会議を終えて部屋から出たときに何気なく胸元に手をやったリヴァイは、そこに挿していたペンがなくなっていることに気付いた。どこかで落としたのだろうか――考えてみるもいつどこで失くしたのか全く思い出せない。そんな男の様子に気付いたのか、横にいたハンジが男に声をかけた。

「何? どうかしたの、リヴァイ」
「イヤ、ペンを落としたみてぇだが、いつ落としたのか覚えてないな、と思ってな」
「会議室ですかね? 探してみましょうか?」

 リヴァイの後ろにいたペトラがそう申し出たが、リヴァイは時間が勿体ないし、いいと答えた。

「ペンの一つくらいまた買えばいい。出てきたら出てきたで、ペンならいくつあったっていいだろ」
「相変わらず、リヴァイはものにこだわりがないんだねぇ。勿体ないとか思わないわけ?」

 ふう、とハンジが息を吐いて言ったので、リヴァイはそれくらい自費で買うが、と返した。総務に行けば経費で買ったペンの在庫などいくらでもあるだろうが、自分で失くしたのだから自費で買えと言うのなら別にそれくらいどうということもない。
 ハンジは、そうじゃなくてさ、とリヴァイの言葉に苦笑いを浮かべた。

「執着がないっていうか、去る者は追わずっていうか。長続きしないのもそれが原因かなーって思ってさ」
「余計なお世話だ、クソメガネ」

 そう言って、男はハンジの頭を叩いたが、彼女の指摘したことは紛れもない事実である。
 リヴァイは自分の使うものに余りこれといったこだわりがない。使い易ければそれでいいので――勿論、好みはそれでもあるし、品質の良いものを選ぶが――壊れてしまったら新しいものを買うし、何年も使ってきたので捨てられないとか、そういう愛着は余り持たないタイプだ。
 ハンジの言っているのはそれだけではなく、人間関係のことについてもなのだろう。確かにリヴァイは今まで何人かの女性と付き合ったことはあるが、誰とも長続きしなかった。そのどれもがもめることのない綺麗な別れ方だったが、リヴァイが別れたくないと相手に縋りついたことは一度もなく、後にも全く引き摺らないのでそれがあっさりしすぎているというように眼に映るのだろう。
 別にリヴァイが薄情というわけではない。彼は今までに部下の面倒をよくみてきたし、周りの状況を見て他の人間のフォローをしてやることも多かった。一緒に会社を立ち上げたエルヴィンや――おかげで副社長などという面倒な役職を押し付けられたが――会社設立当時から一緒に働いている、ハンジやミケなどとは気心の知れた仲間で、たまに食事や飲みに行ったりもする。
 だが、確かに何かに酷く執着するということはなかったように思える。

「イヤ、でも、リヴァイが本気になる相手がいるなら見てみたいな」

 ハンジのその言葉をリヴァイはスルーして歩き始めた。彼女の軽口に付き合ってやる暇も義理もない。
 まさか、この後、リヴァイに本気になる相手が現れるなど、当の本人にさえ予想していないことだった。





フォンダンショコラ




 その日は朝からリヴァイの体調は悪かった。社の方で大きなプロジェクトがあり、それの詰めのために連日忙しくて睡眠不足に陥っていたからだ。エルヴィンと他の仲間数人で立ち上げた会社は予想以上に大きくなってしまい、今では多方面に進出している有名企業だ。リヴァイとしてはもうここまで大きくなったし、後は自分がいなくてもどうとでもなるだろう、と思い引退しようとしたら――全力で引きとめられて現在に至っている。今の仕事が面白くないわけではないし、まあいいか、と続けてはいるが、この辺も執着がないと言われる所以なのだろう。
 リヴァイの通勤手段は電車である。一流と呼ばれる企業の副社長なら、運転手つきの車を使うのでは、と言われるが、いくら毎年黒字経営で業績が上がっているとはいえ、そんな人件費は無駄なだけだとリヴァイは一蹴している。それはパフォーマンスでも何でもなく、単に毎日他人に家に来られるのが鬱陶しいからである。潔癖症のきらいのあるリヴァイは自宅に人をあげることは滅多になかった――いや、運転手が来るとしても玄関先までなのは判ってはいるが。それに時間に正確で渋滞がない交通手段は効率的だと男は思っている。無論、社用車も必要があれば利用するが、移動に電車の方が効率がいいのならそちらを使うのが常だった。

(まずいな……)

 どうやら、貧血を起こしたらしい。暗くなっていく視界に男は駅のベンチで休んでいくことにした。そういえば、昨日の夕食は栄養補助食品のゼリーで今朝は何も食べてこなかったな、と自分の食事事情を思い出し、それに睡眠不足が重なれば当たり前か、と自省する。社会人となり、仕事を請け負っているのなら体調管理は当然すべきことなのに、初歩的なミスを犯してしまった。これでは社会人として失格である。

「あの、顔色すごく悪いですよ、駅員さん呼びましょうか?」

 不意に声がかけられたのはそんなときだった。返事をするのも億劫だったが、相手は自分の様子を見て心配して声をかけてくれたらしい。無視するのも失礼だろう――というか、駅員など呼ばれては面倒なことになる。

「いや――軽い貧血だ。少し休めばよくなる」

 声からして相手はまだ若い男性のようだ。暗い視界では相手を確かめることは出来ないが、相手は離れていき――そして、何故かまた戻って来た。

「あの、もし飲めるんなら水分摂った方がいいと思って。良かったら」

 そう言って声の主が差し出したのはスポーツ飲料のペットボトルとどういうわけかチョコレートバーだった。

「朝食はしっかり食べないとダメですよ。チョコはカロリー摂るのにいいので、ついでにこれも」

 柔らかい声音は本当に男を心配して労わっているのが判る。相手だって暇ではないだろうに、ここまで親切にするのはおそらく相手の性格なのだろう。お節介ですみません、友達にも言われるんですけど、と続ける相手の声が耳に心地好い。
 そのとき、相手にイェーガー、行くぞ、と声をかけるものがあった。相手はそれに今行く、と返した。

「具合悪いときに話しかけてすみません。それじゃあ」

 相手が離れていくのを感じて、リヴァイは何とか顔を上げた。まだ、自分は礼も言っていない――それに、もう少し話していたい。あの柔らかい声を聞いていたい。
 暗い視界の端に映ったのはおそらくは高校のものだと思われる制服。その制服は人の波に吸い込まれ、やがて判らなくなった。

(高校生、か……)

 礼を言うことも顔を見ることも出来なかった少年。

「イェーガー……」

 声に出して呟いてみる。心配そうにかけられた柔らかい声。伝わってきた気遣い。
 男は残されたスポーツ飲料とチョコレートバーを眺めながら、もう一度会ってみたいな、とそんなことを思っていた。



「リヴァイ、ショタコンになったんだって?」

 唐突にそんなことを言われ、男は一瞬意味が判らなかったが、理解した途端相手の頭を叩いていた。

「人聞き悪いこと言ってんじゃねぇ! このクソメガネ!」

 痛いよ、酷いな、リヴァイは、と叩かれた頭を抱えながら相手――ハンジはだって聞いたからさ、と続けた。

「何か、いつも高校生くらいの男の子の集団を見てるって。すれ違ったりすると立ち止まったりしてるから、知り合いがいるのかと思うとそうでもないみたいだし――って聞いたんだけど。で、どうなの?」
「…………」

 リヴァイはその問いに答えなかった。あのとき視界に映った制服は確証はないが、リヴァイが知っている高校のものだ。その制服を見かけるとあの少年がいないかつい探してしまうのが最近のリヴァイの癖だった。

(……顔も見てないのにな)

 見たって判るはずがない。知っているのはあの声と、イェーガーという名だけ。まさか訊ねてみるわけにもいかず――いきなり声をかけたりしたら、不審者だろう。リヴァイは自分の目つきの悪さのせいでその筋の人間と勘違いされやすいと知っている――ただ、眺めているだけしかなかった。

「話がそれだけなら行くぞ、クソメガネ」
「ああ、そうだった! それが言いたかったんじゃなくてね」

 そうして、彼女はリヴァイがこれから向かう出先の近くにある店に、帰りに寄って来て欲しいのだと告げた。

「面倒くせぇ。断る」
「えーついでなんだし、いいでしょ? 知らない? カフェ・グリーンリーフって店。持ち帰りのケーキ販売がメインだけど、店内でしか食べられないミルフィーユが絶品でね。勿論、他のケーキも美味しくって人気あるんだよ。このところ、仕事が忙しくて行けないからもうずっと食べてないんだよ、あそこのケーキ。遅いと欲しいケーキも売り切れちゃうしさ、買ってきてよ、リヴァイ!」
「だから、面倒くせぇ。断る」
「えー、だって、最近、リヴァイ甘いものよく食べてるでしょ。デスクにいつもチョコバー置いてるって評判だよ」
「…………」

 リヴァイは特に甘味好きというわけではない。嫌いかと問われたら嫌いではないと答えるが、あれば食べる、といったスタンスだ。チョコレートに関しては手軽にカロリー摂取出来るから口にする機会はわりとあったが、それが常備されるようになったのはあの少年に出会ってからだ。ショコラの甘い香りはいつもあの少年を思い出させた。

「チョコレートケーキもあそこは美味しいしさ。というか、どれも美味しいんだけどね。だから、買ってきてよ、リヴァイ」

 そこで頷いたのは本当に気まぐれだったのだ。甘いものに触れるとあの少年を思い出すから。なのに。
 まさか、そこで運命の再会を果たすとは思わなかった――。


 いらっしゃいませ、と明るく声をかけられ、リヴァイは呆然としていた。傍目には無表情に見えていただろうが内心では激しく動揺している。

(この、声だ……!)

 どうしても忘れられなかった、あの柔らかな声。名札にはイェーガーと明記され、年齢も若く高校生くらいに見えた。

「ご注文がお決まりになりましたら、お申し付けください」

 ずっとずっと会いたいと思っていた少年はリヴァイを怖がる素振りも見せずに、明るい笑顔で声をかけてきた。それが客相手の営業スマイルでも何でも構わなかった。ああ、とここで男はハッキリと自覚した。
 自分はこの少年に一目惚れ――いや、一声惚れというべきだろうか――したのだということを。





「リヴァイさー、ここのケーキや焼き菓子美味しいし、取引先に持っていっても評判いいし、いいんだけどさ、差し入れとか進物買ってくるのって副社長がわざわざすることじゃないよね?」
「…………」
「というか、秘書に行き先も告げずに消えたりとか、無理矢理にスケジュール変えたりとか、やめてくれないかな? ペトラとエルドが泣いてたよ。仕事押してるのに皺寄せきて大変だって」
「……次からはお前には買ってこない」
「いやー、嘘嘘! ケーキ買ってきてくれてありがとうございます! ハンジちゃん、大感激!」

 あれから、リヴァイはエレンのいる店に通い詰めた。高校生なのは判っているから、彼のシフトはおそらく平日は学校が終わった夕方から閉店までの間、休日は開店から閉店までの間のどこかになるだろう。そう見当をつけて、リヴァイはエレンのシフトを突きとめるまで通った。誰か人に頼むことも出来たが、まさか自分よりずっと年下の高校生に一目惚れして会いたいから彼のシフトを調べて欲しいなどとは言えない。
 自分の足で確かめてみたら、あの店のシフトは固定で少年は平日の三日程夕方から勤務しており、日曜は休みで土曜は頼まれでもするのか、たまに入っていることがある、という結果が出た。こんなことまでするなんて、自分でもストーカーじみていると理解しているが、会いたいという気持ちは止められなかった。
 それからは少年が勤務している時間帯に出かけ、商品を買って帰るという日々が続いている。他の店員は男のことを怖がっているのか、必ずあの少年が応対してくれるのでリヴァイはそれが密かな喜びだった。だが。

(……どうやって進展したらいいのか判らねぇ)

 これが男女だったら、もっと上手くやれたかもしれないが、相手は同性な上、自分の人生の半分程しか生きていない高校生だ。下手したら、未成年略取、淫行罪でリヴァイは逮捕されるだろう。
 せめて、もっと親しく話せるようになりたいと通い詰める自分に周りが首を傾げているのは判っている。特に自分のスケジュールを管理している第一秘書と第二秘書のペトラとエルドには迷惑がかかっているに違いない。

「この前、大きな仕事は片づけたし、無理のないようにはしてる。問題はねぇだろうが」
「まあ、そうだけどさ、リヴァイ」

 ハンジは笑いながら言葉を続けた。

「中年太りと糖尿病には気を付けるんだよ? 成人病をそろそろ気にしないと――」

 ハンジが言い切る前に、リヴァイの鉄拳が決まったのは言うまでもない。



 それから転機があったのは、リヴァイが出先から社に戻るときだった。社に報告と指示の電話をかけようとしたら、自分の携帯電話の充電が切れていたのだ。リヴァイは小さく舌打ちした――こうなったら、携帯電話はただの金属の塊で全くの役立たずだ。取りあえず、公衆電話を探して辺りを見回してみるが、周囲には見当たらなかった。今の携帯端末の普及を考えれば当然の結果かもしれないが、非常時にないと困るのではないかとそんなことを思う。
 そのとき、不意に誰かに見られているような気がして、振り返った男は固まった。
 そこにいたのは、自分があの洋菓子店に通い詰める原因となった少年。学校帰りなのか、制服を着た少年は大きな瞳を見開いて自分を見つめて固まっていた。

「…………」
「…………」
「えと、何かお探しですか?」

 先に我に返ったのは少年の方だった。そう問いかけられて、リヴァイは何とか平静を装って公衆電話を探していた、と告げた。

「探すと中々ねぇもんだな」
「携帯を忘れたとか?」

 少年の問いにそんなに間抜けではないと返す――少年にそんなうっかりミスをするような男だと思われたくなかった。単に充電が切れただけだと告げると、何と、彼は自分の携帯を差し出してきた。
 ああ、彼らしいと男は思った。最初の出会いのときの刷り込みかもしれないが、彼はやはりとても親切なようで、それを悪用されないか心配になってくる。個人情報を売り買いし悪用する相手は世にいくらでもいるのだ。

「お前な、そんな個人情報の詰まったもんを簡単に知らねぇ奴に差し出してるんじゃねぇよ」
「え、でも、お客さんだし。別にあなたなら悪用しないでしょう?」

 あっさりとそんなことを言う少年に男は驚く。あれだけ通い詰めている常連客なら少年が顔を覚えているのは当然かもしれないが、なおかつ、信用されているという事実が男には嬉しかった。
 流れで充電器を少年と一緒に買いに行くことになり、これで社に連絡が入れられることよりも少しでも少年といられたことが男には嬉しかった。
 いい機会だから、せめて名前くらいは聞き出そうと男が思ったとき、疲れてるときには甘いものがいいですよ、と少年から明らかに手作りだと思われるお菓子を差し出された。甘いショコラの色をしたクッキーはやはり出会いのときを男に思い出させた。

「えーと、変なものは入ってませんよ?」
「いや、そうじゃねぇ。ただ、人に渡す菓子がただの袋に入れただけって、な……」

 受け取らない男に少年がそう付け足すのに、リヴァイはそう言って笑った。透明のビニール製の袋に入れて封をしただけのそれは、プレゼント用にラッピングされた可愛らしい菓子よりも、素朴で優しくまるで少年そのもののように思えた。何気なく差し出された気遣いに、この少年はいいなと男は改めて思う。
 こんな少年だから、自分はきっと好きになった。

「ああ、悪かったな。からかったつもりじゃなかったんだが…有り難く頂戴しておく」

 少年から菓子の入った袋を受け取り、お前イェーガーだったよな、と確認するように言ってから名の方を訊いた。少年はエレンだと名乗り、男は満足そうに笑った。

(エレン、エレン、エレン・イェーガー)

 それは他のどんな言葉よりも男の胸を温かくさせる言葉だ。

「俺はリヴァイだ。……エレン、また店に行く」

 くしゃり、と男はエレンの頭を撫ぜてから、じゃあな、と手を軽く振ってその場から去った。まだ、名前を知っただけ。それでも――。
 かぷり、と齧りついた少年手製のクッキーは今までに食べたどんな菓子よりも美味しく、少年の名前はそれだけで男を甘い気分にさせた。





 リヴァイは悩んでいた。あれから少しだけ少年との距離は近付いて会話をするようになり、彼のことを知る度に男はもっと彼を好きになった。だが、まだまだ単なる店の店員とその常連客の間柄にすぎない。もっともっと彼に近付くにはどうしたらいいのだろか。

(食事にでも誘うか)

 そうは決めたもののどこに連れていくかでまた迷う。少年が喜ぶところにしたいが、少年の好みが判らない。少年の好きそうなものというと――。

(ケーキとかデザートか?)

 洋菓子店でアルバイトしていて、更に自分でも菓子を作るくらいだから、少年は甘味が好きなのだろう。ならば、デザートが美味しいと評判で、料理も店の雰囲気も良いところでなくてはいけない。更に余り遠くには連れだせないだろうから、少年のアルバイト先からそれ程離れていない店、ということになる。条件は厳しいが、リヴァイは色々と調べ、自分でも下見をしてこの店、と決めてからエレンのアルバイト先へと向かった。シフトはもう把握しているので、少年の仕事上がり時間は判っている。本気でストーカーだな、とは思ったが、男は決死の思いで少年を食事に誘ったのだった。


 誘った店の料理はどれも美味しくて少年はとても喜んでくれたし、彼の将来の夢――どうやらパティシエを目指しているらしい――やいろんな話を聞けて、リヴァイは満足感でいっぱいだった。一方で、少年が自分との出会いを欠片も覚えてないことが判って、それが当然ということは理解していたが、やはり、残念だと落胆する気持ちが湧く。
 だが、その日はそんな思いなど吹き飛ばす収穫があった。何かお礼をしたいと言う少年に、自宅へ彼が訪問するという約束を取り付けたのだ。連絡を取り合うために携帯番号とメールアドレスの交換も出来た。しかも。

(エレンの手料理……!)

 あの日の自分を誉めてやりたい、とリヴァイは思った。よくぞ、誘った俺!と叫びたい。手料理を振る舞うと言い出したのは少年だが、家が近いのが判ったので、また遊びに来てくれる約束を取り付けられるかもしれない。
 その日から表情には出ないながらもリヴァイのテンションは上がりっぱなしであった。付き合いの長いものならば彼の機嫌がいいことは判っただろう。

「……リヴァイ、上機嫌だね」
「ああ、そのようだな」
「何か、あそこまで機嫌がいいと不気味なんだけど……」

 こそこそと話し合うハンジとエルヴィンに――いや、周り全員にリヴァイは宣言した。

「今度の俺の休みを邪魔する奴は何があっても許さん……! 絶対に呼び出しとかかけんじゃねぇぞ」

 凄味のある声で低く言われ、周りは頷くしかなかった。だが。
 折角のエレンとの休日を彼は呼び出しで潰されることになってしまったのだった。




「イヤ、来てくれて助かったよ、リヴァイ」
「…………」
「もう、仕方ないじゃないか。社長は昨日から海外視察に行っちゃってて戻ってこられなかったんだから」
「エルヴィンの奴……戻ってきたら、あのヅラむしり取ってやる……!」
「イヤ、ダメだからね! というか、社長はまだヅラじゃないから! ちょっと薄いかなって思うけどさ!」
「なら、ヅラが必要にしてやるまでだ」
「イヤ、何怖いこと言ってくれちゃってんの、リヴァイ! 毛根死滅計画? 死滅させる気? ダメだからね!」

 何でこんなことになったんだか、とリヴァイは溜息を吐いて、こうなった経緯を思い返していた。
 前日余りよく寝られなかったリヴァイは――遠足前の小学生かよ、と自分に突っ込みを入れたくなった――それでも、休日だというのにいつも出勤するときよりも早く起きた。時間潰しに清潔にしてある部屋を更に掃除して、待ち合わせの場所に時間よりも三十分も早く辿り着いた男はエレンの私服姿を見てその愛らしさにばんばん、と地面を叩きたくなったが堪えた。
 自宅に招き入れ、部屋が広いと驚き、キラキラとした眼で最新型のシステムキッチンを確かめる少年に、オーブンを使いに来るかと半ば本気で言ったのだが、冗談と取られたらしく流された。残念だな、と笑ったが本当に残念だった。リヴァイは料理は作れなくはないが、殆どしない。このキッチンも宝の持ち腐れなのだが、リヴァイとしてはインテリア感覚で置いているようなもので、少年が喜ぶのなら自由に使って構わないと思う。
 その後、夕飯の買い物と映画を借りてお買い物デート気分を味わい、一緒にソファーに座ったリヴァイはなるべく性的なものを感じさせないように、少年がスキンシップと取れる程度に髪に触ったりしたが、彼は嫌がらなかった。少しずつでいいから自分に慣れてもらおう――まずは単なる知り合いから友人への格上げを狙う。
 夕食を作る少年の可愛らしいエプロン姿も見られてリヴァイの気分は最高潮だった――それも、ハンジからの緊急電話で天国から地獄に叩き落とされたのだが。

(ああ、本当についてねぇ)

 更に腹が立つのはリヴァイが対応したら案外早くにトラブルに収拾がついたことだ。リヴァイだからこそ出来たといえるのかもしれないが、こんなに早くに解決出来るんならわざわざ休日の自分を呼び出すなと怒鳴りつけてやりたい。

「あの、申し訳ありません。わざわざお呼び立てしてしまって……」

 ペトラがすまなそうに男に頭を下げたが、リヴァイはいや、と首を横に振った。彼女もリヴァイがこの休日を楽しみにしていて、絶対に邪魔をするなと厳命していたのを知っているから、より申し訳なく思っているのだろう。だが、リヴァイの休日が潰れたのは彼女のせいではない。担当者のせいといえばせいかもしれないが、誰だってトラブルを起こしたくて起こしているのではないのだから、必要以上に責めるのは大人気ないだろう。社会人として働いているのなら、不意に起こるトラブルなどでこうして休日を潰されることはよくある話だ。ここは仕方なかったと割り切って、気分を切り替えるのが必要だ。
 それから、後処理やスケジュール調整の話などをして、リヴァイの最寄り駅付近に用事があるというペトラと駅前で別れ、リヴァイは帰宅した。
 少年が作ってくれたロールキャベツを温め直して食べ、デザートのチョコレートケーキを口に運びながらやっぱり二人で食べたかったな、とリヴァイは思った。少年の作ってくれた料理もデザートもとても美味しかったけれど、少年がいない食事は物足りなく感じる。愛情は手料理の一番の調味料というが、食べる方にだってそれは言える。愛しいと思うものが傍にいて一緒に食事をしてくれれば、どんな粗食だってより美味しく感じられるのだから。

(取りあえず、メールで詫び入れて、今日はもう遅いから明日にでも電話をかけてみるか)

 そして、出来れば今回の詫びと称して食事に連れて行ったり、次に会う約束を取り付けたい。
 が、本当の地獄はこれからだったのだ。




(出ねぇ……)


 あれから詫びのメールを入れて電話をかけてみたが、エレンは電話に出なかった。メールの返信も、最初のときと、後に一度今勉強が忙しいので時間がないんです、とあったきりだ。怒っているのかとも考えたが、少年はあのくらいのことをいつまでも根に持つようなタイプではないし、返信も怒っているようなものではなかった。

(着信拒否されてないってことは、まだ望みがあるか……?)

 リヴァイが本当に嫌になったのなら、着信拒否してしまえばいいだけだし、メールも返信はないが、ちゃんと届いているようだ。悩んでいても埒が明かないし、直接顔を見て話そうと思ったら、少年はシフトを変えてしまったのか、店に出ていなかった。一応店員にそれとなく訊いてみたが、個人情報に関わることはお教え出来ませんので、と返されてしまった。店側としては従業員の勤務に関して家族でも何でもない男に教えられるわけがないから当然の結果だったが。もしかして、アルバイトをやめてしまったのかとも考えたが、あんなにお菓子作りが好きで、パティシエになるのが夢だと語ってくれた少年が目標としている店を辞めるとは考えにくかった。おそらくは自分と会うのを回避するためにシフトを変更したのではないだろうか。そこまでされる理由が判らず、そんなにまでして会いたくないというのなら、奈落の底に穴を掘りたいくらい落ち込むリヴァイだが、理由があってそれが改善すればまた会ってもらえるというのなら理由を訊きたい。何にせよ、少年と会わなければ。

(確実なのは高校だが……)

 下校時間に向かえば少年を捕まえられる可能性は高いが、正門ではなく裏門から逃げられる可能性があるし、そうなれば人手を借りなければならない。更に校門の前でうろうろしていたら、学校関係者や近所の者に不審者として通報される恐れがある――いや、絶対に通報されるだろう。自分の容姿が誤解されやすいことを長年の経験でリヴァイは知っている。

(となると、やはり、店の方か……)

 こうなれば店内で話しかけるよりも、彼の仕事上がりに待ち伏せして捕まえるのが早いだろう。毎日張っていれば、いずれは彼が仕事しているときにかち合うはずだ。
 そうと決まれば、とリヴァイはデスクから立ち上がった。
 突然に今から帰る、これから数日はそうすると宣言され、周りのものたちは慌てた。

「いや、リヴァイ、急にそんなことを言われても、君にだってスケジュールが……」
「うるせぇ! このヅラが! 元はといえば、肝心なときにいなかったてめぇのせいだろうが!」
「イヤ、だから、リヴァイ、社長はまだヅラじゃないからね? 薄毛なだけだからね?」

 ヅラと言われショックを受けているエルヴィンとフォローになっていないフォローを入れるハンジに、そしてその場にいた全員にリヴァイは宣言した。

「いいか、これには俺の人生の総てがかかってるんだ! 邪魔したら、全員躾けし直すからな……!」

 凄絶と呼べるような笑みを浮かべて言われ、反対出来るものなどそこにはいなかった。



 数日、と周りには言ったが、宣言したその日にリヴァイはエレンを捕まえることが出来た。自分のアルバイト先で仁王立ちで待ち構えていた男に少年は驚いていたようだが、有無を言わせずに近くの公園に引っ張り込む。

「いいか。俺は気の長い方じゃねぇ。嫌なら、嫌って言え。……でなきゃ、諦められねぇんだよ」

 いや、ここで嫌いだと言われても諦められるかどうか――こんなに本気になったのは彼が初めてで、これからもずっと彼を想い続けるかもしれない。いや、きっと自分は彼を忘れられないだろう。

「何で、俺があの店に通ってたと思ってるんだ。やっと会えたと思って、何とか話したいと思ってお前のバイトの日に通って、やっと仲良く話せるようになったと思ったら、これか、オイ!」

 エレン、と腕を掴んだとき、少年の態度が突如変わった。ぷつり、と何かが切れた、そんな感じだった。

「ああ、もう何だって放っておいてくれないんですか! 恋人がいるなら、その人に構っていたらいいでしょうが!」
「は?」
「人が失恋の痛みに耐えてるってときに現れて引っ掻きまわして!」
「オイ、エレン」

 少年の言っていることが全く以って判らない。自分に恋人などいない。恋人になって欲しい人間なら目の前の少年だが、何がどうなって自分に恋人がいるという話になっているのか。
 すると、次の瞬間、唇に衝撃を受けた。がちん、と音がしそうな程の勢いに任せた稚拙なキス――だが、そこから必死の想いが伝わってくるような気がした。

「オレ、リヴァイさんが好きです!」

 言われた言葉が上手く呑み込めなかった。誰が誰を好きだって――リヴァイは頭の中が真っ白になるとはこういうことなんだと後に思った。
 ようやくその意味が咀嚼出来たときには少年は物凄い勢いで駆け出してしまっていた。
 少年は自分のことが好きだと言った。更に自分にキスまでして――それが冗談やからかいだとは思えない。あのキスには少年の想いのありったけがこめられていた。なら、自分は――。

「絶対に逃がすか……!」

 リヴァイは猛烈な勢いで少年の後を追って走り出していた。不審者として通報されようが、知り合いに見られようが、周りからどう思われようが構わなかった。愛しいあの少年をこの腕に捕まえられるのなら。

「待ちやがれ、クソガキ!」

 今までの人生で最高の走りを見せた――それこそオリンピック選手顔負けの走りで少年を捕まえた男は、年下の可愛らしい恋人をその日手に入れることに成功したのだった。





「リヴァイさん、出来ましたよー」

 キッチンから甘い香りがしてきて、リヴァイは皿を運ぶのを手伝った。

「フォンダンショコラです。冷めたときには温め直しても美味しいですけど、やっぱり焼き立てが一番ですから」

 休日になると――平日でも時間があえば――少年は男の家にやって来てはこうして料理やお菓子を作ってくれる。時間のかかる菓子は持参する場合が多いが、焼き立てを味わって欲しいからとこの日は男のキッチンで作ってくれた。甘味はそれ程好物でもなかったリヴァイだったが、それが今では好きなものの一つになった。特に出会いを思い出させるショコラ関係のものはよく口にする。
 男の家のシステムキッチン――特にオーブンは使いやすいらしく、少年のお気に入りだった。殆ど使用していなかったものだが、少年が喜んでくれるなら買って良かったと素直に思う。料理をし終わると少年はエプロンを外してしまうのがちょっと勿体ないと男はいつも思っているのだが。可愛らしいエプロン姿は男のお気に入りなのだ――いや、少年ならどんな姿でも可愛いと思う自分がいるのだから、どうしようもなかったりする。

 ソファーに座って、皿の上のフォンダンショコラにフォークを入れると、中からとろりと熱いチョコレートが流れ出す。男はそれを口に運んだが、少年はまだ食べようとしない。

「食べないのか?」
「オレ、結構猫舌だから、もうちょっとおこうかと思って」

 なら、どうしてこれにしたんだと思っていると、リヴァイさんは好きかなって思って、と少年ははにかむように笑った。
 ああ、可愛いな、ちくしょう、と男は心の中で叫ぶ。あれだけ頑張って手に入れたこの恋人が自分でも呆れてしまう程可愛くて仕方なくて、何よりも愛おしい。
 しばらくして、適温かな、と思った頃に男はフォークに突き刺した菓子を少年に差し出した。

「ほら、もう適温だろ。食ってみろ」

 差し出されたそれに少年は逡巡していたが、ぱくり、とかぶりついた。その頬が林檎のように赤くなっているのを見て男は笑う。少年はどうもこういうことが恥ずかしくて仕方ないらしい。まあ、もうこれも少しずつ慣らしていこうと男は思う。
 とろりと溶けだしたショコラのように、自分をとろとろにしたのは目の前の少年なのだから。少年のように甘い甘いショコラを食べ終えて、次はこの少年だと、男はその身体を抱き寄せた。
 折角の休日なのだから、今日は一日この少年といちゃついていたい。自分をとろとろにした少年を自分以上に溶かしてしまおう。
 ソファーの上で交わした口付けは甘いショコラの味がした。





≪完≫




2013.11.9up



 リクエストは「ショコラ」と同設定の甘々な2人(リヴァエレ)。例えば休日の2人の話など……でしたが、休日の二人がおまけくらいの長さに……orzでも、一度リヴァイ視点のショコラを書いてみたかったので自分的には満足です。
 リクエストくださった方、ありがとうございました〜!




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