがまた頭をぐるぐると回り、業を煮やしたリヴァイにエレンが蹴り飛ばされるまでに後数十秒―――。



 その後、余りにも遅い二人を心配して様子を見に来たリヴァイ班の面々に膝枕を目撃されていたことをエレンが知るのはまた別の話。




 ≪完≫





                                                 
2013.8.12up






 どのジャンルでも一回は書く子守歌ネタ(笑)。膝枕が書きたかったんです、はい。勝手な設定作った上にキャラがまだ定まってない気が…(汗)。




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