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梅園の世界
「 三浦梅園の書 <真筆> 」
[ 無断転載厳禁、 PHNの会 (C) ]
相 送 曲
斑 馬 鳴 兮 郭 門 頭 。
雲 悠 々 兮 道 路 修 。
富 貴 有 命 春 幾 時 。
君 何 為 兮 萬 里 遊 。
相(あい) 送るの 曲
斑馬(はんば) 鳴(いなな)く 郭門の 頭(ほとり) 。
雲は 悠々として 路(おほい)なる 道を 修(ただ)す 。
富 貴 は 命 に 有 り 春 や 幾 時 ぞ 。
君 何 を か 為 ん や 萬 里 に 遊 す 。
< 三浦梅園の漢詩 「 相 送 曲 」 より 〉
〔 和田耕作 訳 〕 ・・・ ( 2021. 9. 16 )
[ 無断転載厳禁、 和田耕作 (C) ]
・魚を識らんと欲せば、先ず 魚史を読まんよりは、
亟(すみ)やかに 魚肆(ぎょし)に就(つ)け。
・華(はな)を識らんと欲せば、先ず 華譜(かふ)を
繙(ひもと)かんよりは、 急(すみやか)に
華圃(かほ)に趨(はし)れ。
〔『贅語』「身生帙」(臓腑第一)より〕
・ 「 三浦梅園画像 」
・ 〔 賛辞は、帆足万里 譔 〕
・ 〔 賛辞の翻字は、和田耕作著 『安藤昌益と三浦梅園』、p113、参照 〕
・ 〔 『 学界之偉人 』 口絵より、 天囚 西村時彦 著、 明治44年
梁江堂書店刊、 和田文庫蔵 〕
・▼▽・【世界人類哲学の創始者・三浦梅園の新研究】・▽▼・
・・・《 シリーズ ――(その1) 》・・・・・・・
「 世界人類哲学の創始者・
三浦梅園の生涯と人となり 」
――「先府君孿山先生行状」(全文)を読む
・・・〔三浦梅園研究の入門案内を兼ねて〕
和田耕作
〔校訂、書き下し文、注解、解説〕
・・・【目 次】・・・・・・・・・・・
・▼▽・「はじめに」・▽▼・・・・・・
・・【底本、および参照文献一覧】・・・
・▼〔一〕三浦梅園の家系
・▼〔二〕幼年期の逸話――「夜雨の図」
・▼〔三〕学に志す――詩をつづる少年
・▼〔四〕綾部有終〔綗斎〕、藤田貞一〔敬所〕に学ぶ
・▼〔五〕天学の書を読む
・▼〔六〕「気に観る有り」――天地に条理あるを知る
・▼〔七〕「梅園三語」を草す
・▼〔八〕生涯に三度の招聘を固辞する梅園――終に仕えず
・▼〔九〕梅園の人となり
・▼〔十〕門人たちへの教育など
・▼〔十一〕「慈悲無盡」など――地域への貢献
・▼〔十二〕藩主に謁し、楽寿亭に招かれる
・▼〔十三〕独立学派・三浦梅園――その号と著書群など
・▼〔十四〕家族、そして 梅園の終焉
・▼▽・「ブラックホール」と三浦梅園の「条理的世界」、
そして、「総合知」による「世界人類哲学」の創造へ
――「むすび」にかえて ――
・▼「1」・「ブラックホール」と三浦梅園の「条理的世界」
・▼「2」・「世界人類哲学の創始者」としての三浦梅園
――自然科学と人文学とを融合した「総合知」の提唱
・▼「3」・「三浦梅園生誕300年」に向けて
・▼「追記」・「宇宙船地球号」の舵を取る「世界人類哲学」へ
・▼▽・「はじめに」・▽▼・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「先府君孿山先生行状」(三浦黄鶴)は、三浦梅園伝のための基本
文献であるが、『梅園全集』(上巻)にある「原文」は漢文で、
かつ難読漢字なども多いためか、これまで十分な研究がなされて
こなかったように思われる。
・「先府君孿山先生行状」は、『三浦梅園集』(岩波文庫)に三枝
博音による「書き下し文」が収録されているが、今日までこれを
詳しく解説した文献はない。
・・「追記」・・
「行状」の誤植などについては、小串信正氏が梅園学会
で発表したことがあったが、板書のみで資料などの配付
もなかったため、本稿では、小串氏の発表は参照して
いない。
・私は、何十年も前に、『慈悲無尽の創始者・三浦梅園』(篠崎篤三、
昭和十一年、中央社会事業協会社会事業研究所)という小冊子
を入手していたが、長い間放置したままであった。このたび、
ふと 思い出して一瞥してみると、「先府君孿山先生行状」の
「原文」(白文)と「書き下し文」、および少しの「脚注」などが
あることがわかった。これは、『梅園全集』以前の「日本教育史
資料」の「原文」からの「書き下し文」のため、多々誤りも見ら
れるが、いくつかの学ぶ点もあった。
・今回、上記の三文献を比較・照合することで、それぞれの著書の
誤植・解読ミスなども、少なからず発見することができた。
なお、三浦梅園資料館にある原本の「先府君孿山先生行状」との
照合については、次の機会を待ちたい。
・「〔一〕三浦梅園の家系」などの見出し、改行、段落分けなどは、
和田による。各文は読みやすさを考慮して短文での表記とした。
・・・【底本、および参照文献一覧】・・・・・・・・・・・・・・
・「先府君孿山先生行状」は、梅園の長男・三浦黄鶴によるものであ
る。原文は漢文であるが、以下に字句などを「校訂」した上で「書
き下し文」を作成し、注解、解説などをすることとした。注解など
にあたっては、本稿が「三浦梅園研究の入門案内」を兼ねるように
意識して、参考文献などを多数あげておいた。
・『梅園全集』(上巻)にある「原文」(訓点あり)を底本とし、
『三浦梅園集』(岩波文庫)にある三枝博音による「書き下し文」
を参照した。さらに、『慈悲無尽の創始者・三浦梅園』(篠崎篤三
著、昭和十一年、中央社会事業協会社会事業研究所)所収の「原文
〔白文〕」「書き下し文」「脚注」などを参照した。
・注解などにあたっては、『梅園全集』(上巻)にある「梅園先生年譜」
のほか、『三浦梅園』(田口正治、人物叢書)、『三浦梅園外伝』
(三浦梅園研究会編著、昭和六十三年)などを参照した。
・なお、「先府君孿山先生行状」の「下原稿」であると言われている
「和文〔梅園先生行状〕」(翻刻・岩見輝彦、影印版、「梅園学会報」
第28号所収、2003)も参照した。
▼〔一〕三浦梅園の家系
・先君子、諱は晋、字は安貞。後、邦君の諱を避けて、貞を改め鼎
に作る。姓は三浦、其の先は、相州・三浦の人なり。
・正治中(1199~1200)三浦某有り。某は兄弟三人、地を豊後・国東
郡に避け、薙髪(ていはつ)して法道・法行・法念と曰ふ。
・法道には後 無く、法念は小箇倉(小〔お〕ヶ倉村、武蔵町中武蔵区吉広)
に居り、清原氏を称す。
・法行は丸小野(武蔵町中武蔵区丸小野)に居り、因(よ)って焉(これ)
を氏とす。
・爾来 世次 詳(つまびら)かならず。
・後、丸小野大和守 有り、菟狹(うさ、宇佐。)に戦死すと云ふ。
・又 丸小野将監なる者 有り、始めて富永村に移る。
・其の子 兵部、諱は某、十郎義秀を生む。義秀、彦兵衛を生む。
諱は某、大友氏の時、里正(りせい、大庄屋。)と為(な)り、十二邑
(ゆう、村)を統正(とうせい)す。
・彦兵衛、孫左衛門を生む。諱は某、継ぎて里正と為る。丸小野氏を
棄て、三浦に復す。
・孫左衛門の弟・清兵衛義清〔正〕は、君に於て曾祖父たり。
*田口正治『三浦梅園』には、「清兵衛義正」とある。
・義清、秋吉氏を娶り、与四郎義房を生む。義房は、晩節(晩年)
薙髪して泉石翁徹山と号し、医を業とす。
*梅園の祖父・石翁徹山には、子孫たちへの「教訓歌」(和歌集、722首)
である『閻浮置土産』(えんぶおきみやげ、閻浮とは「人間界」のこと。)
がある。熱心な仏教徒であったという祖父にふさわしい書名である。
『梅園学会報』第33号(2008)に全首が収載されている。当時十五六
歳であった梅園の跋文があり、祖父からの感化の大きさがうかがえる。
・亦、秋吉氏を娶りて 考を生む。諱は義一、字は快順、野梅堂虎角
と号す。妣(なきはは、母。)は矢野氏。
*梅園の父・虎角は、俳諧と旅、囲碁を好む風流人であった。九州地方
は、そのほとんどを旅しており、長崎にも三度 行っているという。
梅園の旧宅に碁盤があったのも納得である。
・享保八年(1723)癸卯秋八月二日(陽暦九月一日))、先君子(父、梅園
のこと。)富永村に生る。
▼〔二〕幼年期の逸話――「夜雨の図」
・幼にして穎敏(えいびん)、甫(はじ)めて八歳、家に近江八景図の
屛風を蔵す。君、夜雨の図(唐崎夜雨の図)を指し、其の父に問うて
曰く、「是れ 何の図ぞや」と。父曰く、「炬火を点じ、襏襫
(はっせき、雨衣。)を着く、其の夜にして雨たるを知るなり」と。
・君曰く、「目の寓する所を景と曰ふ。暗黒の中、豈(あ)に望を
馳(は)すべけんや。之を情に属せば、則ち可なり、之を景に
属せば、則ち不可なり」と。人、之れを奇とす。
*梅園のこの逸話は、良く知られている。すでに、梅園の科学的な
思考方法が芽生えている。すでにこの時期から、梅園は天地・造化
への大きな疑問をいだきつつ、幼い日々を過ごしていたのである。
「君 十歳の比(ころ)より大疑を生ず」(和文〔梅園先生行状〕)
とある。
▼〔三〕学に志す――詩をつづる少年
・既にして学に志す。寒郷 師友無く、且つ 家 貧しく書を買ふ
を得ず。稗官(はいかん、野史)雑史、得るに随って之れを読む。
・家を距(へだ)つること里許、一刹(さつ、寺院)有り、『字彙』を蔵
す。難字に遇ふ毎に記し、積りて数十字に至れば、就いて之れを検
す。一月、数次なり。
*梅園が通っていた寺院とは、国東市安岐町にある臨済宗妙心寺派
の「西白寺」である。
・稍々詩を屬(つづ)るに及ぶ。家に 唯(ただ)周伯弼氏の『三体詩』
一部を蔵すのみ。因って之れを読む。造語数千言。
▼〔四〕綾部有終〔綗斎〕、藤田貞一〔敬所〕に学ぶ
・戊午(元文三年、1738)の春、君十六、始めて藩に造(いた)り、
綾部有終〔綗斎〕先生に謁す。先生は、藩の監郡(郡奉公)なり。
*綗斎(1676~1750)は、梅園の親友・麻田剛立(1734~1799)
の父である。
・吾が先君龍溪公、待(たの)むに文学を以てす。嘗て業を室鳩巣に
受け、旁(かたわ)ら伊藤東涯・服〔服部〕南郭に学ぶ。君 因って
与(とも)に 其の説を聞くことを得たり。
*「龍溪公」とは、杵築藩三代目・藩主・松平重休のこと。
・明年己未(元文四年、1739)君十七、豊前 中津藩の文学 藤田貞一
〔敬所〕先生、君を召す。是に於て 中津に遊ぶ。先生 其の才を
愛し、職を紹(つ)がしめんと欲す。父母 其の一子たるを以て許
さず。幾(いく)ばくも無くして家に還る。
・才藻(さいそう、詩文の才能の豊かなこと。) 日に進む。
*梅園は、晩年、藤田敬所(1698~1776)の詩集『貞一先生集』に
「序」を書いている。梅園は、この頃から本格的に詩を書き始める。
▼〔五〕天学の書を読む
・然(しか)り而(しこう)して 童丱(どうかん、子ども)大いに疑を
天地・造化に抱き、之を思へども得ず。数々(しばしば)寝食を廃
するに至る。
*梅園が、「天地をくるめて一大疑団」(『答多賀墨卿君書』)となし
て、本格的に思索を始めるのは、おそらく多感な十代のなかば
ころからであろう。梅園の思想形成の過程を見ることのできる
文献としては、その他に「洞仙先生口授」(『三浦梅園自然哲学
論集』所収、岩波文庫)、および「高伯起に復するの書」(三枝
『梅園哲学入門』〔付録〕所収)などがある。
・年二十餘、稍々天学(天文学)の書を読み、仰観俯察、自ら其の
器を製し、其の象を模し、以て運転の大意を知る。大意 知るべし
と雖も、其の疑ふ所に非ず。
*梅園は、二十三歳の秋(延享二年、1745)に、長崎、大宰府、熊本に
旅する。この時、熊本市内の浄土宗の古刹「西岸寺」において、西川
如見の天文学関係の著書『天学名目大略抄』などを筆写する(高橋正和
『三浦梅園』、平成三年、明徳出版社)。ただし、高橋がその寺の名を
「西岌寺」と解読しているのは、誤りである。
この時の、梅園の写本は『梅園学会報』第31号(2006)に「影印版」
が収載されている。また、この『天学名目大略抄』などの資料について
の森口昌茂氏による考証が『梅園学会報』第32号(2007)にある。
梅園は、翌年(延享三年、1746)には、当時の天文学書のベストセラー
である『天経或問』(西川正休・訓点、1730)を読み、さらに大きな
影響を受けることになる。
梅園がこのころに作製したと思われる「天球儀」は、現在でも保存され
ている。
梅園は、「年弱冠を過ぎ、始めて天地の形体を西学に得て喜ぶ。形体
徴する所 有りと雖も、亦 地体 此の如しと言ふに過ぎず。」(梅園
「高伯起に復するの書」)というように、西洋の天文書に影響を受けつ
つも、それは自分の求めているところのものとは、根本的に違うもの
であると認識していたのである。そして、自らの「条理学」を創造する
にいたるのである。したがって、西洋の「科学」と梅園の「条理学」と
は、はじめから同一のものではないことを、ここに認識しておくべき
であろう。
▼〔六〕「気に観る有り」――天地に条理あるを知る
・年三十(宝暦二年、1752)、始めて天地に条理あるを知る。其の立意
に云ふ。
「〈天地〉なる者は、〈気物〉なり。
〈気〉は 即ち〈一気〉、〈物〉は 即ち〈大物〉。
〈大物〉の外に〈一気〉無し。〈一気〉の外に〈大物〉無し。
其の探る所に従って 其の〈物〉を得る。
故に 〈侌昜〉を探って 〈一二〉を得、
〈気物〉を探って 〈天地〉を得る。
〈天地〉は〈没露〉の境に有り、〈没露〉の境を探り尽して
〈天地〉を知る。
〈侌昜〉に〈天神〉の境に有り、〈天神〉の境を探り尽して
〈侌昜〉を知る。
〈侌昜〉を知らざれば 〈天地〉を知ること能はず。
〈天地〉を知らざれば 〈侌昜〉を知ること能はざるなり。
〈地〉は 破るべからざるの〈中〉を占め、
〈天〉は 窮むべからざるの〈外〉を占め、
各々 其の 玄界 に至りて止む。
夫れ 地(地球)の 半面は昼、 半面は夜、
半面は裘(きゅう、冬。)、 半面は葛(かつ、夏。)なり。
洪々たる〈天地〉、往きて 其の〈跡〉を〈反〉せざるはなし。
故に 条貫理析の道 有らざる所なし。」と。
*梅園は、「歳二十有九、始めて気に観る有り、漸く天地に条理有る
を知る。」(梅園「高伯起に復するの書」)と述べている。
ここに述べられている内容は、条理学のエッセンスの一例であり、
それは、すでに西洋の「科学」を超えているものであることを、
肝に銘じてじておくべきであろう。梅園の条理学は、すなわち
古今東西にないところの独創的な哲学世界なのである。
「条理」を「条貫理析の道」と述べているのは、納得である。
明治三十六年刊の『日本倫理彙編』(第十巻)でも三浦梅園が
「独立学派」として分類されたことは、まさに当を得ているもの
なのである。
▼〔七〕「梅園三語」を草す
・是に於て 筆研(ひっけん、文筆にたずさわること。)に従ひ、『玄語』
十餘万言を草す。片言隻句(へんげんせきく、わずかな言葉。)も古人
の様に依らず。自ら言ふ。「我、豈に 古人を忌(い、にくむ。)まん
や。
古人 未だ 条理を論ぜず。 其の襲(つ)ぐべきものなきを以て
なり。」と。
・重ねて 『贅語』を作る 。頗(すこぶ)る世と論弁酬醋〔酢〕
(しゅうさく、応答する。)す。
・又、 堯・舜・周・孔の道を論じ、 『敢語』を著はす。
・皆 折衷するに条理を以てす。 合せて「梅園三語」という。
・『玄語』の起草は、宝暦癸酉(1753)に在り。稿を換へること十五、
明和乙酉(1765)に至り、天地に合せざる有るを覚え、尽(ことごと)
く其の旧稿を棄てて、新たに草を起す。年を閲(けみ)すること四、
同戊子(1768)に至り、三たび稿を換ふ。居ること一年、又、其の
旧稿を棄てて、草を起す。六年を踰(こ)えて安永乙未(1775)に
至り、稿を換ふること五。前後を通じ、年を歴(へ)ること二十三、
稿を換ふること亦二十三。四冊・七本〔「本宗」一本・「天冊」二本・
「地冊」二本・「小冊」二本〕並びに「例旨」、〔合わせて〕八〔冊〕。
*『玄語』の改稿過程については、田口正治『三浦梅園の研究』(創文社)
を参照のこと。
また、『玄語』の全文の「書き下し文」は、三枝博音『三浦梅園の哲学』
(「版下本」などによるもの、第一書房、昭和十六年)と、北林達也が
三浦梅園研究所のホームページで公開しているもの(「自筆本」などに
よるもの)などがある。
さらには、狭間久による『玄語』(5分冊の予定)が刊行中であるが、
現在のところ4分冊まで出版され(大分の歴史文化研究会刊)、5分冊
目の「地冊」のみが未刊となっている(「自筆本」などによる)。
・『贅語』は、宝暦丙子(1756)より、寛政改元(1789)にいたる迄、
年を歴(へ)ること三十四、稿を換ふること十五。
*近年の『贅語』の「書き下し文」としては、「天地訓」「侌昜訓」
「侌昜帙 余論第一」が、『三浦梅園自然哲学論集』(岩波文庫)に
ある。「身生訓」が、和田耕作『安藤昌益と三浦梅園』(1992)に
ある。
『贅語』の全文の「書き下し文」の作成は、今後の課題である。
・『敢語』は、則ち宝暦庚辰(1760)を以て草を起し、同癸未(1763)
に至るまで年を閲(けみ)すること四、稿を換ふること亦四、安永
四年(1775)之れを木に上す〔安永三年(1774)が正しい。〕。
*『敢語』の全文の「書き下し文」は、三枝博音によるものが、
『日本哲学思想全書』(第十四巻、第2版、平凡社、1980)にある。
・嘗て 曰く、「「既に『玄〔語〕』有り、故に 之れを『贅〔語〕』と
謂ふ。 然りと雖も、 既に「天地」有れば、『玄』も亦「贅」なる
のみ」」、と。
*この文は、『玄語』「例旨」の文に基づいたものであるが、これと同じ
ような文言が、さらに「例旨」の次の文にもみられる。
「書と図とは 皆 贅疣(ぜいゆう、いぼ。)なり。姑(しばら)く
魚兎のために筌蹄(せんてい、目的のための方便。)を設くるのみ。
故に この書を読む者、天に観て 合ふあらば、則ち 宜しく之れ
を取れ。天に観て 誤りあらば、則ち 宜しく之れを舎(お)け。
晋〔梅園〕 何ぞ 与(あずか)らん。」(『玄語』「例旨」より)
これこそが、哲学者・古在由重をして、梅園を「思想革命家」と言わ
しめたゆえんである。
▼〔八〕生涯に三度の招聘を固辞する梅園――終に仕えず
・嘗て 陶弘景、韓康伯の人と為(な)りを慕ふ。年二十五、玖珠侯
之れを辟(め)す。謝して曰く、
「 朝(あした)に 孖溪(しけい)の水を汲み、
夕(ゆうべ)に 孖山(しざん)の雲に臥(ふ)す、
晋(梅園の名)に於てか 足れり」 と。
*二十五歳の梅園、玖珠の森藩・藩主久留島侯からの招聘を辞退する。
・天明壬寅(1782)、君 豊前に遊ぶ。人 有り伝へて曰く、「久留米
侯 子を聘せんと欲す、子 其れ褐(ぬのこ、粗末な着物。)を釈(と)
け」と。
君 詩を作り、其の人に謝して曰く、
「樵蹊(しょうけい、小径)世間と通ぜず。
高臥東山 謝公に異なり。
烟霞(えんか、山水のけしき)を占得して吾已(すで)に老ゆ。
清風鶴唳(かくれい)白雲の中。」
*五十九歳(天明元年、1781)の梅園、久留米藩主からの招聘を辞退
する。
・又、某藩(小倉藩)の一大夫、君を其の君に薦むる者有り。君
之れを聞き、詩を作り其の志しを述べて曰く、
「金を擲(なげう)ちて大鑪(たいろ)に投ず、
問はず復(ま)た如何と。
軽裘(けいきゅう)緩帯(かんたい)春風の中、
昇平久しく浴す 堯(ぎょう)の恩波に。
人間の三島、満架(まんか)の書、
階前の豊草 掃除を絶す。
縣吏 我が為めに直(ちょく)を取ること簾(れん)に、
我が安眠の為めに我が廬(ろ)を護る。
君 見ずや、富春山中栄を遁るる者を、
羊裘間(ようきゅうかん)に釣る 大沢の魚。
釣台幸いに足を伸すの地有り、
焉(な)んぞ 人の禍を載せて人の車に上らん」と。
終に仕えず。
・嘗て 卞和(べんか、『韓非子』「和氏」の逸話より。「卞和の璧」「連城の璧」
などと言われる宝石の話。)と題する詩有り、曰く、
「石裏〔裡〕の清光天下の珍、
誰か知らん十二車輪を照らすを、
如何ぞ 連城の価を待たず、
空しく示す 尋常琢玉の人」。
・又 諸葛武侯〔諸葛孔明〕と題して曰く、
「梁父〔甫〕吟成って還って自ら聞く、
中原の金鼓乱れて粉粉、
誤って先主〔蜀漢の照烈帝、劉備〕の為めに龍気を窺(のぞ)んで、
天間に雲を起さざるを得ず」。
*上記の二つの詩〔「卞和」「諸葛孔明」〕の解釈については、
『梅園詩集』(上巻、上田勉・解説、昭和六十一年)を
参照されたい。
▼〔九〕梅園の人となり
・高尚自得の風 見るべし。資性淳正、之を望むに儼然、之に就くに
温然たり。
・未だ嘗て 疾言(しつげん、激しい口調でいうこと。)せず、未だ嘗て
怒罵(どば、いかりののしる。)せず、 未だ嘗て 急遽(きゅうきょ、
あわてる。)噪〔譟〕擾(そうじょう、騒がしいこと。)の色を見(あらわ)
さず。
・一日 僧とともに譚(かた)るに、適々(たまたま)迅雷 庭樹に震
ふ。僧 愕然(がくぜん)として容(かたち)を改む。君 従容(しょ
うよう)として 謂って曰く、「師も亦 一驚を喫するや。」と。僧
愧(は)づる色 有り。
・読書 著述の業に於ては、汲汲孳孳(きゅうきゅうしし、はげむこと。)
として、燭(しょく)以て晷(き、日の光。)に継ぐ。
*それにしても梅園の著作の多さには驚く。江戸時代の学者たちの中
のおそらくは、五指には入るのではないだろうか。あらゆる分野の
読書生活、これらは単なる医師の読む範囲ではない。いわゆる「儒
医」としての視点からの考察も、軽視してはならない必要不可欠な
ことなのである。儒医研究の先駆的研究書である安西安周『日本儒
医研究』については、後述する。
・然れども 客に対して譚(かた)り、少しも 厭怠(えんたい)の色
無し。或は門人・小子を誨(おし)へるに、諄諄(じゅんじゅん、ねん
ごろに教えさとすこと。)として倦(う)まず。
・頗(すこぶ)る気節有りと雖も、未だ嘗て 人と忤(さから)はず。
・然れども義の関(かか)はる所に当っては、岸然(がんぜん、けわし
いこと。)として移すべからず。
・諌(いさ)むべきに当っては諌め、直言・面争して権貴(けんき、
権力があり地位の高い人)と雖も顧避(こひ、さけること。)する所 無し。
・人に 接するに 必ず誠を以てし、人 誤ち有れば 提撕(てい
せい、教え導くこと。)誘掖(ゆうえき、導き助けること。)して 義理を
弁析(べんせき、判断する。)し、其の意を厭へば止む。
・既にして之を改むるに及んでは、其の旧悪を保たず。識 一世を
空しうすと雖も、而も謙冲(けんちゅう、謙虚なこと。) 自ら持し、
未だ嘗て 其の長を以て 人に加へず。
▼〔十〕門人たちへの教育など
・門人・弟子を教育するに、各々其の長ずる所に随ひ、其の好む所
に適(ゆ)かしむ。曰く、「人心の好尚 同じからざること面の如
し、羊棗膾炙(ようそうかいしゃ、千差万別の意。)焉(な)んぞ 人に
一律に強ひんや」と。
・故に自家の見に至っては、指を染むる者(志しのある者)に非ざれば、
強ひて之を伝へず。又、矯激(きょうげき、強く激しいこと。)駭異
(がいい、おどろきあやしむこと。)の行を為さず。
・近世 儒士(儒者)、漢典(中国流の式典)に倣(なら)ふ者、動(やや)
もすれば肉祭を用ふ。君は 則ち否(しか)らず。曰く、
「本邦の風、天子より庶人に至るまで肉祭の礼 無し。其の国に居
れば、宜しく其の礼に従ふべし」。
・父母の喪に服するや、曰く、「吾が先王の礼は期(一年の喪)に絶つ、
吾 此れに従ふなり」と。
・其の文を為(つく)るや、意 至って 筆 従ひ、専ら達意を主とす。
・少年のころ、嘗て 聊(いささ)か世の所謂 古文辞なる者を為る
も、後 其の非を知り、之を棄てて醇如(じゅんじょ、混じりけのな
いこと。)たり。
・其の詩を作る、亦 猶 文を作るが如し。曰く、
「唐人の妙境(佳境)は 我 能くせず、明人の優孟(ゆうもう、
「優孟衣冠」による。外形だけを似せて、その実の異なるたとえ。)は
我 欲せざるなり」と。
・嘗て 子弟に謂って 曰く、
「我れ 勢利に於て 澹如(たんじょ、静かでやすらかなさま。)
たり。故に 詩中 烟火の気(物質的な欲情) 無し。爾曹
(じそう、汝ら)以て 如何と為す」と。
・人 其の書を請ふ者 有れば、多く「知恥〔恥を知れ〕」の二字を
書きて之を与ふ。又、嘗て曰く、
「人は宜しく分を知るべし。富貴患難は其の素とする所を行へば
可なり。彼の昏(くら)きもの、乙に処(お)ることを知らずして
甲を冀(こいねが)ひ、隴(甘粛省の別名)を得て蜀(四川省の別名)
を望み、歆艶(きんえん、よろこびしたうこと。)朶頤(だい、物欲し
げなさま。)、終に兄弟 牆(かきね)に鬩(せめ)ぎ〔兄弟のうちわ
もめ。〕、夫妻 目を反するに至るは、職(もっぱ)ら是れ之れに
由(よ)る、慎まざるべけんや。」
・又、曰く、
「乞ふより賤しきは莫(な)し、偸(ぬす)むより辱しきは莫し、奪
ふより暴なるは莫し、殺すより惨なるは莫し。
乞ふて輟(や)まざれば必ず偸(ぬす)み、偸(ぬす)んで輟(や)
まざれば必ず奪ひ、奪って輟(や)まざれば必ず殺す。
殺して之を奪ふは、原(もと)皆 乞ふに肇(はじ)まる。
乞児の人に歯(よわい、並ぶこと。)せられざるは、乞ふを以て
なり。」と。
・是を以て 君〔梅園のこと。〕は 生涯 物を人に乞ふことを為さず。
・家に在るや、黎明には則ち起き、盥漱(かんそう、手や顔を洗い口を
すすぐこと。)既に畢(おわ)れば、先づ考妣(こうひ、死んだ父母の
こと。)及び祖先の神主を拝し、而して後、事に就く。
・坐臥飲食にも 未だ嘗て 巻(書物)を廃(す)てず、到る所 必ず
携(たずさ)ふ。
*実は、私 自身も 常に書物を携帯しているという生活なので、
梅園の心持ちがよく理解できるような気がする。
・先人の墓、舎の南、数百歩に在り。壮歳に在っては 詣(いた)り
て拝すること日に三たび、老年には 日に二たび、以て常と為し、
寒暑風雨を以て 其の数を欠かず。
脱(も)し昼間 事故有って果さざれば、深夜と雖も必ず遂ぐ。
死に事ふること此の如し、生に事ふること知るべし。
・節倹 自ら収め、衣服、機械、居処、飲食に偏好する所 無し。
・贏餘(えいよ、残余。)有れば 必ず之れを窮乏せる者に施す。
・門人 或は 貧困にして、資用自給すること能はざる者あれば、
蔬糲(それい、粗食。)と雖も 必ず之を倶(とも)に共にす。
・人の来訪する者 有れば、知ると知らざると必ず供食し、必ず
しも盛饌(せいせん、馳走。)せず。
・歳除には 必ず窮民に米塩を送り、毎歳 例と為す。
▼〔十一〕「慈悲無盡」など――地域への貢献
・嘗て 窮を救はんが為めに 里中に募る。
・毎家 銭 若しくは米・粟を出すこと、多少を問わず。君 為に
之を掌る。豊歳(豊作の年。)には 其の息を加へ、歉歳(けんさい、
凶作の年。)には 以て 賑給(しんきゅう、施し与えること。)す。
*梅園、三十四歳の時、相互扶助の講「慈悲無盡 旨趣約束」
をつくる。テツオ・ナジタ『相互扶助の経済』(みすず書房、
2015)その他を参照のこと。ナジタ氏は、「懐徳堂」などの
著書で知られている思想史家である。このような本を書いて
いたとは驚きである。
前出の『慈悲無尽の創始者・三浦梅園』(篠崎篤三著、昭和
十一年)には、「慈悲無盡 旨趣約束」の全文が紹介されて
おり、必読書である。ただし、本書は極めて入手困難である。
・其の之を施すや、最も窮する者に始まり、漸を以て 稍々窮する
者に及ぶ。嘗て 出す所の多少を論ぜず。故に 凶年飢歳にも
村民の是に由って 存活(生活。)する者 頗る多し。
・君 孩童(がいどう、乳吞み児。)に在(いま)すとき、府君 野梅翁
〔梅園の父。〕之に誨(おし)へて曰く、
「人は、宜しく慈愛を以て心と為すべし。而して慈愛は勤倹を
以て本と為す。勤むると雖も、倹(つつまし)やかならざれば
足らず、倹(つつまし)やかなりと雖も、勤めざれば足らず。
勤倹 相得て 慈愛の志 立つ。志 既に立てば 則ち 其の
事 行ふべきなり。」と。
・君の用を節し、施しを好むは、蓋し 其の庭誨(ていかい、家庭での
教え。)の薫聒(くんかつ、しつけ。)に資る有りと云ふ。
・又、能く人の急に走り、人の難を済(すく)ふ。
往年 吾が支封の民 十数村、連合騒擾して 将に城に入らんと
するや、府君(梅園のこと。)諸(これ)を塗(みち)に要し、解説
して事 終に平らぐ。
・又、某邑の神職 数十人、寺僧と訟ひ 八村連騒す。邑長、縣吏間
に居る者少なからざるも 終に和せず、君(梅園のこと。)亦 解説
して 平かならしむ。
・凡そ隣伍に 口舌・不平の事 有れば、君 為めに解説す、服従
せざる莫し。
・孝子、順孫、節婦、忠奴の湮没(いんぼつ、うずもれる。)して 識ら
るること無き者は、君 為めに称揚す。或は之を官に告げて以て
褒賜(ほうし、ほめて物を与えること。)を得、或は之を郷邑に募って
以て救助を求む。
・又、自ら米塩を饋(おく)り、日に月に 相給して 以て 孝養を
終(つい)さしむ。
・其の侘(た)、閭閻(りょえん、貧しい村民。)の子弟に至るまで、小善
有れば 之れを褒(ほ)め、小不善有れば 之れを誡(いま)しむ。
・故に 人 其の厳を憚り、其の恵に懐き、無頼の徒の君を見る者
面を革(あらた)めざる莫し。徳に感ずるの甚しき者は、合掌・
礼拝して 之に謝するに至る。
*社会事業家としての梅園、教育家としての梅園の研究も
重要テーマであるといえよう。今後の探求に期待したい。
▼〔十二〕藩主に謁し、楽寿亭に招かれる
・天明癸卯(天明三年、1783)、邦君 新に封を襲(つ)ぐ。君を召して
之を見んと欲す。
・其の筋骨を労するを憫(あわれ)み、杖藜(じょうれい、老人が用いる
杖。)の山より出づるを待つ。
・君 之を聞いて曰く、
「虚誉を以て 実礼を受くるは 吾が志に非ざるなり。」と。
・城市に削迹(削跡、さくせき、身を隠すこと。)すること幾(ほと)んど
周期(一年)、明年五月 已むを得ざる者有りて、城府に至る。
・邦君 待つに大夫の礼を以てす。乙夜(いつや、午後十時ころ。)
階を辞するに 近臣 燭を執って前導す。
・其の山に還るや、給するに厩馬を以てし、且つ曰く、
「我れ 轎(きょう、かご。)を以て 女(なんじ、汝。)を送らんと
欲せしに、其の注を病む(かごに酔う。)を聞く。是を以て 馬
を命ず。」と。
・天明戊申(天明八年、1788)八月、宴を楽寿亭に賜ふ。亭は公の遊息
の所なり。命じて其の記を作らしむ。且つ亭中の望む所に就いて
三十景を撰び、新に命ずるに雅名を以てせしむ。仍(よ)って
更に「楽寿亭寓目三十景〔境〕記」を作り、之を進む。
*「楽寿亭寓目三十境記」は、『大分県史料(22)第八部「先賢資料一」』
に収録されている。
・爾後、恩賚(おんらい、くだされもの。)絶えず。邦君 賜ふ所の詩中
に云ふ有り、「相 贈る春色 白雲 長し」と。
・其の眷遇(けんぐう、手厚くもてなすこと。)此の如し。進む毎に必ず
譚(だん、はなし。)国務に及べり。
*梅園が、藩主のために政務への長文の提言書『丙午封事』を作成し、
奉じたのは、天明六年(1786)二月のことである。この藩主による特別
なおもてなしは、その『丙午封事』などへの感謝のしるしなのである。
『丙午封事』の要約が、前出の『慈悲無尽の創始者・三浦梅園』(篠崎
篤三著、昭和十一年)にある。『丙午封事』についても、社会学者たち
などが参加した、今後の研究が待たれるところである。
▼〔十三〕独立学派・三浦梅園――その号と著書群など
・君 医を業とすと雖も素願に非ず、其の祖業に背かざるのみ。
*この一文には、考えさせられるものがある。確かに梅園には、養生訓
や解剖学的な書物はあるが、臨床医学についての著書はない。
実際の診療は、古方家のバイブルである『傷寒論』、『金匱要略』、およ
び山脇東洋の処方集『養寿院経験方』(以上、手沢本あり。)などに依拠
して行っていた。さらには『本草綱目』の「附方」なども参照していた
ものと思われる。
膨大な「臨床処方集」を創造した、安藤昌益とはその点に違いがある。
しかし、手沢本類には、さらに多くの漢方医学書や「方書」「方函」な
どもあるので、今後、それらの研究を行うことも必要である。
また、この一文を引いてその「第十一章」に梅園の儒医論を述べている
のは、医史学者の安西安周『日本儒医研究』(龍吟社、昭和十八)であ
る。安西は、この「小伝」のところでは梅園の「墓碑銘」の全文を「書
き下し文」にして収録している。その「墓碑銘」の文は、本稿で紹介し
ている「行状」に基づいて書かれたものであるから、内容的には、「行
状」の域を出ていないものである。さらに、「医説」のところでは「養
生訓」と『贅語』「身生帙」を引いて、その概要を紹介している。安西
の「条理学」への理解は、今日的に見ても決して古いものではない。
大いに学ぶべき点がある。
服部敏良『江戸時代医学史の研究』(吉川弘文館)も短文ではあるが
梅園の医論を紹介している。梅園の「書簡集」から具体的な医療活動を
探っている。また、梅園が、特に永田徳本・永富独嘨庵・後藤艮山らを、
医師の手本として評価していたことを指摘している。
ここでは、梅園の医学論の研究史を論じるのが目的ではないので、
「梅園学会報」などに掲載されている論考類については触れない。
・嘗て 無事齋主人と称し、又 二子山人と称す。又、孿山と号す。
園中に梅樹有り、因って 又 梅園處士と号す。其の居る所を
東溪と曰ふ、故に人 呼んで東川先生と曰ひ、自ら称して東川
居士と曰ふ。後 改めて洞仙〔洞僊とも書く。〕と為す。
・著はす所、三語の外、『詩轍』、『寓意』(*1)、『梅園詩集』(*2)は
既に世に行はれ、『愉婉録』(*3)、『価原』(*4)、『梅園読法』、
『梅園文稿』、『梅園拾葉』、『梅園後拾葉』、『名字私議』、『五月雨
抄』(*5)、『養生訓』(*6)、『帰山録』(*7)、『答多賀墨卿君書』
(*8)は既に成って家に蔵す。
*ちなみに、『梅園全集』(全二冊)の刊行は、大正元年(1912)である。
以下には、『梅園全集』以外の主な参考文献をあげる。
(*1):『寓意』は、『大分県史料(22)第八部「先賢資料一」』に収録
されているが、梅園の文書中で最も難解なものである。この
文書に匹敵する難解な文書は、私の知るところでは、後出の
江渡狄嶺の「農乗嘱文」であろう(拙著『場論的世界の構造―
江渡狄嶺の哲学』、2012、に収録されている。)。
(*2):『梅園詩集』(上巻、上田勉・解説、昭和六十一年)がある。
(*3):『愉婉録』(上巻、口語訳・原文、梅園学会、2005)がある。
『愉婉録』(下巻、口語訳・原文、梅園学会、2015)がある。
また、下巻は「梅園学会のホームページ」でもみられる。)
(*4):『価原』は、『三浦梅園集』(岩波文庫)に収録。
「梅園学会のホームページ」で、「本文と評注」がみられる。
(*5):『五月雨抄』(現代語訳、白井淳三郎訳・刊、1982)がある。
(*6):『養生訓』(翻刻と口語訳、梅園学会報・特別号、梅園学会、
2014)
(*7):『帰山録』(『日本哲学全書』第八巻所収、昭和11年)、
『帰山録草稿(「西遊日記」)』は、『三浦梅園集』(岩波文庫)と
『大分県史料(22) 第八部「先賢資料一」』に収録されている。
(*8):『多賀墨卿君にこたふる書』(『三浦梅園自然哲学論集』に収録、
〔原文、注、現代語訳あり。〕岩波文庫)
・其の侘(た)、著はす所 有りと雖も、皆 未成に属す。著はす所の
書は、循環改修して 未だ嘗て手を停めざること五十年 猶一日
のごとし。
・生涯の「抄書」は積んで一篋(いっきょう、一箱。)に充てり。
*「抄書」とは、「浦子手記」と言われているもの。記載書目が、
『大分県史料(22) 第八部「先賢資料一」』などに収録されてい
る。
もしも三浦梅園資料館などが、この「浦子手記」のすべてをネッ
ト上において公開するならば、梅園研究は飛躍的に進展してゆ
くにちがいない。ぜひともその検討をお願いしたいと思う。
梅園学会と三浦梅園資料館には、梅園の生誕300年を前にして、
それくらいのことを成し遂げていただきたいと願うものである。
没後200年に『玄語』の影印版が刊行(ぺりかん社刊)された
からこそ、前出の狭間久氏の新現代語訳『玄語』がなされたこ
とを思い起こすべきである。
梅園学会・三浦梅園資料館だけでは無理なのであれば、地域連携
の中で多くの資料をネット上で公開している別府大学図書館な
どとの提携を模索していただくのもよいかと思う。さらには、
三浦家のご協力とご理解とを切に希望してやまない。
同様のことは、『贅語』の稿本類についてもいえるであろう。
〔補足〕東京大学における安藤昌益関連資料、京都大学における
「富士川本」、早稲田大学図書館の和本類などの
ネット上での公開は、研究者の利便性に貢献している。
・君、光彩を鞱晦(とうかい、表に出さないこと。)して聞達(もんたつ、
名誉。)、を四方に求めず。然れども、笈(おい、本をいれた箱。)を
負ひ来り学ぶ者 日に月に絶えず。
▼〔十四〕家族、そして 梅園の終焉
・初め西氏を娶り、又 渡邊氏を娶る。故 有って 皆去る。後
寺島氏を娶れるも先に歿す。
・男 二人、黄鶴 字は修齢、玄亀 字は大年。黄鶴 祀を奉ず。
女 三人、長女は夭し、次は 松永氏に嫁し、次は安東氏に嫁す。
・属纊(しょくこう、死に際。)の前日、病 革まるや、家人及び門生を
召し、一一訣辞し 畢って曰く、我が手を正しくせしめよ、我が足
を正しくせしめよ、我が首を正しく南に嚮はしめよ、凡て 我が
四体を正しからざる莫からしめよと。
・其の故衣を脱し新衣を加へ、而して後 不肖 黄鶴に命じて、
其の著書を改めしむ。
*「著書を改めしむ」とは、梅園が生涯をかけた『玄語』などに
ついて遺言したものであろう。その後『玄語』の公刊は、黄鶴
らの手に託されたのである。しかし、その校訂作業もまた難航
を極めることになる。
また、梅園の「遺言状」は、『大分県史料(22) 第八部「先賢
資料一」』に収録されている。
・夜半に至って復たび言はず。東方の将に明けんとするとき、溘焉
(こうえん、にわかに。)として逝く。実に寛政改元酉(1789)三月
十四日(陽暦四月九日)辛未なり。
・寿六十七。越えて十七日甲戊、宅の南 先瑩の兆(累世の墓所)に
葬る。次いで孺人(夫人)と合す。遺命により 私諡(しし)を用
ひず。
・明くる年庚戊(寛政二年、1790)六月、孝子 黄鶴 謹んで状す。
*最後に、梅園の伝記については、田口正治『三浦梅園』(人物叢書)
の右にでるものはないが、いくつかの参考文献を挙げておきたい。
・①西村天囚『学界の偉人』(明治四十四年、杉本梁江堂刊)は、上巻
に大分の三偉人「三浦梅園」「脇蘭室」「帆足万里」について詳述して
いる。ここで、西村は梅園の「著書解題」の項の末尾において「今に
して其の全書を刊行せずんば湮没を奈何せん、天下有力の士、其れ
梅園全集を校刊公行して学界に貢献する勇気なきか。」と、「梅園
全集」の編纂の急務であること力説し、その刊行を呼びかけている。
西村の序文によると、明治四十三年の春には「三偉人」の伝は脱稿し
ていたという。それから、大正元年九月の『梅園全集』の刊行まで、
わずか三年余りの歳月である。実に驚くべき実行力である。西村は、
自らも全集刊行のための組織である「梅園会」の「名誉賛助員」とし
て参画している。西村の肩書は、「大阪朝日新聞記者」である。
『学界の偉人』の口絵には、『梅園全集』(下巻)の口絵にもある有名
な「三浦梅園画像」(片山東籬画、帆足万里賛)があるが、『梅園全集』
のよりも綺麗に印刷されている。これを私は万里の賛の翻刻ととも
に拙著『安藤昌益と三浦梅園』(1992)に転載しておいたので参照願
いたい。なお、本書の口絵には、「脇蘭室」「帆足万里」の画像もある。
・②土屋元作『新学の先駆』(明治四十五年二月、博文館刊)にも、短
文であるが、「三浦梅園」「帆足万里」につての記述がある。主に蘭学
史的に、その概要を辿っているものである。土屋は、「大阪朝日新聞
社友」であり、西村天囚と内藤湖南の序文がある。この口絵には、「三
浦梅園自製天球儀」の写真が一頁大で掲載されている。おそらく、梅
園を高く評価する気持ちは、天囚と同じであったであろう。
・③『増補改訂・大分縣偉人伝』(大分縣教育会編・刊、昭和十年)の
中の「三浦梅園」は、『学界の偉人』や『梅園全集』を参照している
が、やはり主に全集の「先府君孿山先生行状」などを参照した力作で
ある。
*田口正治『三浦梅園』が、①と③を参考文献として挙げているのは、
納得である。さらに、今日では、『三浦梅園外伝』(三浦梅園研究会
編著・刊、昭和六十三年)も必須の文献であろう。
その他、少年少女のための「三浦梅園伝」などがいくつかあるが、
ここでは省略しておきたい。
・・・〔補足〕・・・
さて、本稿を脱稿してから、「郷土の先覚者シリーズ 第一集」
(大分県先覚者シリーズ刊行会)のなかの、田口正治「三浦梅園」
を見ると、その初版の刊行は、昭和四十五年であることがわかった。
これまで、『三浦梅園』(人物叢書、昭和四十二年刊)の前に刊行
されたものとばかり思っていたのは、私の勘違いであった。「先覚者
シリーズ 第一集」の田口正治「三浦梅園」を改めて一瞥してみると、
「人物叢書」の内容との重複は当然あるものの、貴重な内容であること
に気づいたので、ここに補足して挙げておきたいと思う。
・▼▽・「ブラックホール」と三浦梅園の「条理的世界」、
そして、「総合知」による「世界人類哲学」の創造へ
――「むすび」にかえて―――
・▼「1」▽・「ブラックホール」と三浦梅園の「条理的世界」
・三浦梅園が没してから、ちょうど230年が過ぎた、2019年4月
10日、人類は 初めて「ブラックホール」の撮影に成功した。
・「ブラックホール」そのものは本来的に見ることのできない暗黒の
世界である。それは梅園のいうところの「玄」なる世界にほかなら
ない。梅園の「玄語」の意味するところとは、「玄なる宇宙的世界
を解明した書物」の意である。これをR. マーサ女史は「deep
wards」〔玄なる奥深い世界を解明した書物の意〕と英訳している。
・梅園は、その不可視なる「玄」なる世界を、「没」している世界の
ひとつとして、すでに把握していたのである。今から 250年も
前に である。ここで、「前出」の 次の文を示す。
〈天・地〉は〈没・露〉の境に有り、
〈没・露〉の境を探り尽して 〈天・地〉を知る。
・・・・・・・・・・・・
〈地〉は 破るべからざるの〈中〉を占め、
〈天〉は 窮むべからざるの〈外〉を占め、
各々 其の 「玄界」 に至りて止む。
・梅園は、当時の最新の科学的な情報を吸収しつつ、さらにその
世界を遙かに超えた探究と思索とを行っていた。それが梅園の
主著『玄語』の世界、すなわち「条理学」の世界にほかならない
のである。
・今日、もし梅園が「ブラックホール」のすがたを見たとしたなら、
それは自分がいうところの「没」している世界の存在証明である
というであろう。
・梅園の「条理学」の世界を、単に「非科学的」な世界であると見る
のは根本的な誤りである。それは、未だ「科学」が解明していない
ところの「悠久の世界」を含んでいるものなのである。
・『玄語』の世界、「条理学」の世界は、その意味において、「実在的
真理」の世界、すなわち、梅園にとっては、「条理的世界の構造」
の解明なのである。
・『玄語』の文章は、「ブラックホール」の美的画像とともに、世界一
「美しい」ものである。
・・・・・・・・・・・・・・・
「 美しきもの
世に美しきものを見る時
その背後にかくれて
目には触れない
より大いなる
限りなく大いなる
言ひがたく美しきものを
感ずべきではないか。 」
〔古村 達・著、詩集『美しき墓標』より、橄欖社、大正十一年、
江渡狄嶺の「 跋文『哀しむものは福なり』 」がある。古村 達
および狄嶺と古村 達との関係については、拙著『江渡狄嶺―
―「場」の思想家』(甲陽書房、1994)に詳述してある。〕
・・・・・・・・・・・・・・・
・▼「2」▽・「世界人類哲学の創始者」としての三浦梅園
――自然科学と人文学とを融合した「総合知」の提唱
・今日、地球環境と気候変動の危機は、極めて深刻である。単にエコ
ロジーを叫ぶだけの時代は、もはや終わった。世界中の人々が、
北欧・スウェーデンの一人の少女、グレタ・トゥンベリさんの訴え
を、真摯に受け止め、いかに実践的に問題の解決に向うことがで
きるのか、が問われているのである。
・そのために必要なのは、近代的な学問観を超えた、「自然科学」と
「人文学」(文学・社会科学を含む、広義の人文学。)とを 融合
したところの、江戸時代的な百科全書的「総合知」なのである。
・三浦梅園の「条理学」は、まさにその「総合知」の結晶であり、
良き見本市である。この「総合知」は、今日消滅の危機に瀕して
いると言われている「人文学」の新たなる可能性と再起動への
近道でもあろう。
・今日、我らに求められているのは、この「総合知」としての
「世界人類哲学」の創造である。そこに梅園の哲学は、大きく
貢献できるであろう。なぜなら、梅園こそが「世界人類哲学
の創始者」にほかならないからである。
・この「世界人類哲学」の詳細については、別稿にゆずることとした
いが、そのヒントの一つは、安藤昌益と三浦梅園を含んだ「人類の
知的遺産のすべて」に学んだ哲人・江渡狄嶺(えど・てきれい、
1880~1944)の哲学の中にある(拙著『場論的世界の構造――
江渡狄嶺の哲学』、エスコム出版、2012を参照のこと)。
・狄嶺は、梅園哲学から「使然」という用語を受容し、「場の哲学」
に応用している。狄嶺は、その「場論綜図」において、「使然場論」
(歴史場論)・「一般場論」(自然場論)・「世界場論」という三つ
の場論から、場論の「原理-場論的方円世界大系」を梅園と同様に
図解によって表現している(『場の研究――江渡狄嶺著作集・第一
巻』、平凡社、昭和三十三年)。このような図解による哲学思想の
表現形式は、梅園から狄嶺に至って極まったという感がある。
・江渡狄嶺の哲学が、英文の著書『 AGAINST HARMONY――
Progressive and Radical Buddhism in Modern Japan 』(James
Mark Shields、Oxford University Press、2017 ) において、拙著
『場論的世界の構造――江渡狄嶺の哲学』などから引用され、初
めて世界的に紹介されたことも ここに追記しておきたい。
・「人類哲学」の提唱と言えば、梅原猛の独壇場である(梅原『人類
哲学序説』、岩波新書、2013)。しかし、梅原の「人類哲学」は、
西洋科学の基盤としてのデカルトなどの西洋哲学を批判し、「草木
国土悉皆成仏」に結実しているところの日本文化の優位性・可能
性を主張するばかりである。
・私が敢えて「世界人類哲学」と、「人類哲学」に加えて「世界」の
文字を冠したのは、梅原のように西洋文明と日本文化とを、こと
さらに対峙させるのではなく、梅園の用語でいえば、「一」と「一」
の「反」(反観)の次元に止まるのではなく、さらにその上の次元
であるところの「一」(合一)を求めるからである。
・そして、西洋文明と日本文化の「境界」を超えて、「世界文化」と
いう高い「次元」に立つところの「世界人類哲学」を提唱したい
からである。その「世界人類哲学」を体現している人物たちが、
まさしく安藤昌益・三浦梅園・江渡狄嶺たちなのである。
・上記の意味において、三浦梅園の「条理学」の現代的意義には、今
なお、はかり知れないものがある。これが、我らが「条理学」を
探求するゆえんでもある。
・・・・・・・・・・・・・・・
・▼「3」▽・「三浦梅園生誕300年」に向けて
・私は、1977年の第二回の梅園学会から、梅園の探求を進めてきた。
その時の特別講演は、科学史家・矢島祐利と哲学者・古在由重
であった。それから、まもなく四十三年が過ぎようとしている。
しかし、 「少年 老い易く 学成り難し」 である。
・矢島先生は、科学史の先達であり、石原純の新短歌をも高く評価
し、私が『石原純全歌集』(ナテック、2005)を編纂するための基
礎をすでに築いていた人である。そして、古在先生は、私を安藤昌
益と三浦梅園へと導いていただいた大恩人であることは、今さら
言うまでもないことである。
・梅園学会も創立から四十五年の歳月において、多くの成果をあげ
てきたことは、言うを待たない。だが、「条理学」の山々は、今な
お高く聳え立っていて、未だ 我々の登攀を許さないような有様
である。
・だが、我々は、だだに 高き山のみを登る必要はないであろう。
熟年世代の者たちでも登れる山を 悠々と歩こうではないか。
・まもなく、水戸・偕楽園の梅の花も咲くであろう。何年もまえに
私は、偕楽園の梅の花を観ている時に、突然にひらめいたのであ
った。その梅の木の枝々が、どれもこれも等しく左右に分岐して
いるではないか。それは、梅園の「玄語図」と同様の形なのであっ
た。
これこそが、梅園をして条理学の成立へと向かわしめた、「着想の
起点」ではなかったかと。梅園は、書物からよりも「自然のありの
ままのすがた」から多くを学んだ人なのである。
「条(じょう)は もと木のゑだにして、理(り)は其のすぢ也。
是れを木に就ていふに、其の一本の身木(みき)根を有し、標
(こずえ)を有し、根には次第に根をわかち、標には次第に標を
わかつ。」(梅園「多賀墨卿君にこたふる書」より)
・「三浦梅園生誕300年」を三年後に控えて、私は梅園研究の原点
に回帰しつつ、少しでも できることをしてゆきたいと思う今日
この頃である。
・今回の「『先府君孿山先生行状』を読む」は、そのささやかな
再出発のための記念碑である。
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【追記】・・「宇宙船地球号」の舵を取る「世界人類哲学」へ
・本稿を脱稿した後、中国・武漢市を中心とするコロナウイルス
による感染症が、世界的規模に感染を拡大していると報告され
ている。
・もはや、世界人類の課題は、かつてのように一国の中だけで事
が収束する というような時代ではなくなっている。
・今こそ、「世界人類哲学」を基盤として、あらゆる問題の解決へと
向かわなければならない「地球人類の時代」なのである。
・人々は言うだろう。果たして哲学に何ができるのかと。しかし、
「世界人類哲学」は、これまでの「非実践的な」「観念論的な」
傾向の強い狭義の哲学ではない。それは、「人類の知的遺産の
すべて」に学ぶところのものであり、あらゆる知識・科学などを
総合した「総合知」からの「実践的」で「創造的」な「世界哲学」
なのである。
・現代の世界・地球は、一つの広大な「宇宙船地球号」である。
その「舵取り」をするものこそ、「世界人類哲学」の役割に
ほかならないといえるであろう。
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〔PHN(思想・人間・自然)、第46号、2020年1月28日、PHNの会発行〕
〔2020.1.28、和田耕作(C)、無断転載厳禁〕