旋律




 綺麗な旋律が少年の口から零れ出したのを聴いて、リヴァイは少年にその歌が好きなのか、と訊ねた。男に質問された少年は部屋の掃除をしていた手を止めて、きょとり、と大きな金色の瞳を瞬かせた。

「えーと、オレ、今、歌ってました?」
「歌っていたから訊いているんだが?」

 少年はしまったな、という顔をしてうるさくしてすみませんでした、と頭を下げた。それを聞いて男は眉を寄せた。誰もうるさいなんて言ってないのに――むしろ、少年の声は透き通っていてかなり上手に聴こえたから、歌うのが好きで空いた時間にでも歌い込んでいるのかと思ったのだ。まあ、兵士の生活は忙しくて時間を見つけるのが大変なので、歌い込むような時間は作れないかもしれないが。

「オイ、エレンよ、それじゃあ、質問に答えてねぇ。オレは歌が好きなのか、と訊いたんだ」
「あー、好きというか、癖なんです。掃除とかの作業中に口ずさんじゃうのって」
「癖?」
「はい、母さ――母が、歌うのが好きで、いつも家事をしているときには何かしらよく歌っていたんです。それがうつったというか」

 少年の母親は身内からみてもかなり歌が上手い女性だったという。特に子供に教えるということはしていなかったが、歌うのが好きで何かとよく歌っていたから、少年もつられて一緒に歌っているうちに自然と覚えてしまったのだという。その子供時代の名残なのか、掃除や調理などの作業をしているとつい何かしら口ずさんでしまうらしい。訓練中には集中しているせいかその癖は出ないし、歌わないよう気をつけていたのだが、日常、家庭でもしていたような作業中には昔の癖が甦るのか出てしまうことがあり、特に嬉しいことなどがあったときには無意識に口から零れているというのだ。

「最近、嬉しいことがあったのか?」

 エレンは今掃除をしていただけで、特に嬉しいことがあったとは思えない。思い出し笑いのように、何か嬉しいことがあったのを思い返していたのだろうか。それはそれで清掃作業に気を抜いているということで注意をしておくべきだろうか――が、少年の口からは出たのは意外な言葉で。

「はい、兵長に掃除の手つきが良くなったと誉めて頂きましたから!」
「……………」

 満面の笑みを浮かべてしっぽがあったら振り千切らんばかりに振っているだろう少年に、男はその場で押し倒したくなる衝動に耐えた。この年下の部下はクソ可愛いという言葉が頭に浮かぶような可愛らしい発言を時々無防備にするから対処に困ると男は思う。だが、しかし―――。

(一応、恋人なんだがな)

 その辺の自覚がまだ少年には薄い。恋人となってからそれ程日数が経っていないことと、男が上官という意識がどうにもいつでも付き纏うらしい。リヴァイとしても職務中に公私混同することはないし、エレンがしてきたらきっちり躾をしてやるつもりだが、もう少し、恋人として意識して欲しいというのも本音であるわけで。

「あの、すみません、以後は気を付けますので」
「いや、お前の歌は悪くない。訓練中にやったなら、蹴り飛ばすが、清掃時には問題ないから気にせず歌え」

 男の言葉に意識したら逆に歌えなくなりますよ、と少年が言うのに、男がじゃあ意識しないで歌えと無茶なことを注文して大いに少年を困らせたのだった。





「リヴァイー、いるー?」

 ばんっと勢いよく執務室の扉を開け、入室の許可を取らずにズカズカと踏み込んできたハンジにリヴァイは嫌そうに眉を顰めた。

「何の用だ、クソメガネ」
「暇だから遊びにきたー…って、嘘嘘。だから、足構えるのやめて」

 降参、とばかりに両手をあげるハンジに、リヴァイは蹴りを繰り出そうと構えていた足を舌打ちとともに下ろした。臨戦体勢から戻った男にほっと息を吐いたハンジは――人類最強の兵士長の蹴りはとんでもなく痛いのだ――そこで何かに気付いたように、視線を窓の外に向けた。

「ああ、やっぱり、エレンだね、歌ってるの。あの子があんなに歌上手いなんて知らなかったよ」

 リヴァイが許可を出したので、掃除中にエレンはたまに歌うようになった。綺麗な歌声だと調査兵団の兵士の間では中々好評だということを本人は知らないのだが、それを聞いたらどんな顔をするだろうか。リヴァイとしてはエレンの歌を自分以外の人間に聴かせるのは少し面白くない気もするが、のびやかに歌う声を聴くのは楽しみでもあるから歌いたいようにさせている。
 癖、とエレンが言っていたのは本当のようで、そのときによって歌われる歌はまちまちだ。それこそ、よくもこんなにたくさんの歌を覚えたものだ、と感心してしまうくらいに――少年の母親は本当に歌好きだったのだろう。

「あの歌、巨人化しても歌えるか調べたいとこなんだけどねぇ。巨人は喋らないけど、唸り声は上げるし、発見された手帳の記述からしても、発声器官がないわけじゃないと思うんだ。器官ではなくて、知能の問題なのか、エレンに歌ってもらえれば―――」
「オイ、クソメガネ、さっさと用件を言いやがれ」

 自分の世界に入りかけたハンジをリヴァイは蹴りで威嚇する。我に返ったハンジは怖いなぁ、と肩を竦めた。

「用件っていうか、要請なんだけど、団長のお供をして欲しいんだ。エレンと一緒に」
「は? 何だそれは」
「何だそれって言われてもねぇ、そういうご要望が出たらしいよ」

 ハンジの話によれば、兵団に融資しているお偉方の一人が、巨人化出来る少年のことを聞いて是非この目で見てみたいと言い出したのだそうだ。適当に忙しいからということにして、うやむやにしてしまいたかったのだが、相手は本当に有力者なので無下に断ることは出来なかったのだという。

「オイ、そいつは本当に大丈夫なんだろうな。裏で憲兵団と繋がっていて、行ったらそのまま引き渡されたなんてことになったら洒落にならんぞ」
「それは大丈夫だよ。その辺はきちんと団長が調べたみたいだから――だから、余計に断れなくて困っているんだけど」
「? どういうことだ?」
「何かね、ひっじょうーに珍しいものが大好きらしいよ。各地からいろんなもの集めて客に見せびらかせて喜んでいるというか、集めて自慢するのが趣味というか」
「……エレンを見世物にする気なのか」

 確かに巨人化出来る少年なんて人類史上エレンが初めてだ。五年前に現れた超大型巨人や鎧の巨人も少年と同じ能力を持った人間ではないかと推測されてはいるが、彼らに会うことは死を意味する。見てみたいと思うならエレンが最適だろう。

「まさか、巨人化させる気じゃねぇだろうな」
「それこそ、まさかだよ。そんな羨ましい……いやいや、危険なことをさせるわけないだろう。それに、リヴァイも他人事じゃないよ」

 何せ、人類最強だからね、珍しい物好きを刺激する言葉だろう、とハンジは続け、リヴァイは溜息を吐いた。

「断ることは出来ねぇんだな」
「うん、出来ないよ」

 どうやら行くことは決定事項のようだ。少年を連れていくのならリヴァイがともに行くのも決定事項である。リヴァイが少年の身柄を引き受け監視するという名目があるからこそ少年は生かされ、調査兵団にその身を置くことが出来たのだ。ここでリヴァイが少年から離れでもすれば、監督不行き届きだと憲兵団あたりから横槍を入れられかねない。それに、例えそんな名目がなくても恋人を一人で何があるか判らない場所に行かせるなんて出来ないだろう。

「まあ、この際だから休暇に出たつもりで、その屋敷の蒐集物でも眺めてきたら? 何か色々凄いのがあるらしいよ」

 巨人に関する文献とか置いてあるなら見てきて欲しいな、と呑気なことを言うハンジにイラッときた男は、今度こそ本当に蹴りを食らわせたのだった。





「えーと、その有力者のお屋敷にオレも一緒に行くんですか?」
「ああ、すまないが、先方がどうしても君に会いたいと言っていてね」

 エルヴィンの執務室に呼び出された少年は、兵団に融資している有力者の屋敷に同行するように頼まれた。エルヴィンは調査兵団の団長という立場上、内地の中央で行われる会議や、有力者達への挨拶、上層部との会談など出かけることは多かったが、それについてこい、と言われるのは今回が初めてだった。
 見ると、壁にもたれるように立って二人の会話を聞いているリヴァイは苦虫を噛み潰したような顔をしている。彼はこの事態を快く思ってはいないのだろう。だが。

(ただの新兵のオレが団長の命令を断るなんて出来ないし)

 何でその有力者とやらが、自分に会いたがっているのか判らないが、ここは頷くしかないとエレンは承知致しました、と答え、それから少し不安げな顔になった。

「あの、エルヴィン団長。自分は有力者の方々と会うことなんてなかったので、作法とか判らないんですが、何か特別な礼儀作法とか、しきたりとかあるんでしょうか」

 あるなら失礼のないように会うまでに覚えますので、というエレンに、気にするとこはそこなのか、と年長者の二人は突っ込みたくなったが、それは口にせず話を進めた。

「普通にしていてもらえれば問題ないよ。そうだな、上官に対するような態度で問題ないだろう。後は――」

 そこでエルヴィンはからかうような表情を浮かべた。

「審議所で啖呵を切ったときみたいな真似は避けてくれればね」

 痛いところを突かれ、エレンは真っ赤になってあのときは申し訳ありませんでした、と頭を下げた。エルヴィンはいや、あのときは上手くことを運ぶのに丁度いい切っ掛けになったから問題はなかったよ、と微笑んだ。なら、そんな昔のことを蒸し返すな、という話だが、少年はそこには気付かないらしい。

「屋敷にはリヴァイもついていくし――まあ、君の監視という立場だから、離れるわけにはいかないんだが、君も心強いだろう?」
「はい。兵長がいれば、何も怖くありません」

 きっぱりと真面目に言う少年を珍しいものを見たかのように眺めた後、エルヴィンはくすくすと楽しそうに笑い、何故笑われたのか判らない少年は内心で首を傾げた。

「あの、エルヴィン団長?」
「いや、悪かったね。もう下がっていいよ。出発の詳しい予定は追って知らせるから」
「はい、了解しました」

 エレンがそう一礼して去っていくと、エルヴィンはリヴァイに視線を向けた。

「随分と懐かれたものだな、リヴァイ」
「何が言いたい」
「いや、ただ、君がいざというときは彼を止める役目だということを忘れてなければそれでいいよ」
「……………」

 この狸が、とリヴァイは心の中で毒づいて、大丈夫なんだな、と男に確認した。

「ああ、裏はない。本当に純粋な好奇心らしい――まあ、だからこそ性質が悪いとも言えるんだがね」

 金持ちのただの好奇心を満たすのに付き合ってやる程こちらは暇ではない。まあ、それでもどうにもならないしがらみはあるわけで。

「エレンを迎えてお披露目のパーティ企画を立てているらしい。招待客もこちらで把握しているが、紛れ込んで何かを企てようとするものがいないとも限らないから、君も目を光らせておいてくれ」

 エルヴィンの言葉に男は諾、と答えて、憂鬱でしかない屋敷訪問に訪ねる前からうんざりとしたのだった。






「普通だな」

 目の前に座る小太りの男の第一声はそれだった。エレンははぁ、と曖昧な笑みを浮かべて立ち尽くすしかない。
 エルヴィンの執務室を辞去してから後、日時の詳しい予定を知らされ、リヴァイ達と共に馬車に揺られること数時間。件の有力者の屋敷に連れてこられた少年はその屋敷の広大さに驚き、屋敷の中の調度品の派手派手しさに思わずうわぁと小さく呟いてしまったのをリヴァイに聞き咎められて睨まれ、内心で冷や汗をだらだらと流した。そんな二人を見てエルヴィンが何でもない顔の下で必死に笑いを噛み殺していたのを少年は知らない。
 通された部屋にいたのはきらびやかな衣服に身を包んだ中年の男。これまた職人が技術の総てを注いで作ったと思われる豪奢な長椅子に座っていて、エルヴィンに促されるまま挨拶をしたエレンに開口一番そう言ったのだ。
 いったい、それに対してどう返答するべきなのか。何か答えなければ、無礼だと思われるのだろうか。先程からじろじろと値踏みするように眺められて居心地が悪いのも相まって考えがまとまらない。少年がぐるぐると、考えている間に男はまた口を開く。

「まあ、顔はそう悪くないな。巨人化出来る子供などどんなものかと思ったが…不細工ではなかっただけマシか」
「……………」

 男はその後も磨けばもっと見られるようになるだろうとか、何とか言っていたが、エレンはただ黙ってそれを聞いていた。会ってほんの少ししか経っていないが、この男が人の返事など求めていないことが判ったからだ。この男にとっては相手は自分が望んだときに望む言葉を返すのが当たり前なのだろう。すでにこの空間にいるのが、苦痛になってきたが、すぐにそれからは解放された。少年に会って一応は満足したのか、それとももう興味を失ったのか、退室するように促され、エレンはリヴァイと共に部屋を後にした。エルヴィンの方はまだ男と話があるようで部屋に残り、あんな疲れる男の相手をしなければならない彼に少年は心の中で同情した。団長という上の立場になるとやはり人知れぬ苦労がたくさんあるんだろうな、と少年は自分が指導者には向いてないことを今更ながらに自覚した。班長や作戦の指揮なら出来るだろうが、上層部との折衝や駆け引きは自分には向いていない。幼馴染みの少年ならあるいはそれが出来るかもしれないが。
 部屋から辞去した二人は来客用の控室に案内されたが、ここもまた贅の限りを尽くした豪奢な部屋だった。きらびやか過ぎて落ち着かない――先程の部屋もそうであったが、成金趣味丸出しのこの屋敷は質素な生活をしてきた少年にとって居心地が酷く悪かった。ぽすり、とソファーに腰掛けてみるが、おそらくは抜群に座り心地の良いように計算されたそこも少年を落ち着かせてはくれなかった。
 だが、リヴァイはソファーには座らず、オイ行くぞ、と少年に声をかけた。

「あの、行くってどこにでしょう?」

 この屋敷から退去するのなら――むしろ、早く兵舎に帰りたいと少年は思っていたが――エルヴィンに話さなければならないと思うのだが、彼は知っているのだろうか。首を傾げるエレンに男は会場だ、と答えた。

「会場とは?」
「お前、これで終わりだと思っていたのか? これからが本番なんだよ」
「本番って……」
「本日、この屋敷で夜会が行われる。お前のお披露目が目的だ」

 余りの事態にぽかん、とした少年に、男はエルヴィンの奴、わざと言ってなかったな、と舌打ちした。

「あの、どういうことなんでしょう?」

 少年が説明を求めると、リヴァイはあの有力者は珍しいものが好きで普段から人に蒐集物を自慢しているのだが、新しいものがいくつか集まるとそれを見せびらかすために夜会を開き、多くの客を招待するらしい、と告げた。巨人に変身出来る少年もその一つでそこで少年は紹介されるはずだ。厳密にいえば少年は男の蒐集物ではないが、巨人化出来る少年など人類史上初めてだし、そんな少年を屋敷でお披露目出来る程の権力があるというのも誇示出来て男の優越感を満足させるだろう。
 あの値踏みするような視線と言動はそのためだったのか、と少年は納得がいったが、そんな話は聞いていないし人前で紹介されても困る。自分の巨人化はまだ不安定だし、巨人に変身しろなどと求められても出来ないからだ。

「あの、オレ、巨人になれとか言われても困るんですが」
「安心しろ。そんなバカなこと許すか。ただ、適当に愛想よく笑ってりゃあいい」

 夜会は立食形式で、普段口にすることが出来ないような豪華な食事が振る舞われるから、それでも楽しみにしていろ、と男は続けた。エレンはいくら豪華な食事が出されたとしてもここでは落ち着いて味わえないような気がしたが、自分に出席しないという選択肢はない。

(愛想よくしろって言われてもなぁ)

 むしろ、日頃の訓練ではへらへら笑っていようものなら張り倒されるのがオチだから、愛想よくにこにこと笑顔を浮かべるという方が苦手だ。神妙な顔を作る方がむしろ楽だと思われた。

「で、夜会はここの大広間で行われるようだから、下見に行くぞ。何かあったときのために先に調べておく」
「え? でも、それなら今準備で忙しいんじゃ……」
「知ったことか」

 そう言ってスタスタと歩き出して、部屋を出ていく男にエレンも慌ててついていった。



 大広間と言われる部屋がこの屋敷で一番広い部屋であり、演習場かよ、と思わず突っ込みたくなるような広さだった。幾つかのテーブルに花が飾られ、ダンスが踊れるスペースが確保してある。ところどころに飾ってある美術品は男の蒐集物だろう。そことは別に最新のものを集めてあるという一角もあり、自分はこれと同じ扱いなんだな、とエレンは深い溜息を吐いた。

(あれ……)

 ふと、部屋の端に楽器らしいものが置かれているスペースがあり、そこにあった黒い物体にエレンは首を傾げた。

「オルガン?」

 言った直後、違うだろ、と男に軽く頭をはたかれた。

「何でオルガンだ。どう見てもピアノだろうが」
「ピアノ……ですか? 初めて見ます」
「オルガンは知ってて何でピアノは知らねぇんだ」
「オルガンは教会に置いてあるのを見たことがあるんです。……何か、見たことのない楽器とかもありますね」

 これはどうするんだろう、と少年は首を傾げている。それも無理ないか、と男は思う。楽器の演奏を楽しむというのは金持ちの――いわゆる上流階級と呼ばれる層の習慣だ。無論、祭りや行事などでも楽器は使われるから一般市民でも知られている、使われている楽器はあるが、ここにあるのは珍しいものや高価なものばかりで一般家庭で育った少年が知らないのも無理からぬ話だろう。

「眺めるのはいいが、触るなよ。壊したら、お前が10年ただ働きしても返せないものがあるからな」
「………っ、そんなに高いんですか!?」

 吃驚する少年に、楽器の値段はピンからキリまであるが、あの男が安物を置いておくと思うか、と問われ、エレンはズササッと楽器から離れた。
 そして、ものすごく嫌な予感がして、男に訊ねた。

「あの、ひょっとして、夜会に使われるものって……」
「ああ、花器にテーブル、テーブルクロス、銀製のカトラリーに、食器、どれも高級品だ。まあ、せいぜい落として割らないように心掛けろ」

 やっぱりそうか、と少年はその場に蹲りたくなった。それでは、緊張して食事を楽しむどころではない。一応テーブルマナーについては教育の一環としての知識はあるが、普段の生活でそれが使われることはないので正直心許ない――食糧事情が事情なだけに豪勢な食事になどありついたことがないのだ。
 男は立食形式の食事にマナーはそれ程必要ないから気にするな、と言うが。

「兵長は何だか、こういう事態に慣れてるみたいですけど……」
「お前より長生きしてるんだから、こういう場に出席したことがあったっておかしくねぇだろ。エルヴィンの奴のお供に連れだされて面倒くせぇ奴らの相手をしなくちゃいけなかったり……あんときは本当にうざかった」
「……………」

 兵士長という立場で、人類最強と呼ばれる男なら、こういった場所に出席せざるを得ない場面もあったのだろう。思い出したのか、嫌そうに顔を顰める男に、少年はでも、今回は兵長がいてくれたから心強くいられます、と返した。

「……エレン、お前な」
「はい?」
「いや、何でもねぇ」
「?」

 やはり、天然は始末に悪いと、リヴァイは心の中で溜息を吐いたのだった。



 一通り会場の視察を終え、元の控室に戻ったエレンには更なる受難が待ち受けていた。お召し物のお着替えをなさってくださいと言われ、戸惑っていると主人からの指示だという。磨けばもっと見られるようになると言っていたのは本気だったらしく、少しでも見栄えのするように仕上げたいのだろう。だが、渡されたドレスシャツに高価そうなズボンにベスト、その他諸々にエレンはかなり引いていた。男のもの程きらびやかではなかったが豪勢なのに間違いはなく、断りたかったが、リヴァイに着ろ、と命令されて従うしかなかった。こんなことで不興を買っても意味ねぇだろう、との言葉は確かに同意せざるを得ないが、自分は警備も兼ねてここにいますから、動き易い格好でないといけませんので、と丁重な言葉でばっさりと自分の着替えは断った男はずるいとエレンは思った。
 着替えが終わると、髪も整えられ、飾り立てられた自分を鏡で見て何者だよ、と突っ込みを入れたくなってしまった。

「そうしていると、良家のお坊ちゃんにしか見えないな」
「……からかわないでください」
「そういう服を着込んだ感想はどうだ?」
「何か落ち着かないです。機能的じゃないし、何か苦しい感じもしますし」

 上層部の人間は毎日こんな恰好をしてるんなら、大変ですね、と感想を続ける少年に、男は使用人に傅かれて生活をしている人間は動く必要がないから、機能よりもデザイン重視なのだとは教えてはやらなかった。少年はそういう生活など思いもつかないのだろうし、そこが少年らしくていいと思うからだ。

「まあ、数時間の我慢だ。ただ、適当に話を流して笑ってりゃいい」

 男の言葉に了解しました、と返し、少年は憂鬱なだけの夜会の会場へと男と共に足を運んだのだった。




「まあ、これが巨人化出来るっていう子供ですの?」
「何でも巷では救世主とか呼ばれているとか」
「でも……巨人に変身出来るなんて、怖くはなくて?」
「そうね……でも、中々に可愛らしい子ではなくて」
「まあ、そう言われてみれば、綺麗な方ではあるかしら。でも、兵士なんて野蛮じゃないのかしら?」
「……………」

 先程から言いたい放題に言われているのは自分のことだろう。とにかく愛想よくしろと言われたので笑顔を浮かべてはいるが、顔が引きつってきそうだ。取りあえず、この格好に着替えたのは良かったらしく、あの小太りの男にまあ見られるようになったな、との及第点をもらった。エレンとしてはあの男にどう思われようとどうでも良かったが、エルヴィン、及びに調査兵団に迷惑がかかるような事態になるのは避けたかったからそこはホッとした。そのエルヴィンは今はこの場にはいない。今回は他の有力者への訪問もあるので、それが終わった後にまたここに戻って夜会に顔を出す予定だ――本当に団長という立場は忙しいと思う。そして、リヴァイはといえば―――。

「……………」
「……………」

 自分程ではないが、人に囲まれ話している。その内容までもは聞こえないが、中には顔見知りもいるようだ。普段の兵長とは考えられないくらいに穏やかに話しているが、その瞳は鋭く周りを観察している。

(……何か気になるものでも見つけた?)

 リヴァイは何やら、気になるものを見つけたように見えた。勿論、相手にも周りにも悟られないようにしているが自分には何となく判った。まだ、知り合ってからそれ程の時間は経っていないが――自分はずっと、彼を見てきたのだから。

(それに、い、一応、恋人になったんだし)

 未だに信じられないのだが、かの人類最強は自分に好意を寄せているらしい。聞かされたときには思わず、兵長、高熱でもあるんですか、と訊いてしまい、男の怒りを買ったのだが。
 だって、エレンは知っている。あの男は結構もてるのだ。女性兵士の中には彼に思いを寄せているものもいるだろうし、今だって綺麗に着飾った女性と歓談している。ちくり、と胸が痛んだ。
 エレンはやっぱり、間違いだった、気のせいだったと言われるんじゃないかとどこか思っている自分がいることには気付いている。今一つ恋人らしいことが出来ないのはそのせいでもあった。

「ねえ、ここで巨人になって見せることは出来ないのかしら?」

 目の前の着飾った婦人に問われて、エレンは我に返った。そうだ、自分の考えに没頭している場合ではないと気持ちを切り換える。

「申し訳ありませんが、任務以外での巨人化は固く禁じられていますので、お見せすることは出来ません」
「あら、そうなの。巨人になれるなら一度見てみたかったのに」
「そうよね。見られないなんてつまらないわ」

 自分の変身はあんたらを楽しませるためにあるんじゃねぇ、と言ってやりたいところだが、エレンは根性で多少引きつりながらも笑顔を浮かべ、再度申し訳ありませんと告げた。

「残念だわぁ。なら、他に何か特技はなくて? 巨人に変身出来るのなら、他にも出来ることはあるでしょう?」
「そうよね、巨人になれないというのなら、他のものが見てみたいわ」
「折角来たんですもの、何か見せて頂戴」

 次々に口にする人々にエレンは戸惑う。特技などと言っても――巨人を倒すために訓練に励んできたエレンにはそんなものはない。対人格闘技術なら人並み以上だと思うが、ここでそんなものを披露しても野蛮だと眉を顰められて終わりだろう。第一、この窮屈な格好ではろくに動けやしないだろうし、万が一汚したり破いたりしたら弁償しなくてはいけなくなるかもしれない。ここで制服や立体起動装置を身に付けていればそれを庭で披露なども出来たかもしれないが、それも望めない。本当に自分は巨人を駆逐する技術しか磨いてこなかったのだと、実感する。

「ねえ、早く何か見せてくださらないかしら?」
「ええ、あなただって何もせずに帰ったらここに来た意味がないでしょう?」

 女性達はくすくすと笑っている。ここにきて、エレンは悟った。彼女達は別に本当にエレンの特技が見たいわけではないのだ。ただ、年下のいかにも一般市民の少年をからかって困るのを見てそれを楽しんでいるだけなのだ。趣味が悪いな、とエレンは思う――が、あの男の客なのだから、悪趣味な人間がいるのは当たり前だった。勿論、そんな客ばかりではないだろうが、有力者の集まりならここで邪険に扱うわけにもいかず、エレンはどうしたらいいのか、困り果てていた。

「失礼。ご婦人方」

 そのときにぐいっと腕を引かれ、その方向に振り返るとリヴァイが立っていた。

「これの特技をお見せしましょう。僭越ながら、私も協力させて頂きます」

 そう言ってぽかんとするエレンを引き摺るようにしてピアノの前に立つと、いきなりエレンに歌え、と命じた。このまま何もしなかったらあの女どもは収まらねぇだろ、と。

「あの、歌えって言われても……オレの歌は人前で披露する程のものじゃ」
「俺が伴奏する。軽く指慣らしはするが、お前のタイミングに合わせるから、気持ちの準備が出来たら目で合図しろ」
「あの、でも、兵長――」
「エレン」

 そう言うと、男は少年の頬を優しく撫ぜた。

「俺がいれば何も怖くないんだろう?」
「………! はい!」

 そう言われた瞬間、自分の歌が果たして喜ばれるのだろうか、とか、兵長はピアノが弾けたのだろうか、とかいろんな疑問が吹き飛んだ。この男が傍にいてくれる――それだけで自分は何も怖くない、強くあれる。
 ポーンと綺麗な音が響いた、指慣らしと自分で言ったように、白黒の鍵盤の上を男の指が滑らかに動いていく。エレンはその様子に自分の立場も忘れ、男の姿にしばし見惚れた。純粋にその姿を格好良いと思ったのだ。普段は剣を握る手が、鍵盤の上を自由に滑って行き、美しい音色が辺りに響き渡っていく。一通り掻き鳴らしてから、調律は一応出来てるみたいだな、とひとりごちると、男はある曲を弾き出した。

(あ、これ……)

 自分がよく歌っていた曲だ。母親が好きでよく歌っていたから歌詞も全部覚えていて、そらで歌える。どこか物悲しさも感じさせるが、綺麗な旋律の優しい――恋の歌だ。エレンは軽く深呼吸をすると、男に目で合図を送った。そして、透き通ったのびやかな歌声が辺りに響き渡った―――。



 辺りには盛大な拍手が鳴り響いていた。どうやら自分の歌はそれなりに満足してもらえたらしい。自分で言うのも何だが、今までの人生の中で一番上手く歌えたと思う。
 是非、もう一曲と、客達が言い出そうとした直前。

「随分、賑やかですね。遅れてしまい申し訳ありません」

 タイミングを見計らったように、扉が開いてエルヴィンが現れ、客達の視線と意識は一斉にそちらに集中した。

「オイ、エレン、ここから出るぞ。窓は庭に続いているから、そこでほとぼりが冷めるまで隠れることにする」

 ここにいたら、また歌えと要求されるだけだと言われ、エレンとしてももう一曲歌うのは勘弁してもらいたかったので、頷いて二人でこっそりと大広間から抜け出した。


 窓の外にあった庭は庭園と呼ぶに相応しい程に広かった。この屋敷の面積は一体どれくらいなのか、とどうでもいいことを考えつつ、少年は男と二人庭園にしつらえてあった東屋の長椅子に並んで座った。

「あの、抜け出して大丈夫だったんでしょうか」
「エルヴィンが何とかするだろ。二曲目を要求されても俺は弾けなかったしな」
「弾けないって、弾いてたじゃないですか。オレ、驚きました」

 ピアノが弾けることについては色々あって覚えた、と一言だけ男は言ったが、その色々とは答えてはもらえないのだろう。男は話さないと決めたことは頑として話さないからだ。だが、何故二曲目が無理だったかは話してくれた。

「楽譜がなかったからな。いくら多少弾けるとはいえ、そらで弾ける曲はそうはない。お前が歌えて俺が楽譜なしで弾ける曲はあれしかなかった。だから、二曲目は要求されても無理だったんだよ」
「兵長、楽譜読めるんですか? 凄いですね」
「……ちょっと、待て。お前、まさか読めないのか」

 思いがけないことを言われて訊ねると、少年はあっさりと頷いた。母親が少しだけ持っていたようだが、見ても全く以って理解出来なかったと。そういえば、少年は母親に特に習ったということはなかった、と言っていた。

「お前、それでどうやって覚えたんだ」
「ああ、オレ、歌何度か聴いてると自然に覚えちゃうみたいです。母も驚いてました」
「…………」

 少年は耳で聞いただけで正確に音程も歌詞も覚えられるらしい。それはある種の才能かもしれないが、今の少年に全く以って何の役にも立ってないのが哀しい事実だった。

「それにしても、先程のお前の歌は見事だったな。あれなら、二曲目を聴きたがるのも頷ける」

 男に珍しく誉められて、少年は照れたように頬を朱に染めた。

「あれは、気持ちが入り過ぎていたから、逆に恥ずかしいです……その」

 恥ずかしそうに目を伏せ、届くか届かないかの声で少年は続けた。

「恋人を想う恋の歌でしたから、兵長のことを想って歌いました。その方が伝わるかと思って……」
「……………」

 後にその場で押し倒さなかった自分を誉めてやりたい、とリヴァイは語った。
 だが、何もしないのは我慢出来なかったようで、少年を抱き寄せるとその唇に唇で触れた。

「……………!」

 触れた柔らかい感触と至近距離にある男の顔にエレンは驚きで両の目を瞠った。だが、次に口の中に侵入してきた舌にぎゅうっと目を瞑る。男の唇は少しかさついていたけれど柔らかくてあたたかい。激しく舌を絡めてきたかと思うと優しくついばんで、少年を翻弄する。――口付けするのはこれが初めてだった。恋人になってからそういった接触はなかったので、リヴァイには自分とそういうことをする気はないのかもしれない、と考え始めていたが、この長い口付けからして男はそういう欲求を今まで抑えていたのかもしれない。
 頭がふわふわとする。同性同士の口付けだというのに少しも嫌悪感を感じない――それどころか、もっとして欲しいと思う。自分はやはり、この男が好きなんだな、とぼんやりとエレンは思った。
 あたたかい。柔らかい。気持ちいい。ふわふわする。意識にあるのはそれだけで、エレンは手を伸ばして、リヴァイの首の後ろに絡めた。もっと、と言わんばかりに必死に縋りついてくる少年にこれから先に進みたい思いが湧き起るが、ここは生憎兵舎ではない。こんなところでことに及ぶわけにもいかず、リヴァイは後ろ髪を引かれる思いでエレンから唇を離した。

「へいちょ…?」

 舌足らずな言葉で呼ばれ、潤んだ瞳で見つめられ、理性を結ぶ紐を引き千切りたくなったが、男は何とかそれを抑えた。衝動的に口付けてしまったが、少年は嫌がらなかったし、むしろ、もっとして欲しいように見えた。

「初めてじゃない…わけはないか。エレン、嫌だったか?」

 リヴァイの言葉にエレンはふるふると首を横に振った。とろんとした目が男を見つめている――まだ、意識が完全に戻ってきていないようだ。

「気持ち良かったです。兵長とならもっとしたいです」
「………………」

 オイ、エレン、お前は悪魔か、と叫び出したいと男は思った。いや、計算ではなく素で言っているのは判る――それだけに尚更性質が悪いのだと男は思う。はあ、と一つ溜息を吐くと、男は少年の頭を撫ぜて立ち上がった。

「兵長?」
「……水を持ってくる。お前は少し休んでいろ」

 とにかく今は少年から離れないとこのまま先に進めたくなってしまう。この庭園に人の気配はなかったし、今も様子を窺っているものはいない。少しの間だけ頭を冷やしてから戻れば問題ないだろう、と判断した男は屋敷の方へと戻っていった。
 一方、置いて行かれたエレンの方はと言えば、冷静になるにつれ、その場で転げ回りたい程の羞恥に襲われていた。リヴァイとキスしてしまった――それはいい。恋人同士なら当たり前だし、少しも嫌じゃなかったどころか気持ちよさにもっとして欲しいと思ってしまったくらいだ。だが。

(もっとしたいって、何だよ、オレ……)

 あれでは、ねだったみたいではないか。いや、して欲しかったのは確かだけれど、意識せずに言ってしまった言葉が今になって物凄く、恥ずかしい。リヴァイが戻ってくる前にこの赤くなった顔を何とかしなければ。そうやって、エレンがしばらくの間もんもんとしていると、がさり、と葉擦れの音がして、男が戻って来たのかと、エレンは顔を上げた。

「兵長?」
「こんばんは、エレン・イェーガー君、だったよね?」

 だが、現れたのは見たこともない男だった。使用人かと思ったが、この屋敷は使用人用に揃いの制服があるから、それを着用していない男はこの屋敷のものではないだろう。
 なら、招待客なのかと考えたが、あの男の客にしては服装が地味である。まあ、中には地味好みの客もいるだろうし、この屋敷には高級品があるせいか、出入りのチェックは厳しく行っていると聞いた。ここまで入り込めるのだから、男の身元は確かなのだろう。

「あの、招待客の方ですか? オレに何か?」
「ああ、ここの主人に呼ばれましてね。……ふむ」

 男はじろじろと少年を眺めている――そのねっとりとした視線にエレンは嫌悪感が湧き起るのを必死に表情に出さないように努めた。男から感じる視線はこの屋敷の主人にとてもよく似ていて――けれど、どこか違うとも思えるものだった。値踏みされているのだと思うのだが、その視線の色というか何かが違うような。
 それに、何かが脳裏に引っかかる。

「肌は綺麗だね。張りがあってつややかだし。若いからか。触らせてくれないかな」

 断る暇はなかった。男はエレンの腕を掴むとシャツを捲り上げてその感触を確かめるように指先でなぞった。

「……………!?」

 ぞわりと鳥肌が立った。気持ち悪さに振り払いたくなる衝動を何とか堪える。どうしたらいいのだろう。対人格闘の技術を使って男を倒すのは容易いが、一応この屋敷の客である男にそんなことをして問題になったりはしないだろうか。

「本当は、背中や足も見てみたいけど、それは後でいいか。君ならいい作品が出来そうだよ」

 作品とは何なのか――そう問う暇もなくちくり、と腕に小さな痛みが走って、エレンは今度こそ腕を振り払った。見ると、男の手には小さな針が握られていた。

「すぐ、眠くなるから。眠っているうちに終わってるよ。君の肌によく映える図案を考えてあるから」

 男の言っていることが判らない。この男は何者なのだろう。憲兵団には見えないが、客を装って紛れ込んでいたのだろうか。

(そうだ、この男――あのとき、兵長が見てた……)

 大広間でリヴァイが何かを見つけたように視線を走らせた先にいたのが、この男だ。意識が朦朧とする中、エレンは兵長、と小さく愛しい人の名を呼んだ。
 そのとき――てめぇ、何してやがる!と怒鳴る男の声を聞いた気がした。






 目が覚めると、そこはベッドの上だった。エレンは今までのことはひょっとして夢だったのか、と瞳をぱちぱちとさせていたが、横から起きたのか、と声をかけられて視線をやると恋人が椅子に腰かけてこちらを見ていた。
 兵長、と言いかけて咽喉がからからに乾いていることに気付く。男はすぐにそれに察して、水差しからコップに水を注ぐと、エレンの身体を起こして口元まで運んでくれた。冷たい水が咽喉を滑り落ちて身体中を潤してくれている気がした。ごくごくと飲みほした少年がお代わりを求めると、男はまた水を注いで口元まで運ぶというのを繰り返した。
 ようやっと人心地がついた少年は、いったい自分はどうしたのか、と首を傾げた。庭園で会ったあの男はいったい何だったのか。リヴァイはあの男を知っていたのか。

「兵長、あの、オレはいったいどうしてこうなったんでしょうか?」
「あの男が刺した針に麻酔薬が塗られていた。そのせいで、お前は丸二日寝ていた」

 リヴァイの言葉に少年は目を丸くした。そんなに眠っていたとは思わなかった。
 俺の判断ミスだったな、と男は苦い表情を浮かべた。

「会場であの男を見て何か嫌な予感がしたんだが、まさかお前を襲うとは思わなかった。まあ、あの男の判断ではなく、指示されたんだが」
「あの男はいったい――兵士ではないのでしょう?」

 思い返してみると、動きも訓練された者の所作ではなかったし、何よりも手が剣を持つ者の手ではなかった。肉体労働に従事している者とも違っているような気がしたが、いったいどのような身の上なのだろうか。

「あの男は彫り師だ」
「彫り師……ですか?」

 聞いたことのない職業に首を傾げる少年に、人の肌に刺青を彫るのを生業としているもののことだ、と男は教えた。彫り師の男はリヴァイの知り合い、というわけではないが、顔とその職業をリヴァイは知っていた――まだ、リヴァイが地下街にいた頃、彼の男は腕は物凄く良いが、自分が気に入った肌のものにしか絶対に刺青を施さない彫り師として有名だったからだ。
 そんな男を会場に見つけ、その場違いさに不審を抱いたが、まさかエレンを襲ってその肌に刺青を入れようとしているとはさすがに思いつかなかった。

「え……オレに刺青を入れるつもりだったんですか? 頼んでませんけど」

 刺青を入れるのにどれくらいの料金がかかるのか知らないが、無料ではないだろう。確か、刺青は物凄く痛いのだとミカサが言っていたような気がする。そんな痛い思いをしてまで身体に模様を入れたくない。

「あの男に依頼をしたのは、あの屋敷の主人だ。お前を無理矢理眠らせてその間に入れる気だったらしい」
「え……何でですか?」

 当惑するエレンに男はこっから先はえぐい話だがいいか、と前置きしてきたのでエレンは頷いて了承の意を示した。どんな話だろうと、真相が判らないままでは気になって仕方ないだろう。

「あの親父はどうしてもお前を蒐集物の中に収めたかったらしい。だが、お前は調査兵団の預かりだし、滅多に手は出せねぇ。――だが、死んだら話は別だ。手を回して死体を回収してあるものを作りたかったらしい」
「あるものって……」
「お前のはく製だ」

 こともなげに言われてエレンは固まった。人の遺体をはく製にして保存するなど普通の人間の感覚ではない。少なくとも自分にはそれは受け入れられない感覚だ。

「じゃあ、刺青は……」
「お前は見栄えがしないって言われてただろう。刺青を入れて華やかにしたかったらしい。それからはく製にして飾ろうと考えたそうだ」
「……………」

 余りの話に少年は言葉も出てこないらしい。あの男の屋敷の地下には一般に見せるものとは別にそういったもの――人の刺青された皮膚とか干し首とか諸々があったことは少年の精神衛生上のために黙っておくことにしよう、と男は思った。

「まあ、あの男にはエルヴィンが釘を刺して手を回したし、お前が狙われることはもうないから、安心しろ」

 そう言って頬を撫ぜる男に、エレンは心地よさそうに目を細めた。

「あの、ありがとうございます。あのとき、来てくださったの兵長でしょう? 意識が朦朧としてましたけど、兵長の声が聞こえましたから」

 何か、お礼をしたいです、という少年に恋人同士にお礼も何もないだろうと男は苦笑する。

「そうだな、なら、俺が歌を聴きたくなったときに何か歌え。それでいい」
「そんなんでいいんですか?」
「ああ。上手く歌えたら俺が何かご褒美をやるよ」
「……………」

 少年の性格的にご褒美なんて要りません、と即答するかと思ったのだが、少年は男のからかうような言葉に何かを考えるように黙り込み、おずおずと男を見上げた。

「あ、あの……出来たらでいいんですけど……」

 何が恥ずかしいのか少年は頬を染めながら言葉を続けた。

「キ…キスして欲しいです」
「……………」

 少年がそう言った瞬間、総ての機能が停止したように男はそこに固まった。そんな男を見て、やっぱり、こんなこと願ったらダメだったのか、と少年はベッドの中で身を縮ませた。恥ずかしい、言うんじゃなかった、と少年が後悔したときに男の低い声がした。

「……今のはお前が悪い。絶対に悪い。だから俺は悪くねぇ」
「兵長?」

 凄まじいばかりの笑みを浮かべた男にエレンがたっぷりと後悔するのはすぐ後のこと。






「あ、エレンがまた歌ってる」

 耳に届いた声にハンジはうっかり聴きほれそうになってハッと我に返った。

「エレン、最近ますます歌上手くなったと思わない、モブリット」
「そうですね」
「何かコツでもあるのかなあ。今度エレンに訊いてみようかな」
「分隊長、世の中には詮索しない方がいいこともあるんですよ」
「え? モブリットは何か知ってるの?」
「……存じ上げません。それより、その書類今日までですから早く仕上げてください」
「はいはい、判ってるよー」


 透き通るような少年の歌声が、今日も響き渡っていた―――。






≪完≫




2013.9.8up






 兵長がピアノを弾いてエレンが歌うのを書きたかった作品。設定かなり捏造してますが、そこはスルーで(汗)。実は元々はBLゲームの方で考えていたネタでしたが、書かなかったのでサルベージ(笑)。内容は全然違うのですが。ちなみにモブリットさんは知ってます。リヴァエレ書くと、エレンがどうしても可愛くなりすぎてしまう気が…orz



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