sweet sweet



 
厨房にはスパイスの効いたカレーの良い香りが漂っていた。食欲をそそるその匂いに誰かの唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。

「うわぁ…美味しそうですね、亮一さん」
「ありがとう、明日叶。食べてみないと本当に美味しいかは判らないけどね」
「食べなくても判ります。亮一さんって本当に料理が上手ですよね。お母さんに習ったんですか?」

 鍋をかき回しながらカレーの加減を見ている亮一に明日叶はそう訊ねた。亮一は本当に料理が上手い。亮一の実家から届く食材の仕送りで作られる料理を心待ちにしているのは何もグリフのメンバーだけではない。お裾分けと称して饗されるそれを他のチームのメンバーも実は楽しみにしていたりする。今日も亮一の特製カレーのご相伴に預かろうと狙っているものは多いはずだ。

「いや、料理は調理場で料理長やスタッフが作るのを見て覚えたんだ。暇なときには教えてもらったりして。母は旅館の女将業で忙しかったから、子供に料理を教える暇なんてなかったしね」

 亮一はどこか懐かしむ顔をしてああ、でも、と続けた。

「作る料理はカレーが多かったかな。簡単で手間いらずで温めなおせばすぐ食べられるから、らしい。でも、その意見には俺は賛同しかねるよ。カレーというのは種類も豊富で奥深い料理なんだ。スパイスの調合によって味は千差万別に変化するし、オリジナリティあふれる創作料理を作り出すことが可能だ。そもそも日本ではカレーは総て一括りにされてしまいがちだけど、そうじゃない。もっと―――」
「あ、はーい、はいはい! そこまで! 亮ちゃんのながーい、蘊蓄なんて聞いてたらいつまで経っても食べられなくなっちゃう」
「うむ。りょーいち、うざい」

 長い講釈に入ろうとしていた亮一の言葉を、横にいたヒロが遮った。その隣では興がその通りだと頷いている。

「だいたい亮ちゃんたら、さっきから明日叶ちんを独り占めしちゃってずるくない? ボクの話も聞いて明日叶ちん」
「うむ、りょーいち、ずるい」

 二人に畳みかけられて弱った顔をする亮一に、明日叶は助け船を出すべくヒロに声をかけた。

「えーと、ヒロは想い出の料理とかあるのか?」

 明日叶の問いにヒロは待ってましたとばかりに顔を輝かせた。

「うん、ボクの想い出の料理はね、やっぱりコレかな」

 そう言って、目の前の出来たばかりのケーキを指し示す。ヒロらしく華やかにデコレーションされていたそれはカラフルでとても綺麗だ。

「コレって…ケーキ?」
「そ、コレとは違うスイーツなんだけど、昔、連れて行ってもらったレストランで食べたデザートがすんごくおいしくって、どうしても、自分で作りたくなっちゃったんだよね。で、パティシエに頼み込んでレシピを教えてもらったわけ」

 そのレストランのオーナーとヒロの両親が古くからの友人だったからこそ実現した話なのだが、いくらレシピを教えてもらったからとはいって、最初から上手く作れたわけではない。何度も失敗して試行錯誤を繰り返し、初めて成功したときには心底嬉しかったという。

「それが、ボクのお菓子作りの原点なんだよねー。やっぱり作るからには完璧を目指さないと」

 好奇心旺盛なヒロらしいエピソードに明日叶は感心しながら、興さんは、と話を振った。

「納豆が一番! 納豆は何にでも合う。一番うまい」
「…………」
「…………」
「あー、まあ、予想通りだね、興ちゃんのは」

 聞くまでもなかったよね、と肩を竦めてから、ヒロは明日叶へと向き直った。

「で、明日叶ちんは?」
「え?」
「明日叶ちんの想い出の料理とか、おふくろの味とか、好きな食べ物は? ベーグル好きなのは知ってるけど、他には他には?」

 急に話を振られて、明日叶は答えに困ってしまう。明日叶の想い出の料理、といえば―――。

「亮兄! カレー出来た? もう、オレ、お腹ぺこぺこッス!」

 が、突如、厨房に響いてきた声に明日叶の口は開こうとして止まった。

「このバカ犬! 邪魔なだけなんだから、こっちに入ってくんなってば!」
「だって、腹減ってんだから、気になるのは仕方ねえべ! カレーの匂い嗅いだら誰だって我慢出来なくなるに決まってんじゃん! 武士は食わねど戦は出来ねえって言うべ!」
「太陽、それは『武士は食わねど高楊枝』か『腹が減っては戦は出来ぬ』のどっちなんだい? まあ、意味合いから考えて後者だと思うけど」
「へーん、バカが使いなれない言葉使うんじゃないよ。バーカ、バーカ」
「なんだとー!」

 言い合いを始めた二人をまあまあと亮一がなだめ、興はというと余ったホイップクリームをそのまま絞り口から飲んでいた。収拾がつかなくなってきたこの場をどうすることも出来ず、明日叶は深い溜息を吐くしかなかった。




「慧、いるか?」

 ドアをノックすると、すぐに応答があって慧が明日叶を出迎えてくれた。

「明日叶」
「慧、トレーニングはもう終わったのか?」

 ああと頷きながら、明日叶を向かい入れた慧はふと、明日叶が手に抱えている小さな白い箱に目をやった。甘い香りが漂うそれに訝しげな視線を送っていると、おずおずと明日叶がそれを差出した。

「これ、慧と一緒に食べようと思って」

 甘い香りが漂うそれを促されるままに開けると、中には切り分けられたアップルパイが入っていた。ちょっと形がいびつだがおいしそうな甘い香りがする。

「ヒロに手伝ってもらって、一緒に作ったんだ。生地はさすがに作れないから、完全な手作りじゃないけど……」

 世の中にはパイシートだとか簡単に混ぜて作るケーキミックスの粉とか初心者向けの食材が色々と売っているらしい。ヒロから教えてもらったそれらを用いて作ったアップルパイは不格好だけれど、初めてにしては上出来だとヒロが誉めてくれた――まあ、半分くらいはお世辞が入っているかもしれないが。
 しかし、何故急にアップルパイを作る気になったのか、という当惑した顔を向けてくる慧に、明日叶は調理場での話をした。

「亮一さんたちと想い出の料理の話をしてさ、すぐに思い浮かんだのが――おばさんが作ってくれたアップルパイだったんだ」

 母親の手料理よりも、慧の母の作ってくれたお菓子を真っ先に思い浮かべてしまったのが申し訳なくもあるが――勿論、明日叶にもおふくろの味と呼べるものはある――それくらいに慧の母が作ってくれたおやつはあたたかくて想い出深いものなのだ。柔らかくて優しくてきらきらとした大切な想い出がいっぱい詰まったもの。

「おばさんの作ってくれるおやつ、俺、大好きだった。勿論、俺が作ったものなんておばさんの作ったものとは比べ物にならないけど――慧に一緒に食べて欲しいんだ」

 慧にとって、両親の想い出はまだ想い出すには辛いものなのかもしれないけれど――それでも、こんなふうにきらきらした優しいものに彩られた大切なものだということを忘れて欲しくはないから。

「あ、と……ごめん、慧。嫌、だったか…?」

 何も答えない慧に、明日叶はやはり時期尚早だったかと箱を引っ込めかけたが、慧はそれを止めて明日叶に微笑みかけた。

「いや、ありがとう、明日叶」

 慧の笑顔にホッとして、早速賞味――という段になって、明日叶は慧の部屋には何もないことにはたと気付いた。明日叶以上にもののない慧の部屋には皿もフォークもあるわけがなかった。

「あ、と…ごめん、慧。フォークとか用意してこなかった」
「別に問題ない。そのまま食べればいいだろう」

 行儀は悪いがレストランで食べるわけではなし、手掴みでそのまま食べることに決めた明日叶は促されるまま、アップルパイを一切れ手に取った。すると―――。

「…………っ!」

 ぐいっと、パイを握った明日叶の手を掴んだ慧がそのまま口を寄せ、がぶりとパイをかじっていく。慧の白い綺麗な歯列が口から覗いて喉がゆっくりと動いて咀嚼していく。

「……甘いな」

 呟いた慧が再び口許を手に寄せるのを見て、明日叶は慌てて言い募った。

「け、慧! 俺が持ってるのじゃなく、自分のを食べろよ!」
「お前の方がうまそうだ」
「じゃ、じゃあ、これやるから自分で―――」

 言いかけた言葉は咽喉元で止まった。熱く濡れたものが明日叶の指を這ったからだ。生き物のように蠢くそれ――慧の舌が。

「け、慧……」
「動くと零れる、明日叶」

 だからって、普通舐めるか、という言葉は声にならない。慧の舌が指先を辿る度にぞくぞくしたものが背筋を走るからだ。戯れのように動く舌は指先を掠め、綺麗な歯列がパイをかじり取っていく。どうすることも出来ずに震える明日叶は慧がようやくパイを食べ終わった頃にはすっかり目元を潤ませていた。

「……慧のバカ」
「……ああ」
「一緒に食べるって言ったのに……」
「……ああ」
「これじゃあ、何か、お前にだけ食べられた気分だ」
「お前が、俺を喜ばせたのが悪い」

 それにまだ全部食べていないと、明日叶を覗き込む瞳に宿る色にぞくりと背中に震えが走る。食べたいのはパイかそれとも―――わざわざ言うまでもなかった。




「明日叶ちーん!」

 校舎内で明日叶を目敏く見つけたヒロが走り寄って切る。

「ヒロ」
「昨日ぶり〜。昨日はお菓子作り楽しかったね! また一緒に作ろう、明日叶ちーん!」
「…………」
「明日叶ちん?」

 何故か顔を赤くして押し黙ってしまった明日叶にヒロは怪訝な顔をした。慌てて、明日叶はうん、と続けた。

「今度は生クリームをたっぷり使った、ふわふわのケーキなんかいいよね!」
「……………」

 だが、結局、その後明日叶はお菓子を作ることはなく、ヒロのつまんなーい!という声が厨房に響くこととなるのだった。




END



(10/9/18up)




 慧が明日叶の手の中のケーキにかじりつくシーンが書きたくて出来た作品。書き終わってからディオ向きだったかも…とちょっと思いましたが、慧で書きたかったので、これでいいのです(笑)。



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