シングアウトの研究

  第10回 真実はこれだ 

初期のシングアウト
下のYouTubeの映像は、テープに収められていた69年7月から10月のライブでシングアウトが演奏していた曲である(※Youtubuの映像は削除される場合があります)。このほかには「朝日のあたる家」や「ひょっこりひょうたん島」なども演奏している。日本版フィフィス・ディメンションとして活動を開始したと言われているシングアウトだが、テープに残されている7月、8月のライブではフィフィス・ディメンションのナンバーは演奏されておらず、当初から日本版フィフィス・ディメンションをめざしていたかどうかは疑問だ。むしろ彼らは、「自分たちはいろいろなタイプの曲を演奏するグループだ」ということを強調しており、実際、ジャズから民謡(フォークソング)まで、当時流行していた曲は、なんでも演奏していて、これといって目指していた音楽性があったとは思えない節がある。そんななか非常に興味深いのは、10月のライブでフィフィス・ディメンションのナンバーを演奏するシングアウトをイベントの司会者が絶賛している点だ。もちろん、司会者は場を盛り上げるために彼らを持ち上げているに違いないのだが、それにしても「本家よりうまい。今日のライブのいちばんの聞き物」とまで言っている。実際、シングアウトの演奏は、なかなか聴き応えのあるものであった。こうした周囲の反応を敏感に察したシングアウトは、この頃から日本版フィフィス・ディメンションを意識するようになったのであり、当初からフィフィス・ディメンションタイプのバンドを目指していたわけではないと考えるのは私だけであろうか?


























シングアウトはほんとうにヒッピー色を強めたのか?
それはともかく、日本版フィフィス・ディメンションとして活動を開始したシングアウトは、やがてヒッピー色を強め、バンドの音楽性をブラス・ロックへと変換させていったと言われている。だが、その時期はいったい、いつだったのだろう? ブラス・ロックといえば、Blood, Sweat & Tears、シカゴ、チェイスに代表されるが、Blood, Sweat & Tearsの「スピニング・ホイール 」のヒットは68年、シカゴの「長い夜」は70年6月、チェイスは71年デビューである。だとしたら、69年10月のライブでは、まだ、ブラス・ロックとはほど遠いレパートリーを演奏していたわけだから、シカゴの「長い夜」がヒットした頃を契機にブラス・ロック色を強めていったと考えるのが妥当だろう。しかし、その時期にはすでに「ステージ101」の放送が始まっており、ブラウン管を通じて見る限り、彼らにヒッピー色を感じ取るのは難しいということは、前述のとおりだ。たしかにミュージカル「ヘアー」のナンバーや、コカインを歌ったのではないかと言われる「長い夜」などの曲を演奏することは、一部のひとたちにとっては、それ自体、"ヒッピー"と同義だったのかもしれない。だが、1970年2月の「ステージ101」では、ゲストの沖浩一氏が電子オルガンで「アクエリアス」を演奏し、11月にはゲストの江利チエミが「スピニング・ホイール 」を歌い、12月には後に番組の司会者となるマイク真木と前田美波里が「グッドモーニング・スターシャイン」(ヘアーのナンバー)を、コンボ101が「アクエリアス」を演奏しているのだ。であるなら、少なくともNHKは、そうした楽曲を歌うこと=ヒッピーとは考えていなかったことは明白だろう。

一方、この時期のシングアウトはといえば、「涙をこえて」「ピコの旅」「ひょっこりひょうたん島」、「ビーナス」(ショッキングブルー)などを番組のなかで演奏した記録はあるが、いわゆるブラス・ロックと呼ばれるような楽曲を演奏した記録は残っていない(あくまでも現存する記録の上での話だが)。つまり、シングアウトがヒッピー色を強め、バンドの音楽性をブラス・ロックへと変換させたから、お茶の間から苦情が殺到して降板しなくてはならなかったのではなく、むしろ全く逆、彼ら自身はそのような方向を目指していたにも関わらず、番組のなかで、そのような機会が与えられなかったことに対して不満を感じて降板したと考えたほうが、はるかに理解しやすいのである。

そして決定的なのは、2002年、日比谷野外音楽堂でシングアウトが一夜限りの復活を遂げたときである。彼らがこのとき演奏したのは、シカゴの「サタデー・イン・ザ・パーク」、そして「アクエリアス」「LET THE SUNSHINE IN」「グリーン・グリーン」「きみの瞳に恋してる」だった。このとき、ビルはMCで「サタデー・イン・ザ・パーク」を「僕たちがバンド解散する頃、やりたかった音楽」と言った。そしてこの曲以外の曲は、すべてシングアウト初期の頃からのレパートリーなのである。そして「サタデー・イン・ザ・パーク」は1972年のヒット曲。つまり、シングアウト解散後のヒット曲であり、彼らは一度としてシングアウトとして過去にこの曲を演奏したことはないはずなのである。
はっきり言おう。シングアウトがヒッピー色を強め、途中からバンドの音楽性をブラス・ロックへと変換させていったなんてことは、実際にはなかったはずなのである。



トップページにもどる