―――いつも、その日はひとりだった。


「和希様、奥様からの贈り物ですよ」

 家政婦から手渡されたそれを笑顔で受取って、和希は短く礼を言った。その後、今日はお祝いですから、いつもとは違ったお食事にしましょうね、と告げる家政婦に和希は曖昧に笑って頷いた。毎年繰り返される同じ遣り取りに些か辟易している。気を使ってくれなくてもいいのに―――と、思うのは贅沢な話だろうか。
 手渡されたプレゼントに添えられたカードを手に取る。文面は多少変わっていても、内容は殆ど同じだ。今日の日への祝辞と、自分に対する愛情の言葉と、一緒にいられないことへの詫び。繰り返されるそれらに和希は一つ息を吐いて、カードを元に戻した。
 別に気にする事ではないと思う。今日という日はたかだか365日の中の一日にしかすぎず、特別な訳ではない。忙しい両親がわざわざ時間を割いて自分といようと努力するまでの事ではない。
 和希にとって『誕生日』というのは、そんな風に区分けされるものだった。





いつか見た空






 和希は困っていた。目の前で完全に拗ねてしまっている様子の子供をどうすればいいのか判らなかった。

「えーと、啓太。そんなに気にしなくてもいいと思うんだけどな」
「…………」
「俺だって、啓太の誕生日祝ってないんだし」
「…………」

 和希が言ってみても、啓太はむうっと眉を寄せたままで、和希は小さく肩を竦めた。
 いったいぜんたい、どうしてこんな事になったのか―――何が切っ掛けだったのかはっきりとは覚えてないのだが、確か啓太の新しい兄妹の話をしていて、話題が誕生日になったのだと思う。それから誕生日を訊かれて――啓太は五月五日が自分の誕生日だと言っていたが、啓太らしい日だと和希は思った――、それに答えたところ、啓太が今のように拗ねてしまったのだ。啓太曰く、お祝いしたかったのだと。

「…………」

 和希にしてみれば、啓太がどうしてそこまで残念がるのか判らない。誕生日など、一年経てば嫌でも巡ってくるものだ。初夏という今の季節、六月の和希の誕生日が再び巡ってくるのは先過ぎる話だが、そこまで気落ちする程の事ではないと思う。
 だが、啓太にそう言ってみたところで、この小さな子供は納得はしてくれないだろう。さて、どうしようか―――指を口に押し当てて、考え込む仕種をした和希は不意に思い付いて啓太に声をかけた。

「じゃあ、啓太、明日、一緒に誕生日を祝おうか」

 和希の言葉に啓太は大きな目をぱちぱちと瞬かせて、和希を見上げた。

「お誕生日祝い……?」
「そう。啓太と俺の誕生日を一緒に祝おう?」
「……でも、僕の誕生日、もう終わったよ?」

 当惑したような顔の啓太の頭を撫ぜて、それを言うなら俺のだって過ぎちゃったよ、と和希は笑った。

「俺が啓太のお祝いしたいんだよ。啓太は俺の誕生日をお祝いしたくない?」

 和希の言葉に、啓太はぶんぶんと首を横に振った。

「する! カズ兄のお祝いするー!」

 そう元気よく返事して、啓太は和希に抱き着いた。先程までの気落ちなど吹き飛んでしまった様子の子供に、和希はくすくすと笑った。

「? カズ兄? どうしたの?」

 きょとんとした顔の啓太に和希は何でもないよと笑った。

「啓太はあったかいなぁって思って」
「?」

 柔らかくて、あたたかくて、優しい生き物。いつだって啓太は柔らかい部分を優しく撫ぜていって、人をあたたかくさせる。この無邪気な子供は全く意識していないのだろうけれど。
 不思議そうな顔のまま見上げてくる啓太の頭を和希は撫ぜて、また小さく笑った。




 翌日、啓太は待ち切れないと言わんばかりの顔をして、待ち合わせの場所に現れた。

「カズ兄ー!」

 駆け寄ってくる啓太に余り走ると転ぶから、と窘めてもはしゃぐ子供には通じないらしい。和希は苦笑して、啓太の手を引いた。

「カズ兄、これ、おばあちゃんから。お昼に食べてってー」

 渡された包みに入っていたのは、ちらし寿司だった。素朴な手料理は啓太の家のあたたかさを思わせて、和希は自然に微笑んでいた。
 お昼は啓太の祖母からの差し入れと家政婦の作った料理を食べ、その後、二人してケーキを作った。
 作ったとはいえ、スポンジから焼いた、という訳ではない。予め用意してもらったスポンジに、生クリームやフルーツなどを飾り付けただけの話だ。市販されているケーキを買ってきてもらうのが簡単で手っ取り早く、家政婦の手も煩わせないで済むとは思ったのだが、啓太なら自分で飾り付けする方が喜ぶと思ったのだ。
 案の定、頬に生クリームをつけながら苺をつまみ食いする啓太は楽しそうで、和希もまた楽しそうに笑った。
 そうして出来たケーキを食べて、その後はいつものように遊んだ。

「ねえ、カズ兄、一緒に来て」

 しばらく、遊んだ後に、啓太がそう言って和希の服の裾を引いた。

「? どこに行きたいの? 啓太」

 時刻はそろそろ夕方になろうとしている。帰るにはまだ時間があるが、これから遊びに出るには遅い時間だ。今日の趣旨は伝えてあるから、多少遅くなってもお誕生日という事でお咎めはないかもしれない。だが、かといって遅くまで出歩かせるのはどうかと思えた。

「どうしても、行きたいとこがあるの。お願い、カズ兄」

 啓太はどこへ行くとは具体的には言わなかった。ただ、和希の服を引っぱって歩くのを促し続ける。
 必死な顔で見上げてくる啓太に和希は折れた。―――今日は誕生日祝いなのだから。

「判った。一緒に行くよ」

 和希の言葉に啓太は嬉しそうに微笑んで、勢いよく歩き出した。




 啓太が和希を連れてきたのは、和希の祖父の家から少し歩いたところにある、小高い丘のような場所だった。一番高いところに立つと、周りの景色が一望出来る。開けた視界に飛び込んでくるのは、美しい緑。そして、それを包む空。折しも夕暮れ刻で、青から茜色へと空は美しい変化を和希達に見せ始めていた。

「この場所、おじいちゃんに教えてもらったの。すっごくきれいだから、カズ兄と見たかったんだー」

 祖父と見た夕暮れ空が余りにも綺麗だったから、和希にも見せたかったのだと啓太は笑った。
 美しい夕焼けが啓太の横顔を照らす。自らも茜色に染まりながら、和希はただ綺麗だと思った。
 ―――こんな風に、いつも啓太に教えられる。空の美しさも、日の暖かさも、草花の香りも、ただそこにあっただけのものが、啓太に教えられて意味を持つものになった。

「お誕生日おめでとう、カズ兄!」

 その言葉に弾かれたように和希は啓太を見た。朱色に染まった啓太が笑う。

「うんとねー、カズ兄、いつも遊んでくれてありがとう。ご本読んでくれてありがとう。いろんなお話してくれてありがとう。えーと、後は……とにかく、いっぱいいっぱいありがとう!」

 突然の礼の言葉に、和希は戸惑った視線を啓太に送った。この場合、礼を言うのは自分の方ではないのだろうか。確かに今日は二人の誕生日祝いという趣旨ではあるのだが、こんな綺麗な空を見せてくれた啓太に礼を言うのが筋だと思う。

「あのね、お誕生日はね、ありがとうって言う日なんだって。おじいちゃんが言ってたの」

 和希の戸惑いの視線に気付いたのか定かではないが、啓太は礼の意味を和希に伝えた。
 祖父から聞かされた誕生日にまつわる話。誕生日を迎える者も、それを祝う者も、感謝の言葉を述べる日だと。日頃の想いを感謝の言葉にのせて相手に伝える日なのだと。

「大切な人の一生に一度しかない大事な日だからって」
「……誕生日はまた来年だってくるよ、啓太」

 和希の言葉に啓太は首を横に振った。

「んーとね、その年のお誕生日はその年だけだからって、言ってたよ」

 毎年やってくる誕生日。でも、一歳なら一歳、十歳なら十歳、その年の誕生日は一生に一度しかない―――啓太の祖父はそう言いたいのだろう。
 だから、毎年祝うのだと。

「あ、えーと、そうだ!」

 ふと、何かを思い出したように、啓太はぽんと手を打った。おじいちゃんが言ってた言葉、言わなくちゃ、と続ける。

「えーと、カズ兄、『生まれてきてくれて、ありがとう』」
「…………!」

 カズ兄、大好き、と続ける啓太を和希は引き寄せて抱き締めた。

「カズ兄?」
「…………」


『お誕生日おめでとう。私達の子に生まれてきてくれてありがとう』


 ―――意味のない言葉。毎年綴られる、同じような言葉の繰り返し。
 ……意味のない言葉のはずだったのに。
 こんな風に柔らかい場所を撫ぜて、いつだってこの小さな手は気付かせる。


「どうしたの? どっか痛いの?」

 突然の和希の行動に啓太は心配そうに手を伸ばした。どこが痛いのか判らないながらも手で摩り、痛いの痛いのとんでけ、と、おそらくは母親から教えてもらった呪文を繰り返す。

「……お礼を言うのは俺の方だよ、啓太」
「?」
「ありがとう、啓太」

 この世界に生まれてきてくれて。自分と出逢ってくれて。
 ―――ただただ、感謝する。この優しい存在を生み出してくれたものに。心からの感謝を。

「カズ兄、だいじょぶ? もう痛くない?」

 まだ心配そうに訊いてくる啓太を抱き締める腕をゆるめて笑うと、和希はその頭を撫ぜた。安心させるように大丈夫だと力強く伝える。

「そろそろ帰ろうか、啓太。お家の人が心配しているといけないから」

 促すように手を差し出すと、啓太はその手を握った。

「………ありがとう、啓太」

 和希は再び啓太に礼を言った。聞こえないくらいの小さな声で。
 いつか、この出来事が遠い想い出になって、記憶の彼方に押しやられても。
 きっと、この日見た空の美しさは忘れない。そう、思った。









 ひっそりと静まり返った廊下を、和希は音を立てないように慎重に歩いていた。時刻はもうすぐ日付が変わろうかという頃。こんな時刻に寮の廊下を歩いているところを篠宮にでも見つかったら、延々と説教されるのが目に見えている。何しろ『門限破りの常習犯』という有り難くないレッテルを貼られている自分だ、これ幸いとばかりに注意されるだろう。
 和希とて、好きで門限を破っている訳ではないのだ。理事長でありながら、学生として学園に通う和希は使える時間はフルに使わねばならず、放課後や休日、些細な時間にしわ寄せがやってくる。―――そう、真実を言う事が出来ればいいのだけれど。

(啓太はもう寝たかな)

 無性に恋人の顔が見たくなった和希は啓太が眠っているであろう、彼の部屋へと足を向けた。
 果たして―――恋人は自室にはいなかった。

(いない……? どうして)

 いったいどこへ―――自分と違って無断外泊や門限破りなどする理由も必要性もない恋人がどこに行ったのか、考えを巡らせて答えに辿り着いた和希はすぐにそこへ足を向けた。

「………いた」

 予想通りの場所に愛しい恋人はいた―――和希の部屋のベッドの脇に座り込み、ちょこんと頭をベッドに凭れさせるようにして。瞼の閉じられたその顔は安らかで、年齢よりも少年を幼く見せていた。和希の帰りを待っているうちに寝入ってしまった―――そんなところだろうか。
 さて、どうしようか、と和希は啓太の愛らしい寝顔を見ながら思案した。起こすのは可哀相だし、このまま寝かせておいてあげたいが、啓太の部屋まで起こさずに運ぶには無理がある。
 ならば、せめてベッドの上に運ぼう、と和希が啓太の肩に手をかけたとき。

「………んぅ……」

 まるでタイミングを見計らったかのように、啓太が声を上げ、うっすらとその瞳を開けた。

「……ん…和希?」
「ごめん、啓太。起こしちゃったか?」

 和希の言葉に啓太はゆるゆると首を横に振った。

「おかえり、和希。……良かった、ここで待ってれば、絶対に逢えるって思ったから」

 まだ眠いのか目を擦りながら啓太はそう呟くように告げると、視線を時計へと走らせた。そして、時刻を確認した後、和希へと向き直った。

「時間過ぎた。よし」
「?」
「お誕生日、おめでとう、和希!」

 突然の言葉に和希は眼を見開いて、次いで、啓太がここで待っていた理由を悟った。日付の変わった本日は和希の誕生日で、啓太はこれを言うために和希の部屋で待っていたのだろう。

「こんな遅くまで待ってなくても、明日で良かったのに」

 嬉しい反面、待ちくたびれて転寝する程待たせてしまった事を思って和希がそう言うと、啓太はそれじゃあ嫌だったんだ、と拗ねたように唇を尖らせた。

「ちゃんと和希と逢って言いたかったんだ。……そりゃ、出張とかで離れてるんなら仕方ないけど」

 そう言って、えへへと啓太は笑った。

「でも、良かった。一番最初に和希におめでとうって言えた」
「……………」

 どうしても、一番最初に祝いたかったのだと、啓太ははにかむように笑った。相も変わらず可愛い事を言う恋人に理性がぐらぐらするのを感じながら、和希はありがとう、と返した。

「ありがとうは俺も。いつもありがとう、和希。あのね、誕生日はお互いに感謝の言葉を伝える日なんだよ」

 そう言って笑う。その顔は昔と変わらない。―――きっと、一生変わらないのだろう、と思う。勿論、身体的、精神的に成長している啓太はこれから先も成長し続けるだろうが、根本的な部分はきっと変わることなく彼の中にある。きらきらした、とても美しく優しいもの。

「プレゼントは一応用意してあるんだけど、他に欲しいものない? 和希、いっつも、啓太のくれるものなら何でも嬉しいとか言うけど、何かあったら、言ってね?」

 真剣に言われて、和希は困ったように頬を掻いた。啓太に言った事はまぎれもなく本音なのだが、贈り物をする方としては『何でもいい』は一番困る返答だろう。今回もきっと啓太は頭を悩ませたに違いない。彼が自分のために悩み、喜ばせようと考えてくれたと思うと、自然に顔がにやけてくるが、啓太に見つめられて和希は顔を引き締めた。ここできちんと答えなければ、啓太は拗ねてしまいそうだ。
 欲しいもの、もしくは、して欲しいこと。と、言うと――――。

「…………の家」
「え?」
「……啓太のおじいちゃん家。俺の祖父の家があった田舎、一度、啓太と一緒に行きたい」

 突然の和希の申し出に、啓太は戸惑いつつも頷いた。

「でも、本当にそれでいいの?」
「ああ」

 まだ幼かった啓太はきっとあの頃の風景など殆ど覚えていないだろう。何年も昔の風景を和希自身も詳細に覚えているかと問われると自信がない。都市開発などで風景自体が変わっているかもしれない。
 それでも。
 あの日見た空は本当のことだから。

「いつか。いつでもいい、時間の空いた時でいいから。一緒に行こう」
「うん」

 頷く啓太に和希は嬉しそうに笑った。約束を交わせる喜び。それも彼がくれたもの。

「うん、それじゃあ、啓太」
「? 何?」

 にっこり笑いながら、和希は啓太をベッドに倒した。

「誕生日プレゼント、もらおうかな」

 言いつつ、我ながらベタすぎる台詞だと苦笑する。啓太にオヤジ臭いと言われてしまいそうな台詞ではあるが、これも先程から可愛いことばかりする啓太が悪いのだと和希は責任転嫁することに決めた。―――だって、誕生日なのだから。このくらいは許されていいはずだ。
 抱き締めるとそっと背に回される手が嬉しい。愛しむように口付けを落とすと、啓太は小さく和希に囁いた。

「うん。ありがとう、啓太」





 ―――お誕生日おめでとう。そして、生まれてきてくれてありがとう。





END




(08/8/12up)





 6月から書き始めたのに途中放置して8月に出来上がりました←ダメダメ。相変わらずベタベタな話です(汗)。
 どういう訳か、結城の話はちびっこ率が高いような……。





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