シングアウトの研究

  第9回 A氏の推理を検証する 
A氏の見解
人間の記憶は時として錯綜する。
A氏から次に届いたメールには、こんなことが書かれていた。

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すみません。訂正します。「2代目のリディアがやめたのは、あれこれ考えた結果、水木誠さん、田中誠二さん、ジュリア・チェングさんの3人が入った回、70年10月31日に間違いないと思います」なんてことは絶対ありません。70年8/15のグラフNHKのメンバー紹介にはもうリ
ディアはいませんからね。私には外国人の女の子がやめて別の外国の子に変わったとき「やめる子の方がかわいかった」と思ったという記憶があるのですが、それがケリーからリディアのときなのか(最初そう確信してた)、あるいはリディアがジュリア・チェングさんに変わるときなのか(考えているうちにそんな風に思えてきた)はっきり分からなかったのですが、いま調べてみた結果、8/15には両方ともいなかったことは確かなので、この記憶はケリーからリディアのときのものに間違いないでしょう。
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そうだ。そうでなければおかしい。私が番組を見始めたのは、関口宏さんがやめる少し前、70年9月頃だったはずだ。リディアが10月31日まで在籍していたなら、私はリディアのことを覚えていてもよさそうなものである。なにしろ、外国人の女の子がゴールデンアワーのTV番組に出てくるなどというのは、当時はまずあり得ないことだったのだから。しかし、私には番組に外国人の女の子が出ていたという記憶は全くない。(温ちゃんやジュリア・チェングは東洋系なので、外国人とは認識していなかった)。

とすると、リディアはいつやめたのだろう? グラフNHKの70年8/15号は、実際に8/15に出たとは限らない。しかし、8/15号が8/15以前に出ることはあっても/15以降に出ることはまず考えられない。また、写真撮影などは発行日以前に行われているわけだから、いずれにしても8/15以前にリディアがやめたことだけは確かだ。もっというと第1回公開録画が行われた70年8月1日には、すでにリディアはいなかった可能性が高い。以前、この日の放送の録音テープを聞かせてもらったことがあるが、メンバー紹介の部分にリディアは登場していない。(ちなみに8月1日時点で在籍していたことがはっきりしているのは、惣領、原田、ビル、池田、小林、向山、樋口、江崎和子)。だとしたら、リディアがやめたのは70年8月1日以前ということになり、シングアウトの出番がなくなったというA氏の記憶が正しいとすれば、その時期は、もっと早まることになる。彼らがユニットとして存在感を放っていたのは、放送開始から半年ちょっとだったのかもしれない。

A氏のメールには、さらにこんなことが綴られていた。

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私はシングアウトがNHKに大抜擢された本当の理由はケリーとピコだと思います。その一人がいなくなり、ピコはソロということなら、あとのメンバーは番組にとって価値はない(少なくても他のヤングと同等)と考えられてしまったとしても無理ないかもしれません。しかし、見ていた私もそう思ったのです。前にもいいましたが、うちの家族も私もケリーのファンだったので、彼女がやめてからはシングアウトのこともなんとなく忘れてしまいました。
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テープが明かす真実
はたして、シングアウトがNHKに大抜擢された本当の理由がケリーとピコだったというA氏の推測は正しいのだろうか? シングアウトのメンバーがやめたあともピコひとりが番組に残ったこと、ほかのシングアウトのメンバーは覚えていなくてもケリーだけは名前も顔も覚えているファンが少なからず存在することを考えると、あながちこのA氏の推測は的外れとはいえないかもしれない。しかし、ピコはともかく、ケリーがシングアウト大抜擢の理由と考えるのは、客観的にみて難しいようだ。というのは、A氏からこのメールを受け取った数ヵ月後、私は偶然にも手に入れた1本のテープから、ケリーがシングアウトに加入した時期を知ることになったからである。

そのテープには、1969年7月11日から10月10日のあいだに行われたシングアウトのライブの模様が収められていた。テープには、ライブの一部が断片的に収録されているため、正確なところはわからないが、うち3回は新宿・三越屋上で催されたステージ、1回はヤマハホールで行われたライブの模様だと思われる。このテープのメンバー紹介から、ビルとケリーは英語の教師として68年秋に来日したことがわかる。そして、シングアウトのステージを見て感激したビルがメンバーに加わったのが69年8月。そのビルの加入から少し遅れた69年9月にケリーはシングアウトのメンバーに加わっているのだ。ちなみに69年11月3日に放送された「ステージ101」のパイロット版に出演していたという石川セリは、69年10月10日の時点ではメンバーに加わっておらず、パイロット版の放送直前にメンバーに加わったようだ。

さて、シングアウトが「ステージ101」のメインキャストに抜擢されたのは、69年4月頃だから、その時期にケリーはまだメンバーに加わっていない。だからシングアウト抜擢の理由がケリーにあったと考えるのは難しいのである。しかし、ビルやケリーがメンバーに加わり、番組に国際色が加わることは、NHKとしてもおおいに歓迎したに違いない。時は1970年、万博開催の年だったのだから。

ところで、このテープから、実にさまざまな、これまで知られていなかったシングアウトの真実が明らかになった。69年7月から10月と言えば、まだ「ステージ101」の放送が開始される前である。この時期にすでに「ピコの旅」「ニューディメンション」といったオリジナルソングが披露されており、「ピコの旅」の歌詞の一部は、レコード音源とは異なっていることがわかる。また、アルバム未収録の、これまでまったくその存在が知られていなかった「空のかなたへ」と「この星が僕の故郷」というオリジナルソングが存在して涙をこえていた。おそらく2曲とも惣領氏の作曲ではないかと思われるが、どちらも典型的なソフトロックサウンドで、特に「空のかなたへ」は、完成度が高いだけに、レコード化されず闇に埋もれてしまったのが惜しまれる。そして、驚くべきことに1969年11月5日に発売された「涙をこえて」は、すでに10月からオールナイトニッポンやセイヤングといった深夜放送でしばしばオンエアされていたという事実もわかったのである。
そして、彼らのレパートリーを聴くにつけ、またまた新たな疑問が頭をもたげてきたのであった。



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