癒しの葉



 壁の外に一歩踏み出せばそこは地獄の世界だと言われている。だからこそそんな地獄の世界である壁外へ調査に出かける調査兵団は正気を疑われ、変人の巣窟だとか、税金の無駄遣いだとか色々と批判されるのだが、確かに人が巨人に食われていく様は地獄絵図と呼べるものだった。壁の外は戦場なのだ。
 そして、壁外から戻って来た後もその戦場は続く。負傷者の治療に回収出来た遺体の安置や連絡、報告に事後処理とやることはたくさんある。事前の準備も大変なら後始末も大変で、更に死亡率も高くて有名なこの調査兵団に好き好んで身を置く兵士はよっぽどの変人なのだろう、とリヴァイは思う。その兵団で兵士長などという役職に就いている自分も周りからそう思われているかもしれないが。
 まあ、今回も無事に戻って来ることが出来ただけ良かったのだろう、と帰還後の新たな戦場に視線を送った後、執務室に向かおうとしたリヴァイは呼び止められて振り返った。

「リヴァイ、ちょっと待って。ちゃんと傷診てもらった?」
「イヤ、まだだが、必要ねぇだろ。大した傷じゃない」
「ダメだよ。一度診てもらわなきゃ。雑菌が入ってたりしたら困るだろ」

 リヴァイを呼び止めた同僚――ハンジがリヴァイの腕を指し示しながらそう告げた。今回、珍しくリヴァイは軽いものではあったが負傷していた。自分の部下を助けるために動いた結果だったが、応急処置はしておいたしこのままでも問題はないだろうと思われる。治療は重傷者が優先されるべきだし、今あそこは負傷者で溢れ返っている。こんな軽傷の自分が行っては手間を取らせるだけだ。
 だが、ハンジがしつこく行くようにと念を押してきたので、リヴァイは仕方なく医務室に足を向けることにした。どの道後で包帯を替えようとは思っていたので、自分でもらって巻けばいいだろう。
 そんな風に考えながら医務室――というより医療施設と言った方がいい規模で、兵団本部には負傷者を集めて治療する病棟のような一角がある――に行くと、そこは思った通りに戦場だった。医師や看護師らしきものがテキパキと負傷者を捌いていくのを眺めながら、リヴァイはさてどうしようか、と考えた。忙しそうなものの手を煩わせるのもなんだし、その辺の戸棚から包帯や消毒液を自分で持ってくればいいだろう。そう決めて包帯を取りに向かおうとしたリヴァイは、後ろから声をかけられて動きを止めた。今日は呼び止められる日なのか、と思いながら振り返ると、そこには一人の若者が立っていた。

「どうしたんですか? どこか怪我を?」

 真っ黒な髪に大きな金色の瞳――年の頃は十五、六歳といったところだろうか。年齢からいって新兵くらいの少年だが、その彼を見てリヴァイは表情には出さずに訝しんだ。こんな人間が兵団にいただろうか、と思ったのだ。
 無論、リヴァイとて調査兵団の兵士全員の顔を把握しているわけではない。死亡率の高い調査兵団は入れ替わりが早いし、ある程度の地位にいるものか直属の部下でもない限り顔を覚えてはいなかった。
 だが、この若者を一度でも見たら忘れないだろうと思った。顔立ちはある程度整っているが物凄い美形というわけではないし、目立つ程の長身で体格がいいというわけでもない。ただ、その金色の瞳が――意志の強さを宿すその光が妙に人を惹きつけるのだ。
 兵団の兵士ではないとすると、医療班に属するものだろうか。しかし、ここでもリヴァイは彼を見たことはなかった――怪我をするようなへまをしないリヴァイはこの施設へ足を踏み入れることは稀だったが。

「腕、怪我してますね? 手当てしますから座ってください」

 リヴァイの腕の包帯に気付き、そう言う若者にリヴァイはいや、と首を振った。

「大した傷じゃない。包帯さえもらえれば自分でやる」
「素人判断はやめてください。傷口が化膿したらどうするんですか。いいから、診せてください」
「自分でやるから大丈夫だ」
「いいから、怪我人は大人しく医師の指示に従ってください!」

 その言葉にリヴァイはしげしげと相手を見つめてしまった。

「医師? お前が?」
「そうです。ちゃんと医師免許も持ってますから」
「イヤ、だってお前、まだガキだろうが」

 思わず零れた言葉はリヴァイの本音だったが、それを聞いて相手はこめかみを引き攣らせた。

「オレはもう十八です! ガキじゃないし、ちゃんとした医師です! エレン・イェーガーって名前もあります!」

 これでもエレン先生って呼ばれてるんですからね!という相手に、一回り以上年齢が上の自分から見たらまだまだガキだと思うリヴァイだった。




「ああ、彼は本当に医師だよ。ここの医療班の医師ではなくて街の方で医者をやってるらしいんだけど、壁外調査の後は負傷者が多くて大変だから応援に来てもらってるんだ」

 腕は物凄くいいんだけど、報酬が高いんだよね、とハンジは苦笑いを浮かべた。――確かに件のエレン・イェーガーの腕は鮮やかと呼べるものであの後テキパキとリヴァイの治療をし、その後も負傷者を次々に診ていた。
 リヴァイには仕事もあったし、そこにいても邪魔なだけなので執務室に向かったのだが、どうにも彼のことが気になっていた。それで粗方仕事が落ち着いた頃に同僚に彼のことを訊ねてみたのだが、やはり、彼はこの調査兵団に籍をおいてはいないらしい。

「腕がそんなにいいならどこぞの貴族のお抱えとかじゃないのか?」
「それが違うんだよね。何か勧誘は受けてるみたいだけど、絶対に頷かないって噂だよ。本当はうちに引き抜きたいんだ。でも、好条件を提示してるのにやっぱり頷いてくれないんだよね。どうにか頼めないかな」

 調査兵団は慢性的な人員不足であるが、医療従事者にもそれが言えた。医師になるには膨大な知識が必要とされたし、学ぶにはそれなりに金がかかる。地下街には闇医者と呼ばれる医療を行うものがいたが、ちゃんとした技術を持つものは稀だった。腕の良い医師は真っ先に王侯貴族に取られてしまうし、設備の整った医療施設で腕の良い医師に診てもらうには金がかかるので、民間人が利用するのは町医者と呼ばれるものだ。彼らは小さな診療所で限られた医療機器を用いて治療を行う。往診などもしてくれるし、気安い存在だ。本格的な医療は受けられないが、民間人が払える診療代を考えれば仕方ないだろう。

「確かに町医者で終わらせるには勿体ないかもしれねぇが……」
「そう! リヴァイもそう思うよね! 良かった!」

 キラリとハンジの目が光った気がして、リヴァイは嫌な予感がした。こういうときのこの変人と呼ばれる同僚はろくでもないことを大抵考えている。

「だから、リヴァイ、彼を勧誘してきてよ! うちに入って――」
「断る」
「まだ全部言ってないのに! リヴァイだって医療班の人手不足を知ってるでしょ!」
「ああ。だが、断る。面倒臭ぇ」
「断るのを断る! 丁度、彼には用があるから、誰かをやる予定だったんだ。だから、リヴァイがその役目引き受けてついでに勧誘してきてよ」
「面倒臭ぇって言っただろうが。……というか、何故、俺なんだ?」
「え? だって、リヴァイ、一応、人類最強の兵士長じゃないか。子供なら憧れるだろ。憧れの相手の言葉ならほだされてくれるんじゃないかって思ってさ」
「あいつはそこまでガキじゃないだろう」

 まあ、自分も最初見たときはガキだと思ったが、とリヴァイは胸の中で呟いた。実年齢より若く見える若者をガキ呼ばわりした自分に相手は好印象を抱いてはないだろうし、ハンジの言うようにこちらに憧憬の念を抱いているとは思えない。

「それに、彼は最後まで自分が診た患者は見捨てないんだ。完治するか、最期を看取るまではね。リヴァイ、手当てしてもらったんだろ? だったら追い返されたりしないだろうし」
「オイ、追い返される前提なのか?」

 リヴァイの問いにハンジは頬を掻きながら、まあ、勧誘に向かわせた人間は全員追い返されちゃったんだよねーと乾いた笑いを浮かべた。

「…………」
「あ、でも、リヴァイは大丈夫! 患者だし! ……多分、うん」

 えへっと笑うハンジにデコピンを投下したリヴァイはふうと溜息を吐いた。

「……俺が出かけてる間の仕事はお前がやっておけよ」
「え? いいの? やった! 大丈夫、仕事はモブリットに任せるから!」
「お前がやれよ」
「あ、じゃあ、準備しないと。彼のところへの地図用意するね」
「オイ、人の話聞けよ」

 リヴァイの言葉を聞いているのかいないのか、変人と呼ばれる同僚はさっさと準備に取り掛かったようだ。リヴァイの気が変わらないうちに、と思ったのかもしれない。
 どうやら難攻不落らしい相手にそれでも会いに行く気になったのは――あの綺麗な金色の瞳が気になっていたからかもしれない。
 揺るぎない意志の強さを感じさせるあの大きな瞳。

(まあ、退屈しのぎにはなるかもな)

 そうして、リヴァイは件の若者の元へ足を運ぶことになったのだった――。



 用意されたのは簡単な地図と、相手に渡す報酬。前回の応援の報酬ではなく、どうやら彼に調合してもらった薬を受け取ってこいということらしい。

(この辺りにあるようだが……)

 どうやら彼は自宅兼診療所で民間人の治療を行っているらしい。地図の示す通りに足を進めていると、視線を感じた。

(何だ……?)

 敵意、というわけではないが、こちらの様子を窺っているようなそんな気配を感じる。

(その道のプロっていうんじゃねぇな。明らかに素人だ)

 リヴァイは自分のことを気に入らないという人間が少なくはないと自覚している。不遜な態度に怒る相手もいたし、自分が人から好かれるような性格ではないことは判り切っている。逆に自分の強さに憧れて尊敬の眼差しを向けるものや、人類最強の名にすり寄ってくるものも多くいるが、取りあえず、今のところ行動を監視してくるような相手に心当たりはなかった。

(尾行はなかったし…この辺りにいるスリや窃盗犯にでも眼を付けられたか?)

 壁の中という限られた領域の中で暮らす以上、物資の生産量には限界があった。王侯貴族など、いわゆる富裕層には充分に行き渡り贅沢な暮らしをしているが、末端の民には行き届いていない。そこには歴然とした貧富の差があって、最下層は地下街に暮らす者達だが、そういった貧しい暮らしを強いられる者達の中には犯罪に走るものもいる。他者から奪い、自分の糧にする――そんな行為が日常的に行われていた。リヴァイがかつて棲んでいた地下街はある意味壁外よりも地獄と言えるかもしれない。
 とにかく、相手を確かめてからだ、とリヴァイは決意すると、素早い身のこなしで相手を捕まえるべく動いた。が―――。

「…………」

 ぽかんとした顔でこちらを見上げてくるのはまだ十になるかならないかくらいの二人の子供だった。そばかすの浮いた愛嬌のある少年と、彼に似た面差しの長い髪を結んだ少女。

「あーあーあー! 兵長だ! リナ、人類最強だ!」
「あ、そうだね、お兄ちゃん! 調査兵団だ!」

 二人の子供達はそう大きな声で言い合うと、キラキラとした顔でリヴァイを見つめた。似通った顔立ちだと思ったらどうやら兄妹であるらしい。

「悪い奴じゃなかったんだねー」
「そうだな! 調査兵団だし!」
「うん、調査兵団だもんね!」
「目つき悪いから悪人かと思った!」
「うん! 人殺しかと思った!」
「だな! 何人も殺してる顔だ!」

 にこにこと笑う子供に悪意はない。悪意はないのは判っているが殴り飛ばしたくなったリヴァイだった。

「じゃあ、石ぶつけなくてももういい?」
「ああ、悪人じゃなかったからな」

 無邪気に笑う子供達の言葉は何やら物騒である。石をぶつけるとはどういうことだろうか。

「オイ、お前ら、石ってどういうことだ?」

 リヴァイがそう問いかけると、子供達はあっさりと悪人にぶつけるつもりだったと言う。

「悪人って……この辺は強盗でも出るのか?」
「違うよ! 見張ってたの!」
「エレン先生の家に悪人が来ないように!」
「来たら石ぶつけてやるんだ!」

 エレン先生、という単語が出てきてリヴァイは子供達をしげしげと眺めてしまった。彼の弟妹なのか、との考えが一瞬浮かんだがそれはすぐに霧散させた。肉親であるなら先生とは呼ばないだろうし、彼らはあの若者に少しも似ていない。勿論、世の中には似ていない家族というものも存在するが、彼らはそうではないだろう。おそらくはこの近所に住んでいて、かの若者に診療を受けたことがある子供、といったところか。

「エレン先生とはエレン・イェーガー医師のことか?」

 リヴァイの言葉に子供達は肯いた。

「グリシャ先生の分までオレ達が守るんだ! な、リナ!」
「うん! お兄ちゃん!」
「……取りあえず、お前ら、判るように説明しろ」

 子供の説明とはいったりきたりして、いつの間にか本題から外れて全く関係のないところに進むものである。リヴァイはキレそうになる自分をどうにか抑え、兄妹達から必要な情報を聞き出した。――とはいっても、肝心なところはかなり抜けていたが。
 彼ら曰く、エレン先生は悪い奴らから狙われているということ。なので、こうして彼の家へ行く道に怪しい人間が現れたら石をぶつけて追い払うつもりであったこと。グリシャ先生とはエレンの父であり、同じく医師であるが今は家にいないこと。だから、自分達が守る気でいるらしい。彼らはあの若者のことを大層慕っており、自主的に見張っているようだ。
 ちなみにイェーガー医師ではなくエレン先生とグリシャ先生なのは姓が一緒なので区別するためにそう呼んでいるのだというどうでもいい話題まで提供してくれた。彼の父が不在の理由や彼が何のために誰に狙われているのかそちらの方が知りたいのだが、彼らの話からは全く判らなかった。おそらくはこれ以上の情報は得られないと思い、リヴァイは話を切り上げて彼の家へと向かうことにした。元々、彼に用事があったのに、思わぬ出来事で足止めされてしまった。

(まあ、さっきの話は気になるが……子供の言うことだしな)

 どうせこれから本人に会うのだし、直接訊けばいいだけのことだ。

(にしても、大分慕われているようだな)

 ハンジの話によると、彼は腕は確かだが、ぼったくり…もとい、報酬が高額なことでも有名だった。腕は確かだし、医療班への指導も的確で、だからこそ引き抜きたいのだが、好条件を提示しても頷かないのだと。
 なので、てっきり、この辺の住人からも高額報酬を吹っかけていて評判は悪いのかと思ったのだが――どうやらそうではないらしい。

(値をわざと釣り上げてるのかと思ったが、そういうわけじゃねぇようだな)

 そもそも、金銭だけが目的ならこんなところで診療など行わず、どこかの有力者のお抱えの医師にでもなっているだろう。
 その辺の事情も本人に訊けば判るだろう。素直に答えてくれるかはまた別問題であるが。


「いい加減にしてください! オレはその話はお断りしたはずです!」
「そう言うなよ、先生。わざわざ領主様が頼んでるっていうのに」
「オレにそのつもりはありませんと何度も申し上げたはずです。お引き取り下さい」

 かの若者の家が見える位置まで進んだとき、何やら話声が聞こえてきた。視線を向けると、家の前であの若者が眉間に皺を寄せながら数人の男達と対峙している。

「破格の条件だぞ? あんたもこんなところで貧乏人相手にしてるよりももっといい暮らしが――」
「お断りします」
「領主様は素晴らしいお方だ。あんたの腕を見込んで――」
「お断りします」

 会話の内容から推察すると、同僚が言っていた有力者が彼を勧誘しているという話は本当だったらしい。余り柄の良さそうな人物ではなさそうだが、この男達は領主から遣わされた使者なのだろう。
 だが、若者はにべもない。とっとと帰れというような冷たい視線と態度に男達は舌打ちした。

「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ、ガキが。こっちが下出に出てりゃ調子に乗りやがって。お前のような癒しの葉風情を雇ってやるだけ有難く――」

 どうやら、勧誘手段を恫喝に変えたらしい。男が言葉通りに本当に領主からの使者であるなら、その強気な態度も頷ける。この地域を統治する有力者の機嫌を損ねては暮らししにくくなるだろう。だが、当の相手といえば――。

「……しつけぇ」

 ぼそり、と低い声が若者の口から洩れた。

「いい加減、うんざりだ。オレはやらねぇつったらやらねぇんだよ! こっちは自分のものでもねぇ権力ちらつかせて遊んでる勘違い野郎とは違って忙しいんだ! とっとと帰りやがれ!」

 どうやらぶっつりと一本切れたらしい。その言葉に刺激されたらしい相手は腕を振り上げ――。

「…………っ!」
「俺も同意見だな」

 だが、その腕が振り下ろされることはなかった。不意に現れた人物に思い切り蹴り飛ばされたからだ。
 容赦のない蹴りは的確に急所に入り、地面に転がった男は起き上がることも出来ない。

「オイ、そこの豚野郎ども」

 その人物――リヴァイは男達を冷めた眼で見据えながら続けた。

「こいつはこれから俺と話がある。お前らと遊んでいる時間はないからとっと帰れ。文句があるなら調査兵団本部にいつでも来い。俺が徹底的に躾し直してやろう」

 にやりと酷薄な笑みを浮かべるリヴァイに男達は顔を引き攣らせながら逃げ去るしかなかった。



「一応、お礼は言っておきます。ありがとうございました」

 診療所兼自宅にリヴァイを招き入れた若者はそう礼を述べた。警戒されるかと思ったが、リヴァイが自分が調査兵団からの使者であることを告げるとエレンはあっさりと中に入れてくれた――簡単に招き入れてくれたのは人を疑わない性格だからというのではなく、先日自分が手当てをした相手だと覚えていたらしい。人類最強の兵士長として有名なリヴァイの顔を知るものは多いから、もしかしたら彼も知っていたかもしれないが、そういった肩書は彼にはどうでも良さそうだった。
 礼の言葉を口にしつつも、どこか不満げな様子の彼にリヴァイは肩を竦めた。

「何か、不服そうだが? 余計なことだったか?」
「いえ、助かりました。……ただ、どうせならオレが一発殴ってからにして欲しかったかな、と」
「……医者のくせに物騒だな。まあ、あの言い草には腹が立つのは判るが――そういや、癒しの葉ってのは何だ?」
「いい加減、しつこくってうんざりしてたので。癒しの葉っていうのは薬草のことですが――医師に向けての蔑称の意味があるんです。お前に診てもらうくらいなら薬草を探して飲んだ方がマシだってことで。藪医者と意味は同じです。まあ、後、オレが薬草を栽培してるのもあるんでしょうけど」

 そういう意味だったのか、とリヴァイは納得したのと同時にまた疑問が湧いた。

「お前、薬草をわざわざ栽培してるのか?」
「はい、いい薬の材料になるので。自生してるのも採取しに行きますが」
「薬は薬屋から買うものじゃないのか?」

 医薬分業――基本的に医療を行うものと薬を作るものは別である。医療施設や診療所に行けば薬は出されるが、その薬は医師が作っているものではない。勿論、医師が薬を調合したりすることはあるだろうが、原材料から栽培する――医師が薬作りに精を出すなんて話は聞いたことがない。

「この辺の薬はばか高いんですよ。一般市民が気軽に使える値段じゃない。なら、自分で作るしかないじゃないですか」
「イヤ、何でそういう話になるんだ。そもそも、医学と薬学は別だろう。お前、それ危なくないのか?」
「薬学もきちんと学んでますよ。自分の手に負えないものまでは作ってませんし。それに、何でも東洋とかいうところには薬草を調合して治す医学があったって話ですし、おかしなことじゃありません」
「お前、それ、禁書の知識じゃねぇのか?」
「オレは有り難い先人の知恵を有効利用しているだけです」
「禁書自体は否定しねぇのか。というか、本当に大丈夫なものを処方しているんだろうな?」
「……そもそも、あのハゲ領主が悪い。おかげでこっちはいらねぇ苦労をする羽目になったんだよな……」

 本当にしつこくて何度あのハゲを駆除してやりたくなったことか……と、ぶつぶつと物騒なことを呟くエレンにリヴァイは溜息を吐きたくなった。

「オイ、人の話を聞け。あの男達は何で強引にお前を勧誘してるんだ? それに、領主からの好条件を断る理由は?」
「ああ、基本的な問題から話さないと判りませんよね……」

 説明するの面倒なんですけど、とありありと顔に出しながらも、助けてもらった恩とリヴァイが説明を聞くまでは引き下がらないと悟ったのか、エレンは経緯を話し始めた。


 この辺りの地域を統治している領主――エレン曰くハゲじじい――は医療関係を押さえているらしい。優秀な医師は自分のお抱えにし、薬の販売店に手を回し、通常よりも高値で販売させている。人間、誰しも病気にはなるものである。勿論、病気にかかったことのない健康なものもいるが、産まれてから死ぬまでに一度も診療を受けたことのないものはいないだろう。その医療関係に手を回すことで多額の富を得ているらしい。

「そんな奴の元で働くのなんて御免です。それにあのハゲじじいには他にも黒い噂があるんです」
「黒い噂?」
「……一年くらい前に地方の村のいくつかが流行病に感染して多くの患者が出たんです。で、そこにその病の抗体を持って医師団が訪れた。通常の何倍もするような高額の抗体をね。死ぬか死なないかのときですから皆、それに縋るしかなくて――多額のお金がその医師団に流れた。……そこは領主のお抱えです」

 そこで生まれた疑惑――わざと彼らが感染させたのではないかと。

「大体、人数分の抗体を持って苦しんでいる村にタイミング良く現れるのは出来すぎてます。一つなら偶然で済みますが、複数ですからね」

 多くの人間を感染させるのは難しいかもしれないが、出来ない訳ではない。わざと感染させた人間をもぐりこませるとか――物資に病原菌を混ぜるとか。

「……証拠は?」
「ありません。あったら、どうにかしてますよ。まあ、やってなくても、人の弱みに付け込むやり方が気に入らないので。貧しい人から巻き上げる性根が嫌です」

 本気で憤慨しているらしいエレンにリヴァイは内心で首を傾げた――子供達の話や、薬草の栽培、その他の彼の話を聞いていると、どうも彼はここで安値で診療を行っているらしい。金銭に執着は持っていないようで、それなら高額の報酬につられなかったのにも納得がいく。だが。

「なあ、お前、うちからは高額報酬をふんだくってないか? あれはどうなんだ?」
「あるところからはふんだくる主義です」
「…………」

 どうやら、いい性格をしているようだ、とリヴァイは思った。

「で、向こうはこちらの方針が気に入らなかったようで――まあ、自分の傘下にならない診療所が目障りだったんでしょうね。勧誘を受けました。断り続けていたんですが――」

 ある日、領主が病気だから診て欲しいと頼まれたのだという。

「まさか、行ったのか? どう考えても罠だろう」
「まあ、罠だとは思ったんですが、病人がいるって言われたら行かないわけにはいかないでしょう」

 嘘だとは思っていたが、何と、本当に領主には会うことは出来た。病人だという体裁を作るためか、ベッドの上で横になっていた男に声をかけると、逆に手を握られ――口説かれた。

「……口説かれた、とは?」
「言葉通りです。どうやらそっちの趣味の人だったみたいです」

 連れられたとこ、やたらに若くて綺麗な男の子がいる屋敷だなーとか思ってたんですけど、まさかオレにまで手を出そうと思うとか趣味悪いですよね、あのハゲ、とエレンは続けた。

「……で、どうなったんだ?」
「気色悪かったんで、気絶させて逃げました」
「…………」

 どうやら、いい性格をしているようだ、のようだは要らなかったらしい。本気でいい性格をしている。

「ツメが甘いですよね、逃げられるなんて。警備も穴がありましたし……大体、身体検査とかもしなかったんですよ? まあ、まだ子供だって思って油断してたんでしょうけど」

 どうにもオレ、実年齢よりも若く見られるんですよね、とエレンが溜息を吐くのに、思わず首肯したリヴァイはむっとした視線を向けられた。自覚はあっても肯定されるのは面白くないらしい。

「それで相手が油断したんなら良かったじゃねぇか」
「まあ、それはそうですけど。若く見られるっていいことばかりじゃないんですよ。腕を疑われたり、医師だって言っても信じてもらえなかったり。あのときはそれが役に立ちましたけど」

 だが、誤算もあった。どういうわけかそれからしつこく勧誘されるようになってしまったのだ。

「最悪、夜逃げも考えてたんですけど。無実の罪着せられて投獄されるとか、色々想定してたのにどれも外れでした。向こうも後ろ暗いとこがあるから余りことを荒立てたくないってのがあるのかもしれません。まあ、今の状態も迷惑なんですけど」

 取りあえず、警戒は怠らず、何とか勧誘も追い返しているが、この先のことを考えると頭が痛い。
 溜息を吐くエレンに、リヴァイはならいい提案がある、と声をかけた。

「お前、うちの医療班に入れ」
「はあ?」

 突然の勧誘にエレンは眉を顰めた。その話は何度も話があったが、きちんと断っているはずだ。

「その話ならお断りしたはずです」
「ああ、それは聞いてる。好条件を出したのに、あっさりきっぱりばっさり断られたと」

 そもそも、それがなかったらリヴァイはここには来ていない。まあ、他にも用はあったが、勧誘がなければリヴァイが頼まれることはなかっただろう。

「なら、諦めてください」
「医療班に入れば領主の勧誘もなくなるだろう。悩みが一つ解決するぞ」
「お断りします。オレはここで診療を続けます」

 きっぱりと言うエレンの瞳には揺るぎない強い光が宿っている。それを見てリヴァイは唇の端を引き上げた。

「ほう。やはり、悪くないな、お前」
「は?」
「なら、俺はお前が頷いてくれるまではここに通おう」
「イヤ、オレ、断りましたよね? 来たって無駄ですよ」
「お前の気が変わるかもしれないだろう?」
「変わりません。来たって帰ってもらうだけですよ」

 エレンの言葉にリヴァイはにやりと笑った。

「実はあれから腕の調子が悪い。この分だと次の遠征に影響するかもしれない」
「え?」

 男の腕は本人が言っていた通りに大したものではなかった――それでも雑菌が入って化膿したら感染症などの心配があるのできっちりと手当したのだが。今はもう完治している程度のものだったはずだ。

「――お前、自分の患者は最後まで診るんだろう? 見捨てるのか?」

 その言葉にやられたとエレンは思う。きっと傷はとっくに完治している。だが、男の言うように患者を最後まで見捨てないのがエレンの主義である。

「――やり方汚ねぇぞ、あんた」
「何とでも言え。よろしくな、エレン先生」

 苦虫を噛み潰したような顔をするエレンに、リヴァイは彼にしては珍しくくつくつと声に出して笑ったのだった。





「で、どこまでついてくるんですか? オレ、往診に行くんですけど」
「お前の行くとこならどこまでも、な」

 診療鞄を抱えながらエレンは深い溜息を吐いた。宣言通りにリヴァイは定期的にエレンの診療所兼自宅に訪れている。さすがに男にも仕事があるので毎日というわけではなかったが、数日おきには必ず現れたので近所でも男の存在は有名になっている。

「それに、俺がついていけば便利なこともあるだろう?」
「…………」

 それは確かにその通りだった。リヴァイが通うようになってからあのしつこい勧誘がぴたりとなくなったのだ。リヴァイに痛い目に遭わされたのが余程効いたのか男達は姿を現してはいない。調査兵団の人類最強の兵士長は有名な存在であるし、巨人相手ではなく人間に対してもその強さは有効で彼の存在が抑止効果をもたらしているのは明らかだろう。

「後、お前の言っていた領主のことだが、評判は良くないな。叩けば埃がいくらでも出てきそうだ。弱みを探し出して釘を刺せばお前に妙なちょっかいをかけてくることも――」
「やめてください」

 リヴァイの言葉を遮り、エレンは強い声できっぱりと言った。

「それはオレの問題で他には関係がない。自分のことで他人の手を煩わせて守ってもらう程オレは弱くない」

 金色の瞳が強い光を放っていて、それを見たリヴァイはふっと面白そうな表情を浮かべた。

「ああ、やっぱりお前は悪くないな」
「エレン先生、こんにちは!」
「こんにちはー!」

 リヴァイの言葉尻に被せるように元気な声がかけられ、ぱたぱたという足音がその場に響いた。

「あー、最強だ! こんにちは!」
「最強、こんにちは!」
「オイ、お前ら、俺の名は最強じゃねぇって何度言ったら判るんだ」
「エレン先生、これ薬草!」
「二人で採ってきたんだ!」
「無視か、オイ」

 駆け寄ってきた子供達はリヴァイが初めてここを訪れたときに出逢ったあの子供達だ。頻繁に訪れているせいか、リヴァイにも慣れたようでリヴァイを見つける度に声をかけてくる。その名が最強なのは頂けないが。人類最強の兵士長からとって最強らしいが、何故世間一般で呼ばれているリヴァイ兵長にならなかったのか謎である。一度訊ねたら最強の方がカッコいいとか、リヴァイ兵長は言いにくいなどと返されてしまった。

「エレン先生、後、これお母さんから、この前の診療のお礼だって!」

 そう言って手渡された野菜をエレンは受け取ってありがとう、と子供達の頭を撫ぜてやった。
 礼を言って去っていく子供達を眺めながら、ぽつり、とリヴァイは呟くように言葉を発した。

「お前、あいつらのとこから報酬もらってないんだってな」
「もらってますよ、ほら」

 受け取った薬草と野菜を見せるエレンにリヴァイは肩を竦めてみせた。

「そんなの報酬とは言えねぇだろ。薬代にもなってねぇ」

 あの二人の母親は持病があるのだと聞いた。発作を起こすと命にかかわるらしく、それを抑えるためには薬を飲み続けなくてはならない。だが、その薬は決して安いものではない。飲み続けるための薬代を払えなかった彼女は一度死にかけた――それを助け、薬をずっと処方しているのがエレンなのだと言う。あの二人の懐きようはそんなところからきているらしい。

「他からふんだくるからいいんですよ」
「だが、このままずっとお前が診続けられる保証はない。お前が一人で負担出来るのには限界がある。お前がいなくなったらどうなる?」
「――見捨てろ、ということですか?」
「そうじゃねぇ。根本的な問題が解決してねぇってことだ。――薬代が払えずに病気で死んでいく貧しい人間は数え切れない程いる。その全部をお前が救えるわけじゃねぇ。抱え込みすぎれば自滅するぞ」

 医師というものは多くの人々を救いたいと願いなるもののようだが――まあ、利益優先のものも中にはいるだろうが――総ての人間を救えるわけではない。エレンのように、貧しくて中々医療を受けられないものに手を差し伸べるのは悪いことではない、むしろ、善いことだろう。
 だが、人には許容量がある。エレンが安値で診療を引き受け、多くの人の命を救っているその負担は総てエレンに返っている。安値で診療してくれるとなればその話を聞いた貧しい人々はエレンの元に集まるだろう。ろくな診療代を払えない彼らを助け続ければいつか破綻を迎える日が来る。

「――それでも、オレは目の前で救えるかもしれなかった命が消えていくのをただ見ているだけなのは嫌なんです」

 強い口調とは裏腹に泣きそうな表情でそう告げるエレンに、リヴァイは目を瞠った。彼のこんな顔を見るのは初めてで、リヴァイは咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
 言葉を発した後、エレンは唇を引き結んで往診に出かけ、リヴァイはただ黙って後に続いた。



 往診から戻った後、リヴァイを自宅に招き入れたエレンはソファーに座るように促し、自らお茶の用意をした。
 テーブルの上にカップを置き、リヴァイの向かい側に腰かけたエレンは深い息を吐いてからすみませんでした、と謝罪の言葉を述べた。

「さっきのは八つ当たりでした。自分の力の限界は判っています。それを指摘されて当たるなんてみっともないですね」

 エレンの言葉にリヴァイはいや、と首を横に振った。冷めないうちにどうぞ、と促されカップを口に運んで一口飲んでからリヴァイは前から思っていた疑問を口にした。

「そもそも、何でお前は医師を目指したんだ? 父親の影響か? この診療所、元はお前の父親が始めたって聞いている。その父親はどうしたんだ?」

 元は彼の父親が始めたというこの診療所だが、ここ数年彼の父親は姿を見せていないらしい。死んだという話は聞いていないと近所の者は言っていたそうだから生きてはいるのだろうが、彼一人でここを守っていくのは大変なのではないだろうか。

「……話すと長くなるかもしれませんがいいですか?」
「構わない」
「オレは元々、医者になるつもりはなかったんです。幼い頃は調査兵団に憧れてましたから」
「なら、医療班に入れ。調査兵団見放題だぞ」
「即、それですか。入らないって言いましたよね、オレ」

 はあ、と溜息を吐いてからエレンは苦笑した。幼い頃、調査兵団に憧れていた彼は医学書などを読むよりも外で駆け回って身体を動かすことの方が好きな子供だったという。いつか自由の翼を背に壁の外へ向かうのだと夢を語っていつも母親に怒られていたと。
 彼の母親は調査兵団などとんでもない、壁の外に出るなど死にに行くようなものだと大反対だったそうだ。――それは一般的な普通の親なら当たり前のことだとリヴァイは思う。同じ兵士になるなら憲兵団だろうし、死亡率の高さが並ではない調査兵団に可愛い我が子を放り込みたい親はいないだろう。
 少年の母親は口うるさいが強く優しい人だったという。子供想いで周りの人を明るくさせ、近所の者からも慕われていた。身内の欲目かもしれないが、本当にいい母親だったのだとエレンは笑った。

「その母が亡くなったのはオレが十歳のときでした」

 エレンの言葉にリヴァイは軽く頷いて先を促した。彼が母親について全部過去形で語っていること、今までに彼の母親の話や気配が全くなかったことには気づいていた。

「事故でした。――オレの目の前で起こったのに、何も出来なかった」

 母親は医師の元に運ばれたが手遅れだった。その医師がもう少し早くに――事故の直後に応急手当てがきちんと出来ていれば助けることが出来たかもしれない、と言っているのをエレンは聞いてしまった。

「オレは医者の息子なのに応急手当の仕方なんて知らなかった。医者のとこに運べば助かるってそう思って――オレが知っていれば助かったかもしれないのに」

 エレンは自分を責めた。そして、彼以上に母の死に衝撃を受け、自分自身を責めたのは彼の父親だった。彼の母が事故に遭った日、彼は隣の町に出かけていて不在で、妻を治療することも出来ず、その死に目にも会えなかった。
 それから、彼の父親は抜け殻のようになったという。

「話しかけても心あらずって感じで……母さんの形見をずっと眺めたりして。食事もろくに摂らないし、診療所もずっと閉めっ放しだった」

 母親の死でおかしくなってしまったのだと、人の噂がちらほらと聞こえ始めた頃、エレンは自分の父親を殴り飛ばしたのだという。

「殴ったのか?」
「ええ。思いっきり殴ってやりました。素手だったからオレも手を痛めましたけど」

 殴った後、父さんは何をしているんだ、とエレンは自分の父を一喝した。

「母さんを助けられなかったって後悔してるんなら、母さんのように助けられたかもしれない人をこれから助けろよ。それが父さんの仕事だろ。オレはもう後悔したくないから、医者になって母さんのように助けられたかもしれない人を一人でも多く救ってやるって、そのときに宣言したんです」

 それからは猛勉強の日々だった。医師になるべく少しでも多くのことを学ぼうと必死だった。息子から叱咤されその頑張る姿を見て父親も奮起し、また医師として再び働き始めたのだという。
 エレンが正式に医師となり、働き始めたのは三年前――一年程は父親と一緒に診療所をやっていたが、仕事に慣れたエレンがもう一人前だと判断したグリシャは二年程前、旅に出たのだ。

「旅に? 何で、またそんなことになったんだ?」
「自分探しの旅だそうです」
「……思春期の少年か、お前の父親は」
「まあ、半分は冗談ですけど。……地方は医療が行き渡ってないところが多いんです。そういうところで診療を行いたい、また応急処置の仕方を広めたり、地方で医療を行えるものを育てるのも重要だと言っていました」
「まあ、言ってるのは正論だが――こんな状況で息子置いて行くなんてどうかと思うが。お前は反対しなかったのか?」

 リヴァイに問われて、エレンは困ったように眉を下げた。

「父の夢を反対出来るわけないでしょう。それに、二年前は今程、酷い状況じゃなかったんです」
「どういうことだ?」
「あのハゲじじい……今の領主は三年前にこの地域を治めるようになったんです。何でも前の領主が失策をしたとか醜聞があったとか色々噂がありましたが、本当のところは判りません。父が旅立った後にどんどん酷くなっていって……」
「成程。就任してから一年は様子見か準備をしてたってことか……」

 その三年前の領主の失脚もあやしいし、現在の領主は思っていたよりもあくどい事をしているのかもしれない。
 だが、今はそれよりも。

「――ずっと、頑張ってたんだな、お前は」

 偉いな、とすっと手を伸ばして目の前の頭を撫ぜてやる。艶のある黒髪は思っていたよりも柔らかくて指先に心地好い感触をもたらしてくれた。

「エレン?」

 相手からの反応が全くない。彼のことだから子ども扱いしないでください、と怒ってくるかとも思ったのだが――まあ、怒られたとしても今は撫でてやりたかったのだから仕方がない。不思議に思ったリヴァイが顔を覗き込むと固まっていたエレンと目が合った。途端、真っ赤に顔が染まっていく。

「……………」
「……………」

 何か言いたいのだろう、口をぱくぱくと開閉させるが、若者の口からは何も出てこない。その様子を見てリヴァイはふ、と息を吐いた。

「そうか、お前、こういうのに弱いタイプか」
「………っ! ち、違います!」

 真っ赤になって否定するが、リヴァイの手を振り払わなかった時点でそれが嘘なのは明らかだ。リヴァイはくしゃりとエレンの頭を掻き回した。

「――一人でよく頑張ったな。俺達とは違うところで戦ってきたお前はすごいと思う。胸を張れ、お前は偉い」
「――――」


 一通り掻き回してから手を放すと、エレンは真っ赤になった顔をただ俯かせていた。

「――というわけで、これからは医療班で頑張れ」
「……何でそんな話になるんですか。嫌ですよ。お断りしましたよね」
「今が口説きどきだと思ったんでな。今、ぐらついただろう?」
「ぐらつきません!」
「それは残念だな」

 肩を竦めた後、リヴァイはすっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干し、カップをソーサーに戻した。
 その後、今日はこれで帰るとエレンに告げてリヴァイは立ち上がった。

「ああ、お前が頑張っていて偉いと思ったのは本心だぞ?」

 玄関のドアを開けながらリヴァイがそう言うと、エレンは小さく判ってます、と言葉を返した。
 去り際に見た若者の顔は真っ赤で、リヴァイはやはり悪くないな、と思った。





「リーヴァーイ、いる?」

 リヴァイの返事も聞かずに執務室に入ってきた同僚はリヴァイの姿を見て口をパカッと開けた。その理由は判っているが、相手にしてやる気はない。

「何の用だ、クソメガネ」
「イヤ、私のところに来た書類にリヴァイに回すものが混じってたんだ。だから持ってきたんだけど……えーと、仮装パーティでもするの?」
「……蹴られたいんだな、そうか」

 リヴァイの言葉にハンジは慌てて首を横に振って距離を取る。人類最強の男は対巨人相手ではなくても物凄い破壊力を発揮するので、その餌食にはなりたくはない。

「でも、本当にどうしたの? リヴァイが正装なんて珍しい」

 リヴァイはいつもの制服でも私服でもなく、きっちりとした正装に身を包んでいた。見慣れない姿にハンジが驚くのも無理はないだろう。リヴァイとて好き好んでこんな格好をしているのではないのだが。

「俺も着たくはなかったが、状況的に着なきゃまずいらしい。貴族の舞踏会だか晩餐会だか親睦会だかだか何だか判らんがそいつに出るからな」
「え? 何で? そういうのって団長が出るんでしょ?」
「そのお供だ。何でも、俺も一緒に来るよう指定されたらしい」

 リヴァイは不機嫌そうに眉を寄せた。リヴァイは上流階級の集まりが嫌いだ。調査兵団の団長であるエルヴィンや、エルヴィンと親交のあるピクシスなどはそういったものを上手くあしらっているようだが、リヴァイは何かと理由をつけてそういった招待は全部断っている。基本、王侯貴族などとの折衝にはかかわらないのでそういう席に出ることは滅多にないのだが、今回はどうしてもと先方がねばったため仕方なく行くことになったのだ。

「今は忙しいってのに……」
「あ、例の尻尾を掴めたんだ?」
「もう、詰めの段階だ。まあ、相手も年貢の納め時だろう」

 そうか、良かった、とハンジは頷いてじゃあ、彼の方はどうなの?と訊ねてきた。

「まだだな。感触は悪くないと思うんだが」
「これで医療班に彼が来てくれればいうことないのにねー」

 そう簡単に話が進めば苦労は要らないのだ、とリヴァイは溜息を吐いた。
 ――あれから、エレンとの距離は縮まったように感じたリヴァイだったが、やはり、彼は医療班に入るという話を承諾してはくれなかった。彼の性格や志からして貧しくて中々診療を受けられない人々を見捨てることは出来ないだろう。
 なら、完全に入るのではなく少しでも多く医療班に顔出ししてもらってから、とも考えたが、それは出来なかった。何しろ、彼は忙しいのだ。診療所を訪れる患者は思っていたよりも多かったし、往診や薬草の世話や採取、家事もこなし、更にまだ専門書を読んで勉強もしているのだ。たまにいわゆる上流階級のもの診療も行って報酬をふんだくり、他に回している。この状況ではどうにもならないだろう。
 なので、やるべきことは二つ――一つは医療を高額でしか受けられない現状をどうにかすること。エレンには手を出すなと言われたがそうも言ってられない。いずれは共倒れしてしまうのが見えているのに黙っていることは出来ないだろう。調査兵団に身を置いている自分にはエレンにはないつてや人脈がある。取りあえず、自分を彼と出逢わせたハンジも引っ張り込んで今は少しずつ裏で話を進めている。
 もう一つの方は彼に怒られるのは確実なので、こっそりとやっているが――こちらも実を結びそうだ。

「クソメガネ、俺は仕方ないから出かけるが――その間、あいつの周りに注意していろ」
「え? でも、もう諦めたみたいじゃない? 全然、姿を現してないんだろ?」
「そうなんだが――念には念をってことだ」
「判った。……ねぇ、リヴァイ」
「何だ?」
「やっぱり、いっそのこと帽子と仮面つけて仮装にした方がいいんじゃない? その方が違和感な……」

 リヴァイの蹴りが華麗に決まったのは言うまでもない。



 上流階級の集まりなど、やはり出席するものではないな、とリヴァイは思った。しつこく連れてこいと言っていた割には招待者はリヴァイに見向きもしないし、人類最強に興味を持って話しかけてくる招待客達が鬱陶しい。エルヴィンは笑顔で上手くあしらっているようだが――あの胡散臭い笑顔にどうして騙されるのかリヴァイは常々不思議に思っている――リヴァイはそれをやる気にはなれない。有力者を敵に回すのは得策ではないので適当にあしらってはいるが、本当に来るべきではなかったと思う。まあ、会話が面白くなければ向こうも勝手に離れていくのだが。思っていたのとは違うと言われようがどう思われようがリヴァイにはどうでも良かった。
 ふと、会場である大広間の入り口に見知った顔があるのを見つけて、リヴァイは周りに気付かれないようにその場から抜け出した。

「どうした? もう証拠は全部揃ったのか?」
「はい、兵長。これでやつは逃げられません」

 人気のない場所までこっそりと足を進め、相手からの報告を得る。入り口でリヴァイを待っていたのは彼の部下で水面下で色々と動いてもらっていた。何かあったら報告しろと伝えてあったのだが、良い報告を聞けて良かったとリヴァイは満足げに頷いた。だが、次の報告を聞いてそれも一変する。

「後、やつの方に動きがありました。柄の悪い男達を集めて何やら指示をしていたようですが、その男達が屋敷を出たと。向かった先は―――」

 往々にして嫌な予感とは当たるものである。リヴァイは小さく舌打ちした。

「あのクソメガネ…! 注意しろって言っただろうが!」
「兵長? どこへ――」

 部下の声も聞かずにリヴァイは勢いよくその場から走り去った。


 ひたすらに馬を走らせて戻ったリヴァイは――エルヴィンが何か言っていたようだが聞いている暇などなかった――エレンの家へと物凄い勢いで向かった。もう何度も通い慣れた道を進むと、最強!と呼びかける声が聞こえた。

「最強、エレン先生が!」
「エレン先生が連れていかれちゃった!」

 リヴァイの姿を見て駆け寄ってきたのはあの兄妹だった。妹の方は泣き腫らした真っ赤な瞳からまだ涙を流していた。

「いつだ? 攫われてからどれくらい経っている?」

 泣いている少女の方は話にならないので兄の方に訊くと、エレンが連れていかれてからまだそれ程経っていないらしい。ここから直接領主の屋敷に向かったのか――。

(イヤ、攫っていったんなら、直接には運ばないか。下手に騒がれたら面倒になる。一端、どこか別の場所に連れ込んでからにするはず)

 人目のつかない隠れ家、余り離れすぎてない場所――領主の息のかかった物件の中から、頭の中で素早くその候補を挙げているリヴァイの服の裾を子供が引っ張った。

「エレン先生はリナを庇ったんだ。……お願いだから助けて」

 どうやら子供といるところを襲われたらしい。あの若者が簡単に連れ去られるようなはずはないから、おそらくは子供を楯にでも取られたのだろう。リヴァイは両方の手で、子供達の頭をぐしゃりと掻き回した。

「必ず連れ戻す。だから、お前らはおとなしく待っていろ」

 頷く二人にリヴァイは先を急いだ。



 連れてこられたのは薄暗い倉庫のような場所だった。後ろ手に縛られ、椅子に座らされたエレンはさて、どうしたものか、と心中で溜息を吐いた。

(一度逃げられてるから、今度は警戒してそうだし、簡単には逃げられないだろうな……)

 一度行ったことのある屋敷か、またはどこかの別邸に連れて行かれるのか判らないが、前のように簡単には逃げられないだろう。

(となると、移動中に逃げた方がいいよな)

 直接向かわずに中継しているのは、さすがに誘拐して真っ直ぐに向かうのはまずいと思ったからだろう。自分が連れ去られるのは目撃されているし、誰かが憲兵団あたりに通報するのは判り切っている。相手が憲兵団に顔が利く可能性は高いが、形だけでも捜索はするだろうから、このように手間をかけている訳だ。

(定石だとここで二手に分かれて、片方は人目につくようにしてどこか踏み込まれても大丈夫な場所に行く。で、本命はオレを連れて目的地に行くってとこかな)

 はあ、と本当に溜息がこぼれそうになってエレンはそれを何とか呑み込んだ。あの領主がここまでして自分を攫う意味が判らない。

(断られて意地になってるのか。それとも気絶させられてそっち方面に目覚めたとか?)

 自分には加虐趣味も被虐趣味もないから、責任を取れと言われても困るのだが。

(まあ、機会は次に移動させられるときかな。やっぱり、こいつらツメが甘いし)

 エレンがそんなことを考えていると、エレンを攫った男達の一人に声をかけられた。

「何か、余裕そうだな、先生。これから自分がどうなるのか怖くないのか?」
「…………」
「まあ、今までの自分の態度を後悔すればいいさ」

 男の言葉を聞きながら、内心で本当に定番の悪役台詞だな、それしか考え付かないのか、と呆れていると、それが顔に出ていたのか男は眉を顰めた。

「何だ、文句でも――」

 男の声は途中でかき消された――窓と扉が物凄い勢いで蹴破られたからだ。

「エレン!」

 いち早く中に入って男達の一人を蹴り倒したのは、人類最強の男。次いで、彼の仲間であろう数人が中に入り込んでくる。

「調査兵団? 何でここが――」

 その言葉は最後まで言うことは出来なかった。横から思い切り殴り飛ばされたからだ。

「ツメが甘いよ、あんたら」

 そこに立っていたのは椅子に縛られていたはずの若者で、これにはその場の全員が驚きの表情を浮かべていた。

「縛るなら足もきちんと縛らないと。抵抗を完全に失わさせるなら意識を奪った方がいい」

 まあ、意識のない人間は重くて運ぶのに苦労するから大変だけど、と言いながら再び攻撃を開始する若者に、周りも驚きを捨て、その場は乱闘になっていった。



「お前、どうやって縄を外したんだ?」

 雇われた街のゴロツキと訓練された兵士では戦闘能力に違いがありすぎた。あっさりと決着がついた乱闘は調査兵団が勝利し、彼らは連行される運びとなった。連中の供述によると、本日はリヴァイはいないから大丈夫だと言われていたらしい――おそらく、リヴァイがしつこくエルヴィンの同行を求められたのはあの領主の差し金だったのだろう。
 だが、屋敷の動向を見張っていた部下から報告を受け、エレンの行方を追ったリヴァイは、途中で同じくおかしな動きを察知して捜索し始めたハンジ達と合流し――リヴァイがハンジに蹴りを決めたのはいうまでもない――あの場所を突き止めて乗り込んだのだ。この若者がおとなしくしているわけがないとは思っていたが、縛られていた縄を外して一味をぶん殴るとは思っていなかった。

「ああ、オレ、手首の関節が柔らかいんです。なので、手だけなら関節外して縄抜け出来るんです。足も縛られてたなら縄抜けに時間かかりましたが。本気で人を攫うならもっと徹底してやらないと駄目ですよ」

 オレは歩かされたので足は縛られなかったんですよね、とエレンは笑った。

「あ、関節外すのは変な癖がつくこともあるので、真似は勧めませんよ? いざというときには役に立つかもしれませんが」
「……真似しねぇよ」
「ちなみに殴るときは石とか握ってやると、威力も増して指も痛めなくていいですよ」
「……お前、本当に医師か?」

 何言ってるんですか、ちゃんと医師免許持ってるって言ったでしょう、とむっとした顔を作る若者にリヴァイははあ、と大きく息を吐いた。本当にこの若者は想定外というか、やることが読めない。だが。

「まあ、そういうところが面白くていいんだがな……」

 リヴァイの呟きにエレンは怪訝そうな顔をした後、はっと気づいたように頭を下げた。

「そうだった、助けて頂いてありがとうございました」

 どうやらお礼を言っていなかったことに気付いたらしい。リヴァイはいいや、と首を横に振った。

「お前が無事ならそれでいい」

 そう言ってさらりと頭を撫ぜてくる男にエレンは真っ赤になった。その様子を見て男は笑う。

「お前、やっぱり、こういうのに弱いんだな」
「――弱くありません!」
「ま、何にしても厄介ごとは今日で終わりだ」
「え?」
「これから色々と面白いことになる」

 その言葉にエレンは怪訝そうに首を傾げたが、リヴァイはただ笑うだけだった。



 リヴァイの言葉の意味はすぐに知れた。領主の行ってきた悪事が明るみに出て、彼が失脚したからだ。彼は密かに領主が行ってきたことを調べ裏で色々な手を回していたらしい。三年前の領主のことは慎重にやったのか状況証拠くらいしか見つけ出せなかったが、領主になってからの悪事は油断があったのか、あちこちに綻びがあり、証拠を揃えることが出来た。元々、評判が悪かった男なので敵も多く存在し、彼の味方は利害関係で結ばれたものばかりなので旗色が悪くなるとあっさりと離れていった。
 彼が医療関係に手を回し多額の富を手にしていたことも明るみになったので、薬の値段も正規に戻るだろうという話だった。

「そういう訳だから、医療班へ入れ」
「その件はお断りしたでしょう」

 エレンの自宅兼診療所にやって来たリヴァイの第一声に、呆れた声でエレンはそう返した。

「ここには診療を受けに患者さんが来るんです。それを放っては――」
「そっちの方も大丈夫だ」

 そう言って、リヴァイはエレンに一通の手紙を手渡した。突然差し出された手紙を戸惑いながらも眺めていたエレンはそのどこか見覚えのある文字にはっとして差出人の名を確かめた。
 そこにはエレンが予想した通りの名があった。――グリシャ・イェーガー、彼の父親の名だ。
 慌てて封を切って中を改めると、そこには長らく家を空けていてすまない、じきに戻る、という旨が綴られていた。

「え? これ、どういうことですか?」
「お前の父親を探して今回のことを話した」

 疑問符を飛ばすエレンにリヴァイはそう説明した。――領主の問題を片づけてもエレンは診療所を離れないだろう、と思ったリヴァイはエレンが怒るだろうことは判っていたが、父親を探すことにしたのだ。父親がここに戻って診療を続ければ、エレンに余裕が出来るだろうと。息子の身に起こった事態を知った父親は家に戻ることを承諾してくれ、息子宛に手紙を書いてくれた。勿論、父親が暮らしていたところでも仕事の引継ぎなど色々な処理があるだろうから、まだしばらくはかかるかもしれないが。

「……何で、そんなにオレを医療班に入れたいんですか? 他にも優秀な医師はいるでしょうに」

 エレンの声には怒りよりも呆れの方が強いように感じた。父親もエレンと同じように一度決めたことは変えない性格だから戻ることには反対しないし、父親が戻ることが嬉しくない訳ではない――だが、リヴァイが何故ここまでするのか納得がいかないようだ。

「そうだな。俺が遠征から戻った時、真っ先に出迎えてもらってお帰りなさいって言って欲しいから、では駄目か」
「は?」
「後は傷を診てもらうならお前がいい」
「……何かそれ、口説かれてるみたいですけど」
「ああ、口説いているからな」
「…………」
「…………」

 固まってしまった若者にリヴァイは笑う。最初は偶然の出逢いから――強い意志の光を放つ金色の瞳に興味を抱いた。彼のところに足を運んだのは頼まれたからだが、知っていくうちに無茶苦茶でそれでいて真っ直ぐで面白くて目が離せなくなった。その感情がどこから来るのか考えたらそういうところに落ち着いたのだから仕方がない。

「返事は? エレン」

 リヴァイに返事を促され我に返ったエレンはあーとか、うーとか、真っ赤になって唸っていたが、やがてぽつりと呟くように告げた。

「……考えておきます」
「ああ、前向きに検討してくれ」

 取りあえずは即答で断られなかっただけ進んだということだろう。真っ赤になった若者の顔に良い返事がもらえるのはそう遠い話ではないかもしれないと思い、リヴァイは笑った。





《完》




2015.3.29up




 小翔様からのリク。原作沿いでもしもエレンが兵士ではなく医者になってたらのお話。時間軸を無視した完全パラレルで構いません。ということで書かせて頂いたんですが、医者エレンが何だかナイトウォーカーエレンっぽくなってしまいました。イメージ違ってたらすみません。医療関係に詳しくない&進撃世界の医療技術がどこまで進んでいるのか判らないので、その辺どこかあらがあるかと思いますが、スルーしてくださいませ。更に何だか説明文が多すぎますが、そこは以下同文(汗)。特にカプ指定はなかったんですが、リヴァエレ風味になりました。リヴァエレサイトですから!(笑)
 遅くなってしまいましたが、リクエストありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。





←back