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昌益
・「はじめに」・
・私は、平成元年に、『安藤昌益の思想』を上梓し、平成4年に
『安藤昌益と三浦梅園』を上梓して以来、昌益研究からは少しく
距離を置いてきた。
・「安藤昌益だけの研究しかできない人間」にはなりたくなかった
からである。
・このたび、会社の仕事から解放されたのを機に、この25年近い
ブランクを埋めるべく、過ごしている昨今である。
・実を言えば、数年前からすでに研究は、再開していたのである。
・2011年7月、東北大震災への支援の意味を込めて畏友玉川洋次郎
さんとふたりで、八戸・岩手旅行をした前後から・・・。
・今後は、昌益研究に限らず、この場をかりて、自由な論考を発信
してゆくつもりである。
・自由主義的に生きぬいた 石原 純 のように・・・。
(和田耕作)
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・以下に発表する論考『安藤昌益の「四行八気」論の成立と西川如見
の「四行八気」』は、2011年6月27日に起稿したが、諸般の事情
により、今日まで発表を差し控えていたものである。
・このたび、東條栄喜氏が、『互生共環』48号(2016.8.10発行)に
おいて、「安藤昌益の思想根幹概念の形成上、西川如見の『町人嚢』
『百姓嚢』『水土解辨』などの通俗本は大きな役割を果たしたと云
えそうである。」(p14)として、論考を発表されたので、これに
呼応して、発表することにしたものである。
・本稿を文化人類学者・玉川洋次郎氏(1947~2013)の御霊に捧ぐ
・【 安藤昌益研究の最前線 (その1) 】
安藤昌益の「四行八気」論の成立と
西川如見の「四行八気」
和田耕作
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・【目次】・
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・▼・〈1〉.はじめに
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・▼・〈2〉.西川如見(西川正休を含む)の主要著書一覧
――昌益・梅園と如見の著書
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・▼・〈3〉.西川如見に見える安藤昌益関連の用語について
・1)・「無始無終」について ―― 如見・沢庵と昌益
・2)・如見の「直道」論と昌益の「直耕」
・3)・昌益の「転人一和」論と如見(『類経』からの引用文)
・4)・如見の「進退」論と昌益
・5)・如見の「学者」論と昌益
・6)・如見の「人間平等」論と昌益
・7)・如見の「水土」論と昌益の「気行」論
・8)・如見の「万物円状」論と昌益の「万物長円体」論
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・▼・〈4〉.西川如見の「四行八気」と安藤昌益の
「四行八気」論の成立
・1)・如見の『両儀集説』における「外国四行八気生尅之図」
の発見
・2)・如見の「外国四行八気生尅之図」とほぼ同じ図が
収載されている文献について
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・▼・〈5〉.『乾坤辨説』と西川如見の「四行八気」、
そして安藤昌益の「四行八気互性」論の成立へ
・1)・『乾坤辨説』の「四大の性の事」と西川如見の「四行八気」
・2)・『乾坤辨説』と安藤昌益の「四行八気互性」論
・▼・【補論〔新稿〕】=〈6〉・▼・・・〔2021年12月10日稿〕
・▼・〈6〉.西川如見の『両儀集説』(巻之七)における
『土』の論と安藤昌益の「四行八気」論の成立
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・▼・〈7〉.《付論》・
・▼・三浦梅園と西川如見との出会い――条理学への出発点
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・▼・〈8〉.《追論》・
・▼・西川如見『教童暦談』における「陰陽五行」「進退」論
と安藤昌益
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・▼・〈1〉.はじめに
・安藤昌益(1703~1762)が、晩期において、「五行十気」論から
「四行八気」論へと自己の自然哲学体系を大転換し、深化させた
ことは、今日まで昌益研究における大きな謎の一つであった。
・私は、かねがね昌益が「五行」論から「四行」論へと転換するに際
しては、おそらく西洋の「四行」論がその背景にあるのではないか
と、長い間 考え続けてきていた。このたび、昌益独自の用語と
思われてきた「四行八気」という用語を、西川如見(1648~1724)
の『両儀集説』の中に発見することができた。
・安藤昌益の初期資料『暦ノ大意』が、西川如見の『教童暦談』から
大きな影響を受けたことは、若尾政希の『安藤昌益からみえる日本
近世』(東京大学出版会、2004)に詳述されているが、昌益から如
見への影響は、以下に見るようにそれだけではなかった。
・若尾政希が引用(校合を含む)している如見の書物は、『教童暦談』
(その異版である『和漢運気暦説』、『和漢運気指南後編』)と、
『和漢変象怪異弁談 天文精要』(内題「怪異弁談」)〔例:p131〕、
『町人嚢』〔例:p132〕、『百姓嚢』〔例:p322〕である。
・しかし、以下に述べるように、西川如見のさらに多くの著作の中か
らも、昌益の哲学用語と同じか、または類似していると思われる用
語などが、多数確認された。そのいくつかは、すでに東條栄喜氏も
指摘している。
・私は、如見のいくつかの書物に永年親しんで来たが、2011年春、
幸いにも『西川如見遺書』(一~十八篇、明治31~40年)の中の
多くの篇を入手することができた。その後、安藤昌益に対する西川
如見の書物からの影響について、探究を続けてきた次第である。
・さらに、私は、西川如見の「四行八気」の用語が、『乾坤辨説』な
どの南蛮運気論に由来していることを突き止めた。
・そして、安藤昌益の「四行八気互性」論が、南蛮学統からの影響を
受けていることを、ここに明らかにするであろう。
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・▼・〈2〉.西川如見(西川正休を含む)の主要著書一覧
――昌益・梅園と如見の著書
・西川如見(西川正休を含む)の主要著書一覧は、以下のとおりである。
安藤昌益と「柳枝軒」のことを考えると、特に「京都・柳枝軒茨城
多左衛門」(版元)関連の板本に注目して考察する必要がある。
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・●印は、安藤昌益が読んだことが確認されているもの。
・□印は、和田耕作が「安藤昌益が読んだ可能性あり」とするもの。
・▶印は、三浦梅園が読んでいるもの。
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・京都:梅村彌右衛門、今井七郎兵衛(版元)
・ □・②『天文義論』(正徳二年〔1712〕) 二巻二冊
・京都:柳枝軒茨城多左衛門」(版元)
・▶●・③『教童暦談』(正徳四年〔1714〕) 一冊
・▶ ・④『和漢変象怪異弁談 天文精要』 (内題「怪異弁談」)
(正徳四年〔1714〕) 八巻八冊
・▶□・⑤『両儀集説』(正徳四年自序〔1714〕)首巻+七巻八冊
・ □・⑥『町人嚢』(附・町人嚢底拂、享保四年〔1719〕)
五巻+二巻七冊
・京都:柳枝軒茨城多左衛門」(版元)
・▶□・⑦『日本水土考』(享保五年〔1720〕) 一巻一冊
・京都:柳枝軒茨城多左衛門」(版元)
・ ・⑧『万国人物図』(享保五年〔1720〕) 二冊
・ □・⑨『長崎夜話草』(西川正休編、享保五年〔1720〕) 五冊
・ □・⑩『水土解辨』(享保五〔1720〕?) 二巻
・京都:柳枝軒茨城多左衛門」(版元)
・▶ ・⑪『天経或問』(西川正休編、享保五年〔1720〕)三巻三冊
・▶ ・ 『大略天学名目鈔』(西川正休、享保五年〔1720〕)
一巻一冊 〔⑪と同時に刊行された。〕
・ □・⑫『和漢運気指南後編』(享保十一年〔1726〕) 一巻
〔③『教童暦談』の増補・改訂版のため、同一の内容多し。
□印を付した。〕
・ □・⑬『百姓嚢』(享保十六年〔1731〕) 五巻
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・その他、安藤昌益(●印)・三浦梅園(▶)が読んだことが確認
されている天文学書などを参考までに挙げておこう。
・▶●・『天文図解』(井口常範、元禄二年〔1689〕) 五巻五冊
・ ●・『史記評林 天官書』
・▶●・『和漢三才図会』(寺島良安、正徳三年〔1713〕)
・▶ ・『天経補衍 天学指要』(西村遠里撰、安永七年〔1778〕)
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・▼・〈3〉.西川如見に見える安藤昌益関連の用語について
・以下に、西川如見の著作の中から、昌益の用語の成立と関連すると
思われる部分を紹介したい。しかし、これはあくまでも昌益の独自
の用語の成立への契機となったものであり、昌益の用語の内容的
独自性をすぐさま否定するものではない。
・西川如見の『水土解弁』(⑩:〔1720〕?、版元=柳枝軒)には、
まず、「無始無終」という用語が頻出している。
「曰。子がいふ處の無始無終は、滅すまじき大気の滅して、又生々
してやまざるをいひ、予がいふ處の無始無終は、大気の本体生滅
なく、其の用に動静有りて止まず。万物生々滅々出入きはまりな
きをもつて、無始無終といへり。是 無始無終なる處は同ふして、
子は遠く外にみると、吾は近く内に見るとの差別にて、其の論
如斯懸隔せり。」(『水土解弁』、p39、岩波文庫)
「無始無終にして知るべからざるものは大気の天地なり。」
(同前、p44)
・東條栄喜氏も指摘しているように、これらの「無始無終」という
用語が、安藤昌益の「無始無終」の概念の成立への契機となったと
いう可能性は否定できない。
・しかし、「無始無終」という用語については、沢庵(1573~1645)
の「理気差別論」(原漢文、1621年)においても頻出している。
「無極は物 未だ生ぜざるの時なり。太極は物 已(すで)に生ずる
なり。物 動いて物を生じ、物 動いて物を生ずる時は、万古止む
こと無し。止むこと無ければ、終はること無し。終はること無け
れば、始まること無し。」
「動静底、始め無く終はり無きなり。不動静底も亦、始め無く終は
り無きなり。」
(「体の辨」より、市川白弦『日本の禅語録13 沢庵』、pp99~100、講談社)
「太極は気にして、動静して無始無終なり。無極は是れ理にして、
不動不静にして又無始無終なり。」(「気の名」より、同前、p112)
・如見の「無始無終」は、主に地理学的、天文学的知見を背景として
おり、沢庵の「無始無終」は、理気論を背景としていることがわか
る。私としては、昌益の「無始無終」論の背景としては、この両者
の「無始無終」論が影響している可能性があることを指摘しておき
たい。昌益は、京都において医学のみならず、あらゆる方面の学問
をしていたと思われる。
・なお、昌益の用語・概念の解説や使用例については、本稿は研究者
向けの論考のため、これらを省略しているので、随時『安藤昌益全
集』『安藤昌益事典』などを参照されたい(以下、同)。
・西川如見の『町人嚢』(附、町人嚢底払、⑥、享保四年〔1719〕、
版元:柳枝軒)には、「直」の字についての詳論がある。
「直(ちょく)は天理なり。内にかへりみて直(なを)くんば、
千万人といふ共吾ゆかむとは、みづから天理を抱きてなり。天
理の味方には対する敵なかるべし。三徳五常もみな直の異名な
るが如し。むべなるかな。万国の道いづれか質直のすがたを本
とせざるべき。天地・日月・星辰かはるがはるめぐり、木火土金
水おのおの相生じ相剋(こく)し、おこなはれてやむ時なきは、
みな天(あめ)つちの直道也」(『町人嚢』底払 巻上、『日本思想大系
59 近世町人思想』、p152)
・東條栄喜氏は、昌益が如見の『町人嚢』の「直道」論と、『百姓嚢』
の「農人」論に触発されて、「直耕」という用語・概念を打ち立て
たと思われる、と述べているが、私はこの「直道」論のみでも、「直
耕」思想への導きになるのではないかと思っている。
・3)・昌益の「転人一和」論と如見(『類経』からの引用文)
・昌益は、旧説の「天人合一」論に対して、独自の「転人一和」論
を展開した。この「転人一和」という用語の成立へのヒントになりうる
一文が如見にあった。
「類経 摂生の語に、『与天和者、楽天之時、与人和者、楽人之俗』
(天ト和スル者ハ、天ノ時ヲ楽シミ、人ト和スル者ハ、人ノ俗ヲ
楽シム)、とあり。人生修養の助(たすけ)ある語也。」(『町人嚢』
底払 巻上、『日本思想大系59 近世町人思想』、p160)
・これは、『類経』の巻一「摂生類」からの引用である。若尾政希は、
「『類経』は昌益の最も重要な思想的基盤の一つ」と指摘している
(『安藤昌益からみえる日本近世』、p116)。したがって、昌益が直接
『類経』からヒントを得たことも考えられる。
・4)・如見の「進退」論と昌益
・如見には、次のような「進退」論がある。
「天の運行、地の生々、常に健々として須臾も止(やむ)時なし。
動は天の進むなり、静は天の退くなり。進むも是動、退くも又是
動也。動(うご)く事なければ退く事あたはず。陽も是動、陰も
是動也。動に進退遅速の時ある、是を動静とす。」(『町人嚢』底払
巻下、『日本思想大系59 近世町人思想』、p164)
・この部分についても、すでに東條栄喜氏が指摘しているように、
昌益の「進退」論の起点となった可能性がある。
・さらに、私は、『百姓嚢』(⑬、享保十六年〔1731〕)の中にある、
次の文に注目したい。
「出家を遊民なりと、儒者謗(そし)れりといへども、儒者も又遊
民なりといふことを察せず。今時の学者といふもの、士農工商の
業(わざ)をせずして、文学をもつて世を渡るともがら、遊民に
あらずして何ぞや。」(『百姓嚢』、pp186~187、岩波文庫)
・この中の「遊民」の語を、昌益の用語である「不耕貪食(者)」と
置き換えると、これは昌益の「学者」論を彷彿とさせるものがある。
・実は、この中の「儒者も又遊民なり」だけを、東條栄喜氏はすでに
『互性循環世界像の成立』(2011)において引用しているが(p311)、
説明不足の感はいなめない。
・そしてまた、私は、如見の次の文にも注目したい。
「畢竟 人間は根本の所に尊卑 有るべき理なし。唯 生立(ただ
そだち)によると知るべし。」 (『町人嚢』巻四、『日本思想大系59
近世町人思想』、p134)
・この部分について、中村幸彦は、頭注において「環境が人間の差を
作るもので、元来の人間に差別を認めないのは、時代からみて、一
見識とすべきである」(同前)と述べている。
・中村幸彦の解説によれば、『町人嚢』は、如見の著作の中で「最も
読者の多かったもの」(同前、p412)であるという。したがって、
この如見の人間平等論を昌益が読んでいる可能性は、十分に考え
られるであろう。もちろん、昌益の人間平等論が、これ以上に徹底
したものであることは、言うまでもない。
・7)・如見の「水土」論と昌益の「気行」論
・如見の『日本水土考』(⑦、享保五年〔1720〕、版元:柳枝軒)は、
「日本風土論の先駆的著作」(西川治『日本水土考の余滴』、デマン
ド、1999)と言われるものである。岩波文庫で、わずか14頁の分
量であるが、その風土論的思想と世界認識の方法は、極めて重要で
ある。
・私は、かねがね安藤昌益の稿本『自然真営道』の中で、「転定気行
部」(巻26~巻31)や「万物気行論部」(巻44~巻50)、「万国気
行論部」(巻51~巻57)が、大きな比重を占めていることに想い
を馳せていた。
・すなわち、安藤昌益の思想において、その風土論的考察は、哲学思
想体系の根幹に位置するものなのである。
・我々は、これまで昌益の世界地理認識などを、主に『統道真伝』の
「万国巻」により論じてきたが、実はそれ以上の内容のものが、
「万国気行論部」(巻51~巻57)などで詳論されていたと考えら
れるのである。
・何年も前のこと(1994年)であるが、「万国気行論部」の一部と思
われる書籍が、京都の古書市で売られ、それを入手した人が未公開
を続けているとの情報があった(私の記憶による)。それは、昌益
研究の進展にとって極めて残念なことであり、所蔵者におかれて
は、速やかなる公開を期待したいと思う。
・昌益の世界地理認識などは、如見との関係を中心として、あらため
て考察していく必要がある。
・8)・如見の「万物円状」論と昌益の「万物長円体」論
・実は、私はかつて、如見の「万物円状」論(『天文義論』による)
と昌益の「万物長円体」論とを、並べて紹介したことがある(拙
著『安藤昌益の思想』、pp81~83を参照されたい。)。
・いま思えば、昌益は如見の『天文義論』における「万物円状」論を
承知の上で、独自に「万物長円体」論を展開していた可能性が高い。
・当時、昌益の身体モデルによる「万物長円体」論が、如見の地球体
説を包含している、とした私の見解は、今日でも不変である。
・安藤昌益の初期資料『暦ノ大意』には、この時点ですでに昌益が
地球体説を受容していると思われる一文がある。
「地外 皆 天ナリ。地ニ 上下無ク、人 唯 其ノ 居処ヲ地上
ト思ヘルノミ。 天ニ方無ク、人 唯 地上ニ就キテ四方ヲ定ム。
而シテ二気ノ運転、之レヲ分ツ。」(『安藤昌益全集』、十六巻・下、
pp125~126)
・この一文は、「地球体説」の解説としか考えられない一文である。
・そもそも、上述のように、西川如見の多くの著作からの影響がみら
れ、『天文図解』(井口常範)を読んでいる昌益が「地球体説」を受
容していないとは、私には到底考えられないことである。
・『統道真伝』の「万国巻」をはじめとする昌益の世界地理認識は、
「地球体説」を前提として読むべきであろう。
・海野一隆は、『日本人の大地像――西洋地球説の受容をめぐって』
(2006、大修館書店刊)において、『天文図解』の地球体説などは、
中国経由で長崎に入った南蛮学統の『月令広義』などを参照して
なったものであることを詳述している。
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・▼・〈4〉.西川如見の「四行八気」と安藤昌益の「四行八気」論
の成立
・1)・如見の『両儀集説』における「外国四行八気生尅之図」
の発見
・前節では、如見と昌益に共通する用語のいくつかを紹介したが、実
は昌益の「四行」論において、最も重要な用語である「四行八気」
という用語を、私は如見の著作の中から発見することができた。
・私は、「西川如見遺書」の中にある『両儀集説』(⑤、正徳四年自序
〔1714〕)首巻+七巻)全4冊を、パラパラとめくっていた。する
と、驚くべき図を発見した。
・そこにはなんと、昌益の独創と言われていた「四行八気」という
用語を含んだ表題の図があるではないか。
・その図は、『両儀集説』巻七「五行生尅ノ弁 並(びに)四大四行
ノ弁」の節の末尾にあった。
・その図のタイトルは、「外国四行八気生尅之図」である。
・その図の下に、訓点入りの漢文で説明がある。ここでは、その
「読み下し文」を示す。
「外国 運気ハ 四行ヲ以テ 名ヲ立ツル也。四行 相分レテ八気
トナル。其〔ノ〕相生・相尅ヲ以テ 論説 致(いた)セルナリ。
唐土 五運六気之説ト 亦 齋(ひと)〔シ〕カラザルコト有リ。
但シ 天竺 四大之説 此〔レ〕ニ近シ。
唐土 五行ノ説ハ 平運之状ヲ見〔ハ〕ス。
外国 四行ノ説ハ 堅行之状ヲ見〔ハ〕ス。
前図ト 並べ 記シテ 以テ 博覧ニ備フ。」
・前図とは、この図の前に掲げられている、四つの「五行」関連の
図のことである。
・「外国 運気ハ 四行ヲ以テ 名ヲ立ツル也。四行 相分レテ八気
トナル。」という、この説明文から、如見は「四行八気」と名づけ
たことがわかる。
・「其〔ノ〕相生・相尅ヲ以テ 論説 致(いた)セルナリ」とは、
いったい何を指すのであろうか。
・これについては、次節の「5.『乾坤辨説』と西川如見の「四行八
気」、そして安藤昌益の「四行八気互性」論の成立へ」において、
明らかにするであろう。
・さて、「外国四行八気生尅之図」そのもの自体は、南蛮学統系の
「南蛮運気論」などの本にはよく出ているもので、決して珍しいも
のではない(次項を参照のこと)。
・しかし、「外国四行八気」という題名のある図は、この如見の
『両儀集説』以外にはない。
・したがって、昌益の「四行八気」論の成立には、この如見の
『両儀集説』における「外国四行八気生尅之図」の中の「四行八気」
という用語が、大きな影響を与えていると考えられる。すなわち、
昌益の「四行八気」論は、南蛮学統の「四行」論に由来していたの
である。
・▼・「外国四行八気生尅之図」 (図1)
・図1・「外国四行八気生尅之図」
・〔『西川如見遺書』第十八編、『両儀集説』巻之七より、和田文庫蔵〕
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・2)・如見の「外国四行八気生尅之図」とほぼ同じ図が収載され
ている文献について
・これまで、上記の「外国四行八気生尅之図」とほぼ同じ図が収載さ
れている文献は、多数ある。その中の主なものをここに紹介してお
きたい。
・①・向井玄松(元升)『乾坤辨説』(『文明源流叢書 第二』、大正3
年、国書刊行会)
・この本の、十四頁下段に「総図」とある。これは、図の文字の判読
が可能であるので、下記に示す。
・図2・「総図」
〔『乾坤辨説』より、『文明源流叢書・第二』大正3年、国書刊行会、和田文庫蔵)
・この図2と如見の図〔図1〕とを比較してみると、「総図」では、
右の丸の中に「風」とあり、左の丸の中に「地」とあるが、如見の
図では、左の丸の中の「地」の文字が、中央の丸の中に移され、左
の丸の中には「土」という文字が入れられている。
・さらに、如見の図〔図1〕では、外側に大円が一つ追加されており、
その中に「天気至清至剛至健也」の一文がある。
・この頁〔十四頁〕の上段には、「四大相尅相生図」と題された図が
ある。ここでは、「水」と「火」が上下に対置し、「風」と「地」が
左右に対置されている。図2の下には、「南蛮学家之図也。忠庵顕
之」とある。
・また、この本〔『文明源流叢書・第二』〕の、十一頁下段には、「四
大之図」と題された図がある。この図の下には、「是南蛮学家之図。
忠庵顕之」とある。
・これらの「忠庵」とは、この『乾坤辨説』の本文を「編述」した
ポルトガル人で、日本に帰化した「澤野忠庵」のことである。
・②・平岡隆二『南蛮系宇宙論の原典的研究』(2013、花書院刊
〔福岡〕)
・本書は、南蛮系宇宙論の最新の研究であり、ゴメスの『天球論』
から『南蛮運気論』にいたるまでの、流布と受容についての書誌学
的研究書である。
・本書の付録Ⅾには、大河内本『南蛮運気論』の翻刻テキストが収載
されている。図も『乾坤辨説』の「総図」〔図2〕とほぼ同じもの
が、写真版で収載されている〔二六五頁〕。しかし、文字の判読は
できず、その文字については、著者が「脚注」において示している
〔同前〕。
・最外部の大円の中には、『乾坤辨説』の「総図」〔図2〕の左上にあ
るところの「格致餘論天気・・・」の一文が挿入されている。
・③・キリシタン文化研究会編『キリシタン研究 第十輯』(昭和40
年、吉川弘文館)
・本書には、尾原悟による論文「キリシタン時代の科学思想――
ペドロ・ゴメス著『天球論』の研究」とペドロ・ゴメス著『天球論』
の試訳(尾原悟訳)が収載されている。
・『乾坤辨説』にある「総図」は、クラヴィウスの「四大の図」に由
来するもので、マテオ・リッチ(利瑪竇)の『乾坤体義』に伝わり、
向井玄松にも伝わったものである(「天球論学説系統」の図、一七
九頁の前の頁を参照)。
・クラヴィウスの「四大の図」と『乾坤辨説』の「総図」および
『乾坤体義』の「四元行」の図が、この本の一七九頁の前にある
口絵写真の中に収載されている。
・④・海老沢有道『南蛮学統の研究 増補版』(昭和53年、創文社)
・本書は、南蛮学統の研究の必読書とし知られており、その口絵には、
クラヴィウスの「四大の図」が、「四大相尅相生図」として収載
されている。
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そして安藤昌益の「四行八気互性」論の成立へ
・1)・『乾坤辨説』の「四大の性の事」と西川如見の「四行八気」
・『乾坤辨説』を読んでみると、気になる文章があることに、気が
ついた。
「 第一 四大の性の事
一、 夫れ 四大と云ふは地水風火の事也。此の四を和合して、
世界に生化する万物の本となる物也。然れば 今 地水
風火の性を見るに、寒熱湿燥の四性あり。
此の四つ互に相尅相生する物也。
相尅することは二品あり。一には寒と熱と、二には湿と燥
と 是れ也。
相生することは四品あり。曰く 熱燥、湿温、寒湿、燥寒
是れ也。
此の二性 各 四品の相生は、即ち 地水風火の性也。」
・この文章は、先に紹介した、十一頁下段の「四大の図」を解説して
いるものである。
・ここから、西川如見が『両儀集説』(巻之七)において、「四行八気
生尅之図」と名づけた理由が理解できる。「生尅」とは、この文章
に詳述されているところの「相生・相尅」のことである。これらは、
「四行八気生尅之図」の中にも記載されている。
・私は、前節の「4.西川如見の『四行八気』と安藤昌益の『四行八
気』論の成立」の中で、「四行八気生尅之図」の説明文から、以下
の文を示した。
「外国 運気ハ 四行ヲ以テ 名ヲ立ツル也。四行 相分レテ八気
トナル。其〔ノ〕相生・相尅ヲ以テ 論説 致(いた)セルナリ。」
・この中の、「其〔ノ〕相生・相尅ヲ以テ 論説 致(いた)セルナ
リ。」とは、まさにここに引用した「四大の性の事」の文章などを
指しているのである。
・すなわち、如見は「四大の性の事」などの記述から、これを「外国」
の「四行八気」と表現したのである。そして、昌益は、この如見の
「四行八気」の用語を受容したのである。
・安藤昌益の「四行八気」の用語は、このように南蛮学統に由来する
ものである。
・ここで、重要なことは、「四行八気」の用語が、南蛮学統に由来す
るとはいっても、その「四行八気互性」の「自然真営道」の哲学は、
それまでの「五行十気」論の哲学(例、『統道真伝』など)を発展・
深化させたものであることに変わりはないということである。
すなわち、それらを「四行八気互性」という新哲学体系(例、稿本
『自然真営道』大序巻など)によって整理し、深化させたものであ
るということである。
・2)・『乾坤辨説』と安藤昌益の「四行八気互性」論
・さらに、『乾坤辨説』を読んでみると、また、気になる文章があっ
た。
「 第二 地水風火 互連 并 相尅・相生の事
一、地水風火の四大、互に連なる次第を見るに、・・・」
〔『文明源流叢書・第二』、十三頁〕
「 第三 万物は 四大和合之物なる事
・・・地水風火の四大、如右一大々々に二性を具して、互に相
生するが故に、世界に生化する万物、四大和合して生ずるもの
也。」
〔『文明源流叢書・第二』、十六頁〕
・私は、この中の「互連」「互に連なる」「互に相生する」などの用語
が、昌益の「互性」という用語の誕生に繋がったのではあるまいか、
と考える。
・すなわち、「四大」(四行)の「性」の用語は、すでに前項でみた。
「四大」が「二性」を具して「八気」となる。これと、上記の「互
連」という語とを、結べば、安藤昌益の「四行八気互性」という用
語が誕生することになる。
・本稿は、安藤昌益と西川如見との比較から、南蛮学統へと進むこと
になった。これも必然的な流れである。
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・▼・【補論〔新稿〕】=〈6〉・▼・・・〔2021年12月10日稿〕
・▼・〈6〉.西川如見の『両儀集説』(巻之七)における
『土』の論と安藤昌益の「四行八気」論の成立
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・安藤昌益の「四行八気」論の成立には、「五行」の中の「土」を、
他の四行(木・火・水・金)と独立的に思考することが必要であっ
た。
・このたび、如見の『両儀集説』(巻之七)の中の「土」論をあらた
めて読んでみると、そのヒントが見つかった。
「四行 皆 土ヲ生ズ・・五行 皆 土ニ生セラル」(31丁ウラ)
「土体ノ聯綿タル事ハ 陸地 海底 皆 是レ土石ノ一渾丸ニシテ
相離レズ 四行皆 生滅増減アリト云ヘドモ 土 獨リ不生不滅
不増不減ニシテ 天ニ応ジテ 常住也。」(32丁オモテ)
「天地陰陽五行 不去不来 大虚之中心 元気ノ粋英 是レヲ 土
ト号ス」(同前)
〔『西川如見遺書』第十八編、『両儀集説』巻之七より〕
・西川如見のこのような「土」の論が、安藤昌益の「四行八気」論の
成立にあたって、大きな影響を与えたものと考えられる。
・ここに参考として、上記の文章と関連する図3〔「五行合生之図」〕
を示しておこう。これは、すでに紹介した「図1」〔「外国四行八気
生尅之図」〕の前の頁にある図である。
・図3・「五行合生之図」
・〔『西川如見遺書』第十八編、『両儀集説』巻之七より、和田文庫蔵〕
・▲・〔ここまでが【補論〔新稿〕】である。2021年12月10日稿〕・
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・▼・〈7〉.《付論》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・三浦梅園と西川如見との出会い――条理学への出発点
・西川如見から大きな影響を受けたのは、三浦梅園(1723~1789)
も同様であった。
・三浦梅園は、延享二年(一七四五年)秋、二十三歳の時、最初の
長崎旅行をしているが、この時の旅行記録はない。『帰山録』は、
・しかし、最初の長崎旅行においても、梅園の学問的収穫には、大き
なものがあった。その一番のものが、熊本での西川如見の著作
(写本)との出会いである。
・この写本の内容の一部が、高橋正和『三浦梅園』(平成3年、明徳
出版社)で、初めて紹介された『天学名目大略抄』(原題、刊本と
は異なる)である。その後、影印版(全文)が、『梅園学会報』31
号(2006年10月)に掲載された。
・さらに、森口昌茂氏の研究「『天学名目大略抄』の一考察――
如見・正休の天文学的知見の梅園への影響」『梅園学会報』32号
(2007年10月)により、如見の自筆稿本からの写本であること
が明らかにされた。
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・題簽 『天学名目大略抄』 一冊
・内容構成
A)「天学名目大略抄」(1~23丁)
(刊本『大略天学名目抄』以前の西川如見自筆稿本から
の写本、森口氏による同定)
(刊本『両儀集説(巻一)』以前の西川如見自筆稿本から
の写本、森口氏による同定)
C)「陽九百六之弁拠」(39~41丁)・・・(著者不明)
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・この写本の最終葉に、梅園は次のような「識語」を書いている
(原漢文)。
「此ノ数巻ノ者ハ、予ガ、乙丑(一七四五)冬ノ十月、肥ノ熊下、
西岸寺ノ僧ノ孤舟ヨリ得タル者、乃チ 長崎 西川如見ノ著
ハス所也。「陽九百六之弁拠」ハ、誰ノ手ニ出デシモノカ識
ラズ。此ニ並ベテ一本ト為ス。
浦 安貞 公幹 写 延享乙丑冬日 」
・ここに出ている寺の名を高橋氏は「西岌寺」と解読しているが、
実は「西岸寺」が正しい。2010年の秋に、私は、この寺を訪ねた
ことがある。熊本市中央区下通にある浄土宗の古刹である。
・森口氏ほか、梅園学会の諸兄もこれに気づいていないと思われる
ので、ここに訂正して梅園の「識語」を引いた。
・三浦梅園は、この後、熊本から帰路とは逆の方向である、八代に
向かった。これはなぜであろうか。それは、高橋氏が述べているよ
うに(高橋『三浦梅園』、二十一頁)、『天経或問』を入手するため
であったと考えられる。
・その後、三浦梅園は、『天経或問』などの書物を猟歩して、いわゆ
る「条理学」の創出へと進んでいったのである。
・すでに触れたように、初期の安藤昌益の『暦ノ大意』が、西川如見
の『教童暦談』から大きな影響を受けたことは、若尾政希により明
らかにされている。
・実は、この『教童暦談』を三浦梅園も読んでいた。
「〇 阿蘭陀の暦は西川如見の『教童暦談』にあり 其の法・・・
西洋は四年に一日の閏を置く」
(梅園『帰山録』、『梅園全集』上巻、大正元年、弘道館、一〇八七頁)
・二度目の長崎旅行(一七七八年)の記録である『帰山録』において、
梅園がわざわざ「阿蘭陀の暦」として、『教童暦談』を紹介してい
るのは、興味深い。
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・▼・〈8〉.《追論》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・西川如見『教童暦談』における「陰陽五行」「進退」論
と安藤昌益
・如見の『教童暦談』の「六十甲子之事」には、昌益に影響したと思
われる文章がある。
「天地の間(あいだ)陽は陽 陰は陰と、各別して相交る事なきと
きは、万物造化なし。是をもつて天地陰陽相交り、須臾も相離る
る事なく、陽中陰あり、陰中陽ありて、五行生尅し、万物生々す。
此の故に水中に火あり、火中に水ありて、相生し相尅して、変化
窮りなく生尅互(たがい)に用を相なせり。此の故に五行の相生
をもつて吉とすべからず、相尅をもつて凶とすべからず。相生に
尅あり、相尅に生あり。此の道理を極めて後 吉凶を論ずべし。
唯 五行 進む事 極まるものは変じ、退く事 極まるものは
変ず。進退昇降常に天地の間に充塞す。
此の理を察して天気を窺ひ、人事を敬(つつし)むを 時を
撰(えら)むといふべし。」
(西川如見『教童暦談』七~八丁、和田文庫蔵本による。)
・ここには、まず昌益の「進退」の用語があること、そして、この
如見の「陽中陰あり、陰中陽ありて」という「陰陽五行」論は、
昌益の「故ニ日光ハ月中ニ進ミ、月暗ハ日中ニ退キ、進退シ退進ス
ル 惟 一気ノ神霊ナリ。」(『統』「万国巻」、『全集』巻十二)
という「進退一気」論の基盤であり、その後の「進退互性」論に
つながるものである。
・このように見て来ると、如見から昌益への影響は、初期から晩期の
「四行八気互性」論まで、極めて大きな影響を与えていることが明
らかとなった。
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〖 2011年6月27日起稿、2016年10月13日脱稿、和田耕作(C)〗
〖『PHN(思想・人間・自然)』 第26号(Web版)2016年10月15日発行、
〖【補論〔新稿〕】・〈6〉・は、2021年12月10日稿。和田耕作(C)〗
【 「復元版」、2021年12月10日発行、無断転載厳禁 】
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・〔「PHN (思想・人間・自然)」第8号〕
・〔1999年5月25日発行 PHNの会〕
・〔和田耕作(C) 無断転載厳禁〕
・〔「PHN (思想・人間・自然)」創刊号〕
・〔1996年1月1日発行 PHNの会〕
・〔和田耕作(C) 無断転載厳禁〕