覚えているのは一面の紅。視界いっぱいに広がった鮮やかな紅色が流れていくのを止めたかったけれど、本人の意思を全くきかない身体は少しも動いてくれなかった。止まってくれとただそれだけを願った。これは――この紅は命の流れだ。これが流れきってしまったら失ってしまう。あたたかくて優しいぬくもりを永遠に失くしてしまう。全身に広がる痛みを堪えて、必死に手を伸ばす。命をつなぎとめるために―――けれど。
 その願いは叶うことはなかった。





紅い河






 夢だと、判っていた。夢の中なのにこれは夢だと認識している、そんな夢。それは慧にはよくあることで、どこか冷めた意識で自分を見ている。

(ああ、また紅い夢だ)

 慧の夢の世界は――少し前までは現実の世界もそう変わらなかったけれど――白と黒。基本モノクロで構成されていて、それに鮮やかな紅が追加されている。ペンキをぶちまけたような―――そんな表現がぴったりする紅がモノクロの世界を染める。黒、白、そして、紅。三色しかないこの世界に存在するのは慧だけだ。たった一人の孤独な世界の中で、いつもするように眼を閉じる。
 閉ざされた視界に広がるのは闇。漆黒の世界。―――黒は好きだ。あの紅を消し去ってくれるから。
 ぶちまけられた紅を黒く塗りつぶす。塗りつぶしたとしても紅の存在がなくなるわけでは決してないのに。黒く黒く染まっていく――自分の裡から滲み出てそれが自分には相応しいかというように。
 ―――慧。
 染まりきってしまう前に名前を呼ばれた気がした。
 視界に広がるのはやわらかな白。ふわり、と優しいぬくもりに包まれる。

(ああ、ダメだ)

 これは、こんなふうに触れてはいけないものだ。大切な大切な決して壊したくない、守りたいもの。

(お前まで染まってしまう)

 鮮やかな紅も、漆黒の闇色も相応しくない。やわらかな優しい色に彩られていて欲しい。だから。
 これ以上近付いてはいけない―――。






「……い、慧。起きろよ。そろそろ起きないと、時間がなくなるぞ」

 やわらかな声で呼ばれながら肩を揺さぶられて、慧はゆっくりと瞼を押し上げた。やがて開けた視界は薄暗くものの形の判別が難しいが、闇に慣れた眼はそれが愛しいものだとすぐに理解した。

「……明日叶…」
「おはよう、慧」
「……ああ、おはよう、明日叶」

 そう返して慧は軽くこめかみを押さえた。鈍い頭痛がするのは寝起きのけだるさからくるものではなく、先程まで見ていた夢のせいだろう。黒と白と――紅に彩られた夢。

(久し振りに見たな……)

 昔からあの鮮やかな紅の夢は見ていたが、そこに明日叶が登場するようになったのは再会してからだ。近付くことを戒めるように、警告するように繰り返し繰り返し夢の中に現れた。ジャディードでの一件が片付いてからはなりを潜めていたのに、今頃になってまた見るとは思わなかった。自分はまだあの紅に囚われているのか――それとも。

(近々あるミッションのせいか)

 先日、グリフに新しいミッションが依頼された。チームリーダーの亮一が作戦を練り、それぞれの役割も決まり、後は決行の日を待つだけとなっている。慧と明日叶は同じ実働班だが現場での行動は別となっており、今日はそれに向けた最終的なミーティングが予定されていた。

「……慧、何かあった? 嫌な夢でも見た?」
「―――いや。どうしてそんなことを?」
「何か声がいつもと少し違う気がする」
「寝起きだからだろう。―――お前が心配するようなことは何もない」

 気遣うような色を帯びた明日叶の声を嬉しく思いつつも、慧はそれを否定した。夢の話をするのは簡単だが、明日叶はきっと気にするだろう。明日叶は――この可愛い恋人は、離れていた間に自分の周りで起こったことを何も知らずにいたこと、傍にいられなかったことをいまだに気にしている節がある。明日叶が気に病む必要など全くないし、その分これからは一緒にいるのだと言ってくれたが、わざわざ古傷を抉るような話はしない方がいいだろう。
 慧がもう一度否定すると、明日叶もそれ以上は続けずに頷き、気持ちを切り替えるように明るい声を出した。

「……それにしても、明りがないと暗いな、慧の部屋。フットライトくらいつけた方がいいんじゃないのか?」

 慧は眠るとき、室内の照明を全部消して完全な暗闇にする。明日叶も明かりは消すタイプだが、朝になれば窓からカーテン越しに日が射すし、夜中に起きてしまったときのために間接照明も用意してある。だが、慧の部屋は遮光カーテンが取り付けてあるうえに、フットライトなどの照明も取り付けていないため、暗闇の中で起きることになるのだ。時計は蛍光デジタルなので闇の中でも確認できるが、それで不自由がないのか明日叶には不思議だった。

「問題ない。ものの位置は把握しているし、暗闇の中でも動けるいい訓練になる」
「……でもさ、それだと、ちゃんと顔見られないだろ…」

 ぼそり、とどこか拗ねたようにも聞こえる声に慧は軽く眼を見開いて、それから微かな笑みを浮かべた。

「明日叶」

 ちゅ、っとそんな音が似合うような触れ方で。やわらかな唇を味わう。

「問題ない。明日叶のことなら全部知っている。それに全く見えていないわけじゃない」
「―――――」

 不意打ちのようにされた口付けに明日叶は固まって、それからその事実に真っ赤になった。あー、とかうーとかおよそ意味にならない言葉を口にすると、ようやく我を取り戻したようだ。

「け、慧っ」
「どうした? 明日叶」

 耳元で囁かれて、明日叶はまた固まった。吐息がかかるほどの近い距離に高鳴っていく心臓がうるさいほどで、それを振り切るように明日叶は首を振った。

「―――とにかくっ、起きる! ささっと着替えて朝食食べに行くぞっ」
「ああ」

 今度はこめかみにキスを落として、着替えるべく部屋の照明をつけた慧を明日叶はただ睨むしかなかった。



 制服に着替え、身支度を終えた慧を見て、明日叶はふと気付いたように声をかけた。

「そう言えば、慧、いつもタイつけてないけど、首回りが苦しいの嫌いなのか?」

 明日叶はきっちり制服を着るタイプだが――ヒロには『ボクがもっと可愛く着崩しコーデしてあげるのに、勿体ない』と言われているが、本人にその意思はない――慧はいつも襟元を緩めていて、タイをしてきたことがない。明日叶の記憶する慧はどちらかといえば制服を着崩すような感じではなかったので、疑問だったのだ。単純に締め付けられるのが嫌いなのかもしれないが。
 まあ、チームグリフのメンバーは制服を着崩しているものの方が実は多いので、明日叶もそれについてとやかく言う気はないのだが。

「いや、首回りが苦しいのが嫌というより―――」

 あの、色が。巻きつくように首を彩る紅があのときを思い出させるから。
 そもそも、制服のデザイン自体が気に入らないが――白と黒と赤という慧の夢を表したかのような配色とは何の皮肉だろう――着ないという選択肢があるはずもなく、黙って着るしかない。

「慧?」
「――いや、単に動きにくいからだ」

 明日叶は少し怪訝な顔をしたが、その答えに納得したようにそうか、と頷いた。

「確かに制服は実働的じゃないよな」
「だからこそミッション服があるんだろう」
「そうだな。でも、ミッション時ってミッション服着ないことも多いよな。スーツとか。俺は余り似合わなかったけど、慧ならよく似合いそうだ」
「明日叶なら何を着ても可愛い」
「………………」

 真顔できっぱりと断言されて明日叶は三度固まった。

「明日叶?」
「慧、お前って……」
「?」
「……いや、何でもない」

 無自覚で天然タラシな恋人に内心でじたばたする明日叶と、それに全く気付いていない慧は、朝食を摂りにレストランへ向かったのだった。






「じゃあ、最終確認。これが最後のミーティングだから、疑問点や確認したいことがあったら、みんな遠慮なく発言してくれ」

 亮一の言葉にグリフのメンバー達は頷いた。午前中の通常授業を終え、午後のミーティングのために全員が作戦室に集合していた。以前は遅れてくることの多かった慧も近頃はきちんと出席している。そのため明日叶の効果はすごい、と亮一に絶賛されている明日叶だった。

「明日叶ちん、明日叶ちん、ほら見てー」
「ヒロ。何だ?」

 手招きされて、ヒロの手元を見ると、何やら紅い物体があった。

「ボクと興ちゃんのコラボ作品。本物みたいでしょ。血のり、見たことある? 明日叶ちん」

 ヒロの手元にはビニール製の袋に入った紅い液体がゆらゆらと揺れていた。それは確かに本物のようで輸血用の血液パックと言われたら信じてしまいそうだった。

「それ、ヒロも手伝ったのか? 意外だな」
「むー、明日叶ちん、それどうゆう意味?」

 ひっどーい、と唇を尖らせるヒロに明日叶は慌てて首を振った。

「そうじゃなくて、ミッションの小道具って全部興さんが作ってるんだと思ってたから」
「まあ、確かに殆ど興ちゃんが作ってるんだけどね。今回はボクの知り合いのメイクアーティストに特殊メイクをやってる人がいて、ミッション用に血のりのサンプルを譲ってもらって、ついでに作り方を聞いてきたら、興ちゃんが自分で作ってみたいって。じゃあ、一緒に作ろうかってことになったわけ」

 自画自賛かもしれないけど、よく作れたって思うよ、とヒロは笑った。

「おれの仕事、完ぺき。よくできてる、当たり前、ヒロ」
「勿論、興ちゃんの仕事は完璧だよね、明日叶ちん」

 自分の作品のことに関しては絶対の自信を持つ興も会話に加わり、明日叶も二人に同意する。
 今回のミッションは実際のマニュスピカと連携して動いているもので、その内容は悪質な窃盗団に狙われている美術品の保有者を保護し、相手を捕らえることにある。すでに窃盗団にはマニュスピカが潜入しており、こちらのメインは保有者になりすまし――実際の保有者はもう保護されている――相手を誘き寄せ、美術品をわざと奪わせておいて盗んだ美術品の隠し場所を見つけ出すこと。窃盗団の捕獲はマニュスピカがメインで行うから、危険は抑えられているはずだ。
 奪われるという設定上、一芝居うつ必要があり、こうして血のりを用意しているわけだが、芝居とはいえそれでも危険がないわけではない。万全の態勢で臨まなければならないだろう。

「明日叶センパーイ! 何見てるんっスか?」
「げっ。バカ犬」
「太陽。ミッションで使う血のり見てたんだ。本物みたいだろ?」

 明日叶の言葉に太陽はしげしげと血のりを眺めた。

「へー、確かに本物みたいっスね。触ってみてもいいスか?」
「はいはーい。そこまで」

 興味津津、といった感じで手を伸ばした太陽の前から、すっとヒロが袋を掠め取った。相も変わらず見事な手さばきだが、そうされて太陽が面白いはずがない。眼の前にあった玩具を取り上げられた子供のようにむっとした表情で唇を尖らせている。

「何だよ、ヒロ。ちょっとくらいいーべ」
「ダメに決まってんじゃん。お前が触ったら、絶対壊すだろ」
「なんだとー、勝手に決めてんじゃねー」

 明日叶を挟んで言い合いを始めた二人に明日叶は内心でやれやれと息を吐いた。顔を合わせるたびに喧嘩を始める二人だが、もう少しどうにかならないものだろうか。口喧嘩以上には発展しないし、何だかんだいってお互いに嫌い合っているというふうでもないのは判っているが、自分達が抜けた後のチームグリフの中心になるであろう二人がこれで大丈夫なのか心配になってくる。
 まあ、自分達も亮一達三年生が抜けた後のことを心配されているだろうから――自分でもそれを考えると不安ではある――人のことはいえないかもしれないが。

「ほら、二人とももう……」

 やめろという制止の声を明日叶が上げる前に一面に紅がぶちまけられた―――。




 うわぁ、という驚いたような叫び声が聞こえて慧はそちらに視線をやった。次回のミッションに向けてのミーティング中に何を叫ぶことがあるのだろう。僅かに眉を顰めながら向けた慧の眼に飛び込んできたのは鮮やかな―――紅。

「明日叶センパイ、大丈夫っスか!? 怪我とかないッスか?」
「バーカ、血のりで怪我するわけないだろ! 明日叶ちん、大丈夫? はい、これタオル」
「これまた派手にやりましたねえ」

 慌てる一年生達とは対照的な鷹揚な声がかけられた。

「その制服はもうダメですねえ。クリーニングに出してもこれじゃあもう落ちませんよう。とりあえず、アンタは血のり落として着替えた方がいいですよ、明日叶」

 眞鳥の言葉にべっとりと血のりをかけられて固まっていた明日叶も我に返った。確かにこの状況ではミーティングどころではないだろう。奇跡的に顔にはかかっていないが、上半身にはかなりの量の紅い液体がかかっている。白と言う色が災いしたようで、より際立って目立つ紅色はシミ抜きしたところで落ちないことは確実だ。眞鳥の言う通りここは潔く諦めてこの制服は処分するしかない。
 自らの上半身を見下ろしていた明日叶がふと視線を上げると、そこには泣きそうな顔の太陽とヒロがいた。悪気はなかったのだし、怪我をしたわけでもないのだから気にすることはないという旨を伝えて、着替えるべく亮一に声をかけた。

「亮一さん、すみませんが、着替えてきます。少しの間抜けますけど―――」
「ああ、大丈夫。ゆっくり行っておいで」
「じゃあ―――」

 言いつつ、明日叶が椅子から立ち上がった瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。

「え? 慧?」
「―――――」
「え? ちょっ……」

 突如、腕を掴んだ恋人の意図が判らず戸惑う明日叶に、慧は何も言わず、そのまま明日叶を連れて歩き出してドアの向こうに消えていく。それはあっという間の出来事で、誰も口を出す暇がなかった。

「………………」
「行っちゃいましたねえ」

 呆気にとられたグリフメンバー達の中で、眞鳥がぽつりと呟いた。

「ひょっとすると、明日叶、今日は戻ってこられないかもしれないですねえ」
「え? え!? それ、どうゆうこと? 中川さん!」
「どうゆうことですかねえ」

 ふふふと笑う眞鳥に桐生は呆れた視線を投げやり、意味が判らないのか興はきょとんとしている。舌打ちするディオに騒ぐ一年生達―――収拾がつかなくなってきたこの場を収めたのはパンっという手を叩く音。

「はい、みんな集中して。今はミーティング中だ。二人には後で俺から話しておくから、今は自分の役割をきちんと確認するように」

 亮一の言葉に納得したのか――一部は渋々と――グリフの面々はミーティングを再開させた。





 ―――覚えているのは一面の紅。むせかえるような臭い。冷たくなっていく身体。消えていく命。
 落とさなければ、と慧の頭にはそれだけしかなかった。この紅を、明日叶が染まってしまう前に落してしまわなければ、と。紅いそれを一刻も早く流してしまいたい――その気持ちの表れがこの行動になったわけだが、その顔はそれを全く感じさせない無表情だ。
 けれど、明日叶にはその動揺が伝わってきていた。無論、何が慧にそうさせているのかまでは判らないが、気遣う余裕がないくらいに強く握られた腕も、微かな手の震えも、慧の揺らぎを表しているのに。
 慧、と何度呼びかけても、彼の心には届かない。

(まるで、再会したときの慧みたいだ)

 やがて、慧は自分の寮室に辿り着くと、服を脱ぐ暇も与えずに明日叶をバスルームに押し込み、そのままシャワーの栓を捻った。自分が濡れるのも構わずに明日叶の頭からシャワーをかけていく。―――きちんと温度設定されていたのは幸いで、流れ出た水はすぐにあたたかい湯気を立てて室内の温度を上げていく。

「慧……」
「…………」

 二人を濡らす湯は身体を流れ落ち、うっすらとその身を紅く染めて排水溝へと消えていく。
 紅く消えていくそれがあの日の光景と重なる。
 紅く、紅く、流れていった―――大切な人達の命。
 両親は最後まで守ろうとしていた。自分の作品を。自分達の家を。自分達の大切なものを、略奪者から。
 ―――せめて、この子だけは……っ!
 その言葉を口にしたのが父だったのか母だったのか、あるいは両方だったのか、慧は覚えていない。ただ二人とも自分を守ろうとしてくれたのは確かだ。重傷を負わされながらも二人は自分を庇い、その身を楯にして慧を凶弾から守った。慧が重傷を負いながらも助かったのは、両親がそうして身を捨てて守ってくれたからだ。自分の身体を紅く紅く染めて。
 ああ、と小さな声が慧の口から洩れた。おそらくは無意識に零れてしまったもの。

「俺も紅く染めたうちの一人か」
「――――慧っ!」

 ぱんっと両頬が鳴って、慧ははっと我に返った。見ると、じんとした痛みを感じる頬は明日叶の手に包まれていた。どうやら両頬を挟みこまれるようにして明日叶に叩かれたらしい。それほど酷いものではないが、うっすらと赤くなっているかもしれない。

「……ごめん、痛かったよな、慧」
「明日叶」
「でも、俺も痛かったんだ」

 明日叶の言葉にここにきてやっと、慧は自分の行動がどれほど乱暴だったかに思い至った。先程掴んだ明日叶の腕はひょっとしたら痣になっているかもしれない――それくらいに慧の握力は強いのだから。

「すまない、明日叶。腕は―――」
「違う」

 慧の言葉に明日叶は首を横に振り、それを否定した。

「腕なんか痛くない。俺は慧が痛いって言ってくれないことの方が痛い」

 明日叶の言葉に慧は驚いて眼を瞠った。

「慧が辛いって言ってくれないことの方が辛い。慧が苦しいって言ってくれないことの方が苦しい。慧が嫌なことを隠すのが哀しい」
「明日叶……」
「全部、話せなんて言わない。――でも、何一つ話してもらえないで隠されるのは痛いよ、慧。だって、それじゃあ、何のために傍にいるんだ? 一緒に生きるってそうじゃないだろ」

 震える声で伝えられる言葉はおそらく、明日叶が考えていて、でも、言えなかったことなのだろう。
 いや、言えなくしていたのは自分だ。明日叶は何度だって自分に手を差し伸べてくれていたのに。
 こうやって眼の前で透明な美しい雫を頬から零れ落ちさせているのも自分だ。

「泣くな、明日叶」
「泣いてない。……シャワーで濡れただけだ」

 精一杯の強がりを言う恋人の身体を抱き寄せて、慧は一言ごめん、と呟いた。




 何でも全部知ってなきゃ嫌だ、などという欲求はないと明日叶は言う。相手のことを知りたいという気持ちは無論あるようだが、これはどちらかと言えば、慧の方が強いかもしれない。大事なのは言いたくないこと・言ってはいけないこと・言わなければいけないことの線引き。慧は極力、何も言わずに一人でやってしまう癖があるから、見極めが難しい。慧は長らく一人だったのだ。勿論、経済的な援助は受けていたが、両親の死後、独りで闘って生きてきた。圧倒的に人とのコミュニケーションが不足しているうえにその能力値も低い。
 それでもいいと慧は思っていた。闘うのに必要のない、むしろ邪魔なものだと以前の慧なら言っただろう。
 だが、そうではないと、明日叶に再会して気付いた。明日叶が気付かせてくれたのだ。

「少しずつでいいんだ。慧の言葉で、思っていることを言える範囲で伝えて欲しい」

 バスルームから出て着替えを済ませ――お互いの部屋にはお互いの服が一式そろえて置いてある――、椅子代わりにベッドに腰掛けてそう言う明日叶の髪はまだ濡れている。慧は明日叶の肩にかかっていたタオルに手を伸ばして、明日叶の髪を拭いてやった。明日叶は自分で出来るからいいと言うが、慧はこうやって明日叶に触れるのが好きだった。
 ふと、慧はこうしたことも伝えるべきなのだろうか、と思い、口にしてみることにした。

「俺はこうしてお前に触るのが好きだ。―――嫌か?」
「――――」

 慧のストレートな物言いに明日叶は絶句して、それから頬を紅く染めた。

「慧、お前って……性質悪いぞ…」
「?」
「……俺だって、お前に触られるのは好きだし、嫌じゃない」

 その言葉にそうか、とやわらかい笑みを浮かべる慧を見て、明日叶は無自覚はやっぱり性質が悪いと、心の中でそっと呟いた。


「……さっきはどうしたんだ? 慧。急に引っ張っていくから驚いた」

 髪も拭き終わり、落ち着きを取り戻した慧に、明日叶は少し遠慮がちに訊ねた。明日叶にしてみれば慧の行動は唐突で思いもよらないものであり、説明を求めるのは当然と言えた。
 だが、慧にしてみても突然の衝動に駆られての行動であり、上手く説明するのは難しい。明日叶が紅く染まるのが嫌だったから――端的に言えばそうなのだが、それで伝わるとは思えない。けれど。

(言わなければ始まらない、か……)

 何もしないで、やってもいないうちから出来ないと投げ出しては何も進まないから。

「……今朝、夢を見た。それの影響かもしれない」
「夢?」

 ぽつり、ぽつり、と語られる慧の夢。白と黒と紅の世界。紅の持つ意味。
 総てを聞き終えて、明日叶はそっと慧に抱き付いた。話してくれてありがとう、と。

「慧、紅い色は林檎の色だ。お前んちになってた紅い林檎。それでおばさんが美味しいお菓子を作ってくれた」
「………?」

 突如、始まった明日叶の意味の判らない言葉に、抱き締め返していた腕の力を緩めて慧は腕の中の明日叶を見た。

「後、紅葉の色。慧の家の庭、秋になると色づいて綺麗だった。おばさんの作ったおやつ食べながらみんなで見たよな。それから、小さな家庭菜園もあって、真っ赤なトマトをもいで二人で食べたっけ」
「……明日叶?」
「それから、夕焼け。真っ赤な夕焼けを二人で見た。一緒に遊んで沈んでいく夕陽を二人で眺めた」
「明日叶」
「慧の―――」

 明日叶はここで言葉を区切って慧を見つめた。

「辛い記憶を、消すことは俺には出来ない。なかったことには出来ない」
「……明日叶」
「だけど――だから、代わりにたくさんの想い出を慧と作るよ。紅って聞いたとき、見たときに真っ先に思い出すものを一緒に作ろう。昔、たくさん作ったみたいに――ううん、それ以上にいっぱい」

 白と黒と赤――それだけの世界。夢も現実も変わらないと思っていた。慧の時間は両親が死んだときに止まってしまって、そこからずっと囚われたまま歩み出せずにいた。頭にあったのはあの紅を流させたものを同じ目にあわせること。ただ復讐することしか考えられなかった。

(……違う。はじめから色はそこにあった)

 慧が気付かなかっただけで。慧が気付こうとしなかっただけで、世界は変わってなどいなかったのに。
 木々の緑。青い空。白い雲。色とりどりに咲き乱れる花。笑顔で手を伸ばす――大切な人達。

「夕焼け……お前は好きでよく眺めてたくせに、夕焼けの時間を嫌がったな」
「だって、それは……帰らなくちゃいけなかったから」

 日が暮れれば、家に帰らなければならない。そうしたら、慧と別れなければならない。明日になればまた会えるというのに、離れてしまうのが嫌だった。
 ああ、と何かに気付いたように明日叶は笑った。

「俺はそんな昔から慧とずっと一緒にいたかったんだな」

 勿論、当時と今では向けている想いは少し変わったけれど、同じように大切で傍にいたいと思う存在だったのだ。

「……お前は…俺の理性を試しているのか…」

 はあ、と溜息を吐いて、慧は明日叶の肩に額を載せた。

「慧?」
「あまり煽るようなことを言うな」
「煽……ってない! 何でそうなるんだよ、慧」
「…………」

 無自覚というのは始末に悪い、などと思っている慧は明日叶が先程似たようなことを考えていたのを知らない。この辺りは似たもの同士といえるだろう。

「……明日叶」

 ぽつり、と慧が呟くように名を呼んで、吐息が明日叶の肩に伝わる。それが少しくすぐったくて、明日叶は僅かに身じろいだ。

「手を、握ってもいいか」
「……そういうことは訊かなくていいよ、慧」

 一々、確認されるのは恥ずかしいし、人前ならともかく二人きりのこの状況でことわることでもないだろう。

「言いたいことは言えと言ったはずだ」
「それは……そう言ったけど」

 答えを促されて了承の言葉を明日叶が出すと、慧は明日叶の手に指を絡めた。いわゆる恋人つなぎという握り方をされて明日叶の胸が跳ねる。ほんの些細な接触だというのに――もっといろんなところをすでに触られているのに、妙に気恥しく感じる。
 明日叶の恥ずかしさなど知らぬげに慧はぎゅっと手を握ってくる。――指に力がこもっているような気がした。縋られているような気がして、明日叶は握られていない方の手を伸ばして、慧の背中に回した。

「……慧」
「……もう少しだけ、このままで」

 囁きに明日叶は手を強く握り返すことで答えた。


 ――どのくらいそうしていただろうか、不意に肩にかかる重みが増して、明日叶は身体が傾くのを感じた。明日叶より慧の方が身長が高く体格がいい。当然ながら慧の身体を支えられるものではなく、体勢の悪さも手伝ってそのまま圧し掛かられるようにベッドに倒れ込んだ。
 明日叶は小さく声を上げたが、慧の身体はそのまま動かない。

「………慧?」

 明日叶を押し倒すようにベッドに横たわっている慧からは何の返答もない。返ってきたのは微かな寝息。

「……もしかして…寝た、のか……?」

 この体勢で、この状況でどうして寝られるというのだろう。この体勢なら―――。

「…………っ!」

 思わず、妙な方向に走ろうとした思考を慌てて振り払った。取りあえず、この状況から抜け出すには慧を起こさなければならない。声をかけようとして――明日叶は思いとどまった。

(……慧、夢見が悪かったんだよな)

 ひょっとすると、余り良く寝ていないのかもしれない。元々、慧の眠りは深くなく、睡眠時間も短い。明日叶とともに眠るようになってからは平均的にはなったが、きちんと眠っているかいつも明日叶は心配だった。
 ――明日叶がいると、よく眠れる。心を通わせた後、慧はそんな言葉を口にしていたが、先程の話を考えあわせると、再会する前の慧の状況は安眠とは程遠かったのではないだろうか。

(どうしよう……)

 折角、訪れた慧の安眠を妨げたくない思いが膨れ上がるが――今は寝ている場合ではないのも確かで。
 そう、思いがけず話し込んでしまったが、自分達はミーティングの最中に抜け出してきたのだ。遅くなればなるほど心配をかけるだろうし、早く戻らなければならない。
 だが、安眠とは程遠い時間を過ごしてきた慧をこのまま寝かせてあげたいのも本当で。

(本当に、どうしよう……)

 葛藤を続ける明日叶が、慧のぬくもりにつられて自分も寝入ってしまうのはこの数分後のこと―――。






 ―――余談。

「明日叶、昨日はお楽しみだったみたいですねえ」
「……お楽しみって…眞鳥さん」
「ジャガーさんと楽しく過ごしたってことですよう、明日叶」
「ち、違いますって! 昨日はうっかり話している最中に寝ちゃったんです!」
「だから、二人で楽しく寝たんでしょう、明日叶」
「違いますって! 慧も否定しろよ!」
「いや、問題ない。これでお前を狙う連中が減ればその方がいい」
「何言ってるんだよ、慧!」
「……そんなことしたって、今更だと思いますけどねえ…」

 判っていながら楽しそうにからかってくる眞鳥と、全く動じてない慧と、周りの生温かい眼に泣きそうになりながら必死に真実を語る明日叶の姿があった。
 自業自得とは言え、泣きたくなる状況に何があってももう抜け出すようなことは絶対にしない、と明日叶は強く決意したのだった。








END





(10/10/27up)




 シリアスできておいて、オチはこれ…(笑)。以前に他ジャンルでも似たような話を書いたのですが、気にしてはいけません。慧の黒好き→赤嫌いで始まったネタなのですが、気付けば何故かこんな話に……。




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