――その光景をただ、綺麗だと思った。
 ただただその姿を見つめてしまうくらいに。


綺麗な感情



 
エレンは祈るという行為が嫌いだ。――それは何の役にも立たないから。ただ自分の無力さを思い知らされる行為だとしか思えないために、エレンは長い間祈るということをしたことがなかった。
 幼い頃はそれでも教会に行ったことがあり、祈りの真似ごともしたことがあったが、内心では退屈な時間が早く終わればいいと思っているような敬虔な信徒とは言い難い子供であったのだ。今、現在では教会ではウォール教が幅を利かせているが、元々地区ごとには教会が存在しており、冠婚葬祭などの儀式を執り行い、様々な行事の場所の提供もしていたから、人々の生活とは密接した場であった。
 また、教会に派遣される神父は学識が高いものが多かったから、子供に読み書きなどを教える良い教師としての一面もあった。勿論、総ての人物が高潔だとは言えなかったけれど。
 だが、それも五年前にウォール・マリアの壁を破壊されたことによって壊されてしまった。ウォール教の台頭に、ただでさえ少なかった食料の不足の深刻化、生産者に課せられた厳しい労働。その後の訓練兵への志願。そんな怒涛の日々に追われてエレンは教会に足を踏み入れることはなかった――のだが。



 その小さな教会はエレン達が根城に決めた旧調査兵団本部の古城近くにあった。今では通う人もいないのかウォール教にも見向きもされず、随分と古びてところどころ傷んではいたが、朽ちている、というほどでもなかった。
 エレンがそこに足を向けたのは、本当に偶然、たまたまのことだった。エレンはここに来てから行動の自由は許されておらず、与えられる仕事は清掃と訓練、後はハンジからの実験の手伝いの要請だ。この日は城の周りの清掃を終えて、たまたま休憩時間に足を延ばした先にあった教会に人の気配を感じ、少しの好奇心と不審からそっとドアを開け中を覗いたのだ。
 ――そこには、手を組み、頭を垂れ、瞳を閉じて祈りを捧げる女性の姿があった。

(ペトラさん…)

 その姿をエレンは美しいと感じた。祈ることなど無意味でしかないのに――それでもそれはひどく尊くて綺麗なもののように思えたのだ。
 そっと開けたドアの前に佇んでいたエレンは声をかけることが出来ずにその光景をただ眺めていたが、人の気配に気付いたのか、ペトラはゆっくりと顔を上げた。そして、エレンの姿を認めると立ち上がりそちらへと足を向ける。

「エレン? どうしたの? 何か私に用があった?」

 ペトラに声をかけられ、我に返ったエレンは慌てて首を横に振った。

「いえ――すみません、休憩中にここに来たら人の気配がしたので……」

 邪魔するつもりはなかったのだと告げるとペトラはいいのよ、と微笑んだ。

「折角だから、エレンもお祈りしていく?」
「いえ――オレはいいです」

 即答で断ったエレンにペトラは瞳を瞬かせて苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを口許に浮かべた。

「何か意外なものを見たって感じね、エレン」
「あーその……調査兵団の人達は教会で祈りを捧げるといったことには無縁かと思っていたので…」

 口ごもるエレンにペトラはそうでもないわよ、と続けた。

「皆、意外にゲン担ぎとかジンクスとか気にするのよ。遠征前は必ず右足からブーツを履くとか、スープに具が多く入ってたらその日はいいことがあるとか…くだらないことばかりなんだけど」

 かくいう自分も遠征前には必ず祈りを捧げに教会を訪れるのだ、とペトラはエレンに語った。
 気休めにしか自分には感じられないこの行為を彼女は信じているのだろうか、とエレンは思う。
 それを、聞いたのは本当にこれもたまたまだったのだ。答えが返ってこなくてもいいと感じていたくらいのもの。

「ペトラさんは――何を祈っていたんですか?」

 エレンの言葉に休憩時間の終了に合わせて戻ろうとしたペトラは立ち止り、少し考えるような仕種をした後、悪戯っぽく笑った。

「いいわ、エレンには特別に教えてあげる。遠征の前にはね――班員の皆と無事に戻ってこられるようにお祈りしているの」

 結構、効き目があるのよ、私が所属する班は生存確率がダントツに高いのよ、とペトラは続ける。

「私もこうして無事に戻ってこられてるんだもの、今回もきっと大丈夫」

 そう言って笑う彼女の姿はやはり綺麗だと思った。
 仲間の無事を、喜び合って笑い合うことを祈る。
 ――それは、何て綺麗な感情なのだろう。
 自分にはそんな祈りなど出来ないし、きっと似合わないだろう。
 巨人を一匹残らず駆逐すると決めたときから自分の中にはどろどろとした汚いものばかりが溜まっていって、こんなに綺麗なものとは似合わない。

「エレン――大丈夫よ」

 考え込むように伏せ目がちになったエレンにペトラは優しく語りかけた。

「エレンの分も私が祈るから。だから、任せておいて」


 ――それは、本当に綺麗で、綺麗な――。





 ――リヴァイ班はエレンとリヴァイを残し、全滅した。彼女の綺麗な綺麗な祈りは届かなかった。
 願いは人に言うと叶わなくなるというジンクスがあるのだとは後から知った。だから、彼女が特別に教えてあげると言ったことも。
 それを悔いたところで、何もかも遅いけれど。

 ふらりとエレンが訪れたのは古びれた教会だった。彼女が座って祈りを捧げていた場所に手を伸ばす。
 冷たい木の感触だけが指に伝わる。あの日の綺麗な光景はここにはもうない。
 あの日の彼女と同じようにそこに腰を下ろし、手を組んで祈りを捧げるようなポーズを作ってみる。

(ペトラさん、エルドさん、グンタさん、オルオさん……)

 だが、何を祈ればいいというのだろう。彼らはもう返ってこない。死者は決して生き返ることはない。自分は五年前に嫌というほどそれを思い知ったはずだ。
 不意にどかり、とすぐ隣で物音がした。はっとして顔を上げて視線をやれば、不機嫌そうな顔。

「兵長……」

 そうだった。自分の行動は逐一報告され、監視されているのだ。こっそり抜け出してきたのだが、目敏い彼が気付かないはずがない。

「兵長、すみません、オレ……」
「チッ、グズが…早くしろ」

 そう言ってリヴァイが唱えだした言葉にエレンははっとする。これは―――。

(死者を弔うための、祈りの言葉…)

 呆然とするエレンにリヴァイが視線で問いかけてくる。これがお前の望んでいたことではないのかと。
 慌てて、エレンはリヴァイの言葉を復唱した。

(ペトラさん、エルドさん、グンタさん、オルオさん……)

 これは――これは、綺麗な感情なんかではない。ただ、自分の罪悪感を薄めたいだけの、自分のためだけの薄汚い感情だ。あの日の彼女のように綺麗なものではない。それでも―――。
 ポタリ、と小さな透明な粒が落ちていく。ポタリ、ポタリ、と染みを作っていくそれは止まることを知らない。
 やっと泣きやがったか、クソガキ、と呆れたように呟く男の声はどこか優しかった。
 エレンはそれを聞きながらただ祈りを捧げた。
 例えそれが綺麗な感情じゃなくても。
 ただ、今だけは―――。
 綺麗な感情をくれた人達のために祈ろうと思った。





 《完》



2013.8.11up




 初進撃小説。ペトラさん実は好きです。兵長出ないはずだったのにいつの間にか出てました…(笑)。教会設定勝手に捏造した上に言葉遣いも怪しいです…(汗)。




←back