ショコラプリン



 接客業というものは数多の人間と関わるということだ。特に飲食業ともなれば不特定多数の人間が店を訪れ、中には様々な人間が存在する。店側としてはより多くの人に商品を購入してもらうように品質の向上、維持に留意し、様々な努力をしている。接客対応もそのうちの一つで丁寧な心配りが必要だ。店員の態度が悪ければもう二度とあの店には行かないと思ってしまうし、悪い噂も広がり兼ねない。
 エレンのアルバイト先であるカフェ・グリーンリーフはその点の教育もしっかりしていて、店主の眼に適ったものしか採用はされないし、18歳以下――つまりは高校生は雇っていない。無論、常識の有無を年齢だけで判断するのは愚かなことだが、お洒落なカフェでアルバイトをしてみたい、という軽いノリだけで応募してくるものに若い子が多いのも確かだった。どの職種にも言えることだが、実際に働くというのは大変なことなのだ。軽い気持ちで入って思っていたのと違うと言ってさっさとやめてしまう子は多い。そんな中、高校生のエレンが採用されたのは異例のことで、店主のハンネスからの信頼に応えるべく、少年はきっちりと真面目に仕事に励んでいた。
 そして、店員にも色々な人間がいれば、当然客にも色々な人間がいるわけで。売り切れた商品が欲しいから今すぐ作って出せ、とか、たくさん買ってあげるんだからおまけで何かつけろ、とか無茶な注文をつけてくる、困ったものもいる。
 幸いにしてカフェ・グリーンリーフは客層に恵まれていて変な言いがかりをつけてくるようなものは滅多にいなかった。常連客にも丁寧なものが多く、エレン達スタッフは気持ちよく働くことが出来た。
 ――が、ある日、問題は起こった。
 その日、エレンが仕事を終え、帰ろうとしていると、休憩スペースでスタッフのクリスタとユミルが真剣な顔で話していた。


「だから、オーナーに言った方がいいって言ってるだろ?」
「でも、特に何かされたわけじゃないし……」
「何かされてからじゃ遅いんだよ! クリスタが言わないなら私が言うからさ」
「どうしたんだ?」

 エレンが声をかけると、クリスタは困ったようにちょっと、と言葉を濁し、ユミルは変な客に付き纏われているんだよ、と告げた。

「あー、それは言った方がいいと思うぞ、オレも」

 アルバイト仲間であるクリスタは小柄で可愛らしい女子大生だ。ケーキ販売の方を担当していて、エレンとシフトが一緒になることが多く、スタッフの中でもよく話す方だ。ユミルの方はカフェのホール担当なので話す機会は余りないが、クリスタとは同じ大学でルームシェアをしているらしく、二人は傍目で見ていても仲が良さそうだった。可憐な美少女といった感じのクリスタとは正反対に、ユミルはぱっと見だと男性に見えそうな外見の、さばさばとした感じの女性だった。
 クリスタはその可愛らしい外見から今までにも何度か男性客からアプローチされて困ったことがある。今回もその類なのかと思ったらどうも様子が違うようだ。

「特に何かされた訳じゃないの。ただ……」

 相手はクリスタがシフトに入っているときによく来店する男性客なのだが、いつも支払いのときに代金を手渡しして手を握ってくるのだそうだ。

「え? だってトレーがあるだろ?」

 レジの前にはトレーが置いてあり、客はそこに代金を載せる形になっているが、男はそこには置かずに必ず手渡しして手を握ろうとしてくるのだという。お釣りを渡すときもそうで、隙あらば触ろうとしている様子が窺えるらしい。

「……それは、気持ち悪いな」
「だろ? だからオーナーに話せって言ってるんだよ、私は」
「でも、他に何かされたわけじゃないし……」

 いっそのこと、面と向かって告白されたならきっぱりと断れたのだが、それはなく、ただ手を握ろうとするだけだから対処に困っているという。勤務中のことであるし、買い物もちゃんとしていっているので強く出るのも躊躇ってしまうのだとクリスタは続けた。

「いつも何も言わずにただじっとこっちを見ているだけなのよね。その人が来ると、何かもう顔が引き攣っちゃってどうしたらいいのか……」
「取りあえず、ハンネスさんには話して、その客が来たらオレが接客するよ。後をつけられたりとかはされてないんだろ?」
「それは多分されてないと思うけど」
「私が一緒に帰ってるからな。そういった気配はないよ」

 エレンは頷いて、取りあえずクリスタの周りには気を配って、行為がエスカレートしてきたら警察に相談しようか、という話にまとまった。

「オレも気をつけて見てみるけど……他は大丈夫かな? アニとか」
「アニなら自分で鉄槌をくだすだろ」

 ユミルがあっさりと言い放ち、他の二人はその言葉に納得して頷いた。アニはこのカフェ・グリーンリーフに勤めるパティシエの中で一番若い女性で、パティシエになってまだ間もないが、その腕前はハンネスも認めている程だ。ぶっきらぼうで愛想がないけれど、意外に親切で、たまにエレンに技術を教授してくれるので有り難い存在だ。小柄で見かけは力がなさそうに見えるが、幼い頃から武道を習っていたという彼女に下手に悪さをしようと思ったら手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

「確かにあいつなら自分で沈めそうだな。まあ、裏方は店内に顔を出すことも余りないから、問題は販売スタッフの方だよな。そっちにも注意するように言ってもらった方がいいか。他のスタッフにも同じことがないとも限らないし」

 この店で働く女性スタッフには可愛い子が多いと言われているのはエレンも知っていた。ハンネスは顔採用などしないのでただの偶然だが、他の女性スタッフが狙われないとも限らない。

「クリスタ以上に可愛い奴なんていないだろ? まあ、人の好みは様々だけどな」
「……お前はどっちかというと、女にもてそうだな」
「うん、ユミルは女の子に人気あるのよ。高校のときとか凄かったもの」
「あれは私の黒歴史だよ。女子高のノリにはついていけなかったな……」

 肩を竦めたユミルはエレンにお前も気を付けろよ、と言葉を向けた。

「は? 何でオレ?」
「ストーカーは男に限らないだろう? この店は女性客が大半なんだから、中には変な女がいないとも限らないし」
「オレ、女にもてたことねぇんだが……」
「え? エレン、結構お客さんに人気あるよ? 今日はいないんですかーとか女の子に訊かれたことあるもの」
「無自覚か……。あ、後、お前の場合、男もやばそうな感じがする」
「いやいやいや、どっちもねぇから。オレマジでもてねぇし」

 ――まさか、このときの会話が現実になるとはエレンも思っていなかった。



 数日後、来店客を知らせる鐘が鳴って、入ってきた客を見てクリスタが顔を強張らせたので、エレンはそっと目配せをして、彼女にさり気なく商品の補充をするように頼んだ。クリスタは頷いて店の奥に入っていく。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになられましたら、お申し付けください」

 にっこりと笑顔で告げるエレンに、相手は視線を泳がせていた。おそらくはクリスタを探しているのだろうが、この男性客が帰るまでは絶対に店内には出さないように決めている。
 男はしばらくそうしていたが、やがて諦めたのか注文を告げた。

(見た目は普通っぽいけど……確かに挙動不審だな)

 親しくなりたいなら声をかけるか何かしらリアクションをすればいいのに、ただじっと眺めて応対のときに手を握ってくるだけなんて、普通の女子なら怖がるだけだろう。少しでも会いたくて店に通ってしまう、という気持ちだけなら判らなくもないのだが。

(リヴァイさんが通ってくれたから、今のオレ達があるわけだし)

 だが、リヴァイにただ見つめられて無言で手を握られていたら、エレンだって不気味に思ったに違いない。リヴァイがエレンに近付けるように努力してくれたから今の二人があるのだ。

(まあ、リヴァイさんじゃなかったら、恋人になるなんて考えもしなかっただろうけど)

 そんなことを考えつつ、エレンが会計で料金を受け取ろうとすると、男が手渡しでエレンの掌の上に代金を載せ、両手で手を握って来たので、内心で驚いた。

(え? 何で、オレに。ひょっとして、これがこの人の癖なのか? いや、手渡しはあっても握るまではしないだろ。普通に嫌がるって判るだろうが)

 ぐるぐると考えが頭の中で巡るが、エレンは根性で、にっこりと相手に笑顔でお預かりします、と言葉を告げた。男は一瞬驚いた顔をして頷くと釣銭を渡すときにも手を握ってきたが、エレンは動じずに笑顔で有り難うございました、またのご来店をお待ちしていますとお決まりの文句を返した。
 去っていく男の背中を眺めながら、エレンは取りあえずやり過ごせたことにホッと息を吐いたが、これからが始まりだったのだ。




(何か視線を感じる……)

 あれから二週間程経ったが、例の男が店に姿を現すことはなかった。クリスタはホッとしていたが、彼女が気を抜いて一人になったところへ再び現れる可能性がないとは言い切れないので、まだしばらくは警戒することにしていた。エレンは問題が解決しそうなことに素直に良かったな、と声をかけたが、逆に今度は自分が視線を感じるようになり、頭を悩ませていた。

(オレにストーカーがつくとか有り得ねぇし……気のせいなのか?)

 大体、ストーカーは芸能人とかカッコいい人につくものだとエレンは思う。ニュースなどでごく普通の人間がストーカー被害を受けたという事件も聞くが、そういう場合は加害者は元交際相手や離婚したパートナーであるのが殆どだった気がする。エレンは今まで生きてきた中で、恋人と呼べる関係になった相手はリヴァイ一人だけだし、リヴァイがそんな真似をするとは思えない。
 いや、幼馴染みに話したら「あの人の存在自体がもうストーカーでしょ」とか言われそうな気がするが。
 視線を感じるのは朝、学校に出かけるときとアルバイト先から自宅に帰ってくるときが多く、誰かにつけられているような気もするが――気配を感じてもそれらしき人物が見当たらないので、確信が持てずにいた。
 それが確信に変わったのは、ある日、家に帰ってからだった。郵便ポストに封筒が入っていたのだ。切手の貼られていないその封筒は送った当人が直接投げ込んだのだろう。明らかに不審だったが、そのままにしておくことも出来ずにエレンは封を開けて中を見てみた。――中に入っていたのは何枚もの写真。

「何だ、これ……」

 思わずエレンはそう呟いていた。被写体は総て同じ人物――目を通した写真には全部自分が写っていた。だが、こんなものを撮られた覚えはエレンにはないし、写真の自分の視線が全部カメラに向いていないところから言ってもこれは絶対に隠し撮りに違いなかった。届いた写真は朝の登校風景から始まり、下校、ハンネスの店で勤務中、バイトを終え帰宅途中と、場面は様々であったが、一日のエレンの行動の流れが判るように順番に並べられていた。
 ずっと自分を見ているのだと教えるような行為にエレンは背筋が寒くなる。一体、誰がこんなことを、と考えてみるが、心当たりがあるはずもない。よくストーカーは身近にいるものだというが、エレンの交際範囲内でこんな真似をしてくるものがいるとは到底思えなかった。

(……どうしよう)

 エレンはどうしたらいいのか判らず、ただ、深い息を吐いたのだった。



「ね、何かあったの? エレン」

 いつもの通りに椅子に逆向きに座って幼馴染みの手作りの焼き菓子を食べながら、アルミンは少年にそう訊ねた。

「あ? 美味しくなかったか? アルミン」
「ううん。美味しいよ。そうじゃなくてさ……」

 幼馴染みが作ってきた焼きドーナツはココア味と、ドライフルーツの入ったヨーグルト風味の二種でさっぱりとした甘さでいくらでも食べられそうだ。焼きドーナツは普通のドーナツと比べて油分が少ないから、ヘルシー志向の女性には好まれるものだと思う。だが、そんなことは置いておいて。

「何か、どこか上の空っていうか……元気ないからさ、体調でも悪いの?」
「いや、別にどこも悪いとこなんてねぇよ?」
「なら、いいけど……何かあったんなら、ちゃんと僕にも話してくれよ?」
「……ああ」

 そうは言ったものの、まさか自分にストーカーがいるらしいとは言えない。この幼馴染みのことだから激怒して犯人を探すとか言いかねないからだ。どうもこの幼馴染みは過保護のきらいがあると思う――昔からそういう傾向はあったが、最近それが強くなったような気がするのは気のせいだろうか。それでもこの幼馴染みは引き際を心得ているので、それを鬱陶しいと思ったことはないのだが。
 周りに迷惑をかけたくはないし、自分一人でどうにかして犯人を捕まえることは出来ないのだろうか。

(姿も見たことねぇし、写真送ってきただけじゃ何とも……)

 警察に駆け込む気はないが、訴えたところで何も出来ないだろう。これが殺してやるとかいう脅迫文でもついていたり、何らかの嫌がらせのものが同封されていればまた別だろうが、ただの写真だけでは動きようもないと思う。

(相手が動かないとどうにもならないか……)

 エレンは内心で深い溜息を吐いて、幼馴染みの気を逸らすために新たな話題を振ったのだった。



 その日、帰宅すると、郵便ポストにまたあの封筒が入っていた。またか、と思いつつ封を切ると中にはいつものように自分の写真が何枚も入っていた――だが、今回はいつもとは少し違っていた。

「何だよ、これ……」

 写真に写っていたのは自分と――リヴァイ。そして、リヴァイの顔には赤いペンで大きく☓印がつけられており、たった一言「害虫は駆除しなくちゃいけない」と書かれた紙が同封されていた。

(どうしよう……)

 この写真を送りつけてきた相手が自分とリヴァイの関係に気付いているのかは判らない。だが、向こうがリヴァイを敵対視しているのは明らかだ。リヴァイは身体を鍛えているし、暴漢に襲われたとしても返り討ちにすると思うが、彼に迷惑をかけるようなことは避けたい。それに、暴力行為に及ばないとしても、リヴァイにもこういった写真を送りつけたりするなどの嫌がらせをしないとも限らないのだ。
 リヴァイは周りに自分達の関係を隠していないようだが、例えば、取引先の会社に彼に未成年の同性の恋人がいるなどと噂を流されればまずい事態になるのではないだろうか。おそらく、恋人は全く気にしないであろうが――それは阻止しなければならない。

(とにかく、こいつを突き止めて話しをつけるしかない。……それまではリヴァイさんには会わないようにしないと)

 そう決意したエレンは恋人にしばらく会えないというメールを送ったのだった。



 予想はしていたが、しばらく会えません、と告げた恋人の反応は大きかった。何とか会えない理由をつけて誤魔化しているが、余り長引けば怪しんでこちらに会いにきてしまうかもしれない。そうなったら、わざわざ会うのを控えている意味がない。

(それまでに何とか犯人を突き止めないと……どうすりゃいいんだ)

 向こうから接触してこないとどうしようもない。なら、相手が接触しやすい状況を意図的に作るというのはどうだろうか。

(なるべく夜遅くまで出歩いて帰る、とか。一人で行動するとか、人気のない道を選んで歩く、とかか?)

 そう考えたエレンはその通りに行動してみたが、やはり、相手からの接触はなかった。向こうも用心して近付いてこないのかもしれない――相手は自分の観察をしているようだし、急に行動パターンを変えたから逆に警戒しているのかもしれない。
 時間だけが無為に過ぎて行き、エレンは焦っていた。早く解決しなければ、周りに被害が及ぶかもしれないのだ。この頃になると、送られてくる写真に何か必ずメッセージがつけられてくるようになっていた。友人達と一緒の写真に「仲がいいの?楽しそうだね」とか、「どうして他の人にも笑うの?」や「お菓子美味しそう。他の人にあげるなんて酷い」などの独占欲めいた言葉に、相手の意識が周りにも向き始めるのは時間の問題な気がした。
 どうにかして接触しないと――そう考えたエレンはあることを思い付き、それを実行することにした。


 確実につけられている――そう、エレンは確信していた。このまま振り返って声をかけてもいいが、人気のあるところでは逃げられるかもしれない。エレンは人が滅多に入ってこない路地裏に進み、ようやく振り返った。

「出て来いよ」

 意を決したようにエレンが声をかけると、相手はゆっくりとその姿を現した。
 そして、その姿を見て、エレンはぽかんと口を開けてしまった。

「何で、お前?」

 思わず漏れたのはそんな言葉だった。現れたのはあの例の男性客――クリスタに付き纏っていたらしい男だったのだ。あの後、来店してこなくなったが、要注意人物として覚えておこうとしていたし、男の自分にまで手を握ってきたのが強烈だったから、その顔は忘れていない。その男が何故現れたのか――てっきり、男の自分のストーカーなのだから女性が相手なのだと思っていた。

(イヤ、こいつは別件なのかもしれねぇし……クリスタに会わせろとか言う気なのかも。勿論、そんな話には応じねぇが)

 あるいはエレンのストーカーの女に頼まれた、ということも考えられる。ネットで知り合ったストーカー同士が取引してお互いの相手に嫌がらせをしたというケースがあったと確かニュースで見た覚えがある。

「君が会いたいって言うから……」

 男はぼそぼそとした声でそう言うと、懐から紙を取り出した。

「それは――じゃあ、やっぱりあんたなのか」

 ストーカーの正体を掴みたかったエレンは、相手に接触する方法を思い付いた。いつ自宅のポストに投函していくのか知らないが、相手はエレンの家に直接封筒を持ってきているのだ。なら、必ずポストは見るはず――なので、エレンは一言「二人きりで話をつけたい」と紙に書いて、朝出かける前にポストに挟んでいったのだ。向こうがそれに乗って来るかは賭けだったが、ストーカーをするぐらいなのだから、必ず手に取って目を通すことはするだろうとは思っていた。だが。

(オレは会いたいなんて書いてねぇ!)

 確かに話をつけるために接触をしたいとは思っていたから、会いたいということになるのかもしれないが、男の言っているのとはニュアンスが違うだろう。あくまでも、こちらは男の行為が迷惑であり、関わりたくないことを判らせるつもりで会う機会が欲しかったのだ。
 だが、男はそんなエレンの心情には全く気付いていないようで、熱のこもった視線をエレンに向けた。

「やっぱり、あの子じゃなくて、君が天使だったんだ!」
「は?」
「だって、手を握ったとき、笑ってくれたじゃないか! 皆、嫌そうな顔したり、驚いたり、困った顔をするのに。初めてのときには特にそうなのに、君は笑いかけてくれた」
「…………」

 いや、それは事前に聞いていたから驚きが少なかったのであって、更に言うなら客相手にあからさまに嫌がる態度は取れないだろう。むしろ、対抗心というか嫌悪感でいっぱいだったというのが本音だ。クリスタはおそらくは困った顔をしただろうから、ここは笑顔で対応した自分に乗り換えた、という解釈が正しいのだろうか。クリスタに対する執着がなくなったのは良かったが、何故、男の自分に乗り換えるのだ。そこに普通は性別が考慮されるはずではないのだろうか。いや、そもそもいきなり手を握っても嫌がらずに笑ってくれる相手が天使だという発想自体が理解出来ない。

「あの笑顔を見て、君が僕の天使だと確信したんだ。折角見つけた天使を傷付けないために、ずっと見守ろうと決めたんだ。変な害虫がいたら駆除しなきゃいけないし……朝から晩まで君を見守っていたんだよ。まだ会うには早いと思ってたんだけど、君の方から手を差し伸べてくれるなんて、やっぱり君は運命の人だったんだ!」

 いったい、いつまでこの男の勘違いに塗れた独りよがりの痛い話を聞いていなければならないのだろうか、とエレンが思っていると、次に男は聞き捨てならない言葉を続けた。

「僕のところへ来てくれたら、君をあんな店なんかで働かせないよ。ずっと、僕の家にいて――」
「オイ、今、お前何て言った……?」

 エレンの口から普段よりも何オクターブも低い声が出て、相手の男は戸惑ったような表情をした。

「あんな店って、カフェ・グリーンリーフのことか?」
「え? 君のバイト先のことだけど……個人でやってる大して大きくもない店でバイトなんかしなくても――時給だってそんなに出してもらってないんじゃないの? あんな店で働かなくったって不自由はさせないよ」

 その言葉にぷちんと、エレンは切れた。

「……ふざけんな! あの店はな、オレにとっては目標の最高のケーキ店だ! ハンネスさんのケーキはな、食べる人を幸せにしてくれる最高の品なんだよ! お前だって食べたことあるなら、少しくらいは判るだろ!」
「ないよ」
「は?」
「僕は甘いものなんか全然好きじゃないから。あの子――君の前に天使かと思ってた子だけど、彼女に会いに行くために買ってただけで、全部人にあげてたから。配り切れない分はさっさと処分しちゃったし」

 次々とエレンの地雷を踏んでいってることに男は気付かずに言葉を続ける。

「何で怒ってるの? 売上に貢献してあげてたんだからいいじゃないか。買ったものを食べようが、捨てようが、買った人の自由でしょ? だいたい、あんな商店街の中にあるような店じゃ味なんてたかがしれて――」
「……そうだな、判った」

 そう言ってエレンはくるりと踵を返した。

「お前がオレにとって最低最悪の人間だというのがよく判った。――口も利きたくねぇよ」

 怒りというものは通り過ぎると却って冷えていくらしい。エレンはもうこの男とは話すどころか同じ空間にすらいたくなかった。

「……何で、天使がそんなことを言うの? そうだ、害虫がいたからいけないんだね。取り除いて、僕が守ってあげるよ」

 不意に背後から近付く気配がして、エレンは咄嗟に身を翻していた。バチリ、という衝撃音がしたので視線を走らせると、男が手にしているものが目に入った。

「仕方ないから、天使をうちに連れて帰ってから害虫を処分しに行くよ」
「お前、それ、犯罪だろうが……!」

 男が手にしていたのはスタンガンだった。サスペンスドラマや漫画などで出てくるのを目にしたことはあるが、実際に持っているものを見たことはなかった。あれを食らえば死ぬことはないにしても気絶くらいはしてしまうかもしれない。そして、この危ない頭を持った男の前で気絶したら最後、何をされるか判らない。
 エレンは相手は女性だと思っていたし、まさかいきなりスタンガンを出してくるなんて思ってもいなかったから、武器になるようなものは携帯してこなかった。認識が甘かったといえばそうなるが、普通に暮らしていてスタンガンを持ち出してくる相手と対峙することになるなんて誰も思わないだろう。

(どうする? ここはどうにかして逃げた方が――)

 男はスタンガンを構えながら、じりじりとエレンに近寄って来る。背中が壁に当たり、逃げ場がもうない――そう思ったとき。

「大人しくしてくれれば危害なんて加えないよ。君は僕の天使なんだから」
「エレンが天使なのは同意するが、お前のものじゃねぇよ」

 どかっという音がして、目の前から男が吹き飛んでいた。代わりに視界に飛び込んできた姿にエレンは両の眼を瞠った。それは、ここには現れるはずがない人のものだったからだ。

「リ、リヴァイさん!? 何で、ここに……」
「エレン、怪我はないか?」
「何ともありません。それより、今仕事じゃ……」
「お前の一大事に仕事をしてられるか。無事で良かった、エレン」

 そう言って、リヴァイは優しくエレンの頬を撫ぜて、吹っ飛ばされて倒れている男の方へと視線を向けた。

「後はこいつの始末だな」

 低い声でそう言う恋人に始末ってどうする気ですか、と問いかけたかったが、それは別の声に遮られた。

「ああ、大丈夫だよ、エレン。いくら何でも命までとろうとか考えていないから」
「え……何で、お前までいるんだよ? アルミン!」

 突如、現れた幼馴染みは少年に向かってにっこりと笑った。

「ただ、エレンを怖い目に遭わせたことはたっぷり反省と後悔をしてもらわないと。実際に死ぬよりも社会的に抹殺をされる方が辛いってことを身を以って知るのもいい経験になるよね」
「いやいやいや、いい経験にはならないから! 何、怖いこと言ってるんだよ!」
「大丈夫、エレンにはもう近付かせないから。……永遠にね」
「イヤ、近付いて欲しくないのは確かだけど! ちょっ、リヴァイさん、その人どこ連れて行くんですか!?」

 どうやら蹴り飛ばされて気絶したらしい男を引き摺っていく恋人に声をかけると、リヴァイはあっさりと告げた。

「勿論、始末しやすい場所にだ」

 だから、始末って何、というエレンの心の叫びは届かず男はリヴァイに引き摺られていったのだった。

「で、エレン? 僕、言ったよね? 何かあったら話してくれって」
「それは……」
「まあ、詳しい話は三人でしようか」
「そうだな。俺のマンションに行こうか」

 男をどこにやったのか、戻って来たリヴァイがアルミンの後に続ける。

「まあ、取りあえず」
「お前にはお仕置きだな」

 にっこりと笑う二人に、仲悪かったんじゃないのかよ、何でこんなときだけタッグを組むんだと内心で叫びながら、エレンはダラダラと冷や汗を流したのだった。




 リヴァイのマンションのリビングでソファーに座る二人の前でエレンは正座させられていた。ここに連れてこられてからもう小一時間、事情を説明させられたエレンは二人から延々と説教を受けていた。

「大体、お前は無自覚すぎる。男は全員狼だと思え」
「そうだよ。後、エレンは無鉄砲すぎ。ほうれんそうが大事だって習わなかった?」
「イヤ、それって社会人になってからの仕事のあれだろ?」

 報告、連絡、相談、という言葉を頭に浮かべ、そういえば防災訓練のときはおかしを守るように言われたっけ、などとこの状況から逃れたいばかりにエレンは思考を現実逃避させていた。

「エレン、何か文句でも?」
「いえ、ありません。すみません」

 にっこりと笑う幼馴染みに反論は出来ないエレンだった。確かに誰にも相談せずに一人でストーカーに会いに行くというのは無謀だったと今では思う。相手が凶器を持っている場合や、逆上して襲いかかって来る可能性も考えずに無策だった自分は本当に浅慮だった。リヴァイ達が来なかったらどこかに連れ去られていたかもしれないのだ。
 あの男はどうしたのか、と訊いたら一緒に来ていたハンジとその部下に預けて来たのだという。金輪際関わらせないと誓わせて、むしろ、絶対に近付きたくないと思うような処理をするから安心しろ、と笑顔で言われたが、具体的に何をするのかは怖くて訊けなかった。

「それにしても、どうしてオレの居場所が判ったんですか? えーと、GPSとかですか?」

 よく、ドラマなどに携帯電話のGPS機能を使って所在地を割り出すというのがあったが、そういうものを利用したのだろうか。あそこまでタイミング良く現れたのだから、偶然ではなく居場所を突き止めてやって来たのに違いないだろう。
 エレンの問いにはアルミンが答えた。

「ううん。GPSじゃないよ。GPS機能はオフにされたらもう終わりだろ。だから、発信機を使ったんだ」
「………は?」

 意味がすぐには飲み込めず、目を瞬かせる幼馴染みにアルミンは苦笑を浮かべて、エレンには悪いと思ったんだけど、とことの経緯を話し出した。
 リヴァイとアルミンはエレンの様子がおかしいことにすぐに気が付いていた。だが、エレンは話さないと決めたことは話すタイプではなかったし、彼の方から話してくれるまで待とうという心積もりだったのだ、当初は。しかし、エレンが話す気配は全くなく、その様子はどんどん沈んでいき、二人はこれは只事ではないと感じるようになった。
 アルミンは学校での周囲に気を配ったが、特に問題があるようには思えず、リヴァイの方も自分の周囲で何か問題が起きているようには思えなかった。
 そこで行き着いたのが二人の守備範囲外であるエレンのアルバイト先だ。アルミンはエレンの友人として店に行ったことがあるので顔を知られていたし、リヴァイの方も恋人だということは伏せてあったが、エレンと親しくしていることはエレンの口から店の者に伝わっていたので、店のスタッフへの訊き込みは思っていたよりもすんなりといった。彼らもどこかエレンが元気ないように感じていたらしく、その原因は判らなかったが、ここで気になる情報を得たのだ。
 店の販売スタッフが変な客に付き纏われて困っていたという――そちらの客はもう姿を見せなくなってほぼ解決したような話だったが、他にも似たような客がいて、エレンに目を付けたとしたら――。
 勿論、あくまでも仮定の話ではあるが、そうなった場合、きっとエレンは周りに迷惑をかけることを心配して一人で解決しようとするだろう、と。このところ、様子がおかしいのもそのせいだと考えれば頷ける。

「で、調べてみたわけ。その辺はこの人の財力がものをいったんだけど。確かに財力だけ無駄にあるからね、この人」
「……『だけ』と『無駄』は余計だ。そういう台詞を吐くのは自分で稼いでからにしろ」
「判ってますよ、僕だけじゃどうにもならなかったでしょうから――そこは感謝しています」

 少年の周りに本当にストーカーはいるのか――調べた結果、彼の周りをうろつく男の存在を突き止めた。まだ特に目立って異常な行動には及んでいないものの、ストーカー行為というのは徐々にエスカレートしていくものだ。エレンはまだ話す気はないように思えたし、彼が話してくれるまでに何かが起きないとも限らない。そこで、何かあったときのために発信機をこっそりとつけることにしたのだ。

「ちなみにつけたのは僕だから。今回のみの緊急処置だからすぐに外すよ。どっかの誰かさんはつけたままにしておきたいかもしれないけど」
「そこまで束縛する気はねぇよ。あの変態ストーカーと一緒にするな。……お前、俺のこと何だと思ってるんだ」
「イヤ、普段の言動見てれば、それが物語っているとしか……」

 ムッとした顔の男にアルミンは肩を竦めて、じゃあ、僕はそろそろ帰るよ、と二人に告げた。

「エレンもちゃんと反省してくれたみたいだし。……僕がいたら話せないこともあるだろうから」

 ちょっと、寂しそうな顔を一瞬だけ見せたアルミンは軽く手を振って出て行った。


 アルミンが男のマンションから辞去すると、男はエレンをソファーの上に引き上げてぎゅうっと抱き締めた。

「本当に無事で良かった、エレン……」
「リヴァイさん……ごめんなさい」

 謝罪するエレンにリヴァイは首を横に振った。

「無事だったからもういい。お前も反省したし、これからはきちんと相談してくれれば。それより、着くのが遅くなって悪かった――怖かっただろう」

 リヴァイの言葉にエレンはあのときの状況を思い浮かべて首を振った。

「怖かったというか、あのときは怒り過ぎていて、もうそれで頭がいっぱいになってたというか……」

 あの男の発言はどうしてもエレンには許せないものだった。

「――リヴァイさん、オレ、パティシエになりたいって前に話しましたよね」
「ああ」
「美味しいものを食べると、すごく幸せな気分になるじゃないですか。自分で食べるのも、勿論、作るのも大好きですけど――自分の作った菓子を食べてもらって美味しいって笑って幸せな気分になってもらえたら、それだけで本当に嬉しいんです。また美味しいものを作ろうって、頑張ろうって気になるんです」
「ああ」
「……カフェ・グリーンリーフのパティシエは、ハンネスさんもアニも他の皆も凄く努力しているんです。美味しいものを作ろうって、毎日心をこめて一生懸命作ってるんです。他にも味の勉強や開発や色々していて――それが当たり前だって言われればおしまいですけど、食べてくれるお客さんのことを考えて一つ一つ作ってるんです」
「エレン」
「――それを、食べもしないで大した味じゃないって決めつけて、捨てるなんて……っ! すごく、すごく、悔しかった。ハンネスさんがどんだけ努力して今の味に辿り着いたか知らないくせに――アニ達は少しでも腕を磨こうと遅くまで残って練習してるのに。皆で頑張って作ってる、あんなに最高のケーキ、せめて、食べてから言えよ……っ!」

 ぼろぼろと涙が零れた。ハンネスの店を馬鹿にされたのが悔しいのか、スタンガンで襲われかけたのが怖かったのか、それから解放されて安堵したのか、あるいはそのどれもなのか、もう感情がぐちゃぐちゃで判らなかった。
 ただ、しがみ付いて泣き続ける恋人を抱き締め、リヴァイは宥めるようにその頭を撫ぜていた。




 数日後――。

「リヴァイさん、出来ましたよ」
「……判った」

 エレンの言葉に男は仏頂面で返した。拗ねたような顔をする恋人にエレンは笑ってしまう。

「リヴァイさんの分もちゃんとありますよ?」
「当たり前だ」

 美味しそうな出来栄えのショコラプリンを前に男はやはり仏頂面だ。
 恋人からハンジ達があのストーカー男を捕まえるのに協力してくれたという話を聞いて、差し入れにとショコラプリンを作ってみたのだが、男はそれが気に入らないらしい。エレンは学校でお菓子を作ってはアルミンや男友達に渡しているので今更だと思うのだが、話に聞くのと自分の手で渡さなければならないのでは全く違うらしい。
 恋人の手製の菓子が美味しいと評価されるのは嬉しいらしいが、自分以外に手作りのものが食べられるのに嫉妬心が湧いてしまうという複雑な心境になるらしい。

「リヴァイさんには他にもケーキを用意しますから」

 その言葉に機嫌を上昇させた様子の恋人にエレンはくすくすと笑った。

「ねぇ、リヴァイさん、オレ、やっぱりパティシエになりたいです。目標の腕になれるまでどれくらいかかるか判りませんけど、たくさんの人にオレの作ったケーキを食べてもらって美味しいって笑ってもらいたいです」
「そうか」
「……だから、やっぱり、これからもずっと、たくさんの人にオレのお菓子を食べてもらうことになります」

 より多くの人に食べてもらいたいというのは変わらないだろう。そう告げると、男は諦めたように息を吐いて苦笑を浮かべた。

「……お前の作る菓子の一番のファンの座は譲れないからな。あのクソガキにもだ」

 恋人の幼馴染みにも他の誰にも譲れない、自分が一番だと主張する男の遠回しな了解に、エレンは瞳を瞬かせた後、嬉しそうに笑った。





《完》




2014.3.30up



 ぺっぱーみんと様からのリク。リヴァエレの現パロ話で、ストーカー被害にあいつつも迷惑をかけたくない一心で周囲にもひた隠しにした挙句ピンチに陥っちゃうエレンくんと、そんなエレンの異変に気づいて颯爽&激おこぷんぷん状態で助けにくるリヴァイさん+アルミン。既存の設定内であればショコラの世界観希望。一件落着後に諸々を隠していたことを二人がかりで説教された後で、泣きながらリヴァイさんにあやされるエレンくんhshsアルミン進化の黒ミン真骨頂に萌えます燃えます!無論リヴァイさん=現パロでも人類最強♪の無双行動にも全期待!
 …というリクエストだったのですが、ご期待に沿えているでしょうか?(汗)世界観は新しく作ると説明だけで長くなりそうだったので「ショコラ」設定を使わせて頂きました。あ、最後にアルミンが出ていったのはアルミンの前ではエレンは泣かないからです。基本的にうちのエレンは兵長の前でしか泣かない気がします。
 リクエストをくださったぺっぱーみんと様、ありがとうございました。少しでも楽しめるものになっていましたら幸いです。




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