樋口康雄氏は、日本で最初に「ジャンルの垣根を越えた」ニューコンポーザーです。多くのTV番組やCM音楽を担当し、自身も優れたポップスシンガーとして音楽史に残る傑作アルバムをリリースした彼は、アメリカの有名音楽出版社と専属作家契約を結んだ最初の日本人でもあります。
ポピュラーミュージックが書けると同時に、シンフォニック・スコアを書くこともできた樋口氏は、純音楽やクラシカルな作品も数多く作曲し、音楽プロデューサーとしても活躍しています。誰もが天才と謳い、十代でプロの作曲家として活動を始めた樋口氏は、どのような歩みを経て天才としての側面を表すようになっていったのでしょう?



樋口康雄氏は、1952(昭和27)年10月13日、東京都品川区に生まれました。バイオリンをたしなむ父の影響で、幼い頃から音楽に親しみ、父のレコード棚にあったジャズやクラシックのレコードを聴いて育ちました。天分として絶対音感を持っており、1度聴いた音楽は再現でき、幼稚園時代には先生バイオリンのオルガンの代弾きをし、小学校時代にはピアノ曲やアンサンブルの作曲を始めたといいます。3歳からピアノのレッスンを始めますが、「遊びに夢中になって」長くは続かなかったといいます。両親も息子を音楽家にしようという考えはなかったようで、中学は進学校の名門、麻布中学に進学します。



ビートルズ麻布中学2年の時、洋上スクールに参加した樋口氏は、起床音楽として流れた「ALL YOU NEED IS LOVE」に衝撃を受け、ビートルズに傾倒するようになります。しかし、それは、当時、まだ大人たちに白眼視されていたビートルズの音楽が洋上スクールという教育の場で流れたということや、同船していた外国人の女の子たちのミニスカートファッションといった、ビートルズに象徴される新しいムーブメントにカルチャーショックを受けたという側面が多分に含まれていたようです。
中学時代にバンドを結成し、文化祭で演奏を披露することもあったという樋口氏バンドで活動していた頃は、高校時代には、学校の近くにあったMRA(Moral and Spiritual Re-Armament=道徳再武装)に出入りするようになります。その人脈から慶応大、立教大のジャズ研に参加、ピアニスト、コーラス・アレンジャーとして活動するようになり、ピアノの即興演奏では、その地域では名の知れた存在となっていきます。



MRAのボーカル・インストゥルメンタルグループ、シングアウトにエキストラとして参加していた樋口氏は、NHKのチーフ・ディレクター・末盛憲彦氏に見出され、高校在学中にシングアウトのメンバーとしてプロとして活動を開始することになります。シングアウトは、1969年7月、第1回合歓ポピュラーフェスティバルで『涙をこえて』(作詞・かぜ耕士、作曲・中村八大)でグランプリを受賞、同年11月にはRCAよりレコードデビューを果たします。
シングアウトは、文化放送の「シングアウトと歌おう」やNHKの音楽番組にレギュラー出演しました。NHKの音楽番組では、最年少の樋口氏は「ピコ」の愛称で、番組のマスコット的な存在として人気を集めました。
樋口氏は、同番組の初代音楽監督だった中村八大氏のテクニックを盗みながら、アレンジやオーケストレーションを学びます。71年4月にシングアウトがレギュラー番組を降板した後も不定期に番組に出演し、番組後期には史上最年少の音楽スタッフとして活躍しました。

合歓ポピュラーフェスティバル 於:ヤマハ・ミュージック・キャンプ大ホール 1969/7/25
中央で指揮をとるのは作曲の中村八大氏。中村氏の左後方キーボードが樋口氏




一方、樋口氏は1971年12月に日本人として初めて米国MCAと専属作家契約を結び、1972年9月には日本フォノグラムより「abc/ピコファースト」でソロ・デビューを果たします。その卓越した才能は、音楽誌などで高く評価されましたが、テレビ・ラジオによるプロモーション活動などは行われず、このアルバムが広く一般に知られることはありませんでした。当時はまだ、シンガーソングライターという言葉が一般化しておらず、作曲、編曲、ボーカル、キーボード演奏、オーケストラアレンジをひとりで手がける樋口氏のことを、マスコミは「マルチ人間」と呼び、「天才」と謳いました。ベートーベンしかし、70年代以降に台頭してきたシンガーソングライターを思い浮かべるまでもなく、モーツァルトやベートーベンの時代の作曲家たちは、作曲家というより”音楽家”で、作曲・編曲はもちろん、演奏や歌唱もこなすのが当たり前だったのです。現代のように役割が明確に分業化したのは20世紀になってからのことですが、音楽に関するほとんどを独力で行っていた、この時期の樋口氏は、シンガーソングライターというより、モーツァルトやベートーベンの時代の音楽家に近い活動の形態だったと言えるのかもしれません。当時の新聞記事
また、この頃からCM、映画、ドラマの劇伴の作曲を数多く手がけるようになった樋口氏は、クラシックの譜面の書ける数少ない若手作曲家として注目を集めていきます。
(写真は当時の新聞記事)




78年1月にMCAとの契約が満了したのを機に独立した樋口氏は、79年にワーナー・パイオニアから純音楽作品「オリエンテーション」とジャズアルバム「ニューヨーク・カット」を同時制作、発表します。「オリエンテーション」に収録されたバイオリン協奏曲”KOMA”が手塚治虫氏の耳にとまり、劇場用アニメ映画「火の鳥2772」の音楽に起用されたことがきっかけとなり、以後、樋口氏はアニメ音楽の分野にも活動の場を広げていきます。80年代は、CMや劇伴も次々と量産され、火の鳥2772樋口氏は映像音楽の分野で着実にその実績を築いてきました。「エリマキトカゲ」や「アリナミンA」、「世界名作劇場・小公女セーラ」といった代表的な作品は、この時期に製作されています。
(「火の鳥2772」制作発表。左から樋口康雄、千住真理子、手塚治虫)





タワーレコードに大きくディスプレイされていた90年代に入ってからも、樋口氏は付随音楽の分野で数多くの作品を手がける一方、岩崎(益田)宏美三部作など、ユニークな作品を発表しています。しかし、96年の『起動新世紀ガンダムX』を境に、CM音楽の分野を除き、作曲活動を停滞させています。長い間、樋口康雄に注目し続けてきた彼の支持者は、時には一抹の危惧の念を抱いたときが必ずやあったに違いありません。しかし、21世紀なると、樋口氏の名は突如、脚光を浴びるようになります。「abc/Pico First」に収録されていた『I LOVE YOU』が、クラブシーンで若者たちの絶大な支持を集めたのです。それをきっかけに、70年代、80年代に発売された作品が次々に復刻され、樋口康雄再評価の時代が訪れます。そして、2003年3月、ガンダムX以来、7年ぶりとなる新作アルバム「MUSIC FOR ATOMAGE」で、その才能の健在ぶりを示しました。



そのリーンの翼後も、樋口氏は「ジャックブレルは今日もパリに生きて歌っている」「GODSPELL」「ナイン」といったミュージカル作品を手がけたり、2005年12月には、富野由悠季監督の新作アニメ「リーンの翼」、翌2006年7月には新人・秋山奈々のデビュー曲「わかってくれるともだちはひとりだっていい」を書き下ろしています。近年は、第一線からは退いたものの、現在までマイペースで音楽活動を続けています。

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