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        ◇  湯 川 秀 樹  ◇  Yukawa Hideki  



              〔 1907~1981 〕





    「 わが国 最初のノーベル賞 物理学者 ・ 湯川秀樹 」




 




    ◇  〈 核廃絶と世界平和 〉 の思想家としての 湯川秀樹  






    ・ わが国で 理論物理学者・湯川秀樹 の名を知らない人はいない。 しかし、没後40年が過ぎた 今日


      「 湯川秀樹の 核廃絶と世界平和の思想 」 については 忘れ去られて いないだろうか。



    ・ 本項では、おもに 「  湯川秀樹の 核廃絶と世界平和の思想 の現代的意義 」 について考える。






  『 PHN ( 思想・人間・自然 ) 』  第53号   ( 2023年3月 )  ( web版 )




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「 日本国憲法施行75周年・沖縄復帰50周年記念 」

2022年:ロシアによるウクライナ侵攻のさなかに考える

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日本初のノーベル賞 物理学者・湯川秀樹 没後40年記念

・『湯川秀樹自選集』刊行50年記念

・「 今、〈湯川秀樹を読む〉 ということの意味 」

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〈 核廃絶と世界平和 〉 の思想家 としての 湯川秀樹


  ――
理論物理学者の「創造的世界」、その軌跡を辿る

  ――その二・・・ 

   ―・終戦からノーベル物理学賞受賞1949)、そして

      国際理論物理学会議1953・京都)まで」・



            和田耕作





    PHN  第53号  PDF版


    phn53yukawa2.pdf へのリンク 



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はじめに:2・・・2023224日〕

 

2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから、ちょう

ど1年が過ぎたが、未だ停戦の見通しも困難な状況である。多数の

人命を失い、焦土と化したウクライナの国土・・。

・国連は、ロシアの即時撤退などを決議した。G7など141ヶ国が

賛成する一方、反対7ヶ国、棄権32ヶ国である。これが、世界

の現状である。


・戦争が長引けば長引くほど、その被害もまた甚大となる。それは、

ウクライナだけでなく世界の損失、人類の悲劇にほかならない。

80億人のなかに停戦へと仲裁する者はいないのか。和平へと仲裁

する国はないのか。「分断の時代」といわれる今日、まさに現代

世界文明は危機的な状態である。


・ひるがえって、日本はといえば、GDPの2%の防衛費を目指すと

した。それは、世界第三位の軍事大国になるということを意味する。

またそれは、戦後77年間、「戦争を放棄した平和憲法」を守ってき

た日本の「平和主義」そのものを破壊する行為であると言わねばな

らない。

・我々は、いまこそ、あらためて湯川秀樹の「核廃絶と世界平和」の

思想に学びつつ、それを活かしてゆく時ではないだろうか。

 

・・・・・・・・

・今回までは、いわば「思想家・湯川秀樹」の前史である。思想家

としての湯川秀樹の本格的な解明は、次回以降となる。

・・・・・・・・



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・【主要参考文献】・・・・・・・・・・・・・・・・

・・〔順不同、「その一」「その二」以降の参考文献を含む〕・・

 

・《A》『湯川秀樹選集』(全5巻、昭和30年~31年、甲鳥書林刊)

・《B》『湯川秀樹自選集』(全5巻、1971、朝日新聞社刊)

・《C》『湯川秀樹著作集』(全10巻、19891990岩波書店刊)

・《D》雑誌『科学』(第1巻〔昭6〕~第17巻〔昭22〕、岩波書店刊)

    〔石原純「編輯主任」時代の『科学』〕

・《E》『小倉金之助著作集』(全8巻、19731975、勁草書房刊) 

・《F》坂田昌一『物理学と方法 論集1(昭和47年、岩波書店刊)

・《G坂田昌一『科学者と社会 論集2(昭和47年、岩波書店刊)

・《H湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』1989、第二刷、三省堂刊)

・《I》『近代日本総合年表 第二版1984、岩波書店刊)

・《J》『科学史研究』1号~第9号(昭和1620年、日本科学史学会発行)

・《K》雑誌『科学』(18巻〔昭23〕~第24巻〔昭29〕〕、岩波書店刊)

・《L雑誌『自然』(1巻〔昭21〕~第9巻〔昭29〕〕、中央公論社刊)



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・①『湯川秀樹著作集』別巻、1990、岩波書店刊)

・②坂田昌一『科学者と社会 論集2(昭和47年、岩波書店刊)

・③小沼通二編『湯川秀樹日記1945―京都で記した戦中戦後』

   2020、京都新聞出版センター刊)

・④小沼通二『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が

遺した希望』2020、岩波書店刊)

・⑤湯川秀樹『極微の世界』(昭和17年、岩波書店刊)

・⑥湯川秀樹『物理学に志して』(昭和19年、甲鳥書林刊)

・⑦政池明『荒勝文策と原子核物理学の黎明』2018、京都大学学術出版

会刊)

・⑧湯川秀樹『存在の理法』(昭和18年、岩波書店刊)

・⑨浜野高宏ほか著『原子の力を解放せよ――戦争に翻弄された

  核物理学者たち』2021、集英社新書)

・⑩中谷宇吉郎『春草雑記』〔昭和22年、生活社刊〕

・⑪湯川秀樹『目に見えないもの』(昭和21年、甲文社刊)

・⑫湯川秀樹『自然と理性』(昭和22年、秋田屋刊)

・⑬湯川秀樹『科学と人間性』(昭和235月、国立書院刊)

・⑭湯川秀樹『物質観と世界観』(昭和238月、弘文堂刊)

・⑮湯川秀樹『原子と人間』(昭和2312月、甲文社刊)

・⑯湯川秀樹『しばしの幸』(昭和29年、甲文社刊)

・⑰田中正『湯川秀樹とアインシュタイン』2008、岩波書店)

・⑱小沼通二編『湯川秀樹日記 昭和9年:中間子論への道』

   2007、朝日新聞社刊)

・⑲小倉金之助『戦時下の数学』(国民学術選書、昭和19年、創元社刊)

・⑳松宮哲夫『伝説の算数教科書〈緑表紙〉―塩野直道の考えたこと

2007、岩波書店刊)

・㉑森口昌茂「戦時期京都帝国大学における緊急科学研究体制の

実態とその背景について―海軍との関係を軸に―」(「東海の科学史」

14号、20214月、所収)

・㉒和田芳恵『筑摩書房の301940-19702011、筑摩書房刊)

・㉓湯浅光朝『解説・科学文化史年表』1950、中央公論社刊)

・㉔『仁科芳雄―伝記と回想』(朝永振一郎・玉木英彦編、みすず書房、1952

・㉕ジョン・ダワー『増補版・敗北を抱きしめて』(上、三浦陽一・高杉

忠明訳、2004、岩波書店刊)

・㉖田島英三「理研のサイクロトロン」(玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄』、

みすず書房、1991、所収)

・㉗「石原純年譜」〔石原紘筆〕、「科学随筆全集2」:『物理学者の眼』、昭和

36年、学生社、所収)

・㉘和田耕作『石原純―科学と短歌の人生』2003、ナテック刊)

・㉙『岩波新書の50年』(岩波書店編集部編、1988岩波書店刊)




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



・・【その二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・【1945年(昭和20年)】・・・B:戦後〕・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

・〈中谷宇吉郎〉・10月、「文芸春秋」に「原子爆弾雑話」を書く。

  〔『春草雑記』昭和221月、生活社刊に収録。中谷:文献⑩〕

 

・【中谷「原子爆弾が今度の戦争に間に合うとは思っていなかった」】

・「ウラニウムの核分裂の発見から原子爆弾に到達するまでに、平時だっ

たら30年とか50年とかの月日を要するだらうと考へるのが普通であ

る。実際のところ私なども、原子爆弾が今度の戦争に間に合はうとは

思つていなかった。」


・「アメリカのことであるから、何百人の科学者を動員し、何千万円とい

 ふ研究費を使っているのかもしれないが、それにしても今度の戦争に

 すぐ間に合ふといふやうな生易しい仕事ではない筈である。・・ところ

 がそれがまるで桁ちがひの数字であったのである。「発見までには20

 億ドルを費」し「65千を超える」技術作業員を擁した大工場の作業

 が、極秘裡に進められていようとは夢にも考へていなかったのである。」


・【「科学に無理解な関係官庁など」=「国力の不足に起因」】

・「少し笑話になるが、我が国でも今度の大戦中、或る方面で原子核崩壊

 の研究委員会が出来ていた。そこの委員である一人の優秀な物理学者

 が、関係官庁の要路の人のところまでわざわざ出かけて来て、その研究

 に必要な資材の入手方の斡旋を乞はれた。その時の要求が真鍮棒1

 であったといふ話である。冗談と思はれる人もあるかもしれないが、私

 は自分の体験から考へて、多分それは本当の話であらうと思っている。」

・「いくら日本が資材に乏しいといっても、かういふ重要な問題の研究に、

 真鍮棒1本渡せない筈はない。無いものは真鍮棒1本ではなくて、一

般の科学に対する理解なのである。そしてそれほどまでに科学者以外

の人々が科学に無理解であるといふことは、煎じつめたところ国力の

不足に起因するのであらう。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・【日本の原子爆弾の研究などは、夢物語であった】

・〔中谷の言うような研究難と物資不足の日本で、「F研究」などの原爆へ

 の研究は、遥かかなたの夢物語ではなかっただろうか。〕

 

・【理研のサイクロトロンを完成させた仁科芳雄の言葉

・「世論がいわゆる緒戦の戦果に酔っている頃、〔仁科〕先生がいわれた最

初の言葉は『馬鹿な戦争を始めた。本当にアメリカの実力を知らないか

、こんなことをするんだね。今に大変なことになる』であった。」

・「アメリカの実力の譬喩としてサイクロトロンの経験を話された。真空

ポンプを注文しても日本の大会社では条件にはまるものをを作り得ず、

〔仁科〕先生自身が会社の技師を指導して、半年もかからねば合わない

現状なのに、『アメリカではこんなものは電話一つで届くんだよ。万事

にこれだけの違いがある。そういう国に戦争を挑んでいることを考え

て見なさい』と嘆息された。」

小倉真美「一編集者の見た仁科先生の横顔」、『仁科芳雄―伝記と回想』

(朝永振一郎・玉木英彦編、1952)p137:文献㉔〕

・【的中した仁科芳雄の予言】

・〔上記の仁科芳雄の予言は、はからずも現実のものとなったのである。

 当時の日本の指導者たちが、いかに世界を知らなかったかがわかる。〕

 

・〈湯川秀樹〉・1011月、「週刊朝日」に「静かに思ふ」を書く。

   

・〔この静かに思ふは、『自然と理性』(新学芸叢書2、秋田屋刊)に

 収録されるに際して、巻頭の部分が大幅に削除された。小沼編:文献③

及び後述を参照。〕

・〔小沼編:文献③静かに思ふの「完全版」を収録、以下の引用は

これによる〕

・〔「静かに思ふ」は、815日以降の「反省と沈思も日々」をへてのは

じめての文章である。〕


・【永久に平和的国家として・・戦争は常に人類の上に・・大きな悲しみ】

・「嗚呼最早や戦は終つた。日本は今後永久に平和的国家としてのみ自己

 の存在意義を見出さねばならぬのである。これは日本に取つて果して

悲しむべきことであろうか。戦争は常に人類の上に数々の大きな悲

みを齎(もたら)す。」(p174


・【人類に対して大変な罪を・・自国の実力に不相応なまでに・・】

・「日本は単に戦に負けただけではなかつた。人類に対して大変な罪をも

 犯してゐたのである。・・・自国の実力に不相応なまでに巨額の軍事費

の重圧を、常に自らの上に課さなければならなかった・・・」(p175) 

 

・【原子爆弾の場合においても・・国力の大きな差異が・・】

・「原子爆弾の場合においても、人的及び物的資源の不足、工業力、経済

力の貧困等を挙げることが出来るであらう。一言にしていへば、彼我

国力の大きな差異が物を言つたのである。・・・最高指導者がこの点

を無視したこと自身が最も非科学的であつたといはねばならぬ。・・・

原子爆弾を可能ならしめたのは、もともと物理学の最も先端的な領域

における基礎研究であつた。しかるにこの領域内においてさへも、わが

科学陣の全力が発揮されたとはいへない点があるのである。」(p184

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・〔1124日、GHQが理研その他のサイクロトロンの破壊を命令

する。〕

・〈石原純〉・128日早朝、「千駄ヶ谷付近の路上にジープらしきも

のにはねられて倒れているのを発見された。」(「石原純年譜」〔石原

紘執筆〕、「科学随筆全集2」:『物理学者の眼』、昭和36年、学生社、所収:

文献㉗)

・〔「石原純の死」についての詳細は、拙著『石原純―科学と短歌の人生』(2003

 文献㉘)を参照願いたい。〕


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  ・【昭和20年〔15〕の『科学』】▼

    ・〔第15巻は第4号までの刊行予定であったが、結局[1]・

2]までの刊行となった。〕

   ・1・(9月号)・・〔発行日は、1010日〕

    ・〔巻頭言〕「科学と自由」〔石原純〔事前原稿によるもの〕

     ・「科学は元来自由を欲する。否自由の天地の下でなければ科学は科

学たり得るものでない。・・科学に王道はないからである。即ち科

学は最も自由なる精神によつて・・正しき論理に従つて世界に通用

し得る真理を最も完全にして且つ厳密な客観的事実によつて裏付

けられて行く。」


    ・〔科学時事〕

     ・【訃報】・516日:科学史・桑木彧雄、414日:化学史・中瀬

       古六郎、67日:「西田哲学」の創始者・西田幾多郎、413

日:天野清(東工大助教授)

   ・[2]・(10月号)・・〔発行日は、1225日〕

    ・〔巻頭言〕「気宇を広大に」〔石原純〕〔事前原稿によるもの〕

     ・「・・新しい世界観の建設が期待され、それが反科学的傾向のもの

であつてはならぬといふことから、我が国に於いては特に科学者

の積極的な協力が要望されるのである。いま日本の科学者技術者

は敗戦の現実にうちのめされて呻吟すべきときではない。又連合

国の出方によつて自己の進路を定めるといふやうな消極的な立場

をとるべきではない。いまこそ力強く立ち上つて全国民に新しい

希望を与ふべきではあるまいか。」


・〔科学時事〕

 ・「原子核研究の禁止か 原子爆弾と関連して、日本に於ける今後の

原子核研究はどうなるかは一般の注目をあびてゐるが、最初米軍

総司令部の発注によれば理研の原子核研究は許可されたと云ふ報

道があり、又は生物学及び医学に関してのみ禁止を解くといふ噂

も弘まつたりしたけれども、結局11月に至つて米軍司令部は日本

に於ける原子爆弾研究の資料提出を求め、なほ理研その他の研究

所の調査を行なつた後、突如サイクロトロンの破壊を命令して来

た。即ち理研原子核研究室、大阪帝大物理教室、京都帝大物理教室

等のサイクロトロンは破壊されることになり、理研の本邦最大の

装置は米軍の手によつて横浜沖に沈められるに至つた。但し未だ

凡ゆる原子核研究を禁止するとの命令は出されてゐない。」

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   ・【サイクロトロン壊への世界中の科学者からの怒り】

   ・「『戦争関連』施設の破壊のなかで最も悪名高いのは、194511月に行

なわれた東京・理化学研究所のサイクロトロンを解体し、東京湾に投棄

したことである。世界中の科学者から湧き起こった怒りの声に、ワシン

トンの当局は遺憾の意を表せざるをえなくなった。」〔ジョン・ダワー

『増補版・敗北を抱きしめて』(上、三浦陽一・高杉忠明訳、2004

岩波書店、p79:文献㉕)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・【サイクロトロンの再建と仁科芳雄】

  ・〔その後のサイクロトロンの再建などについては、田島英三「理研のサイ

クロトロン」(玉木・江沢編『仁科芳雄』、1991:文献㉖)に詳しい。〕

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1945年ノーベル物理学賞:パウリ(スイス)「パウリの原理

         の発見」

9月、哲学者・三木清、獄死。

11月、GHQ、文部省に対して、印刷許可のない教科書の製造

禁止を命じる。

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・【1946年(昭和21年)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・〈仁科芳雄〉・「原子爆弾」(『世界』3月号)

   〔下記の引用は、「撰集・日本の科学精神⑤」、辻哲夫監修『世界のなかの

科学精神』、1980、工作舎刊、所収による。〕

  ・「1月にロンドンで開かれた国際聯合総会に於て、原子力管理委員会が設

   置せられ、安全保障理事国にカナダを加えた12ヶ国から委員が撰ばれ

た・・」

 ・これにアメリカとロシアが案を提出した。アメリカ案の要点は、「世界の国

家を支配し得る国際的な原子力開発機関を設置し、・・武器として原子力を

利用することは、何れの国にもこれを許さない。」「原子爆弾の問題に関する

限り強国の拒否権を認めない・・世界国家の建設に第一歩を踏み出したもの」

であった。

・このアメリカ案は、まさに世界連邦の思想を先取りしていたものといえよ

う。アメリカ案9ヶ国が賛成し、ポーランドロシア案を支持し、オランダ

 は棄権したという。


・〈湯川秀樹〉・3月、『目に見えないもの』(甲文社刊)

・・・〈自選集〉に収録。

    ・〔湯川『物理学に志して』(昭194月)の増補・改訂版である。

     以下のように、多くの増補・改変がある。「科学者の使命」が削除

されている。小沼は、「占領軍の検閲制度と出版社の自己規制が関係

していた」と推測する(文献③、p243)。確かにGHQによる検閲制

度は昭和2410月まで続いていたと言われている。〕

   

・〈湯川秀樹〉・3月、『目に見えないもの』(甲文社刊)

・・・〈自選集〉に収録。

    ・〔湯川『物理学に志して』(昭194月)の増補・改訂版である。

     以下のように、多くの増補・改変がある。「科学者の使命」が削除

されている。小沼は、「占領軍の検閲制度と出版社の自己規制が関係

していた」と推測する(文献③、p243)。確かにGHQによる検閲制

度は昭和2410月まで続いていたと言われている。〕

   

・【湯川『目に見えないもの』の目次】▼

 ・巻頭に「 この書を 玉城嘉十郎先生の 霊前に捧ぐ 」とある。

・序(昭和1812月)

 ・「第一部

  ・「中扉」のウラに下記の短歌1首を「増補

     ・物みなの底に一つの法ありと

      日にけに深く思ひ入りつつ

・理論物理学の輪郭(昭204月)・・「増補

・・・〈選集・二〉・〈著作集・②〉、


 一 自然哲学  二 近代物理学  三 現代物理学

・古代の物質観と現代科学(昭195月)・・「増補

      ・・〈選集・二〉〈著作集・③〉

 一 古代インドの自然観  二 現代の物質観との対比

 三 因果と時間の問題

・エネルギーーの源泉(昭179月)・・「改変」・・・〈選集・二〉

― 物質の構造  二 放射線の本体  三 力とエネルギー

四 原子内のエネルギー 五 太陽のエネルギー

・物質と精神(昭183月)・・〈選集・二〉・〈著作集・③〉

一 二つの通路  二 物理学的世界  三 物質から精神へ

四 科学の根源

・「第二部」・▼〔『物理学に志して』にあった3枚の写真なし。〕

・「中扉」のウラに下記の短歌1首を「増補

    ・われは物の数にもあらず深山木の

     道ふみわけし人し偲ばゆ

・半生の記(昭1611月)・・〈選集・一〉・〈著作集・⑥〉、

・硝子細工(昭1711月)・・〈選集・一〉、

   〔・写真「恩師玉城嘉十郎先生」・・「なし」。〕

・少年の頃(昭176月)・・〈選集・一〉・〈著作集・⑥〉、

・二人の父(昭1710月)・・〈選集・一〉・〈著作集・⑥〉、

 ・▼〔・写真「巴里滞在当時の小川琢治」・・「なし」。〕

  ・▼〔・写真「晩年の湯川玄洋」・・「なし」。〕

 ・「第三部

  ・「中扉」のウラに下記の短歌1首を「増補

     ・深くかつ遠く思はん天地の

      中の小さき星に生れて

  ・物理学に志して(昭184月)・・〈選集・一〉・〈著作集・①〉、

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・▼〔ここにあった「科学者の使命」が削除されている。〕

        ・〔・【1944年(昭和19年)】の項を参照のこと。〕

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・科学と教養(昭146月)・・〈選集・一〉・〈著作集・①〉、

 ・真 実(昭161月)・・〈選集・一〉〈著作集・⑥〉、

  ・未 来(昭161月)・・〈選集・一〉・〈著作集・①〉、

 ・日 蝕(昭1112月)・・〈選集・一〉・〈著作集・⑥〉、

  ・眼の夏休み(昭169月)・・〈選集・一〉〈著作集・⑥〉、

 ・読書と著作(昭179月)・・〈選集・一〉、 

  ・話す言葉・書く言葉(昭152月)・・〈選集・一〉・〈著作集・⑥〉、

・「現代の物理学」(昭142月)・・〈選集・二〉、

・「物質の構造」(昭171月)・・〈選集・二〉、 

 ・「ピエル・キュリー伝」(昭181月)、

・目と手と心(昭1810月)、

・目に見えないもの(昭1812月)・・「増補」・・〈選集・二〉

・思想の結晶(昭1812月)・・〈著作集・⑥〉

・「後記」・・(昭2012月)・・「増補

 

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    ・〔本書は、後に「講談社学術文庫」として刊行され〔昭和51年〕、

     湯川の「記念碑的作品」として多くの人に読み継がれている。〕

・5月、科学雑誌『自然』創刊(中央公論社刊)

      ・〔編集部:小倉真美・堀江弘・阿部わか子〕

 ・創刊号の【目次】から

 ・仁科芳雄「日本再建と科学」


 ・「原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するで

あろう。否、吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばなら

ぬ。」

   ・「理論的研究は外国から文献さへ入つてくれば研究はできる。

    外国雑誌の輸入は今日まだ実現されていないが、それは早晩

    可能となるであらう」

 ・〔この時期、当然ながら日本の科学研究は停滞していた。湯川

  らは、研究書・啓蒙書の執筆に多くの時間を費やしていたので

ある。〕

湯浅光朝科学文化史年表」(1)〔長期の連載がはじまる〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・〈湯川秀樹〉・7月、『理論物理学講話』(朝日新聞社刊)

  ・雑誌『科学朝日』(創刊:昭和16年、朝日新聞社刊)に連載した

物理学入門」をまとめたもの(予定の三分の一ほどで中断して

いる)。

・【湯川『理論物理学講話』の目次】▼

・序(昭和203月)

 ・第一講 緒論    ・第二講 運動と力について

 ・第三講 仕事と熱について  ・注釈〔小林稔・金井英三〕

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ・【昭和21年〔16〕の『科学』】▼

   ・[1]・(3月号)〔表紙に「石原純主任)」の記載あり。〕

    ・〔巻頭言〕「高等学校における科学教育」〔石原純〕

     ・〔石原純による最後の「巻頭言」〔絶筆〕であると思われる。〕

・武谷三男「ガリレイの動力学に就いて(Ⅰ)」

  ・[2]・(4月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

・武谷三男「ガリレイの動力学に就いて(Ⅱ)」

・[3]・(5月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

4]・(6月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

・[5]・(9月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

   ・〔科学時事〕「日本数学物理学会」が、「日本物理学会」と「日本数学会」

     に分離独立したことを報告している。

・[6]・(10月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

・[7]・(11月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

   ・「日本数学物理学会の解散と日本物理学会及び日本数学会の誕生

     ・「日本数学物理学会の解散」「日本物理学会の設立」(小谷正雄

・「日本数学会の誕生」(彌永昌吉

     ・〔それぞれ学会が分離して、初めての学会の総会と分科会の模様を

      紹介している。物理学会の第一会場は「素粒子論」で最も多くの

      参加者であったという。特に坂田昌一率いる「名大素粒子研究団」

      の今後に期待している。〕

・[8]・(12月号)〔表紙の「顧問」の中に「石原純」の記載あり。〕

   ・武谷三男物質と場の対立素粒子物理学の難点の分析―」

   ・坂田昌一素粒子論の方法―素粒子の相互作用の理論Ⅰ」

   ・井上健・高木修二「電子の自己エネルギー―素粒子の相互作用の理論Ⅱ」

   ・〔坂田・井上らの論文は「名大素粒子研究団」による共同研究。〕

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・【昭和21年〔1〕の『自然』】▼

   ・[創刊号]・(5月号)〔32頁、特価4円〕・・・〔前記参照〕

 ・[第2]・(6月号)〔32頁、450銭〕

 ・小倉金之助科学発達史上に於ける民主主義

  ・「今日わが日本が民主主義的文化国家を建設するためには、

   科学の振興を絶対に必要とする。」

  ・「民主主義の発達した時代には、科学の進展を見、これに反して

   反民主主義の時代には、科学の衰頽を来す」

  ・〔この論考は、注と年表などを大幅に「補訂」し、『数学史研究

   第二輯』に収録された。〕(「小倉・著作集①」に収録)

・[4]・(8月号)〔32頁、450銭〕

 ・坂田昌一川理論発展の背景

・〔自註と編注とがあるが、文献《F》:坂田『物理学と方法 論集1』

には「自註」のみを収載。〕

  ・「1.原子核の構成とベータ―放射能」

  ・「2.湯川理論の展開」

  ・「3.科学を発展せしめるものは何か!」

   ・「科学者よ、団結して科学を徒労から救ひ、科学を人民の手に返

すことに努力しようではないか!」

・[5]・(9月号)〔32頁、450銭〕

 ・〔巻頭言〕小倉金之助文学と科学―小説発生時代の科学について―」

  ・〔『数学の窓から』、角川文庫に収録(「小倉・著作集」に収録なし)〕。

・[6]・(10月号)〔32頁、450銭〕

 ・〔巻頭言〕仁科芳雄「国民の人格向上と科学技術」

・[7]・(11月号)〔32頁、450銭〕

 ・〔巻頭言〕中谷宇吉郎「日本科学の再検討」

・渡邊慧「研究生活の民主化と研究費」

・[8]・(12月号)〔32頁、450銭〕

 ・〔巻頭言〕小倉金之助革命期に於ける科学書の刊行

  ・〔『一数学者の肖像』、現代教養文庫に収録(「小倉・著作集」に収録

なし)〕。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1946年ノーベル物理学賞:ブリッジマン(米)「超高圧圧縮機の

        発明とそれによる高圧物理学の研究」

     1月、総合雑誌『世界を創刊(岩波書店)

1月、雑誌『展望』を創刊(筑摩書房)

1月、民主主義科学者協会〔民科〕創立大会〔会長・小倉金之助

2月、雑誌『評論』を創刊(河出書房)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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・【1947年(昭和22年)

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・〈湯川秀樹〉・2月5日、『量子力学序説』(弘文堂刊)

・〈湯川秀樹〉・2月25日、『自然と理性』(新学芸叢書2、秋田屋刊)

・・・〈自選集〉に収録。ただし「静かに思ふ」は〈自選集〉に収録なし。

・【湯川『自然と理性』の目次】▼

 ・序(昭和21年歳晩)

 ・「第一部

  ・科学と希望とについて(昭216月、「潮流」)

・「科学の発達ということそれ自身の中に、人類が破滅から救われ

るという確かな希望を見出し得るのである。」(著作集⑤、p22

   ・〔「悲痛な戦争体験からの希望の根拠」〕

     1)科学は、世界的であり、宇宙的である。

     2)人文科学、社会科学と自然科学の全面的な発達。    

原子力と合理性とについて(昭218月、「毎日新聞」)

    ・〔著作集⑤に収録〕

・「「理性」の力が科学を発達させ、新たな視野を獲得できた。」

 ・〔原子時代を生きるための「理性」を信じる湯川〕

    ・〔本書のタイトル「自然と理性」に繋がる論考である。〕

・物質文明と精神文明(昭218月、「朝日新聞」)

  ・人間の宇宙的地位(談話速記、昭216月、「朝日評論」)

  ・物質と言葉(昭217月、「読書新聞」)

     ・〔岩波茂雄追悼講演会・京都〕

  ・私どもの使う言葉(昭214月、「国語国文」)

  ・科学日本の再建(昭2010月、「科学朝日」)

    ・〔基礎科学の振興〕 ・〔科学精神のための科学史研究〕

  ・自己教育(昭211月、「世界」)

  ・静かに思ふ(昭2011月、「週刊朝日」)

・・〈選集一:半生の記〉の末尾に収録。

・▼・〈自選集〉には収録されていない

 ・「ずっと以前の文章で現在の私の好みに合わないもの

  を捨ててゆく」との記述あり(巻1「まえがき」)。

・・〈著作集⑤:平和への希求〉の巻頭に収録〕

     ・「一」の項を削除、改変あり。〔小沼:文献③④参照〕

     ・末尾に以下のような「付記」がある。

 「附記 終戦後二個月ほどの間、色々な新聞や雑誌からの原

稿の固くお辞はりして沈思と反省の日々を送つて来た。・・

一年後の今日から見るとまだまだ反省が足りないが、その

時の気持ちがある程度まで現はれてゐると思はれるので再

録することにした。(昭和2111月記)」


 ・「第二部

  ・近代に於ける物理学の発達

・〔昭和2072728日、京都帝国大学における外国留学生

 に対する講演〕

    ・「第一講」・一、近代科学の源流  ・二、近代科学の成立

    ・「第二講」・三、古典物理学の体系化 ・四、現代物理学の特質

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・〈湯川秀樹〉・11月、雑誌「自然」に「観測の理論」を連載。

      ・「自然」194711月号19483月・7月号、全3回)

・〔脚注・図解:堀江 弘〕

・〈坂田昌一〉・12月、『物理学と方法(白東書院刊)

 

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・【昭和22年〔17〕の『科学』】▼

 ・[1]・(1月号)〔表紙の顧問に「石原純」の記載あり。〕

・[2]・(2月号)〔表紙の顧問に「石原純」の記載あり。〕

  ・▼〔石原純の「顧問」表示は、この号までである。〕▼

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・[4]・(4月号)・・・・・・・・・・・・・・

 ・【石原純博士追悼号

  ・岡田武松:「石原さんと“科学”」

  ・柴田雄次:「故石原純君追憶」

  ・玉蟲文一:「石原純博士の追憶

  ・菅井準一:「石原純―特にその日本科学史上の地位―

   ・1.前期―理論物理学上の諸研究(19061921

   ・2.後期―科学論の形成、社会的活動(19211945

    ・〔この論考などについては、拙著『石原純―科学と短歌の人生』

     (文献㉘)を参照されたい。〕

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・[5]・(5月号)

 ・〔新刊書〕・武谷三男弁証法の諸問題』・原光雄『自然弁証法の研究』

         (三枝博音)

       ・湯川秀樹量子力学序説(渡邊慧)

・[6]・(6月号)

 ・〔寄書〕湯川秀樹「観測の問題について」

   ・〔『湯川『量子力学序説』への補足』〕

・[8]・(8月号)

 ・〔時事〕 ・「アメリカにおける原子力研究の平和的転換」

      ・「400トンのサイクロトロンの威力」〔カルフォルニア大学〕

・[1112]・(12月号)

 ・〔新刊書〕・藤岡由夫『科学教育論』(教育文庫7、河出書房)/

・塩野直道『数学教育論』(教育文庫5、河出書房)〔小倉金之助

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・【昭和22年〔2〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔40頁、6円〕

    ・〔巻頭言〕伏見康治「原子建築の設計者達」

 ・[3]・(3月号)〔40頁、8円〕

    ・〔巻頭言〕小倉金之助「出発」

     ・〔小倉『数学の窓から』、角川文庫に収録。「小倉・著作集」になし。〕

    ・湯川秀樹思い出すこと〔編集部による註がある。〕

     ・〔中間子論への道程を回顧する文。田辺元・石原純の著作に言及。〕

     ・〔湯川『科学と人間性』、昭和23年、国立書院刊:文献⑬に収録〕

 ・[7]・(7月号)〔32頁、15円〕

    ・〔巻頭言〕小倉金之助民主革命の徹底へ

     ・「科学再建の大業を果たすためには、民主主義革命を徹底的に遂行

      し、真に解放された人民による、人民のための科学を建設するより

ほかに、道がないのである。」

     〔小倉『一数学者の記録』、酣燈社に収録。「小倉・著作集⑦」に収録。〕

 ・[9]・(9月号)〔40頁、20円〕

     ・坂田昌一研究と組織

 ・〔1.はしがき 2.大学は何故老衰したか 3.ラボラトリー・

       デモクラシー 4.新しい組織 5.一年間の反省〕

       ・〔研究室民主化への実践的報告である。〕・・〔文献②に収録〕

       ・〔坂田は、1946年から「研究室会議」を行なうなど、「研究の

民主化」を身をもって実行していた。〕       

 ・[11]・(11月号)〔40頁、20円〕

 ・〔巻頭言〕小倉金之助重点主義の課題

     〔『一数学者の記録』、酣燈社に収録。「小倉・著作集⑦」に収録。〕

 ・湯川秀樹観測の理論①」〔堀江弘による脚註・図解がある。〕

 ・金関義則学術体制の刷新

  ・〔学術体制刷新委員の「理学部門」に「彌永昌吉・坪井忠二・

湯川秀樹・柴田雄次・小倉金之助」などの名がある。    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1947年ノーベル物理学賞:アプルトン(英)「上層大気の物理学

とくに電離層の研究」

3月、教育基本法・学校教育法各公布。

5月、日本国憲法が施行される。

12月、横光利一没。

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・【1948年(昭和23年)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・〈湯川秀樹〉・5月、『科学と人間性』(国立書院刊)

・・・〈自選集〉に収録。

・【湯川『科学と人間性』の目次】▼

・「はしがき」(昭和2211月)

 ・〔「昭和21年の中頃から228月」までの随筆集である。〕

 ・一、科学と哲学のつながり

 ・二、事実と法則(昭和228月)

 ・三、偶然と必然(昭和228月)

 ・四、知識と知慧とについて(昭和225月)

 ・五、知と愛とについて(昭和225月)・・〔著作集⑤に収録〕

   ・「昭和21年は食糧の危機であった。世界的豊作とアメリカはじ

め連合諸国の人類愛に根ざす救援とのおかげで、どうやらこの

危機を乗り切ることができた。」(p75

【原子力発電所の出現を予言する湯川】

「原子エネルギーの動力化は・・原理的な困難が存在しない以上、

早晩大電力発電所が出現するであろうことが十分期待される。」

(p77

・六、運命の連帯

 ・七、物理学の現段階(昭和221月)

 ・八、物理学の前途(昭和221月)

 ・九、一つの宿題(昭和221月)

 ・十、思い出すこと(昭和223月)

 ・十一、小さい心(昭和224月)

 ・十二、京の山(昭和215月)・・〔小沼:文献③に再録〕

    ・〔東京大学教授への転任の話に揺れる心、京都への愛着が

     にじみ出ている文章である。〕

・十三、読書偶感

     ・「プリンキピア」(昭和146月)

     ・「物理学ノート」「驢馬電子」(昭和177月)

     ・「京大理学講座第一輯」(昭和226月)

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・〈湯川秀樹〉・8月、『物質観と世界観』(弘文堂刊)

              

・【湯川『物質観と世界観』の目次】▼

・「序」(昭和237月)

・一、物質世界の客観性に就て・・〔「哲学季刊」(秋田屋刊)に連載〕

                     ・・〈選集・四〉

   ・〔一 古典論及び相対論の世界 二 量子論の対象

  三 量子力学の世界〕

・二、理論物理学に就て・・〔日本学術協会での特別講演〕

                     ・・〈著作集・③〉

 ・〔一 現代物理学の概観 二 時間と空間 三 粒子と波動

   四 観測の問題〕

・三、中間子に就て・・〔京都大学化学研究所での特別講演〕

・・〈選集・四〉

・〔一 原子核に就て  二 核力に就て 三 宇宙線に就て  

四 素粒子に就て〕

 

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・〔1948年(昭和23年)〕

・〈湯川秀樹〉・9月、プリンストン高等学術研究所客員教授となり

    渡米する〔出張〕。  

 

・〈湯川秀樹〉・12月、『原子と人間』(甲文社刊)

・・・〈自選集〉に収録。ただし、「原子と人間〔詩〕」などは

     〈自選集〉に収録されていない。

・・〈選集〉には、収録されているが、〈自選集〉には、収録

されていないもの〔★〕。

 

・【湯川『原子と人間』の目次】▼

・「口絵写真」(2枚)、その他の写真もあり。

原子と人間〔詩〕・・(「PHP」昭2234月合併号)

         ・・〈選集三〉に収録。・・〔★〕。

   ・〔原子爆弾の誕生までを、書いたこの詩は、実に感動的な

    作品である。〈自選集〉・〈著作集〉に収録がないのは、

    残念である。なお、〈選集三〉には同タイトルの散文「Ⅱ」「Ⅲ」

    が収録されている。〕

   ・〔この本のタイトルになっている詩である。〈選集三〉のタイト

ルもまた「原子と人間」である。

・【湯川「原子と人間」の詩〔部分〕】▼

 ・「遂に原子爆弾が炸裂したのだ

     遂に原子と人間とが直面することになったのだ

     ・・・〔略〕・・・

     原子時代が到来した

         人々は輝しい未来を望んだ

         ・・・〔略〕・・・

     原子はもっと危険なものだ

     原子を征服できたと安心してはならない

     人間同志の和解が大切だ

     人間自身の向上が必要だ

      ・・・〔略〕・・・   」

 ・【終戦直後の3年間は、啓蒙の時代であった】

  ・〔湯川は、後にこの詩を引用して、「詩などと呼べるほどのもので

   はなく、少年少女向きの短文とでもいった方が当たっている」と

述べている。終戦直後の3年間は「一種の啓蒙時代であり」その

産物であるという。(湯川「自分の書いた本」参照、著作集⑥

所収)〕

・目に見えないもの(「あさあけ」昭229月)

  ・〈自選集1)〉に収録。「目に見えないもの(1947)」。

科学の進歩と人類の進化(「京都日日新聞」昭22814日)

・・〈自選集3)〉・〈著作集⑤〉に収録。

  ・「原子爆弾が文明の破滅に導くか否かは、これが出現した地球的

   世界に人類が全体として適応するか否かにかかっている。」

  ・「我々の祖国は地球上最初にこの破壊的な原子力の犠牲となり、

   平和な道義国家として立つ運命の暗示をうけた。我々日本人こ

   そ倖せな人間社会の顕現のために先頭に立って進むべき尊い使

命を帯びているのだ。」

  ・【科学の進歩と人間の進化】

 ・〔湯川の率直で素直な文章は、平和への願いの決意表明であった。

    これ以後の主張の原点がここにある。すなわち、科学の進歩と

もに人間も進化しなければならないとうことである。〕

・宇宙における人間の立場(「学園新聞」昭2186日)・・〔★〕

・科学の可能性(「時論」昭238月)・・〔★〕

二十世紀の不安(「新大阪新聞」昭23419日)

・・〈自選集3)〉・〈著作集⑤〉に収録。

  ・【絶望の世紀から希望の世紀への転換】

・「人間が相互に他の人間性を認めることによって和解し、

   ・・原子力を平和的目的に活用するために全面的に協力する

   ことによって二十世紀の不安が除かれ、・・絶望の世紀から

   希望の世紀に転換されることを期待できるのである。」

・合法則性と偶然性(「毎日新聞」昭23815日)・・〔★〕

・常識と非常識(「中部日本新聞」昭23517日)

・・〈選集一〉に、収録。

・法律と法則(「平安」昭231月)・・〈選集一〉に、収録。

・単数と複数(「婦人の友」昭2212月)

・・〈選集一〉に、収録。

・あざみと馬(「手帖」第一冊、昭218月)

・・〈選集一〉に、収録。

・思索断章     ・・・〈選集〉・〈自選集〉に収録なし。

・法則性について ・世界観について ・可能性について 

  ・直観について ・総合について   ・科学的精神について

  ・心理について ・美について ・道徳について 

・連帯感について ・文化について  ・学問について

  ・勉学について〔一・勉学について 二・書物について〕

・鏡と写真(「アサヒグラフ」昭23218日)

・・〈選集一〉に、収録。

   ・▼〔自画像のスケッチあり。〕

・自然美と人間美(「人間美学」昭235月)

・・〈選集一〉に、収録。

・詩と科学―こどもたちの為に― (「随筆四季」第二輯、昭2112月)

・・〈選集一〉に、収録。

・ふるさと(「週刊朝日」昭22928日)

・・〈選集一〉に、収録。

・短歌に求めるもの(「はにつち」昭2211月)

・・〈選集一〉に、収録。

・水滸伝の座談会に寄せて(「新文学」昭234月)

・・〈選集一〉に、収録。

・現代の物理学について(「信濃教育」昭232月)

         ・・・〈選集〉・〈自選集〉に収録なし。

・現代物理学を生み出した人々(「中部日本新聞」昭231月)

・・〈選集三〉に、収録。

・渡米に際して     ・・・〈選集一〉に、収録〔★〕。

・「一」(「京都新聞」昭23830日)

・「二」(「洛北高校新聞」昭237月)

・「三」(「世界の子供」昭239月)

・アメリカ日記――1939年――・・・〈選集〉・〈自選集〉に収録なし。

                 ・・〈著作集⑦〉に収録。

   ・「はしがき」 ・「825日~1013日」の日記

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・〈湯川秀樹〉・12月、日本学術会議第一期会員に選出される。

           (19511月まで)

 

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・【昭和23年〔18〕の『科学』】▼

 ・[2]・(2月号)

  ・柿内賢信「Max Pranck」 〔追悼文〕

・[3]・(3月号)

 ・〔巻頭言〕「学術体制はいかに刷新されるか」(B.T.

  ・〔「日本学術会議」が発足するまでの過渡期であった。〕

 ・〔新刊書〕三上義夫文化史上より見たる日本の数学

・〔時事〕「学術体制刷新委員会7回第8回総会」

     「株式会社科学研究所〔旧理化学研究所〕の発足」

・[4]・(4月号)

 ・〔話題〕「中間子、宇宙線の問題をめぐって(富山小太郎)

  ・〔湯川秀樹の中間子論などに世界が注目している。〕

  ・亀山直人「理工学研究所」〔東京大学附置〕

  ・馬場重徳「第二次世界大戦後におけるアメリカの科学振興策」

  ・「学術体制刷新委員会から内閣総理大臣へ答申した新体制案

   〔抜粋〕

  ・〔新刊書〕天野清選集Ⅰ量子力学史』(富山小太郎)

・[7]・(7月号)

 ・〔科学時報〕「素粒子論」(中村誠太郎)

・[10]・(10月号)

 ・谷川安孝「中間子理論の現状

・[12]・(12月号)

 ・「二中間子論」(武谷三男・中村誠太郎・小野健一・佐々木宗雄)

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 ・【昭和23年〔3〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔48頁、30円〕

    ・〔巻頭言〕矢野健太郎「研究発表と研究意欲」

    ・〔編集後記〕

     「燃料はなく、停電はつづき、空腹はみたされず、終戦後3度目の

      お寒い新春である。

   ・[3]・(3月号)〔48頁、30円〕

    ・〔巻頭言〕仁科芳雄ユネスコと科学

 ・稲沼瑞穂〔文部省科学教育局〕

学術体制はどこまで刷新されるか

 ・湯川秀樹観測の理論②」〔堀江弘による脚註・図解がある。〕

  ・[4]・(4月号)〔48頁、30円〕

 ・渡邊慧「栗鼠と猫―観測論に関する試論―」

・[5]・(5月号)〔48頁、30円〕

 ・〔巻頭言〕丘英通「学術体制刷新をよそに見る」

 ・村越司〔地下資源調査所〕「学術刷新の底を流れるもの

学術体制刷新委員会から日本学術会議まで―」

   ・金関義則〔毎日新聞学芸部〕「刷新委員は連記の数学をいかに解いたか」

・[6]・(6月号)〔48頁、40円〕

 ・〔巻頭言〕仁科芳雄株式会社科学研究所の使命

 ・金関義則「日本学術会議(Ⅰ)―学術体制刷新委員会の結論―」

・[7]・(7月号)〔48頁、40円〕

 ・〔巻頭言〕玉蟲文一〔武蔵高校〕「新しい大学の性格

  ・〔一般教養の重視が新制大学の特色となる。玉蟲文一は、後に

東京大学の教養学部の創設に尽力することになる。〕

・〔後に、東京大学教養学部は、数多くの科学史家を輩出して、

 1970年代の科学史ブームを牽引した。〕

  ・金関義則「日本学術会議(Ⅱ)―学術体制刷新委員会の責任―」

 湯川秀樹観測の理論」〔堀江弘による脚註・図解がある。〕

・[8]・(8月号)〔48頁、40円〕

   ・〔巻頭言〕渡邊慧「亡びるもの興るもの」

    ・「素粒子論関係の会場の如きは、・・まさに立錐の余地なく・・」

     ・〔京都における日本物理学会の盛況ぶりを伝えている。〕

・[10]・(10月号)〔48頁、50円〕

   ・〔巻頭言〕湯川秀樹学術の交流

    ・「終戦後僅か3年間の世界物理学の著しい進歩を顧みる時、世界の

     平和とそれに伴う知識の交流とが学術の発達に取ってどんなに大切

     な条件であるかが今更の如く痛感される。学問も一つの生き物であ

る。」

・[11]・(11月号)〔48頁、50円〕

 ・森永晴彦「原子核破壊装置(Ⅰ)」

・[12]・(12月号)〔48頁、50円〕

 ・「新しき電源」(弘山尚直:東京都商工局電力部)

  ・「1.まえがき 2.電源の開発方針 3.電力の需給状態

    4.新しい電源(A.風力発電 B.地熱発電 C.潮力発電

    D.太陽熱発電 E.原子力発電) 5.むすび」

   ・E.原子力発電:「試験用のものが今年中にアメリカで製作される

という話である。」〔原子力発電の項は、わずか6行の記述である。〕

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1948年ノーベル物理学賞:ブラケット(英)「ウィルソン霧箱の

  方法の発展、ならびに原子核物理学と宇宙線の領域における諸

発見」

4月、新制高等学校(全日制・定時制)発足

6月、太宰治入水自殺。

7月、日本学術会議法公布、教育委員会法公布

9月、朝永振一郎くりこみ理論」。学士院賞受賞。

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・【1949年(昭和24年)

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・〈湯川秀樹、42歳〉・8月、コロンビア大学客員教授となり、

ニューヨークに移る。

 

・〈湯川秀樹ほか著〉・9月、『物理学の方向』(三一書房刊)

 

・【湯川ほか著『物理学の方向』の目次】〔湯川の部分のみ〕▼

・〈Ⅰ〉湯川「素粒子論の方向について―序に代えて―」

・〈Ⅱ〉湯川「科学的思考について―物理学の対象と法則―」

  ・〔昭和2211月、慶応大学での講演を増訂したもの。〕

   〔・・以下、省略・・〕

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・〈湯川秀樹〉・11月、「核力の理論的研究に基づく中間子の存在の

    予言に対して」ノーベル物理学賞の授賞が決まる。

 

・〈湯川秀樹〉・12月、ノーベル物理学賞授賞式


12月、『理化学辞典』〔新増補改訂版〕発行〔岩波書店刊〕

   ・「編輯顧問:岡田武松・寺田寅彦・柴田雄次」

   ・「編輯者石原純主任)・井上敏・玉蟲文一」

  ・〔石原純が「編輯者」として関わった最後の版である。奥付には、

   「編輯代表者 石原純いしはら じゅん」とある。〕

   ・最近の石原純関係書では、「いしわら じゅん」とのルビも多く

    みられるが、私の管見の限り石原純生前の書物には、すべてに

    「いしはら じゅん」とルビがあった。確かに石原純は、欧文の

    学術論文では「Jun Ishiwara」と記述しているが、和文の単行本

では「いしはら じゅん」とルビをしている。おもうにフランス語

では「h」は発音されないので「Ishiwara」と表記したのであろう。〕

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・【昭和24年〔19〕の『科学』】▼

 ・[1]・(1月号)

  ・朝永振一郎素粒子論の進展―無限大の困難をめぐって―」

  ・〔新刊書〕朝永振一郎量子力学(Ⅰ)』

  ・〔時事〕「アメリカにおける素粒子論研究の近況」

    ・〔湯川・朝永らの研究に注目している米英の物理学者たち

 ・[2]・(2月号)

  ・〔巻頭言〕「日本学術会議と学会」〔S.I.=彌永昌吉〕

  ・「中間子の崩壊及び捕獲について」〔宮崎友喜雄:科学研究所仁科研究室

  ・〔時事〕日本学術会議会員きまる」〔選挙による。任期2年〕

      ・〔全国区=物理学:誠司武谷三男朝永振一郎仁科

        芳雄伏見康治湯川秀樹

・〔地方区=物理学:藤岡由夫坂田昌一荒勝文策ら〕

 ・[4]・(4月号)

  ・〔巻頭言〕「日本学術会議の成立

 ・〔時事〕「日本学術会議総会」、「原子力戦争に対する恐怖

 ・[5]・(5月号)

  ・〔巻頭言〕「自然科学者と平和運動」(玉蟲文一)

   ・「わが国の自然科学者の平和運動に対する関心は未だ低調のように

    感じられる。・・われわれはこの問題について今こそ積極的に討議し

    且つ行動すべき責任をもっている。」    

・[6]・(6月号)

 ・〔話題〕「学問の民主化について」(彌永昌吉

   ・「どの意味でもよい、“学問の民主化”が熱心に成されることを希望

    する。今日の学問はいうまでもなく特権階級のものではないので

あるから。――」

・[8]・(8月号)

 ・〔巻頭言〕「科学と平和S.I.=彌永昌吉〕

  ・「よいことにも悪いことにも使われる“頭脳”、あるいは“科学”!

   ・・――人類のモラルを高める以外に平和を保証する道はないのでは

   あるまいか。」

・[12]・(12月号)

 ・〔巻頭言〕「学問研究の自由K.T.

    ・「学問の研究はできうるだけ自由な境地において進めなければならな

い。むしろ、自由に進めうるような境地を積極的に作っていくことが

必要だというべきかもしれない。」

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・【昭和24年〔4〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔56頁、60円〕

    ・〔巻頭言〕朝永振一郎かなしい現実

      ・「紙と印刷能力の不足は我々にとって決定的である。・・学術

       雑誌はもっと豊かに出版されねばならない。」

      ・〔学術雑誌の刊行の遅れが、学問の進展を阻害しているとなげく

朝永振一郎〕

   ・[3]・(3月号)〔48頁、50円〕

     ・坂田昌一湯川理論展開の径路(Ⅰ)

――続『湯川理論発展の背景』――」

    ・〔1.湯川の導入から中間子の発見まで 2.大阪時代の初期

     3.武谷三男君の「三段階論」 4.第二・第三論文発表のころ

     5.大阪時代の末期 」

   ・[4]・(4月号)〔56頁、60円〕

    ・〔巻頭言〕小倉金之助今日の課題

      ・〔日本学術会議の成立に対する期待と今後の実践への監視と

      鞭撻が必要である。〕

   ・江上不二夫「日本学術会議第1回総会に臨む」

  ・「日本学術会議会員選挙結果概要

    ・〔選挙結果の得票数まで詳細に報告されている。〕

     ・〔「第4部」のトップは「540票・湯川秀樹」である。〕

   ・[6]・(6月号)〔62頁、70円〕

   ・彌永昌吉「日本学術会議第2回総会」

     ・「第一に学術会議自身の予算が微々たるもので、・・研究費や研究

発表費の予算にしても、・・文部省から要求された全額そのもの

が、充分なものではないのである。」

   ・高林武彦「電子の発見―量子力学史1―」

 ・[7]・(7月号)〔64頁、70円〕

   ・高林武彦「電子の発見(Ⅱ)―量子力学史1―」

     ・「高林武彦氏の力作、量子力学史は果然好評である。」(編集後記)

 ・[9]・(9月号)〔64頁、70円〕

  ・〔巻頭言〕小泉丹「世界平和運動に」

    ・「世界平和運動、戦争絶止運動は、あらゆる有力国家に於て、

     あらゆる職能者の、広範な成員の参加を得て始めてその力が

     ある。」

   ・高林武彦「電子の発見(Ⅲ)―量子力学史1―」

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1949ノーベル物理学賞湯川秀樹(日本)「核力の理論による

  中間子の存在の予言」

4月、科学史研究復刊第一号(日本科学史学会)

  ・小倉金之助「科学史研究の任務」

・〔桑木彧雄追悼号〕・桑木務「父を想う」

  ・矢島祐利「桑木彧雄博士の追憶―その業績と学風―」

4月、岩波新書青版」を刊行開始。

    ・中谷宇吉郎『科学と社会』など。

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・【1950年(昭和25年)

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・〈坂田昌一、39歳〉・5月、「二中間子仮説の提唱」により日本学士

院賞(恩賜賞)授賞

〈湯川秀樹、43歳〉・8月、一時帰国。

 

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・【昭和25年〔20〕の『科学』】▼

 ・[1]・(1月号)

  ・〔巻頭言〕「半世紀の回顧」〔B.T.=玉蟲文一〕

  ・「湯川博士のノーベル賞受賞を祝す

 ・[3]・(3月号)

  ・菊池正士原子核物理50年の回顧

   ・〔1.緒言 2.ラジウムの発見1898 3ラザフォードの

    Successive transformation の理論1903 4.ソディの同位体

発見 5原子核の発見1908 6.ボア―の原子模型(1913

原子構造の確立 7.同位体と原子核構造 8.ラザフォードのα粒子

による原子核壊変の実験(1919) 9.中性子の発見 

10. コッククロフト・ワルトンの実験(1932) 11. ジョリオ・

キューリーの人工放射性原子の発見(1934) 12. サイクロトロン

の発見と1930年代後半より1940年代初期の核物理 13.  原子核

のスピンに関する実験 14.宇宙線研究の発展 15. 理論の発展

湯川の理論など〉 16.戦後の大勢と今後の物理学 〕

・[4]・(4月号)

   ・〔座談会〕・「中間子理論研究の回顧

     〔坂田昌一小林稔武谷三男・富山小太郎・谷川安孝・

中村誠太郎・井上健〕

 ・〔1.京都大学でのスタート 2.原子核理論の曙光 3.湯川理論の

  前身 4.湯川理論の確立 5.大阪の雰囲気 6.中間子の発見 

  7.量子化の展開 8.第4論文の前後 9.京大への転任とソル

ヴェー会議 10.2中間子論 11.中間子討論会の終末――超多

時間理論の展開―― 12.素粒子研究の将来 13.回顧と展望〕

・[5]・(5月号)

  ・〔巻頭言〕「科学教育の動向」(玉蟲文一)

  ・「アメリカにおける一般教育の動向は、現在、わが国の新制大学

    の教育に直接的に影響を及ぼしている。」

・[9]・(9月号)

 ・〔巻頭言〕「学術会議のこと」〔S.I.=彌永昌吉〕

  ・「新会員による学術会議は、進歩的で民主的な真摯な科学者の集まり

であって、真に学会の総意を代表し、従って政府にたいしても力強い

発言のできるようなものでありたいものである。」

・[10]・(10月号)

 ・【湯川秀樹・ノーベル物理学賞講演】

  ・湯川秀樹・発展途上における中間子論

   ・「中間子論はこの15年間の間に非常に大きな変遷をなした。それ

    にも拘わらずなお多くの問題が未解決のまま残されている。」

            ・〔訳註:中村誠太郎・福田博・山口嘉夫〕

・[11・(11月号)

 ・〔新刊書〕湯浅光朝科学文化史年表』(中央公論社刊)

 

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・【昭和25年〔5〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔80頁、80円〕

    ・〔コラム〕・「日本学術会議の声明

     ・「    声明

      日本学術会議は最近の事態に鑑み、次の声明を行う。

      大学等学術研究機関の人事については、学問思想の自由を尊重

      することを念とすべきであって、単に政党所属等を事実上の理由

として、処置さるべきではない。

 また大学においては、学問の研究に関連する、教授会の権限が尊

重せらるべきであって、これが外部よりする政治的理由によって、

左右されてはならない。

 右、声明する。

        昭和24106日   日本学術会議

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  ・「    声明

日本学術会議は平和を熱愛するものである。

原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状に

かんがみ、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する。

 昭和24106日   日本学術会議

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 ・〔コラム〕・「湯川秀樹博士にノーベル賞

  ・「1935年、原子核内に働く核力を説明するため中間子を仮設してそ

の性質を予言し、以後の素粒子論の展開に顕著な業績をあげたこ

とについて授賞された。湯川博士により端緒を開かれた中間子論

が、多くの優秀な研究者を得て、二中間子論、中性中間子論など、

諸外国に先行的に発展しつつあることは力強いことである。」

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  ・[2]・(2月号)〔72頁、70円〕

   ・仁科芳雄「国際学術会議への旅」〔於、デンマーク〕

  ・[4]・(4月号)〔80頁、80円〕

   ・湯川秀樹旅のノートから」〔巻頭コラム〕

    ・〔ストックホルムからコペンハーゲン、パリ、ロンドンへ〕

     ・「霧こめしパリ―の宿に帰りきて旅の愁はややに深しも

   ・金関義則素粒子論グループ

    ・第1表 素粒子論研究の陣容(19501月)

    ・第2表 素粒子論グループの系譜

    ・第3表 理化学研究所の原子学研究室(1942年)

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  ・[8]・(8月号)〔96頁、100円〕

    ・湯川秀樹中間子論の模型と方法」〔佐々木宗雄訳註〕

    ・特集「水素爆弾と平和

     ・アインシュタイン水素爆弾と平和

      ・「国家の武装を通じて安全保障を達成するという考えは、現在の

軍事技術の段階では破滅的な幻想であります。」

 ・[9]・(9月号)〔80頁、80円〕

   湯浅光朝科学文化史年表発刊に際して

     ・「科学史の最高の意義は、社会科学の建設に豊かな基盤を提供し

      社会進化の運動学的法則発見のよい手段を与えるところにあると

      いわねばならない。」〔太字は原文によるもの〕

 ・[11]・(11月号)〔80頁、80円〕

   ・湯川秀樹若い人々へ」〔京都大学での講演〕

   ・随筆「水爆と原爆」(中谷宇吉郎

    ・「今度の水素爆弾の製造が、どの程度速かに完成されるかは、アメリ

カの科学者たちの心からの協力の度如何によるであろう。科学の研

究というものは、結局人間の精神力によって成就されるもので、金と

力だけで成し遂げられるものではない。」

    「原子爆弾の完成を一番喜んだのは、これを作ったアメリカの科学者

     たちであるが、その悲哀を一番痛切に感じているのも彼等である。」

・[12]・(12月号)〔80頁、80円〕

 ・江上不二夫真実の人を選べ――日本学術会議第2回会員選挙

を前にして――」

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1950年ノーベル物理学賞:パウエル(英)「写真撮影による原子核

   崩壊過程の研究方法の開発および中間子の発見」

1月、H・ノーマン忘れられた思想家―安藤昌益のこと

   (大窪愿二訳、岩波新書)

4月、小倉金之助数学者の回想』(河出書房刊)

6月、朝鮮戦争はじまる。

7月、金閣寺全焼。警察予備隊創設。総評結成。

9月、渡辺一夫フランスルネサンス断章』(岩波新書)刊

    ・〔1952年、高校生の大江健三郎はこの本を読み、東京大学

     への進学を決意した。〕

12月、長岡半太郎没。

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・【1951年(昭和26年)

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1月、仁科芳雄、死去。

3月、湯川秀樹・坂田昌一・武谷三男『真理の場に立ちて』

     (毎日新聞社刊)

     ・〔湯川秀樹「回顧と展望」、坂田昌一「中間子理論研究の回顧」、

      武谷三男「素粒子論グループの形成―私の目で見た―」〕

 

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・【昭和26年〔21〕の『科学』】▼

 ・[1]・(1月号)

  ・〔話題〕朝永振一郎・〔プリンストン研究所の学風など〕

  ・〔時事〕「日本学術会議第2回会員」〔「第4部」(理学)〕

   全国区」:伏見康治・茅誠司・坂田昌一・仁科芳雄ら

   ・「地方区」:山田光雄・藤岡由夫ら

 ・[4]・(4月号) ・【20周年記念号

  ・「“科学”創刊20周年に当って」〔以下は、一部分〕

   ・富山小太郎昔の“科学”と今の“科学”

    ・「石原先生は・・科学の方法論などにも深い関心を示していられた。

     ・・本誌にもその傾向がはっきり反映していた。・・物理学界の巨

星の論文やら講演などの紹介や翻訳などが盛んに本誌を賑わして

いた。これが当時の“科学”の特徴の一つになっていたと思う。」

   ・湯川秀樹物理学の20・・〔『しばしの幸』:文献⑯に収録〕

     ・「日本は科学における後進国であるにもかかわらず長岡半太郎先生のよ

う先駆者を出した。また仁科芳雄先生のようなすぐれた指導者を持ち得

た。」〔ニューヨークより〕

   ・坂田昌一20年を回顧して・・〔「論集」:文献《F》《G》に未収録〕

     ・「中間子理論の提唱と超多時間理論の展開はもっとも大きな成果として

      世界に誇ることができよう。」

   ・・・・・・・・・・・・・・・

・〔仁科芳雄博士追悼文ほか〕

  ・朝永振一郎仁科先生

・「先生はわれわれの間に物理学研究の近代的な方法に対する自覚を

もたらされた。」

  ・玉木英彦科学研究所と仁科芳雄

   ・「仁科先生は戦後の日本にとって得がたい国際人であった。」

  ・「故仁科芳雄博士年譜

  ・「“科学”20年のあゆみ」(編集部:稲沼瑞穂)

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 ・[8]・(8月号)

 ・湯川秀樹中間子研究の近況〔ニューヨークより〕

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・【昭和26年〔6〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)「特大号」〔96頁、95円〕

    ・ニールス・ボーア国際連合への公開状

     ・「科学と技術の発展が人類の幸福増進という輝かしい約束を保証す

ると同時に、恐るべき破壊の方法が人類の手に落ちて、文明全体が

極めて重大な挑戦状をつきつけられるに到っている。」

     ・〔国連原子委員会の管理機構設置の無期限延期という状況の中での

発言〕「人類の理性と善意に解決を求めようとするのがボーア博士

の真意である。」〔「編集後記」より〕

    ・〔座談会〕・「朝永先生大いに語る

     ・朝永振一郎・田地隆夫・福田信之

    ・「湯川祭てんやわんや」(P.Q.R

      ・「湯川記念館の建設計画など」

・[3]・(3月号)〔80頁、90円〕

      ・「日本学術会議第2回選挙批判」(伊達次郎)

・[4]・(4月号)〔88頁、100円〕

 ・【仁科芳雄博士追悼特集

働きて 働きて病む 秋の暮” 〔仁科芳雄:口述〕

  ・湯川秀樹仁科芳雄先生の想い出〔ニューヨークにて〕

  ・〔座談会〕「仁科先生を偲んで

   ・〔朝永振一郎・山崎文男・竹内柾・坂田昌一・中山弘美・

玉木英彦〕

     ・〔追悼文

・こわかった「親方」(小林稔)  ・宇宙線と「親方」(関戸彌太郎)

     ・時代の子か(伏見康治)    ・仁科博士学術論文目録

     ・仁科先生の御病歴(武見太郎) ・略歴

     ・ジャーナリズムの片隅で(金関義則) ・先生と私(小倉真美)

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 ・[5]・(5月号)「5周年記念特大号」〔106頁、120円〕

 ・「日本学術会議第9回総会から」(松浦一)

   ・〔科学者の生活保障の問題、再軍備反対声明をめぐって、学問・

    思想自由委員会から〕

    ・坂田昌一湯川理論展開の径路(Ⅱ)

――1940年より戦争終結まで――」 

    ・〔6.中性中間子の研究  7.二中間子仮説の登場 

      「湯川理論年表(19281945)」 〕

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1951年ノーベル物理学賞:コッククロフト、ウオルトン(英)

  「荷電粒子に対する高圧加速装置の考案とそれによる元素変換

   の先駆的研究」

5月、用紙統制〔新聞など〕撤廃

6月、林芙美子没

     *9月、対日講和条約調印

     *11月、第1回教研集会(日教祖)

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・【1952年(昭和27年)

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8月、朝永振一郎・玉木英彦編『仁科芳雄――伝記と回想』

〔みすず書房刊〕

 ・湯川秀樹仁科芳雄先生の思い出」 (195121日、

ニューヨークにて)〔「自然」昭和264月号〕

   ・〔湯川『しばしの幸』、昭和29年、読売新聞社刊に収録〕

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・【昭和27年〔22〕の『科学』】▼

 ・[9]・(9月号)

  ・〔話題〕「原子力研究に進め」(菊池正士

   ・「世界は原子力時代に向って急テンポにばく進してゆくのにもかかわ

らず、わが国では大多数の人が無関心のようである。」

・[11]・(11月号)

  ・〔話題〕「湯川記念館」(朝永振一郎

   ・〔全国の研究者による利用(共同研究)、所員の流動性(短期で変更)

など、アメリカのプリンストン研究所をモデルとしたもの。〕

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・【昭和27年〔7〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔80頁、105円〕

    ・「岐路に立つ日本学術体制

      ――日本学術会議11回総会を終えて―― 」(新村猛

     ・「日本学術会議はげんざい多くの問題や懸案や困難をかかえている。

      例えば、科学研究費配分の基準と方法、会員選挙規則の改正、学士

院会員の選定方法、各部内専門区分の再検討、委員会の整理、委員

会と運営審議会との関係、等々思いつくままに挙げても数が少な

くない。」

・〔このような問題点は、現代の日本学術会議にも存在している

であろう。そもそも完璧な組織などはないからである。〕

   ・[5]・(5月号)〔80頁、105円〕

    ・「素粒子論の展開(Ⅰ)――中間子をめぐって――」(梅澤博臣)

     ・〔1素粒子像の開拓者としての中間子場 2.素粒子論とは 

      3.素粒子像の問題提起 〕

・[7]・(7月号)〔80頁、105円〕

  ・「日本学術会議第12回総会を顧みて」(北川敏男)

  ・「学問を守るために」(松浦一)〔北海道大学植物学教室〕

   ・〔学問の自由を守れ 大学の自治を確立せよ 学界の民主化を計

    れ 学術体制を刷新せよ 科学を戦争に使うな―再軍備反対 

    むすび 〕

・[8]・(8月号)〔80頁、105円〕

・「素粒子論の展開(Ⅱ)――中間子をめぐって――」(梅澤博臣)

      ・〔4.中間子論の誕生 5.豊富な素粒子 6.自己場の問題と

       その現実性――くりこみ理論の展開 〕

・[9]・(9月号)〔80頁、105円〕

 ・「湯川記念館―経緯と現状」(小林稔)  

・[10]・(10月号)〔80頁、105円〕

 ・湯川秀樹素粒子論の現状と将来」〔米、コロンビア大学教授〕

  ・〔素粒子論の誕生と成長 素粒子論の矛盾――発散の困難と

   くりこみ理論 質量スペクトルの問題へ 将来の方向と実験の

   進歩 新しい飛躍は若い人の手で 〕

  ・「学問の危機」(松浦一)〔北海道大学植物学教室〕

   ・〔破壊活動防止法案の通過、学問・思想の自由保障委員会の委員

の一人として・・〕

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1952年ノーベル物理学賞:ブロッホ、パーセル(米)「核磁気の

精密な測定法の開発」

5月、血のメーデー事件

7月、破防法公布施行。公安調査庁発足。

11月、玉蟲文一『科学と一般教育』(岩波新書)

12月、田中館愛橘没。

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・【1953年(昭和28)】

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・〈湯川秀樹、46歳〉・7月、帰国、復職。

    8月、基礎物理学研究所(湯川記念館)所長を併任。

    9月、基礎物理学研究所(湯川記念館)所長となり、理学部

    兼務となる。〔定年まで〕 〔10月、坂田昌一:基礎物理学研究所

運営委員会委員となる。没年まで。〕

 

11月、『岩波 理化学辞典(岩波書店刊)

     ・〔編集:井上敏・小谷正雄・玉蟲文一・富山小太郎〕

     ・〔「岩波」の文字が書名に入った最初の版。〕

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・【昭和28年〔23〕の『科学』】▼

 ・[1]・(1月号)

  ・〔座談会〕・「日本の原子核・原子力研究のあり方

   ・〔菊池正士・坂田昌一・武谷三男・朝永振一郎・井上健・

    武田栄一・藤本陽一・伏見康治 (司会)富山小太郎〕

   ・〔原子核研究のバック 日本の原子核装置と実験家 工業レベルの

    低さと原子核研究 日本でやるべきテーマ パイル〔原子炉〕の問題 

    原子核・原子力と研究体制 〕

  ・[6]・(6月号)

   ・杉本朝雄〔科学研究所〕「サイクロトロンの再建

    ・〔サイクロトロンの破壊 占領期間中の原子核の実験研究

     サイクロトロン再建の動き 科研のサイクロトロン 再建

     サイクロトロンの活用〕

  ・[7]・(7月号)

   ・湯浅年子フランスの原子力研究と原子核研究

    ・〔原子力研究  原子核物理学の現況〕

・[10]・(10月号)

 ・【国際理論物理学会議開催記念

 ・「特集今日の理論物理学――その成果と発展」

  ・〔巻頭言〕「国際理論物理学会議の開催によせて」〔K.T.=富山小太郎〕

 ・湯川秀樹理論物理学の将来

 ・ハイゼンベルク原子核研究を推進するためのヨーロッパの協力

 ・「理論物理学の中心問題

  ・ワイスコフ「原子核構造と核力」(佐々木宗雄訳)

  ・ファインマン「基礎物理学の現況」(堀江久訳)

・「理論物理学の展望

 ・〔座談会〕・「素粒子論の進む道

 ・〔朝永振一郎・武谷三男・福田信之・福田博・堀江久・富山小太郎〕

  ・〔今日までの素粒子論 原子核の問題 宇宙線の問題 中間子論

   の問題 日本の素粒子論

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・【昭和28年〔8〕の『自然』】▼

   ・[1]・(1月号)〔96頁、120円〕

    ・〔巻頭〕湯川秀樹科学の進歩と国際協力

    ・【原子力問題・特集】

     ・〔座談会〕「“日本原子力委員会”をめぐって

       ・〔伏見康治・早川幸男・須田正己・片山謙二〕

     ・坂田昌一原子力問題と取り組む―学術会議第13回総会より―」

      ・〔1.仁科博士の態度 2.講和条約と原子力研究の自由 3.茅・

       伏見提案が行われるまで 4.原子力の研究は開始すべきか 

       5.むすび〕

     ・「原子力問題に関する討論――学術会議第13回総会における――」

      ・〔茅誠司・坂田昌一・伏見康治・我妻栄ほか〕

  ・[3]・(3月号)〔80頁、100円〕

   ・「国際理論物理学会議への期待

    ・小谷正雄〔会議の輪郭 コペンハーゲンの思い出 

      今回の会議の特色 素粒子と物性〕

    ・早川幸男〔国際学会に対する準備 素粒子論における準備〕

  ・[8]・(8月号)〔82頁、100円〕

   ・「現代物理学の課題」 〔Ⅰ 場の理論(高橋康) Ⅱ 原子核・

宇宙線の理論(久世寛信) Ⅲ 物性論(中島貞雄・大澤文夫)

  ・[10]・(10月号)〔82頁、100円〕

    ・「国際理論物理学会議に来朝の学者たち

     ・〔ファインマン、スレーター、オッペンハイマーなど〕

  ・[11]・(11月号)〔82頁、100円〕

    ・湯川秀樹素粒子の統一的理論への試み

     ・〔序論 素粒子の概念の再検討 混合場の理論 非局所

      相互作用をする局所場 非局所場 原著者註〕

      ・〔中村誠太郎・岡林孝彦訳註〕

  ・[12]・(12月号)〔82頁、100円〕

   ・「国際理論物理学会の収穫(Ⅰ)」

    ・〔「宇宙線とV粒子」(早川幸男) ・「場の理論B」(須浦寛)

    ・「原子核の殻構造及びベータ―崩壊」(梅澤實)〕

 

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   1953年ノーベル物理学賞:ゼルニケ(オランダ)「位相差顕微鏡の研究」

2月、NHKテレビ放送を開始した。

6月、「世界大思想全集」刊行開始(河出書房)

  *7月、東大原子核研究所の敷地、田無町に決定。

7月、朝鮮戦争休戦協定の調印。

9月、「現代日本文学全集」〔全99巻〕刊行開始(筑摩書房)

12月、イギリスのエリザベス女王戴冠式に皇太子が出席。

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◎「 以下、次号につづく」・・「その三

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 PHN (思想・人間・自然) 」  第53号

〔2023年2月25日脱稿、和田耕作(C)〕

〔2023年3月1日発行、PHNの会、、無断転載厳禁〕












 『 PHN( 思想・人間・自然 ) 』 第52号 ( 2022年8月 )  ( web版 )





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「 日本国憲法施行75周年・沖縄復帰50周年記念 」

2022年:ロシアによるウクライナ侵攻のさなかに考える

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日本初のノーベル賞 物理学者・湯川秀樹 没後40年記念

・『湯川秀樹自選集』刊行50年記念

・「 今、〈湯川秀樹を読む〉 ということの意味 」

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〈 核廃絶と世界平和 〉 の思想家 としての 湯川秀樹


  ――
理論物理学者の「創造的世界」、その軌跡を辿る

  ――その一・・「京大卒業から終戦まで

 


            和田耕作

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    PHN  第52号  PDF版


    phn52yukawa1.pdf へのリンク  




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・【はじめに】


2021年は、日本初のノーベル賞 物理学者・湯川秀樹の没後40

であった。


・近年、湯川秀樹の戦時中の軌跡、特に「F研究」(核開発)とのかか

わりが明らかとなってきた。湯川は、戦争中の核開発などの反省か

ら、戦後は科学者として、一人の人間として、核軍縮と世界平和の

実現に向けて尽力した。


2022年2月24日、冬季・北京オリンピックが終わるやいなや、

ロシアがウクライナに侵攻し、すでに6か月以上が経過した。

プーチンのロシアは、核兵器の使用までもちらつかせて、ウクラ

イナに侵攻し、多くの子供たちや市民までをも殺戮している。その

惨状は、戦争というものが、人の命と住まいのみならず、永い年月

を費やして築いてきたその国の文化そのものを一瞬にして破壊し、

消滅させてしまうものであることをまざまざと示している。

それらは、ヒロシマ・ナガサキだけでなく、あの沖縄戦や東京大

空襲の惨禍などをも思い起こさせるものである。


・このような現代において、湯川秀樹の戦中・戦後の人生の軌跡と

その「核廃絶と世界平和」の思想家としての湯川秀樹を振り返るこ

とには大きな意義があるであろう。


・『湯川秀樹自選集』が刊行されたのは、私の学生時代であった。

 しかし、学業に追われてそれらを読む時間を十分に取ることがで

 きなかった。刊行後50年の今日、しみじみと読んでみたいと思う。


・私は、幸運にも197011月に行われた「岩波の文化講演会」の

湯川秀樹の講演「科学と自然」〔著作集①所収〕を聴いた一人である。

それから50年以上が過ぎ、今、湯川秀樹の著作をゆっくりと繙く

時間に恵まれている。その湯川秀樹の核軍縮・平和思想の意義は、

今日益々高まっている。湯川は、何度も同じような主張を繰り返し

述べている。それは、いつの時代にも「平和の思想」を語り続けて

いくことが重要だという考えからである。


湯川秀樹の平和思想については、下記の文献にも見られるように、

すでに述べられていることも多い。しかし、私は敢えて同じことを

述べるかもしれない。それは、「湯川秀樹の平和思想」を単なる研

究のためではなく、現在の人々に、そしてこれからの人々にも伝承

していかなければならないからである。


・本稿では、別稿「桑木彧雄論」と同様の年譜形式を採用した。これ

は、桑木論の続編としての意味が込められているからである。湯川

秀樹を読むことで、明治から昭和時代までの科学史・思想史を俯瞰

し、さらには「世界人類哲学の構想」へと発展させたいがためでも

ある。「世界人類哲学」への資源は、すでに「人類の歴史」のなか

に存在している。われらは、それらから学びとり「未来」を創造し

てゆくのである。


・本稿ではまた、拙著『石原純―科学と短歌の人生』では、十分に

 参照できなかった雑誌『科学』の石原純が編輯に関わった号の内容

をたどることにした。この時代の雑誌『科学』の内容をたどること

は、湯川秀樹の中間子論成立の背景を見つめることであり、さらに

はこの時代の科学史と思想史とをたずねる旅でもある。 


 

・〔追補〕

20228月、7年ぶりにNPT(核拡散防止条約)の再検討会議

 が開催されたが、案の定、ロシアの反対により「最終文書」の採択

 ができなかった。





・【主要参考文献】・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・〔順不同、「その一」以降の参考文献を含む〕・・・


・《A》『湯川秀樹選集』(全5巻、昭和30年~31年、甲鳥書林刊)

・《B》『湯川秀樹自選集』(全5巻、1971、朝日新聞社刊)

・《C》『湯川秀樹著作集』(全10巻、19891990岩波書店刊)

・《D》雑誌『科学』(第1巻〔昭6〕~第17巻〔昭22〕、岩波書店刊)

    〔石原純「編輯主任」時代の『科学』〕

・《E》『小倉金之助著作集』(全8巻、19731975、勁草書房刊) 

・《F》坂田昌一『物理学と方法 論集1(昭和47年、岩波書店刊)

・《G》坂田昌一『科学者と社会 論集2(昭和47年、岩波書店刊)

・《H湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』1989、第二刷、三省堂刊)

・《I》『近代日本総合年表 第二版1984、岩波書店刊)

・《J》『科学史研究』1号~第9号(昭和1620年、日本科学史学会発行)



  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・①『湯川秀樹著作集』別巻、1990、岩波書店刊)

・②坂田昌一『科学者と社会 論集2(昭和47年、岩波書店刊)

・③小沼通二編『湯川秀樹日記1945―京都で記した戦中戦後』

   2020、京都新聞出版センター刊)

・④小沼通二『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が

遺した希望』2020、岩波書店刊)

・⑤湯川秀樹『極微の世界』(昭和17年、岩波書店刊)

・⑥湯川秀樹『物理学に志して』(昭和19年、甲鳥書林刊)

・⑦政池明『荒勝文策と原子核物理学の黎明』2018、京都大学学術出版

会刊)

・⑧湯川秀樹『存在の理法』(昭和18年、岩波書店刊)

・⑨浜野高宏ほか著『原子の力を解放せよ――戦争に翻弄された

  核物理学者たち』2021、集英社新書)

・⑩中谷宇吉郎『春草雑記』〔昭和22年、生活社刊〕

・⑪湯川秀樹『目に見えないもの』(昭和21年、甲文社刊)

・⑫湯川秀樹『自然と理性』(昭和22年、秋田屋刊)

・⑬湯川秀樹『科学と人間性』(昭和235月、国立書院刊)

・⑭湯川秀樹『物質観と世界観』(昭和238月、弘文堂刊)

・⑮湯川秀樹『原子と人間』(昭和2312月、甲文社刊)

・⑯湯川秀樹『しばしの幸』(昭和29年、甲文社刊)

・⑰田中正『湯川秀樹とアインシュタイン』2008、岩波書店)

・⑱小沼通二編『湯川秀樹日記 昭和9年:中間子論への道』

   2007、朝日新聞社刊)

・⑲小倉金之助『戦時下の数学』(国民学術選書、昭和19年、創元社刊)

・⑳松宮哲夫『伝説の算数教科書〈緑表紙〉―塩野直道の考えたこと

2007、岩波書店刊)

・㉑森口昌茂「戦時期京都帝国大学における緊急科学研究体制の

実態とその背景について―海軍との関係を軸に―」、「東海の科学史」

14号、20214月)

・㉒和田芳恵『筑摩書房の301940-19702011、筑摩書房刊)

・㉓湯浅光朝『解説・科学文化史年表』1950、中央公論社刊)





〈 核廃絶と世界平和 〉 の思想家 としての 湯川秀樹


  ――理論物理学者の「創造的世界」、その軌跡を辿る

 

  ――その一・・「京大卒業から終戦まで





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・【1929年(昭和4年)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・〈湯川秀樹、22歳〉・3月、京都帝国大学理学部物理学科卒業。

  同理学部副助となり、玉城研究室に所属する。秋に、ヨーロッパ

留学から帰国したばかりの荒勝文策の量子力学の講義を聴く。

 

9月、ハイゼンベルクディラックが来日。

   ・両氏の講演は、東大・京大・理研で行われた。朝永振一郎は、東大で

    聴いたが、湯川は京大で聴いている。〔小沼:文献⑱〕

     ・ディラックが講演したテーマの一つ「電子の相対論的理論」は、

      湯川が卒論で取り上げていた。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


        6月、岩波講座物理学及び化学」第1回配本。

6月、戸坂潤『科学方法論』

小倉金之助:「階級社会の算術」(「思想」812月)

        *10月、世界恐慌はじまる。

1929年、ノーベル物理学賞:ド・ブローイ(仏)

「電子の波動性の発見」       

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  




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・【1930年(昭和5年)

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・〈仁科芳雄〉・1月、「クライン・仁科の式」を発表する。

・〈湯川秀樹、23歳〉・

   ・場の量子論に関するハイゼンベルクとパウリの論文

    (昭和4年発表)を精読する。

・〈田辺元〉・10月、「新物理学的世界像の意義」(岩波講座「物理学

及び化学」、科外特別題目)。

・〔PlanckEddingtonの最新論考の紹介と批評である。田辺元は

Planckの『物理学的世界像の統一』を昭和3年に訳出している。〕

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 *小倉金之助:「階級社会の数学」(「思想」356月)

        3月、内村鑑三没。

11月、渡辺大涛『安藤昌益と自然真営道

1930年、ノーベル物理学賞:ラマン(インド)

          「光の散乱に関する研究とラマン効果の発見」

        *不景気で大量の失業者がでる。

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・【1931年(昭和6年)

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4月、総合科学雑誌『科学創刊石原純編輯主任〕(岩波書店刊)

  ・編輯:岡田武松・柴田桂太・寺田寅彦・小泉丹・柴田雄次・

      坪井誠太郎・石原純〔主任〕

  ・〔以下、本稿では、雑誌『科学』の物理学関連論考・記事などを一瞥して、

湯川秀樹の理論物理学研究の背景についての参考としたい。なお、石原

純の文などを多く紹介するのは、拙著『石原純――科学と短歌の人生』

への補遺・補足を意図するからである。〕

・〈湯川秀樹、24歳〉・5月、仁科芳雄が京都帝国大学で行った

  10日間の「量子力学の集中講義」を聴く。

   ・ハイゼンベルク『量子論の物理的原理』による講義。

   ・湯川・朝永振一郎・坂田昌一らが、これを聴く。

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  ・【昭和6年〔第1巻〕の『科学』】

   ・[1]・

・石原純「創刊の辞」から〔記名のない巻頭言は、石原純によるもの〕

       ・「科学することの真の楽しさを味わったとき、彼は一人の

         科学者であり得る。

         ・雑誌『科学』はイギリスの『Nature』、アメリカの『Science』など

       を目標として創刊されたという。

     ・寺田寅彦は編輯の方針として、「科学がどんなにおもしろいかを

わからせるやうにしなければならない」と語ったという。

     ・桑木彧雄の「理学と哲学」は、『Nature』における科学認識論の議

論から、科学者は、これらの問題を討論する機会をもうける時代と

なったことを述べている。今日でいうところの「科学哲学会」のよ

うな議論の場・組織の提唱である。

     ・寺田寅彦は、「日常身辺の物理的諸問題」を寄せた。

       ・これは、いわゆる「寺田物理学の特質」の一つにほかならない。




『科学』 創刊号の表紙 (和田文庫蔵) 〔無断転載厳禁〕


 ・[2]・

・巻頭言「自然科学諸分科の連関」〔石原純〕

  ・「同じ根幹から養分を摂取して、しかして樹枝はそれぞれの

    方向に伸張する。

・雑誌『Science』と『Nature』から、ミリカンの論文の抜粋がある。

 ・[第3号]・

  ・巻頭言「科学理論の変革への一考察」〔石原純〕

    ・〔例として、アインシュタインの時空論の変革を挙げている。〕

・〔時事〕原子核の研究は波動力学による「核」の研究に入ったという。

 ・[第4号]・

  ・菅井準一物理学に関する理想主義史観

   ・物理研究に於ける二つの態度、「一は実在論的乃至理想主義的態度

    〔プランクら〕他は実証論的乃至実用主義的態度〔マッハら〕」

    がある。菅井はプランク派を支持する。ただし、プランクの生活上

    の理想主義的態度は、カント主義的観念論であり、飽き足らなさも

    感じるという。

・「唯物史観の立場に立つと自称する人々の解釈にしてもマッハの立

場に比較してすら尚独断的、観念的なる点に於て物理学真理性の

史的発展を甚だ歪曲するものである。」

   ・「物理学はかのブルジョア階級の保護の下に安楽椅子に倚り乍ら成

    来ったものでは決してない。現に単に如何に多くの大学と研究所

    と工場との設備があり、天才が幸いに恵まれているにしても、若し

    科学精神の明確な把握と探究の苦しみとがないならばガリレー、

    ニュートン、ファラデー、プランク、アインシュタイン等の業績

    は生まれ出るものではない。」

三上義夫「岡本則録翁」。和算家・岡本への追悼文である。

・ミリカンによるマイケルソン(干渉計の改良で知られる)追悼文

 〔『Science』より抜粋〕

・[第5号]・

 ・岡邦雄「“理想主義史観に就いて

  ・前号の菅井論文への反論である。菅井のいう「弁証法的唯物史観」は

  「弁証法的唯物論」の何たるかを理解していないもので、その論文は

  「単なる思いつき」であると批判している。

 ・この次に、菅井準一の岡への反論文がある。

   ・菅は、「弁証法的唯物史観」という用語の誤りは認めるが、その

    「意図した処は岡氏の記された様な立場はあらゆる物理学の発展

    を単なる資本主義的封建的反映なりと機械的に見なす点に重大な

    錯誤があることを云はうとしたのである」という。

・[第6号]・

 ・巻頭言「科学理論の進展性」〔石原純〕

   ・「弁証法なるものは一種の論理形式であって、それ自身何等自然に

    関与すべきものではない。」

   ・〔これは、科学の進歩を「弁証法的発展」としてとらえている人に

    対しての石原の一見解である。〕

・「Faraday 及び Maxwellの記念」〔石原純の文であろう。〕

 ・「偉人のすぐれた業績を思ふことは、

   人間としての我々を常に価値づけ得る意味に於て

   謙虚な、好ましき誇りを満足せしめる。

 ・〔石原は、チンダルの「Faradayは世界最大の実験科学者であった」

  という言葉に倣って、「Maxwellは世界最大の理論科学者であった」

  と述べている。この年はイギリスでFaraday Maxwellの百年記

念祭が行われた。〕

 ・[7]・

    ・寺田寅彦質的と量的と統計的と

  ・「眼前の生きた自然に於ける現実の統計的物理現象の実証的研究

       によって、凡そ自然界に如何に多様なる統計的現象が如何なる

       形に於て統計的に起っているかを、出来るならば片端から虱潰

しに調べて行って、さうして其等の現象の中に共通なる何物か

を求めることが望ましく思はれる。」

      ・「従来の所謂統計物理学は物理学の一方の庇を借りた寄生物であ

ったのであるが、今では庇の店子に主家を明け渡す時節が到来

しつつあるのでがないか。本当の統計的物理学は此れから始ま

るべきではないか。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

附録:「量子論の新発展

  ・〔以下の内容は、この時代の理論物理学研究の最前線の解説であ

る。この時、湯川もまたハイゼンベルク=パウリの理論の検討

集中していた。【著作集】別巻:「年譜」を参照のこと〕

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 ・「波動力学概観」(竹内時男:東工大)

   ・ドゥ・ブローイとシュレーディンガーの理論の解説。

 ・「物質粒子の波動性に関する実験」(菊池正士:理研)

 ・「不確定性原理について」(石原純)

   ・ハイゼンベルクとボーアの不確定性原理について

 ・「量子力学と将来の問題」(菊池正士:理研)

   ・1「相対論的量子力学」・・ディラックの電子論など

   ・2「電磁量子力学」・・ハイゼンベルク=パウリの理論

   ・3「原子核の問題」

     ・「相対論的量子力学と電磁量子力学の困難が打開される

      時は、理論物理学が、永年の懸案であった“原子核の理論

      に向って最初の総攻撃を開始し得る時であらう。」

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 ・[8]・

  ・巻頭言「科学の精神的寄与〔とその弊害〕」〔石原純〕

      ・〔科学者は、ともすると狭い専門の領域のみに没頭して、その他

       の人間的な精神生活がおろそかになる傾向を戒めている。〕

   ・「第1巻」は、[9]までの刊行である。


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         *9月、満州事変はじまる。

1931年、ノーベル物理学賞:なし

         *北海道・東北、冷害による大凶作で飢饉。

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・【1932年(昭和7年)

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・〈湯川秀樹、25歳〉・3月、京都帝国大学理学部講師となる。

  ・量子力学を講義する。秋ころから「核力の場」の問題と取り組む。


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 ・【昭和7年〔第2巻〕の『科学』】

   ・[1]・

    ・プランク「マクスウェルとドイツに於ける理論物理学への彼の影響」

         〔抜粋〕

    ・〔展望〕:アインシュタインらの「力の場の単一理論〔統一場理論〕」

         の要綱を紹介〔Z.I.〕。

 ・[第2号]・

    ・「大阪帝大理学部〔新設〕の計画」の記事あり。

  ・[第5号]・

    ・巻頭言「戦争と科学」〔石原純〕

     ・「一般民衆を爆撃してはならぬとか、毒ガスを用ひてはならぬとい

ふことは、いかに予め国際間に協定されようとも、一旦死力を必要

とする戦争に直面するに当ってはもはや紙上の空論に過ぎないも

のとなるであろうことは、すべての論者が一致して指摘する処で

ある。」

・〔90年前のこの石原の言は、現在進行中〔2022年2月24日~〕の

ロシアのウクライナへの侵攻において、まざまざと証明された。〕

    ・〔時事〕:「“中性子の仮説」の記事あり。

・[第6号]・

  ・巻頭言「我が国科学の地位」〔石原純〕

    ・〔故・末廣恭二博士が欧米のから帰国して述べた文を引用して、

     日本の科学が段違いに遅れていること、科学的精神と科学的趣味と

     が遙かに劣っていることなどを指摘している。〕

寺田寅彦「〔追悼文〕工学博士・末廣恭二君」

  ・〔末廣恭二の略歴と業績のあらましを述べている。末廣は、東大の

地震研究所の設立に尽力したという。〕

  ・エディントン「決定論の凋落」〔抜粋〕

    ・決定論の定義 ・第二次的法則 ・推論的知識

・[第7号]・

 ・巻頭言「因果律の問題」〔石原純〕

   ・「我々は因果律を或る程度の制限を以て許容する外はない。たとへハイ

    ゼンベルクの不確定性原理が自然に於て行はれていたとしても、・・

力学の原理や・・熱力学の法則は・・従来と同様に成立する・・只

それらが絶対的の必然性を以てではなく、或る蓋然性を以て真である

と云はねばならない。」

   ・〔ハイゼンベルクの不確定性原理によって、因果律は限定的なものとな

    ったという。この問題は、次のエディントンの論考に関連している。〕

  ・エディントン「決定論の凋落(続)」〔抜粋〕

    ・回顧的特性 ・不決定論の批判 ・不確定性原理 ・心的不決定論

・[9]・

 ・「原子核の物理学」(藤岡由夫)

 ・「核物理学は今猶夜明け前の状態にある。・・今春突然現れたニュー

トロン説は核の構成に何等かの暗示を与えるものではなからうか。

――やがて見ん黎明の光、それを想ふ所に明日の物理学に対する

希望と歓びとがある。」

 ・〔新刊書欄〕:小倉金之助数学教育史』(岩波書店刊)の紹介。

・[11]・

・巻頭言「現時の経済事情と科学研究」〔石原純〕

 ・〔円安によって輸入される機械・実験材料・雑誌・書籍の高騰が

  科学研究に与える影響について述べている。日本の現在にも通じる

  内容である。〕

ニールス・ボーア「化学と原子構造の量子論(Ⅰ)」〔抜粋〕

 ・〔時事〕:「唯物論研究会の誕生」記事あり。

   ・〔唯物論に関心をもつ哲学者・社会科学者・自然科学者が参加。〕


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1932年、ノーベル物理学賞:ハイゼンベルク(独):

「パラ=オルソの水素の発見に導いた量子力学の創始」

7月~89月「日本資本主義発達史講座」刊行。

7月、三木清『歴史哲学』(岩波書店)

10月、戸坂潤・岡邦雄ら、「唯物論研究会」設立。

11月、仁科芳雄ら「原子物理学研究会」結成。

12月、小倉金之助、大阪帝国大学理学部講師となる。

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・【1933年(昭和8年)

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・〈湯川秀樹、26歳〉・5月、大阪帝国大学理学部講師となる

4月、「核内電子に関する一考察」を発表〔数学物理学会〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・【昭和8年〔第3巻〕の『科学』】

 ・[1]・

   ・仁科芳雄原子核物理最近の進展(Ⅰ)

   ・緒言 ・中性子の発見 ・中性子の本体 ・中性子と原子核の構造

  ・[第2号]・

    ・仁科芳雄原子核物理最近の進展(Ⅱ)

      ・核の角運動量と統計 ・陽子による核の人工崩壊

    ・寺田寅彦「自然界の縞模様」

[第3]・

  ・「因果律に関する説明に就いて」(ラウエ)

 ・「認識と説明」(石原純)

   ・「記述学派が主張した通りに、説明は決して・・物理学的理論に

    於て目的とすべき事柄ではない。客観的事実の記述こそ法則又は

    理論の目的であり、・・そこに物理学的認識が到達される。」

・[第4号]・

  ・「宇宙線の本体に就いて」(仁科芳雄

・[第6号]・

  ・ニールス・ボーア(菅井準一訳)「光と生命(Ⅰ)」〔抜粋〕

  ・藤岡由夫「ハイゼンベルクの横顔

・[第7号]・

  ・ニールス・ボーア(菅井準一訳)「光と生命(Ⅱ)」〔抜粋〕

  ・仁科芳雄陽電子の発見(Ⅰ)」

・[第8号]・

  ・仁科芳雄陽電子の発見(Ⅱ)」

[第9号]・

  ・仁科芳雄・朝永振一郎陽電子に関する問題二、三

    ・Ⅰ、陽電子の発生に就いて ・Ⅱ、陽電子と放射性能作

    並びに原子核構造

・[10]・

仁科芳雄・朝永振一郎負電子に関する問題

   ・「前号『陽電子に関する問題二、三』に於て、“負電子(負のエネル

ギー状態にある電子)によって充満された宇宙は全く電子の存在

せぬと同様に作用する“といふディラックの根本仮説の重要な事

を指摘し、・・将来の問題であると述べた。

然し其後の考察により此の根本仮説の基礎は今日既に明白である

事が知れたから是を茲に述べよう。」

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1933年、ノーベル物理学賞:

・シュレーディンガー(独):ディラック(英):

「新しい形式の原子理論の発見」

*1月、ヒトラー首相に就任。以後、ナチスの台頭。

2月、小林多喜二虐殺される。

3月、三陸大津波、死者約3000人。

4月、雑誌『文学』創刊(岩波書店)

5、小倉金之助「イデオロギーの発生(数学)」

    〔岩波講座「哲学」〕

*数学教育学者・松宮哲夫生まれる〔算数教科書の『緑表紙』で

学んだ最後の世代である。松宮:文献⑳参照〕。

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・【1934年(昭和9年)

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・〈荒勝文策〉・7月、台北帝国大学で、「日本で最初に核破壊の実験

に成功」する。

・〈坂田昌一〉・9月、大阪帝国大学理学部助手となり、湯川の研究に

協力する。

・〈湯川秀樹、27歳〉・10月、中間子の着想を得る11月、中間子論

  第1報の論文を投稿する〔英文〕。翌年2月、掲載・発行される。

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・【昭和9年〔第4巻〕の『科学』】

 ・[1]・

アインシュタイン理論物理学の方法についてS.Y.訳〕

   ・〔1933610日、オックスフォードでのスペンサー記念講演。〕

   ・〔ハイゼンベルクの不確定性原理への疑問を語る。〕

・[3]・

  ・〔時事〕・「マックス・ボルン教授の新電子理論」の記事あり。

・[4]・

  ・〔論述〕:仁科芳雄宇宙線の本質

・[第5号]・

・〔抜粋〕:ヘルマン・ワイル「宇宙と原子」

  ・〔新刊書〕:東京科学博物館編江戸時代の科学

   ・〔総説:「江戸時代の科学」桑木彧雄、和算:「江戸時代の和算について」

    三上義夫、ほか〕

・[第6号]・

 ・〔巻頭言〕「研究者とその素養」〔石原純〕

  ・〔抜粋〕:ハイゼンベルク量子力学の発展(Ⅰ)」〔S.T.訳〕

・[7]・

  ・〔抜粋〕:ハイゼンベルク量子力学の発展(Ⅱ〙」〔S.T.訳〕

   「量子力学の法則は原理的に統計的である。原子系に於てその総ての規定

   項目が実験的に決められた時に、一般にはその系に就いての未来の実験

   の結果は正確には予言され得ない。併しその結果を正確に予言し得る如

きあるきまった観測は後の各時刻に対して存在している。それ以外の観

測に対しては実験のあるきまった結果に対して、ただ確率が与へられる

のみである。」(p282

・〔新刊書〕:戸坂潤『技術の哲学』(時潮社)、

岡邦雄『唯物論と自然科学』(大畑書店)、

        ファラデー著(矢島祐利訳)『蠟燭の科学』(岩波文庫)

・[第8号]・

 ・田辺元「数学の基礎再吟味――今野氏の論文に因みて」

  ・〔下記の「思想」6月号の今野の論文に対する論述である。〕

    ・今野武雄「歴史的科学としての自然科学の再編成の一つの試み

          ――カール・マルクスの微分学に就いて 」   

 ・〔展望〕:藤岡由夫「重い水素雑観」

・[第9号]・

 ・〔抜粋〕:シュレーディンガー波動力学の根本思想(Ⅰ)」

・[10]・

 ・〔抜粋〕:シュレーディンガー波動力学の根本思想(Ⅱ)」

・[12]・

 ・〔抜粋〕:ハイゼンベルク物理学的自然説明の歴史について」S.Y.訳〕

  ・〔新刊書〕:・唯物論研究会訳「岐路に立つ自然科学」(大畑書店刊)

        ・桑木彧雄著『アインシュタイン伝』(改造社刊)

         ・「本書は単なるアインシュタインの伝記でなく、・・最も

卓抜な“20世紀の列伝体物理学史”とした方がむしろ妥当

であらう・・。」

・〔展望〕:今野武雄「量子論と認識論――エミール・メーエルソン氏の

     近著に就て」

    ・E.Meyerson『量子物理学に於ける実在と決定論』(1933)の紹介

と批評。

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1934年ノーベル物理学賞:なし。

           9、室戸台風

10月、『大法輪』創刊

11月、谷崎潤一郎『文章読本』



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・【1935年(昭和10年)

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・〈湯川秀樹、28歳〉・4月、「素粒子の相互作用に就いて」講演。

〔日本数学物理学会〕

 

4月、『理化学辞典〔岩波書店〕刊行

    ・編輯顧問:岡田武松・寺田寅彦・柴田雄次

    ・編輯者:石原純(主任)・井上敏・玉蟲文一

    ・〔序文:石原純〕

1231日、寺田寅彦 死去する

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・【昭和10年〔第5巻〕の『科学』】

・[1]・

 ・武谷三男〔京大〕「Negative Proton(Negaton陰子)原子核」

 ・〔抜粋〕:ハイゼンベルク物理学的自然説明の歴史について(続)」〔S.Y.訳〕

 ・〔論述〕:仁科芳雄「人工放射能」

  ・緒言 ・人工放射能の発見 ・原子核の反応 ・人工放射性元素の化学的

   検出 ・陽子並びに重陽子による人工放射能 ・中性子による人工放射能

   ・結論

 ・仁科芳雄「ラングミュア博士〔1932年度ノーベル化学賞〕の来朝」

・[第4号]・

 ・武谷三男〔京大〕「陽子の磁気能率に就いて」

 ・荒勝文策・他〔台北帝大〕

・「重水素イオンの衝撃に依る重水素原子核の変転現象」

 ・〔研究抄録〕「基礎的粒子の相互作用原子核の構成理論)」〔湯川秀樹

        〔日本数学物理学会記事、111935)第2号〕

        ・〔「湯川秀樹」の研究に関する記事の初出である。〕

・[6]・

 ・〔巻頭言〕「科学と思想」(石原純)

     ・「人間の進歩が、そしてまた社会の進歩が常に思想の自由にのみ

      依存し得ることを忘れてはならない。」

     ・〔「思想の束縛の時代」にあって、自由の大切さを説く石原純。〕

・[第8号]・

  ・仁科芳雄「ディラック、ベック両教授講演会(Ⅰ)」

    ・ディラック教授講演〔Ⅰ 陽電子の理論、Ⅱ 量子電磁力学〕

・[第9号]・

  ・仁科芳雄「ディラック、ベック両教授講演会(Ⅱ)」

    ・ベック教授講演〔Ⅰ β-変換の理論、Ⅱ 異常散乱と軽原子核〕

・[10]・

  ・〔抜粋〕:ディラック「陰電子及び陽電子の理論」

・[11]・

 ・〔雑纂〕「自然科学と哲学――“思想“10月特輯号を読む――」

   ・1. 自然弁証法への一寄与

    ・田辺元古代哲学の質料概念と現代物理学

     「不確定性原理の解釈・・物理学的存在そのものの自己否定的

      構造の顕在であり、存在自身の弁証法的自己顕在の契機と云

ふべきである」

   ・2. 因果律に関して

    ・仁科芳雄量子論に於ける客観と因果律

     「量子力学に於ける因果律の否定は・・“力学的” 因果律の否定

      を意味するが、この否定は・・不確定性原理の極限の場合とし

      て新しい肯定を期待し得られる筈の否定である。」

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10月、雑誌『思想』:「自然科学と哲学」特輯号

     ・〔執筆者:田辺元・石原純・仁科芳雄・今野武雄・

下村寅太郎・桑木彧雄、ほか〕

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・[12]・

 ・〔抜粋〕:ヴァイスコップ「電子の新量子論の問題」

   ・陽電子の“空孔”理論 ・物質と電磁場との間の交互作用

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1935年】

1月、大江健三郎、生まれる。

4月、いわゆる〈緑表紙〉の算術教科書(国定教科書)が使用される。

   〔昭和183月まで使用、松宮哲夫:文献⑳参照〕

6月、ディラックら来日。

8月、湯川の養父・湯川玄洋死去。

10月、雑誌『思想』:「自然科学と哲学」特集号

  ・〔執筆:田辺元・石原純・仁科芳雄・今野武雄・下村寅太郎・

          桑木彧雄、ほか〕

10月、戸坂潤『科学論』(唯物論全書、三笠書房)

12月、アインシュタイン我が世界観』(石井友幸・稲葉明男共訳、

跋文:岡邦雄、石原純、白揚社刊)

 ・〔第一部 我が世界観 ・第二部 政治と平和主義 ・第三部

  1933年のドイツ ・第四部 ユダヤ人 ・第五部 科学

  (「理論物理学の方法」など)〕

 

1935年ノーベル物理学賞:チャドウィック(英国)「中性子の発見」



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・【1936年(昭和11年)

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・〈湯川秀樹、29歳〉・3月、大阪帝国大学理学部助教授となる。

3月、雑誌『思想』:「寺田寅彦追悼号」を刊行。

・〔執筆:安倍能成・石原純・藤原策平・中谷宇吉郎・矢島祐利・

   玉蟲文一・桑木彧雄、ほか多数。〕

石原純寺田物理学の特質

 ・桑木彧雄「寺田博士の手紙」


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・【昭和11年〔第6巻〕の『科学』】

・[1]・

 ・〔巻頭言〕「科学者の社会的自覚」〔石原純

  ・「科学者といへども政治や経済に対する関心と正しい認識とを必要とす

る。・・その仕事の本質に於て最も国際的普遍性を有すべき科学者に於

ては・・この事に対する自覚を保持して社会的な政治経済機構への正当

な批判に努めることが肝要である。」

  ・〔新刊書〕アインシュタイン『我が世界観』(石井・稲葉訳、白揚社)

   石原純時間の非可逆性に就て

   ・「量子現象として我々に認識されるものが常に或る統計的結果であると

    云ふことによって・・この事は同時に我々の時間認識がかやうな確率状

    態の変化過程によってのみ可能であることを示すのである。それ故に

之が時間の可逆性を結果するか否かは我々の認識論的考察にとり根本

的に重要でなければならない。」

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・〔附録〕「原子核に関する最近の研究

 ・「荷電粒子に拠る原子核変換反応」(杉浦義勝)

 ・「中性子及びγ線による原子核の壊変」(菊池正士)

 ・「スペクトル線の微細構造と原子核のスピン」(木内政蔵)

 ・「原子核理論の概観」(朝永振一郎)〔短文〕

・〔「理研仁科研究室の新鋭」との紹介あり。編輯後記〕

     ・朝永振一郎、予定の仁科芳雄に代わり執筆する。

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・[第2号]・

・〔巻頭言〕「寺田博士を悼む」石原純

   ・「 この道をあゆみ、

    ふと “永遠の火” を見失ふ さみしさ!

        でも 後輩たちは

    もうあの “蹠の寸法” を探り覚えたとでも 云ふのであるか. 

    ・「真実の追求者」、「寺田物理学と称する」、「芸術と科学とのおもしろみ

   を最も深く体得された博士こそ人間としての至上の幸いを攫み得た

   一人である」

   ・〔学界展望〕

   ・「量子力学に対するアインシュタイン等の疑義と之に対するボーア

    の解説」〔藤岡由夫〕

     ・アインシュタイン等の所説  ・ボーアの所説

    ・「アインシュタイン等の “量子力学の記述は不完全なり” との

     結論は、正しいとは言ひ兼ねるのである。寧ろ量子力学的記述は

     対象と器械との間の有限かつ制御不可能な相互作用を考に入れて、

     実験結果を明瞭に説明したものと言ふべきである。」

   ・〔追悼文

    ・「寺田寅彦博士」(安倍能成)〔葬儀での弔辞〕

    ・「寺田寅彦先生」(藤原咲平)

      ・〔略歴と業績のあらましを詳細に記述している。協力者多数。〕   

・[第3号]・

・「交換関係の導来」(伏見康治)

・〔新刊書〕小倉金之助『数学史研究 第1輯』(岩波書店)、

戸坂潤『科学論』(三笠書房)

・「科学の発達と科学的精神の発展(Ⅰ)」(後藤末雄)

・「量子論に於ける可逆性、非可逆性の問題に就て」(富山小太郎)

  ・〔1月号の石原純の論考に、関連する議論。〕

・[第4号]・

 ・〔巻頭言〕「非常時情勢と科学」〔石原純〕

   ・〔日本精神昂揚の思想の中で、科学的精神の振興を叫ぶ。さらには

    科学研究への資源の投入を力説している。〕

・〔新刊書石原純現代物理学』(三笠書房)、

今野武雄『数学論』(三笠書房) 

・〔学界展望〕

・「光のニュートリノ説」(小林稔)

・「再び時間の非可逆性について」(石原純

  ・〔前号の富山小太郎の論考を受けての補足〕

・[第5号]・

 ・仁科芳雄量子論に於ける因果律

   1 緒言 2 古典論に於ける因果律 3 量子論への拡張

・[第6号]・

 ・ニールス・ボーア中性子捕捉と核構造

・「科学の発達と科学的精神の発展(Ⅱ)」(後藤末雄)

 ・〔抄録〕「中性子衝撃による原子核転換の理論」(湯川秀樹宮川行彦

・[第8号]・

 ・石原純理論の抽象性と具体的現実

 ・渡邊慧「時間の可逆、不可逆の問題に関連して」

・[第9号]・

 ・シュレーディンガー非決定論と自由意志

・[10]・

 ・〔巻頭言〕「科学奨励の意義」〔石原純〕

   ・「真の科学奨励は、最も根本的な意味を有する科学的精神の涵養に

    存しなければならない。」

・〔学界展望〕小谷正雄「原子価の量子理論」

・[11]・

 ・〔新刊書〕湯川秀樹「β線放射能の理論」(岩波書店)

 

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2月、『日本哲学全書』(第7巻)「第二部 自然哲学」(第一書房)

 ・「仏教家の自然観・医学家の自然観」 ・編纂:三枝博音

5月、『日本哲学全書』(第8巻)「第二部 自然哲学」(第一書房)

 ・「天文・物理学家の自然観」〔三浦梅園「玄語」「帰山録」〕

 ・編纂:三枝博音

9月、『日本哲学全書』(第9巻)「第二部 自然哲学」(第一書房)

 ・「天文・物理学家の自然観(二)・儒教家の自然観

安藤昌益「自然真営道」〕  ・編纂:三枝博音

10月、田辺元科学政策の矛盾」(「改造」)

12月、小倉金之助自然科学者の任務」(「中央公論」)

226事件

*ベルリン・オリンピック

1936年ノーベル物理学賞:ヘス(オーストリア)「宇宙線の発見」、

   アンダーソン(米国)「陽電子の発見」

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・【1937年(昭和12年)


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4月、理化学研究所仁科研究室、小サイクロトロン完成。

    大サイクロトロンの設計を開始する。

45月、ニールス・ボーア教授来日。

・〔『科学』74月増刊号〔第5号〕参照〕

8月、理化学研究所仁科研究室、中間子を観測する。

   ・〔『科学』79月号〔第10号〕参照〕

11月、中間子論第2報の論文(湯川・坂田共著)を投稿する。

 

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・【昭和12年〔7〕の『科学』】

・[1]・

 ・〔巻頭言〕「1937年への警告」〔石原純

  ・田辺元科学政策の矛盾」、小倉金之助自然科学者の任務」を

   受けて、「自然科学の研究の絶対に自由でなければならない理由・・

   自然科学を一定の政治形態にのみ隷属せしめようとするのは誤って

   ゐる。」

 ・〔新刊書〕ディラック量子力学』(仁科芳雄・朝永振一郎ほか訳、

岩波書店刊)

・〔学界展望〕「光量子散乱と保存則」(藤岡由夫)

・[第2号]・

・〔新刊書〕寺田寅彦物理学序説」〔『寺田寅彦全集』第9巻所収〕

・[第4号]・

 ・伏見康治量子力学の論理

・[第5号]〔4月増刊号〕・特輯自然科学的世界像

 ・田辺元世界観と世界像

   Ⅰ 世界観と世界像との区別 Ⅱ 物理学主義と統一科学

   Ⅲ 生物学主義と綜合科学 Ⅳ 世界像と世界観との関係

 ・石原純物理学的世界像

1.      自然科学的世界像の範形としての物理学的世界像 2.力学的及び

電磁的世界像 3.エネルギー論及び統計力学 4.相対性理論

5.量子論 6.生物学及び心理学との関連 

 ・〔抜粋〕ハイゼンベルク現代物理学の原理的諸問題」(天野清訳)

 ・仁科芳雄ニールス・ボーア教授の来朝に際して

  ・緒言 ・生い立ち ・ボーアと原子構造 ・ボーアの理論物理学研究所

  ・合理的量子論発見の前後 ・最近の研究

・[第7号]・

 ・「ボーア教授の講演(Ⅰ)」(藤岡由夫:筆記)

  ・第1日 ・第2日 ・原子核の問題 ・第3日 

  「之れは全く現象の観測といふ事を正確に分析した結果生ずる関係で、

   古典理論には全くない事である。此の事情に対して、単に“不決定”

Indeterminacy)といふ言葉を用ひる事は、誤解を起こし易い。

寧ろ古典理論に全くない概念であることを明らかにする為に、新しい

補足性”(Complementarityといふ言葉を用ひる事が望ましい。」

 ・〔研究室概観〕「理化学研究所原子核実験室

    ・「サイクロトロンも先月初めから操作を始めた」

・[第8号]・

 ・「ボーア教授の講演(Ⅱ)」(藤岡由夫:筆記)

  ・第4日より第6日まで ・散乱の問題 ・再び原子核の問題に就て

  ・量子力学の哲学的関連、殊に生物学及び心理学に於ける応用に就て

   ・「生物学的見方と自然科学的見方とが補足的であるといふ事は、之れ

    を論じても新しい結果を得るものではない。唯各々の見地を明らか

にして無益の論争を避けるのに役立つであらう。」

・[10]・

 ・仁科芳雄新粒子の発見

  ・「湯川氏の理論」〔末尾の見出し〕

   ・「此の量子は上述の新粒子に外ならないと結論せられた。・・湯川氏の

    理論に従へば、新粒子は普通の原子核変換の際には現れて来ない。」  

 ・〔新刊書〕小倉金之助科学的精神と数学教育』(岩波書店)

・[11]・

 ・ニールス・ボーア原子核の変換」(仁科芳雄訳、日本での講演内容から)

・[12]・〔10月増刊号〕・特輯自然科学最近の進歩概観

 ・菊池正士「原子核の問題について」〔湯川粒子について触れている。〕

・[13]・

 ・坂田昌一湯川氏の理論に於ける同種重粒子の交互作用に就て


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 1月~、山本有三『路傍の石』

4月、第1文化勲章長岡半太郎・本多光太郎・木村栄ら」   

   *5月、文部省『国体の本義』を全国の学校などに配布する。

   6月、大河内正敏、雑誌「科学主義工業」を創刊。

   *9月、古在由重『現代哲学』

1937年ノーベル物理学賞:デヴィッソン(米国)・トムソン(英国)

         「結晶による電子回析の発見」

            *19377月~ 日中戦争始まる。

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・【1938年(昭和13年)



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3月、中間子論第3報の論文(湯川・坂田・武谷三男共著)を投稿

する。

・〈坂田昌一〉・3月、大阪帝国大学理学部講師となる。

・〈湯川秀樹、31歳〉・4月、理学博士の学位を授与される。(大阪

帝国大学)

・大阪帝国大学理学部「湯川研究室」の主なメンバー(4月)

 ・助教授:湯川秀樹(31

 ・講師:坂田昌一(27)、小林稔(30

 ・副手:武谷三男(27)、谷川安孝(22

5月、湯川の恩師・玉城嘉十郎没する。

8月、中間子論第4報の論文(湯川・坂田・小林・武谷共著)を

  投稿する。

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・【昭和13年〔8〕の『科学』】

・[1]・

  ・桑木彧雄ラザフォード卿への追憶

  ・〔新刊書〕田辺元『哲学と科学との間』(岩波書店)

・[3]・

 ・〔新刊書〕石原純『科学と社会文化』(岩波書店)

・[3]・

 ・小倉金之助「支那数学の特殊性」

 ・湯川秀樹新粒子論(Ⅰ)」

   ・1.新粒子の質量 2.中性子と陽子との相互作用とβ崩壊

    3.重い量子の仮説 

 ・〔新刊書〕ポアンカレ科学と仮説』(岩波文庫)

       石原純自然科学的世界像』(岩波書店)

・[第4号]・

 ・湯川秀樹新粒子論(Ⅱ)」

   ・4.Uの場の方程式の一次化 5.重い粒子間の力と磁気能率

    6.宇宙線及びβ崩壊に関する問題

・[7]・

 ・〔学会往来〕「日本数学物理学会年会」・・原子核討論会「湯川秀樹・

坂田昌一・武谷三男氏U粒子についての講演」

・[第8号]・

 ・〔抜粋〕ワイツゼッカー「原子核構造に関する近時の模型概念」(Ⅰ)」

 ・〔新刊書〕高木貞治『解析概論』(岩波書店)

 ・〔学界展望〕坂田昌一宇宙線の理論(Ⅰ)―A.宇宙線粒子の基本過程」

  ・〔1.電磁場と電子の交互作用 2.光子の基本過程 3.高速電子の

基本過程 4.U粒子の基本過程 5.ハイゼンベルクの爆発過程〕

・[9]・

 ・〔学界展望〕玉木英彦宇宙線の理論(Ⅱ)―B.基本過程の交錯」

   ・〔6.高速電子と光子との基本過程の交錯 7.其の他の基本過程の交錯〕

  ・石原純「科学に於ける謂はゆるユダヤ精神」

・[10]・

 ・「U粒子の寿命に就て」(湯川秀樹・坂田昌一・谷川安孝

 ・〔学界展望〕玉木英宇宙線の理論(Ⅲ)―C.観測結果との比較」

   ・〔8.高度-強度 曲線 9. 地表に於ける勢力分布と地表下に於ける

強度曲線 10. シャワー及びバースト〕 

・[11]・

・〔抜粋〕ワイツゼッカー「原子核構造に関する近時の模型概念」(Ⅱ)」

  ・〔時事〕「中性U粒子」〔Yukawaにちなんで「Yukon」の名の提示あり。〕

・[13]・

・〔抜粋〕ワイツゼッカー「原子核構造に関する近時の模型概念」(Ⅲ)」

・〔抄録〕「素粒子の相互作用 Ⅳ」〔湯川・坂田・小林・武谷、中間子論

4論文の抄録〕

・[14]・

 ・〔学界展望〕富山小太郎基本粒子に関する諸問題

   ・ハイゼンベルクの理論 ・ディラックの理論


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*2月、唯物論研究会解散を声明

*4月、国家総動員法公布

11月、「岩波新書」の創刊20点(岩波書店)

 ・「狂暴な言論弾圧の嵐の中で」(吉野源三郎)創刊された。

1938年ノーベル物理学賞:フェルミ(イタリア)「中性子衝撃によって

作られる新放射性元素の研究と熱中性子による原子核反応の発見」




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・【1939年(昭和14年)


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・〈湯川秀樹、32歳〉・5月、京都帝国大学理学部教授となる。

  恩師・玉城嘉十郎の後任として「物理学第二講座」を担当する。

・〈坂田昌一〉・5月、京都帝国大学理学部講師となる。谷川安孝、

  同副手となり、湯川研究室を構成する。


・〈湯川秀樹〉・7月、『最近の物質観』刊行(弘文堂書房刊)


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  ・【湯川『最近の物質観』の目次】

   ・「序」

   ・一、物質の窮極的構造

    ・「6.新粒子の発見 ・・宇宙線と原子核といふ互いに孤立して居た

二つの大きな島が、メソトロンといふ新しい橋によって絡がれたと

もいへる」

   ・二、量子論の根本問題

    ・「5量子論と時空 ・・量子論と時空、問題は既に久しく、解決は

     いまだ遠しである。」

・三、新粒子理論の概要

    ・「新粒子、即ち今日の所謂メソトロンの理論の比較的に詳細な解説

     である。」(「序」より、『科学』誌上に掲載されたものの増補である」)

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・〈湯川秀樹〉・6月~10月、ソルベー会議などのために渡欧、

    世界大戦勃発のため会議などが中止となり、アメリカに

渡り、アインシュタインその他の物理学者を訪問する。

また、いくつかの大学で「中間子論」について講演し、帰国

する。

    ・「欧米紀行」(昭和14年)(湯川『極微の世界』所収)参照。

・「アメリカ日記―1939年―」〔湯川『原子と人間』所収〕参照。


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・【昭和14年〔9〕の『科学』】

・[1]・

・〔巻頭言〕「現国策下に於ける科学者の任務」〔石原純〕

  ・「科学は単なる物質的実用のみを目的とするものではなく、特に

   現時に於て更に重要なそれの任務として科学的精神の振興をその

   肩に負つてゐる。しかも後者は専ら純正科学の真髄を体得する事

   によつてのみ可能なのであるし、・・」

 ・〔抄録〕「核物質の内部摩擦及び熱伝導率」(朝永振一郎

 ・〔新刊書〕石原純『科学と思想』(河出書房刊)

・[第3号]・

 ・〔時事〕「湯川粒子の寿命

・[第4号]・

 ・「量子論に於ける古典的なもの」(富山小太郎:理研)

・[第6号]・

 ・〔論述〕湯川秀樹Mesotron問題の現状(Ⅰ)―新粒子論続編―」

  ・〔1.緒言 2Mesotronの基本的性質 3Mesotronの自然消滅の

  問題とβ崩壊の理論 4Mesotronと電磁場の相互作用に関する諸

問題 5.中性Mesotronの問題

 ・〔時事〕「U粒子(メゾトロン)の発見者として世界的に盛名ある大阪

帝大理学部助教授湯川秀樹博士は故玉城嘉十郎博士の後継者として

母校京都帝大理学部教授に栄転した。」

・[第7号]・

 ・〔抜粋〕ニールス・ボーア自然哲学と人間文化」(天野清訳)

・[第8号]・

 ・〔論述〕湯川秀樹Mesotron問題の現状(Ⅱ)―新粒子論続編―」

  ・〔6.場の理論の適用限界 7Mesotron理論の適用限界の問題

   8.結語〕

・[10]・

 ・〔新刊書〕湯川秀樹最近の物質観』(教養文庫、弘文堂書房刊)

   ・「新しい物理学に於ける問題の所在をこれだけ短く要約してある

    ことは何といつても読者として有難いことである。」

・[11]・

 ・「科学史研究のために――A.Wolf教授の新著に寄せて―」(菅井準一

  ・〔1.科学史研究の意義 2A.Wolf教授の新著について

    3.科学教育に於ける科学史の役割〕

・[12]・〔10月、増刊号〕

 ・〔論述〕嵯峨根遼吉「最近の高速度粒子発生装置の情勢に就て」

・「理研と加州〔カリフォルニア〕大学のサイクロトロンの現状に

ついての詳細な報告がある。そして、「理研の大サイクロトロン

は、殆ど完成」している、という。

・[14]・

 ・〔新刊書〕ポアンカレ晩年の思想』(河野伊三郎訳、岩波文庫)


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1939

10月、アインシュタイン=インフェルト物理学はいかに創られ

  たか』〔石原純訳、岩波新書〕

11月、ホグベン『百万人の数学』(上)刊行。翌年3月(下)を

  刊行(今野武雄・山崎三郎訳、日本評論社刊)。

12月、石原純・井上敏・玉蟲文一編輯『理化学辞典』〔増補改訂版

発行〔岩波書店刊〕               

1939年ノーベル物理学賞:ローレンス(米国)「サイクロトロンの

発明とその研究およびそれによる人工放射性元素の研究」 

 *19391945 第二次世界大戦

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・【1940年(昭和15年)


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・〈湯川秀樹、33歳〉・5月、帝国学士院恩賜賞受賞。

・〔『科学』3月号に授賞決定の報あり。「素粒子間の相互作用に関す

 る理論的研究並びに宇宙線中の新粒子存在に対する予言」〕

    11月、日本学術振興会第十小委員会委員となる。

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・【昭和15年〔10〕の『科学』】

・[1]・

   ・〔巻頭言〕「科学動員について」〔石原純〕

    ・「科学動員を名目として、餘りにゆき過ぎた統制を行ふことは、

     却って之に禍ひするといふことを、よくよく考へなくてはならない。」

   ・〔新刊書〕ドゥ・ブロイ『物質と光』(河野與一訳、岩波新書)

・[3]・

 ・〔抜粋〕ニールス・ボーア「生物学と原子物理学(Ⅰ)」(菅井準一訳)

 ・湯川秀樹、「学士院恩賜賞」受賞決定の報あり〔前述〕。

・[第4号]・

   ・〔巻頭言〕「科学教育の本質」〔石原純〕

    ・「科学教育が実用主義に傾くことによつて、それは科学的精神を養成

するどころか、却って反対に非科学的迷信への道を準備すると云ふ

逆効果を生じてしまふことになる。」

・〔抜粋〕ニールス・ボーア「生物学と原子物理学(Ⅱ)」(菅井準一訳)

湯川秀樹、学術研究会議の物理学特別委員会〔2月〕で「素粒子の問題

を講演したとの記事あり。

・[10]・

   ・〔巻頭言〕「伝統」〔仁科芳雄

     ・「最近日本に2年間滞在して帰ったドイツの一青年物理学者は、

      ‘日本の物理には技術方面に伝統が欠けて居る’と洩らした。洵に味

      ふべき言葉であると思ふ。」

・[14]・

   ・〔巻頭言〕「科学的技術の統制について」〔石原純〕


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    2月、国民学術協会創設。

    *6月、古田晃:筑摩書房創立。

10月、小倉金之助東京物理学校理事となり、11月に幹事となる。

10月、大政翼賛会成立。

12月、科学動員協会創設。

1940年ノーベル賞:なし。



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・【1941年(昭和16年)


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・〈三枝博音〉・3月、『三浦梅園の哲学(第一書房刊)刊。

・「外務省情報部」の研究補助金による公刊である。

・「三浦梅園百五十年祭」(昭和13年)の時に梅園旧宅での調査・

研究による成果である。

・〈小倉金之助〉・4月、「現時局下に於ける科学者の責務」

(「中央公論」4月号、小倉『戦時下の数学』:文献⑲に収録)

4月、『科学』:創刊十周年記念号〔「学界展望」特集〕を発行。

    ・【湯川秀樹関連論考】

    ・朝永振一郎中間子の理論〔湯川の理論〕

     ・〔1.核力と新粒子 2.核力場の方程式 3.中間子の崩壊と原子核

      のβ-放射能 4.中間子の問題に於ける理論的困難 5.困難解決

      の種々の試み〕

    ・関戸彌太郎・竹内柾:宇宙線に於ける中間子

・【創刊10周年の回顧の随筆】

    ・安藤廣太郎  ・小泉丹  ・柴田雄次  ・坪井誠太郎

    ・仁科芳雄:回顧と展望

      ・「湯川理論が出てから、理論の行き詰まりが一段と顕著に目の前

に突き出されて来た。・・我国に於ても、4000トン級のサイクロ

トロンの建設が望ましい。・・〔これにより〕他の科学並びに技術

の領域に於ける画期的躍進を期待するものである。」

    ・石原純:「回顧の一端」  ・村越司

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・〈湯川秀樹、34歳〉・4月、西田幾多郎を訪問する。

          11月、実父・小川琢治没する。

    ・11月、湯川「中間子理論は今日行き詰まりの状態にある。」

(湯川「短い自叙伝」、⇒「著作集・⑦」)

・湯川の「行き詰まりの状態」との認識は、新発見のあとの「停滞

期」の自覚であろう。さらには、第二次世界大戦という時代のため、

太平洋戦争のための科学者たちの動員や学術界における統制など

とも無関係ではないと思われる。

・この11月には、『極微の世界』(昭17、岩波書店刊)の「序」

 を執筆している〔1942年の項を参照〕。

12月、『科学史研究創刊号日本科学史学会刊)

     ・会長:桑木彧雄

・顧問:石原純小倉金之助狩野亨吉田辺元西田幾多郎

三上義夫ほか。

     ・〔巻頭〕「科学史の研究」(桑木彧雄

     ・「我国に於ける日本数学史研究」(小倉金之助

     ・昭和1712月現在の会員名簿(『科学史研究』45号所収、昭和

181月発行)には、「湯川秀樹三木清坂田昌一」などの名が

ある。

     ・日本科学史学会は、戦時における科学振興政策のさなかに生まれた。

・『科学』第5号に「科学史学会成立」の記事あり。





『科学史研究』 創刊号の表紙 (和田文庫蔵) 〔無断転載厳禁〕


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・【昭和16年〔11〕の科学

・[1]・

・〔抜粋〕エンリコ・フェルミ「重い元素に於て中性子によって生ずる

反応」

・[2]・

 ・〔巻頭言〕「大学教授の停年制」〔石原純〕

  ・「大学教授は学者として何れも尊重すべき人々であるのに、それら

   を一律的の停年制により退職せしめることのいかに不合理である

   かは、これ以上論ずる必要はない・・それぞれ自己の判断によって

   退職時期を選ばしめることが遙かに適切である。」

・[4]・

・「創刊満十周年記念号」〔「学界展望」特集〕を発行。

・〔前記を参照のこと〕

・[7]・

・〔巻頭言〕「科学技術の新体制」〔仁科芳雄

・〔論述〕「原子間の力」(山内恭彦)

・[第8号]・

 ・〔巻頭言〕「科学と芸術」〔石原純〕

  ・「科学は、たとへそれが合理的実証的であるとはいへ、それの

   発展の径路に於て著しく芸術に類似することが明らかとなる」

・[10]・

・〔研究時報〕「素粒子特に中間子及び原子核に関する研究」(富山小太郎)

 ・〔朝永振一郎坂田昌一武谷三男湯川秀樹らの研究の紹介記事〕

・[12]・

 ・〔巻頭言〕「科学教育の問題」〔石原純〕

 ・〔時事〕「(財)科学文化協会」の成立記事あり。機関紙「科学文化」。


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5月、科学技術新体制確立要綱決定。

8月、三木清人生論ノート』(創元社刊)

    *11月、雑誌『科学朝日』創刊(朝日新聞社)               

1941年ノーベル賞:なし。

 

 *194112月~ 太平洋戦争始まる。

 


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・【1942年(昭和17年)



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仁科芳雄〉・『科学』2月号の巻頭言「大東亜の再建と純粋科学」において、

   人的・物的資源の欠乏の時代でも、純粋科学の推進の責務について述べて

いる。

 

・〈湯川秀樹、35歳〉・2月、『極微の世界』(岩波書店刊)

 ・・〈自選集〉に収録。


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・【湯川『極微の世界』の目次】〔昭和254月発行の五刷本による。〕

 ・巻頭に「 この書を 二人の父の 霊前に捧ぐ 」とある。

・序(昭和1611月)

 ・「第一部」 理論と実験

 ・理論と実験(昭151月)・・〈著作集・①〉

 ・物理学界の展望(昭157月)・・〈選集・三

  ・理論物理学への道(昭1510月)・・〈選集・三〉・〈著作集・①〉

・素粒子問題の概観(昭161月)

 ・放射線と物質(昭164月)著作集・②〉

 ・宇宙線の本性(昭153月)

  ・中間子理論の現状(昭1457月)・・〈著作集・⑧〉

・「第二部」 自然と人間

  ・自然と人間(昭1511月)・・・・〈選集・二

 ・科学の伝統(昭169月)・・〈選集・二〉・〈著作集・④〉

  ・科学の近代化(昭162月)・・・〈選集・二

・科学と環境(昭169月)・・・〈選集・二

  ・エネルギーの概念(昭16)・・・・〈選集・二

   ・自然を知ること(昭161月)・・・〈選集・二

  ・譬へ話(昭161月)・・〈選集・二

・欧米紀行(昭152月)・・〈選集・五〉

  ・〔昭和14年の夏から秋の4か月間。「追記」で、ローレンス

   による大サイクロトロンの計画の進捗を報告している。〕

  ・故国に帰りて(昭151月)

   ・科学の立場(昭1610月)・・〈選集・二


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・これらの文章が書かれた時期は、未だ太平洋戦争が始まる前である

 から、直接戦争などに言及した文章は含まれていない。

・しかし、172月刊の「初刷本」では、「序」の中にある短歌の

 後には、以下の太字のような文章があった〔小沼:文献④による〕。

 「 今日も生きてこの道を行けるといふことは、祖国の絶大なる恩

恵であることを、須臾も忘れてはならないのである。

  国に捧ぐ いのち尚ありて 今日も行く 

一筋の道 限りなき道 

      この道が大東亜建設の道と一つであることを、私は信じて

       疑わないのである。  

       昭和十六年十一月   」

 

・この太字の文章が、昭和254月の五刷本では削除されている。

おそらく戦後の「刷り版」から削除されたものと思われる。

 

基礎物理学の研究に専念する湯川秀樹

  ・たとえ戦時中であっても、湯川秀樹のすることは、おのれの学問の研究

   〔一筋の道〕に集中し、邁進することであった。しかし、次第にその時代

の要請が、湯川の身辺にもじわじわと及んでくることになる。

湯川秀樹79月、『科学』に「場の理論の基礎について」〔Ⅰ〕〔Ⅱ〕〔Ⅲ〕

 を発表する。


・【「場の理論の基礎について」の湯川の回想】

・「このころの悪戦苦闘の記録である。」「〔晩年の〕素領域の概念の原型が、

 すでにそこにある。」〔湯川『創造への飛躍』、「あとがき」(昭和43)より〕

 

・〈坂田昌一〉・10月、名古屋帝国大学教授となる。同月、

    京都帝国大学理学部物理学教室研究嘱託を兼任する。

 

日本科学古典全書の刊行(朝日新聞社刊)はじまる。

   ・〔監修:狩野亨吉、小倉金之助、桑木彧雄、新村出、

編纂:三枝博音〕

・〔時局の影響により10冊を刊行して、中止となる。〕

・〈狩野亨吉〉・1222日、死去する。

・『科学』昭和192月号に死亡記事あり。

・「京大文学部長となったが、・・職を辞した。・・清貧に甘んじながら

 読書三昧の生活を送られ、その膨大なる蔵書の一部は現に東北帝国大

学図書館に狩野文庫として秘蔵されてゐる。その該博な知識はあらゆ

る分野に渉ってをり、日本科学史学界の元老であると共に、古美術・・

の鑑識においても権威者として知られてゐた。」

・『日本科学古典全書』の収録史料群は、狩野文庫に負うところが大きい。


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・【昭和17年〔12〕の『科学』】

・[1]・

・〔抜粋〕ジョージ・ガモフ太陽は爆発すべく運命づけられてゐる

・[第2号]・

 ・〔巻頭言〕「科学者の責務」〔石原純〕

 ・〔研究時報〕「原子核に関する実験」(山崎文男)

  ・〔阪大原子核研究室、理研(西川研究室・仁科研究室)、京大原子核

研究室などでの実験の近況報告。〕

・[第3号]・

 ・〔巻頭言〕「大東亜の再建と純粋科学」〔仁科芳雄〕

 ・〔寄書〕「粒子像に就て」(渡邊慧)

     「核粒子の構造について」(宮島龍興〔理研仁科研究室〕)

 ・〔新刊書〕菅井準一『科学史の諸断面』(岩波書店)

・[第4号]・

 ・〔ガリレオ没後300年記念

石原純「ガリレイの事績について」

 ・今野武雄「ガリレオの著作」

・[5]・

 ・〔時事〕・「桑木彧雄引退」の記事あり。

     ・「理研創立25周年記念式典」の報告記事あり。

・[7]・

 ・〔論述〕湯川秀樹場の理論の基礎について」〔Ⅰ〕」

     ・〔1.中間子の問題 2.原因と結果の非分離性

・[第8号]・

 ・〔論述〕湯川秀樹場の理論の基礎について」〔Ⅱ〕」

・〔2.原因と結果の非分離性(続き) 3.力学的観点と

統計力学的観点 4.基本法則と附加条件〕

・〔ニュートン生誕300年記念

 ・武谷三男「ニュートン力学の形成について」

・[9]・

 ・〔論述〕湯川秀樹場の理論の基礎について」〔Ⅲ〕」

     ・〔5.場と粒子 6.素粒子と時空〕 

・[10]・

 ・〔巻頭言〕「理科教育及び学術文化」〔石原純〕

  ・〔戦時体制の中で、修学年限の短縮が発表された。これが学術文化

   の低下、特に外国語力の低下につながらないようにとの要望を述

べている。〕

・〔抜粋〕ワイツゼッカー現代の物理学及び物理学的世界像(Ⅰ)」

 ・〔1.課題提出 A.全体性 2.実在の物理学的像に対する一例

  3.物理学的形像に於て何が欠けてゐるか?〕

・[11]・

・〔抜粋〕ワイツゼッカー現代の物理学及び物理学的世界像(Ⅱ)」

 ・〔4.物理学及び生物学 5.物理学的方法〕

・[12]・

 ・〔巻頭言〕「大東亜戦争勃発1周年に際して」〔石原純〕

・〔抜粋〕ワイツゼッカー現代の物理学及び物理学的世界像(Ⅲ)」

 ・〔B.直観性 6.直観性の概念 7.近代物理学の形態 8.結論〕

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・5月、「科学史研究」第2号、刊行(日本科学史学会発行)

11月、「科学史研究」第3号、刊行(日本科学史学会発行)


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4月、東京初空襲。

6月、ミッドウェー海戦で4空母を失う。

6月、〔米国〕原爆・マンハッタン計画本格スタート。

12月、ガダルカナル島撤退を決定する。

1942年ノーベル賞:なし。

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・【1943年(昭和18年)


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・〈坂田昌一〉・1月、京都帝国大学化学研究所所員を兼任する。

・〈仁科芳雄〉・11日、『科学』の巻頭言「戦争の前途と科学者」を書く。

   ・「科学動員の方法・・各科学者の有する専門智能を充分に発揮し得られ

    る問題を捉へて、これを解決せしめるといふ方法が最も理想的である。」

   ・「機密保持の観念の下に行はれる委託研究では、大した成果は予期し得

ない。」

   ・「科学者及び技術者の研究成果、試験研究及び製造の設備又は能力を集

録して戦力増強に資するのも一つの方法であらう。」


・〈湯川秀樹、36歳〉・16日、京都新聞に「科学者の使命」を

書く。

〔湯川:文献⑥に収載。その改訂版である湯川:文献⑪では、省略され

ており、その後の湯川の本には収載されていない〔文献《A》《B》《C

にも再録されていない。〕。

 小沼編:文献③には、「京都新聞」の初出文が収録されている。〕


・【湯川「科学者の使命」の要点と力点について】

1・「科学者の責務は、科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の

   増強に活用すること。」

2「科学の真の根基をわが国土に培養すること。」

・湯川の記事の要点は、この2点にあるであろう。「1」は、時代の要請

 〔新聞社などの要請〕に応えたものであり、「2」は、自己の研究者とし

ての使命にほかならない。「総ては戦力に・・」との見出しは、文献⑥

にはないので新聞社によるものであろう。

・この記事の力点は、言うまでもなく「1」にあった。したがって、戦後

 の湯川の書物には、再録されなかったのである。それは、この文章が

 湯川の自主的な執筆ではなく、時局の要請〔新聞社から〕により書かれ

たものであることを暗示している。

・〈湯川秀樹〉・〔34月〕

   ・3月、鎌倉の西田幾多郎を訪問する。4月、学術会議会員と

なる。同月、文化勲章を受章する。その足で長岡半太郎を

訪問し、受賞のお礼を述べる〔藤岡由夫監修『長岡半太郎伝』

649

・〈湯川秀樹〉・7月、『存在の理法』(岩波書店刊)

・・〈自選集〉に収録。

・【基礎物理学の研究に専念し、科学の真の根基を培養する湯川秀樹】

・本書には、随筆類の収録はなく、自然科学の学生などが主な読者対象

であるためか、戦争にかかわる文章はない。

・本書には、基礎物理学の研究に専念し、科学の真の根基をわが国土に

培養することに尽くすという湯川秀樹本来の姿がある。

 ・湯川の本のタイトルは、極めてオリジナルなものが多い。このタイト

ルのみでは、物理学の専門書とは思われない。それは、本書が「物理

学的自然認識の問題」について、本格的に論じていることと無関係で

はない。「外篇」の「第1章 物理学的世界に就て」がそれである。

この物理学的認識論には、マッハとプランクの論争があり、桑木彧

雄・寺田寅彦なども論じていた。湯川の文章は、マッハとプランク

の論争には触れていないが、その論争を踏まえた上での論述である。

プランクのいう「世界像」から、いまや「世界観」を持つに至ったと

いうのが湯川の考えである。そして、湯川は後に『物質観と世界観』

(昭和23年)という書物を刊行することになる。


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・【湯川存在の理法』の目次】

 ・「序文」はない。


・「内篇

・〔甲と乙の二人による対話篇である。湯川の啓蒙的精神に

  あふれている著作群である。〕

 ・第1章 理論物理学の方向に就て(昭178月)

・・〈自選集(Ⅱ)〉

    ・一 古典物理学  ・二 近代物理学

    ・三 現代物理学  ・四 近代物性論

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     ・本書のイントロダクションである。

・〔「一」において、ローレンツ理論などの「古典電子論」

      を、「過渡期の物理学」と表現しているのは卓論である。

(p6)〕

     ・この論考が、〈選集〉・著作集に収録されていないのは

惜しまれる。1冊の本を分割して、選集〉や〈著作集

に収録する方法は、その書物の全体性を損なうもので

あり、今後見直されるべきことであろう。

・〔末尾に、理論物理学の「系統樹」の図がある。〕

 ・第2章 自然法則の形態に就て(昭182月)・・〈著作集・⑧〉

    ・一 局所的法則と全体的法則 ・二 対称性と保存則

    ・三 選択規則と統計的規則  ・四 自然法則の進化

・第3章 場の理論の基礎に就て(「科学」、昭1779月)

                               ・・〈選集・四〉・〈著作集・⑧〉

     ・「本書全体の重心」〔「後記」より〕

 ・一 中間子の問題  ・二 原因と結果の非分離性

 ・三 力学的観点と統計力学的観点 

・四 基本法則と附加条件  ・五 場と粒子

 ・六 素粒子と時空    文献


・「外篇」 

・第1章 物理学的世界に就て・・〈選集・四〉・〈著作集・③〉

・〔「改造」昭173月・「科学文化」昭182月が基である。〕

・一 物理学的世界の成立  ・二 古典論的世界

・三 相対論的世界   ・四 量子力学の形成過程

・五 量子力学的世界の構造

   ・「吾々の自然に対する完全なる知識とは実験的、操作的

    であると同時に、理論的、構成的なものでなけれなら

ぬ。」(p135) 

・六 物理学的世界と心理学的世界

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     ・「古典物理学的世界」 ・「相対論的世界」

     ・「量子力学的世界」  ・「素粒子論的世界」

     *〔これらの用語をまとめて表現すれば、江渡狄嶺が

       用いたところの「場論的世界」といえるだろう。〕

       拙著『場論的世界の構造―江渡狄嶺の哲学』参照。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・    

2 時間と因果に就て(昭176月)・・〈著作集・③〉

     ・一 自然科学的認識の二重性  ・二 物理学的時間

     ・三 時間の可逆性と非可逆性  ・四 時空の問題

     ・五 因果の問題  ・六 生命の問題

     ・〔木村素衛との対談の速記が基になっている。 

・第3章 中間子論の由来と発達に就て(昭155月)

・・〈著作集・⑧〉

     ・一 現代物理学の課題  ・二 核場と中間子

     ・三 ベーター崩壊と中間子の寿命

     ・四 中間子の諸性質  ・五 今後の問題  文献

・〔学士院賞受賞講演会の記録が基になっている。〕

 

・第4章 素粒子論の方法に就て・・〈著作集・⑧〉

     ・一 素粒子概念の変遷 ・二 波動方程式の一般的形態

     ・三 配位空間と再度量子化 ・四 量子化の諸方法

       文献

     ・〔学術研究会議などでの講演が基になっている。〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・「後記」 ・〔ここでは、各論考の出典、その他を明記している。〕

・この「後記」には、本書全体の構成についての綿密な

配慮がうかがわれる。結局、〈選集〉や〈著作集〉に

おいては、このような「序文」や「後記」などの重要な

文章が除かれてしまうという欠点がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・「科学」(141号、昭和191月)に、この本の紹介がある。

  ・「此の書は、我が国の偉大な誇りとなつた`中間子理論‘の華々し

   い成功の後を受けた、いはば苦難混乱の時代のありのままの現

況記録である。・・世間が此の種の中間的科学書――専門書と通

俗書との中間といふ意味――を餘りにも歓迎する結果、出版者

は、・・科学者を・・手数のかからない著述に誘惑し、・・貴重な

研究時間や、高級専門書著述の為の時間を犠牲にしている傾向

が・・ありはしないだろうか」(S.S.

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・〈石原 純〉・11月「戦時下に於ける科学の進展について」

・「科学」(1311号)の巻頭言

・ここで石原純は、原子核分裂の発見について触れつつ、基礎研

 究の大切さとともに、この研究がアメリカでかなり進捗して

 きていることを述べている。翌年1月の『科学朝日』の特集号

 の記事でも同様のことを述べている。


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・【昭和18年〔13巻〕の『科学』】

・[1]・

 ・〔巻頭言〕「戦争の前途と科学者」(仁科芳雄)

   ・〔前記参照のこと〕

・[第2号]・

 ・〔巻頭言〕「科学技術第二陣の養成」〔石原純〕

・[第3号]・

 ・〔新刊書〕湯川秀樹坂田昌一原子核及び宇宙線の理論』(岩波書店)

  ・〔書評者:玉木英彦〕

・[第4号]・

 ・〔研究時報〕「中間子の理論」(東京文理大:宮島龍興)

  ・〔朝永振一郎・富山小太郎・湯川秀樹・坂田昌一・武谷三男らの

   昭和1617年の『科学』誌上の論考などを中心に紹介。〕

・[第5号]・

 ・〔時事〕3月、数学物理学会京都支部で、湯川秀樹素粒子論の基本

法則(Ⅰ)」発表の記事あり。

・[第6号]・

 ・〔新刊書〕天野清訳編『ウィーン、プランク論文集熱輻射論と量子論

の起源』(大日本出版)〔書評者:武谷三男〕

・[第7号]・

・〔巻頭言〕「大学制度の改革について」〔石原純〕

・[9]・

 ・「中等数学教育に関する往復書簡」(塩野直道彌永昌吉

  ・塩野直道は、昭和104月から昭和183月まで使用された

   いわゆる〈緑表紙〉の算教科書の編纂主任(文部省図書監修官)

   である。〔松宮:文献⑳参照〕

  ・「今度出来た教科書」とあるので、〈緑表紙〉の算術教科書、その他

中等教育の数学教科書の改訂版についての意見交換である。

・[11]・

    ・〔巻頭言〕「戦時下に於ける科学の進展について」〔石原純〕

   ・〔前記を参照のこと〕


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・1月、「科学史研究」第45合併号、刊行(日本科学史学会発行)

・6月、「科学史研究」第6号、刊行(日本科学史学会発行)

     ・〔追悼文〕「狩野亨吉先生」(八田三喜)

11月、「科学史研究」第7号、刊行(日本科学史学会発行)

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 ・【1943年】

     8月、島崎藤村没。

 8月、「科学研究の緊急整備方策要綱」の閣議決定。

     ・〔戦争の遂行を、科学研究の目標とする。〕

 *12月、学徒出陣。

1943年ノーベル物理学賞:オットー・シュテルン(米)

「原子線の方法への貢献と陽子の磁気モーメントの発見」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




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・【1944年(昭和19年)

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1月、『科学朝日』特集号「戦争と新しい物理学」を発行。

   

仁科芳雄のコラム「科学技術の戦力化」が巻頭にある。

石原純のコラム「核エネルギーの利用」がある。

  「核分裂に関してはその後研究がどれほど進んでゐるか、・・全く知

  ることのできない有様に・・わが国においても大いに研究が進められ

  その成果の得られんことを、私は特にここに希望しないわけにはい

  かない。」

・〔この記事の「その後研究」には、当然ながら「原子爆弾」の研究を

 も含んでいるものといえるであろう。〕

 

座談会戦争と新しい物理学」(朝永振一郎・小谷正雄ほか)

  ・最初に「ウラニウム爆弾の問題」から議論している。

  ・当時、物理学者の関心が「原子爆弾」にあったことを示している。

 

・〈石原 純〉・1月、『科学を志す少年のために』(現実処刊)

・序(昭和1712月)

・巻頭の第一節のタイトルは、「戦争と科学」である。


・【戦時中の出版事情について】

・この時代、時局に貢献する内容が含まれていないと、書籍の刊行は

極めて困難であった。1点ずつ出版の承認を得るため、刊行までに

1年近くもかかるのであった。また、出版社の企業統合が国家的に行

なわれた年でもある。


・【和田芳恵「戦時下の筑摩書房」より】

・「この頃〔昭和18年〕、出版文化協会で古田〔晃、筑摩書房創立者〕

 が聞いて来る話を聞くたびに、中村光夫は気が滅入って仕方がな

 かった。戦意昴揚以外の出版物には一枚も紙が出そうもなかった。

 陸軍情報部の鈴木庫三少佐と、その一味の手で、日本の出版界は完全

に牛耳られていた。」(和田芳恵『筑摩書房の30年』、p79、文献㉒)


・〈湯川秀樹、37歳〉・4月、『物理学に志して』(養徳社刊)

・「養徳社」は、甲鳥書林などの戦時の企業統合により生まれた出版社。

(社長は、旧甲鳥書林の中市弘)






  『物理学に志して』 の扉 (和田文庫蔵) 〔無断転載厳禁〕

〔奥付の発行所は「養徳社」であるが、扉には「甲鳥書林刊」とある。〕



・【湯川『物理学に志して』目次】

 ・巻頭に「 この書を 玉城嘉十郎先生の 霊前に捧ぐ 」とある。

・序(昭和1812月)

 ・「第一部

  ・物質と力〔物質の構造――放射線の本体――力とエネルギー――

戦争と物理学〕(昭186月)、

・物質とエネルギー〔エネルギーーの源泉――原子内のエネルギー

      ――太陽のエネルギー〕(昭175月)、

物質と精神〔二つの通路――物理学的世界――物質から精神へ

      ――科学の根源〕(昭183月)・・〈選集・二〉、

 ・「第二部

・半生の記(昭1611月)・・〈選集・一〉

・硝子細工(昭1711月)・・〈選集・一〉、

  ・写真「恩師玉城嘉十郎先生」

・少年の頃(昭176月)・・〈選集・一〉、

・二人の父(昭1710月)・・〈選集・一〉

  ・写真「巴里滞在当時の小川琢治」

  ・写真「晩年の湯川玄洋」

・「第三部

  ・物理学に志して(昭184月)・・〈選集・一〉、

 ・科学者の使命(昭181月)・・「以後の湯川本には収録なし。」

    ・〔「昭和18年」「昭和21年」の項を参照。〕    ・

  ・科学と教養(昭146月)・・〈選集・一〉、

 ・真 実(昭161月)・・〈選集・一〉、

  ・未 来(昭161月)・・〈選集・一〉、

 ・日 蝕(昭1112月)・・〈選集・一〉、

  ・眼の夏休み(昭169月)・・〈選集・一〉、

 ・読書と著作(昭179月)・・〈選集・一〉、 

  ・話す言葉・書く言葉(昭152月)・・〈選集・一〉、

・「現代の物理学」(昭142月)・・〈選集・二〉

・「物質の構造」(昭171月)・・〈選集・二〉、 

 ・「ピエル・キュリー伝」(昭181月)、

・目と手と心(昭1810月)、 ・思想の結晶(昭1812月)


・【湯川『物理学に志して』における戦争に関連する記述について】

 ・「序」にも、現代物理学が「如何に深く現代の戦争と結びついて」

いるかを明らかにするとある。

 ・これをより具体的に述べているのは、「物質と力」の末尾の「戦争と

  物理学」(pp2430)である。

  「今日の戦争には、単に『機械的』といふより一層広い意味に於ける

   『物理的』な要素が多くなって来た」(p28

  「力或は放射線の本質に関する研究が・・今日の物理学の主題の

    一つである。」(p30

    ・この時期、すでに湯川は、後述するようにすでに軍事研究の会合など

     参加をしていた。そうした現実が、このような記述につながっている

     のであろう。

 

・また、この時代には、前述の石原純の『科学を志す少年のために』の

ように戦争に関連する記述がないと、書籍の刊行は困難であった。

戦争と物理学の項があるのは、そのためででもある。これらは、

湯川の個人の問題というよりは、むしろ出版文化への国家的な要請・

統制によるものであったことも事実である。

     この「戦争と物理学」の項は、戦後の改訂版である『目に見えない

もの』では削除されることになる〔後述、参照〕。・


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・【昭和19年〔14〕の『科学』】

・[1]・

 ・〔新刊書〕湯川秀樹存在の理法』(岩波書店)

   ・〔前記を参照のこと〕

・[第3号]・

 ・〔巻頭言〕「研究と専門」〔石原純〕

  ・「科学戦に使はれる科学は、必ずしも科学としての最尖端のものば

かりであるとは限らない。・・既にあるものを向上させ・・充分に

ひろく活用されるやうに努めるといふことも同様に大切である。」

 ・天野清へインリッヒ・ヘルツの生涯と業績(Ⅰ)」

・[第4号]・

 ・天野清へインリッヒ・ヘルツの生涯と業績(Ⅱ)」

・[第5号]・

 ・〔巻頭言〕「科学に於ける研究問題について」〔石原純

  ・〔1938年の核分裂の発見にふれ、核分裂の際に巨大なエネルギーの

放出があることを述べたあと、「そこにまたどんな新たな応用が結

果しないとも云はれないのである。」と暗に核兵器の出現を予言

ている。〕

 ・〔時事〕「私立理科系専門学校の新発足」に記事あり。

・[第7号]・

 ・〔巻頭言〕「潜んでゐた弱点」〔石原純

  ・「本誌は、極めて程度の高い自然科学雑誌として、その特異の存在

   を認められてゐた。・・ただ専門分野のために間貸しをしてゐた

   と同様で、・・本誌はむしろ互いに‘専門外’の研究者や学徒のために

その大部分の紙面を提供すべきである。・・すなはち科学者を孤立

から救ひ出し、学徒を孤立から護ることになければならぬと思ふ。」

・[8]・

 ・〔巻頭言〕「効用と活用」〔石原純〕

  ・「今や国家総力戦の時である。創意は不可能と見做されることも可

能になし得るものである。」

・[9]・

 ・〔巻頭言〕「科学書について」〔石原純〕

  ・〔・雑書の淘汰 ・既刊標準書の選定とその増刷 ・標準書の欠け

たる部門、層及びその緩急の判定 ・至急刊行の要ある部面に対す

る執筆者の動員〕

・[10]・

 ・〔時事〕「学者の動静

  ・「本誌編輯顧問たる理化学研究所員理学博士仁科芳雄氏は去る3

   運通省通信院電波局の設立と共にその局長に任ぜられ、鋭意電波

行政に尽して来たが、今回これ等の政務を脱し決戦兵器の研究に

専念する必要上913日を以て退官した。」

  ・〔「決戦兵器」とは、言うまでもなく「原子爆弾」のことである。〕

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・〈天野清〉・4月、東京工業大学助教授(物理学教室)となる。

・5月、科学史研究」第8号、刊行(日本科学史学会発行)


 

・〈桑木彧雄〉・7月、『科学史考557頁、河出書房刊)

   ・桑木彧雄の長年にわたる科学史論考の集成である。序文なし。時局に

関連する記述がないのは、この時期の刊行物としては珍しい。科学史学

会の会長であったことと、河出書房の尽力によるものであろう。


 

・〈小倉金之助〉・11月、『戦時下の数学(国民学術協会編、創元社)

「読者諸君へ」〔序〕

 「現代の戦争が科学戦であります性質上、科学技術を学ぶ者の責務は、

極めて重い・・。今日のわが日本にふさはしい数学の研究乃教育とい

ふのは、如何にあるべきものでせうか。」

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・【小倉『戦時下の数学』目次】

・「戦時下に於ける科学技術学校

  ――初期のエコール・ポリテクニクについて―― 」

〔昭和189月、国民学術協会評議員会での談話に加筆〕

 ・〔「革命時代における科学技術学校―初期のエコール・ポリテク

ニクについて――」と改題・修正か増補し、『数学史研究』第二

輯(1948、岩波書店刊に収録。「小倉金之助著作集①」に収録。〕

  ・「大戦中になされた講演が、その骨子を変えることなしに、

そのまま大戦後にも通用するということは、小倉の思想の

首尾一貫性を示すもの・・」(著作集①、近藤洋逸・解説)

・「日本数学の建設へ」

  〔昭和165月、「大阪毎日新聞社文化講座」での講演「数学

の日本的性格」に加筆〕

  ・〔「数学の日本的性格」、「小倉金之助著作集②」に収録。〕

  ・「この文は、・・いわゆる奴隷の言葉を使っていることは免れな

い。しかし議論は少しも曲げられていない・・」(著作集②、

大矢真一・解説)

・「参考篇」・

  ・「数学教育刷新のために―特に専門教育としての数学について」

  〔昭和1310月、東京物理学校同窓会東京支部での講演〕

  ・〔「専門教育における数学の革新」、小倉『数学教育論集』

1958、新評論刊)に収録。「著作集⑤」に収録。〕

・「物理学と数学」

  〔昭和159月、「岩波講座・物理学」所載

  ・〔「小倉金之助著作集①」に収録

・「現時局下に於ける科学者の責務」

  〔昭和164月、「中央公論」所載〕

  ・〔「小倉金之助著作集⑦」に収録〕

 *〔本書の多くが戦時下の著作であり、小倉のいわゆる「屈服の時代

のものであるが、少しの修正などを施して、戦後も単行本に収録され

ているものが多い。これは、近藤洋逸がいうように、小倉の思想の

首尾一貫性を示すもの」である。それは、湯川秀樹の『物理学に志

して』が、戦後に修正・増補され、『目に見えないもの』として、

長年読み継がれているのと共通している。これは戦時中にあっても、

小倉・湯川ともに、学問的・科学的精神の本質を疎かにしていなかっ

たからにほかならない。〕


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   6月、海軍電波実験所(静岡県島田)開所。朝永振一郎小谷

正雄ら、磁電管の発振機構の理論的研究を開始する。

6月、マリアナ沖海戦。

7月、雑誌「中央公論」・「改造」、強制廃刊となる。

10月、レイテ沖海戦。

1944年ノーベル物理学賞:ラービ(米)

     「共鳴法による原子核の磁気モーメントの測定」


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・【1945年(昭和20年)・・・A:戦中〕・・・・・


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・〈中谷宇吉郎〉・45月、「週刊毎日」に「研究難物語」を書く。

  中谷『春草雑記』昭和22年、生活社刊に収録:文参照〕

 ・〔中谷のこの文章は、「戦中」における研究者も実態を語っている貴重な

  証言である。「緊急戦時研究員会議」(東京)に行くための汽車の切符も

  買うことができなかったという。それ以前に、研究のための物資などの

決定的な不足があった。〕

 ・〔このような状況の中で、例えば下記の「F研究」などが順調に進行する

  ということは、実際に無理な話であったといえよう。〕


・〈湯川秀樹、38歳〉・7月、海軍による「F研究」の第1

   合同会議(琵琶湖ホテル)に出席する。


 ・【海軍との合同会議での湯川の報告】

 ・海軍からのF研究原爆の研究〕の依頼は1944910月ころ。

・海軍との合同会議。荒勝文策・湯川秀樹・坂田昌一・小林稔などが参加。

 ・湯川秀樹世界の原子力」について報告する。

  ・実は、この海軍からの「F研究」の依頼のすでに8ヶ月前からその「前

史」はあった。海軍の最高責任者・高松宮宣仁親王のご臨席のもと、大倉

男爵邸における【「ウラン」の話等】の会合〔19442月〕である。これ

には、湯川秀樹・仁科芳雄・菊池正士らが出席している。〔森口昌茂

「戦時期京都帝国大学における緊急科学研究体制の実態とその背景に

ついて―海軍との関係を軸に―」、「東海の科学史」第14号、文献㉑)


・【海軍から荒勝文策への依頼は、194410月である。】

 ・いわゆるF研究」の責任者は、京都帝国大学理学部教授の荒勝文策であ

る。荒勝が、海軍からその研究を依頼されたのは、194410である。

そして、その研究が正式に決定したのは、1944年5月である。湯川は、

その前の3月に、軍事研究(熱線吸着爆弾の開発))のための視察もして

いる。〔以上、小沼:文献③による。〕


・【湯川の軍事研究へのかかわりは、19441月からである。】

・小沼によれば、湯川の軍事研究へのかかわりは、19441月からである

という。軍事研究関連の会合・訪問・視察は、1944年・・・27回(29日)、

1945年・・・12回(16日)である〔小沼:文献④、p36〕。


【湯川の「F研究」へのかかわりは、11回の会議などである。】

小沼によれば、湯川の「F研究」へのかかわりは、19447月の京大・

荒勝研究室での「原子核談話会」への参加からであるという。それから

19457月の海軍との合同会議(琵琶湖ホテル)までに、10回ほどの

会議などに参加していた〔小沼:文献④、pp3839〕。


【「研究レベルで終わった」という京大の「F研究」】

・荒勝文策らのF研究」は、ウランの入手困難などで、結局研究レベル

に終わった」という(浜野高宏ほか著『原子の力を解放せよ―戦争に翻弄

された核物理学者たち』、文献⑨、p122)。

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・【「なぜ、わが国の科学動員は失敗したのか」(湯浅光朝)】

 ・「わが国科学技術そのものの著しい立ち遅れ、陸海軍軍事技術当局の独

善とその幼稚な秘密主義、全国にみなぎる官僚的事務組織、生産工業組

織の余りにも急加速的膨張、貧しい資源と資材、それらにもまして大き

いのは人・人・人の問題ではなかつたろうか。社会的意識の低い、モラ

ルを欠いた封建的科学者、技術者の充満する国に、高度の知的協力を要

する科学動員が成功する筈がない。」(湯浅光朝『解説・科学文化史年表』、

1950、中央公論社、p165:文献㉓)

・〔この湯浅の一文には、当時のわが国の科学技術の問題点が集約的に述べ

 られている。「人・人・人の問題」には、科学者・技術者だけでなく、組

織を動かす軍人・官僚なども含まれる。その総合的人材力が日本には欠け

ていたのであった。〕

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・5月、「科学史研究」第9号、刊行(日本科学史学会発行)

     ・巻末に「会員名簿」あり。

・「湯川秀樹 京大東大教授(物理)」とある。


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*雑誌『科学19451月~8月まで休刊

19454月、坂田昌一ら名古屋大学物理学教室は、

 長野県・富士見村に疎開した。

19456月、西田幾多郎没する。

19458月、第二次世界大戦終る。

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 PHN (思想・人間・自然) 」  第52号

〔2022年8月28日脱稿、和田耕作(C)〕

〔2022年8月31日発行、PHNの会、、無断転載厳禁〕