――長くて綺麗な指先が触れてくるのをいつも心地好いと思っていた。




HANDS ―手―




「じゃあ、持っていく書類はこれだけでいいんですよね?」

 とんとん、と机の上で書類の束を整えながら、啓太は確認の声をかけた。

「ああ、それだけだ。丹羽にはもう伝えてあるから、後は了承印をもらうだけだ」

 対する相手――西園寺がそう答えるのを聞いて、啓太は軽く頷くと、では行ってきます、とドアに向かって歩き出した。数歩進んで、その手がノブに触れたとき――。

「伊藤君」

 声をかけられて、振り返ると、にっこりと微笑む七条と目が合った。

「気をつけてくださいね。あそこにはとてもとても怖い人がいますから、油断すると可愛い伊藤君は食べられてしまいますよ」

 にこにこにこ、そんな擬音がぴったりするような笑顔なのに、その眼はちっとも笑っていない。その向こうにブリザードが吹き荒れているように感じるのは気のせいだろうか。

「相変わらずだな、臣」

 呆れたような声を出す西園寺に、七条は変わらずに微笑んだまま、だってあの人は本当に本当に酷い人なんですよ、と続けた。そのまま室内の空気がツンドラ気候と化しそうな気配を感じ取って、啓太は慌てて会話に割って入った。

「だ、大丈夫ですよ。書類を届けに行くだけですから。俺、すぐに戻って仕事手伝いますから」
「……そうだな。では、啓太が戻ったら、休憩にしよう。そろそろ一息入れようと思っていたんだ」

 西園寺にそう返されて、啓太はほっと息をついた。七条と中嶋の不仲は百も承知なのだが、二人の間に流れるシベリア寒気団のような空気にはいつもどぎまぎしてしまう。いったいどうしてそんなに仲が悪いのか―――疑問には思うものの、二人の間に何があったのかなんて恐ろしくてとても訊けない啓太だった。

「じゃあ、戻ったら、お茶を入れるのを手伝いますね」

 七条さんに比べたら俺のお茶なんてまだまだですけど、とはにかんだように笑う啓太に会計部の二人は目を細めた。

「いや、啓太の入れるお茶は好きだ。楽しみに待っている」
「僕なんてまだまだですよ、伊藤君。気をつけて行ってらっしゃい」

 二人に見送られて、啓太は部屋を後にした。



 ――放課後の会計室。最近の啓太はそこにいる事が多い。結局、部活に入らなかった啓太は、何かやりたいことが見つかるまで空いた時間を有効活用しようと、会計部の仕事を手伝っているのだ。無論、正式な会計部員ではない啓太の仕事は雑用ばかりだが、会計部の二人とする会話は楽しく、有意義な時間を過ごしていた。それに―――。

(……学園のための仕事なら、和希の役にはちょっと立ってるってことだし)

 MVP戦後、晴れて恋人同士となった相手の帰りは今日も遅いらしい。夕飯までに戻れるかどうか判らないと言っていた。無理をして体調を崩さないか啓太は心配だ。

(帰ってきたらお茶でも入れてあげようかな)

 最近、七条にお茶の入れ方を習っているおかげか、大分美味しいと感じられるものが入れられるようになってきたと思う。和希ならコーヒーの方がいいかもしれないが、啓太はコーヒーはインスタントしか入れられない。やはり、飲むなら美味しいものを入れてあげたいし、たまには違うものを飲むのもいいと思う。この前、良い香りのする茶葉を分けてもらったことだし、あれを出してあげれば―――。

(あ……)

 不意に目の前にドアが迫っていて、啓太は慌ててノックした。どうやら考え事をしているうちに着いたらしい。

「失礼しますー」
「おお、啓太か。よく来たな」

 啓太が部屋に入ると、椅子に座っていた丹羽が笑顔を向けて立ち上がった。そのせいでデスクに積まれていた書類が揺れて、啓太は内心でひやりとする。整理整頓された会計室と違って、ここ、生徒会室はいつも雑然としている。ここに西園寺がいたら、あの綺麗な眉を顰めることだろう。

「ご苦労だったな、啓太。お前、たまにはこっちにも来いよ。郁ちゃんのとこばっか入り浸ってねえでよ」

 書類を受け取った丹羽が全く羨ましい、などと言いながら啓太の頭に手を乗せた。大きな手がわしゃわしゃと髪を掻きまわして、勢いで啓太の身体も一緒に振り回される。勿論、これでも丹羽は手加減しているのだが、それだけ丹羽の力は強いのだろう。

「わっ! 王様っ」
「ほら、来るって言え」
「もう、こっちにだって、俺、顔出してるじゃないですかー。いつもいないのは王様の方でしょ」
「言ったな。啓太が来るんなら俺も顔出すぜ?」

 顔を出す、ではなくてここで仕事をしていなければならない立場の丹羽の言葉に啓太は苦笑して、先程から振り回されっぱなしの丹羽の手を引き剥がした。体格のいい丹羽の手はそれに見合って大きく、啓太と比べると啓太の手がまるで子供に見える。

「王様の手って、大きいですよね」
「ん? ああ、まぁ啓太に比べたらな。身体に合ってるんだろ。手足がでかいと身体もでかくなるって言うしな」
「…………」

 それでは、手足がそれ程大きくはない自分はもう成長しないということだろうか。高校に入ってから少しも伸びる気配のない自分の身長を思い、啓太は少々へこんでしまう。

「気にすんなって。でかいだけが男じゃねえぞ、啓太」

 それに気付いた丹羽が慰めるように、啓太の頭を撫ぜた。今度は先程とは違って、優しく撫でていく。完成された男の掌の感触―――。

(…………?)

 不意に感じた違和感。何だろうと啓太が首を傾げかけたとき――。

「……丹羽。いい加減にしろ。いつまでさぼるつもりだ」

 氷のように冷たい声が聞こえて、二人は硬直した。

「い、いや、ヒデ、ちょっと休憩するぐらいいいじゃねえか」
「休憩する余裕があると思うか? 誰のせいで今、こんなに忙しいと思っている」
「…………」

 言葉に詰まる丹羽へ冷ややかな視線を向ける中嶋に冷や汗をかきつつ、啓太は引き攣った笑顔を浮かべながら生徒会室から退散した。




 和希は急ぎ足で長い廊下を進んでいた。思っていたよりも仕事が順調に進んだせいか、この分だと夕食には間に合いそうだ。

(啓太はもう食べたかな)

 夕食には間に合いそうにないと言っておいたから、もう食べてしまったかもしれないな、と和希は恋人の顔を思い浮かべた。

(食べていなかったら一緒に食堂に食べに行って、食べていたら部屋で食べるのに付き合ってもらおうかな)

 折角早めに仕事が済んだのだから、その分一緒にいたい。最近の和希は忙しくて中々時間を取れなかったから尚更だ。
 啓太が不足している、と和希は息を吐く。
 もっと普通の恋人同士のように二人でいられる時間が作れればいいのだが、理事長職と研究所所長、学生と二足ならぬ何足もの草鞋を履く和希にさける時間は余りなく、このところすれ違う日が続いていた。
 その分、出来る限り一緒にいられる時間は大事にしているのだが。
 ふう、と一つ、溜息を吐く。幸せが逃げるよ、と啓太に言われそうだと苦笑いしながら、和希は辿り着いた部屋のドアを開けた。

「おかえり、和希」

 ぱたぱたと足音を立てながら駆け寄ってくる啓太は、予想外に早い和希の帰宅に一瞬驚いた表情を浮かべて、それから嬉しそうに早かったねと笑った。

「ああ、仕事が早く終わったんだ。啓太、もうご飯は食べた?」
「ううん、まだ食べてない」
「じゃあ、一緒に食べに行こう。啓太と食べるの、久し振りだ」

 啓太の答えに和希は嬉しそうに微笑んで、指先を啓太に伸ばした。長くて形の良い指先がするりと啓太の髪の中に潜って流れていく。
 優しく撫ぜられて心地好いのか、啓太が目を細める。

「……やっぱり、この手だ」
「え?」

 啓太の呟きに和希が怪訝そうな顔をすると、啓太は生徒会室で丹羽に頭を撫でられたことを話した。

「そのときに何か違うって思って」

 丹羽の手で撫でられたときに感じた違和感――何かが違うと思ってしまった。決して丹羽の手が不快だった訳ではないのに。
 この手は自分の求める手ではないと、無意識のうちに判別してしまった。

「和希の手じゃなかったから」

 丹羽の大きくて男らしい手も、西園寺の繊細な手も、器用に動く七条の手も、皆、啓太に優しい。大好きな人達の手だ。
 でも、自分が一番安心して、一番求めるものとは違う。

「和希の手だ」

 そっと手を取ってすりすりと自分の頬に擦り寄らせる啓太に、和希は何とも言えない顔をした。

「……啓太、ひょっとしてわざとやってる?」
「? 何が?」
「……無意識なんだよな、そうだよな、啓太だもんな」
「???」

 はぁ、と和希は溜息を吐くと、にっこりと笑った。

「うん、この場合、啓太が悪い」
「は?」

 何が、と言う前に唇に柔らかい感触があった。至近距離に和希の顔がある。

「夕飯はもうちょっと後な」

 するりと指先が耳を撫ぜていって、啓太は小さく身じろぎして、思わず甘い声を洩らした。

「俺の手、好き?」

 その反応に満足したのか、楽しげに訊ねる和希に、啓太はふるふると首を振った。

「……手じゃ、ない…」
「?」
「……好きなの、は、手じゃなくて…和希、だよ」
「………!」

 和希の手が好きなのではなくて、和希が好きだからその手も心地好く感じるのだ。勿論、和希の手は綺麗で好きと訊かれれば躊躇わず頷くのだが、根本的なところを間違えて欲しくなくて、啓太はそう主張した。
 だが、それを聞いた途端、何を思ったのか和希が頭を押さえて深く息を吐いたので、啓太はきょとんとしてしまう。

「和希?」
「……本当、お前って最強……」

 和希は苦笑いを浮かべると、再び啓太の髪を撫ぜながら、俺も好きだよ、と囁いた。



 ―――その日、二人の夕食がどうなったかは二人だけが知る話。





end




(08/1/19up)




 うちの啓太は天然で皆から愛されてます(笑)。前にも似たような話を書いた気が……。






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