Track10 ヴォーカル録り
樋口さん、寺田さんがTRACK09の作業を続けている間に、Track10のアレンジを担当する山川恵津子さんがスタジオに到着した。この日は上は岩谷時子さんから下は高校生のHatsumiさんまで、珍しく各年代の女性が勢揃いしていた。山川さんはそのどなたとも気さくにお話をされ、スタジオはいつになく華やいだ雰囲気に包まれていた。

午後7時、EPOさん到着。EPOさんは岩谷時子さんとお会いしていたく感激された様子で、岩谷さんの曲を聴いて育った子供時代のことなどを話し「お会いできて光栄です」と挨拶を交わした。岩谷時子さんと言えば、このかた無くしては日本歌謡史は語れないというほどの大作詞家で、その功績は計り知れない。だが、それ以上に素晴らしいのがその魅力的なお人柄だ。年上のかたにこんなこと言うのも失礼だが、岩谷さんは知性とユーモアを兼ね備え、奥ゆかしく上品で穏やかでお歳を召しているにも関わらず、どこか少女のような可愛らしさのあるかただった。「文は人なり」と言う言葉があるが、岩谷さんといい、先日お目にかかった山川啓介氏といい、心に響く美しい歌詞を紡ぎだすことができるのは書き手のお人柄に拠るところが大きいと感じる。
岩谷さんの魅力的なお姿に、すっかり心奪われてしまった私は、あろうことか樋口さんの存在を完璧に忘れていた。「どうも、こんにちは」と樋口さんがドアを開け、EPOさんに挨拶するまで、私は樋口さんがコントロールルームから居なくなっていたことすら気づいていなかった^^;。したがって、その間、樋口さんがどこで何をしていたかは不明だが、知らなくても特に問題はないと思うので、気にしないで先に進むことにする。

レコーディングに入る前、EPOさんは濱田さんから今回のアルバムの趣旨やアトムのストーリー、これから録音するTrack10が永遠に帰らぬ子に向けた子守歌であることなどの説明を受ける。ブースに入ったEPOさんは一度オケを聴いた後、樋口さんと共に譜面を確認しつつ、発声練習を兼ねて何度か通しで歌ってみる。
と、突然、樋口さんが「ティッシュ、ティッシュ」と叫びながらブースから飛び出してきた。歌の世界に深く入り込んだEPOさんが、感情移入して思わず涙してしまったのだった。だが、山川さんは「悲しみを踏まえて明るく歌う。EPOっぼく。しっとりしないほうがいい。」とアドバイス、そして「オケもパキッとするといい」と言う。

EPOさんは先に指示された3連符にのせるフレーズを確認し、それを踏まえて歌う。樋口さんは歌詞を口ずさみ、手で膝を打ちながらリズムをとる。感触はまずまずのようだ。コントロールルームの山川さんはアレンジ譜と突き合わせながら真剣な表情でこれを聴く。「アプローチはどうですか?」と訊ねるEPOさん。「とてもいいです。譜割りもいいです。」と言いつつ、全音符の処理などさらに若干の指示をEPOさんに与えた樋口さんは「聴かせてあげて」と言って、EPOさんと共にプレイバックを聴く。
樋口さんはサビの「♪せめて」という歌詞のところでここ1番とばかりにリズムをとっていた拳に力が入る。その一瞬、五木ひろしを見たような気がしたが、あれは私の錯覚だったと思いたい。

続いて2番に移る。岩谷さんから「る」の発音が巻き舌にならないようにというリクエストが出される。EPOさんの歌を聴いて興奮したのか、樋口さんは、途中、突然、椅子から立ち上がったかと思うとまた座った(笑)。
サビの「♪せめて」のところで間違えたEPOさん、思わず「いけないっ!」と声をあげる。樋口さんはそれを聞いて大笑い。だが、EPOさんはその後たて続けに同じ場所で失敗してしまう。その度に「あっ、いけない…」「ごめんなさい!」と声をあげるEPOさんを樋口さんは笑って見ていた。「できると思いますので」気を取り直して再びマイクに向かったEPOさんだったが、「あ、ごめん。いや〜ん」とまたも失敗。さらにもう一度歌い直し、無事その個所はクリアした。

先に進む。EPOさんは腕を広げ、上半身を動かす独特のスタイルでリズムを取りながら歌う。樋口さんから語尾の歌い方などのアドバイスを受けたEPOさんは、それを念頭に置き歌ってみる。2,3度歌い直をしたEPOさんだったが、「私、もう一回やりたいです」と自分からもう一度歌い直したいと申し出る。
以後、EPOさんは間違えるたびに「いけないっ、違うじゃーん」「あ〜あ、またやっちゃった…」「次、ちゃんとやりますから」と実に賑やかだった。が、ある時は頭を抱え「ダメダメ」と自分自身に言い聞かせ、またある時は「もう一回やらせてください」と自ら進んで歌い直し、そしてある時は「低いじゃん」(樋口さんは「大丈夫だよ」と言っていたが)と自分でダメ出しをし、結果として歌い直した回数は多かったが、よりよいテイクが録れるまで何度でもトライする姿は実に爽やかで清々しかった。
「これいいね」「今のサビ消したくないんだ」「いいじゃん、いい感じ」樋口さんはEPOさんの歌のいいところをたくさん見つけていた。EPOさんの歌に不安はない。何度歌い直しおしても終始笑顔の樋口さんの表情がそのことを如実に物語っていた。

午後10時、チークダンスぴったりな?曲、Track10のレコーディングは無事に終了した。撮影用の小道具を探しにいった樋口さんは、流しからコップに入った観葉植物を見つけてきてEPOさんと記念撮影を行った。そのあと「脈でも取りましょうか」とわけのわからんことを言って、どさくさ紛れにEPOさんの手を握ったのを私が見逃すはずもないが、この日、私は樋口さんの存在を忘れさせてくれるほど素敵な3人の女性と出会い、少し自分の考えを変えることにした。
何度も歌いなおすEPOさんを見てご自身の書かれた詞が「変な歌じゃないかって心配になってきた」と謙遜された岩谷さん。レコーディング中、エンジニアの横で立ちっぱなしで作業を見守っていた山川さん。そしてEPOさん。こんな素敵な女性たちに囲まれて仕事ができる樋口さんは本当に幸せな人だと思う。まだ枯れる年でもないし、手を握ろうが抱きつこうが、それで樋口さんが仕事をする気になるなら私は耐えることに決めた。
だって私は死ぬまで樋口さんに仕事をしてほしいと思っているのだから。