ショコラ




 エレンがアルバイトをしているカフェ・グリーンリーフはこの辺りでは評判の人気店だ。カフェといってもテイクアウトのケーキ販売がメインなので、イートインスペースはそう広くない。元々は店内で食べられる場所はなかったのだが、ミルフィーユは焼き立てのものをすぐに食べないと味が落ちるという店主のポリシーから、お客様に焼き立ての最高の状態で提供することを目的として作られたという経緯がある。その理由からミルフィーユは持ち帰りの出来ないメニューだ。
 勿論、ミルフィーユだけではなく、季節のフルーツをふんだんに使ったタルト、卵にこだわったプリンに、ふわふわとしたスポンジに舌触りの良い生クリームを使ったイチゴショート等々、その他の商品のどれもが人気がある。贈答用に焼き菓子の詰め合わせや手軽にお土産に出来る低価格のクッキーなど、種類も豊富だし、味も大手のチェーン店に負けていないとエレンは思っている。エレンは初めてこの店で食べたケーキの感動が忘れられず、アルバイトが許される年齢になったと同時に店主に頼み込んで雇ってもらったのだ。オーナーでありパティシエでもあるハンネスが父親の知人だというのもあっただろうが、真面目に仕事をこなすエレンは店のものから可愛がられていた。
 エレンはまだ高校生だが、将来は自分もパティシエになりたいと思っているので、ここでの仕事は勉強になる。何より、大好きなスイーツに囲まれながらの仕事は楽しかった。
 カラン、と来店客を知らせるベルが鳴って、エレンはいらっしゃいませと声をかけた。現れたスーツ姿の男に、エレンは隣で接客しているクリスタに目配せして、男にお決まりになりましたらお申し付けください、と笑顔を向けた。

「これ、とこれ、後、こちらももらおうか」
「洋梨のシャルロットにふわふわ苺のショートにクラシック・ショコラですね。承りました」
「本日のオススメはあるか?」
「そうですね、季節のタルトなどはいかがでしょうか?」
「なら、それももらおう」

 トレーに乗せたケーキを確認してもらい、エレンは箱に詰めると、会計を済ませた男に手渡した。

「いつもありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」

 頷いて男が店を出ていったのを確認してエレンの隣にいたクリスタは溜息を吐いた。

「ごめんね、いつも応対してもらっちゃって。でも、エレンは、あの人怖くないの?」

 クリスタが申し訳なさそうに言うのに、エレンは別に怖くねぇけど、と返した。
 先程の男はこの店によく訪れる常連客だ。買うのはケーキだったり、贈答用の菓子の詰め合わせだったり、種類も量もまちまちなのだが、どういう偶然かエレンがバイトに入っている日に彼はよく現れていた。毎回スーツ姿なので、どこかに勤めているサラリーマンかとエレンは思っていたが、クリスタや店の者はそうは思っていないらしい。絶対にその筋の人間に違いない、などと噂されている。他の者が怖がるので毎回彼の接客はエレンが担当するのが暗黙のうちのお約束となっている。確かに男は目つきが悪いが、特に横柄な態度を取られたわけでもないし、彼が店で騒ぎを起こしたこともない。至って普通の人だとエレンは思うのに、周りは騒ぎ過ぎなのだ。

(顔は整ってるし、カッコいいと思うんだけど。無愛想だから誤解されてるのかな?)

 名前も知らない男に心の中で同情しながら、エレンはバイトの終了時間まで仕事に精を出した。





「ふーん、それで、エレンはその人が気になってるんだ?」

 さくっと、口の中で音を立てるクッキーを舌で味わいながら、エレンの前の席に逆向きに座った少年――エレンの幼馴染みであるアルミンはどこか面白そうにそう言った。席が前後になっているのは席順が単純に名簿順だからだ――アルレルトにイェーガーなので、二人は一緒になることが多い。それでなくとも幼馴染みの二人は仲が良いのだけれど。
 アルミンが今味わってるのはエレンの手作りのクッキーで、エレンはよく自作の菓子を周りの人間に食べてもらっていた。さすがに要冷蔵の生菓子は学校には持ってこられないが、常温でも大丈夫なものはおやつ代わりにこうして食べることが多い。調理というものは作らなければ腕は上達しないが、作ったものは一人では食べ切れない。特にホールケーキを作った場合、いくらエレンが育ち盛りの男子高校生とはいえ、一人で食べ切るのはさすがに苦しかった。
 なので、アルミンやアルミンの家族、友人、父親の職場などにエレンは手作りの菓子を渡して感想をもらっていた。大抵は気を使ってか美味しいと言われてしまって困るのだけれど。その中でもアルミンはハッキリと美味しいときは美味しい、不味いときは不味い、と言ってくれるので助かっている。

「気になっているっていうか、皆が勝手なこと言ってるから、本当はどんな職業なのかなって」
「普段スーツなら、普通に会社員だと思うけど。買いに来ているのも会社の差し入れとか、取引先への贈答品とかそんな感じなんじゃないかな」
「オレもそうだと思うけど……アルミン、感想は?」
「食感いいし、美味しいよ。ナッツの大きさも丁度いいと思う。ただ、ナッツの風味を生かしたいなら、生地、プレーンでも良かったんじゃない? この前のマフィンもチョコだったし、最近ショコラブームなの?」
「あーそういうわけでもねぇんだけど」

 ただ、何となくというか――件の名も知らぬ男がショコラ関係のものを一品注文に入れることが多いのだ。王道のチョコレートケーキ、ザッハトルテ、ガトーショコラ、ショコラロール、チョコレートチーズケーキ、等々、それにつられるように無意識に自分もチョコを使ったお菓子を作っていたらしい。

「ショコラティエに進路変更とか?」
「あーそれはない。ショコラに限らず色んなの作りたいから」

 勿論、ショコラティエも尊敬できる職業ではあるが、エレンが目指すのは街のケーキ屋さんだ。多くの人を喜ばせる洋菓子を提供出来るパティシエになりたい。ハンネス程の腕前になるにはいつまでかかるのか見当もつかないけれど。

「まあ、僕はどっちでも美味しいものが食べられるからいいけどね」

 そう言ってアルミンは美味しいから食べすぎちゃうのが問題だけど、と笑った。

「あ、そういや、エレン、今日バイト休みだよね? ライナー達に遊びに行かないかって誘われたんだけど、行かない?」
「あー、今日は材料買いに行こうと思ってたからパスするかなー。明日は行きたい店が休みだから買えないし、明後日はバイトがあるから」
「そっか、じゃあ、ライナー達にエレンは行けないって言っておくよ」
「悪いな」

 エレンの菓子作りは本格的なものなので、材料を全部揃えようと思ったら近所のスーパーではなく大型の店かもっと専門的に扱っている店に行かなければならない。なるべくいいものを材料には使いたいが、これで材料費は結構かかるのだ。
 エレンの父親は彼の夢に賛成してくれているので、協力的だが、余り父親に負担はかけたくないので、自分で出せるところは出すことにしている。ハンネスの店で働いているのはその意味もあった。父親は特に母親が亡くなってからはエレンを甘やかす傾向にあると思う。医者という職業のために余り息子の傍にいてやれないことを父は気にしている節がある。
 寂しいと思ったことがないと言えば嘘になるが、親が恋しいと泣く年でもない。気にすることないのにな、とエレンは父親のことを思い出し、心の中で溜息を吐いた。



 学校帰りにそのまま買い出しに出たエレンは周囲の視線など気にせずに買い物を続けた。スイーツ男子などと呼ばれる男性もいて、甘味好きの男性も世間では認識されてはいるが、やはり、自分で材料を買って作る男性は珍しく思われるらしい。ここはもう開き直って堂々としているしかないとエレンは思っている。

(まあ、ジャンには思い切りバカにされたけど)

 クラスメートを思い出してエレンは渋い顔になる。菓子なんて女の作るもんだろと断言した少年に、無理矢理自分の作った菓子を食べさせたのは未だに記憶に残っている。どうせ、まずいんだろ、と言われたら食ってから言え、と言いたくなるのは当然だとエレンは思う。それからは何も言わなくなったが、アルミンはジャンは素直じゃないなぁ、とくすくすと笑っていて、それがエレンにはさっぱり判らなかったのだけど。

「…………?」

 店を出て歩いていたエレンは、辺りを何かを探すように見ている人がいるのを発見した。何か困っているのだろうか――声をかけようかと近付いてエレンはその人物があの店の常連客であることに気付いた。
 思わぬ偶然に固まっていると、相手は視線に気付いたのかエレンの方へと振り返り、少年を認めて同じように固まった。

「……………」
「……………」
「えと、何かお探しですか?」

 先に我に返ったのはエレンの方で、そう声をかけると男も現状を認識したのか、ああ、公衆電話を探していた、と告げた。

「探すと中々ねぇもんだな」
「携帯を忘れたとか?」

 エレンが言うと、そこまで間抜けじゃねぇよ、と男は続けた。

「充電が切れてたんだ。社に電話しようと出したら使えねぇ。こうなるとただの鉄クズだな」

 事情を知り、エレンは鞄から自分の携帯電話を取り出して男に差し出した。男はそれに驚いたように目を見開いている。

「お急ぎなんでしょう? どうぞ」
「お前な、そんな個人情報の詰まったもんを簡単に知らねぇ奴に差し出してるんじゃねぇよ」
「え、でも、お客さんだし。別にあなたなら悪用しないでしょう?」

 また、驚いた様子の男にエレンはひょっとして店員だと気付かれてなかったのか、と思い、説明しかけたが、相手は知ってる、ケーキ屋の店員だろ、と返してきた。

「気持ちだけもらっておく。何件かかけたいし、充電器ならコンビニとかでも売ってんだろ」
「あ、じゃあ、案内します。この辺ならよく来てるので」

 何となく流れで一緒に行くことになってしまい、充電器を入手した男は早速携帯を充電器に繋いだ。

(社に電話ってことはやっぱり会社員なのかな)

 何となく男がいつもよりくたびれているように見えたエレンは、ふと思いついて鞄からあるものを取り出した。

「良かったらこれどうぞ。疲れているときには甘いものがいいですよ」

 それは学校にいるときにアルミンが食べていたクッキーと同じもので、エレンはアルミンだけではなく他のクラスメートにも渡すことがあったので、別に分けていくつか入れていたのだ。残りものといってしまえば聞こえは悪いが、多くの者に食べてもらった方がエレンは嬉しい。
 男を見ると、再び固まっていて、エレンはやっぱり顔見知り程度の店員から明らかに手作りのものをもらうなんて、嫌だったのだろうか、と思った。

「えーと、変なものは入ってませんよ?」
「いや、そうじゃねぇ。ただ、人に渡す菓子がただの袋に入れただけって、な……」

 堪え切れないというように笑う男にエレンは赤面した。透明のビニール製の袋に入れて封をしただけのそれは確かにプレゼント用ではない。店の商品は可愛らしいリボンやシールなどで飾り、見栄えを良くするが、エレンは商売ではなく試食してもらうのが目的なのでラッピングなどに気を使っていなかった。それに金を使うのなら質の良い材料や器具を購入したい、というのが本音で男友達に渡すにはそれで十分だったから、そんなことを言われるとは考えていなかった。

「ああ、悪かったな。からかったつもりじゃなかったんだが…有り難く頂戴しておく」

 男はエレンの差し出したクッキーを受け取り、それからお前、イェーガーだったよな?とエレンに訊ねた。どうやら、名札を見てエレンの名前を覚えていたらしい。更に姓ではなく名を訊かれたのでエレンだと答えると、男は満足げに笑った。

「俺はリヴァイだ。……エレン、また店に行く」

 くしゃり、と男はエレンの頭を撫ぜてから、じゃあな、と手を軽く振って去っていった。

「……………」

 残されたエレンはその場で固まっていた。さらりと頭を撫ぜられたことも衝撃だが、何より去り際に見せたあの顔。

(あの人、あんな顔もするんだ)

 とろけるような、という言葉が似合うような笑顔。エレン、と呼びかける声はショコラよりも甘かった。何だか恥ずかしくて、その場にうずくまってしまいたいような、叫びたい衝動をエレンは堪え、しばらくの間そこから動けずにいた。




 それからも男は店にやって来た。以前と変わったのは一言二言ではあるが、会話が増えたこと。男はエレンが思っていたように会社員で――しかも、一流と呼ばれるIT企業だった――、社内の休憩時間に食べる菓子や差し入れ、来客用の菓子、取り引き先への贈答品など総てこの店のものを利用しているらしかった。この店の商品は評判がいいんだぞ、と言われて店のスタッフとしてエレンも誇らしかった。いつか自分もそう言ってもらえるような菓子を作りたいと思う。
 ある日のバイト帰り、家に帰ろうと歩いていると、前方に見知った人影を見つけて、エレンはつい声をかけていた。

「リヴァイさん?」

 振り返った男は間違いなくリヴァイで、今から帰りなのか、の問いにエレンは頷いた。

「リヴァイさんも会社帰りなんですか?」
「ああ。エレン、時間はあるか?」
「はい、もう帰るだけなんで……」
「なら、付き合え。この前のクッキーの礼にメシをおごってやる」

 有無を言わさず、という言葉がぴったりとするような強引さで、男はエレンを連れ出したのだった。


 男がエレンを連れてきたのは女性が喜びそうな洒落たイタリアンレストランだった。てっきり近くのファミリーレストランなどのチェーン店に行くのだろうと思っていた少年はデートスポットとして紹介されていそうな店に連れてこられて戸惑っていた。自分が渡したものとはつり合いが全く取れていない。自分が渡したものなどファーストフード店でおごるくらいがせいぜいだと思うので、遠慮しようとも思ったのだが、男にいつも一人でメシ食ってるから味気ねぇんだよ、と言われ思いとどまった。母親が亡くなってからはエレンは一人で食事をすることが多かった。母親が亡くなったのはまだエレンが小学生の頃で、そんなエレンを心配してかアルミンの家族がエレンを食事によく招待してくれたが、成長して自分で自炊出来るようになってからは遠慮していた。高校生となってアルバイトを始めてからは時間が合わなくなったこともあって、ごくたまにしかお邪魔していない。
 アルミンの家族には母親が生きていた頃から付き合いがあり、本当に良くしてもらっていると思う。エレンは今でも感謝を忘れてはいない。
 今では一人の食事にも慣れたが、やはり誰かと一緒の方が楽しいとはエレンも思う。

 男が連れてきた店の料理はどれも美味しかった。食が進むにつれ、話も弾み、男は一人暮らしをしており、しかもエレンの自宅からかなり近いということが判った。

「そんなに近いなんて思ってもみませんでした。顔合わせたことなかったし……」
「時間帯が合わなきゃそんなもんだろ。マンションの隣の部屋の住人の顔も知らないっていうのも聞くしな」

 だが、もうちょっと早くに男に出会えていれば、店の人間に男が誤解されることなく説明できたのに、と少年は思う。この男が悪く思われたり言われたりするのがエレンには我慢ならなかった。
 それから、話は何故エレンがあの店でアルバイトをしているかという話になり、正直にパティシエを目指しているのだ、と少年が話すと、男はそうか、頑張れよと励ましの言葉を送ってくれた。そんな返しが来るとは思わず、エレンがぽかんとした顔をしていると、どうした、と声をかけられて慌てて首を振った。

「……えーと、お菓子作りたいなんて、女の子の趣味っぽいとか言わないんだなって……」

 勿論、大人の彼がそんなことを言うとは思わなかったが、子供のころからお菓子が好きだったエレンが将来の夢はパティシエ、と言うと、同級生からからかわれることがあった。その度にきっちりとエレンは反撃していたが――アルミンが同級生との仲を取り持つのに苦労していたので、そこは迷惑をかけてしまい悪かったと思っている。

「そんなバカみてぇな男女差別するわけないだろうが。どんな職業でも真剣に目指すものの姿は美しいと俺は思う。――そんな年から将来の夢を目指して頑張っているなんてお前は凄いな」

 感心したように言われて、エレンは胸が熱くなるのを感じた。そんな大したことじゃないです、と返すのが精いっぱいだったが、自分の夢を人に認めてもらえるのは素直に嬉しい。
 やがて、最後のデザートが運ばれてきてエレンは目を瞠った。各種デザートの盛り合わせのプレートは繊細なチョコレート細工で飾られ、見た目の美しさとその味の素晴らしさでエレンの目と舌を喜ばせた。

「ここの店は料理も旨いが、デザートも評判で人気がある。少しは勉強になったか?」

 デザートを堪能していたエレンは男がこの店を選んだ意味を知り、そこでまた感動したのだった。



 店を出たエレンは男に礼を言った。とても美味しかったし、素晴らしかったです、と言い添えて。

「オレのクッキーなんかじゃ全然つり合いが取れないです。何かオレもお礼がしたいです」

 そう言ってから、エレンはふと思いついたように言葉を続けた。

「そういえば、リヴァイさんってチョコ好きなんですか? よく店のショコラ買っていかれるし……さっきのデザートもチョコレート細工が見事でしたよね」

 エレンの言葉にリヴァイは苦笑いのようなものを浮かべた。

「……やっぱ、覚えてるわけねぇか…」
「え?」
「いや、お礼したいんなら、たまにまた食事に付き合ってくれればいい」

 言われて、エレンは困った。それではまた男に食事をおごってもらうということにならないだろうか。学生のエレンにはさすがにこんな高そうな店でおごれる程の財力はないし、またご馳走になったら、お礼返しではないだろう。
 そこで、エレンは何かを閃いたように軽く頷いてから、男に提案した。

「リヴァイさんの家ってご近所なんですよね。だったら、オレ、ご飯作りに行きます」

 これなら、材料費だけだし、余った食材は使いまわせるし、それ程お金はかからないだろう。うんうん、とエレンが一人で納得していると、相手は驚いた顔でこちらを見ていた。

「あ、オレ、父親と二人暮らしなので、自分で作ることが多いんです。さっきの店程のものは作れませんが、人並みには出来ると思ってるんですけど……」

 ひょっとして物凄く料理が下手だと思われているのだろうか。確かに料理の得意な男子高校生は少ないかもしれないが、エレンは料理するのもわりと好きなのでそんなに心配する程のものは作らないと思うのだが。さすがに初めて作ったものは余り美味しくはなかったけれど。
 エレンの言葉にいや、そういうことじゃねぇ、と男は呟いた。

「お前な、一人暮らしの男の家に料理しに行くって意味判ってるのか?」
「え? えーと、もしかして、リヴァイさんの家って人に見せられない程すごく散らかってるとか、調理器具が一つもないとか、そんな感じなんですか?」
「バカ言え。俺はこう見えて綺麗好きなんだ。……まあ、いい。お前がそれでいいなら、そうしてもらおう。調理器具は一通り揃っているから大丈夫だろ」
「はい、じゃあ、お邪魔しますね」

 そうして二人は携帯電話の番号とアドレスの交換をしあい、リヴァイが次の休みのときにエレンが遊びに行くという話に落ち着いたのだった。





「え………何、何で、いきなりそこまで進展してるの? エレン」

 アルミンはよっぽど驚いたのか、食べていたバナナマフィンを手から机の上に落としてそう言った。オイ、落とすなよ、とエレンはマフィンを机の上から拾い上げた。床の上に落ちたわけではないし、紙の部分が下だったからセーフだろ、とアルミンに渡そうとしたが彼が受け取る様子はない。

「アルミン?」
「だって、この前偶然会って、店でよく話すようになったとかだったよね? それが何で番号交換しあってて、休日に部屋に行って料理作るなんてことになってんの?」
「いや、だから、それ今話しただろ」

 バイト帰りに会って食事をご馳走になり、今度の休日にお礼を兼ねて男の家に遊びに行って料理を作るのだ、と話したエレンは、折角だからケーキを作って持っていこうと思うのだが何がいいと思う、と幼馴染みの少年に訊いたのだ。だが、返事をせずに幼馴染みはその場に固まってしまい、少年が呼びかけてようやっと彼は動き出したのだ。

「ねぇ、エレン、そのリヴァイさんって一人暮らしなんだよね? 一人暮らしの男性の家に一人で遊びに行って料理を作るって意味判ってるの?」
「あ、部屋は綺麗だし、調理器具はあるから大丈夫だって」
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくってね……」
「?」

 きょとんとする少年は全く判っていないようだ。……いや、この鈍い少年に判れというのが間違っているのかもしれないが。

「えーとね、エレン、可愛いって評判の女子高生がここにいたとする。その子がバイト先で知り合った男性に食事をおごってもらって、お礼に何かしたいと言ったら、その男性は今度うちに遊びに来て料理を作ってくれと言ったんだ。その男性は一人暮らしで、その日遊びに行くのは彼女一人だけ。その状況をどう思う?」
「そりゃ、下心があるんじゃねぇのか?」

 少なくとも多少好意がなければ家に呼んだりはしないんじゃないか、と続ける少年にアルミンはそれが判るのに何故自分のことは判らないんだ、と言いたい。

(まあ、同性同士ならそういう発想にいかなくても無理はないか)

 無論、アルミンにもそういう嗜好があるわけではない。偏見もないが、幼馴染みが関わるとなれば話はまた別だ。エレンは昔から何故か同性によくもてるのだ。当の本人は気付いていないが、ジャンはエレンに好意を寄せているし、小学校の頃よくエレンをからかっていた同級生の男子もエレンの気を惹きたい一心でやっていたことだ。中学生の頃は同じ学校の男子生徒の先輩に告白されていたし――エレンは冗談を言われたのだと今でも思っている――目を離したら変な男に捕まってしまうのではないか、とアルミンは気が気ではない。
 明らかにその常連客の男はエレンに気があると思われる。行きつけの店の店員と仲良くなるのはよくある話だろう。だが、その店員にお菓子をもらったくらいで――そもそも、クッキーを一回もらった程度ではお返しなどという話にはならないと思う――デートスポットにも使われるような有名なイタリアンレストランで食事をおごり、更にまた一緒に食事をしたいなどと誘うなんて、相手に好意でも抱いていなければあり得ないと思う。男が物凄く律儀な人なのだと仮定しても、男同士なら居酒屋か――エレンが未成年なのでこれはないかもしれないが――チェーン店などでおごって終わりか、今度給料が入ったらおごってくれとか返すものではないだろうか。エレンが年下の高校生だということを考慮してもその流れはおかしいと思う。

「それよかアルミン、何のケーキがいいと思う? チョコ好きならベーシックなチョコケーキが無難かな、やっぱり」
「……………」

 無邪気に問いかけてくる少年にアルミンはまあ、いきなり手を出してくることはないだろう、と思い直す。エレンだって男なのだし、嫌なことをされたらぶん殴ってでも逃げるだろう。アルミンはそうだね、チョコケーキでいいんじゃない、と返しながら次の休日に何もないことを祈った。



 悩んだが、結局エレンはスタンダードなチョコレートケーキを作った。食べ切れるように小さな型で作り、甘さ控えめなさっぱりとしたクリームで飽きのこない味に仕上げた。それを手に訪れたリヴァイのマンションは見るからに高そうなところだった。
 途中でリヴァイとは待ち合わせをしていたのだが、一人ではちょっと入りづらかったので一緒にいてくれて良かった、と少年は思った。

「あの、リヴァイさんって一人暮らしなんですよね?」
「そう言ったはずだが?」
「だって、一人で住むには広すぎませんか、ここ……」
「そうか?」

 男の言う通りに部屋はきちんと清掃され、それこそ埃一つない綺麗さだったが、おそらく3LDKはありそうな間取りは一人で住むには贅沢な物件だと思う。しかも、男は大して部屋を使っていないらしい。勿体ない、とエレンは心底思った――主にキッチンに。最新型のシステムキッチンは余り使ってないだろうことが見て取れて、こんないいオーブンがあるならいろんなお菓子が作れるのに!と思わず呟いたら、なら作りにくるか?と返された。本気なのか冗談なのか判らず、そこまで図々しくありませんよ、と返すと、男はそれは残念だな、と笑っていた。
 人の家の冷蔵庫を勝手に覗くのは躊躇いがあったが、食材を確認しないと何も作れないので開けてみたら、予想通り調味料と飲み物以外にろくなものがなかったため、二人して大型スーパーに買い物しに行くことにした。

「リヴァイさんは何が食べたいですか。高級イタリアンとかは無理ですが、大体のものは作れると思いますけど」
「俺は特に好き嫌いはないな。お前の得意なものはなんだ?」
「お菓子です」
「お前、それ、食事にはならないだろ」

 得意なものと訊かれてつい即答してしまったが、確かにお菓子は主食にはならない。話を聞いてみると、男は和、洋、中、なんでも大丈夫だそうで、苦手なものもないそうだ。

「でも、何かリヴァイさんがラーメン啜ってる姿とか想像出来ないんですけど……」

 最初が高そうなイタリアンレストランだったせいか、庶民的なものを食べている姿が想像出来ない。リヴァイはラーメンくらい俺だって食べるぞ、と告げる。

「え、じゃあ牛丼とか、回転寿司とか、そういうのも食べるんですか?」
「お前、俺を何だと思ってる……」

 別に高級なものではなく、下町にあるような庶民的な食堂でも大丈夫らしい。ただし、清潔な店を好むので余り食べる機会が少ないのだそうだ。
 なら、庶民的なものでも、大丈夫なのだと安心してエレンは周りを見回したら、キャベツが特売品になっているのが目に入った。

(ロールキャベツにしようかな。特売品だし)

「リヴァイさん、ロールキャベツはどうですか?」
「作れるのか?」
「作れなきゃ言いませんって。えーと、コンソメとトマトソースとホワイトソースのどれがいいですか? あ、後和風もありますよね」
「お前のうちではどうだったんだ?」
「うちはホワイトソースがベースでした。リヴァイさんの家は?」
「お前と一緒でいい」
「え? でも、食べ慣れた味付けの方がよくありませんか?」

 よく恋人や夫婦でも味付けでもめるというし、好みに合わせようと思ったのだが、いいのだろうか。

「お前の家の味が食いたい」

 さらりとそんなことを言われて思わずエレンは赤面してしまった。何だか恋人同士の会話みたいだと考えてしまい、妙に焦ったエレンはじゃあ、ホワイトソースにしますね、と早口で言って他の食材を見にそそくさと歩き出した。
 食材を買い込み、時間があるなら映画でも見るかと、レンタル店に立ち寄り、以前から見たいと思っていた映画を借りてリヴァイの部屋に二人は戻った。ソファーに並んで座って見た映画は面白かった――リヴァイは手持無沙汰なのか、たまにエレンの髪を撫でてきてそれがくすぐったかったけど、嫌ではなかった。そういえば、最初に偶然会ったときにも頭を撫ぜられたし、仲良くなるとスキンシップが激しくなるのだろうか。嫌ではないが、何かちょっとドキドキしてしまう。
 映画も見終わり、少し早いが夕食の支度に取り掛かろうとエプロンを身に付けた少年に、何故かリヴァイの機嫌は上昇したようだった。いい具合に料理も出来て、リヴァイも楽しそうで――エレンも楽しかったのだ。リヴァイに電話がかかってくるまでは。
 突然に鳴った携帯電話にリヴァイはそれを無視しようとしたが、しつこく鳴る電話に溜息を吐くと、不機嫌まる出しでそれを手に取った。

「オイ、クソメガネ、何の用件だ。くだらないことなら、蹴り飛ばす」

 電話でどうやって蹴り飛ばすのか、というツッコミが入れられない程、彼の声には凄味があった。だが、相手はそんな彼の様子にも怯まなかったらしい。何かを言われて、男がそれに答える――相手の声は聞こえないが、何やら向こうでトラブルがあったのは伝わって来た。

「それくらいのことそっちで何とかしろ。エルヴィンは何やってるんだ」

 どれくらいの応酬があっただろうか、リヴァイは舌打ちして、仕方ねぇ、行くとだけ言って電話を切った。

「エレン、すまねぇが、仕事先でトラブルがあったらしい。今すぐ行かなきゃならない」

 折角来てもらったのに、悪いと言われ、エレンは仕事なら仕方ないですよ、と言うしかなかった。二人で食べようと思った料理も作って来たケーキも台無しになってしまった。だが、男は社会人なのでこんなことだってあるだろう。ここは自分が大人にならなければならない。

「料理とケーキ、折角なので戻ってきたら食べてください。ちゃんと食べられるものになってるので大丈夫ですよ」

 おどけたように言って、エレンは帰り支度を始めた。急いで着替えた男とともにマンションを出る。男は何度も悪い、また埋め合わせはする、と言っていたが、エレンは笑顔を作るのが精いっぱいだった。男を見送ってその姿が見えなくなると少年はその場にしゃがみこんだ。

(……何、へこんでるんだろ、オレ)

 元々、リヴァイにおごってもらったお返しの料理のはずでその目的は達成されたのだから、ここまでへこむ必要はない。ただ――二人で料理を食べて、自分の作ったケーキを食べてもらって感想を聞きたかったのだ、リヴァイと一緒にいる時間が楽しくて心地好かったから。
 そこで、ああ、とエレンは気付く。自分は単純にまだリヴァイと一緒にいたかっただけなのだと。

「……………」

 エレンは無言で立ち上がり、頬を軽く自分で叩くと、歩き出した。いつまでもここでへこんでいても仕方がない、気持ちを切り替えよう。時刻は夕方くらいで、まだ夕食には少し早いだろうか。だが、自分の夕食を作るのももうやる気が起きないし、何より一人で食事をするのは落ち込みそうだ。
 エレンは携帯電話を取り出して、今日の夕食を一緒にとってくれる相手を呼び出したのだった。




「エレンはもっと怒って良かったんだと思うよ」
「でも、仕事なら仕方ないだろ?」
「仕事でも、怒るべき! 料理だけ作らせておいて帰らせるなんて何様?って言えば良かったのに」

 電話した相手――アルミンは快く付き合ってくれた。夕食には少し早かったのでぶらついて遊んだ後、安くて手軽なファミリーレストランに入り、男に対する怒りをぶつけている。そもそもお礼に料理を作るのが目的でそれは達成されたのだし、いいんだよ、と言うと渋々アルミンは怒りを引っ込めた。自分のために怒ってくれるのは嬉しいが、リヴァイが悪いわけではないのだから仕方ないと思う。

「……そんな寂しそうな顔で言うことじゃないよ……」
「ん? 何だよ? アルミン」

 ぼそっと言った声が聞こえずにエレンは聞き返したが、アルミンはエレンのロールキャベツなら僕も食べたいって言っただけ、と答えた。

「アルミンのとこはトマトソースだったよな」
「クリームソースも好きだよ。コンソメは余り好きじゃないけど、カレー風味とかあるんだよね。びっくりした」
「よく風味ってつけるけど、どう違うんだろうな。カレー味とカレー風味の差って何なんだろう」
「エレン、突っ込むとこそこ?」

 アルミンとそうしてくだらない話をしていると、何だか気分が晴れた気がしたエレンだった。


 ファミリーレストランから出て、家路へと向かっているとアルミンがあっと声を上げた。

「母さんからメールが入ってた。帰りに買ってきて欲しいものがあるって」

 うっかり見忘れていたというアルミンの母親から指定された店はもうとっくに通り過ぎてしまっていた。

「戻って買ってくる。エレンは先に帰っていいよ」

 一緒に行こうか、とエレンは申し出たが戻らせるのは悪いから、とアルミンは断った。母親の指定した店は二十四時間営業の店ではないから、閉店まで間もなく、急がせるのを悪いと思ったのだろう。エレンはその心遣いが判るから無理についていくことはせず、急いでいく幼馴染みを見送った。
 そのまま帰ろうかと思ったときに、不意に視界に見知った姿が映った。

(リヴァイさん?)

 仕事はもう終わったのだろうか――あの様子だともっと遅くまでかかるような感じがしたのだが。声をかけようとしたのだが、寸でのところでエレンは思いとどまった。彼が一人ではなかったからだ。
 彼の隣には若く綺麗な女性が立っていた。何やら二人で話しているが、普段より彼の雰囲気が柔らかい気がした。

(会社の人……なのかな)

 今声をかけたら迷惑かも知れない、そう思い帰ろうとしたエレンの視界の端に、男に抱きつく女性の姿が映った。リヴァイは女性を柔らかく受け止め、何やら声をかけている。
 エレンはすぐにそこから顔を背け、逃げるようにその場から駆け出した。

(何だったんだ、今の、今のは……)

 大分走ったところで、息が切れエレンは両膝に手を置いて弾む息を整えた。
 
 普段より柔らかい雰囲気。
 抱き付いた女性。
 拒絶しなかった男。

(恋人ってこと?)

 ならば、今日のことも本当は仕事ではなくて、恋人と会っていたのだろうか。いや、あの電話の様子からいってあれが恋人からだったとは考えられない。なら、仕事が早くに終わって恋人を呼び出したということなのだろうか。折角の休日なら少しの間でも恋人に会いたいだろう。

(なら、言ってくれれば良かったのに……)

 そうしたら、邪魔なんてしなかったのに。わざわざ休日に男の家に押しかけて悪いことをした――本当なら彼女が食事を作る予定だったのかもしれないのに。思えば、あの広い部屋も恋人のことを考えて住んでるのかもしれない。男にそう言われたわけでもないのに勝手な想像は止まってくれない。
 ずきずきと胸が痛んだ。痛くて苦しい。
 ああ、そうだったのか、とエレンは思う。あの男が気になったのも、悪く言われるのが嫌だったのも、一緒にいて楽しかったり嬉しかったり、触られてドキドキしたりしたのも全部―――。

(オレはあの人のことを好きだったのかもしれない)

 自覚した途端に失恋だなんて、笑い話にもならない。おかしくておかしくて――涙が零れた。




 そもそも、同性同士の恋愛が叶うわけがないのだ。知られて嫌われる前に判って良かったのかもしれない。男からはあの後着信と詫びのメールがあったが、失恋したばかりの相手と何事もなかったように話せる程エレンは器用ではない。取りあえずメールの方にだけは翌日に気にしないでください、と返信しておいた。その後の着信は無視し、メールには今勉強が忙しいので時間がないんです、と返した。
 ハンネスには頼み込んでシフトを変えてもらい、男と顔を合わせないようにした。
 エレンはどうしたらいいか判らなかった。取りあえず、男と顔を合わせても平気になれるくらいの時間が欲しかった。それがどのくらい必要かは判らなかったけれど。

「エレン、どうかしたの? 何かあった?」
「……何もねぇが?」

 アルミンは幼馴染みの言葉に嘘だろ、と溜息を吐いた。

「このバナナブレッド、砂糖の分量間違えてる。明らかに甘すぎるよ。こんな失敗、いつものエレンなら絶対にしないのに。何かあったよね、絶対」

 きっぱりと言う幼馴染みにエレンは溜息を吐いた。こういうときの彼には誤魔化しが効かない。

「……リヴァイさんに」
「リヴァイさんって……この前家に遊びに行ったお店の常連客っていう、あの人?」

 こくり、と頷くエレンは更に言葉を続けた。

「……恋人がいた」

 エレンの言葉にアルミンはきょとんとして、それから驚いた顔になった。

「え、あの人に恋人がいて、それで何でエレンがそれを気にするの……って、えええええええ!」

 聡い彼の幼馴染みはそれだけで少年の心情を悟り、教室に響き渡るような大声を上げたのだった。



 とにかく詳しい話をしてみろ、と幼馴染みに言われ、エレンはあの日目撃したことを話したのだが、それにアルミンは眉を寄せた。

「それって、直接、リヴァイさんから聞いたわけじゃないんだよね? なら、恋人かどうかなんて判らないよ」
「でも、抱きついてたし……」
「だから、それだけじゃ判らないだろ。ちゃんと話してみなよ、絶対違うから」

 会ったことはないが、アルミンは絶対に男はエレンに好意を抱いているのだと思う。エレンまでも男に好意を抱くとは思わなかったが――エレンが相手を好きだというのなら仕方ないと思う。気分はかなり複雑だが。まるで、娘を嫁に出す父親の気分だ――いや、エレンは男だしアルミンの娘でもないのだが、これでもずっと幼馴染みとして彼を見守って来たのだ。勿論、男がエレンを泣かすようであれば相応の報復をしてやる心積もりはある。

「とにかく、一度確かめた方がいいと思う。何の行動も起こさず悩んでるのなんてエレンらしくないよ」

 頑張って、と言われエレンは頷いたが――結局自分からは行動を起こせなかった。
 いや、行動を起こしたのは男の方が先だったのだ。



「オイ、エレン、どういうつもりだ」
「リ、リヴァイさん……」

 その日、エレンがバイトを終えて外に出ると、リヴァイが仁王立ちで少年を待ち構えていた。

「電話には出ねえ、メールの返信は寄越さねえ、店に行けばいないわ、てめぇ、何考えてやがる」
「……………」
「黙ってられたら判らん。……俺と話すのが嫌ならちゃんと言え」
「違います! オレは―――」

 あなたが好きなんです、だから、辛いんですとは言えないエレンに焦れたように男は近くの公園に少年を引っ張り込むと、白状しろ、と迫った。

「いいか。俺は気の長い方じゃねぇ。嫌なら、嫌って言え。……でなきゃ、諦められねぇんだよ」

 男の言っていることが判らない、諦められないのは自分の方なのだ。だから、もっと時間をおいて男と話せるようになったら、また店員と常連客に戻ろうと思ったのだ。こうしているとまた胸がずきずきと痛みだす。失恋の痛手はまだ癒えてないのだ。

「何で、俺があの店に通ってたと思ってるんだ。やっと会えたと思って、何とか話したいと思ってお前のバイトの日に通って、やっと仲良く話せるようになったと思ったら、これか、オイ!」

 エレン、と腕を掴まれてぷつりと少年の中で何かが切れた。

「ああ、もう何だって放っておいてくれないんですか! 恋人がいるなら、その人に構っていたらいいでしょうが!」
「は?」
「人が失恋の痛みに耐えてるってときに現れて引っ掻きまわして!」
「オイ、エレン」

 意を決したようにエレンは叫ぶと、ぐいっと男を引き寄せ、その唇に唇で触れた。がちん、と音がしそうな程の勢いに任せた稚拙なキス――だが、必死の想いを込めた。

「オレ、リヴァイさんが好きです!」
「……………」

 突然の告白に男が硬直し、はっと我に返ったエレンは男が固まっている隙に猛ダッシュでそこから逃げ出した。

(今、何した、オレ! 何やってんだよ、オレ!)

 勢いに任せてキスした挙句に告白までしてしまった――ちなみに今のがエレンのファーストキスだ。絶対に気持ち悪いと思われたに違いない。もう、店でも顔を合わせられない、どうしようと思っていると、後ろから物凄い勢いで近付いてくるものの気配がした。

「待ちやがれ、クソガキ!」

 振り返れば鬼の形相でこちらへ猛ダッシュしてくる男の姿がある。オリンピック選手顔負けの走りで追ってくる今の男の姿を見れば、子供だったら絶対にトラウマになりそうな迫力だった。

(激怒してる? やっぱり気持ち悪かったから?)

 泣きそうになりながらまた前を向いて走るエレンに男は待て、と声をかける。

「待ちません!」
「言い逃げか、クソガキ! こっちにもちゃんと好きだと言わせろ、クソが!」
「………は…?」

 驚きで思わず立ち止まってしまったエレンはあっさりと男に捕まり、逃げられないように担がれ男のマンションにお持ち帰りされたのだった。





「で、何で、俺に恋人がいるって話になったんだ?」

 ソファーに座っている男の前に何故か正座でエレンは座っていた。男に正座を命じられたわけではないのだが、そうしなければいけないような気にさせられた。――男に担がれてエレンは気を失いそうな程の羞恥を覚えたが、まさかそこで昇天出来るわけもなく、絶対に逃げませんからと頼み込んでどうにか下ろしてもらったのだ。バイト先のすぐ近くだというのに――もしも、常連客にでも見られていて話題に上げられたらエレンはその場で羞恥に転げ回るだろう。
 現実逃避したい気分だったが、エレンがあの日目撃した女性のことを話すと、男はあっさりとそれは自分の部下だ、と告げた。

「で、でも、抱き付いてましたし…」
「あれは躓いてよろけたのを支えてやっただけだ。転びかけた人間をお前は突き飛ばすのか」
「仲良さそうな感じでしたし……」
「職場の人間と喧嘩腰で付き合えっていうのか、お前は」
「……………」

 どうやら、本当に誤解だったらしい。なのに、自分は勝手に男を避けて逃げて、挙句の果てにキスして告白までしてしまったのだ。顔から火が出そうだ。

「オイ、エレン、お前判ってんのか」

 羞恥に俯いていたエレンは男の言葉に顔を上げた。そこには何か熱を孕んだような男の眼があった。

「あんな告白しておいて、今更そのまま帰れるなんて思っていないよな…?」

 男はぐいっと、少年をソファーの上に引き上げると自分の膝の上にまたがらせて向かい合わせに座らせた。突然の事態に少年が驚いていると、男はにやりと笑った。

「キスっていうのはこうするんだよ」

 上から頭を手でがっしりと押さえつけ少年が逃げられないようにすると、男は貪るような口付けを少年に与えた。歯列をなぞり、口内に舌を侵入させ、柔らかな感触を味わう。舌を絡めて吸い上げると、少年の身体がびくん、と震えた。

「……んふっ、リヴァイさ…何で……」

 濃厚なキスで潤んだ瞳で見つめてくる少年に、お前、聞いていなかったのか、と問えば不思議そうな顔がある。

「好きだって、言っただろうが。……ずっと見ていた」

 先程の言葉を忘れていたのかぽかんとする少年に、男は再び口付けを落とした。口だけではなく、瞼に、頬に、鼻にと顔中に優しいキスを落として、それが首筋に進んだとき、さすがに男の意図を察してエレンは慌てた。頭を押さえつけていた手はいつの間にか後ろに回って、シャツの中に侵入し、背中を撫で回している。
 身を捩るが、男は許さず、口付けを至る所に落としながら更に片手を移動させ隙間から胸の突起を弄び、もう片方の手は少年の形の良い双丘を衣服の上から掴んで撫で回した。コリコリと固くなる突起をきゅうっと摘まれて甘ったるい声を上げてしまった少年の耳元で、入れてぇ、と男に囁かれ、エレンは涙目で訴えた。

「あ、あの、リヴァイさん、こういうのまだ、早いんじゃ……」
「何がだ」
「だって、こういうのは手順があって、あの……」
「告白もしたし、デートもしたし、キスもした。後はもう一つしかねぇだろ」

 確かに男のいうことはもう全部した。一緒に出かけた時はそうは思っていなかったが、あれは今思えば付き合っている男女がするようなことだった。告白が一番最後だというのはお笑いだが、そういうことはよくあると聞くし、おかしいことではないかもしれないが。

(で、でも、今すぐって!)

「俺はこれでも待ったんだ。もう待てねぇ」

 男は小柄な身体のどこにそんな力があるのか、ひょいとまたエレンを担ぎあげると、寝室まで運びこんでベッドの上に落とした。

「ほら、ここなら文句ねぇだろ」

 いや、そういう問題ではないんです、それは勿論、ソファーよりベッドの上の方がいいですが、とか言いたいことは山とあったが。
 自分を見つめる男のとろけるような顔を見てしまってはもう何も言えず、覆いかぶさってくる男を前にエレンは身体の力を抜いたのだった。





「エレン、ほら、スポーツドリンクだ。飲めるか?」

 渡されたペットボトルを受け取ると、エレンはごくごくとそれを飲み干した。――疲れた、の一言に尽きる。いったい何ラウンドしたのかエレンはもう覚えていない。初めての自分に随分と無茶な真似をしてくれたものだ、と少年は思う。泣いてもう無理です、という少年をなだめすかして、いろんなことをしたのだ、目の前で自分と同じスポーツ飲料を飲んでいる男は。確かに気持ち良いこともたくさんしてもらったけど――あんなところにあんなものを入れられて気持ち良くなれるなんて今でも信じられないけれど、動けなくなるまでしたのは酷いと思う。
 更に動けなくなった少年を風呂に入れてくれたのはいいのだが、そのままだと腹を壊すから、という理由で男が自分を埋め込んでいたところにまた指を入れて、中に吐き出したものを掻き出されたときは泣く程の羞恥を覚えた。更に色々と触られて戻れないところまで追い詰められてもう一度風呂場でしてしまったことに対しては怒ってもいいと自分は思う。

「無理させたな。悪かった」

 そう言って男はエレンの頭を撫ぜた。その手つきが優しくて――こういうところが男はずるいと思う。きっと、これがギャップ萌えとか女子が言っていたことなんだろうな、とエレンは思った。飲み干して空になったペットボトルを受け取ると、男はもっと飲むかと訊いてきたがエレンは首を横に振った。そして、それが自分が好んでよく飲んでいるスポーツドリンクだと気付いた。

「これ、リヴァイさんも好きなんですか? オレもよく飲むんですけど」

 その言葉にリヴァイが苦笑とも微笑とも取れる笑みを浮かべ、やっぱり、お前は覚えていないんだな、と言った。

「覚えてないって、どういうことですか?」
「俺とお前が初めて会ったときの話だ」

 そうして、リヴァイが話し出したのはもう数ヶ月も前になるある朝のことだった。
 その日、朝からリヴァイは体調が悪かった。連日仕事が忙しかったのと、そのために睡眠不足に陥っていたのが原因だったのだろうと推察される。軽い貧血を起こし、やばいな、と思ったリヴァイはホームのベンチで休んでいた。そこへ、声をかけられたのだ。

「あの、顔色すごく悪いですよ、駅員さん呼びましょうか?」
「いや――軽い貧血だ。少し休めばよくなる」

 貧血で視界が暗く、相手の顔も見られなかったが、声はまだ十代ぐらいの若い男の声だった。離れていく気配がして行ったか、と思ったが、再び近付いてくる気配がした。

「あの、もし飲めるんなら水分摂った方がいいと思って。良かったら」

 声の主が差し出したのはスポーツ飲料のペットボトルと何故かチョコレートバーだった。

「朝食はしっかり食べないとダメですよ。チョコはカロリー摂るのにいいので、ついでにこれも」

 お節介ですみませんと、言ってから、相手はイェーガー、と呼びかけられてリヴァイの許から離れていった。暗い視界の端に映ったのはおそらくは高校のものだと思われる制服。
 その少年はリヴァイが礼を言う間もなくいなくなってしまった。
 だが、ずっと、リヴァイはその少年のことが気になっていた。顔も見ていない少年のことを。同じだと思われる制服を着た少年を街中で見かけると自然と目で追ってしまうくらいには。
 まさか、ふらりと入った店で再び遭遇するとはリヴァイも思わなかった。どうしても忘れられなかった声とイェーガーと書かれた名札に、おそらくは高校生くらいだと思われる少年。リヴァイが遭遇したあの少年に間違いないと思った。そして、目つきが悪いと怖がられてしまうことの多い自分に、少年は男を怖がる素振りも見せずに明るい笑顔を向けたのだ。客商売なら当たり前だと言われるかもしれないが――そこでリヴァイは恋に落ちたのだった。

「それからは店に通った。最初のうちは判らなかったが、お前がシフトに入っている日を割り出してその日に行くようにした。他のものが怖がるせいかお前はずっと俺の接客してたから、何か切っ掛けがあればいいと思ってたんだが、掴めなくて通い続けた。……我ながらストーカーみたいでちょっと落ち込んだこともあったりしたが、それでも会いたかった」

 そう言ってから街で会ったのは本当に偶然だぞ、と続けた。

「だから、その切っ掛けを離すまいと思った。強引にメシおごったのもそういうことだ。……気持ち悪かったか? エレン」

 少年は真っ赤になりながら、ベッドの中でふるふると首を横に振った。

「ずるいですよ、リヴァイさん、今頃そんなことを言うなんて」

 確かに知り合って間もない頃にそんなことを言われたらちょっと引いていたかもしれない。女の子が相手ならともかく自分達は同性同士だ。だが。

「こんなに好きになっちゃったら、もう嬉しいだけじゃないですか」

 ずるいです、と繰り返す少年に、男は安堵したように破顔した。
 その後、覆いかぶさるように男が落としてきた口付けはショコラよりも甘かった―――。





≪完≫





2013.9.22up




 またしても、肝心のところはフェードアウト(爆)。兵長がストーカーチックだとか、現代設定だと犯罪くさいとかは言わないお約束で。話の都合上、ミカサはいませんが、この後、きっとアルミンは小姑になると思います。書いてて無性にスイーツが食べたくなりました(笑)。でも、結城はチョコは好きですが、チョコケーキは買わないタイプです。



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