演奏の構造
作曲家 樋口康雄
1983年 サントリークォータリー5月号
 「ボクはあまりテレビを見ません。音楽も聴きません。『ナニッ! それでメシ食ってるくせに』、と怒られる場合もありますが、今日迄のところはこうして無事過ごしてきました。
 いいえ、テレビが嫌いとかいう訳ではないのです。また音楽を聴くと頭が痛くなる訳でもありません。テレビを見たり音楽を聴いたりしていると、こんなに遊んでいいのかしらなんて思い始めて、誘惑に弱い自分を知ってしまうのがイヤなのです」 と言いながらも、テレビを見るのはダイスキなのです。
 そんな訳で先日も夜遅くまで、ある番組をシッカリ見てしまいました。アメリカのテレビ局がどんなシステムで新番組を構成するか、裏の裏までお見せします。といった趣の真面目ドキュメンタリーでした。プロデューサー連中が『ファミリイダイズ』とか『セブンブラザー&セブンプライド』の様なハッピーなタイトルのドラマを必死にCBSやABCに売り込んでいる有様が紹介されたあと、(余計な話かも知れませんが、局の無理解に泣くというのはアメリカでも同じなんですね)、NBCエンタテイメント社の若くして出世した社長が登場、ハッと驚く発言をしたのです。
 「もし、『ファミリイダイズ』のプロデューサーが13本のうち7本をうちの父親の観点から見た家族の絆にしたいと言ったら、ゼッタイ認められませんね。その前の番組はヤング層をガッチリつかんでいるし、あとの番組『クインシー』には子供と母親がついているので、この2本の間に父親をはさむことは編成上無理なのです」
 社長はさらに続けて、「プロデューサーは、自分の係った番組の事しか眼中にないので、私たちの様なテレビの編成というものを熟知しているスタッフがどうしても必要なのです」と締めくくりました。
 テレビの番組表は個々の独立した番組の集合体だから、その中から一つだけ取り出して事の是非を論じることは出来ない。前後左右、始めから終りまで見通した上でないと困るーというのが発言の主張だと思います。
 ナルホド。番組表が有機的結合をもったプログラムだから、その構造の中に意味があるという指摘は、そのまま音楽の構造についてもあてはまってしまうかもしれません。
 例えば出来上がったばかりのベートーベンの5番のスコアを分解して、第一バイオリンが何をやっているのか、そのやっていることはカッコイイことかどうか、などの判断は、第一バイオリンのパートだけをいくら追っても、判断することは難しいのです。第二バイオリン、ビオラ、チェロ、ベースの弦楽合奏の中でしか第一バイオリンの当否は論じられない訳だし、さらに弦楽部全体は、他の木管、金管等の働きとの関係においてしかその良し悪しを検討できません。
 すべての物はそれ自体で存在せず、他の物との関係において存在すると言った天才がいましたっけ。
 そんな訳で明日は午前中には起きなければと思いつつスイッチを切ったのですが、どうもテレビは嫌いになれそうもありません。そして音楽も。(楽しくなければマジメじゃない)。
 −物をそれだけでとらえず、他の物と抱合せて考えてみる。光に対して闇、音に対して沈黙、親に対して子供といった具合に、大切なのは光だけ音だけ親だけで考えないと言うこと、ひとつを単位にして考えずにふたつ以上の思考のベースにすることー
 もし女の子の友達で「仕事か結婚か」で悩んでいる人がいるとしたら、「仕事か結婚か」とか、逆に「仕事も結婚も」とか考えないで、「仕事と結婚と」として見たらどうだろう。ひょっとするともっと自由になれるかもしれないよ、と言ってあげたい気がします。
 今、音楽の世界ではクラシック、ジャズ、ポピュラー、民謡などの様に分けて音楽を整トンする習慣があります。ポピュラーの中でも、さらに分類してあの人はニューミュージックだとかエンカだとか専門的になっていく様です。何かひとつに限って中心を定めるということも悪いことではありませんが、もしその中心が他の物を寄せ付けない中心だったとしたら、それは少し寂しい場所になってしまうかもしれません。
 これから音楽を目指そうと言う人達がいたら「君、テレビ見たら? ひょっとしたら音楽にももっと自由になれるかもしれないよ」と言ってあげたい。ー
テレビをまた見ながらこんな事を考えています。
作曲家 樋口康雄

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