流星群




 エレン・イェーガーという少年に初めて会ったときに一番印象的だったのはその大きな金色の瞳だった。正確に言えば、それは二度目の邂逅であり、初めてリヴァイが少年を認識したのは巨人の身体から引きずり出されてきた、意識も朦朧としていた時だったのだけれど。少年と初めて言葉を交わしたときに見た彼の目が、彼の身の内には少年自身でも飼い馴らすことのできない昏い獣が棲んでいることを物語っていた。
 だから、決して少年の意志を捻じ曲げることは出来ないし、本当の意味で彼が屈することはないのだろうと思っていた。決して手懐けられない獣――そういう印象だったのだ。それが違うのだ、と気付かされたのは彼が同期の仲間と話しているのを見てからだ。いや、彼の中に深く昏い狂気のような衝動が存在するのも確かだが、屈託なく笑うその顔はごく普通の少年のもので、目撃したことがなければ彼が巨人化するなどと聞かされても信じられなかっただろう。思えば、このときに初めてまだ彼が十五歳になったばかりの少年なのだと思い至ったのかもしれない。
 その後、彼はリヴァイ班の面々に懐いたようだった。特に巨人化の実験後、少年が身体の一部だけ巨人化させてしまうという一件が片付いてからは尊敬する先輩として彼らを慕っているのが見て取れた。審議所で手酷い暴行を加えた自分にさえ懐いたのだから、男は内心で驚いたものだ。審議所で周りに噛みついた様子からは想像出来ない――そこで、男は少年の持つ特性とでも言うべきか、彼が内と外の区分けがハッキリしているのだと悟った。

 少年にとって、巨人やそれに味方するものは悪であり、決して許すべき存在ではない。逆に自分の味方、仲間だと認識したものはとても大事にするし、その身を危険にさらしてでも守る存在だ。少年が巨人化する力を得たのは今現在行方不明中の父親の仕業らしいが、初めて巨人化する切っ掛けとなったのは、幼馴染みを助けるために巨人に飲み込まれたせいだと推測される。
 そして、一旦、味方だと認識したものには彼は甘いのだと思う。彼は一緒に戦う仲間だと認識したものを疑うことはしない。
 兵団の中に諜報員がいるだろう可能性にも彼は気付けなかった。あの遠征の前にその情報を聞かされていたとしても、彼は半信半疑だったのに違いない。人を信用し疑わないというのは美点かもしれないが――いずれ、それが鋭い爪や牙となって少年を傷つけるのではないか、と思っていた。
 ―――そして。
 男が危惧したように、諜報員は少年の知る同期の少女だった。




「オイ、エレン、出かけるぞ」

 突如、地下室に現れた男に少年は瞳を瞬かせた。出かけると言われても、自分は女型の巨人との対戦後でまだ体力が充分に回復していないし、王都への召還はなくなったとはいえ、自由行動は控えるべきではないだろうか。それに、男は自分とは違って上層部との会議で忙しいはずだと思うのだが。

「あの、出かけるって……どこへでしょうか? オレ、まだ、体力が回復しきってませんし、今は大事な――」
「馬は用意してある。そんなに遠くではないから、すぐに戻れる。行くぞ」

 有無を言わせぬ調子で男に言われ、エレンはわけが判らないながらも承知することしか出来なかった。


 馬を走らせること小一時間程経っただろうか、すっかり日が暮れて闇の時間に入ったこのときに馬を走らせるのは少々怖い。いや、馬を操っているのは自分ではないのだけど。

(まさか、二人乗りだとは思わなかった……)

 少年の身体の回復状態のことを考慮したのだろう、男はお前一人だと落馬する危険があるから一緒に乗るぞ、と宣言し、少年は馬上に引き上げられた。前に乗せられて身体を支えられた少年は、負担にならぬようになるべく身を縮ませているが、馬を走らせている男には邪魔ではないのだろうか。今宵の空は晴れていて月明かりも届き、更に男は用意周到に灯りまで準備していたので、それ程の危険はないと思うのだが、そこまでして本当にどこに行くつもりなのだろう。

「ああ、この辺りだ。下りるぞ」

 男が少年を連れてきたのは、街から少し離れた高台にある見晴らしの良い開けた場所だった。男は少年を下ろすと近くの木に馬を繋いで、少年の元に戻って来た。

「どうだ、ここは?」
「見晴らしがいいので、索敵はしやすいですが、開けた場所なので立体起動戦には向きません。ここは通過して逃げるのが得策だと思います」

 内地であるここに巨人が現れることはないが、壁外遠征を想定した訓練場所とするなら、ここは迅速に通り抜けるべきところに思える。今は夜なので詳しい地形が判りませんので、調べるなら昼に来た方がいいと思いますが、と続ける少年に男は呆れたように溜息を吐いた。

「そうじゃねぇ。……上見てみろ」

 促されて見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。圧倒される程のそれにエレンはぽかんと口を開けたまましばし、それを眺めていた。男に間抜けな顔だな、と声をかけられるまで。

「立って上向いてたら首が疲れるだろ。ほら、横になるぞ」
「えっ? 兵長、大丈夫なんですか?」

 足元には柔らかそうな草が生えているのでそれ程痛くはないかもしれないが、結局は地面だ。服が汚れるだろうし、そんなところで寝て男は大丈夫なのだろうか。

「大丈夫も何も、ここにベッドはないんだから仕方ねぇだろ。ほら、寝るぞ」

 リヴァイに強引に横にならされたエレンはわけが判らないまま空を眺めた。吸いこまれそうな星空、というのはこういうものを言うのだろうな、と少年は思った。

「……綺麗ですね」
「そうだな」

 どのような意図があってここに来たのか見当がつかず、無難な話を振るが、会話が続かない。本当に男は何の目的で自分をここに連れてきたのだろうか。

「……同期だったそうだな」

 不意に言われて、それが示す言葉が何なのか――エレンはすぐに理解した。今話題にあげるならば、同期というのは彼女のことを指しているに違いない。だが、作戦の詳細を聞いたときにこの男は勿論同席していたし、現時点で判っている彼女の総ての情報を男が知らないはずがない。なのに、わざわざ確認してくるのは何故だろう。

「……はい、同期でした」
「親しかったのか」
「いえ――親しいという程の付き合いはありませんでした。ただ、彼女には――」

 覚えているのはぶっきらぼうに父親のことを話す横顔。どうでも良さそうにしながら、楽しそうに格闘技を使うその姿。彼女はひどく不器用なんだと、エレンは思っていた。

「――戦い方を教えてもらったので」

 彼女との思い出はそれ程あるわけではない。彼女はいつも一人で行動し、またそれを好んでいたようなので、誰かと行動を共にするということは稀だったと思う。その中でも、まだ自分は話したことがある方だったとは思う。彼女に教えてもらった独特の格闘スタイルはエレンが巨人化して戦う上での役に立っているのは確かだ。
 あれはいつだったろうか、エレンが訓練中に足を捻り、過剰に心配する幼馴染みの少女に悟られないようにこっそりと冷やしていたところ、そこにすっと彼女――アニが現れたことがあった。

 ――ほら、湿布、使いなよ。
 ――へ?
 ――捻ったんだろ。明日も訓練がある。早めに手当てしておけばどうにかなるだろ。

 誰にも気付かれていないと思っていた少年は少女の言葉にぽかんとしてしまい、彼女はほら、と呆ける少年に湿布を手渡した。そのまま立ち去ろうとする少女に慌てて少年が礼を言うと、彼女は別に、ただ、怪我人に対人格闘術を使うのは気が咎めるから、とぶっきらぼうに言った。他人を寄せ付けない無愛想ないつもの顔で。
 アニは冷たそうに見えて意外と優しいよね、とは幼馴染みの少年の言葉だったろうか。今となっては何の意味もない言葉ではあるけれど。

「……何で、そんなことを訊くんですか?」

 総ては今更だと、少年は思う。水晶体で身を覆い眠りについた彼女が何を考えていたのかなんて少年には判らない。彼女の昔話をしたところで謎が解けるものでもないだろう。

「……お前の内にいた人間だと思ったからだ」
「え?」
「あのガキが何を考えてたかなんて、俺にも判らねぇ。ただ、お前は仲間だと思ってた。そうだろう」
「―――でも、今は敵です」

 再び、沈黙が二人の間におりたとき、男が不意に空を見ろ、と少年に声をかけた。
 条件反射的に男に従った少年はその瞳に映った光景に息を呑んだ。星が落ちて――いや、降ってくる。たくさんの星が空を流れ美しい軌跡を描いていた。

「流星群だ。今夜、この時間に流れるだろうって言われていてな。ここは流星がよく眺められる場所らしい」
「……よく、星を見ていると人のちっぽけさが判るって言いますけど、それも当然って言うような光景ですね…」
「何言ってる。わざわざ星なんかと比べなくたって、人間なんざちっぽけな存在だろうが」

 男はそう言うと、少年の頬を撫ぜてやっぱり感動して泣くなんて真似はしねぇか、と呟いた。

「星を見たぐらいじゃ泣きませんよ、オレ。そりゃあ、確かに綺麗ですけど」
「――だが、あそこじゃ、お前泣けないだろう」

 男の言葉に少年の動きが止まった。

「お前の幼馴染みがいて、皆がこれからの対応に大忙しで、休む間も惜しいって思ってるだろう」

 少年は帰路中の荷馬車の中で少しだけ涙を見せたようだが、それ以来一切涙を見せなかった。自分に謝罪したときも、同期の少女が女型の巨人だと判ったときも、その少女と戦い勝利し、彼女を捕らえて総てが済んだ後も、むしろ、普段よりも静かだと思えた。同期の少女が女型だと聞いて動揺してはいたようだが、それ以外はむしろ大人しく作戦を遂行しているように見えた。
 だから、男はダメだ、と思った。

「当たり前です。今まで謎だったことがこれから解明されていくかもしれないんですから、止まってなんかいられな――」
「だから、今泣いておけ」

 男の言葉に思わず、起き上がろうとした少年を押さえつけ、押しとどめながら男は続けた。

「これから先もっと残酷なものをお前はきっと見ることになる」

 あの少女には他にも協力者がいたと考えられている。被験体の巨人を殺すのも、エレンを捕らえようと調査兵団を追ってきたのも、到底一人で出来ることではないからだ。特に、女型の巨人となった際には兵士の中に紛れ込むために調査兵団の制服を入手しているし、詳しい日程や陣形の情報など、協力者が調査兵団にいなければ判らないからだ。
 少年には言っていないが、彼女の協力者は同期である可能性が高いと思われている。彼女が連絡を取るのに怪しまれずに出来る一番の相手が同期だからだ。訓練兵というのは基本、卒業するまではどの兵団とも接触する機会が殆どないし、一旦兵団に入ってしまえば違う兵団の兵士同士での交流は殆どない。上層部や分隊長クラスになれば会議や報告などで顔を合わせるが、新兵が違う兵団の兵士と会っていれば目につくだろう。だが、まだ入団して間もない新兵同士なら、同期を見つけてつい話し込んでいたと言えば怪しまれにくいし、言い訳も立つ。勿論、人目を避けて連絡を取り合っていたのだろうが。
 どちらにしても、調査兵団の中にも諜報員がいるということだ。それが誰かはまだ判ってはいないが、その相手と少年との距離が近ければ近いほど、彼は傷付くだろう。
 泣けばいいのに、と男は思う。泣くと言うのは一種の自浄作用で自分に対する許しだ。溜められたものがいつか決壊して洩れ出てしまう前に流してしまえばいいと思う。

「エレン」

 そう言って男はエレンの目の上に掌を置いた。視界を遮られた少年はその手を退けようと手を動かし途中でやめ、力なく下した。

「……兵長はずるいです」
「そうだな」
「……オレ、もう泣かないって決めていたのに……」
「空だって泣いてるんだから、お前が泣いたっていいだろう」

 流星は空が流す涙だと聞いたことがあると男が言うと、少年は口許だけで笑った。

「それ、全然似合ってませんよ、兵長」
「そうか。……ここはロマンチストだというべきところだと思うが?」
「おかしいですよ。おかしくて涙が出ます」
「…………」

 掌が濡れていくのを感じながら、男はもう片方の手であやすように少年の頭を撫ぜてやった。




「……アニとは親しくなかったけど、多分、ちょっと憧れてたんだと思うんです」
「それは妬けるな」

 帰りの馬の上で揺られながらそう言う少年に、男は冗談とも本気ともつかない言葉を真面目な調子で返し、少年は少し笑った。

「兵長とは違いますよ?」
「当たり前だ」

 同じなら躾けるからな、と言われ、これは本気だ、絶対に本気だ、とエレンは心の中で冷や汗を流した。

「それにしても、今日が流星群の日なんて知りませんでした」

 兵長はよく知っていましたね、と話題を変えるように言うと、男はお前の馴染みに聞いたんだ、とこともなげに言った。

「アルミンに?」
「ああ。お前は自分達の前では絶対に弱音を吐かないだろうから、とな」

 だから、あなたが連れて行ってあげてください、と男に頭を下げた少年はどこか悔しそうでもあり、寂しそうでもあった。

「……………」
「いい友人をお前は持った。余り、心配をかけてやるなよ」
「……はい」

 少年はたくさんの人間に愛されている。少年は自覚がないかもしれないが、彼を大事に思うものは多いだろう。

「まあ、でも、お前を一番想っているのは俺だがな」
「……へ?」

 呟くように言われた言葉に少年はぽかんとして、それから真っ赤になった。

「あの、兵長、今の……」
「二度は言わん」
「あの、でも……」
「余り言うと、無理矢理、口を塞ぐぞ」

 言われて真っ赤になって黙った少年に、ああ、言う前に本当に塞いでやれば良かったな、と男は笑った。
 そのとき、遅れてきたように星が一つ空に流れた。
 流れ星に願いを託すなんて男の柄ではないが――それでも、残酷な現実にこの先少年が巡り合ったとき。
 少年が折れてしまわないように、と男は願った。





≪完≫



 
2013.9.14up



 対女型の巨人戦の後。アニ戦で泣かなかったエレンを泣かせたくて出来た話。流星は空の涙だというのは昔読んだ本に出てきた言葉です。原作では星を見に行く時間なんかなかったと思いますが、その辺はスルーで。でも、実際に流星を見ても兵長もエレンも願い事なんてしなそう……。




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