今でも耳に残る優しい歌―――。




優しい歌






 こくり、こくりと揺れる小さな頭を見て、和希は口元に微かな笑みを浮かべた。

「啓太、眠い?」

 和希の問いに啓太はふるふると頭を振って答えたが、その頭はやはり規則的な上下運動を繰り返していて、今にもその場に突っ伏してしまいそうだ。

「啓太、お昼寝しようか? さっきおやつ食べてお腹がいっぱいになったから、眠くなったんだろ?」

 倒れこまないように優しく支えてやりながら言う和希に、啓太はいやいやして唇を尖らせる。

「んーん、カズ兄と遊ぶの…」

 眠気と遊びたい二つの欲求の葛藤の末、勝ったのは遊びたい方だったようだが、幼い身体の方は本人の意思に反して睡眠を要求しているようだ。ご本もっと読んで、と訴える啓太の声は明らかに眠気を含んでいるし、眠たくてぐずる幼児の様相を呈している。
 和希は小さく笑うと、なだめるように啓太を抱き締めて、その背中をぽんぽんと叩いてやった。規則的な震動が眠りを誘うのか、更に啓太は眠そうに和希に身体を預けた。

「啓太、お昼寝しよう? 啓太が眠るまでお話聞かせてあげるから」
「やー、眠くないもん……」
「俺が眠いんだよ。一緒にお昼寝しよう? 啓太は俺と一緒に眠るのは嫌?」

 和希の言葉に、啓太はまたふるふると頭を横に振った。大好きな大好きな和希と一緒に眠るのが嫌なはずがないのだ。
 啓太の力強い否定に和希は優しく微笑むと、じゃあ、寝ようか、と啓太の手を引いていった。



「カズ兄、お歌歌って」

 突然の要求に、和希は困惑したように眉を寄せた。
 やはり、啓太は眠かったようで、横たえてタオルケットを和希がかけてやるとすぐに瞼がくっつきそうになっていた。これでは話を聞かせる間もないだろう――啓太が起きたら聞かせてあげればいいか、と和希が思いを巡らせたとき。
 歌を歌って、と唐突に言われたのだ。

「お母さんがね、眠るときに歌ってくれるの。カズ兄のお歌、聴きたい」

 それを聞いて、ああ、と和希は納得した。啓太の言っているのはどうやら子守唄のことらしい。おそらく、啓太の母親がお昼寝の際に歌って聴かせていたのだろう。啓太の中では当たり前の習慣なのかもしれない。

(……困ったな)

 和希は困ったように眉尻を下げた――実際に本当に困っていた。別に歌うのは構わない。特に自分が音痴というわけでもないし、人前で歌うのは多少照れくさくもあるが、啓太が望むなら歌うのは構わない。構わないのだが――問題が一つあった。
 和希は、子守唄を知らなかった。

 いや、知っているというのならば知ってはいる。知識として子守唄がどういうものかは判っているし、多少なりとも耳にしたことはあるだろう。だが、歌えるかというとそれはまた別な話で。
 ――和希には母親に子守唄を聴かせてもらったという記憶がない。物心がついたときにはもう母親は仕事で忙しく飛び回っていて、幼い子供に歌を教える時間など残されていなかった。記憶に残らないようなごく幼児期には、あるいはそんなこともあったのかもしれないが……。

 見ると、啓太は眠い目を擦りながら、期待に満ちた眼差しを和希に向けている。
 和希は内心、ううっとなったが、ここは正直に話すしかないだろう。啓太の期待を裏切るのは甚だ不本意なことではあるが、致し方ない。
 和希が申し訳なさそうに知らないという旨を伝えると、啓太はきょとんという顔をした。

「知らないの? カズ兄が?」

 思い切り意外、思いも寄りませんでした、という顔で啓太は和希の顔を凝視した。啓太の中ではカズ兄=何でも知っているという図式が成り立っているらしく、余程意外だったのだろう。カズ兄でも知らないことがあるんだ、としきりに頷いている啓太に和希は少々バツの悪い思いをした。

「あ、それじゃあ、カズ兄。僕がお歌教えてあげるー」

 しばらく何か考え込んでいた啓太が、思いついたように和希に顔を向けてそう言った。名案だ、と言わんばかりにその瞳が輝いている。

「ね、そしたら、カズ兄と一緒にお歌歌えるでしょ。僕、一緒に歌いたい」

 一緒に歌ったら、それは子守唄にはならないのではないか、と和希は思ったが、啓太が余りにも嬉しそうな顔をするので、小さく笑うだけに止めておいた。

「じゃあ、歌うね、カズ兄」

 啓太の小さな口から紡ぎ出された柔らかい歌声が耳に届く。和希も耳にしたことのあるそれはひどく優しくて、和希はそっと目を伏せた―――。





 和希が瞳を開くと、こちらを覗き込んでいる瞳とばっちりとかち合った。和希は何度か瞬きを繰り返して、こちらを覗きこんでいた姿を確認し、ぼそりと呟く。

「……啓太が大きい」

 思わず口から零れた言葉に、啓太は戸惑ったような表情を浮かべた後、むっとしたように唇を尖らせた。

「かーずーき、それって嫌味?」

 高校に入ってから全く成長する気配のない自分の体格を気にしているらしい啓太が拗ねた顔を見せる。その顔が可愛いな、と思うが、言ったらますます機嫌を悪くするのは判っていたので、和希は首を横に振って先の質問を否定するだけに止めた。

「今、昔の夢見てたからさ。目を開けたら啓太がいて、ちょっと混乱した」

 懐かしい夢だった。子守唄を初めて啓太と歌って以来、啓太は昼寝する度に和希に子守唄をねだって、照れくさいようなくすぐったい感情に駆られていた。
 優しい歌に彩られた優しい記憶。

「どんな夢見てたんだ?」

 啓太の質問に和希は口を開きかけて、それから何か思い付いたように、悪戯っぽく笑った。

「啓太がカズ兄大好きーって抱き着いてくる夢」
「…………!」

 真っ赤になった啓太に和希は更に続ける。

「今の啓太は抱き着いてくれないの?」

 からかうような口調の和希に啓太が小さく馬鹿、と抗議して、和希はくすくすと笑った。

「そ、それより、こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ」

 こんなところ―――学園の中庭の一角。丹羽が見たらさぞかし喜んで昼寝しそうな場所だ。そこで転寝してしまった和希が余りにも気持ち良さそうに寝ているので、風邪をひくと起こそうと思った啓太は起こすのを躊躇ってしまい、今の状況に至っているのだ。

「大丈夫。こんなにいい陽気なんだから、少しくらい寝たって風邪なんかひかないよ」

 それより、と言いつつ、和希は啓太の膝を軽く叩いた。

「膝枕して欲しいな」
「…………!」

 駄目か、と甘く囁かれてしまっては啓太に断る術はなく、おずおずと座ったそこへ頭を乗せる。啓太は男の膝枕なんて硬くて気持ち良くないだろ、と言うが、和希にとって啓太のそれはどんな高価な羽根枕よりも心地好いと感じる。
 瞳を閉じると、柔らかい手が髪の毛を撫ぜた。ふわふわの癖っ毛の啓太の髪を撫ぜるのが和希は好きだが、逆に啓太は和希の髪の方がさらさらで気持ちが良いと言う。ぴょこんと跳ねる髪が可愛くって和希はお気に入りなのだが、本人はそれを気にしているようで、朝、セットするの大変なんだよと、唇を尖らせていた。

 不意に小さな声が耳に届いた。微かな、それこそ耳を澄ませなければ聞き取れないような、小声だったけれど、和希の耳はそれを正確に拾い上げた。
 優しい優しい旋律。繰り返し、何度も歌い、聴いた、優しい歌。
 柔らかな手で和希の髪を梳きながら、優しい歌を口ずさみ続ける。
 ―――ああ、と思う。多分、おそらくこういう状態を指すのだろう。―――胸が、詰まる、というのは。
 込み上がる愛しさと切なさが混じった感情。その感情がもたらす衝動のままに、和希はそっと手を伸ばして啓太の頬に触れた。

「和希? 起きてたの?」

 もしや、寝るのを邪魔してしまったか、と少し慌てたように歌うのをやめて、離そうとした啓太の手を、和希は摑んだ。

「―――いいから、続けて。歌って、啓太」

 啓太は困惑した表情を浮かべたものの、和希が望むなら、と再び旋律を紡ぎ出した。柔らかな声が耳をくすぐる。
 和希は微笑みながら、心地好いその歌に聞き入る。何てことのない歌一つでも、啓太の口から紡ぎ出されると、こんなに違って聴こえる。きっと、それはそこに想いが込められているから――。

「啓太」

 何?という啓太の返事は途中で消えた。伸びてきた和希の手が啓太を引き寄せてきて、その唇に触れたからだ。不意打ちの口付けに目を見開く啓太に和希は笑った。
 そのまま伸びをするように身体を起こして立ち上がる。

「続きは部屋に帰ってからな」

 啓太の手を引いて立ち上がらせてやってから耳元で囁く和希に、呆けていた啓太はようやく状況を理解し、耳まで朱に染めた。
 部屋に戻ろう、と手を引く和希に真っ赤になって抗議する。

「か、和希っ!」
「あ、啓太はここでしてもいいの? 続き」

 悪戯っぽく笑う和希に、啓太は更に顔を真っ赤にして、そんな訳ないだろ、と即座に返す。

「なら、部屋ならいい?」
「だから、そういう問題じゃないだろっ」
「啓太はしたくない?」
「…………」

 和希の問いに啓太は困ったように目を泳がせた。ぼそぼそとだからそういう問題じゃ…という言葉も尻すぼみになって消えていく。

「和希はずるい」
「うん」
「……本当、ずるい」
「うん、ごめん」

 ごめん、と言うわりには反省してなさそうな和希に、啓太はむう、と眉を顰めてから、何かを思いついたように小さく笑って、ぐいっと和希を引き寄せた。

「けい……」

 ちゅ、と柔らかなものが頬に触れて、すぐに離れていく。
 驚いて見つめてくる和希に、啓太は照れたように笑ってみせた。

「さっきの仕返し」

 その言葉にようやく我に返った和希がしげしげと啓太を眺めると、啓太は耳まで真っ赤にしていた。どうやら勢いでしたものの、今になって恥ずかしくなったらしい。照れ隠しのように部屋に戻ると足を進める啓太に和希も歩き出した。

「うん、続きは部屋でな」

 耳元で告げれば、予想通りの真っ赤な顔をしてみせる。それでも拒絶しない啓太に愛しさで胸がいっぱいになる。

「今度は、俺が子守唄歌うな」

 きっと、啓太の歌うものには敵わないけれど。
 想いを込めて、たった一人に向ける歌を。




 ――――今でも耳に残る、優しい歌。






end



(08/2/10up)






 ちょっと、シリアスっぽくなりましたが、結局甘々(笑)。暗く終わりそうだったので路線変更しました。
 というか、暗い終りのものが書けない結城……。







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