GOD SPELL
2005/09/22〜10/02 池袋・東京芸術劇場中ホール



【スタッフ】
音楽・作詞=スティーヴン・シュワーツ 原案・オリジナル演出=ジョン・マイケル・テベラック
翻訳・訳詩・演出=青井陽治 プロデューサー 初見正弘
音楽監督=樋口康雄 音楽監督助手=大隅一菜 編曲助手=寺田鉄生

【キャスト】
新納慎也, 大沢樹生,堀内敬子, 宮川浩,仲代奈緒,真矢武,真織由季, 林田和久,
秋山エリサ, 野島直人, satsuki, 飯野めぐみ, 岡田亮輔, 綾野はる, 中塚皓平,川原一馬, 海老澤健次

【ミュージシャン】
寺田鉄生(Kb), 大隅一菜( pf),西沢譲(g), 水野清久(b), 石田淳(Dr)

【Musical Numbers】
Act−1 バベルの塔 Tower Of Babel
道整えよ Prepare Ye
救え民を Save The People
デイ・バイ・デイ Day By Day
よく学べ Learn Your Lessos Well
主はめでたし Bless The Lord
すべては善きかな All For The Best
すべて善き贈り物 All Good Gifts
この世の光 Light Of The World
Act−2 よく学べ Learn Your Lesoons Well (Reprise) 
すべて善き贈り物 All Good Gifts(Reprise) *パンフレット表記なし
人よ振返れ Turn Back, O Man
哀れな者 Alas For You
私のそばに By My Side *作詞:ジョイ・ハンバーガー
 作曲:ペギー・ゴードン
美しい町 Beautiful City
お願いします We Beseech Thee
デイ・バイ・デイ Day By Day(Reprise)
柳の木 On The Willows
フィナーレ Finale


『GODSPELL』は、1971年にオフブロードウェイで初演された、新約聖書の『マタイ福音書』に基づいたロックミュージカルである。第1幕は聖書のエピソードを積み重ねた構成で一貫したストーリーがあるわけではないが、第2幕でイエスが捕縛され、十字架につけられ死んでゆくまでのエピソードを描き、これが全体を貫くストーリー的役割も果たしている。聖書のエピソードをジェスチュアやタップも交えたコミカルなタッチで描き、音楽で繋いでゆく『GODSPELL』にはヴォードビルを思わせる雰囲気がある。もともと大学の卒業制作としてつくられたこの作品は、例えば「ナイン」のように高度に洗練された”大人のミュージカル”ではないが、役者、演出、装置、音楽と、総じてその質は高く、充実した楽しめる舞台に仕上がっていた。

舞台中央にそびえたつ巨大なカラー・ジャングルジム。そのジムを挟み、下手側にはピアノ、ベース、ドラム、上手側にはギターとキーボードがそれぞれセッティングされている。中央には一段低い張り出し舞台。開演10数分前、最初の役者が登場すると、ひとり、またひとりと役者が現われてはジムの思い思いの場所に腰を降ろす。活人画はしばしばキリスト教を題材とするが、衣装をまとったままセリフも無く、ほとんど動きのないこの活人画的構図は視覚的にもおもしろく、観客に現実空間と虚構の世界との境界を曖昧にさせる。ジーザス役の新納慎也さんが読み上げる本の言葉が、そのまま観客へのナレーションとなる導入部は、その朗読の語り口とジャングル・ジムという装置とをかけ合わせることで、これから始まるドラマが「ごっこ遊び」として演じられる劇中劇の雰囲気を作りだす。巧みな演出は、その狙いが確かで確実に効果をあげていた。

GODSPELL』最大の魅力は、スティーヴン・シュワーツの楽曲にあるといってよい。ロックンロール、ゴスペル、ラグタイムなどに根ざすバラエティに富んだ楽曲は、どの曲もシングル・カットできそうな完成度の高さと親しみやすさを持っており、同時に訴求力も併せ持っている。冒頭で歌われる「バベルの塔」は、出演者全員が次々とソロをまわしていく。とても生声とは思えない迫力で、この1曲でこのカンパニーがまずまずの実力者揃いだということがわかる。「バベルの塔」には、歌詞の途中で般若心経が出てくる部分がある。聖書を題材にしているというと、とかくそのことに特別の意味を求めがちだが、この作品の本質は”聖書に題材を得たエンタテインメント”であって、それ以上でも以下でもない。むしろ、『GODSPELL』は宗教や時代を越えた「愛と平和」という普遍のテーマを扱っている。しかし、いくらテーマに普遍性があるからといって、「なぜ71年にアメリカで初演された作品を2005年の東京で再演するのか?」という疑問もあってしかるべきだろう。いろいろ理由をあとづけすることは可能だろうが、つまるところ、青井陽治氏が自身が最も影響をうけた70年代を再現したかったということなのではないか、と私は思っている(^^ゞ。今回の再演を「ヒッピー文化といった70年代のにおいを抜き去り・・・」(読売新聞劇評)と見るむきもあるようだが、果たしてそうなのだろうか? 例えばこの公演のコピー、゛MAKE LOVE、NOT WAR"は、ヒッピー・ムーブメントをシンボライズする言葉"LOVE & PEACE"の言い換えであることは明らかだ。「道整えよ」を歌いながら登場したヨハネに洗礼を施され、若者たちは、それまで着ていた普段着を脱ぎ捨てると天から降ってきた衣装に着換える。その衣装は”フラワー・チルドレン”(ヒッピーは道行く人に花を配って反戦を呼びかけ、平和と愛の象徴として花で身を飾ったことからフラワー・チルドレンと呼ばれた)そのままのイメージだ。また、ジーザスのメイクを見た瞬間、私の頭に思い浮かんだのは70年代を華麗に駆け抜けたカリスマ・ロック・スター、デヴィッド・ボウイの姿である。そのボウイをカリスマに押し上げた映画「ジギー・スターダスト」はボウイ演じる”ジギー・スターダスト”なる宇宙からきた異星人がロック・スターの頂点にのぼりつめた後、そのエゴによりファンの反感を買って堕落、自らその存在を絶つというストーリー。そして「ジギー・スターダスト」で自らもカリスマとなったボウイは、意識的にカリスマを演じ、絶頂期に自らその仮面を破壊した。それは自らの運命を知る道化として描かれた『GODSPELL』のジーザス像を思い起こさせはしないか? ゆえに私は、今回の再演を「70年代のにおいを抜き去った」のではなく、青井氏流の「今日的70年代表現」とみるのだが、いかがなもんだろう? なぜなら、『GODSPELL』には、愛や平和といった普遍のテーマのほかに、21世紀を生き抜くうえの、あらゆるメッセージがあった「70年代」へのおおいなる讃歌が込められている思うからである。

「救え民を」は、『GODSPELL』のなかでもよく知られている曲のひとつだ。アコースティック・ギターをバックに新納ジーザスのソロで歌われる前半から、バンドをバックにアンサンブルで歌われる後半にかけての盛り上がりが素晴らしい。 強烈な色彩の衣装とジャングル・ジム、そしてよくある手法とはいえ、アンプリファイドとなった音響が場面が次のステージへと移ったことを明確にすると、いやがおうにも高揚感が高まってくる。あとはこの流れに身を任せるのみ。そして、ここからしばらくは聖書の説話が寸劇の形で演じられていく。ともすれば単調に陥りがちなエピソードの積み重ねを飽きさせずに見せるのは、コメディ仕立ての寸劇と劇中劇を意識したキャストのやや誇張ぎみの演技だ。加えて、コメディーリリーフ役をも請けおったユダ役の大沢樹生さんの“怪演”によるところも大きい。彼の演技や歌は、好き嫌いが別れるところかと思うが、裏を返せばそれだけ強烈な個性を持っているということ。つまるところ、今回の『GODSPELL』は、大沢ユダをどう見るかで、その評価の半分は決まってしまったと思うのだが、いかがなもんだろう? 私はといえば、どこまでが演技でどこまでが地なのかわからない大沢さんのアドリブの機転の早さに、演技者としての勘のよさを感じた。観客の反応を見ながら日々変更を積み重ねたと思われる細かいギャグや捨身の演技は文字通り抱腹絶倒のおもしろさ。だが、時として、その本筋とは関係ないギャグが演出上の笑いを上回ってしまったのは皮肉だった。舞台後半の日程では、そのあたりもうまく調整されたが、ただひたすらぶち切れたユダを演じればいいというものでもあるまい。ユダ役は彼しかいないと思わせるほど、稀にみる個性をもっているのだから、さらに役をつきつめ、三度彼にユダを演じて欲しいと思った。

続く「デイ・バイ・デイ」は、世界的にヒットした最も有名なナンバー。それゆえ、初日に「まいにち〜」と日本語訳で歌われたのを聴いたときは、あまりの違和感に一瞬のけぞった。しかし、慣れというのは恐ろしいもので、二度目に聴いたときにはたいして気にならなくなり、三度目には一緒になって「まいにち〜」と歌っていたのだから、我ながらいい加減なもんである。「デイ・バイ・デイ」は曲の良さもさることながら、堀内敬子さんの透明感のある歌声が素晴らしかった。その美声を聴いていると、私はそのまま天国に行ってもいいとさえ思った。今回の女性キャストは、皆、それぞれに素晴らしい声をもっていて、甲乙つけがたい魅力があったが、舞台での存在感という意味では、堀内さんが半歩抜きん出ている感があった。劇団四季でキャリアを積んだ、堀内敬子さんに対して、一方、「よく学べ」を歌った真織由季さんは宝塚の出身。ちょっとハスキーな独特の声質が魅力的で、その歌唱はよくも悪くも宝塚っぽさを感じなかった。宝塚時代は男役だったというが、見た目の女性らしい雰囲気に反して、軽快なリズムも難なくこなし、ひょうきんな役どころを明るく演じてみせるキャラクターとのギャップが新鮮だった。その真織さんは常に、安定した歌唱を聴かせてくれたが、千秋楽の日は音程があがりきらない場面があった。おそらく前日のマチネで転倒し、肋骨3本骨折、腕を脱臼したケガによる影響だったのだろうが、その一瞬をのぞけば、それだけのケガを負ったことを微塵も感じさせない歌と演技は、その素晴らしい役者根性に頭のさがる思いがした。ジャック・ブレルのゲネプロで大怪我を負いながらも、最後まで出演を願った安奈淳さんといい、その安奈さんの代役をひと晩の稽古で立派に務めあげた麻乃佳代さんといい、本当に宝塚出身者のプロ根性にはすさまじいものがあると思ったが、今回もまたその思いを強くする結果となった。

新キャストのなかで傑出していたのは「主はめでたし」を歌ったsatsukiさんだ。ゴスペル調のアレンジは彼女の持ち味をよくいかしていた。その迫力は会場の観客を震撼させるほどで(ちょっとおおげさ)、ここは前半のちょっとした聞かせどころになっていたと思う。役のうえでは、そのビジュアルから専らいじられ役だったわけだが、ある意味、これは一番おいしい役だったともいえる。とにかく新キャストのなかで一番観客にアピールしたのは、彼女だったことは間違いない。ところで本公演では、ナンバーのWキャストが組まれており、日によってソロやアンサンブルの組み合わせが変わっていた。しかし、事前に十分な告知がなされておらず、リピーターでありながらWキャストを観ることなく終わった人もいた。ここは主催者に一考してほしかったところである。たまたま私は運良く飯野めぐみさんが歌う「主はめでたし」も聴くことができたが、その飯野さんのソロもなかなかパンチがあってよかった。ただ、低音部で無理にドスをきかせて歌う歌い方には少々抵抗を感じた。そして、なぜ自分はキャストの中で彼女にだけ新鮮味を感じることができなかったのか、この日、彼女の歌う「主はめでたし」を聴いて、初めてその理由にハタと思いあたった。それは・・・ドスのきいた歌い方、声質(ひょっとすると顔立ちも)がプリ×2の奥居香そっくりだったのである。つまり、私が彼女に新鮮味を感じなかったのは、既成のタレントを思い起こさせるところに原因があったのだ。とはいえ、飯野さんには華があり、日毎に存在感を強めていった感がある。

『GODSPELL』の短いエピソードを積み重ねた構成は、どことなくヴォードビルを思わせる雰囲気があるが、実際、「すべては善きかな」ではジーザスとユダガふたり並んでステッキを手に踊るといった典型的なヴォードビルスタイルの場面が披露された。ドゥワップ風のコーラスやタップダンスを交えたこの曲は楽しさという点では一番である。ところで、今回の舞台のみどころのひとつに、どこか頼りない新納ジーザスと切れ味のよい大沢ユダという組み合わせの妙がある。極端にデフォルメされたふたりのキャラクターの対比はマンガチックでさえある。と、そんなことを思った瞬間、あるマンガのことが私のアタマの中から離れなくなった。それは少女漫画の超大作「エロイカより愛をこめて」という、イギリスの美術品泥棒「怪盗エロイカ」ことグローリア伯爵と、NATOドイツ支局情報部の「鉄のクラウス」ことエーベルバッハ少佐との奇妙な関係(友情?腐れ縁?)を中心に描いたスパイ活劇なのだが、この伯爵と少佐の役が新納×大沢コンビのイメージとみごとなまでに重なるのだ。誰かこのふたりの主演で「エロイカより愛をこめて」を舞台化してください・・・と、『GODSPELL』を見ながら、まるで関係ないことを考えていた私のことも、神はきっと「すべて御心」で許してくださるに違いない(←ご都合主義)。

楽しいといえば、ミュージカル・ナンバー以外のちょっとした歌や効果音も楽しかった。なかでも個人的にツボだったのは種まきのエピソードのなかの「雑草」のBGM?。「主我れを愛す」はおそらく私が幼稚園で覚えた最初の曲(プロテスタント系の幼稚園だったので、歌うのはすべて賛美歌だった)。途中から「シャボン玉」になる替え歌は、数十年ぶりに耳にしたので、本当に懐かしかった。しかし、種まきのエピソードのあとの「友達の輪!」とか、日によって聞いた「コマネチ!」のギャグは、懐かしいというより、古すぎるわ寒すぎるわで、聞いてるこちらのほうが赤面しそうになった。このギャグのセンス、なんとかならないものだろうか?来年再演するときは、絶対に変更して欲しいと切に願います(大マジ)

コミカルな寸劇とにぎやかなナンバーが続いた後の「すべて善き贈り物」は、数あるナンバーのなかでも特に印象に残る1曲だった。これまでの曲とは一転して静かな曲調のこの曲は、真矢武さんの癒しを感じさせる歌声が感動的なまでにすばらしかった。川原一馬君による哀愁をおびたリコーダーの音色も効果的で、その演奏はオリジナル以上にうまいと感じた。女性新キャストでいちばん目立ったのがsatsukiさんだとすれば、男性新キャストのなかで最も目を引いたのは、この川原一馬君である。最年少の彼はカンパニーの中でマスコット的役割を果たしていた。言ってみれば、ステージ101におけるピコのような存在である。タップもこなし、歌もそこそこ歌え、マラカスを振る腰つきからはリズム感のよさも感じられた。器用貧乏にならなければ、将来は楽しみな役者さんになるかもしれない。『GODSPELL』では、このリコーダー以外にも、宮川さん、秋山エリサさんのギター、海老澤健次さんの三線と、役者さん自らが楽器を演奏する場面があって、これがなかなか楽しかった。海老澤さんは三線が得意ということだが、本人の特技が舞台で生かせたキャストはラッキーだった。一方、中塚皓平さんは、特技のダンスの才能がわずかに垣間見れる部分があっただけに、その才能の存分な見せ場がなかったことが惜しまれる。また、綾野はるさんに及んでは、なぜキャスティングされているのかわからないほど存在感が希薄だった。失礼な言い方をするなら、見せ場もなければ華もない。せっかくオーディションでキャストを選んでおきながら、キャストの魅力を引き出せなかったのは残念だった。

『GODSPELL』は、たいへんアドリブの多い芝居だ。だから音楽は当然、生バンドである。バンドメンバーは、寺田鉄生、西澤譲、水野清久、石田淳のかつてのJBバンドのメンバーに、新たにピアニストに大隅一菜さんを迎えた新体制。大隅さんは「nine THE MUSICAL」で稽古ピアノを担当されており、樋口さんの作品に関わるのはこれが初めてというわけではない。が、JBバンドとのメンバーとは初顔合わせとなるわけで、バンドとしてのまとまりが気になるところだった。が、そのあたりは非常にうまくいっていたと思う。アドリブの多い芝居ゆえ、バンドメンバーとしても気を抜く暇がなかったのでは?と思いきや、ユダのジョークに一番笑ってたのは、このバンドメンバーではないかと思えるくらい余裕があった。このバンド、フツーにうまいバンドなのだが、フツー以上にとぴ抜けてうまいバンドとは思わない。しかし、一瞬、「へ?」と思うような場面があっても、なぜか不思議と曲のキメの部分ではピタリと合う。それにバンドと歌い手である役者さんとの間にも一体感が感じられ、バンドを含めてひとつのカンパニーといった連帯感に近い雰囲気が感じられ、それが舞台全体に非常によい影響を与えていたと思う。途中、ラップを取り入れた場面では、リズムをあわせるのがかなり難しそうだったが、バンマスの寺田氏が必死に?カウントをとって、うまくさばき、みごとにまとめた。(そもそもラップやヒップホップといったブラック・ミュージックは、そうした素地がない日本人がやると「とってつけた感じ」が拭えないので、今回のように、ミュージカルナンバーではない場面で、ちょっと取り入れるだけにしておいて正解だと思う)。また、キーボード以外にもトランペットを演奏するなど、樋口さんとは別の面で、『GODSPELL』の音楽において寺田氏が果たした役割は大きい。ところで、新ピアニストの大隅一菜さんがどんな演奏を聞かせてくれるのかも今回の公演の楽しみのひとつだったわけだが、千秋楽の日、その大隅さんの身体の一部分に私の目は釘付けになってしまった。その身体の一部とは、ピアニストの手元でも表情でもなく、足である。ピアニストが足でリズムをとるのは別に珍しいことでもなんでもないが、フツー足でリズムをとるといったら、床を踏みならしてリズムをとることを言う。ところがこの大隅さん、興がのってくると?足を振り上げてリズムをとるのである。つまり、足がサッカーのキック状態;; これまで、いろいろなピアニストを見てきたが、こんな派手なフット・パフォーマンスは初めて見た。そして、つくづく舞台のピアノがグランドでよかったと思った。アップライトだったら前板ボコボコ・・・(以下自粛)

さて、話をもとに戻そう。ラップからなだれ込むように続く「この世の光」は、一幕のエンディングにふさわしい、もっともロック的なにぎやかなナンバー。この曲も日によって歌うパートとキャストの組み合わせに変化があったが、いずれのバージョンでも、ひときわ際立って曲の雰囲気を盛り上げていたのが、宮川浩さんの壊れぎみのノリノリの歌唱。アコギの弾き語りや「美しい町」のようなしっとりと聴かせるナンバーもよかったが、なかなかどうしてロック色の強いナンバーも歌いなれているとみえ、シャウトやクレイジーボイスも完全に板についている。宮川さん、役者さんながら、音楽のレパートリーの守備範囲はかなり広いとみた。バンドの演奏をバックに、ジーザスが観客に休憩時間にはいる呼びかけをするという演出もふるっていた。(ギターソロやトランペットによるインプロのアレンジは、樋口さんではなくバンド・メンバーの裁量に任されているとみたが、実際はどうだったのだろう?) 舞台に用意されたワインは観客にふるまわれ、衣装をつけたままのキャストが観客でごったがえす休憩時間のロビーを闊歩する。そして、休憩時間が残り少なくなると、開演のときと同様、休憩時間の終了を待つことなく、ギターを手にした秋山エリサさんが「よく学べ」を歌いだす。バンドメンバーもアコギやボンゴで加わり、キャストも観客も一緒になって手拍子で歌い始める。そして、その気配を感じたロビーのお客さんたちが足早に客席に戻ってくる。秋山さんのソロは、休憩中のこの一曲だけだったが(パンフレットではここから二幕)、その日本人離れした(クォーターらしい)容姿は、舞台のうえではひときわ目立つ存在だった。セクシーな衣装でお色気たっぷりの役どころを演じるが、全然いやらしさがない。ユダの台詞に「そこの山本リンダみたいな女!」というのがあったがいたが、秋山さんにはリンダさん同様、女性からも好感をもたれる親しみやすさがある。しかし、山本リンダとは、いかにもたとえが古い。と言いながら、ゴールデンハーフを連想した自分も相当古い(^^ゞ

今回の女性キャストは、皆、歌唱力に優れていたが、個人的にはそのなかでも特に堀内敬子さんと仲代奈緒さんの歌声に惹かれた。仲代さんは写真で拝見し、大人の落ち着いた女性というイメージを持っていたが、実際拝見すると、たいへん小柄で愛らしい雰囲気をもった方。だが、その小柄な体からは想像できないほど張りと伸びのある歌声で、彼女の歌う「すべて善き贈り物」を聴いたときは、この曲を聴くためだけに、もう1回『GODSPELL』を見てもいいとさえ思った。また、歌だけでなく、台詞を話すときの声がたいへん魅力的だったことが強く印象に残った。

『GODSPELL』でもっとも強烈なのは第二幕のユダの登場シーンである。ピンクのコルセット風の衣装と黒の網タイツに身を包み、派手なメイクで「人よ振り返れ」を歌いながら客席のうしろからユダが登場すると、悲鳴とも歓声とも聞こえる声が会場のあちこちからあがった。「人よ振り返れ」と言われなくても思わず振り返ってしまう、趣味よく品の悪いスタイルの大沢ユダは、ヘドウィグ三上と完全に互角である。オバちゃんたちは大喜び、それまで苦虫を噛潰したような表情で舞台を観ていた中年のおじさま族も、もはや笑いをこらえることができない。男性がこのような衣装で登場するということは、女性が褌姿で登場するようなもんである。羞恥心をかなぐり捨てた役者魂はそれだけでもみあげたものである。だが、単に女装するだけなら、観客はここまで反応しはない。きわどい衣装を美しく着こなす鍛えられた肉体、会場の反応にあわせた臨機応変なアドリブ・・・我々はユダのそういう姿に拍手喝采を送ったのである。つまり、この衣装を着て登場するということ自体、ひとつのゲイ「芸」だと思うのである。しかし、私には、なせ゜ここでユダがこのような衣装で登場しなければならなかったのか、その理由がいまもって解せない。ジーザスを愛しながらも悪魔に売り渡そうとするユダの倒錯した心情を女装というスタイルに象徴しようとしたのか、それとも単なるウケねらいだったのか、はたまた青井氏の個人的嗜好によるものなのか・・・それがわからないのが、どうにももどかしく、口惜しくてならない。

第二幕でも第一幕同様、聖書のエピソードが次々と演じられていく。 教えを説く中でジーザスが歌う「哀れな者」の誇り高く激しい調子は、観客を圧倒する。この曲といい、「FINALE」といい、ジーザスが憑依したかのような新納さんの心を込めた歌唱には心を揺さぶられた。再びいくつかのエピソードが演じられた後に堀内さんが切々と歌う「わたしのそばに」は、ユダの裏切りを嘆き悲しむかのような深い悲哀に満ちている。しかし、惜しいなと思うのは、ユダが忠実な使徒から裏切りに向かうまでの心情の変化がわかりにくい点だ。この曲の後に挿入される「何を褒美にくれますか? あいつをあなた方に売ったら。」というユダの台詞から、金のためにジーザスを売ったことはわかるものの、それまでのユダとジーザスとの関係から考えると、いかにも動機が単純で唐突なかんじである。わずか30枚の銀貨(家畜1頭分の価値しかない)でジーザスを売り渡すという動機に説得力が乏しいので、その後のユダの葛藤が、いまひとつ胸に迫るものがない。金でジーザスを売り渡そうと考えるに至るまでのユダの疑心を暗示する場面や伏線があるとわかりやすかったのではないか(むしろ、ルカやヨハネ福音書の「ユダに悪魔が入った」という説明のほうが、はるかに理解しやすい。)

「美しい町」は、この日本版バージョンのアレンジが最高だと密かに思っている。宮川さんと堀内さんの息の合ったコンビネーションもみごとなら、サビの男性陣のコーラスもよかった。間奏部分でのトランペットも効果的に使われており、その美しさには魂を洗われるような清々しさを感じた。このあと再びエピソードが演じられていくわけだが、舞台の進行としては少々緩慢に感じる。聖書の流れに沿っているので、話をはしょるわけにもいかないのかもしれないが、もう少しコンパクトにまとめたほうが、しまりのある舞台になったような気がする。そんな少々悠長な流れに喝を入れるかのような元気な曲が、「お願いします」である。この舞台のテーマともいえる「♪ラブ」のリフレインが印象的で、そのノリのよさには、思わず一緒に歌わずにはいられない楽しさがある。だが、皮肉にもこの舞台のテーマソング的なこの曲で、新旧キャストの歌唱力の差が露呈してしまった。この曲も日によってキャストの組み合わせが変わっていたのだが、新キャストの男性3人がソロでをまわすバージョンは、明らかにその弱さがめだった。女性新キャストが歌の面で健闘していただけに、男性陣にも歌の面であと一歩のがんばりを期待したかったところだ。もっとも新男性キャストのなかでも、野島直人さんは天性の声の持ち主で、歌唱の面ではひとり存在感を打ち出していた。ただ、この野島さん、どうもキャラクターが『GODSPELL』向きではないのだ。よくいるでしょ、おもしろい冗談を言ってても、どこかお堅い雰囲気が漂ってしまう人って・・・。野島さんには軽妙でコミカルな『GODSPELL』のような舞台より、シリアスな舞台や役どころが似合っているように思えた。

『GODSPELL』では、第一幕で歌われたミュージカルナンバーのうち何曲かが、第二幕でも繰り返し歌われる。第一幕では、堀内さんのソロでジーザスとともに歩む希望に満ちた明るい調子で歌われた「デイ・バイ・デイ」は、今度はカンパニー全員によって、やがて訪れるジーザスとの別れを予感させる切なく、やるせない調子で歌われる。第一幕のユダの登場シーンでアカペラで歌われた「道整えよ」は、エンディングではバンドをバックに二部の厚みのあるコーラスで歌われる。観客は、前に聞いた場面を思い出起こすことで時間や状況の変化を実感し、曲調の変化で一瞬にしてその場の空気を理解する。アレンジやアンサンブルを変えて重層的に用いられる楽曲には、いくつもの表情が生まれ、深みを増す。これぞ音楽の醍醐味、ミュージカルの魅力である。

重層的といえば、装置であるアクリルボックスやジャングル・ジムの使い方にも目をみはった。あるときは寸劇の舞台となり、あるとき晩餐の食卓となり、また、あるときはゲッセマネの丘になる単純な四角の透明ボックスは、縦横に配置を変えることで様々な場面を表現する。なかでもたった一度だけ遭遇した偶然の効果には、あっと息を呑んだ。それは、眠りこける弟子たちのそばで、ゲッセマネの丘にみたてて積み上げられたボックスの上でジーザスが祈るシーンだった。その日、私が座った席からは視角の関係で、透明なボックスは完全に背景と同化して見えなくなり、あたかもジーザスが天空に浮いているように見えたのだ。その幻想的な光景は今も忘れられない。そしてジャングルジム。『GODSPELL』といえばジャングルジムというほど、その存在は象徴的である。だが、なぜ゜ジャングルジムなのか、実はその理由がよくわかっていなかった。だが、何回か公演を見ているうちに、はたと気がついた。山上の垂訓が語られたガリラヤの丘、ジーザスが十字架にかけられたゴルゴダの丘、ユダが首を吊るハナズオウの木・・・ジャングルジムは、ジャングルジムであるだけでなく、それら垂直方向に広がる空間を表現するのに実にふさわしい装置なのだ。そのことに気づいたとき、私は『GODSPELL』でいちばんえらいのは、このジャングルジムだと思った。

ところで、公演をご覧になった樋口ファンの皆さんは、この公演のどこに樋口テイストを感じたのだろうか? いわゆる樋口テイストという意味で言うなら、私がそれを感じたのは、わずかにアンコール場面のピアノのフレーズのみである。もちろん、他にも「これは?」と思うところがあるにはあるが、オリジナルはもちろん、過去の公演も見ていない私には、はっきりと「ここは樋口さんだ」と断言できるほど、顕著な特徴を指摘する自信はない^^;)。にもかかわらず、「樋口さんらしいな」と感じたのは、全然樋口さんらしくないところが実に樋口さんらしいと思ったからである(爆)。つまり、私には「樋口さんの洋楽アレンジの特徴は、原曲のイメージに非常に近いものである」という認識があって、『GODSPELL』もまた、その認識を少しも踏み越えるものではなかったからだ。誤解のないように一応書いておくと、「原曲のイメージに近い」というのは、「原曲と同じ」ということではない。両者を並べて聞けば、はっきりと違いがあるのだが、それこそ並べて聞きでもしない限り、その違いは即座にはわからない。世の中には、原曲から大幅にかけ離れたアレンジをよしとする向きもあるようだが、原曲のよさが損なわれてしまってはアレンジの意味がない。ましてや『GODSPELL』の曲のよさは、万人の認めるところであり、曲の認知度も高い。だからこそ、バンドやキャストの持ち味は考慮しつつも、原曲のイメージを損なうことのない微妙な匙加減のアレンジは、結果的にミュージカル全体の好印象につながったと思う。しかし、このことは裏をかえせば、よほどおかしなことをしない限り、別に樋口さん以外の誰がやっても、そこそこの作品になったのではないかなという気がしないでもない(こんなこと書いたら身も蓋もないが^^;)。しかし、一方で、むしろ、そうした私たち観客の目には直接見えない音楽監督としての役割の部分で、樋口さんだったからこそ、今回の『GODSPELL』ができたのではないかという気もしている。だが、それはあくまでも想像の域を出るものではない。ただひとつ、はっきり言えるのは、私はこの『GODSPELL』が大好きだったということである。あのステージ101そっくりの雰囲気をもった『GODSPELL』というミュージカルが・・・。THE END。

最後に。こんな長ったらしい素人の雑文を最後まで読んでくださったあなたは、きっと私の同志です(笑)。あなたに主の恵みがありますように。