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シングアウトの研究
第4回 レッツゴーからシングアウトへ |
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MRA国際移動学校
1967年4月、NHKの通信教育を受けて勉強しながら、各地で「うたごえ運動」を広めていこうという、日本で初めての移動高校が誕生した。それがMRA国際移動学校である。生徒は1年間、小田原市のMRAアジアセンターで共同生活を送りながら、正規の通信高校であるNHK学園高校の生徒となり、テレビ・ラジオを通じて授業を受ける。そして、MRAのうたごえ運動である音楽ショー「レッツゴー67」をひっさげて、全国をまわり、同じ世代の若者たちと歌とショーを通じて心を通じ合い、明日の世界について語り合うのである。レッツゴーが「音楽の花ひらく」に出演するようになった直接のきっかけはわからないが、その背景に、こうしたNHKとMRAとのつながりがあったことは決して無関係ではないだろう。そして、このMRA国際移動学校の生徒たちのなかから、やがてはシングアウトのメンバーとなる者が生まれるのである。
レッツゴーからシングアウトへ
しかし、結局のところ、レッツゴーのピークは66年の武道館公演であり、その後、ロビー氏がマイクス結成のために脱退すると一気に精彩を欠いてしまう。「音楽の花ひらく」は起爆剤にならず、レッツゴー内部ではプロ志向への動きが高まっていく。その中心にいたのが、のちにシングアウトのリーダーとなる惣領泰則氏だった。惣領氏は高校に巡業してきたレッツゴーに感銘を受け、当時、結成していたフォークグループのメンバーを率いてMRAを訪問、レッツゴーに参加。ロビー氏なきあとのレッツゴーの音楽的リーダーと活躍していたのだった。その彼が、1969年4月、レッツゴーにいた池田美和、原田時芳、ビル・クラッチフィールド、江崎和子、ケリー・コワ、中岡淑子、宮口森也、向山照愛の8人に声をかけて結成したのがシングアウトである。
とライナーノーツに書いてあるので、世間一般では、そうだと信じられているが、少なくとも私が調べた限り、これは誤りである可能性が高い。
この写真は「琴〜SOUNDS FROM JAPAN special demonstration record〜」というRCAからリリースされた海外プロモーション用のサンプル盤のジャケットに掲載されていたシングアウトの写真である。本盤のリリース時期は、収録曲目から考えて、1970年夏頃だと思われるが、この写真に写っている外国人メンバーは、明らかにビル・クラッチフィールド氏とケリー・コワ氏ではない。これまで私が調べた限り、ビル・クラッチフィールド氏がシングアウトに参加したのは、1969年7月頃にほぼ間違いない。彼は、シングアウトのステージを見て、シングアウトへの参加を決めているのだ。一方、この写真には中岡淑子氏の姿が写っているが、彼女がレコードジャケットで確認できるのは、本盤以外では「涙をこえて」だけである(レッツゴー時代のアルバムには彼女の姿が写っている)。70年5月に発売された「愛のつばさを」のジャケットに、すでに彼女の姿はなく、「ステージ101」も早い時期に降板している。さらに、樋口氏が外国人のキーボーディストのトラとしてシングアウトに参加したことを考えあわせると、最初に惣領氏が声をかけたメンバーは、先の8人ではなかった可能性が高く、このメンツは、「涙をこえて」発売以前のシングアウトのメンバーだと考えられるのである。
彼らの唯一のアルバム「愛のつばさを」のジャケットには、すでに中岡氏もケリーの姿もない。さらに上の写真を見ると明らかなように、ケリーは、中岡氏よりも先にシングアウトを去っている。アルバム「愛のつばさを」のジャケットに写っている外人女性は、リディアなのである。また、上の写真のメンバーに加えて、アルバム「愛のつばさを」のジャケットには、小林善美氏の姿がある。小林氏は「ステージ101」にもシングアウトのメンバーとして番組に出演している。
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