今日のわんこ




 ―――朝起きたら犬になっていた。

(……………何かそんな本あった気がする)

 思わず、エレンは現実逃避したくなったが、どんなに逃げたくても自分が小動物になってしまったのは紛れもない現実である。
 原因は全く以って判らない。ただ、いつものように地下室で眠り、朝目覚めたら、どうにも視界がおかしいように感じられた。寝ぼけ眼であれ、何かいつもよりも天井が高く見える、と目を擦ろうと手を動かしたら、瞳に映ったのは毛むくじゃらの手。驚愕から一瞬にして冷水を浴びせられたように飛び起きたエレンは、自分がいわゆる小型犬――チワワと呼ばれる犬種だ――になっているのを知り、愕然とその場に立ち尽くした。いや、犬に立ち尽くすという言葉が適当かは判らないけれど。
 しばし、呆然としていた少年はようやく衝撃から立ち直り、こうなった原因を考えたが、理由など思い浮かぶはずもない。

(巨人化の影響なのか? いや、でも、今まで何ともなかったし…)

 誰かに相談しようにも自分の口からはくうーん、とかわんとかきゃんとか、犬の鳴き声しか発声できず、人間の言葉が一つも出てこない。言葉が通じなければ意思の疎通がはかれず、自分がエレン・イェーガーという人間であることを証明する手立てがない。あるいは何らかの方法で意思の疎通が出来たとしても、自分が人間だと信じてくれるものはいるのだろうか。
 ぐるぐるとベッドの上で回りながら自分の考えに耽っていたエレンは、近付いてきた足音に気付くのが遅れた。元々、その人物が気配をさせずに近付くことに長けていたというせいでもあったのだけれど。

「オイ、エレン、いつまで寝てんだ。とっくに起床の時間―――」

 不機嫌そうな声と共に地下室の扉を開けた男――リヴァイと小動物になり果てたエレンの目が合った。

「……………」
「……………」

 しばしの沈黙。それからその場に低い男の声が響いた。

「あのクソガキ……部屋に動物を連れ込みやがったな…」

 男の潔癖は有名である。そんな男にとっては動物を許可なく勝手に室内へ入れるなど許し難い行為だろう。しかも、床ならともかく自分はベッドの上に乗っている――ここは男の部屋ではないが、充分に男の怒りを買う行為のように少年には思えた。

(し、躾されるー!)

 そう判断した少年は咄嗟に脱兎のごとく――いや、犬なのだが――その場から逃げだした。背後からオイ、待てという言葉が追いかけてきたが、今更止まれない。捕まればどんな仕置きが待っているのか考えるだに恐ろしい。エレンは今までの人生の中で――いや、今は犬だけれども――一番の猛ダッシュを見せ、男から逃げ切ったのだった。


 とことこと施設内を歩いていたエレンはさて、これからどうするか、と考えていた。リヴァイからは逃げ切ったが、よく考えたら人間に戻ることが出来たらどの道躾が待っているのではないだろうか。その前にちゃんと人間に戻れるのだろうか。誰かに相談したいが、誰に相談をするべきなのかも判らない。アルミンかハンジあたりが無難な気がするが、果たして自分がエレンだと判ってもらえるのか。

「あ、見て、ユミル、サシャ。犬がいるわ」

 声がして首を上げると、そこには同期の女子三人組がいた。

「可愛い。誰かが飼ってるのかな?」
「クリスタの方が可愛いだろ」
「犬ですか……珍しいですね、こんなところにいるなんて」

 三人三様に勝手なことを言っている。エレンはこの同期達に助けを求めるべきか考えて――サシャから危険な視線を感じた。

「確か……犬って食べられたはずですよね…」

 サシャの唐突な呟きに他の二人はどん引きしているのが判る。

「食べたことはないですけど、食糧難のときに食べた人がいるって聞きました。だから、食べられるんだと思います」
「サ、サシャ、本気で言ってるの? あんな可愛い子犬を」
「それにあんな小ささじゃ食いでがないだろ。まずそうだし」
「まずいかどうかなんて、食べてみないと判りませんよ。肉……久し振りのお肉……」

 サシャの目の輝きがどんどん危険な色を帯びていく。身の危険を感じたエレンはくるりと踵を返すとこれまた猛ダッシュで駆け出した。

「ああ、待ってくださーい! 私の晩ご飯!」
(誰が待つかー!)

 エレンは心の中で絶叫すると、サシャを振り切るために更にスピードを上げたのだった。




(つ、疲れた……)

 何とかサシャを振り切って逃げたエレンはもうフラフラだった。相手が、立体起動装置を身に付けていなかったことと、つけていたとしても施設内なので使えないことが幸いした。サシャの食い意地が張っているのは同期では有名な事実だが、今後顔を合わせたときには彼女を見る目が違ってしまいそうだ。

「あれ、こんなとこに犬?」

 俯いてとぼとぼ歩いていたエレンは、不意に頭上からかけられた声に気付いて顔を上げた。

(あ、ハンジさんにミケ分隊長!)

 この二人なら、話が通じるかもしれないとエレンが駆け寄ると、ハンジはエレンを抱き上げた。

「へえ、人慣れしてるね。誰かの飼い犬かな。しっぽ振ってるし」

 言われて無意識に自分がしっぽを振っていたことに気付いてエレンは恥ずかしくなった。話が通じるかもしれない相手に出会えて自分はよっぽど嬉しかったらしい。

「イェーガー?」

 自分の名を呼ばれて思わずそちらを向くと、ミケがすんすんとエレンの匂いを嗅いでいた。

「エレン? この子、エレンの飼い犬なの?」
「いや、その犬がイェーガー本人だと思う。匂いが全く同じだ」

 あっさりと言うミケにハンジはぽかんとして、それから腕の中の子犬をしげしげと眺めた。

「エレン、エレンなのかい?」

 エレンは必死に首を縦に動かして肯定の意を伝える。うるうるとつぶらな瞳でハンジを見つめ、必死に自分がエレンだと示そうとした。

「信じられないけど……エレンみたいだね」
「巨人になれるんなら、今更犬になっても驚かないが」
「成程、やはり、そいつがエレン本人か」

 いつの間にかやって来たのか、人類最強が壁にもたれるようにしてこちらを眺めていた。
 ハンジがその言葉に不思議そうに首を傾げた。

「リヴァイ、エレンだと判ってたわけ? 何で?」
「さっき、地下室に行ったときに見せたそいつの怯えっぷりが、本人にそっくりだったからな」
「……………」
「……………」

 無言になった二人にエレンはと言えば、心の中で冷や汗をダラダラと流していた。やっぱり、これは躾だろうか、お仕置きコースだろうか、とぷるぷると震えていると、頭上から深い溜息が聞こえた。

「そう怯えるな。不可抗力だと判ったから、何もしねぇよ」

 ぽん、と頭を撫ぜられてその気持ち良さにエレンは目を細めた。動物好きには決して見えないのに男の手は的確に気持ちの良いところを撫ぜてきてふにゃりと力が抜けてしまう。

「それにしても、何で犬になんかなったんだか。オイ、クソメガネ、心当たりはないか?」
「えー特にはないかなあ。昨日は巨人になったときに役立つといいかなあ、とエレンの飲み物にこっそり筋肉増強剤入れたくらいだけど」
「……………」

 ――リヴァイの回し蹴りがハンジに決まったのは言うまでもない。




 結局のところ、原因ははっきりしなかったのだが、ハンジのドーピングが原因だとすれば薬が抜ければ元に戻るのではないか、ということで落ち着いた。取りあえず、元に戻す有効な手立てが判らない以上、しばらくの間様子を見るしかない。意思の疎通については文字の書かれた紙をエレンが足で示すことによって可能になったが、犬の身にはかなりの労力を要するので、話を聞くときにはなるべく簡略化して答えやすい、はいかいいえの質問形式にすること、エレンはそれに頷くか首を振るかして答えることに決まった。
 そして、今現在、エレンはリヴァイの執務室にいる。エレンが犬になったからと言ってリヴァイの預かりであることには変わりはないのだ。更に犬の身では訓練や掃除などの雑務はこなせないし、やることがない以上リヴァイの目の届く範囲で大人しくしているより他はない。

(人間だったら、兵長のお手伝いが出来たのに)

 ソファーの上で大人しく伏せのポーズをしてエレンはしゅんとしている。最初は床に寝そべろうと思ったのだが、リヴァイにソファーの上に上げられたのだ。遠慮したが、人間だと判っているものを床に転がしておくのは気分が悪いだろ、と言われ男に従った。
 男の部屋のソファーは柔らかくて、心地好い。エレンがいけないと思いつつうとうととしたとき、ドアをノックする音が響いた。

「リヴァイ兵長、失礼します」

 現れたのはペトラだった。男に決裁が必要な書類を渡すと、視線をソファーに向けて意外そうな顔をした。

「兵長、犬を飼われたんですか?」
「いや、事情があって預かってるだけだ」

 エレンの犬化はリヴァイ班のメンバーにも伏せてある。しばらく様子を見て元に戻らなければ話すかもしれないが、エレンの情報は扱いを間違えれば取り返しのつかない事態になり兼ねないので調査兵団の上層部のごく一部しか知らない。リヴァイ班の面々にはエルヴィンの命でエレンはしばらく別行動を取らせると伝えてある。疑問に思っている者もいるかもしれないが、リヴァイ班ではリヴァイの言葉は絶対だ。口を挟む者はいないだろう。

「可愛いですね。何かエレンに似てます」

 ペトラの言葉にエレンは内心で冷や汗をかいた。まさか、ばれたとは思わないが、そんなに自分は犬っぽいのかと少々へこむ。

「抱っこしてもいいですか?」
「構わないが、落とすなよ」

 大丈夫ですよ、力はありますから、とペトラは言いつつ、エレンを抱き上げてその頭を撫ぜたのだが。

(…………!? ペ、ペトラさん、胸が、胸が当たってますー!)

 ハンジのときには全く意識してなかったのだが、柔らかな感触にエレンは思い切り焦り、じたばたと暴れた。驚いたペトラがエレンを下ろすと、エレンはダッシュで逃げてリヴァイの足元に隠れた。

「……嫌われちゃったのかしら?」

 しゅん、とするペトラに違うんです、すみません、すみません、とエレンは心の中で謝罪を述べているが、それが伝わるわけもない。

「気にするな。こいつは人見知りするんだ」

 リヴァイはサインをした書類をペトラに渡し、一礼して彼女は退出していった。

「エレン」

 男はそう言うと、ひょいっと、エレンを自分の膝の上に上げた。

「これなら、誰かに抱き上げられることもねぇだろ」

 執務室の椅子に座った、リヴァイの膝の上。ここなら見えにくいし、見えたとしてもわざわざ男の膝の上からエレンを抱き上げようとする命知らずがいるとは思えない。だが。

(いくら小型犬でも膝の上に乗せっぱなしって重いんじゃ……)

 訴えようにも、今の自分は話せない。下りようともしたが、絶妙なタイミングでリヴァイに撫でられて、ふにゃりと力が抜けてしまう。

(兵長、それ、反則です……)

 余りの心地好さにうっとりとして、エレンはそのまま男の膝の上で眠りについたのだった。




 ふわふわとした心地好い熱にエレンは瞼を開けた。すると、整った顔の男のアップがあって心臓がドキリ、と音を立てた。動かせる範囲で首を動かすと、自分はどうやらリヴァイに片手で抱き寄せられ、もう片方の手で腕枕されて寝ているらしい――勿論、まだ犬のままだ。
 あれから目を覚ましたエレンはまだ犬の姿であることに落胆し――都合がいいかもしれないが寝て起きたら戻っているような希望を抱いていたのだ――リヴァイに寝てしまったことを詫びた。身振り手振りといった感じではあったが、伝わったようで、男は気にするなと言ってくれた。

(それから、食事して寝たはず……)

 確か、寝たときはソファーだったはずだが、いつの間にベッドに運ばれたのだろう。今夜は少々冷え込んだから気を使ってくれたのかもしれない。
 じっとその顔を見つめていると、やはりこの人はカッコいいな、と思う。怖いし、躾するし、お仕置きするし、厳しいし、怖いし……。

(……って、怖いとこしか言ってねぇ)

 でも、部下思いなことも、冷たそうに見えるだけで意外に優しいことも、信じるに足る頼りがいのある上官であることも知っている。

(後、ちょっと、動物好きなのかな……今まで見たことなかったけど、よく撫でてくれるし)

 元に戻れないのは困るけれど、後、ちょっとくらいならこのままでいいかも、などとエレンは思った。

(そういや、ハンジさん、変なこと言ってたっけ)

 ――ここは、定番のお姫様のキスで元に戻るっていうのはどうかなあ? あ、エレンなら王子様のキスかな?

 試しに私でやってみるかい、と続けてリヴァイに蹴られていたが、そんなもので戻るなら苦労はないだろう。
 確かに、そんな童話があるのは知っているが、あれはお互い好きあってるものの場合で自分には当てはまらない。自分には恋人はいないし、気になっている人といえば―――。

(いや、ないない! 絶対にそれはない!)

 今、一番気になっている人物――目の前の男の顔を眺めてエレンが悶絶していると、ぱちり、と男の目が開いた。

「あんま、動くな……ほら、寝ろ」

 それは偶然の出来事だった。エレンがぶんぶんと頭を振っていたのと、男が寝なおそうとエレンを抱え直したのと、二つの動きが重なった結果の出来事。ちゅ、と柔らかいものが触れて。

「……………」
「……………」

 フリーズしたのは二人とも同じだった。柔らかいもの同士が触れた瞬間――つまりはキスした瞬間しゅうという音とともにエレンの姿は元に戻っていた。一部を除いて。
 リヴァイは、無言で手を伸ばし、犬化の名残をぎゅうっと掴んでみた。

「いたっ! 痛いです、兵長!」

 しゅうんと伏せられた頭上にある耳――いわゆる犬耳を眺め、リヴァイは今度は優しくそれを撫ぜてやった。気持ち良いのか少年の身体から力が抜けていく。

「ちゃんと感覚があるのか。ひょっとして……」

 男の手がエレンの腰の方へと伸び、ぎゅっと握るとふさふさとした感触があった。きゃうん、とまるで本当に犬のような鳴き声を上げてしまって、少年は羞恥で真っ赤になった。

「尻尾もあるのか。こっちもちゃんと感覚があるみてぇだな。何でこんな中途半端な戻り方したんだ?」
「うん…っ、そんなのオレにも判りません。あっ、兵長、触るのやめてくださ……」

 耳裏や尻尾の付け根は特に触られるとぞくぞくするほど、気持ち良い。完全に犬化していた頃から男の撫で方は絶妙だったが、それは今の状態でも有効だ。男の手から逃れたくて身を捩るが、がっちりと押さえられていて出来そうもない。いや、逃げられたとしても、そこでまた問題があるのだけれど。

(オレ、今、裸だし!)

 犬の状態から戻ったのだから、衣服を身に付けているわけがない。当然素っ裸なわけで、男から逃げるにしたって服を借りなければならないのだ――あるいは、自分の服を誰かに持ってきてもらうか。
 が、そのどちらも男は許す気はないようだった。

「なあ、エレン」
「へいちょ……」
「さっき、キスしたよな? キスでこうなったんなら、最後までしたら元に戻れるかもしれんぞ?」
「へ……?」

 男の言葉の意味が判らない。最後までとは一体――数瞬遅れて意味を悟った少年は耳まで真っ赤になった。

「へ、兵長、最後って、最後って……っ」
「ああ? つまりセック――」
「言わないでください! な、何でそんな……そういうのは、好きなもの同士がするんですよ!」

 真っ赤な顔で言う少年に男はお前は俺が嫌いなのか、と問うた。

「嫌いじゃないです。いや、むしろ好きですけど……でも、こういうのは」
「俺もお前が好きだ。だから、問題ないだろう」
「へ?」

 ぽかんとした顔になった少年の隙を見計らったように男の手が動いて、少年は甘い声を上げた。
 今、すごく大事なことを言われたのに、気持ちよさに頭がぼーっとしてしまう。

(好きって言った? 兵長、今オレのこと好きって……)

 じわじわと嬉しさが広がるがこれが好きってことなのか恋愛感情に疎いエレンにはよく判らない。

「だいたい、こういう呪いは愛の力でとけるって決まってんだ」

 およそ、男には似つかわしくない愛の力などと言われても許容量を超えた事態にパンク状態の少年が理解できるわけもなく。
 まあ、諦めろ、と男は笑って少年の唇にかぶりついた。





「あ、エレン、調子はどう?」

 ハンジに声をかけられて、エレンは大丈夫です、何ともありません、と答えた。

「犬になったときはどうなるかと思ったけど、すぐに元に戻って良かったよ」

 結局、はっきりとした原因も元に戻った理由も判らないままだったが、特に影響がないのならよしとしておこう、とハンジは思った。とりあえず、人類最強の蹴りは最高に痛かったので少年のこっそり筋肉増強化計画は諦めよう。

(そういや、あれから何かリヴァイ、機嫌いいんだよねー)

 男の機嫌の良さは付き合いの長いものがよく見ていなければ判らないくらいのものだが、もはや腐れ縁とも言える程の長い付き合いを続けているハンジにはそれが判った。エレンが犬になった翌日――つまりは元に戻った日でもあるのだが、それくらいからだろうか。
 何かあったとすれば、犬のエレンの面倒をリヴァイがみていたくらいしかないのだが。動物との触れ合いは人の心を癒すと聞いたことがあるが、あの男にもアニマルセラピーは有効だったのだろうか。本当に効果があるのなら、兵団で何か動物でも飼ってみるのもいいかもしれない。

「ハンジさん?」

 つい、自分の思考の海に沈んでいたハンジは少年に声をかけられて我に返った。ごめんごめん、と言ってから、再び少年を見て首を傾げた。

「ねえ、エレン、本当に体調は大丈夫?」
「はい、特には」
「いや、何か歩き方がちょっとおかしいというか――腰庇ってるみたいに見えるんだけど。訓練でどっかにぶつけたりした?」

 打ち身なら、医療班に行けば湿布がもらえるから、とハンジが言うのに少年はみるみるうちに真っ赤になった。

「エレン?」
「あ、はい、ちょっとさっきぶつけてしまって。大したことないので! あ、後で湿布貼っておきます!」

 そう言って逃げるように去ってしまった少年にただ、ハンジは首を傾げたのだった。





≪完≫




2013.9.10up



 やっぱり、思いついたら書いておこう作品。エレンって兵長に対しては特に犬っぽいな、とかひっそり思っています。この話のエレン、流されすぎじゃあというのはスルーで(汗)。




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