RING





 壁外遠征に出かければ多くの者が命を落とす。新兵が初めての壁外調査で生き残る生存確率は50パーセント。三年もの歳月をかけて育てあげた兵士を一回の遠征で半分も失くすのだから、周りからの騒音――批判が浴びせられるのも無理からぬことと言えた。それでも、調査兵団の兵士達は自由の翼の下、命を賭して人類のために戦っている。
 遠征で命を落としたものの遺体は残念ながらその総てが回収出来るわけではない。巨人に飲み込まれたものや、隊列からはぐれ誰の目も届かないところで亡くなったもの、隊が全滅すれば詳細も判らないし、回収しようにも出来ないものが多い。そもそも、荷馬車を失ってしまえば、遺体が目の前にあっても運ぶのは不可能だ。荷馬車にはまず、馬を操れなくなった負傷者――生きているものを乗せることを優先するべきだし、そうなった場合、遺体ではなく遺品――身に付けていたものや毛髪などを代わりに持ち帰り、遺族に渡すこともある。
 また、そのときに回収出来なかったり、発見できなかった遺体をその後の遠征で見つけることもある。余裕があれば遺品をそのときに持ち帰るが、これも運次第と言えた。

 そして、この回収された遺体や遺品は個別に分けられ、遺族へと渡される。兵士が直接家族に渡すこともあるが、遠方のものには出向く時間がないので運搬を生業としている業者に頼んで兵団からの通知とともに配送される。また、兵舎暮らしをしていたものの遺された私物が多い場合はそれをどうするか聞くこともあるし、家族の死を知ったものが直接遺品を引き取りに来ることもある。

 この遺品を引き渡す作業にリヴァイが協力しているとエレンが知ったのはつい最近のことだ。特に自分の部下だったものの遺品は彼が渡すことが多いのだという。
 だが、今は少年の身柄を男が監視するという役目があるため、その作業を断念したと聞き、エレンは自分も同行すると申し出た。リヴァイがエレンから離れることが出来ず出かけられないというのなら、自分が彼についていけばいいのだ。勿論、リヴァイとて忙しい身なので、時間が出来たときに、出来るだけという条件になるのだが。上層部から、エレンの同行を許され、その準備が整ったとき、二人の許にどういうわけかハンジがやって来た。

「エレン、リヴァイ、良かった、出発する前で。ちょっと頼みたいことがあったんだよ」
「断る」

 男の回答は一秒を切るコンマ何秒という早さだった。

「ええ、ちょっと、まだ私何も言ってないよね? 聞く前に断るって酷くない?」
「お前の頼み事なんざどうせロクな事じゃねえんだろ」

 酷いなあ、と肩を竦めるハンジにエレンはフォローしてやることが出来ない。確かに、彼女が持ち込む頼み事なんて嫌な予感しかしなかったからだ。

「まあ、話だけでもいいから、聞いてよ。リヴァイが遺品を渡しに行くルートに丁度遺品を届けて欲しいところがあるんだ。そこについでに立ち寄って欲しいんだ。……受け取ってくれるかは判らないんだけど」
「何だ、それは?」

 眉を顰める男にハンジは深い溜息を吐いた。



「受け取り拒否、ですか?」

 エレンが怪訝そうな顔をすると、ハンジはそうなんだよ、と続けた。

「二年半くらい前だったかな、その男性兵士が亡くなったのは。その当時は遺体回収は出来なかったんだけど、兵舎に私物が残ってたから、遺族がいたら渡そうと思って彼の連絡先に手紙を送ったんだよ。そうしたら……」

 そのものはうちとは何の関わりもないただの他人ですから、そちらで勝手に処分してくださいとの返事が返って来たのだそうだ。

「連絡先って……家族じゃなかったんですか?」
「それが、何でもそこは兵士になる前に彼が働いていた商家だったらしくて、彼の家族はもう亡くなっていて身寄りが誰もいないらしいんだ。一応、兵士を向かわせて応対させたんだけど、けんもほろろに突っ返されてね。そのときはもうそれ以上どうしようもなかったんだけど……その後の遠征で彼の遺体が見つかったんだよ」

 運よく回収された彼の遺体は共同墓地に埋葬されたが、その際に遺体とともに見つかった遺品をどうするか、という話になったのだ。

「前に断られているし、いっそ、彼と一緒に埋葬しようかとも思ったんだけど、ちょっと、勝手にそれが出来る品じゃなかったんだよ」

 ハンジにその遺品の詳細を聞かされて、成程、とエレンは頷いた。それならば、勝手に処分出来なかった理由が判る。

「また、関係ないって言われるかもしれないけど……聞くだけ聞いてみて欲しいんだ。彼の遺品を渡す人がもう本当にいないのかどうか」

 ハンジの言葉に頷くエレンを見て、男は仕方なさそうに了承の旨を彼女に伝えたのだった。





 その家に着いたとき、エレンはぽかんと口を開けるしかなかった。とにかくバカでかい、の一言に尽きる。商家というものはやはり、そんなに儲かるものなのだろうか。商会主の中には憲兵団と癒着して賄賂を渡し、私腹を肥やしているものも多いと聞くが、ここもそういう家なのだろうか――と、考え、エレンはいやいやと首を横に振った。証拠も何もないのに決めつけてかかるのは良くない、と思ったからだ。
 ここは、関係ないと突っ返されるかもしれないと言われた兵士の連絡先とされていた商家だった。ここが今回の遺品引き渡しの最後の場所で、これが終われば後は帰るだけとなっていた。

「オイ、エレン、取りあえず、話だけしに行ってみる。少し待ってろ」
「はい、兵長」

 取りあえず、身元がはっきりしていたからか、門は通されたが、遺品を受け取ってくれるかは判らず、リヴァイは話を通すために屋敷へと歩いて行った。

「…………?」

 手持無沙汰にエレンが待っていると、どこからか綺麗な歌声が聴こえてきた。高くのびやかな美しい女性の声だ。

(あ、この声―――ちょっとだけ母さんに似ている)

 少しだけ――特に高く伸びる高音が母親の声に似ていると思った。いったい、どんな人がこの歌を歌っているのだろう。澄んだ美しいその旋律がどこから聴こえてくるのか気になったエレンはしばしの間迷っていたが、ほんの少しだけ、すぐに戻るからと自分に言い聞かせて声の方へと足を延ばした。


 そこは野趣あふれる美しい庭園――とでも言ったらいいのだろうか、色とりどりの花が咲き乱れ、美しい花々が目を楽しませ、更に馨しい香りで訪れるものを歓迎していた。
 そして、その美しい花園の中心にある花畑で、一人の女性が花冠を編みながら歌を歌っていた。先程から耳に届いていた歌声はこの女性のものだったらしい。
 絹糸のような、と称されるに相応しいだろう銀色の長髪はさらさらと流れ、綺麗な蒼氷色の大きな瞳は長い睫毛で縁取られている。形の良い鼻梁、陶磁器のような白く滑らかな肌に薔薇の花弁を浮かべたような頬と、艶やかな唇――ここまで並べられると、女性の美醜には疎い少年も素直にとても綺麗な人だと思った。年齢は二十代前半くらいだろうか。ふんわりとした水色のドレスに身を包んだその女性は、エレンの気配に気付いたのか顔を上げ、驚いたように目を見開いた。

「あ、すみません。オレ。驚かす気じゃなくて―――」
「アル? アルなの?」

 エレンが止める間もなく、その女性はエレンに抱きついてきた。女性特有の身体の柔らかさと甘い匂いに思考が停止しかけるが、エレンは何とか女性を引き離し、ひ、人違いです、と上擦った声を上げた。

「アルじゃないのね……」

 女性は寂しげな声を上げ、少年は別に何も悪いことをしていないのに、すみません、と謝っていた。

「あの、その方は恋人なんですか?」

 何か話題をと話を振る少年は、先程の寂しそうな様子を思い出し、この話はよくなかっただろうか、と思ったが、女性はにっこりと笑った。

「婚約者よ。アルが帰ってきたら私達結婚するの。ああ、早く戻らないかしら……」

 そういう女性の左手の薬指には確かに銀色の指輪がはまっている。女性はそれが楽しみでたまらない、というように笑うと、先程の場所に戻り、編んでいた花冠を手早く仕上げた。

「あの……」
「はい、屈んで」

 反射的に少年が従ってしまうと、女性は少年の頭に出来たばかりの花冠を載せた。余りの事態に少年はフリーズしてしまう。

「よく似合うわ、アルにもね、花冠を作ってあげていたの」

 夢見るような美しい瞳で、女性は私のアル、と呟いた。

「きっと、アルが帰ってこないのは、悪い魔女に呪いをかけられたからなのよ。だから、毎晩、お祈りしているの。だから、きっと、アルはもうすぐ、帰ってくるわ」
「はあ……?」

 突然、わけの判らないことを言い出した、女性に少年は戸惑う。

「アル、アル、私のアル……」
「リオネッタ様ー!」

 そのとき、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえてきた。女性がそちらに顔を向けたということは彼女の名前がリオネッタなのかもしれない。

「呼ばれているみたい。じゃあね、可愛い兵士さん」

 そう言って、彼女はドレスの裾を摘まんで、優雅に挨拶すると、そのまま走り去ってしまった。取り残されたエレンは唖然とするしかない。

(何だったんだろう、あの人)

 様付けで呼ばれていたことを考えると、この屋敷の令嬢なのだろうか――他にも若い女主人とか色々な可能性が考えられるが、確かめる手立てはない。
 首を傾げていると、後ろからどかり、と衝撃が走った。

「オイ、エレン、お前よ、大人しく留守番も出来ないのか」

 よっぽど、躾けられたいようだな、と低い声で続ける男に少年はぷるぷると首を横に振った。

「それに何だ、その花は。お前、自分で作ったのか?」
「いえ、何か判らないけどもらったんです」

 いくら何でも、他人の屋敷の庭園の花を勝手に摘んで花冠を編むなんて非常識な真似をするわけがない。恥ずかしくなったエレンは花冠を頭から外したが、男はからかうようによく似合っていたのに詰まらん、と返答に困る言葉を少年にかけた。

「あの、それで、屋敷の人は何て?」

 話題を変えるように少年が訊ねると、男は渋い顔をした――普段から不機嫌そうな顔をしていると言われることの多い男だが、エレンはその程度を見分けられるようになっていた。この様子だと何やら嫌なことでも言われたのだろうか。

「面倒くせぇことになった」
「やっぱり、受け取り拒否されたんでしょうか」
「いや、その逆だ――食事をご馳走するからここに泊っていけ、と言われた」
「は?」

 てっきり、遺品を持って帰れと言われたのかと思ったのに、それでは全く逆の対応だ。この後、近くの街に寄って一泊してから本部に戻る予定だったから泊ること自体には問題はない。だが、どうして―――。
 そこまで考えて、エレンは気付いた――それは、ここにやって来たのが一般の兵士ではなくリヴァイだからだ。人類最強の兵士長は世間でも有名であり、調査兵団を快く思わないものでも彼を批判することは殆どない。彼以上に巨人を倒したものはいないし、その戦績は輝かしく、彼に憧れるものが多いからだ。人類最強の兵士長とお近付きになりたいと思っているものは案外と多い。単純に有名人に会ったことを人に自慢したいものや、調査兵団の上層部に取り入りたいものなど、人によってその目的は様々だが、それはリヴァイ自身ではなく、彼の肩書だけを見て利用しようとしているということで、それがエレンには腹立たしいし、悔しい。

「……そんな顔するな。有名税だと思えばいい。ただで食事を出してくれて泊らせてくれると思えば悪くない」
「でも……」
「何が目的でも、適当に流しておくから心配するな」

 確かにこの男なら、何か身勝手な取引や要望を求められたとしても上手くかわすだろう。だが。

「……それで、兵長が悪く言われるのはオレは嫌です」

 そういう輩は決まって自分の都合のいい展開にならないと、男のことを悪く言う。思っていたよりも大したことはなかっただの、傲慢で自分勝手な男だと、さもそれが本当のことのように吹聴するのだ。

「別に何を言われようが構わない。言わせておけばいい」

 それに、と男は笑った。

「お前が俺を知っている。それでいい。まあ、俺の方がお前の全部を知っているがな」

 そんな台詞をさらりと言われて、エレンは耳まで真っ赤になった。――確かに男には全部、本当に身体の隅々まで知られている関係ではあるが、そんなことをここで言われるとは思わなかったのだ。

「ほら、どうした? 行くぞ」

 笑いを含んだ声にからかわれていることは判っていたが、羞恥に何も言い返せない少年は従うしかなかった。





 通された部屋は屋敷の外観からの想像に違わず、豪華なものだった。使用人に丁寧な態度で宿泊する部屋まで案内されたが、どうにも落ち着かない。案内された部屋はリヴァイとは別で、男は一緒で構わないと言っていたが、主人から申しつかっておりますので、とやんわりと断られた。まあ、夜行けばいいか、と言う男に少年は赤くなるのを堪えるのに必死だった。まさか、こんな人の屋敷で手を出してくるとは思えないが――それより、自分は地下室で寝なくても大丈夫なのだろうか。それ以前にこの屋敷に地下室があるのか判らない。まあ、まさか、この屋敷の人間に自分が巨人化するという兵士です、などと話すわけにはいかないから、やむを得ないとは思うが。

(それにしても……落ち着かない)

 手荷物を置き、客室に備え付けてあったソファーに座ったがどうにも豪華過ぎて落ち着かない。寝台は天蓋付きときているし、ここで自分はゆっくり寝られるのだろうか。
 少年ははあ、と溜息を吐いて部屋から出た。落ち着かないここにいるよりも、男の許可を取って食事の時間まで外で軽い運動でもしていた方が気が楽だと思ったのだ。

「あら、兵士さん?」

 部屋の外に出ると、声をかけられた。声をかけられた方に振り返ると、先程の女性が立っていた。確か、リオネッタだったよな、名前を呼ぶべきだろうか、でも、呼ばれていたのを聞いただけで名乗られたわけではないから、勝手に呼ぶのもどうなのか、そもそも、自分も名乗るべきなのだろうか――そんな考えがぐるぐると回って、結局エレンは無難にこんにちは、とだけ挨拶した。

「こんにちは、はじめまして。お父様のお客様かしら?」
「は?」

 先程会ったばかりの相手にはじめまして、と言われてエレンは戸惑った。これは先程きちんと挨拶をしていなかったから、それを今やり直しているのだろうか。どう対応していいか判らずに、エレンが内心で困っていると、彼女はエレンの言葉を待たずに話を続けた。

「ねぇ、アルを知ってるかしら? 私、彼の帰りをずっと待ってるの」

 そう笑う彼女は本当に綺麗で――その美しい唇から先程と同じことを繰り返す。

「彼が帰ってきたら、結婚するの。私のアル。きっと、魔女の呪いがとけて、彼はもうすぐ、帰ってくるから」
「リオネッタお嬢様!」

 彼女の様子に呑まれて立ち尽くしていたエレンの呪縛を断ったのは使用人の声だった。

「どうしたの、マリア」
「お部屋にお戻りください。今日は旦那様が勝手に出歩かないように、とおっしゃられたではありませんか」
「そうだったかしら?」
「さようでございます。さあ、戻りましょう、リオネッタ様」

 女性は使用人の言葉に頷くと、またエレンにドレスの裾を摘まんで軽く挨拶をした。

「それでは、兵士さん、失礼致しますわね」

 ふわり、と翻るドレスをエレンは黙って見送るしかなかった。使用人はエレンに深く頭を下げ、申し訳ありませんでしたと謝罪した。

「お嬢様は少し……その、お加減が悪くて、どうか、このことは内密に」

 必死な様子にエレンは頷くしかなく、ほっとした使用人は急いで自分の主人を追いかけていった。
 お加減が悪いお嬢様――それはきっと身体のことではなく。

(別に言われなくたって言いふらしたりしないのにな)

 彼女がどうしてああなってしまったのかは知らないが、自分が口を突っ込んでいい話ではないだろう。
 身体を動かすつもりだったが、そんな気力も失せ、エレンは大人しく部屋に戻ることにしたのだった。




 夕食はそれは豪勢なものだった。現れた主人はこれぞ金持ち、という感じの衣服を身に付け、栄養がさぞ行き届いているだろう脂ぎった顔をしていた。体型的には中肉中背でわりに整った顔立ちをしていたが、どこか抜け目のなさを感じさせる目つきの男で、エレンは余り好感を抱けなかった。それというのも、男の口から出るのは自慢話ばかり。男には二人の息子と二人の娘がいて、商売は繁盛、長男と長女は結婚していて孫もいる、子供達は皆優秀で将来的には息子に店を継がせて隠居生活を楽しみたい、とか――全く以ってエレンには必要ない男に関する知識が蓄積されていく。

(長女が結婚ってことは、あの人は次女なのかな)

 この夕食の席には彼女は同席していなかった。長女は嫁に行ったし、二人の息子は商談で忙しいから、家族そろっての夕食は稀だと主人は言う。

「亡くなった兵士はこの屋敷に以前勤めていたと聞きましたが、どういう事情で?」

 リヴァイが、一応、丁寧な言葉で訊くと、主人はあからさまに嫌そうな顔をしたが、それでも質問の内容には答えてくれた。

「知人の息子でしてな。身寄りもないんで不憫に思い、こちらで引き取って働かせてやったのに、何を思ったか、突如兵士になりたいと言い出して六年ほど前に出ていきました。卒業して、憲兵団に入るならともかく調査兵団なんぞに入りおって……本当に恩知らずの男でした」

 この場にいる二人が調査兵団の兵士であるということも忘れたのか、男は失礼な言葉を忌々しげに吐き捨てた。いや、自分達のことはともかく、亡くなった兵士を悪しざまにいう神経に呆れるが――エレンはぐっと堪えた。自分がここで騒げばリヴァイに迷惑がかかってしまう。

「――――――」

 そのとき、どこかから歌声が微かに届いた。母親の声に似た優しい歌声はおそらく彼女のものだろう。

「あの歌はどなたが?」
「――娘のものです。お聞き苦しいものを、すみません」
「構いません。ですが、娘さんとお食事はご一緒にはとられないんですか?」

 リヴァイが当然とも思える質問――家族が同じ家に同じ時間帯にいるというのに何故食事を別にするのか、を訊ねると、主人は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「娘は、少々体調を崩してまして――普段から別なんです」

 そう言ってから、男は何か思いついたように、リヴァイに視線をやった。

「良ければ、兵士長殿が、娘を元気づけてやってくれませんか。人類最強の兵士長のお話なら、きっと興味深く一晩中でも飽きないでしょう」
「…………」

 若い女性の部屋で夜に話す――この裏の意味が判らないわけがない。エレンはテーブルの下で拳を握り、リヴァイはその下世話な話に眉ひとつ動かすことなくきっぱりと告げた。

「妙齢のご婦人の私室に夜訪れるなどしては、妙な誤解を招くでしょう。娘さんもお困りになるでしょうし、私にも誤解されては困る相手がおりますので」

 言葉は主人に向けられていたけれど、その視線は真っ直ぐに少年に向けられていた。熱くなる胸を誤魔化すように少年はグラスに注がれた水を咽喉に流した。
 男は、こういうところがずるくて敵わないのだと、少年は余り効果のなかった水を再び口にした。




(眠れない……)

 豪華な寝台のせいなのか、夕食の一件があったからなのか、エレンは目が冴えて少しも眠れなかった。眠らなければ明日に響くのは判っていたが、寝返りを何度も打っても眠りはさっぱり訪れない。はあ、と溜息を一つ吐くとエレンは起き上がり、部屋の外へと出ていった。


 気分転換に外の空気でも――そう思ったのだが、困った事態にエレンは陥っていた。

(……迷った)

 この広大な屋敷の間取りを一日で把握する方が難しい上に、今は昼間と違って夜だ。照明は落とされているし、手元のランプだけでは心許ない。自分の部屋に戻ろうかとも思ったのだが、それももうすでに判らなくなっていた。自分は方向音痴ではなかったはずだが――と思いつつ歩いていると、微かに人の声が聞こえてきた。天の助け、とばかりにエレンはその声のする方へと進んだ。
 見ると、ほんの少しだけ扉が開いている部屋があり、中の灯りがその隙間から洩れていた。声もそこから洩れているようで、事情を話すのはちょっと恥ずかしいが、頼んで部屋まで案内してもらおう。エレンが、声をかけようと扉に近付いたとき――。

「それを渡すんだ、マリア」
「ダメよ。だって、これはアルフレートの遺品でしょう? お嬢様にお渡ししないと」
「旦那様のご命令だ。お前だって判ってるだろう」

 何やら中でもめているような声が聞こえた。女性の方には聞き覚えがある――マリアと呼ばれていた、リオネッタという令嬢と一緒にいた使用人だ。中に入ろうとしていたエレンは戸惑った。これは自分が立ち入っていい話なのだろうか。だが、今―――。

(遺品って言わなかったか?)

 遺品といえば自分達が運んできた亡くなった調査兵団の男性兵士のものが真っ先に浮かぶが、それのことなのだろうか。

「処分しなきゃ、俺達が罰則を受けるんだぞ。早く渡せ」
「ダメよ! これはお嬢様に渡さなきゃ! あのときだって、勝手に追い返したくせに!」
「渡したって、お嬢様には判らねぇだろ! もう頭がいかれてるんだって世話してるお前が一番判ってるくせに」
「ダメよ! 絶対にダメ! ……だって、お嬢様は待ってるんだもの。ずっとアルフレートを待ってるんだもの。これをなくしたら、きっとお嬢様はもう二度と元に戻らなくなっちゃうわ!」
「いいから、渡せ――」

 ちょうど、そのとき、ばんっと、扉が開いて、女性を乱暴に掴もうとしていた男の手を逆にエレンが掴んだ。

「……何の話をしてるんですか? 彼女が持ってるそれ、オレ達が渡した遺品に見えますけど」
「あんたには関係が―――」
「俺も、話を聞かせてもらいたいが?」

 その声にその場にいた全員が視線を向けると、扉に凭れるようにして、人類最強が凶悪な笑みを浮かべていた。





 綺麗な歌声が聞こえていた。時刻は真夜中だというのに、歌っている彼女は時間帯など全く気にしていないように見えた。真夜中の庭園、彼女がいることを考慮したのか、辺りには灯りが灯されていたが、それすらも彼女には見えていないようだった。
 かさり、と草を踏み分けるような音がして、彼女は顔を上げた。

「こんばんは、兵士さん。はじめまして、お父様のお客様かしら?」
「……こんばんは」

 彼女に会うのは三度目だと言うのに、彼女はまるでそのことを忘れてしまったのかのように笑う。

 ――お嬢様とアルフレートは恋人同士だったんです。

 亡くなった男性兵士がこの屋敷の主人の知人の息子だというのは本当だが、両親が亡くなった彼を不憫に思って引き取ったというのは大嘘だと彼女は言った。ただ働きさせられる人手が欲しかっただけで、彼は屋敷でかなりこき使われていたという。
 だが、彼には商才があったらしい。マリアの話では、主人の息子達よりもよっぽど優秀で、頭が良く、道具や肥料を改良して生産力を上げたり、無駄を省いて効率を良くし、彼が商売に関わってから売り上げは数倍になったという。気を良くした主人は娘との恋を見て見ぬ振りをした。男にとって商売の役に立たない次女など、取引先にでも嫁がせる道具にしか考えていなかったからだ。
 だが、六年前、彼、アルフレートが兵士になりたいと言い出して、もめにもめた――彼が商売から外れるのは痛手だったし、折角の稼ぎ頭に兵士になられたらたまらないと。だが、男が訓練兵になっても手紙で商売の指示を続けることと、卒業後は憲兵団を目指すことで決着がついた。男が憲兵団に入れば、そこから働きかけ自分に有利な商売が出来ると思ったのだろう。
 このとき、アルフレート、十八歳、リオネッタは十七歳だった。彼は必ず戻ってくるからと彼女に告げ、訓練兵へと志願したのだ。
 しかし、卒業後、彼が入隊したのは調査兵団だった。

 ――元々、アルフレートは調査兵団に入りたかったんだと思います。彼の亡くなった両親は二人とも、調査兵団の兵士でしたから。

 主人の怒りは凄まじかったらしい。あの男はもううちとは全く関係がないと宣言し、屋敷に残されていた彼の私物は全部処分された。そして、その半年後、彼が亡くなったときも遺品を受け取らず、使者を追い返したのだと言う。
 主人にとって一番の誤算だったのは、リオネッタが恋人の死を知って狂ってしまったことだ。彼は娘の狂気を隠し通そうとしたようだが、人の口に戸は立てられない。どこからか洩れた噂は広がり、娘をこうなったらどこかに嫁がせようとしていた男の目論見は達成されなかった。どんなに美しくても、人前に出せない狂人の妻を欲しがる男などいなかったからだ。
 リヴァイにあんな話をしたのも、狂人と知らなければ既成事実さえ作ってしまえば何とかなると思ったのだろう、とマリアは吐き捨てるように言った。――彼女にとっての主人はリオネッタで、この屋敷の主人ではないようだった。

「ねぇ、アルを知らないかしら? 彼の帰りを待っているの。私達、彼が帰ってきたら結婚するの」

 そう言って、笑う彼女の笑顔は綺麗で――綺麗過ぎて胸が締め付けられる程。

「アルフレートさんは亡くなりました」
「? 何を言っているの?」
「彼は亡くなったんです。本当はあなたも判っているはずでしょう」
「……あなたも、魔女ね。魔女の仲間なのね、同じことを言ってる」

 彼女は途端、警戒する目になり、少年を睨みつけた。

「あのときも魔女が来たのよ、彼が死んだって。お父様と話しているのを聞いたの。きっと、あのときに呪いがかかったのよ」

 彼女が言っているのは二年半前にハンジが送り出したという調査兵団からの使者だろう。――彼女はそれを、彼の死を受け入れられなかった。だから、呪いだと言い張り、彼の好きだった歌を歌い、祈りを捧げ彼が再び自分のところに戻ると信じて待っている。
 けれど、もう、こんなことは終わりにしなければ。
 彼女を愛した彼はこんな彼女の姿を望んでいない。

「これを見てください」

 エレンが自分の掌の上に乗せて彼女の前に差し出したのは、銀色の指輪だった。小さな青い貴石がついたシンプルだが丁寧に作られたもので、これは彼の遺品の一つだった。

「あなたの左手の薬指にも同じデザインの指輪がはまっている。……見てください。指輪の内側にあなたの名前が彫ってある。彼が持っていた指輪です」

 彼女はおそるおそるといった感じにエレンから指輪を受け取った。少年の言った通りに指輪の内側には自分の名前が刻まれている――それを確かめなくても、見た瞬間に彼女には判った。自分とおそろいのこの彼の指輪を自分が見間違えるわけがないのだ。彼から指輪を渡された時の幸福を今でも自分は覚えている。

「……あなたの指輪には彼の名前が刻まれているのでしょう? 彼の死を受け入れてください。彼はあなたの―――」
「……アルは死んだの?」

 呆然とした声が彼女の口から零れた。
 ――必ず帰ってくるから、そうしたら結婚しよう。
 今でも鮮明に耳に残っている彼の声。二人でかわした約束の証の指輪。

「もう帰ってこないの? アルはもういないの?」

 エレンが頷いた瞬間、凄まじい絶叫が響いた。

「あああああああぁあああああああああぁあああああぁああぁ!」

 髪を掻き毟り、言葉にならない声を上げながら、彼女は物凄い速さで走りだした。突然の事態の変化に戸惑うエレンは反応が一瞬遅れ、慌てて彼女の後を追いかけた。

「リオネッタさん、待って、どこに―――」

 彼女が向かった先には庭園の隅に設置されている小屋があった。その意味に気付いたエレンは大声で彼女に制止の声をかけていた。

「ダメです! 待って――やめろぉ!」

 庭園の隅に設置された小屋の中には庭園の植物を手入れする道具が収められている。枝を切る鉈や花の剪定をする鋏など――つまりはよく手入れされた刃物が。
 彼女が小屋に辿り着き、中から出した刃物を手にして首に当てたのと、エレンが彼女に追いついたのはほぼ同時だった。
 間に合わない――だが、惨劇は起こらなかった。音もなく彼女の背後に忍び寄った影が、手刀を食らわせて昏倒させたからだ。崩れ落ちる彼女を支え、持っていた刃物を近くに放り投げると、お前はバカか、と彼女を救ったその人物――リヴァイは少年にそう言葉を投げた。

「追い詰められた人間は何するか判らん。もっと警戒しておけ」

 お前がどうしても放っておけないっていうから任せたが、逆にお前が切りかかられる可能性だってあったんだぞ、と言われ、少年は反省するしかない。

「……すみません」

 ぐったりと意識を手放してしまった彼女は、次に目を覚ました時にどうなるのだろうか。再び、死のうとするか、それともまた狂気に逆戻りするのだろうか。総ては彼女が目を覚まさないことには始まらない。
 が、それまでにやっておくことが一つ出来た。そのためにエレンは彼女をリヴァイに任せ今来た道を戻り出した。




 彼女が目を覚ましたと聞いたのは、翌日の昼過ぎのことだった。リヴァイと二人で彼女の部屋に向かったエレンは寝台の上に横たわった彼女と対面した。

「……正気みてぇだな」

 ぽつり、とリヴァイが呟くように、言った。

「てっきり、正気に戻ったらまた刃物を振り回すかと思っていたんだが、大人しいな」
「兵長!」

 エレンが咎めるように言うと、彼女は淡々とした声でそれに返した。

「マリアが、泣くから。どうか死なないでくださいって、泣くから。……この屋敷で私を想ってくれて、優しくしてくれたのはアルとマリアだけだった。お父様はお金を稼ぐことしか考えてなくて、屋敷の人間はお父様の命令に従うだけのただの人形。この屋敷は綺麗に見えるだけで空っぽなのよ」
「だが、その父親のおかげでお前は何の不自由もなく贅沢に暮らしてきたんだろう。その生活を享受してきた自分は棚上げか?」
「あなたには、判らない」

 そう言って、彼女は遠くを見るような目をした。取り戻せない昔を懐かしがっているような。

「私にはアルとマリアしかなかった。アルが戻ってきたらこの家を出るつもりだった。アルと結婚して、マリアも呼んでそうやって暮らしていくつもりだったのに―――」

 そこで、彼女は言葉を詰まらせ、二人を睨みつけた。

「何で、やって来たの! 何で放っておいてくれなかったの! 私は幸せだったのに! アルがいつか帰ってくると信じて待っていられたのに! あなた達さえ来なければ、私は幸せでいられたのよ!」

 肩で息をしながら、そう叫んだ彼女に、それでも、自分は彼の心を届けたかったんです、とエレンは告げた。

「アルの心……?」

 頷いて、少年は彼女の手にそっと小さなものを落とした。それは、彼女が死を選ぼうとした際に放り投げてしまった彼の指輪だった。

「お前が投げ捨てたものをそいつが一晩中かけて探し出したんだ」

 あの後、少年が元来た道を戻ったのは、彼女が投げてしまった彼の遺品の指輪を探すためだった。彼女が通った場所、庭園の花畑から何まで、言葉の通り草の根を分けて少年はこの指輪を探し出したのだ。
 リヴァイの言葉に彼女は少年と手の中の指輪を交互に眺めた。

「兵士というのは、基本、指輪をはめることは許されないんです。剣を握るときや立体起動装置を操るときに邪魔になるから。だから、彼はこれを鎖に通していつも身に付けていたそうです」
「―――――」
「彼の遺体が発見されたとき、その指輪は彼の掌の中にありました。推測ですが――彼は死の間際にこれだけは手放すまいと必死に握り込んで守ろうとしたんです。だから、この指輪はこうして残された」

 エレンの言葉に続けるようにして、リヴァイも男のことを話した。

「――昔、銀の指輪をいつも首にかけていたやつを知っていた。銀色の髪に青の瞳の恋人と同じにしたんだと言っていた。そいつは恋人が巨人に怯えなくてもいい世界にしたいから、調査兵団を選んだと言っていた」

 いつか、壁の外を自由にその恋人と歩いていけるような世界に。自分達の子供が安心して暮らせる世界になれるように、それに少しでも近づけたら、と。

「俺達は心臓を捧げると誓った兵士だ。だが、心は別に残した。その指輪はそういうことだろう」

 リヴァイが言い終わるのを待っていたかのように、エレンが彼女に他の遺品を手渡した。ぼろぼろになってインクがにじみもう読めないだろう手紙と、自由の翼のエンブレムだ。見覚えのある封筒は彼女が彼に送っていた手紙に使っていたもので、彼は遠征に彼女からの手紙を持っていったのだろう。それこそ肌身離さずに身に付けて。

「何でよう……」

 か細い声が彼女の口から零れた。

「世界が平和になったって、アルがいなきゃ意味がないじゃない。私は傍にいてくれるだけで良かったのに。何で、アルなのよ、何で他の人じゃなくてアルが死ななきゃいけないのよ! アルを返してよ! アル、アル、私のアル……!」

 遺品を抱きしめて大声で泣く彼女にエレンは何も言えず、慰めるように肩に手を置くことしか出来なかった。



「……彼女は大丈夫でしょうか?」

 帰り道、馬に揺られながら話す少年に男はさあな、と答えた。

「あの女次第だろう。――だが、現実を受け入れたことは確かだ。そこにとどまるか進むかは本人の努力次第だろう」
「はい―――」

 しゅん、とした様子の少年に男はそれ、持って来たのか、と声をかけ、少年ははい、と答えた。

「アルフレートさんのお墓に供えようと思って。戻ったときにはドライフラワーになっちゃってるかもしれませんけど」

 エレンが持ち帰ったのは彼女がエレンに被せた花冠だった。彼のために作ったものではないけれど、彼女からの花を墓前に捧げてあげたかった。彼個人の墓ではなく、共同墓地ではあるけれど、いつか彼女自身が彼に花を手向けてくれる日がくるといい。
 彼の心がいつか彼女に届いたときに、それは叶うだろうか。

「……仕方ねぇから、付き合ってやるよ」

 お前からは目が離せないからな、という男にありがとうございます、と少年は告げて、思いを振り切るように馬を進めた。






 ―――それから、しばらく経った後、調査兵団に驚くべき面会客が現れた。エレンは驚きの余り、ぽかんと口を開けた。

「リオネッタさん……?」
「はい」

 はじめ、少年は彼女がリオネッタとは判らなかった。腰まで越える程の長く美しい銀髪を肩に届くか届かないか――いうなればミカサ程にばっさりと切っていたからだ。

「あの、どうして、オレに面会を」
「報告というか、けじめのために――私、訓練兵を目指すことにしました」

 晴天の霹靂とはこのことだろうか。エレンは驚きで言葉を返せずに口をぱくぱくさせるしかなかった。確かに、訓練兵に志願できるのは十二歳からで健康な男女であれば、特に他に決まりはない。亡くなった彼女の恋人の兵士のように十二の年に志願せず、何年か遅れて志願する者も中にはいるが、彼女のように十年以上も経ってから志願する者はまずいないと思われた。その年になればもう他に職に就いているだろうし、中には家庭を持っているものもいるだろう。それに、適性試験にその年で受かるのかどうか――年齢が上になれば体力面でも問題が出てくるだろう。まあ、熟練の兵士でも若いものには負けない体力を持つ者もいるけれど。
 エレンの様子にくすくすと笑った彼女は胸元から鎖を引っ張り出して、エレンに見せた。――そこには二つの指輪が並んでいた。彼女が狂ってしまっても肌身離さず身に付けていた指輪と、少年が届けた彼の遺品だ。

「今まで苦労知らずのお嬢様だったから、腕力ないし、試験受ける年齢よりも十以上も上だけど、これから鍛えて何度でも受けるつもりでいます。彼の心に近付くにはそれが一番だと思うから」
「……調査兵団を目指すんですか?」

 判りません、と彼女は正直に答えた。

「私はやっぱり、世界の平和より、自分の大事な人の幸せを選ぶと思います。世界の平和と愛する人を比べたら、天秤は愛する人に傾く。そういう人間が調査兵団に入っていいのか判らない」
「……………」
「ただ、前に進む決意だけはしようと思って。あれから、本当に死ぬほど考えたから。やっぱり、死んだ方がいいんじゃないかって思ったこともあります。マリアに怒鳴られて、泣かれてやめましたけど」

 すっきりとした顔の彼女に何て言ったらいいのか、判らず、エレンは髪切ったんですね、と間の抜けたことしか言えなかった。

「ええ。何にするのにもあの髪は邪魔になるから。知っていたかしら? 髪って結構高く売れるのよ。マリアに言われるまで知らなかったわ」

 急に庶民的な話になり、エレンはお嬢様がどうして、と思い、不意に彼女の家が彼女の行動を許すはずがないのでは、と思い至った。

「あの、家の方は……」
「ああ、家は出ました。兵士になるっていったらもめた上に勘当されたから二度と戻らないと思います。マリアが付いてきてくれたから助かりました。髪も無駄にならなくて良かったわ」

 再び驚愕するエレンに、ふふふ、っと彼女は笑い、どこか寂しそうな遠くを見るような目をした。

「あの髪は私がアルを待っていた証だから。……でも、もういいの、アルの心はこれからずっと私と一緒にあるから」

 彼女は指輪をぎゅっと握りしめると、再び懐にしまった。そして、あのときに言えなかったことを言いに来たのだと、彼女はエレンに告げた。

「彼の心を届けてくれてありがとう。今は本当にそう思ってます。――それでは」

 ぺこり、と頭を下げると、彼女は来た時と同じに嵐のように去っていった。

「……自分の言いたいことだけ言って帰りやがったな」

 いつの間にかやって来たのか人類最強がそう言うのに、エレンが彼女、兵士になれますかね、と問えばあっさりと無理だろ、との返事が来た。

「そもそもの基本体力がないから、少なくとも今年は無理だろ。年齢的にも厳しいしな。まあ、兵士は無理でも兵団に関わることは出来るし、あの女次第だ」

 以前と同じことを言う男にエレンは思わず、笑って受かるといいですね、と続けた。

「ねぇ、兵長」
「何だ?」
「オレ達は心臓を捧げることを誓った兵士だけど――心は別ですよね。だから、もし、そのときがきたら」

 そのときがどういうときなのか少年は言わなかったけれど、言わなくても男には伝わったようだ。

「オレの心は兵長が連れて行ってください」

 少年がそう言うと、男は何言ってやがる、と少年の頭を軽くはたいた。

「お前の心なんてもう俺がもらってるんだろうが。いつも共にあるものに何を言ってやがる」

 言われて、ぽかんとした少年はそれからみるみるうちに泣きそうな顔になった。

「兵長、それずるいです」
「本当のことだろうが」
「本当のことでもずるいです。じゃあ、オレが心が欲しいって言ったらどうしますか?」
「お前が望むなら。というか、とっくにやったつもりだったが?」
「……………」

 だから、兵長はずるいです、と今度は本当に泣き出した年下の恋人の頭を男はぐしゃりと掻き回した。


 兵士になるときに心臓は捧げた。
 だから、せめて心はあなたに―――。






≪完≫




2013.9.17up





 実は進撃にハマって一番最初に出来たネタがこれでした。でも、色々勝手な設定の上に、オリキャラが出張るのでいきなりこれを書くのは…と思い、先送りにした作品。時間軸は特に想定していませんが、二人にこんな時間が作れるのか…(汗)。リオネッタの後日談は入れるのを迷ったんですが、あのまま終わると暗いので入れてみました。そして、兵長はどうしてもずるい男に……←もはや、うちの仕様。




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