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樋口康雄・未完の回想録
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※このページは2003年〜2004年に樋口さんがファンからの質問に対して回答してくださったことを再編集してまとめたものです。
コンクールで得したのは’dの省略がわかったこと
ぼくはピアノを3歳から始めました。自分が習いたかったのか、親に習わされたのかはわかりません。しかし、ピアノはそんなに好きではありませんでした。ピアノのお稽古というのは、ふつう100年以上前に書かれた譜面でやります。最近ではもっと新しい作品から始めることもありますが、とにかく譜面のとおりにピアノを弾くのが基本です。ぼくはこれがどうもできませんでした。書かれてあるとおりに弾くのはどうも面倒です。適当に弾くのはとても楽でした。
しかし、ピアノ教師は、そういうことを教えているわけではないので、当然それは否定されます。レッスンは先生と生徒の一対一で、親が見ているわけではありませんから、そのことは先生と生徒ふたりの間の葛藤となります。先生は、ぽくが駄目な生徒であることを親に言うことはあったと思いますが、ぼくは「そういうことをしては駄目」だといわれることに対する不満を親に言うことはありませんでした。もともとピアノはどうでもよかったので。
ぼくが小学生のころに、ヤマハはエレクトーンを普及させるために街中に楽器販売店を兼ねた音楽教室を作り始めました。ぼくが住んでいたところにも、ちょうど学校帰りに寄れる場所にそれがありました。そのころの小学生は暇でしたし、パソコンなんかしませんから、そういうところで遊ぶわけです。ヤマハは、エレクトーンの普及のためにコンクールを開催しますが、そこに出てもらう子供を探していました。まあ、それに当てはまったのでしょう。ぼくは「エレクトーンをくれる」「ただで先生をつける」という契約をひとりで決め、代わりにヤマハのコンクールに出てあげることにしたのです。
そこで紹介されたのがS先生でした。S先生は、のちにぼくが「日本の音楽展」という企画で再会する指揮者の熊谷弘氏や、一般には無名ですが、日本を代表する作曲家で辞書にも載っている故・宅孝二氏と交流があり、街のピアノ教師というだけでなく、広く音楽についての理解と力量がありました。S先生は、ぼくのようなタイプで音楽をやる子供をOKしてくれましたし、こちらもそういう先生ならOKでしたので、まあ年は違っていましたが、お互いに啓蒙しあったというか、インパクトをもって当たっていました。
先生はのちに、子供のインプロビゼイションについてのレクチャを米国ソルトレイクのブリガミヤング大学で行いますが、それにはぼくがどうだったかということの考察が主体にあるようです。ぼくは先生の手による教本の序文を書いたくらいが、お返ししたことですが…。
ぼくは、いまだにアーティストの名前について本当によく知りませんが、当時はなおさらでした。エレクトーン・コンクールで弾いた「ホワット・アイ・セイ」がレイ・チャールズの曲というのは、いま言われればそうだなというくらいなもので…。何曲かの候補の中からこれを選んだはずですが、曲がどうのというのではなく、たしか英語のタイトルが気に入ったからだったと思います。原題は「What’d I Say」だと思いますが、英語を習い始めたばかりでしたから、この’dに興味がありました。そのときは誰も正確には教えてくれませんでしたが、のちになって’dの省略がわかりましたので、この使い方は以来忘れることはありませんでした。エレクトーン・コンクールで得したのは、このことくらいでしょうか…。
その頃、ぼくは作曲に関して、それほど興味はありませんでした。今もだけど。小学生のとき学校とボーイスカウトと両方に鼓笛隊というのがありましたので、どちらでもスネアドラムをやっていました。ぼくは、もちろん鍵盤類がいちばんだったのですが、実はドラムスがすごく上手かったのです。キーボードというのは今でこそカッコイイのかもしれませんが、ロックバンドというのはビートルズもそうですが、ふつうはギターとベースとドラムスでキーボードはいませんよね。当時はキーボードは(ピアノのお稽古でもやっているし)カッコ悪いと思っていましたので、バンドをやるときはギターかベースかドラムスをやりたかったのです。話がそれてしまいましたが、そういう鼓笛隊でやるような曲はつまらないのが多いので、自分で勝手に作ってやっていました。
ぼくは楽器だけでなく、何でもすぐ、そこそこできるようになるのですが、それ以上にはなりません。とくに絵は全然だめです。三次元感覚が全然ないので、遠近手法がまるでできません。たとえば拍手してる人をデッサンで描いたとすると、手や腕はその人より手前にあるはずですが、ぼくにはそれが二次元でしか表現できないので、手や腕をとおして身体の部分が透けて見える状態になってしまいます。音楽家だからさぞかし耳もいいだろうとよく言われますが、右脳だか左脳だか知りませんが、言語を認識する能力に関しても全くだめです。外国語はもちろんのこと日本語も聞いて理解するというのを得意としません。というか、「人の言ってることを聞く気がないんじゃないの?」とよく言われます。音楽も普段は全然わかりません。スケジュールとギャラが決まると、急にできるようになるんですが…。これは反省しています。
ぼくはシングアウトの正式ピアニストではなかった
ープロになるきっかけとなったシングアウトのことについて教えてください。
実は、ぼくは当時のシングアウトの正式ピアニストではありませんでした。中学生だったので、正式には仕事をすることもできませんでしたし…。
当時のシングアウトのキーボードは近田春夫くんで、ぼくはたまに交代でピアノをやっていただけでした。このはなしは近田くんと会うたびにでますが。 その頃のシングアウトにオリジナルはありませんでした。オリジナルをやる気なんてなかったのだと思います、当時は。いい曲いっぱいあるし、別にオリジナルなんてやらなくても充分でしたので。
当時のレパートリーですが、喫茶ロックのときに帝国ホテルのスイートで打ち上げをやったのですが、そのときにビル・クラッチフィールドが持ってきた秘蔵のカセットには、以下のように記されています。
1969.7.19 Mitsukoshi
1.Sweet Soul Music
2.Place in the Sun
3.Bitter Sweet Samba
4.This little Light
5.不明
6.Member Shokai
7.Good-bye
8.Love is Blue
9.Season of Love
10.Monday monday
11.La la la
SECOND SHOW
1.New Dimension
2.Hard Day's Night
3.Spanish Eyes
4.Massachusetts
5.Boku no Furusato
6.Goin' out of my head, Can't take my eyes off of you
ーNHKの番組のなかで、「ビヤガーデンで洋楽を演奏してもお客さんの反応が芳しくなく、これをやったら受けた」と言って『ひょっこりひょうたん島』を振りつきで演奏したのを強烈に覚えています。
丸物百貨店(現在の池袋西武)のビヤガーデンにシングアウトが出演していたというのは本当です。しかし、そんなに何回も出演した思い出はありません。 お客さんの反応が芳しくなかったのも本当で、そういうときはマル暴(=暴力団。当時はそういう人が普通にお客としていました)の人がシラケた客に向かって「拍手せんかい!」とか言って煽ってくれたりしました。
そんな中で「ひょっこりひょうたん島」もやっていましたが、これはリーダーの惣領(泰則)くんのアイデアだと記憶しています。ぼくは、もともとやる気がなかったので、ただ言われたままにそれをやっていました。
ボーイスカウトは、カブスカウト(小学一年)から始めてボーイ(たぶん小学五年)になったときにやめましたので、「小学生のボーイスカウトが池袋のビヤガーデンで夜バイトしてる」という構図はありませんでした。カブになってすぐ、当時は珍しかった外国のスカウトが世界ジャンボリーで来日した折に一緒に新聞の写真に載りましたが、その和気あいあいとした写真をとるために多少の演出がなされました。初めてヤラセというのを知った日でした。
そのビヤガーデンに或る日、故・末盛(憲彦)氏と中川久美さんがシングアウトを見に来るのです…NHKの音楽番組を作るために。
スコアと引き換えに番組に出ることにしたんだ
末盛さんと初めて会ったのは中3の時でした。クラシックのオケのスコアというのは以前から父の蔵書にあったので見ていましたが、ポピュラー・ミュージックのスコアはどうやって書かれているのかを知りたかったのです。知りたかったというよりも、そこにあったので見てみたら、「なんだこれ」と思ったのです。
歌番組の音楽の編成は、いわゆるビッグ・バンドが基本にあって、それに足したり引いたりしたものだったのですが、そのような「様式」は当時では一般の書物などには一切書かれていませんでした。
もちろん諸外国にはドン・セベスキーの著書のようなものは既にあったのでしょうが、たとえば日本でトム・ジョーンズ・ショウのスコアがどういう様式で書かれているのかを知る術は普通にはありませんでした。ところがその手がかりが、なんとNHKの制作の戸棚に無雑作に置かれていたのです。そのスコアだって、誰かがアメリカの番組のスコアを見てきて、それに習って書き始めたのがみんなに伝播していったはずです。
とにかく、それらの術を知る手段は日本のアカデミックな場所にはなかったのですよ。ぼくにとって、それは大発見だったし、それができるなら、引き換えに番組に出て、イヤな思いをするのも、まあ妥当かなと思ったわけです。まあ、これらのスコアはヒジョーに適当なものだったので、ぼくの趣向に合っていたのでしょう。それまでコード・ネームというものはよく知らなかったので、これも面白かったです。そのような簡略化とか省略の方法(記号とか)が実に大胆で感動しました。このステイブは“上の段と全部おんなじ”とか平気でやっちゃうとことか、ポピュラ・ミュージックって楽でいいなと思ったわけです。
余談ですが、とにかくスコア書きは面倒ですから、みんなできるだけ楽な工夫をするわけです。前田憲男さんは、スコアの五線の色を薄い緑にして、鉛筆は4Bの柔らかいのを使って、音符をポチッと打つだけで書けるようにしていましたし、同じような編成のもののためにスコアに予めパートが書かれている用紙を作ったりしていました。さらに余談ですが、ぼくもいろいろなスコアを作りました。最大のものは1ページ32段10小節というスコアでしたが、コピーが大変でした。A2というサイズなので特殊な複写機でないとコピーできなかったので、やたらコストがかかって評判悪かったのですぐにやめました。ずっと長く使っていたのは、18段8小節のものと、24段8小節のものでしたが、この24段のスコアはほぼ正方形のもので、とてもカッコよかったです。これは(中村)八大先生が作ったものをまねたのですが、これを使ったひとは他にはいないと思います。ただ持ち歩きには、とても不便でした。
あの頃は、「となりの息子がエレキを始めた」というのが「不良になった」という代名詞でした。ぼくはシングアウトへの参加も、NHKの番組への出演も、全部自分で決めてきてやり始めました。親はもちろん賛成しているわけではなかったでしょうが、自分で決めてきて(契約してきて)もうすでに始めてしまったので、親は反対しようがなかったのです。学校はいわゆる受験校でしたが、学年の何割が東大に行けるかということばっかりの学校ではなかったので、好きにさせてもらっていました。学年中、数人はある特技(音楽が多いですが)を持っているもので、そういう人たちをあえて矯正させないでくれていました。
その頃は、将来何になろうとか全然考えていませんでした。そのくらいの年頃って、ふつう女の子のこととかばっかり考えません? こういうと偉そうに聞こえてしまいますが、一般の大学に進学したのも、音楽を教わるつもりは全然なかったし、「まあ、将来また音楽やるかもしれない」ってことで、経済に困らないようにそっち方面をやっておこうこうと単純に考えてのことでした。「音楽を一生の職業に」とは現在も考えていません。でも、それにしては「一生」の終盤にほぼ近づいてきてしまいましたが・・。
ゴーカート場からNHKに駆けつけていた
ーNHKの番組に出演していた当時のお話を聞かせてください。
当時は、学校には「仕事」があるといってサボり、仕事では「学校」があるからといってサボっていました。渋谷の放送センターのまわりは東京オリンピックの跡地で、空き地がたくさんあり、その一角にはゴーカート乗り場がありました。これはほとんど知られていなかったのですが、ぼくは毎日そこにいました。学校が終わるとNHKに駆けつけるという構図になってはいましたが、実はゴーカート場から駆けつけていたのでした。
番組で歌うために選んだ洋楽曲は、どういう基準で選ばれていたか…これに関しては一曲ずつ思い出してみたいです。 ひとつ完全に覚えているのは、「アローン・アゲイン」という曲をやったのは、当時もうすでに米MCAと作家契約をしていたので、その関係でMCAのカタログをやるように言われていたからでした。日本で一番先にこの曲をカバーしたのは間違いないです。「アローン・アゲイン」は英MCAの楽曲で、G・オサリバンのものでした。MCAは、ぼくを含めて同じような若い作家と何人も契約していました。英国にはG・オサリバンとA・L・ウェバー、アメリカにはMCAの映画部門と契約していたS・スピルバーグがいました。アジア(日本)はぼくでした。正確には、MCAと契約した初めての日本国籍の人がぼくだというのが多分正しいでしょうか。アジアでというのは、アジア地域だけという意味ではありません。契約書にあるとおり「日本を含む、世界全地域」となります。これは普通どの音楽出版契約にも書かれている文言です。 ここで日本国籍といったのは、もともと日本人でMCAと契約していた人をすでに一人知っているからです。それはMCA時代にキアンティアというMCAのエグゼクティブに紹介された、ハワイ在住のハーブ大田という元日本人でした。ハーブ大田はウクレレの名手でハワイの音楽を作るMCAの契約アーティストでした。作家契約かどうかは確かではありませんが、そういう人がいました。
番組で発表した「テーマA」という曲ですが、ぼくはもともと歌なんかやりたくなかったのでインストをやったのだと思います。あのときのキーボードのひとりに西村ユリさんがいました。ドラムスをやったのは、現在作曲家をやっている渡辺俊幸くんでした。俊幸くんとは今でもよくその話になります。「テーマA」は、「Mr.Harakiri」(ミスターハラキリ)というタイトルでオーストラリアのMCAに送られましたが、その後、どうなったのかはわかりません。
「Mr.Harakiri」の詩は奈良橋陽子という人です。
当時、彼女の夫だったジョニー野村は、英語もロシア語もできた珍しい人で、フラワートラベリンバンドというバンドのカナダでのツアーを行なった人でもあります。その彼がMCAのプロデューサとして入ってきた時に始まるのですが、その後、タケカワ・ユキヒデくんがいたゴダイゴというバンドをこの「ジョンとヨーコ」コンビでプロデュースすることになるのです。この辺の話は後日したいです。
当時は日本の国営放送局の技術、とくに音響のノウハウはひどいものでした。シングアウトのころからレコーディングは外のスタジオでやっていたので、はじめてNHKのスタジオで録音したときは驚きました。スタジオ内のドラムセットの前にひとつのブームマイク(注1)が立っていました。ぼくは「これなに?」と尋ねましたら「ドラムスを録るマイク」という返事でした。
その時代すでに外部のスタジオではドラムスの各キットはセパレーションをとってから、あとでステレオフォニックに再構築する方法になっていましたが、NHKではドラムスというものが全体のどこに定位するかということが重要だという考えでした。たしかにビッグバンドなどは全体の絵面というのがありますから、テレビというメディアではそれはそれで妥当な考え方です。ましてや音声もまだモノラル中心でしたから、そういうセグリゲーションをとってあとでリミックスするというようなことにこだわる必要も少なかったのも事実ですが…。
(注1)ブームマイク−アームがついたマイクスタンドをブームと言い、それについたマイクなのでブームマイクという。出演者がマイクを持ったり身に付けたりできないとき、カメラに映らないギリギリのところまでこのブームマイクを近づけて録音する
裏方とか影武者とか仕掛け人が、ぼくの家系
ーアルバム「abc/ピコ・ファースト」について
MCAというのはその当時の世界6大メイジャーのひとつで、もちろん現在ではユニバーサルという名に変わりましたが、アメリカの音楽出版社としてアジアの作曲家(ぼく)に対しての報酬の対価としての作曲を依頼していましたので、ぼくは(仕方なく)いろいろと曲を作っていたわけです。そのうちの13曲が自分自身の実演(パフォーマンス)によりリリースされるのですが、これは後日、ぼくにとっては、とても特殊な出来事となるわけです。つまり、当時MCAと契約していた、たとえばエルトン・ジョン(英MCA)は、常に自分自身のパフォーマンスによりますが、ぼくは作家契約なので、実演に関しては特に契約上に制約はありませんでした。実演というのは表方です。ぼくはそもそも裏方稼業のほうが好きなのです。これは、ぼくの家系です。裏方とか影武者とか仕掛け人とかいうのが、ぼくの家系なのです。忍者じゃないよ。
こう言うとありがたみがなくなてしまうかもしれませんが、「abc」は、とても短期間でつくりました。一日?ということもないでしょうが、ポップスのスウィートくらいは、そのくらいでできますので、多分、その程度の期間で作ったものです。しかし、ぼくは特殊な方法でやるので、普通の人の「じっくり作った」くらいの密度はあります。これって、たとえばPCのCPUの演算速度みたいなことを考えていただければ理解しやすいと思います。別にぼくが特に優秀なのではなくて、そういう演算速度を速くする技術があるだけです。というより他の人が遅すぎる?
技術というのは、あたりまえですが、いわゆるひとつの特技です。マラソンの高橋尚子は心肺機能が他人より優れているということもあるのでしょうが、マラソンに勝つという別の特技を持っているのかもしれません。高橋の例はあまり良い例ではないかもしれませんが、その特技を持ってしまう機会が、どうもこの世の中に存在しているようなのです。というのは、ぼくもあまりよくわからないのですが、そういう力を発揮する特殊な技術というのが、或る日、急に身についてしまうことがあるのです。変な言い方ですが、“天啓を受ける”というのがあるでしょ? あれみたいなんですが。それ、やっちゃった人って、お互いにわかるのです。高橋はどうだかわかりませんが、実は何人かいるのですよ。あのひととあのひと。
「abc」が、政治的意図などというバックグラウンドを持っていたかというと、全然NOです。ただし、制作を担った人たちの多くは、かなりの政治的コンセプトを持っていた人でした。結果的にはその時代のアーティスティックなパラダイムを作っていった人たちでしたから、それなりの制作意図というものはあったと思います。つまり、ぼくという音楽家(アーティスト)が、そういう当時の革命的なコンセプトを持つ人たちにとって、ある意味ヒーロー的だったのであって、そのぼくに託した花の種をいずれは開花させることができれば、などと考えていたのではないかと思います。そして、そういう意味では(石川)セリは、またひとつのヒロインだったかもしれません。 自分で歌うというのは非常に特殊な範疇でしたので、まちがいなく「abc」の13曲は「abc」のために書いたのだと思います。
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