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詩 = 高村光太郎
〔 注解 = 和田耕作 〕
悩まざるもの あらんや。
窮迫せざるもの あらんや。
若くして一つの道に憑かれた魂の
正しきに 順ふもの 、
みな 殆ど餓(かつ)ゑんとす。
文明開化の都会にもまれて 痩せて弱く、
土なつかしい芋を わづかに喰らつて
一枚十銭の小間絵(*)をかいた。
それが 先生。
*)駒絵。小形の挿絵。カット。
芋銭先生は 犬の多い都会をすてた。
東籬の菊(*)は さもあらばあれ、
草深い牛久の里に 鍬をもち
農家の婦に 半生を支へられ
「恍惚として 自然を見」
手に 麻三斤のさとりを得た。
何が おのれの生活であり
何が おのれの性来であるか。
それは 河童が教へてくれた。
〔菊を採る 東籬の下(もと)、
悠然として 南山を見る。〕
《出典=陶淵明、「飲酒」より》
芋銭先生は 歴遊する。
先生をめぐつて 天地の密意はあつまる。
霞む水には 蜃気楼。
岩うつ波には 大龍巻。
さうして畦(あぜ)を とぼとぼ帰る。
村の 老農 童子 おかみさん、
あたたかく やさしく きよく、
物に向つて物思ふ 葦のあはれ深く、
しんじつに 見る、
しんじつに ゑがく、
是れ 一か 是れ 二か。
先生は大観〔横山大観〕に もらつた青墨をよろこび
しづかに かろく それを磨(す)る。
膠(にかわ)の枯れた雲煙が 乾坤に立ちこめる。
芋銭先生が龍に乗るのは
窺ひがたい膂力(りょりょく、ちから。)であり、
又 放たれた造型である。
しんしんとして 律令あり、
しかも 一切を脱却して 非情に入る。
無何有(むかう)の郷(さと)(*3) 無からざらんや、
先生 六極(りっきょく)(*4)の外に 風を繋ぐ。
*2)過庭=孫過庭。草書を得意とした能書家。『書譜』などが
ある。
*4)四方上下の意。「六合」に同じ。
《出典=*3)に同じ。》
水草しげる牛久の里に 河童すみ、
もとより 河童は 出没時なく
喜怒哀楽に 際涯なく、
背中の甲羅で 世情をうけとめ
頭のお皿に 命の水を たつぷり湛へ
酒 買ひにゆき
村の娘に からかはれ、
或は 鏃(やじり)のやうに するどく
或は 愚かのやうに のどかである。
芋銭先生が 河童にもらつた尻子玉(しりこだま)(*1)は
世にもおいしい里芋となり、
里芋 光を放つて変貌すれば、
まことに観世音菩薩におはす。
先生 菩薩なるか 河童なるか。
そもそも 芋をくらひて 幽玄の味に徹する
是れ 野人なるか 真人なるか。
願はくは 大休老師(*2)の一転語(てんご)(*3)を得て
わたくしも 亦 眼をひらかう。
春の雨 草をぬらし
牛久の草汁庵に 先生亡し。
景慕は 酸のやうに 心にしみ
言葉は ただ遠く 先生を迂回する。
*1)人の肛門の中にあると想像された玉。河童に抜き取られる
と腑抜けになると伝えられていた。
*2)平林寺第21世・峰尾大休(みねおだいきゅう)老師のこと。
*3)迷いを転じて悟りに至らしめる言葉。
〔宮崎稔編纂『芋銭書翰拾遺』、昭和17年、山雅房刊、高村光太郎「序詩」。和田文庫蔵本より。〕
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〔2021年4月5日、校訂・注解=和田耕作(C)、無断転載厳禁〕
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