info 31
最新号
謹 告
大量盗難事件について
・・・・・・・・・・・
・ PHNの会 「和田文庫」 において、2022年 春ころから 秋ころに
かけて、蔵書・研究資料群・著作データ・研究データなどの大量
盗難事件が発生いたしましたので、ここにお知らせいたします。
・ 長年にわたり蒐集してきた石原純の著作およびその関連資料群・
文献資料群などの、ほとんどが盗まれてしまいました。
〔和田耕作著『石原純』などの「石原純関連著作」において使用した
膨大な資料群である。『石原純』巻末の文献一覧などを参照下さい〕
・ 本誌「PHN」の第26号から第45号の安藤昌益関連論考などに
使用した、安藤昌益関連文献および東洋医学・漢方関連文献、
その他などもことごとく、盗難にあってしまいました。
・ 多くの蔵書などには、「購入日付」および「耕作」というサイン
があります。古書店などで、そのような書物を見かけた際には、
お手数ですが、下記のメールアドレスに、ご一報いただきたく
お願い申し上げます。
2023年5月 PHNの会「和田文庫」
・ 「PHNの会」のメールアドレスは、下記のとおりです。
hetiangengzuo@gmail.com
・・・・・・・・・・・
・【日本国憲法施行76周年記念】
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【 追悼 ・ノーベル文学賞作家・大江健三郎 〔メモランダム風に〕 】
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 作家・大江健三郎 と 思想家・丸山真男
――「 戦後民主主義 」の両雄 と 現代
――大江健三郎の「近代史区分」論に学ぶ
――内村鑑三の『非戦』論に学んだ二人
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 自分を歴史に近づける 」ための
「 和田耕作の方法 」についての素描
・・・・・・・・・・・・・・・・・
和田耕作
・・・ ➡➡ 以下、 「 本文 」 は 本 サイトの トップページ から
「 大江健三郎 」 の項目を 参照して下さい。 ・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「日本国憲法施行75周年・沖縄復帰50周年記念」
・2022年:ロシアによるウクライナ侵攻のさなかに考える
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日本初のノーベル賞 物理学者・湯川秀樹 没後40年記念
・『湯川秀樹自選集』刊行50年記念
・「今、〈湯川秀樹を読む〉ということの意味」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
――理論物理学者の「創造的世界」、その軌跡を辿る
――【その二】・・・
――「終戦からノーベル物理学賞授賞(1949)、そして
国際理論物理学会議(1953、京都)まで」
和田耕作
・・・ ➡➡ 以下、 「 本文 」 は 本 サイトの トップページ から
「 湯川秀樹 」 の項目を 参照して下さい。 ・・・・・
――理論物理学者の「創造的世界」、その軌跡を辿る
――【その一】・・「京大卒業から終戦まで」
和田耕作
・・・ ➡➡ 以下、 「 本文 」 は 本 サイトの トップページ から
「 湯川秀樹 」 の項目を 参照して下さい。 ・・・・・
【 人文的数学者・小倉金之助とその周辺 】
・日本科学史学会 初代会長
・科学史・科学哲学 研究の先駆者
・ 物理学者 ・ 桑木彧雄の 「経歴」 と その 「業績」
―― 「年譜」 による考証と考察
―― 【そのニ】 ――
和田耕作
・・・ ➡➡ 以下、 「 本文 」 は 本 サイトの トップページ から
「 桑木彧雄 」 の項目を 参照して下さい。 ・・・・・
・「 PHN (思想・人間・自然) 」 第50号記念 特別号
・ 江渡狄嶺 「場論研究会」 発足80年記念
・ 江渡狄嶺 著 「 農乗家黌・牛欄寮 講義案農乗図録を出すについて 」
〔影印版〕
・ 「 二宮尊徳 ・ 安藤昌益 にデジケート 」 した論考
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【 はじめに 】
・〈場〉の思想家・江渡狄嶺(1880~1944)が、「場論研究会」を始
めたのは、昭和16年6月のことである。その年の12月には、
太平洋戦争がはじまる。したがって、今年〔2021年〕は、太平洋
戦争開戦80年であると同時に、狄嶺の「場論研究会」の発足80年
のとしにあたる。
・その戦乱のさなかに、狄嶺は「場論研究会」を3年間にわたって
おこなっている。その内容は、『場の研究』(江渡狄嶺著作集、第一
巻、昭和33年刊)に収録されている。しかし、その難解を極める
ところの『場の研究』の解読作業は、狄嶺の直弟子たちも困るほど
のものであることは、夙に知られている。
・狄嶺の『場の研究』を、理解するための糸口は、狄嶺の第三著作
『地涌のすがた』(青年書房、昭和14年刊)の中にある。
・しかし、今日、その『地涌のすがた』も極めて入手が困難である。
そこで、このたび、この中の論考である「講義案農乗図録を出すに
ついて」(安藤昌益にデジケートした論考)の「影印復刻版」を
作成し、江湖に公開することにした次第である。
・なお、「講義案農乗図録を出すについて」を読むための参考文献
としては、拙著『場論的世界の構造―江渡狄嶺の哲学』の「第一
章 『百姓はかく考える』―『行』と『場』の思想の確立」を
参照願いたい。
2021年12月25日 和田耕作
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・安藤昌益の稿本『自然真営道』が狩野亨吉の手に渡る前に、
一時 所蔵していた「天正堂内田氏」の蔵書印のある書物
の紹介、およびそれらの書物の内容的傾向(読書傾向)
からみえる「天正堂内田氏」という人物についての考察
――矢内信悟論文へのいくつかの「新発見」の書物の補遺と
「天正堂内田氏」という人物についての推論
――「天正堂内田氏」は、「芦田氏」〔「依田氏」〕の一族と密接な
関係がある人である。
――「天正堂内田氏」は、梅辻規清の「烏伝神道」の関係者である。
――その他「天正堂」という名に関連すると思われる書物・人物・
出版社などについて
和田 耕作
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〔目次〕・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈1〉・はじめに
・〈2〉・安藤昌益の稿本『自然真営道』〔東京大学総合図書館蔵本〕
にある「天正堂内田氏」の蔵書印について
・〈3〉・明治大学図書館『蘆田文庫』の中で「天正堂内田氏蔵書印」
のある資料〔▼〕について
・〈4〉・京都大学文学研究科図書館「内田〔銀蔵〕文庫」の蔵書に
ある「蔵書印」について
・〈5〉・早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
〔▼〕について
・〈6〉・宮内庁書陵部の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
〔▼〕について
・〈7〉・愛媛大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
〔▼〕について
・〈8〉・九州大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・〈9〉・国立国会図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・〈10〉・東京大学大学院人文科学研究科・文学部図書室〔旧神道
研究室旧蔵書〕の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・〈11〉・早稲田大学図書館の「天正堂蔵書」印がある蔵書「■」
について
・〈12〉・明治大学図書館「蘆田文庫」の「天正堂蔵書」の印がある
蔵書〔■〕について
・〈13〉・明治大学図書館「蘆田文庫」の「内田蔵書」の印がある
蔵書〔◎〕について
・〈14〉・早稲田大学図書館で「内田氏蔵本」印・「内田慎吾之印」
がある蔵書〔▽〕について
・〈15〉・明治・大正・昭和期の「天正堂」という出版社などについて
・〈16〉・むすび
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・このたび〔2021年7月〕、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」
の矢内信悟氏がこれまでに執筆した論考を、以下の2冊の本とし
てまとめて同時に刊行した〔「私家版」〕。
・〔Ⅰ〕「 安藤昌益から橋本玄益、師岡一族・幸徳秋水へ
――江戸から明治期の思想史の再検証を問う―― 」
・〔Ⅱ〕「 安藤昌益から佐藤元萇・森鷗外へ
――千住に生き・継ぐ知の連鎖―― 」
・私は、〔Ⅰ〕の中の「附録」の最初の論考
「 渡辺大涛は、真実を語っているのか?
――続々と出てくる天正堂内田氏蔵書印、現時点での天正堂
=〔内田〕銀蔵説には根拠がない―― 」
を興味深く読んだ。
・しかし、蔵書印などの「写真」類が、まったく収載されていなのが
少しく残念に思った。そこで、それらのいくつかの書物などがネッ
ト上に紹介されていることがわかったので、その中のいくつかを
ここにまとめて収載し、安藤昌益の関連研究のための参考に供す
ることにした。
・それらの「写真」類をたやすく掲載できるのがネットの利点である。
しかし、著作権法に違反しない範囲での「引用」となるように、
画像はなるべく「印章の部分のみ」の局部的なものとし、それぞれ
に出典を明記した。
・特に、早稲田大学図書館には、「内田銀蔵旧蔵」の書物が多く所蔵
されており、かつ「天正堂内田氏」の旧蔵書も最も多い。その中で
ネット上に公開されているものを中心に紹介したい。
・さらに調査を進めると、矢内氏が紹介していない書物もいくつか
見つけることができたので、これについても紹介する。
・そして、「天正堂内田氏」の旧蔵書の内容的傾向(読書傾向)を
「天正堂内田氏」という人物が何者であるか、という考察につなが
るものである〔後述する【考察】の項などを参照のこと〕。
・矢内氏も述べているように、「天正堂内田氏」と「内田銀蔵」との
同一性には根拠がなく、別人と考えられる。
・さらに、明治・大正・昭和期に「天正堂」などを名乗っていた出版社
などについても考察したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈2〉・ 安藤昌益の稿本『自然真営道』〔東京大学総合図書館蔵本〕
にある「天正堂内田氏」の蔵書印について
・最初に、稿本『自然真営道』〔東京大学総合図書館蔵本〕にある
「天正堂内田氏」の「蔵書印」を示す。この「天正堂内田氏」とは
いかなる人物なのかが、未だに不明なのである。その「天正堂内田
氏」と云う人物の探究が本稿の目標となるであろう。
・【写真A】
・【写真A】の上部から ①~④
〔稿本『自然真営道』 (東京大学総合図書館蔵本) 「大序巻」の巻頭部分より〕
〔矢内氏は実物を確認済。以下、寸法などは矢内信悟氏の記述による。〕
・[印番号]・①・「門外不出天正堂珍蔵」
・(タテ37mm×ヨコ37mm)〔以下の表記は、これに準ずる。〕
・[印番号]・②・「極秘」・(20mm×20 mm)
・[印番号]・③・「内田文庫」・(56mm×23
mm)〔変形型〕
・[印番号]・④・「天正堂内田氏蔵書印」(37mm×37 mm)
・〔以下に記述する太丸数字「①・②」などは、「印章」の番号である。〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈3〉・ 明治大学図書館『蘆田文庫』の中で「天正堂内田氏蔵書印」
のある資料〔▼〕について
・矢内氏は、明治大学図書館『蘆田〔伊人〕文庫』から、「天正堂内田
氏蔵書印」のある以下の3点の資料を見つけている。
・▼・(1)・上総国與地全図・・・「⑤・④」
・▼・(2)・上総国與地全図・・・「⑤・④」
・▼・(3)・意宇郡松江白潟之図・・・「⑤・④」
・[印番号]・⑤・「内田文庫」・(43mm×42 mm)
・〔③とは異なるもの。〕
・[印番号]・④・「天正堂内田氏蔵書印」(37mm×37 mm)
・【写真B】・・・・⑤・
〔内田文庫〕
・〔蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』、
2004年3月、明治大学人文科学研究所発行、より〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈4〉・ 京都大学文学研究科図書館「内田〔銀蔵〕文庫」の蔵書
にある「蔵書印」について
・[印番号]・⑥・「内田氏所蔵図書之印〔記〕」(30mm×30 mm)
・[印番号]・⑦・「内田」(13mm×9 mm)・・・〔認印〕
・〔「⑥」は、矢内氏の記述では「印」とあるが、「記」が正しい。〕
・これは、内田銀蔵の没後に、早稲田大学図書館に遺族・内田糸子か
ら寄贈された図書にあるものと同様のものである。
・内田銀蔵の蔵書の多くは早稲田大学図書館に寄贈されているため、
京都大学文学研究科図書館の「内田〔銀蔵〕文庫」には、それほど
多くあることはないと思われる。
・矢内氏のいうように、「天正堂内田氏蔵書印」と「内田氏所蔵図書
之記」(内田銀蔵旧蔵書)との印は別物であり、接点は確認できな
い。すなわち、「天正堂内田氏」は、「内田銀蔵」ではないと考えら
れる。
・ちなみに、早稲田大学図書館でネット上に公開されている中に、
・⑥・「内田氏所蔵図書之記」〔内田銀蔵の旧蔵書〕
の印が押されているものは、66点ほどある。
⑦・「内田」 〔認印〕
⑥・「内田氏所蔵図書之記」 (内田糸子印の上)
〔早稲田大学図書館「内田銀蔵」の旧蔵書から〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【写真C-②】・・・・「⑥」
〔 ⑥・「内田氏所蔵図書之記」 〕
〔早稲田大学図書館「内田銀蔵」の旧蔵書、梅文鼎『暦算全書』から〕
〔国文学研究資料館公開による「蔵書印」からの画像〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈5〉・早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
〔▼〕について
〔早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」〕
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある〔矢内氏の記述による〕。
・・・「⑧・⑤・④」
・▼・(A-3)・古暦便覧(吉田光由編)・・・「⑤・④」
・▼・(A-4)・周南先生文集 六冊 ・・・「⑤・④」
・山県周南(1687~1752)著。名は「孝孺」、字は「次公」、
号は「周南」。萩藩校「明倫館」学頭。荻生徂徠に師事。
・〔「松平蔵書」の丸印あり。「松平康国旧蔵書」〕
・「松平康国」については、【考察1】【考察6】を参照のこと。
・▼・(A-5)・易蘇象系普〔内題:日東周易蘇卦爻象系普〕
・・・「⑧・④・③」
・高松貝陵〔芳孫〕著〔自筆草稿、弘化4年〕
〔参考:弘化4年の刊本あり。〕
・樺島石梁(1754~1827)。名は「公礼」、字は「世儀」、
号は「石梁・万年」。久留米藩校「明善堂」教授。
・〔「松平蔵書」の丸印あり。「松平康国旧蔵書」〕
・「松平康国」については、【考察1】【考察6】を参照のこと。
・▼・(A-8)・鹿鳴吟社集・・・「④・③」
・▼・(A-9)・古印屏風・・・「⑤・④」
・【考察1】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈5-A〉の9点の中に[印番号]・⑧・「秘」の印があるものが、
4点みられる。これは「①」の「門外不出」や「②」の「極秘」
よりは、軽いが「天正堂内田氏」にとっては、重要な書物であった
のであろう。これには、何らかの理由があるものと思われる。
・「(A-5)・易蘇象系普〔内題:日東周易蘇卦爻象系普〕」は、
易学者・高松貝陵(ばいりょう)(1782~1861)の著作である。
・名は「芳孫」、号は「貝陵」「易蘇堂」。
・「系普」は「系譜」に同じ。
・「(A-7)・石梁文集」は、「松平康国旧蔵書」は、このほかにも
「村石文庫」「天正堂蔵書」の印のあるものが、同じく早稲田大学
図書館から見つかっている〔【後出】〈11〉の(11-1)参照〕。
・【後出】〈11〉の(11-1)・熊耳先生文集.正編・・・「⑨」
・詩文家・大内熊耳の文集である。
・松平康国旧蔵(「松平蔵書」の印あり)
・松平康国は、漢学者。早稲田大学名誉教授。無窮会
東洋文化研究所教頭。1863~1946。
・名は「康国」、字は「子寛」、号は「天行・破天荒斎」
・松平康国は、内田銀蔵と早稲田大学での同僚であった。
・「天正堂内田氏」と「村石文庫」「天正堂蔵書」の「天正堂」との
関連については不明である。
・松平康国の旧蔵書ではないが、「村石文庫」「天正堂蔵書」の印のあ
るもう一つの書物については、後述の「〈11〉・早稲田大学図書館の
「天正堂蔵書」印がある蔵書について」を参照されたい。
・ちなみに、早稲田大学図書館に「松平康国旧蔵書」は、161点ほど
ある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈5-B〉・和田耕作が確認したものは、以下の4点である。
〔早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」〕
・〔ネット上に公開されている現物資料による確認。〕
・▼・(B-1)・芦田記・・・・「⑧・⑤・④」
・『芦田記』(依田記)は、「依田康勝」後の「加藤宗月」
(加藤康寛、1574~1653)の撰による。
・『芦田記』(依田記)は、「戦国武将の芦田氏三代」の記録
である〔【考察3】を参照〕。
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。ただし、後からの4丁
分については、「柱刻」のない用紙が使用されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
にも、同様の「柱刻」がある。
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・【後出】の愛媛大学図書館蔵〈7〉(7-1)・蟻の念〔梅辻
〔賀茂〕規清著〕・・・「⑧・⑤・④」にも同様の「柱刻」
がある。
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・(B-2)・寛永諸家系図伝.28「依田之部」・・・「⑧・④・⑤」
・【写真D】・[印番号]・⑧・「秘」〔上から「⑧・④・⑤」〕
・〔早稲田大学図書館蔵 『寛永諸家系図伝.28「依田之部」』 より〕
・▼・(B-3)・甲信両国信玄衆誓詞・・・「⑧・⑤・④」
・▼・(B-4)・白虎通徳論.1-4巻・・・「④・③」
・「菊池晩香旧蔵書」。
・菊池晩香(1859~1923)、名は武貞、字は仲幹、通称
は三九郎、号は玉渓・晩香。早稲田大学教授。
・【考察2】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ここに〔〈5-B〉〕新たに見つかった4点の中も、[印番号]
「⑧・〔秘〕」のある書物が3点ある。それに、後述の愛媛大学図書
館蔵〈7〉(7-1)・『蟻の念』を加えると4点になる。
・特に「(B-1)・芦田記」と〈7〉(7-1)『蟻の念』にある
「天正堂讀我書屋蔵」という「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕
のある書物が2点確認されたことは重要である。
・すでに、矢内氏が確認している「(A-1)・武蔵国郡郷帖」を加え
ると3点になる。
・それは「天正堂内田氏」という人物が、並の人物ではないことを示
している。あるテーマを持って書物を購入〔筆写〕しているものと
みられるからである。
・そのテーマのひとつが【考察3】の「芦田氏」〔「依田氏」〕系図と
その一族へのこだわりである[テーマ<1>]。
・【考察3】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[ テーマ <1> ]についての考察・
・▼・「天正堂内田氏」が、「芦田氏」〔「依田氏」〕系図とその一族
の歴史にこだわるのがなぜか。
「天正堂内田氏」は、「芦田氏」の一族と密接な関係にある人物
と思われる。 ・▼・
・このたび、「(B-1)・芦田記」と「(B-2)・寛永諸家系図伝.28
「依田之部」」の2冊の「本文」の「筆跡」を比較したところ、
同一の人物による「筆写」であることが判明した。3つの印も
「⑧・⑤・④」であり、同一である。
・この「(B-1)・芦田記」と「(B-2)・寛永諸家系図伝.28
「依田之部」の2冊には、さらに内容的にも大きな共通点が確認
された。すなわち、ともに「芦田氏」〔「依田氏」〕の系図にかかわ
る内容であることが判明した。また、「(B-3)・甲信両国信玄衆
誓詞」も、「芦田氏」〔「依田氏」〕の関連文献である〔後述、参照〕。
・以下に、「芦田氏」〔「依田氏」〕に関連すると思われる「天正堂
内田氏」の旧蔵書一覧を示す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」】
・1)▼・(A-1)・武蔵国郡郷帖 二分冊・・・「⑧「秘」・⑤・④」
・2)・▼・(A-2)・武蔵国郡郷庄領志 上・下 二冊
・・・「⑧「秘」・⑤・④」
・3)・▼・(B-1)・芦田記・・・・「⑧「秘」・⑤・④」
・4)・▼・(B-2)・寛永諸家系図伝.28「依田之部」
・・・「⑧「秘」・④・⑤」
・5)・▼・(B-3)・甲信両国信玄衆誓詞・・・「⑧「秘」・⑤・④」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・これら5点には、すべて同じ印が押されており、すべてに
「⑧〔「秘」〕」の印がある。ここに、私は「天正堂内田氏」の
「芦田氏」〔「依田氏」〕系図とその一族への強いこだわりを見る
ことができると思う。
・このように「天正堂内田氏」が、「芦田氏」〔「依田氏」〕系図とその
一族の歴史にこだわるのはなぜなのか。それは、「天正堂内田氏」
という人物が、「芦田氏」〔「依田氏」〕の一族と密接な関係があるか
らではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・以下に、『芦田記』に基づいた「芦田氏」の歴史を見てみよう。
・『芦田記』(依田記)は、戦国武将「依田康勝」、後の「加藤宗月」
(加藤康寛、1574~1653)の撰による「戦国武将の芦田氏三代」
の記録である。
・芦田氏は、東信地方に多い依田氏の一族で、木曾義仲に依田城下の
館を提供し、その旗挙げを支えた依田為実の子孫である。
・戦国時代の芦田氏三代とは、「芦田下野守信守」、信守の子「依田
(芦田)右衛門佐信蕃(のぶしげ)」、信蕃の長男「松平修理太夫
康国」、信蕃の次男「松平右衛門太夫康真(加藤宗月)」である。
・「芦田下野守信守」は、武田信玄の家臣として活躍する。
〔「(B-3)・甲信両国信玄衆誓詞」は、その関連史料であろう。〕
・「依田(芦田)右衛門佐信蕃」は、武田家滅亡後に、徳川家康の家
臣として活躍し、小諸城主となる。本拠地は、信州佐久郡春日郷な
どである。しかし、「芦田氏」ゆかりの地は、今日の群馬県・山梨
県・静岡県・福井県など広範囲に及んでいる。
・「松平修理太夫康国」もまた、小諸城主となる。
・「松平右衛門太夫康真(加藤宗月)」は、越前福井藩の城代家老とな
る。福井における芦田氏墳墓は「總光寺」にある。
・明治以降「松平康真」の子孫は、信州・芦田村へ帰村した。
・「芦田氏」の歴史の中に、直接「天正堂内田氏」に結びつくものは
ない。しかし、「天正堂内田氏」という人物が、「芦田氏」〔「依田氏」〕
の一族であるという可能性も否定できないように思われる。
・a)市村到著『戦国三代の記――真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃と
その一族』(2016年9月、悠光堂刊)
・巻末に『蘆田記(依田記)』(原文)を収録。
・b)市村到著『戦国三代と天下人――芦田(依田)氏の軌跡から』
(2020年7月、悠光堂刊)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〔▼〕について
・宮内庁書陵部の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書については、
すでに下記の1点を矢内氏が紹介している。
・▼・(6-1)・瑞烏園著述集・・・「⑧・⑤・④」
・瑞烏園とは、神道思想家・梅辻(賀茂)規清の居宅(江戸下谷池之
端)の名である。梅辻は、烏伝(うでん)神道の開祖として知られ
ている。
・これと同様の印〔「⑧・⑤・④」〕のある梅辻(賀茂)規清の著作
『蟻の念』が愛媛大学図書館にあることが判明したので、次項の
〈7〉に示す。
・「天正堂内田氏」と烏伝神道との関係が、[テーマ<2>]である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〔▼〕について
・このたび愛媛大学図書館の「鈴鹿文庫」から「天正堂内田氏蔵書印」
のある蔵書が和田耕作により1点〔「蟻の念」梅辻規清著〕が確認
された。
・愛媛大学図書館の「書誌データ」による確認であるが、国文学研究
資料館のデータベースには、蔵書印のあるページの画像が公開さ
れているので、それからの画像を示す〔【写真E-①~③】〕。
・▼・(7-1)・蟻の念〔梅辻〔賀茂〕規清著〕・・・「⑧・⑤・④」
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・これには、早稲田大学蔵書の前出〔〈5〉の(B-1)・芦田記〕と
同様の印と「柱刻」がある。つまり、「(B-1)・芦田記」の筆記者
〔もしくは筆記依頼者〕と「(7-1)・蟻の念」の筆記者〔もしく
は筆記依頼者〕が同一人である可能性が高いということである。
・この『蟻の念』は、梅辻規清が当時の寺社奉行・松平伊賀守忠固
〔後の老中、上田藩(藤井松平家)藩主〕に奉じた建白書である。
したがって、直接「烏伝神道」に関する内容の書物ではない。
・主に印旛沼開鑿事業に、江戸の貧民たちを従事させれば、江戸の
治安を改善できるなどと論じている。そして、江戸の風俗・治安の
改善などを「分限者」(財産家)たちにさせてはどうかというもの
である。
・また、神道を中心とした国学の再興策(学校の設立など)について
も述べているものである。
・瀧本誠一編纂『日本経済大典』第33巻(昭和4年、啓明社刊)
には、梅辻規清の『斎庭の穂』『蟻の念』2著が収録されている。
参考までに、この「解題」からその「略伝」の一部を引いておこう。
「梅辻飛騨守、名は規清、対翁と号す。三午翁等の別号あり。世々上賀茂
の社人にして、文化十年従五位に進む。規清 平生 心を神道、国学、天文、
暦数の学に用ひ、好んで諸国を遊歴して、万物の神秘を研究し、傍ら神道
教法の事に従事し、又常に勤王開国の志を抱き、曾て神祗官再興、国学
復興、海防策、沼池開発、河底浚、防火線、金融、貧民救助、無頼漢放逐、
植物農業、米相場等の数目を挙げて、専ら経済に関する事を論究細記して
十冊となし、之を時の執政に献策する所ありと云ふ。」〔『日本経済大典』
第33巻、解題、pp18~19〕
・この「解題」では、特に梅辻規清の実学的側面が強調されているよ
うに思われる。
・さらに、梅辻規清の影響力についての記述をみてみよう。
「弘化年中、江戸に移つて、家を下谷池の端に定め、端鳥園〔瑞烏園〕と
号して、之を神道教法の本社とし、又別に中橋及京橋に二箇所の支社を置き
て、講筵を開き、民庶を教導せり、幾もなくして、教法大に広り、門弟信徒、
盛に集りて、其の数実に何千人を以て算し、百五十余名の諸侯を始め、其の
他学者神官、諸士、剣客、力士、農商工、落語家、俳優等到らざる者なく、
会堂日夜、鐸声絶えず、履屐常に戸外に溢る。此に於て遂に幕府の忌諱
〔きき、国の禁令〕に触れて、獄中に投ぜられ、糾問数月の後、八丈島に配
流せられる。規清配所に在て、益々其の志 固くし、島民を教育するの旁ら、
教書一百巻を著はす。居ること十四年、年六十四にして、島中に歿せり。
実に文久元年七月なりと云ふ。〔『日本経済大典』第33巻、解題、pp19~20〕
・「教書一百巻」とは、少しく強調しているものと思われるが、その
影響力の大きさには、目を見張るものがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【前出】の矢内氏確認の早大本
・〈5〉の「(A-1)・武蔵国郡郷帖」・・・「⑧・⑤・④」
にも、同様の印と「柱刻」がある。
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・【前出】・〈5〉の「(B-1)・芦田記」・・・「⑧・⑤・④」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【写真E-①】・・・「⑧・⑤・④」、および「柱刻」
・「国文学研究資料館のデータベースからの画像〔表紙の次の頁〕
・〔愛媛大学図書館「鈴鹿文庫」蔵〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【写真E-②】・・・『蟻の念』の「柱刻」
・「国文学研究資料館のデータベースからの画像」 〔本文最初の頁の小印の文字は「愚山」〕
・〔愛媛大学図書館「鈴鹿文庫」蔵〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【写真E-③】・・・『蟻の念』の「表紙」
・〔表紙にも 「秘」の印 があるのは、 この書物と
国立国会図書館蔵の『唯一神道棟上式巻』
のみである。〕
・「国文学研究資料館のデータベースからの画像」
・〔愛媛大学図書館「鈴鹿文庫」蔵〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈8〉・ 九州大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・このたび九州大学図書館から「天正堂内田氏蔵書印」のある蔵書が
和田耕作により1点〔『二酉洞』(一色時棟編録)〕確認された。
・「書誌データ」による確認であるが、「蔵書印」のあるページの部分
的画像のみが九州大学図書館のホームページに公開されている
〔【写真F参照〕。
・▼・(8-1)・二酉洞〔一色時棟編録〕・・・「④・③」
・〔別題:「類書目録」〕
・【写真F】・・「④・③」 〔上の印が③、下の印が④〕
・〔九州大学図書館蔵『二酉洞』より〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈9〉・ 国立国会図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈9-A〉・矢内氏の確認済みのものは、以下の7点である。
・〔国立国会図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・(9A-1)・本辞秘鈔〔藤原長良著〕・・・「①・②・⑤・④」
・【追加の写真】・〔追補、2021.12.1〕
・〔国立国会図書館蔵の
『本辞秘鈔』、「目録」より〕
・▼・(9A-2)・唯一神道棟上式巻〔写本〕・・・「⑧・⑤・④」
・表紙にも 「秘」の印 がある。
・【追加の写真】・〔追補、2021.12.1〕
・〔国立国会図書館蔵の
『唯一神道棟上式巻』の「表紙」より〕
・▼・(9A-3)・家相畧記・・・「①・②・⑤・④」
・▼・(9A-4)・日本書紀暦考〔保井春海著〕・・・「⑧・⑤・④」
・「陰陽寮」の印あり。
・天文学で知られている渋川春海の著作である。
・▼・(9A-5)・素餐録〔尾藤二洲著〕・・・「⑤・④」
・▼・(9A-6)・朝鮮交渉事件録(7巻、7冊)
〔宮内省の銘入り罫紙に筆写〕・・・「⑧・⑤・④」
・〔「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕に「宮内省」
とあるのであろう。
・▼・(9A-7)・皇国之言霊〔源国雄著〕・・・「③・④」
・林国雄(1758~1819)著。
・国学を本居宣長・平田篤胤に学ぶ。
・「亀田文庫」本。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【考察4】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・まず、「(9A-1)・本辞秘鈔」と「(9A-3)・家相畧記」の2
点に「①〔門外不出〕」と「②〔極秘〕」の印があることに注目した
い。これらは、「天正堂内田氏」にとっては、稿本『自然真営道』
と「同格の扱い」と思われるからである。
・このようないわば「特別扱い」は、何を意味するのであろうか。
考察に値するであろう。
・「(9A-1)・本辞秘鈔」は、この国会図書館の写本と東京大学
にある明治期の写本の2点だけしか確認されていない。希少価値
としては、極めて高い。また「偽書」との記述もみられるものであ
る。
・次に、「(9A-2)・唯一神道棟上式巻」、「(9A-4)・日本書紀暦
考」、「(9A-6)・朝鮮交渉事件録」の3点に「⑧」〔秘〕の印があ
ることも重要である。これにも、何かの理由があるだろう。
・「(9A-2)・唯一神道棟上式巻」という書物は、この国会図書館
本だけしかない。やはり希少価値がある。
・「(9A-6)・朝鮮交渉事件録」については、矢内氏が「極秘資料」
と思われるこの文書を、どうして「天正堂内田氏」が入手できたの
か、と疑問を投げかけている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈9-B〉・和田耕作が国立国会図書館の「書誌データ」に
よって新たに確認したのは、以下の2点である。
・〔国立国会図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・(9B-1)・家相秘書〔写本〕・・・「⑤[③?]・④」
・▼・(9B-2)・陰陽外伝磐戸開(巻3~10)
・賀茂〔梅辻〕規清著、全天齊主人・写(明治28年春)〕
・・・「⑧・⑤[③?]・④」
井上勝五郎により活字本が刊行されている。〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・なお、「書誌データ」による確認では、「内田文庫」とある記述が、
「③」の「内田文庫」なのか、「⑤」の「内田文庫」なのかが判別で
きない。しかし、上記の例〔〈9-A〉の矢内氏の確認済みのもの〕
の中では、「③」が少ないことを考慮して、和田の推測により
「⑤」と判断した。なお、「③」の可能性も排除できないことか
・現物での確認ができたときには、訂正する予定である。
・【考察5】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[ テーマ <2> ]についての考察・
・▼・「天正堂内田氏」と梅辻規清の「烏伝神道」との深い関わり
についての考察 ・▼
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「天正堂内田氏」に関連する賀茂〔梅辻〕規清の著作は、すでに
以下の2点が確認されている。
・「宮内庁書陵部蔵」・
・▼・(6-1)・瑞烏園著述集・・・「⑧・⑤・④」
・「愛媛大学図書館蔵」・
・▼・(7-1)・蟻の念〔梅辻〔賀茂〕規清著〕
・・・「⑧・⑤・④」
・「柱刻」〔原稿用紙の左右中央部分の文字〕には、「朱文字」
で「天正堂讀我書屋蔵」とある。
・『蟻の念』については、前述を参照のこと。
・上記のとおり、3点目〔国立国会図書館蔵〕の規清の著作が見つ
かった。
・▼・(9B-2)・陰陽外伝磐戸開(巻3~10)
・賀茂〔梅辻〕規清著、全天齊主人・写(明治28年春)〕
・・・「⑧・⑤[③?]・④」
・〔参考:『陰陽外伝磐戸開』は、明治24年1月、
井上勝五郎により活字本が刊行されている。〕
・「天正堂内田氏」という人物は、賀茂〔梅辻〕規清の「烏伝(う
でん)神道」と深い関わりがありそうである。
・上記の3点に、「⑧」〔「秘」〕の印があるのはなぜか。その理由は、
「梅辻規清」の生涯と「烏伝神道」の歴史の中にあった。
・東京都の「文化財情報データベース」では、八丈島にある
「梅辻規清墓」について、次のように解説している。
・「解説:賀茂〔梅辻〕規清は、江戸時代末期の神道思想家で烏伝(うでん)
神道の開祖です。寛政10(1798)年、山城上賀茂神社の社家に生まれまし
た。神学、国学、天文、暦数に精通し、陽明学、禅学などの知識も豊富に
もっていました。また好んで諸国を遍歴しました。この遍歴における宗教体
験と神道信仰、さらに陽明学、禅学の思想を採り入れて確立したのが烏伝神
道です。
弘化3(1846)年、江戸下谷池の端仲町に居を構え、ここを瑞烏園と名づけ
て神道教法の本社として広く庶民を教化しました。門弟信者数は数千人に
及んだといいます。幕府はその活発な布教活動を恐れて規清を投獄、弘化4
(1847)年、八丈島に配流しました。
規清は、中之郷の山下鎗十郎宅に寓して100冊もの教書を著したといわれ、
島民の子弟の教育にも尽力しました。文久元(12861)年7月21日、64歳
で没しました。
著書に、『日本書紀常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)』、『烏伝神道大意』、
『陰陽外伝磐戸開』、『根国史内篇』、『古事記鰐廼鈴形(わにのすずがた)』
などがあります。・・」〔「東京都文化財情報データベース」より〕
・このように、「烏伝神道」は幕府からは弾圧されていた経緯があり、
明治時代になっても、おそらく大っぴらにできるような状況には
なかったものと思われる。したがって、「天正堂内田氏」が、これ
らの書物を「秘物」扱いとする理由は、十二分にあったのである。
・菅田正昭の『古神道とエコロジー』によると、梅辻規清が得意とす
る領域は、「神道・国学・霊学・易学・天文学・数学・都市工学・
建築学・経済学・農学・博物学・医学・薬学・教育学・・・等々と、
その守備範囲はじつに広い。」〔菅田正昭『古神道とエコロジー――
梅辻規清とその霊的系譜』、1997、たちばな出版、p35〕という。
・このような「烏伝神道」の知的背景を認識して、あらためて「天正
堂内田氏」の旧蔵書群を見てみると、上記の3点以外にもそれらの
領域に関連する文献と思われる多くの書物があるようである。
・以下に、それらをまとめて示してみよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」】
・1)▼・(A-3)・古暦便覧(吉田光由編)・・・「⑤・④」
・2)▼・(A-5)・易蘇象系普〔内題:日東周易蘇卦爻象系普〕
・・・「⑧〔「秘」〕・④・③」
・高松貝陵〔芳孫〕著〔占法家〕〔参考:弘化4年の刊本あり。〕
・3)▼・(A-6)・暦略註・・・「⑧〔「秘」〕・⑤・④」
・【国立国会図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」】
・4)▼・(9A-2)・唯一神道棟上式巻〔写本〕
・・・「⑧〔「秘」〕・⑤・④」
・5)▼・(9A-3)・家相畧記
・・・「①〔「門外不出」〕・②〔「極秘」〕・⑤・④」
・6)▼・(9A-4)・日本書紀暦考〔保井春海著〕
・・・「⑧〔「秘」〕・⑤・④」
・7)▼・(9A-7)・皇国之言霊〔源国雄著〕・・・「③・④」
・8)▼・(9B-1)・家相秘書〔写本〕・・・「⑤[③?]・④」
・【東京大学大学院人文科学研究科・文学部図書室〔旧神道研究室旧蔵書〕
の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」】
・9)▼・(10-1)・日本書紀神道索隠(存1巻)
・・・「⑧〔「秘」〕・⑤[③?]・④」〔写本、存巻:乾〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・前記の梅辻規清の著作3点に、これら9点の著作を加えると、
なんと12点の著作群が、「烏伝神道」の関連領域の書物である。
このうちの1点に「①〔「門外不出」〕・②〔「極秘」〕」の印
〔(9A-3)・家相畧記〕、8〔5+3(規清の著作)〕点に「⑧〔「秘」〕」
の印がある。
・このように、「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」の多くが
梅辻規清の「烏伝神道」に関連した領域の書物である可能性を考え
ると、「天正堂内田氏」は、「烏伝神道」に関係のある人物であると
推察することができるであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈10〉・ 東京大学大学院人文科学研究科・文学部図書室〔旧神道
究室旧蔵書〕の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書
「▼」について
・このたび東京大学大学院人文科学研究科・文学部図書室〔旧神道
研究室旧蔵書〕から「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書1点が和田
耕作により確認された〔書誌データによる。〕。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・(10-1)・日本書紀神道索隠(存1巻)
・・・「⑧・⑤[③?]・④」
・〔写本、存巻:乾〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈11〉・ 早稲田大学図書館の「天正堂蔵書」印がある蔵書「■」
について
・このたび、新たに早稲田大学図書館で「天正堂蔵書」印のある書物
が2点見つかった。この「天正堂蔵書」印は、矢内氏の論考にはな
いもので、ここに和田耕作が初めて紹介するものである。
・しかし、「天正堂蔵書」印と「天正堂内田氏蔵書印」との関係につ
いては不明であるが、「天正堂内田氏」と「天正堂」とは、同一の
人物である可能性もある〔下記、参照〕。
・「村石文庫」の印と「天正堂蔵書」の印が対になっているように見
える。
・[印番号]・⑨・ 「村石文庫」・ 「天正堂蔵書」
・■・(11-1)・熊耳先生文集.正編・・・「⑨」
・松平康国旧蔵(「松平蔵書」の印あり)
東洋文化研究所教頭。1863~1945。
・松平康国は、内田銀蔵と早稲田大学での同僚であった。
・■・(11-2)・船長日記.上、中、下之巻〔池田寛親著〕・・・「⑨」
・「村石文庫」「天正堂蔵書」の印あり。
・序文=本居大平。池田寛親は本居派の国学者。
・内容は、船頭・小栗重吉の漂流記。
・池田寛親の聞き取りによる口述筆記によりなる。
・【写真G】・・・・「⑨」
〔早稲田大学図書館蔵『船長日記』より〕
・【考察6】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・早稲田大学名誉教授「松平康国」の名前のルーツは、「芦田氏」
〔「依田氏」〕の戦国武将「松平康国」である。 ・▼・
・早稲田大学名誉教授「松平康国」と、戦国時代の武将「松平康国」
とは、どのような関係があるのだろうか。
・早稲田大学教授「松平康国」は、幕府の旗本・大久保忠恕の子として生まれている。
・徳川家の忠臣・大久保忠世〔先祖は、松平氏の出である。〕と芦田
信蕃〔武将「松平康国」の父〕は昵懇の間柄であり、忠世の子・
忠隣の娘が、信蕃の長男「武将・松平康国」に嫁いでいる。
・早稲田大学教授「松平康国」の父である旗本・大久保忠恕は、まち
がいなく徳川家の忠臣・大久保忠世につらなる一族であろう。
・早稲田大学教授「松平康国」が、戦国時代の武将「松平康国」と
同姓同名であることには、大きな理由があったのである。すなわち、
教授「松平康国」の名前のルーツは、「芦田氏」〔「依田氏」〕の武将
「松平康国」なのであった。
・《参考文献》・
・a)市村到著『戦国三代の記――真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃と
その一族』(2016年9月、悠光堂刊)
・巻末に『蘆田記(依田記)』(原文)を収録。
・b)市村到著『戦国三代と天下人――芦田(依田)氏の軌跡から』
(2020年7月、悠光堂刊)
・以下に、「天正堂内田氏」と「天正堂」関連の書物の中にある
早稲田大学教授「松平康国旧蔵書」をまとめておこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【早稲田大学図書館の「天正堂内田氏蔵書印」がある蔵書「▼」】
・▼・(A-4)・周南先生文集 六冊 ・・・「⑤・④」
・山県周南(1687~1752)著。名は「孝孺」、字は「次公」、
号は「周南」。萩藩校「明倫館」学頭。荻生徂徠に師事。
・〔「松平蔵書」の丸印あり。「松平康国旧蔵書」〕
・「松平康国」については、【考察1】も参照のこと。
・▼・(A-7)・石梁文集・・・「⑤・④」
・樺島石梁(1754~1827)。名は「公礼」、字は「世儀」、
号は「石梁・万年」。久留米藩校「明善堂」教授。
・〔「松平蔵書」の丸印あり。「松平康国旧蔵書」〕
・「松平康国」については、【考察1】も参照のこと。
・【早稲田大学図書館の「天正堂蔵書」印がある蔵書「■」】
・■・(11-1)・熊耳先生文集.正編・・・「⑨」
・詩文家・大内熊耳の文集である。
・「村石文庫」「天正堂蔵書」の印あり。
・松平康国旧蔵(「松平蔵書」の印あり)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・これらは、教授・松平康国の専門領域の書物ばかりであるが、
「天正堂内田氏」と「天正堂」の蔵書の内容から考察すると、
「天正堂内田氏」と「天正堂」とは、同一の人物と考えられない
こともない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈12〉・ 明治大学図書館「蘆田文庫」の「天正堂蔵書」の印がある
蔵書〔■〕について
・このたび、新たに明治大学図書館「蘆田文庫」から「天正堂蔵書」
印のある書物が4点見つかった。この「天正堂蔵書」印は、矢内氏
の論考にはないもので、ここに和田耕作が初めて紹介するもので
ある。
・「蘆田文庫」印と「蘆田伊人図書記」印が対になって押されている
ように、「村石文庫」印と「天正堂蔵書」印も対になって押されて
いるように見える。
・この「蘆田氏」=「蘆田伊人」の例にならえば、「村石氏」=
「天正堂」という可能性も十分にありえる。
・考えてみれば、「内田文庫」印と「天正堂内田氏蔵書印」印も、
それらのほとんどが、対になって押されている。それが当時、蔵書
印を押す際の慣習であったようである。
・[印番号]・⑨・ 「村石文庫」・「天正堂蔵書」
・■・(12-1)・安房国全図〔鶴峰彦一郎著、嘉永二年版〕・・・「⑨」
「天正堂蔵書」の印あり。
・■・(12-2)・摂津国名所大絵図〔青竹堂光清著、寛延元年版〕
・・・「⑨」
・「村石文庫」「天正堂蔵書」の印あり。
・■・(12-3)・播磨国細見図;播磨大絵図(山下重政作、
寛延二年版)・・・「⑨」
・「蘆田文庫」「蘆田伊人図書記」「村石文庫」「天正堂蔵書」
の印あり。
・■・(12-4)・備中国巡覧大絵図;備中国大絵図・・・「⑨」
・嘉永7年版。
・「村石文庫」「天正堂蔵書」の印あり。
・【写真H】・・・「⑨」
「村石文庫」
「天正堂蔵書」
・〔蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』より〕
・蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』
(2004年3月、明治大学人文科学研究所発行)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【考察7】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・歴史地理学者の「蘆田伊人」と『芦田記』の「芦田氏」一族と
の関係について ・▼・
・まず、歴史地理学者の「蘆田伊人」(1877~1960)の略歴の一部を
見てみよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・明治10年(1877)9月、福井市日出町新屋敷にて、蘆田碩、
岩子の長男として生まれる。
父・碩は、福井藩藩学・明新館教授。福井県第三師範学校漢学
教授。
・明治31年(1898)、皇典研究所・国学院入学、国史・国文・
法制を専攻。
・明治33年(1900)、国学院を中退し、早稲田大学史学及び英文
科に入学。吉田東伍に学び『日本読史地図』の編纂に参加。
・明治37年(1904)、早稲田大学卒業。弘前市・青森県中学校
教諭。
・明治38年(1905)、陸軍歩兵第三連隊に入隊。
・明治39年(1906)、東京帝国大学史料編纂掛(編纂官補)で
「南北朝時代史」編纂部勤務。
・明治42年(1909)、日本歴史地理研究会に入会。
・明治44年(1911)、史料編纂官補を辞し、華族や国家機関の
嘱託により調査研究を行う。
・明治44年~大正7年、三井男爵家・編纂室嘱託。三井家遠祖
の史料調査。
・大正6年~昭和2年、旧福井藩越前松平家(子爵)嘱託。
松平春嶽公記念文庫の設立、伝記の編纂に従事する。
・大正7年~大正10年、帝国学士院の研究助成を受け大名
領地の沿革調査。
・昭和2年~昭和15年、旧小浜藩酒井伯爵家編纂部主任。
酒井家史料稿本800余冊を作成する。
・昭和10年、帝国学士院の研究助成を受け、日本村落の歴史
地理的研究。『大日本読史地図』(冨山房刊)。
・昭和11年~昭和12年、宮内省帝室林野局の委嘱により
帝室御料地の沿革調査。『御料地史稿』(帝室林野局)。
・『松平春嶽全集』(3巻、昭和14年~昭和17年)の編纂。
・昭和35年(1960)6月、諏訪市にて死去。福井市妙長寺に埋葬
された。
・《参考文献》・
・蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』(2004年3月、
明治大学人文科学研究所発行)など。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・蘆田伊人の祖父・十左衛門は、福井藩〔松平家〕の「勘定奉行」
であった。このことから考えると、蘆田伊人のルーツもまた、前述
した「芦田氏」〔「依田氏」〕の一族である可能性が高い。
・早稲田大学教授の「松平康国」と、歴史地理学者の「蘆田伊人」が、
ともに「芦田氏」〔「依田氏」〕の一族であるというのは、実に興味
深いことである。
・教授の「松平康国」と学者の「蘆田伊人」のもとに、「天正堂内田
氏蔵書」印や「天正堂蔵書」印のある書物が、このように多く見ら
れるのは、果たして偶然なのであろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈13〉・ 明治大学図書館「蘆田文庫」の「内田蔵書」の印がある
蔵書〔◎〕について
・このたび、明治大学図書館「蘆田文庫」から「内田蔵書」の印のあ
る書物が1点見つかった。これが、「天正堂内田氏蔵書印」などと
関係があるかどうかについては不明であるが、参考までに示すこ
とにした。
・◎・(13-1)・地球萬国山海輿地全図説;地球萬国[図]説
・・・「⑩」
・常陽水府 赤水 長玄珠 述 〔水戸の長久保赤水〕
・[印番号]・⑩・
「内田蔵書」
・【写真I】・・・「⑩」
・〔蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』より〕
・蘆田文庫編纂委員会編『蘆田文庫目録 古地図編』
(2004年3月、明治大学人文科学研究所発行)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈14〉・ 早稲田大学図書館で「内田氏蔵本」印・「内田慎吾之印」
がある蔵書〔▽〕について
・早稲田大学図書館から「内田氏蔵本」印・「内田慎吾之印」のある
書物が1点見つかった。これが、「天正堂内田氏蔵書印」などと関
係があるかどうかについては不明であるが、参考までに示すこと
にした。
・▽・(14-1)・怪異弁断.巻之第1~4(西川如見著)・・・「⑪」
・[印番号]・・・・・「⑪」
・【写真J】・・・・「⑪」
・〔早稲田大学図書館蔵『怪異弁断』より〕
・〈15〉・ 明治・大正・昭和期の「天正堂」という出版社などについて
・以下は、国立国会図書館の蔵書の書誌情報、およびネット上の
古書情報などによる調査である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈15-A〉・ 明治期の「天正堂」〔土谷鋼太郎〕と
大正・昭和期の「天正堂画局」〔土谷傳〕について
・(15A-1)・『全国鉄道汽車便覧』
・明治27年11月刊行
・東京市下谷区車阪町七拾七番地
・「石版 銅版 活版 木版 彫刻印刷応貴嘱」
・(15A-2)・『日本全国鉄道線路図 附東京市町名一覧及里程
賃金表』
・古書情報による。
・明治30年刊行
・著者=天正堂 土谷鋼太郎
・(15A-3)・『全国鉄道汽車便覧』
・明治34年刊行
・著者=天正堂 土谷鋼太郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・(15A-4)・『桃山参拝記念画帖 附乃木将軍一代記』
・古書情報による。
・大正9年刊行
・(15A-5)・『東京名所 新吉原花魁道中之光景 石版画』
・著者・発行者=土谷傳
・大正12年発行
・発行所=天正堂画局
・(15A-6)・『東京駅及丸之内ビルデイング之偉観 石版画』
・古書情報による。
・著者・発行者=土谷傳
・昭和11年発行
・発行所=天正堂画局
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈15-B〉・ 明治・大正期の出版社「天正堂」「天正堂書店」
〔嵯峨野平左衛門〕と昭和期の出版社「天正堂」
〔鹽谷晴如〕、その他について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・(15B-1)・『日露戦局地図』
・古書情報による。
・東亜地理協会〔図〕
・明治37年刊
・発行=天正堂 「嵯峨野平左衛門」
・(15B-2)・『最新実測東京全図 新市区改正道路電車鉄道案内図』
・国立国会図書館の蔵本による。
・明治43年1月刊行
・著者=「嵯峨野平左衛門編」
・(15B-3)・帝国史談研究会編『絵入近世歴史』(東京・天正堂刊)
・国立国会図書館の蔵本による。
・明治43年4月刊行
・著作者「瀧澤善太郎」
・東京市下谷区花園町六番地
・発行兼印刷者 「嵯峨野平左衛門」
・東京市下谷区御徒士町一丁目五十四番地
・発売所「天正堂書店」
・(15B-4)・帝国史談会編『国民必携絵入近世歴史』
・大正7年、天正堂書店刊
・古書情報による。
・(15B-5)・帝国史談会編『天下変遷七十余年近世歴史』
(発行所=東京・天正堂書店、大正13年5月刊行)
・国立国会図書館の蔵本による。
・本文の末尾に「講演者・瀧澤善太郎」とある。
・本書は、(15B-3)の改訂版である。
・著作者兼発行印刷者 「嵯峨濃〔野〕平左衛門」
・東京市下谷区竹町十四番地
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・(15B-6)・『支那小説史』(著者=魯迅、訳者=増田渉)
・国立国会図書館の蔵本による。
・天正堂刊(東京市牛込区船河原町四番地)
・昭和13年6月発行
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〔本書の初版本は、三上於菟吉のサイレン社から昭和10年に
刊行されていることが判明した。したがって、本書はその再刊
本である。〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【追補】・・・〔2021年12月1日〕・・・・・・・・・・
・(15B-7)・『挿花千草集』(乾・坤、二冊)
・国立国会図書館蔵本による。
・明治36年11月発行
・編輯・発行・兼印刷人:内藤芳之介
・発行所:天正堂(水戸市上市南町二十二番地)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【考察8】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「天正堂」(土谷鋼太郎)〔明治期〕が、二代目「土谷傳」から
「天正堂画局」〔大正・昭和期〕となっていることがわかる。
・「天正堂」(土谷鋼太郎)が、後に出版社の「天正堂」〔「天正堂
書店」〕(嵯峨野平左衛門)と版画を製作・発行する「天正堂画局」
(土谷傳)に分かれた可能性が極めて高い。
・これらの「天正堂」「天正堂画局」「天正堂書店」と「天正堂内田氏」
との関係については不明である。
・明治期の出版社「天正堂」(土谷鋼太郎)、明治・大正期の出版社
「天正堂」〔「天正堂書店」〕(嵯峨野平左衛門)と昭和期の出版社
「天正堂」(鹽谷晴如)との関連も不明である。
・このように、特に明治・大正期に「天正堂」という出版社(版画を
含む)は、一般的にもかなり知られていたものと考えられる。
それなのになぜ「内田氏」は「天正堂内田氏」を名乗ったのであろ
うか。もしかしたら「内田氏」は、これらの「天正堂」と関連のあ
る人物であったのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈16〉・ むすび
・以上、「天正堂内田氏」に関連する、または関連すると思われる
書物や人物について考察してみた〔上記の各【考察】を参照〕。
・そして、「天正堂内田氏」は、「芦田氏」〔「依田氏」〕の一族と密接
な関係がある人であること。
・「天正堂内田氏」は、梅辻規清の「烏伝神道」に深い関わりがある
人であるということ、などを推論した。
・しかし、「天正堂内田氏」については、なお「謎」の部分が多く、
さらに その「謎」は深まるばかりである。
・「はじめに」でも述べたように、本稿のきっかけは矢内信吾氏の
論考である。本稿とともに矢内論文を熟読参照していただきたい。
・本稿が、今後の「天正堂内田氏」の探究のための一助ともなれば
幸いである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〔 「 PHN 」 第49号、2021年11月28日、PHNの会発行 〕
〔追補:モノクロ写真2点ほか、2021年12月1日〕
〔 和田耕作 (C)、無断転載厳禁 〕
・日本科学史学会 初代会長
・科学史・科学哲学 研究の先駆者
・ 物理学者 ・ 桑木彧雄の 「経歴」 と その 「業績」
―― 「年譜」 による考証と考察
―― 【その一】 ――
和田耕作
・ 【目次】
・ 「はじめに」
・ 「主要参考文献一覧」
・ 「桑木彧雄主要著作一覧」
・ 「1」・桑木彧雄と東京物理学校
・ 「2」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――〔Ⅰ〕・「ヨーロッパ留学まで」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 【以下、次号の予告】・・・・・・・・・・・・・
・ 「3」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――〔Ⅱ〕・「ヨーロッパ留学以後」
・ 「結び」
・【はじめに】・
・「日本科学史学会創立80年」と「恩師・會田軍太夫先生没後40年」
の機会に、あらためて物理学者・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
について、今後の「桑木彧雄研究」の基礎となるように、まとめて
おきたいと思う。
・下記の文献①~③を見ていたら、「桑木彧雄と東京物理学校」につ
いての記述が、錯綜していることがわかったので、はじめに「桑木
彧雄と東京物理学校」についての考証を行ないたい。
〔Ⅰ〕=「ヨーロッパ留学まで」
〔Ⅱ〕=「ヨーロッパ留学以後」
の二期に分けて、「年譜」としてまとめたうえで、考証と考察とを
してみよう。
・さらに、小倉金之助、その他の関連人物の動向など、他の関連事項
も随所に加えて、その時代の中で考えてゆきたいと思う。
・また、桑木彧雄の「主要著作」などについても、まとめて示して
おきたい。本稿作成中に森口昌茂氏から、詳細を極めた「桑木彧雄
著作目録」〔森口:文献⑧〕が届いたが、ここでは、「主要著作」を中
心としてまとめて、少しく解説などを加えておくこととする。論考
類などについては、参照したものを中心として、「主要参考文献一
覧」の中に示すこととした。
・今後は、原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」〔原田:
文献②〕、森口昌茂「桑木彧雄著作目録について」〔森口:文献⑧〕と
ともに、本稿をも活用した「桑木彧雄研究」のさらなる進展を期待
したい。
・【年譜の中で考察するという本稿の形式について】
・私は、「小倉金之助生誕百年記念」で刊行した『小倉金之助と現代』〔第1集〕
において「小倉金之助自筆年譜」〔和田:文献㊱〕を作成して以後、その
「第三集」(拙論「林鶴一と小倉金之助」、「林鶴一・小倉金之助略年譜」、和田:
文献㉙)、次の「第四集」(拙論「石原純と小倉金之助」、「石原純自筆年譜」
〔和田:文献⑤〕)でも、年譜の作成を重要視してきた。このような私の方法
が、後に拙著『石原純―科学と短歌の人生』〔和田:文献⑦〕などへとつな
がっていることをしみじみと感じている。
・上記のような経験から、今回も当初は論考と年譜とを分けて作成することも
考えていたが、進行しているうちに下記のように年譜の中に考察も含めると
いうスタイルに自然となってしまった。
・私は、かねてより研究の方法や発表のスタイルには、多様性があってよいと
考えてきた。江渡狄嶺の研究では、その前編を評伝形式で執筆し〔拙著:
『江渡狄嶺―〈場〉の思想家』、甲陽書房、1994〕、後編を論考のスタイルで
〔拙著:『場論的世界の構造―江渡狄嶺の哲学』、エスコム出版、2012〕刊行
した。
・【「研究発表形式の多様化への模索の必要性」〔中村禎里〕】
・本稿〔【その一】〕を書き終えたころ、書庫をあさっていると、科学史家・中村
禎里氏の『科学者―その方法と世界』〔朝日新聞社、1979、文献:㊴〕が出てきた。
その中の「論文の形式について」において、中村氏はガリレオの主要著作
が鼎談の形式をとっているなどの例をあげて、「研究発表形式の多様化への
模索の必要性」〔中村:文献㊴、p72〕を力説している。この論説に力を得て、
今回は、「年譜の中で考察するという本稿の形式」を採用することにした。
・【小倉金之助がいう「科学史の立体描写」は果たして可能なのか】
・思えば、科学史研究の世界には、年表形式の名著がたくさんある。湯浅光朝
『解説・科学文化史年表』(中央公論社刊、1950)、その進化版である湯浅光朝
編著『コンサイス科学年表』(三省堂、1988)。『科学技術史年表』(菅井準一
ほか編、平凡社、昭和31年)では、より社会的、思想的視点を重要視した
構成が目立っている。
・小倉金之助は、早くから「科学史の立体描写」を主張していた。その具体的
な内容は述べていないが「社会的、思想的視点を重要視」するという『科学
技術史年表』の構成は、小倉のその主張にそったものと考えられる。ただ、
小倉はそれに満足せずに、さらなる進化を期待していたであろうと思われる。
・これらには遠く及ばないとしても、私もなるべく同時代人とその時代の出来事
などをも記述することとした次第である。
・また、本稿では「主要参考文献一覧」〔「その一」の参考文献〕および「桑木
彧雄主要著作一覧」を、巻頭に掲げた。これは、先行研究の重要性を強調した
いからである。そして、今後の研究者諸氏には、これらの先行研究を十二分に
踏まえた上での研究を進めていただきたいがためでもある。
・【主要参考文献一覧】・・〔「その一」の参考文献〕
・①岡本良治・山内経則「桑木彧雄氏の経歴について―100年目の小
さな謎―」(日本物理学会講演概要集、2007〔Web公開による。〕)
・②原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」(『社会文化論集』
第15号、2018年3月、抜刷。〔Web公開による。〕
・③九州大学附属図書館の「桑木文庫」の解説〔Web公開による。〕
・④『東京物理学校五十年小史』(東京物理学校刊、昭和5年)
・⑤和田耕作「石原純と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第四集、教育研究社、1988、所収)
〔・第三節「桑木彧雄と小倉金之助――物理学の誘惑」〕
・⑥和田耕作編・追補「石原純自筆年譜」(同前、所収)
・⑦和田耕作『石原純――科学と短歌の人生』(ナテック、2003)
・⑧森口昌茂「桑木彧雄著作目録について」(「東海の科学史」第13号、
2019)
・⑨『科学史研究』(復刊第一号〔通巻10号〕、1949年4月)
・⑨-A)「前会長桑木彧雄博士を悼む」〔著者名なし。〕
・⑨-B)「父を想う」(桑木務)
・⑨-C)「桑木彧雄博士の追憶:その業績と学風」(矢島祐利)
・⑩『東京帝国大学五十年史』(上冊・下冊、東京帝国大学、昭和7年)
・⑪西尾成子「著者桑木彧雄先生と本書の特色」(桑木彧雄著、桑木務・
西尾成子増補『アインシュタイン』、サイエンス社、昭和54年、所収)
・⑫『長岡半太郎伝』(藤岡由夫監修、板倉聖宣・木村東作・八木江里著、
昭和48年、朝日新聞社刊)
・⑬長岡半太郎『随筆』(昭和11年、改造社刊)
・⑭桑木彧雄「ポアンカレの追憶」(『科学史考』、昭和19年、河出書房刊、
所収)
・⑮『東京帝国大学一覧(従明治35年~至明治36年)』(東京帝国大学、
明治35年12月)
・⑯『マッハ 力学の発達 とその歴史的批判的考察』(青木一郎訳、
昭和6年、内田老鶴圃刊)
・⑰ポアンカレ『科学の価値』(田辺元訳、大正5年、岩波書店刊)
・⑱日本物理学会編『日本の物理学史』(上=歴史・回想編、下=資料編、
1978、東海大学出版会刊)
・⑲高田誠二『プランク』(「人と思想」〔100〕、1991、清水書院刊)
・⑳湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』(三省堂、1988)
・㉑『科学技術史年表』(菅井準一ほか編集、平凡社、昭和31年)
・㉒田中節子「桑木彧雄と日本の物理学―相対性理論を軸として―」
(辻哲夫編著『日本の物理学者』、東海大学出版会、1995、所収)
・㉓安孫子誠也「桑木彧雄『絶対運動論』(1906)における相対運動
概念」(『安孫子誠也論説集―エントロピー論・近代物理学史・科学論―』、
2019、東京教学社、所収。〔初出は、「科学史研究」45、185~188、2006〕)
・㉔岡本拓司『近代日本の科学論』(名古屋大学出版会、2021)
・㉕小倉金之助「明治科学史上における東京物理学校の地位」
(「東京物理学校雑誌」第600号、昭和16年、『小倉金之助著作集』
第2巻、1973、勁草書房、所収)
・㉖岡部進『小倉金之助 その思想』(昭和58年、教育研究社刊)
・㉗岡邦雄「桑木彧雄先生」(「科学知識」昭和22年5月号)
・㉘會田軍太夫「九大時代の桑木彧雄先生」(「自然」1981年12月号)
・㉙和田耕作「林鶴一と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第三集、教育研究社、1987、所収)
・㉚有賀暢迪「ローレンツ『物理学』日本語版の成立とその背景
――長岡・桑木と世紀転換期の電子論――」
(Bull.Natl.Mus.Nat.Sci.,Ser.E,36,pp.7-18,December22,2013)
・㉛西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝石原純』
(2011年、岩波書店刊)
・㉜桑木彧雄「電子の形状に就いて」(『東京物理学校雑誌』、16巻
第183号、明治40年2月8日発行)。
・㉝伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(一)
初期の業績と物理学史的背景」(「窮理」第1号、2015)
・㉞伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(二)
ヨーロッパ留学と相対論」(「窮理」第2号、2015)
・㉟伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(三)
物理学・哲学・科学史」(「窮理」第3号、2016)
・㊱和田耕作編・追補「小倉金之助自筆年譜」(小倉金之助研究会編
『小倉金之助と現代』〔第1集〕(教育研究社、1985、所収)
・㊲『科学史技術史事典』(伊東俊太郎ほか編、弘文堂、昭和58年)
・㊳桑木彧雄「記載と説明」(「理学界」第四巻、1906年7月)
〔「科学図書館」の「桑木彧雄の部屋」でWeb公開されている。〕
・㊴中村禎里『科学者――その方法と世界』(朝日選書、朝日新聞社、1979)
・㊵辻哲夫『日本の科学思想――その自立への模索』(中公新書、昭和
48年)
・㊶『東京帝国大学一覧(従明治36年~至明治37年)』(東京帝国大学、
明治36年12月)
・【桑木彧雄主要著作一覧】・
・〔A〕桑木彧雄・述、渡辺潔・記『験糖器之説明』(明治35年、
東京税務管理局)
・〔B〕桑木彧雄編『普通力学』(明治41年、高岡書店刊)
・〔C〕ローレンツ著『物理学』(上巻=桑木彧雄訳、下巻=長岡半太郎訳、
大正2年、冨山房刊)
・〔D〕「東北帝国大学編纂、科学名著集、第7冊」
ラグランジュ著『解析力学抄』(桑木彧雄訳、長岡半太郎校閲・
「解析力学抄小引(長岡)」、大正5年、丸善刊)
・〔E〕『アインスタイン・相対性原理講話』(桑木彧雄・池田芳郎共訳、
長岡半太郎・序文、大正10年、岩波書店刊)
・〔F〕『物理学序論』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第4篇〕
・〔G〕『絶対と相対』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第11編〕
・〔H〕『物理学と認識』(大正11年、改造社刊)
・〔I〕『物理学教科書』(上巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔J〕『物理学教科書』(下巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔K〕『物理学実験書』(大正14年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔L〕「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN (1542―1868)」
(『Scientific Japan, past and present』、Maruzen、1926)
〔第三回汎太平洋学術会議:prepared in connection
with the third
Pan-Pacific Science Congress,Tokyo,1926〕
・〔M〕『実業物理学教科書』(昭和8年、三省堂刊)〔実業学校用〕
・〔N〕『アインシュタイン伝』(偉人伝全集第18巻、昭和9年、改造社刊)
・〔O〕『泰西科学の摂取と其の展開』(啓明会第99回講演集、昭和15年
11月、笠森傳繁編輯・啓明会事務所発行)
・〔【著作〔T〕】=『科学史考』に収録。〕
・〔P〕『近代科学の展開』(教育パンフレット403輯、昭和16年3月、
社会教育協会発行)
・〔Q〕『明治以前の我が国に於ける自然科学の発達』(教学局編纂
「教学叢書 第十輯」、昭和16年、内閣印刷局発行)
・〔R〕「ゾンマーフェルト教授」〔「科学者の面影」の内〕(『戦争と科学』
昭和16年、帝国大学新聞社編・刊、所収)
・〔S〕『WESTERN SCIENCES IN LATER TOKUGAWA
PERIOD』(英文、昭和17年、日本文化中央聯盟刊)
・〔これは、【著作〔O〕】(啓明会での講演)の英訳である。〕
・〔T〕『科学史考』(昭和19年、河出書房刊)
・・・ 【 没 後 】 ・・・
・〔U〕『黎明期の日本科学』(序文・桑木厳翼、跋文・桑木務
昭和22年、弘文堂書房刊)
・〔【著作〔T〕】=『科学史考』からの日本科学史を中心とした再録が多い。〕
・〔【著作〔H〕】=『物理学と認識』から「九州における理学の先駆」を収録。
・〔【著作〔L〕】=「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN 」(1542―1868)
を附録に収録。
・〔V〕『アインシュタイン』(桑木務・西尾成子増補、サイエンス社、昭和54年)
〔【著作(N)】=『アインシュタイン伝』の増補版〕
・・・ ➡➡ 以下、 「 本文 」 は 本 サイトの トップページ から
研究テーマ B の 「 桑木彧雄 」 の項目を 参照して下さい。 ・・・・・
【 人文的数学者・小倉金之助と現代 】
小倉金之助の「学問論」・「科学論」から
政府による「日本学術会議会員」への
任命拒否(6人)問題を考える
の遺産から 新たな日本の創造へ
和田 耕作
・小倉金之助著『一数学者の肖像』(現代教養文庫)
・小倉金之助著『読書と人間』(角川新書)
・和田耕作著「小倉金之助の科学(者)論の果した役割」
(小倉金之助研究会編『小倉金之助と現代』〔第1集〕、所収)
・和田耕作編・追補「小倉金之助自筆年譜」
(小倉金之助研究会編『小倉金之助と現代』〔第1集〕、所収)
・小倉金之助研究会編『小倉金之助と現代』(第2集~第5集)
・文部省著『民主主義』(解説・内田樹、令和2年、9版、角川文庫)
・『群像・日本の作家23 大江健三郎』(小学館、1992)
・『出発点、大江健三郎同時代論集1』(岩波書店、1980)
・【 目 次 】
・【はじめに】
・〔A〕・小倉 「学問と言論の自由をめぐって」 ・・・・・
・〔B〕・小倉 「読書について」 ・・・・・・・
・〔D〕・小倉 「われ科学者たるを恥ず」 ・・・・・・・
・【むすび】
・【はじめに】
・今日、政府による「日本学術会議会員」への任命拒否
(6人)の問題が、大きな話題となっている。
・このたびの学術会議の問題は、6名の除外がなぜ行われた
のかの説明がないことである。新聞の報道では、政府の事
案に対しての批判的な言辞などがあった人が多いと言わ
れている。
・日本学術会議の歴史の中で、このような「排除の論理」は、
これまでにはなかったことである。
・この問題を考える時、人文的数学者・小倉金之助の「学問
論」と「科学論」に学ぶことは、多大である。
を考えるためのヒントを探ってみよう。
・小倉金之助は、1949〔昭和24〕年10月12日の「日本読
書新聞」に、「学問と言論の自由をめぐって」という一文
を寄せた。これは、『小倉金之助著作集』(全八巻)には収
録されていない。
・小倉金之助著『数学の窓から――科学と人間性』(角川文
庫、昭和28年12月5日発行)に収録されている。
・この文章は、Ⅰ君への手紙という形式で書かれている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それにしても君は この歳になって、よくもまだ 国立
の大学に勤めているなあ、噂によると、学問と研究の危機
をはらんだ嵐が、またもや吹き出して来たといふではない
か。・・・」
「しかし 民主主義文化国家を目指して進むべき日本政府
として、かういふ問題に対処するには、よほど慎重な態度
を取らなければならないものだと撲は思ふ。・・・」
「今度の問題にしても、せめて議会でなりと、十分に議論
し尽くすべきものではなかったのか。僕は当局者に向かっ
て、かう注意してやりたいのだ。」
「あなたがたがこの問題を処理するのは、赤ん坊の腕
を折るやうに容易なことかも知れませんが、それには
その後に来るものを、よくお考へにならなくてはいけ
ませんよ。その後には、真理の怒り――ドイツ・ナチ
スや軍閥日本を滅ぼしてしまった、あの真理の怒りが、
きっとやって来るんですよ。」
「撲は二・二六事件のあった年に、次のやうな言葉を書き
つけたことがあったのだ。――
「科学的精神は、過去の科学的遺産を謙虚に学びなが
ら、しかも絶えずこれを検討して、より新たなる、よ
り精緻なる事実を発見し、より完全なる理論を創造す
る精神である。それは偏見とは凡そ対蹠的のものであ
る。それ故に科学者自身にとっては、精神の自由な状
態に置かれなければならぬ。
〔そこには一切の偶像を認めない、そこには強烈な批
判的精神が働かなければならぬ。それは飽くまでも真
実を追求する不撓の魂であり、何よりも先ず真理に徹
底する精神である。不徹底に甘んじたり、何らかの権
力のために事実を歪曲したりすることは、断じて科学
的精神に悖るところである。〕
神の自由を愛する。吾々の科学者は、真理を追求し、
真理を語るの勇気がある。吾々の科学者は、この意味
に於て、本来 ラジカリストである。」
かういった、わかり切った言葉を、十三年後の今日、も
う一度繰り返さねばならないとは。・・お互いに年はとり
たくないものだ。 」
「中学時代に、ガリレオの『それでも地球は動く』と呟い
たといふ伝説や・・・を読んで感激し合ってから、もう既
に半世紀になった。その間にわが国も、科学の方では原子
物理学のやうなものを研究し得るほどまでに進んだのに、
政治の方はまた何といふ貧困さなのであらう。・・・」
〔追記〕この短文が書かれた1949年は、戦後の日本が、
はっきりと反動化しはじめた時期であった。9月には、
公務員の政治活動を制限する人事院規則の発表があり、
11月には、総司令部顧問イールズ氏が岡山大学で、は
じめて赤い教授の追放を論じている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・前記の「科学的精神は、・・」の引用文は、小倉金之助の
科学論の重要論考の一つである「自然科学者の任務」
(「中央公論」昭和11年12月号)の結びからのものであ
る。〔 〕内の文は、『小倉金之助著作集⑦』により加えた。
・「科学的精神」の定義として、これ以上のものがあるで
あろうか。
・GHQは、戦後4年目にして、レッドパージへと方向を転
換してゆく。その時期に書かれたのがこの短文である。
・1949年(昭和24)10月6日、学術会議は、研究機関の
人事は政治的理由により左右されてはならないとの決議
をしている。
・今回の政府による「日本学術会議会員」への任命拒否
(6名)の問題は、この時代の「排除の論理」に酷似して
いるように思われる。
・一方で、今日の日本学術会議には、学閥や旧帝国大学出身
者偏重などの問題があれば、それらを解決することが求め
られることは言うまでもないことである。
・小倉金之助が力説した「科学的精神」は、今日においても
政府および日本学術会議の双方において、徹底されなけれ
ばならないと思う。
・〔B〕・小倉 「読書について」 ・・・・・・・
・前出の「学問と言論の自由をめぐって」という文章とほぼ
同時期の1949〔昭和24〕年8月31日の「日本読書新聞」
に、小倉は「読書について」という一文を寄せている。
・この文の末尾に小倉は述べている。
「この小文のなかで私は、批判的精神を強調してきたが、
かような精神を開発するための一資料として、文部省発行
の『民主主義』などは、青年諸君のごく真面目な、しかも
最も手ごろな批判の対象となるだろう。」(『小倉金之助著
作集⑧』、231頁)
・ここに出ている文部省発行の『民主主義』という本が、最
近、復刊されている〔角川文庫、平成30年10月刊)。
・この本は、今日でも通用する名著「民主主義の教科書」と
うたわれているが、小倉はこの本の内容に十分に満足して
はいなかったのである。しかし、小倉はこの本のどこに
問題点があるのかを述べてはいない。
(連合国軍最高司令官総司令部)の指示に基づいて、日本
国憲法の理念を擁護顕彰し、民主主義的な社会を創出して
ゆくという遂行的課題を達するために、敗戦国の役所が、
子どもたちを教化するために出版した。」という歴史的条
件(GHQによる検閲下での出版)により、その記述には、
アメリカなどの戦勝国への配慮がみられると述べている。
小倉もまた、このような歴史的条件を考慮して、この本を
批判的に読むことを、若い生徒たちへの課題としたものと
思われる。
・内田樹氏は、このような歴史的条件のある書物ではあるが、
今日、読むことの意義があるとして推奨している。
・確かに、今日あらためて民主主義の原理・原則を学ぶこと
の必要性は、高まっていると言えるだろう。
とが大切である。
・上記の『民主主義』の教科書は、1953年まで中学高校で
使用されたという。ちょうど、この教科書で民主主義の教
育を受け、大きな影響を受けたのが、ノーベル文学賞作家
の大江健三郎である。
・大江は、「自筆年譜」に書いている。
5月、新憲法施行。新制中学には修身の時間がなく、新
しい憲法の時間があったと実感する。思想形成のうえで
多大の影響を受ける。中学二年、子供農業協同組合を作
り、組合長となる。」
「昭和25年(1950)
4月、愛媛県立内子高等学校に入学。6月、マッカー
サー書簡による共産党幹部の公職追放指令は戦後最初
の絶望的ショックとなった。」
・さらに、大江は『民主主義』の教科書と自己の思想形成へ
の多大なる影響を、下記の文章の中で詳細に語っている。
・「戦後世代と憲法」
・「憲法についての個人的な体験(講演)」
(『出発点、大江健三郎同時代論集1』、岩波書店、1980、所収)
・まさに、大江健三郎は、戦後民主主義の申し子なのである。
・〔C〕・小倉 「自主性確立のために」 ・・・・・・・
・小倉金之助は、1952年(昭和27)11月5日の「都新聞」
(京都)に「自主性確立のために」という一文を寄せた。
「われわれ日本人は、どうしてそんなにも、自主的精神を
事的・官僚的圧迫によって、虐げられ屈服させられてきた
結果――「長いものには巻かれろ」主義となって――自主
的精神を失うようになったのだ、と思われる。
しかもわが国にはまだまだ封建的遺物が、いたるところ
に残っている。それどころか、終戦後における人間解放と
いった態度は、ただ一時的なものに止まり、現在では反動
勢力のために一歩一歩退却しつつある有様である。・・
諸君はこの際、日本国民の自主性回復のために、『平和と
人権』の新憲法を高く掲げて、封建制の遺物とどこまでも
闘わねばならぬ。これこそ純真な青年がとるべき正当な態
度なのだ。・・
諸君。どんなことがあっても、われわれは日本国憲法の
旗を守りぬこうではないか。」
(『小倉金之助著作集⑦』、120~121頁)
・この小倉の主張は、今日の日本においてもそのまま当ては
まる内容である。この70年間、日本の政治は、何をして
きたのであろうか。
・平和憲法の施行から74年の今日、コロナ禍のどさくさに
紛れて、憲法改正への動きが、急に目立って来ている。
われわれは、いまこそ、小倉金之助の言葉に耳を傾け、
学んでゆこうではないか。
・〔D〕・小倉「われ科学者たるを恥ず」・・・・・・・
・小倉金之助の科学論の代表的論考である「われ科学者たる
を恥ず」(『小倉金之助著作集⑦』に収録)は、雑誌『改造』
の1953年(昭和28)1月号に発表された。
・ここでは、この論考の結論部分である第六節から引用した
い。
「われわれは長い間、科学的精神を学びとらなかった。・・
近代的市民の精神的・物質的生活における科学の役割と意
義について、・・近代における国民大衆が科学教育を戦い
とるまでの努力の跡などについて、一度も関心を持ったこ
とがなかった。」
「考えてみると、絶対主義的官僚に抑えつけられて、日本
の科学界では、こういった課題が、明治維新以来、半世紀
のあいだ、ほとんど問題にされなかったのである。」
「それなら戦後はどうか。
民主主義の波に乗って、日本学術会議が成立した。そし
てその第一回の総会〔1949年、昭和24〕では、次のよう
な宣言を行なったのである。」
「・・われわれは、これまでのわが国の科学が、とり
きたった態度について強く反省し、今後は科学が文化
国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、
わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献
せんことを誓うものである。・・そもそも本会議は、
・・科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活
に科学を反映浸透させるものであって、学問の全面に
わたり、そのになう責務はまことに重大である。され
ばわれわれは、日本国憲法の保障する思想と良心の自
由、学問の自由及び言論を確保するとともに、科学者
の総意の下に、人類の平和のため・・万全の努力を傾
注すべきことを期する。・・」
「しかもかように立派な宣告を行なった学術会議は、今や
一歩一歩退却しつつあるかのような現状ではないのか。
思えば、明治十年代に、自由民権運動の指導者達がその
範を示して以来、日本の歴史は妥協と裏切りの歴史のよう
に思われる。日本の科学史もまた、ついに裏切りの歴史と
なるのであろうか。」
・長い引用文となったが、今日の学術会議問題を考える時、
その原点に回帰して、考察することが必要なのである。
上記の小倉金之助の主張が、極めて現代的であることに
感嘆せざるを得ないのは、私だけであろうか。
・今日、学術会議及び各学会は、単なる「声明文」の発表に
とどまらず、広く国民に向けて、歴史的変遷やその活動内
容の解説、組織の問題点などへの取り組み、その他につい
て、わかりやすく語る機会を多数もうけるべきであろう。
・今日、憲法改正への動きが顕著にみられる。われわれは、
「科学的精神」に学びつつ、今こそ、小倉金之助の
「諸君。どんなことがあっても、われわれは日本国憲法
の旗を守りぬこうではないか。」
という言葉を、肝に銘じて進む時ではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 【 コラム 】 ・
・ 「 狩野亨吉の三浦梅園の評価について 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・狩野亨吉は、1908年(明治41年)1月、『内外教育評論』
第3号に、安藤昌益についての初めての文章「大思想家あり」
(談話)を発表する。
ここで狩野は、昌益について「三浦梅軒〔園〕などよりか、遙かに
大規模で、哲学観が深い。」と述べているが、この時期は、ようやく
『日本倫理彙編』第10巻「独立学派」(明治36年6月)に、梅園の
まとまった著作が収録〔*〕されたばかりで、狩野自身が梅園につ
いて十分に研究・認識していたわけではないので、この狩野の評
価をいたずらに引用することには問題がある。そうした文章を
見かけたので、ここにあえて述べておきたい。
『梅園全集』の刊行はさらに後で、大正元年である。狩野のこの
安藤昌益についての最初の文章(談話)は、『安藤昌益』(安永
寿延、平凡社、1976)に収録されている。
・〔*〕これに収録された著作は、主に『贅語』からで、主著
『玄語』の収録はない。
・▼▽・【世界人類哲学の創始者・三浦梅園の新研究】・▽▼・
・・・《 シリーズ ――(その1) 》・・・・・・・
「 世界人類哲学の創始者・
三浦梅園の生涯と人となり 」
――「先府君孿山先生行状」(全文)を読む
・・・〔三浦梅園研究の入門案内を兼ねて〕
和田耕作
〔校訂、書き下し文、注解、解説〕