心音




「……ここはいつ来ても凄いね」

 ハンジが呆れたようにそう言うと、声をかけられた人物――ハンジと同じ訓練所で寝食を共にし、一緒に調査兵団に入団した同期の少女はそうかしら?と首を傾げた。

「鉢植えにプランターに採取してきた種に乾燥保存した数々の植物に植物図鑑……ここが調査兵団の本部の一室だって言われても信じられないよ」
「ハンジの部屋だって凄いじゃない。この前行ったら床が見えなかったわ」
「……あれはちょっと片付ける時間がなくてだね、というか、凄いの意味が違うから!」

 バツが悪そうな顔をするハンジに少女はくすくすと笑った。

「まあ、変わり者の部屋なんて普通じゃないわよ」
「自分で言うかねぇ。まあ、否定はしないけどさ」

 この同期の少女は壁外に生息する植物採取のために調査兵団に入ったという変わり種だ。そのうえ、調査兵団本部の一角に植物を育てるための畑まで上層部と交渉して確保してしまったという強者である。それが許されたのは彼女が遠征での自分の任務はきっちりとこなしていることと、持って帰った植物の研究で成果を上げているからだ。特に彼女が品種改良に協力して収穫が上がった穀物が何種類かあることが大きい。限られた土地で多くの人々の食糧を賄うために病気になりにくいより多くの収穫が見込める品種はとても重宝される。
 だが、そういう彼女に反発を感じるものも中にはいる。

「――で、ハンジは何か言いたいことがあって来たのでしょう?」

 少女にそう言われ、ハンジは渡されたカップから唇を離した。紅茶などの嗜好品は高いので中々入手出来ないため、このカップの中身は彼女が栽培した植物で作ったハーブティーだ。気分を落ち着かせる香りや、安眠を促すものなど様々なものを作って試すのが趣味となっているらしい。主にその毒見役をやらされるのはハンジになる訳だが。

「……またふったんだって? 光合成出来ない人間には興味ありませんって言ったって本当?」

 ハンジの言葉に少女は目を丸くした後、やれやれと溜息を吐いた。

「もうハンジの耳にまで入ってるの? 私は植物にしか興味がありませんから、光合成について一晩中語り合えるような人でないとダメです、と言っただけよ」

 少女の言葉にハンジは溜息を吐いた。これで何人目だろう、と思う――この少女は変わり者ではあるが、外見だけならそれはもう可憐な美少女なのだ。日に焼けない体質なのか白くなめらかな肌も、朱を刷いたような唇も、長い睫に縁取られた大きな瞳も、ふんわりとした柔らかな髪も極上品といっていいだろう。
 兵士は男性より女性の方が少ないし、どちらかというと性別不詳な外見をしているものが多いから、彼女の外見は眼を引いている――それは良いことばかりでは決してない。

「嫌がらせとかされたらちゃんと言うんだよ。馬鹿の逆恨みを侮ったらダメだよ」

 団員同士の恋愛は禁止されている訳ではないし、何年も死線を共に潜り抜けてきた者同士には連帯感や信頼、友愛が育まれるものだ。そこから恋愛に発展して結婚するものも中にはいる。
 けれど、逆に――何度も死と隣り合わせの遠征を経験して精神的に追い詰められて刹那的な快楽に走ろうとするものもいる。入りたての新兵は特にそういったものに狙われやすい傾向にあり、隠れた兵団の悩みの種となっている。自らの心臓を捧げると覚悟し、兵士としての矜恃を胸に抱き入団しても、実戦を経験していくうちに中から脱落者は必ず出てしまう。
 それは仕方のないことだとは思う。人の中にある弱さを否定しては、それは人でなくなってしまうのだから。
 だが、だからといって人を傷つけていいわけではない。

「ちゃんと、気を付けるんだよ」
「うん、判ってるわ、ハンジ。心配してくれてありがとう」

 そう言って笑った少女は――その後、自らの命を絶ってしまった。
 彼女を助けることが自分には出来なかった。




「……ん、ハンジさん、ハンジさんってば」
「……ん?」

 声をかけられて瞳を開いたハンジは、そこに大きな金色の瞳でこちらを覗き込んでいる少年を認めてぱちぱちと瞬きした。

「エレン?」
「あ、はい。すみません、起こしてしまって……このままだと風邪ひきそうなので」

 旧調査兵団本部の一角、大きな木の下で少し休憩をとっていたらいつの間にか寝てしまっていたらしい。

「イヤ、起こしてくれて助かったよ。寝るつもりはなかったからさ」

 軽く伸びをしてから立ち上がったハンジはエレンが手に抱えているものを見て怪訝そうな顔をした。

「草むしり……じゃないね、どうしたの? それ」

 エレンは小さなかごに採取したらしい植物を入れて抱えていた。全体的に緑色なので部屋に飾る花を摘んだのではなく葉が目的なのだろう。

「休憩中に偶然、何か薬草とか使えそうな植物がたくさんあるところを見つけたので、役に立たないかなーと思って摘んできました」

 前にも言ったかもしれませんが、父から多少は薬草について教えてもらったので、とエレンは続けたが、ハンジは急に押し黙ってしまった。

「――――」
「ハンジさん?」
「あ、いや、昔、そういうものを栽培していた知り合いがいたのを何となく思い出しただけ」

 そう言った後、ハンジはすっと、手を伸ばしてエレンの髪に触れた。エレンは僅かに身体を強張らせたがハンジの手を受け入れてされるがままにしている。

「はい、取れた」
「え?」
「はっぱ、髪に絡まってたよ? 気付かなかった?」

 そう言われて、エレンは慌てたように自分の頭をわしゃわしゃと掻き回した。

「大丈夫、もう取れたから」
「うー、す、すみません…」

 子供みたいで恥ずかしいと赤くなるエレンを見ながら、ハンジは小さく私は大丈夫かな、と呟いたがエレンには聞こえなかった。
 そのとき、ガサガサと草を揺らして近付くものの気配を感じて、エレンはびくりと肩を揺らした。音のした方に振り向いて現れたものを確認し、ほっとしたように表情が緩む。

「エレン、ここにいたのね」
「ペトラさん」

 何か用事でも、と訊ねる少年にペトラは小さく肩を竦めた。

「食事の時間なのに戻ってこないからどうしたのかと思って探しに来たの。時間、気付かなかった?」
「え? もうそんな時間なんですか?」

 どうやら植物採取に気を取られて食事の時間に気付かなかったらしい。慌てるエレンにペトラは戻るように促して、ハンジにちょうど報告したいことがあるからとその場に残った。
 駆けていく少年の姿が見えなくなってからペトラはハンジに向き直った。

「……エレンの様子はどう?」
「以前と比べたら食事も睡眠もちゃんととれてるようですけど……やはり、男性兵士との接触はダメみたいです。私や幼馴染みの子なら大丈夫なんですけど……」
「そうか、記憶が戻ったのはいいけど、やっぱりそっちはまだ完全に治ってはないんだね」

 ふうと、ハンジは息を吐いて頭をがりがりと掻いた。先日、エレンが記憶を失くすという大事件が起こったが、色々あって何とか記憶を取り戻すことが出来た。きっかけを作った男どもは処罰されたし、関係をこじらせていた上官とも和解――というか、どうやらちゃんと気持ちを伝え合ったらしい。
 だが、色々とあった誤解は解けてもやってしまった事実は消えない訳で。――信頼していた上官に凌辱された傷は完全に癒えたわけではなく、エレンにはまだ成人男性に対する恐怖心が残っている。

「何とかしないとまずいよね……」
「はい……」

 遠征まで時間がない。男性兵士との接触を嫌がって振り払って落馬でもされたらシャレにならないし、連携攻撃にも支障が出るだろう。壁外遠征は些細な油断や失敗が命取りになることだってあるのだ。なるべく不安材料は取り除いておきたい――それがエレンの安全にもつながるのだから。

「兵長も気にかけてくださってるんですけど、どうしたらいいのか……」
「…………」

 イヤ、一番の元凶そいつだから!と叫びたくなるのをハンジは我慢した。リヴァイとエレンの間にあったことはリヴァイ班の班員や幼馴染み達すら知らない。別にリヴァイを庇っている訳ではない――リヴァイが部下達からの信頼をなくすのは確かにこの先の作戦実行のうえで障害になるのは明らかでその辺の計算も全くない訳ではないが、一番は二人の間にあったことを知られて傷付くのはエレンの方だからだ。エレンは自分がされたことを周りに知られたくないと思っているだろうし、知った相手とは上手く付き合えなくなる可能性もある。ペトラ達は知ったとしてもエレンへの態度を変えないだろうが、事情を知るものが増えれば増えただけ周りに知られる危険性は高くなる。
 更に周りに知られた場合、事実とは違った風に広がる恐れもある。リヴァイが無理矢理に行為に及んだのではなく、エレンの方から誘ったとか――誰彼かまわず誘って相手にしているとか、悪意のある噂を立てられる可能性だってある。実際に性犯罪を犯したものは相手も承知の上だったとか見苦しいいい訳をするし、それが噂となって被害者を傷つける場合もある。無論、彼らが吹聴するなどは考えられないが可能性の芽は極力摘んでおくべきだろう。
 なので、事情を知らないペトラ達は複数人から記憶を失くすほどの激しい暴力を受けて、その後遺症として接触嫌悪が起きていると考えているようだ。エレンの性格をよく知る幼馴染みの少年はそれだけではないだろう、と察しているようだが、エレンが何も言わないのだから、と見守っているようだ。

(時間が一番の薬だと思うんだけどね…そうも言ってられないし)

 エレンはリヴァイの謝罪というか告白を受け入れたのだから――二人がそういう意味でのお付き合いを始めるのかは別として、気持ち的にはリヴァイを拒絶する気はないのだと思う。反射的に怖がってしまうだけで。

「……ここは荒療治というか、二人で何とかしてもらうしかないかなー」

 そう呟いたハンジをペトラは怪訝そうに見ていたが、ハンジはうん、そうしよう、と何か一人で納得した様子で頷いて勝手に歩いていってしまった。
 残されたペトラは訳が判らず固まっていたが、まあ、ハンジさんだし仕方ないか、と溜息を吐いてきた道をまた戻っていった。




「そういう訳で、リヴァイ、きちんと責任を取ってもらうよ」
「……藪から棒に何だ」

 お邪魔するよ、と中にいる相手の許可も取らず、リヴァイの執務室に入ってきたハンジを見てリヴァイは嫌そうに眉を顰めた。ハンジはそんな男の様子など気にも留めずにエレンの成人男性恐怖症について話した。

「そうなった元凶がリヴァイなんだから、リヴァイに触られても大丈夫になったら他も大丈夫になるんじゃないかと思ってさ」
「それは確かにそうかもしれねぇが……」

 エレンの状態は判っているし、このままでいいとは思っていない。少しずつ、少しずつ、自分に慣れてもらって傷を癒してもらえばと――少年を傷付けた自分がそう思うのなんて傲慢かもしれないが、リヴァイはそう思っていた。

「本当なら私だってそうしたいところだけどね、時間がないんだよ。遠征までには少なくともリヴァイとリヴァイ班の男連中は平気になってもらわないと。いざというときに困るだろ?」
「確かに遠征に影響が出ねぇとは言えないが、ゆっくり慣らしていく以外に方法はねぇだろ」
「それじゃあ、いつになるか判らないだろう? だから、リヴァイ、もう一回やってみれば?」
「………………は?」
「エレンが怖がっている原因がリヴァイとの行為にあったんなら、それが怖くないって記憶の上書きをすれば治るかもしれないよ?」

 ハンジの提案にリヴァイは深い溜息を吐いた。

「……そんなこと出来るわけがねぇだろうが」

 自分を抑えられずにエレンを酷く傷つけてしまった行為を、エレンの同意もなしに出来る訳がない。もう二度と過ちは繰り返さないと決めたのだから。
 きっぱりと断言するリヴァイにハンジはにっこりと笑った。

「良かった。今の提案に頷いたら、今度こそその足の間のくだらないものを削ぎ落としてやるところだったよ」

 むしろ、頷かなくて残念かな、と笑うハンジの眼は決して笑っていない。

「……お前が言うと、本気に聞こえるな」
「まあ、本気で言ったからね。――あなたがエレンにしたことは決して消えないし、私は忘れない。それだけ覚えておいて」
「…………」
「じゃあ、ここからが本当の提案だけど、遠征までの間、エレンと二人で訓練してもらおうかと思って」
「訓練?」

 怪訝そうな顔をするリヴァイにハンジはそれは建前だよ、と告げた。

「何でもいいから二人一緒の状況で出来るだけ接触してもらおうかと思って。訓練とか指導とか名目は何でもいいんだ。嫌でも一緒にいてもらえば少しは慣れるんじゃないかと」
「……逆に混乱して酷い状態になるかもしれねぇぞ」
「そうならないように私が近くに待機しているよ。何にもしないで腫れ物に触るようにしてたって事態は進展しない。リヴァイにだって判ってるだろ?」

 確かに何もしないで手をこまねいているよりは可能性がありそうなことは何でもしてみるべきだろう。本当ならもっと時間をかけて医師に相談してゆっくり治していくものなんだろうが――そうも言ってられない事情がある。
 それでも、動けなかったのは対象が少年だったからだ。初めて本気になった相手を傷付けてしまってから慎重になりすぎていたようだ。

「……判った、予定を調整しておく」

 やるだけやってみて駄目ならまた考えればいい。そう頷くリヴァイに、ハンジはじゃあ、準備はしておくね、と告げて執務室から出ていった。



 リヴァイによる個別指導の訓練を受けろ、と言われて、少年は戸惑った顔をしていた。ハンジが私が一緒に監督するから、と言うと、明らかにホッとした表情を見せ、同席していた彼の上官は複雑そうな顔をしていた。自業自得ではあるが、想い人に怖がれて地味に落ち込んでいる男は哀れに見えてくる。――まあ、それを男は表に出さないようにしているが付き合いが長く事情を知るハンジにはまる判りである。
 ハンジは近くの立体起動の訓練をしながら近くの山小屋まで行き、そこで休憩して戻ってくるという訓練の行程をエレンに説明し、少年は神妙な顔で頷いていた。

「エレン、浮かない顔だけど、リヴァイと一緒に訓練するのはそんなに嫌かい?」

 こっそりと耳打ちすると、エレンは慌てたように首を横に振った。

「嫌とか、そういうんじゃないんです。ただ、緊張するというか、その……」
「その?」
「兵長と一緒にいると、心臓がドキドキするんです」
「…………」

 戸惑ったような顔のエレンを見て、ハンジは本当にあの人類最強はバカだと溜息を吐いた。エレンの様子を観察していると、男に対する緊張や困惑は伝わってくるが、一切嫌悪は感じられない。そもそも、自分を凌辱した相手を受け入れるなんてことは、相手に対して余程の想いがなければ出来ないことだ。――思えば、エレンは最初から彼の兵士長に強い憧れを抱いていた。衆人環視の中、あんなに酷い暴行を受けたのにも拘らず男に懐いたのだし、もっと上手くやればすんなり男の望むような関係になれた可能性は高い。
 吊り橋効果という言葉があるように、ともに恐怖や死線を潜り抜けた仲間とは強い信頼関係や疑似的な恋愛感情を生むことがある。逆を言えば、真に恋愛感情が生まれたとしても、状況のせいだと勘違いすることもあると思われる。エレンはリヴァイにされた行為のせいでその緊張感や落ち着かなさが全部まだ自分に恐怖が残っているせいだと考えてしまっているのかもしれない。

(まあ、リヴァイの場合は全部自業自得だけどさ)

 でも、やっぱり少年には笑顔でいて欲しいし、ついでに同僚にも不幸になってもらいたい訳ではないので。
 ハンジは考えたことを実行するべく訓練を進めた。



 その山小屋に辿り着いたのは、そろそろ日も暮れるかな、という時分だった。近くにあった井戸の水も濁ってはいなかったし、小屋の中の埃もそんなに溜まっていなかったことを見ても定期的に手入れがされているようだった。ハンジもこの山小屋は兵士の訓練時の休憩場や宿泊地として使われているから着いたら軽く清掃しておくように、と言っていたので、エレンは取りあえずは空気の入れ替えをしようと室内に入り、窓を開けていった。それ程広くはない山小屋だから掃除もすぐに終わるだろう。いや、上官の徹底した清掃が求められるなら一日がかりになるかもしれないが。
 そのとき、ドゴォンという大きな音が響いて、掃除を始めていたエレンは驚いて外へと飛び出した。
 飛び出して辺りを確認してみたものの、山小屋の周囲には上官二人の姿はない。どうしたのか、と思案していると、どういうつもりだクソメガネ、というリヴァイの声が聞こえ、エレンはその声のした方向へ走った。

「どうしたんですか!?」

 上官に声をかけながら辿り着いた先で眼に入ってきた光景は驚くべきもので、エレンはぽかんと口を開けた。そこにあるはずのもの――それがなかったからだ。この山小屋へ来るときには確かにあった――自らの足で踏みしめてきた吊り橋が。
 古そうな橋ではあったが、こんな急に自然落下したとは思えないので、人為的なものであろう。何者かの襲撃か――という考えが頭を過ぎったが、今はなき吊り橋の向こう側でこちらに手を振るハンジを見てその考えを霧散させた。

「それがさー、この吊り橋古くなっててもう落ちそうだから、新しく架け直すって話になってるんだよね! ついでだから落としていくことにしました!」
「何がついでだ、クソメガネ! まだ俺達が渡ってないじゃねぇか!」

 落とす前に向こう側に渡っていったであろうハンジが大声でそう言うのに、男も大声で返す。

「うん、だから、反対側から戻ってね! ちゃんと道あるし、そっちからでも麓まで帰れるからさ! じゃあ、また明日ね!」

 そう言ってハンジは二人に手を振って、くるりと踵を返した。その姿に男は舌打ちをして溜息を吐く。

「あの、兵長、どういうことなんでしょうか?」
「どうもこうも見ての通りだ。あのクソメガネが橋を落としたから来た道からは戻れねぇ」

 男の説明によると、ハンジの言う通りにここへ渡るのに使った橋は老朽化が進んでいて危ないので、近々落として新しい吊り橋を架ける予定になっていたらしい。だが、今回橋を落として帰るという話は全く男は聞いていなかったという。

「この距離だとアンカーは恐らく向こう側まで届かねぇ。届いたとしても失敗したら高さ的にいって確実に死ぬ。そんな危ない橋は渡れねぇ……って、本当に橋はないんだがな」
「えーと、つまり、来た道とは別の道で帰るしかないってことですか?」

 エレンの言葉にリヴァイは頷いた。この山小屋からの下山ルートは他にもあるので、吊り橋を通らなくても麓までは辿り着けるらしい。

「ただ、別の道だと来た道の倍は時間がかかる。今すぐに下りても麓に着く前に夜になる。夜に山道を進むのは危険だから、今夜はここに泊まるしかねぇ」
「あの、それって―――」

 つまり、この場に残された二人で山小屋に泊まって翌朝出発する、という、その手段しかない、ということなのか。昔、自分がまだ訓練兵だった頃、雪山で好きな子と二人で山小屋に閉じ込められて、温め合って――などという状況がこないかな、と冗談のように言っていた同期がいたが、まさか自分がそれと似たような事態に陥るとは思ってもみなかった。いや、ここは雪山ではないから温め合う必要はないし、遭難したというわけでもない。寝たら凍死するぞ、と言う必要もない。訓練兵時代には冬山に行ったこともあるし、こういった突発的な出来事をやり過ごすのも訓練のうちだろう。男二人で山小屋に泊まるくらいなんてことはないはずだ。そう考えを巡らせるが、動揺は隠しきれず、エレンはその場に固まるしかなかった。
 突然の事態に混乱しているのがまる判りの少年を、男は困ったように見た。

「……俺は外にいるから安心していい。山小屋はお前が使え。中には一通りのものが揃っているはずだ」

 そう言って、リヴァイが離れようとしたので、咄嗟にエレンは男の服の裾を掴んでいた。

「あ、あの、兵長、夜は野生動物が出るかもしれませんし、外は危険だと思います」
「火を焚けば大丈夫だろう。気にするな」
「あの、でも、そうしたら兵長は眠れないんじゃ……」
「徹夜くらい慣れてる」
「あの、すみません、その、出来たら――」

 エレンは無意識のうちに男の服の裾を握る力を強めていた。

「兵長と一緒が、いいです……」

 少年の言葉に男は思わず天を仰ぎ――自分をじっと見つめてくる少年に頷くしかなかった。



 山小屋の中には毛布や食器類など、使えるものがいくつか置いてあった。それに暖炉と薪があったので、火を焚いて過ごすことにした。季節は冬ではないが山の気候は夜は冷えるので、部屋を暖めるためには必要だろう。敵から身を隠すのに人家からの煙は目印になってしまうが、今回は襲撃の気配があった訳ではないし――そんな動きがあったならさすがに報告がリヴァイの元にあるはずだ――もし、あったとしても山の中なら気付かれにくいだろう。
 赤い炎を眺めながら、ぽつり、と少年が言った。

「あの……どうして、そんなに遠くに座るんですか?」

 自分から遠く離れた場所に座る男に少年が火から離れていては身体が温まらないのでは、と続けると、男はお前は嫌じゃねぇのか、と訊ねてきた。

「嫌じゃない、です」
「……お前、俺が近付くとびくつくだろう」
「あの、それは緊張するというか――何かドキドキするんです」

 でも、それは嫌だからじゃないんです、とエレンが必死に言い募り、じっと男を見つめると、相手は深い溜息を吐いた。

「……だから、それはやめろと言っただろうが」

 天然無自覚は本当に凶悪だぞ、と少年には聞こえないように呟いて男は少年のすぐ近くに腰を下ろした。

「これでいいか?」
「はい!」
「……だから、本気でそれやめろ」

 嬉しそうにじっと見つめてくる少年に男は頭を掻きむしりそうになったが、何とか堪えた。
 赤い炎に近くにあるぬくもり――それが心地好くて少年の瞼が何度も閉じては開くを繰り返し、頭が揺れる。

「オイ、眠きゃもう寝ろ。身体を休めておくのも兵士の務めだ」
「はい……」

 そう言う少年の言葉はもう半分眠りに落ちている。次の瞬間、ぽすり、とか、こてん、という擬音がぴったりの動作で、少年の身体が男によりかかった。
 オイ、エレン、と動揺を押し隠そうとしてもどうしてもそれが滲んだような男の声がかかったが、夢の世界へ旅立とうとする少年には届かない。少年の耳に届くのはとくん、とくん、という男の心音。あたたかい命の音。

「……あったかい……兵長の匂い、安心する……」

 この匂い大好きです、と幸せそうに微笑んでそのまま眠りに入った少年に、お前、生殺しかよ、という溜息混じりの男の声が落ちた―――。



「良かった、ちゃんと戻ってきたね!」
「はい、無事に戻ってこられました。あの、あの橋のあれって、あれも訓練の一環だったんですか?」

 時間を見計らって麓まで二人を出迎えたハンジに少年がそう問いかけると、勿論、と彼女は笑った。

「不測の事態にも対応出来るかの訓練だよ。リヴァイにも言ってなかったのはバレないように知ってる人数は少ない方がいいでしょ?」
「兵長がうっかり話すような失敗をするするとは思えませんけど……」
「念には念を入れるのが基本だよ? そうだ、エレン、本部まではここからだと遠いから馬を連れてきたんだ。様子を見てやってくれるかな?」
「はい、判りました」

 少年が馬をつないであるところまで走っていって二人きりになると、男は射殺せそうな視線をハンジにぶつけてきた。

「リヴァイ、もしかして、イヤ、しなくても物凄い不機嫌?」
「当たり前だ。俺は一睡も出来なかったんだからな……」
「アハハハハ、でも、手は出さなかったんだね。偉い偉い」

 お前、ちっともそう思ってねぇだろ、と男は深い溜息を吐いた。彼女が自分が二度とエレンを傷付けるような真似はしないという確信があったからこそ、荒療治として長時間二人きりでいるしかない状況を作ったのは判ってはいるが、無防備な想い人と二人きりにされるという天国のような地獄を味わう羽目に陥ったのだ。

「――で、進展はあった?」
「……俺の匂いは安心すると言われた」

 隣ですぐに熟睡出来ちまうくらいにはな、という男の声は複雑そうだ。

「何だよ、嬉しくない訳?」
「警戒が解けたのは嬉しいが、警戒されなさすぎるのも困るだろう」
「でも、エレンは一緒だとドキドキもするんだよ? まあ、そのドキドキが何なのかは判ってはいないみたいだけど」
「…………」

 ハンジの言葉に男はまた複雑そうな顔をした。ただでさえ鈍かった少年との関係を更に複雑にしたのは自分の責任なのだから自分で責任を取ってもらうのは仕方ないよね、とハンジは笑みを浮かべる。事態は少しずつでも前進しているのだから。
 ふと、何かに気付いたハンジは本部への帰還のための馬に話しかけている少年と男を交互に見た。

「あれ? エレンのマント古くなってない……ていうか、ひょっとしてマント交換したの?」

 調査兵団のマントは動きやすいようにサイズはゆったりめ、丈は立体起動装置に巻き込まれないように短めに作られている。なので、ブーツやシャツなどとは違って体格や身長が合わなくても他の人間のものでも着ることが出来る。

「……あいつが俺の匂いが大好きで安心するというから、交換した。あれを着てると他人への警戒が少し和らぐみてぇだな」

 お前への警戒心はほぼねぇが、それでも若干変わったようだからな、と男は続けた。先程のエレンとのやり取りに全く口を挟まなかったのは彼の様子を見ていたのか、とハンジは納得した。

「お守りみたいなものか……これで他の男性兵士への警戒も弱まるといいんだけど」
「あんまり警戒しなすぎても困るんだがな。敵はどこに潜んでいるか判らねぇ」

 リヴァイは今後の諜報員のあぶり出しのための作戦のことを言っているのだろう、とハンジには推察できた。だが、不意に違うものが脳裏に過ぎった。

「――そうだね、リヴァイ、敵はどこにいるのかなんて判らない」

 やわらかい声と、綺麗な笑顔。ふわふわとした優しい少女。
 ハンジ、と自分を呼ぶ彼女の声が今でも耳に残っている。大切だった友人。

「私はね、気付かなかったけれど――多分、好きだったんだよ、特別にね」

 今となってはもう確かめようもない。ただただ優しい想い出と痛みとともに生きていくだけだ。

「だから、リヴァイ――お前は何としても守り抜け」

 それがどんなに難しいことでも。決して後悔などしないように。後になって気付いたりしないように。
 男には彼女の言ったことは判らなかっただろう――だが、それでも彼がしっかりと頷いたのを見て、ハンジは笑った。

「よし、じゃあ、私も何かエレンと私物を交換しよう!」
「オイ、待て、クソメガネ。私物って何を交換するつもりだ」
「眼鏡とか?」
「エレンは眼鏡かけてねぇだろうが」
「じゃあ、他のもので! 大丈夫! さすがに下着はやめておくからさ」

 当たり前だろうが、という男の声を背後にハンジは少年へと駆け寄った。きっと戸惑うだろう少年の顔を思って笑う。
 ふと見上げた空は抜けるように青くて――その空に消えていった友人の分まで少年が幸せになってくれればいいとハンジは願った。




《完》



2016.9.20up



 たろよん様からのリク。原作設定リヴァエレ。出来れば鼓動の後日談希望。もしくは原作設定でラブコメか甘い感じで天然エレンくんに嫉妬とか振り回される兵長と無意識に兵長大好きエレン、そんな二人に周りがヤキモキする話。でしたので、鼓動の続編を書かせて頂きましたが、またしても兵長生殺し状態ですみません(汗)。ハンジさん出演希望だけは何とかなりましたが。待たせすぎるのにも程があるだろう、なリクから二年以上経ってからのUPで申し訳ありません。今更ですが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。



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